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老兵は死なず

いろいろバタバタしていて,ちょっと時期を逸しましたが「この季節」らしい話題を一つ.
お盆といえば「終戦の日」ですので,先の大戦の話です.
今回,お盆で里帰りしていた際に父から祖父のことで話題になったことがありました.

祖父は10年近く前に亡くなったのですけど,その亡くなる直前,病床に際して父を含む何人かにそれまで話していなかった戦争体験を口にする機会があったそうです.
それが「ノモンハン事件」.

今年の8月15日は,NHKのテレビ番組で「ノモンハン事件」について取り上げていました.
NHKドキュメンタリー「ノモンハン 責任なき戦い」(NHK)
そしたらそこに,私の叔父から父に電話がかかってきて,「親父が派兵されていた所の事をやっている」と言うのです.
父たちにとっては,やっぱり重大な関心事なのですね.

祖父は先の大戦では,陸軍の一兵士として中国大陸と東南アジア地域に派兵されていたそうです.
南方での戦闘については,私も直接祖父から生前にいろいろと聞かされていました.
戦車を潰すことにかけては自信があったそうで,これについては以前このブログで記事にしたこともあります.
しかし,北方であるノモンハンの話は初めて.

実際,父たちも祖父がノモンハンに派兵されていたことは,ずっと聞かされておらず,亡くなる直前にようやく聞かされたとのこと.
私も今回,初めて父からこの話をきかされました.

ノモンハン事件というのは,満州国とモンゴルの国境線をめぐって起きた,日本とソビエト連邦による軍事衝突です.
ノモンハン事件(wikipedia)
そして,日本軍が惨敗し,「北進」を諦めて「南進」へと舵を切り,太平洋戦争へとつながるきっかけとなった重要な出来事でもあります.

その戦場の真っ只中にいたのが祖父でした.
祖父がずっとノモンハンの話をしなかったのは,日本軍の戦い方があまりにも杜撰で,地獄としか言えない戦場だったからだそうです.
「とにかく無謀な戦いだった」というのが祖父の評価であり,ここでの戦いは自分の家族に話せるものではないとして,ずっと控えていたとのこと.

ノモンハン事件については,特にウヨク系の人たちから「実は,損害は日本軍よりもソ連軍の方が大きかった」という解釈があります.
実際,ウィキペディアにも両軍の死者数について,
日本軍=7696名
ソ連軍=9703名
とあります.

しかし,戦争は相手をできるだけ多く殺傷することが目的で行われるものではありません.
今回の場合であれば,国境を維持拡大することにあります.
それが達成できなければ,どれだけ被害が少なくても敗戦なのです.

そして何より,日本軍がこの戦いで「惨敗した」と評価されているのは,兵士の命を無駄に失ったことにあります.
日本軍の人命軽視という特徴は,既にここから始まっていました.

現場の兵士としては,確実に負ける戦闘に駆り出される状態でした.
全滅するか,奇跡的に助かることを願って突撃するような戦い方をして,それでいて戦略的には負ける戦闘行為を続けさせられる.
これで「相手より死傷者数が少なかった」と言うのは慰めになどなりません.

日本軍としては,この戦いは「国境を維持する」ことが目的だったはずです.
そのためにソ連軍を威嚇できれば良いはずだったのに,なぜか消耗戦に突入しています.
その上,負けが確定的になってもなお,玉砕覚悟の徹底抗戦を選ぶという始末.
これが「無謀だった」と言わずしてなんというのでしょう.

上述したテレビ番組でもテーマになっていましたが,結局のところ「責任なき戦い」だったわけです.
ウィキペディアの「ノモンハン事件」の開戦に至るまでの解説文がそれを象徴しています.
この辻を中心とした関東軍参謀らによる関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた。
つまり,(暴走したことで有名な)関東軍を統括する参謀本部が,作戦に反対しながらも「関東軍に任せる」と突っぱねた形で認めているのです.
その結果,参謀本部としては「私達は反対した」と言うし,関東軍としては「許可してもらった」と言い出すことになります.
実際,戦後は喧嘩両成敗的に参謀本部と関東軍の両者が処分を受けていますが,こういう事態になることそれ自体が,軍事組織として極めて危険な状態です.

ちょっとソ連を脅かしてやりたくて,つい手を出してしまったら,思わぬ猛反撃を食らってビビってしまった.
でも,ビビってると思われたくないし,まともな戦略がないまま手を出しちゃいましたなどと釈明したくないから,とりあえず攻撃は続ける.無情にも損害は増えるけど,ここで引いたら失敗だったことを認めることになるから,なんとなく続けとく.というのが実情だったのではないでしょうか.
言い換えれば,意地を張るための戦い.
とてもじゃないですが,日本は近代的な戦争ができるような民度ではなかったのでしょう.
父が言うには,祖父曰く「戦国大名気取りで軍隊を動かしていた」.

命令系統はコネや人付き合いでメチャクチャになるし,戦争目的は「相手に勝つ」などとクラブ活動のスローガンの如き曖昧なもので押し通せるほど杜撰.
どうやって戦争したらいいのか,あまり考えずにやっていたことは事実のようです.

祖父は,ほぼ全滅状態の日本軍における奇跡的な生き残り兵ということになります.
このノモンハンでの戦闘では,脇腹を2発の銃弾が掠めて,それが歳をとってもずっと残っていたそうです.
上述したように,損害は日本軍よりソ連軍の方が多いわけですけど,これは日本軍が全滅覚悟で徹底抗戦したらからであって,人命を尊重した戦法をとっていれば,日ソ両軍とも損害はもっと小さくなったはず.
絶望的だったのは,銃だけ持って戦車部隊に突撃をかけさせられた事だと話していたそうですよ.だって,何もできないですもんね.ここで死を覚悟したとのこと.

その後,祖父は南方の作戦に就くことになりますが,ここではそれなりに戦果を上げた戦闘に参加してます.
おそらく,ノモンハンでの「銃だけ持って戦車に突撃」への反動からでしょうか,祖父はそこで「戦車狩り」に勤しむことになります.
その話は過去記事の■即席対戦車爆弾をどうぞ.

けど,それでも戦況は悪化してゆき,この南方も激戦地になりますが,最終的にはそこでも生き残って戻ってきます.
祖父が生きていた頃も話題になっていましたが,たくさん戦死したところの生き残りだったことから,強運の持ち主だと言われたそうですけど,祖父としては生き残ったことが逆に罪悪感になったそうです.
周りには,戦地から息子が帰ってこなかった家がたくさんあったわけですからね.


さて,平成の御代も今年で最後となりますので,あの “先の大戦” も元号が2つ前の出来事になります.
戦争を生きた当事者も少なくなってきました.
だからこそ,もうそろそろ先の大戦の呪縛から離れて,次の戦争の危険性について足元を見る必要があると思います.