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アクティブ・ラーニングへの批判的な記事が減ってきましたね

かつて,こんな記事を書きました.
昨今の大学用語辞典

2014年に書いたので,もう5年前になります.
「昨今の大学教育で散見される事柄」について,辞典風にまとめた記事です.

5年前ですから,かなり時代が過ぎてきた気もしますが,書いている内容について時代遅れになった気はしません.
むしろ,より加速したような気もします.

そんな記事の中では,「アクティブ・ラーニング」も取り上げました.
そこではこう書いています.


【アクティブラーニング】(1)学生の思慮または自己言及の機会を奪うための手段.(2)何かが積極的になったように見える消極的な学習.


なお,一般的にアクティブ・ラーニングというのは以下のように解説されています.
アクティブ・ラーニングは学修者が能動的に学習に取り組む学習法の総称である。これにより学習内容を確かに修得しつつ、座学中心の一方的教授方法では身につくことの少なかった21世紀型スキルをはじめとする汎用的能力、ひいては新しい学力観に基づくような「自らが学ぶ力」が養われることが期待されている。(wikipedia:アクティブ・ラーニングより)






アクティブ・ラーニングの声が喧しくなってきたのは,2010年頃です.
ちょうど,私が大学教員になった時と重なります.

以前は「アクティブ・ラーニング」に対する批判的なニュースや意見が散見されていましたので,私としても,わざわざ出しゃばらなくてもいいかなって思っていました.
ところが,最近はそんな記事をとんと見なくなりました.

理由としては,アクティブ・ラーニングが既定路線になってきたらだと思います.
アクティブ・ラーニングを頑張って批判したところで得がない,といったところでしょうか.

当初の,

「アクティブ・ラーニングが効果的」

という声は,次第に,

「アクティブ・ラーニングが望ましい」

という空気を呼び,そのうち.

「アクティブ・ラーニングにしなさい」

という指示めいたものになってきました.

今では,猫も杓子もアクティブ・ラーニング.


実際のところは,講義型の授業がまともに展開できない教員の逃げ道として宣伝されたものです.

もちろん,
「私は教育力が無いから学生から舐められています.だからアクティブ・ラーニングにしたいのです」
などとは言いません.
「私が担当している授業内容は,従来の講義型での授業にはふさわしくありません.だからアクティブ・ラーニングにしたいのです」
という感じ.

当然,なかには本当にそういう授業もあるのですが,そこにコバンザメのようにくっつき,指導力のない教員が一緒になって推進したのがアクティブ・ラーニングです.

「アクティブ・ラーニング」とは,上述の解説にもあるように,「学修者が能動的に学習に取り組む学習法」を指します.
ですから,そこで学習効果が高まらなくても,それは「能動的にならなかった学修者が悪い」という言い訳ができます.
つまり,自分の指導力不足を棚上げにしやすいのです.

「いや,その理屈はおかしい」
「それはアクティブ・ラーニングの趣旨ではない」
という指摘はごもっともです.
しかし,人間とは,そうやって楽をしたがるものです.

昨今の大学改革の流れは,たいていコレです.
キャリア教育しかり,グローバル教育しかり.
研究教育のエネルギーが無い大学や教員が,その埋め合わせのために「時代の変化」を言い訳として,自分が恥をかかずに楽できる方法を巧妙に思い付くのです.

天下り教員が推進している可能性もありますね.
自分が授業できなかったり,学生から舐められているので,それをなんとか挽回したいとか,周囲の教員からバカにされるので,見返してやりたい.
そんなしょうもない理由で大学教育の破壊が進行している可能性が高い.


ところで,私が大学の教員をする上で参考にしたのは,宇佐美寛 著『大学の授業』です.







宇佐美氏はかなり厳しい授業を展開されているようです.
専門は教育学で,主に国語教育と作文指導の授業を行っています.
ですので,すべての授業科目に同じことが言えるかどうかは読み手次第なところがあります.

とは言え,関連性が低そうな体育・スポーツ学を専門とする私でも大変参考になりました.
なにも,宇佐美氏と同じ行動をとる必要はありません.
でも,趣旨として同じことを目指せばいいのです.
宇佐美氏は言います.
まじめな授業は,面白がらせるのをねらうべきものではない.興味を持つための努力をさせるべきである.
これは,「学生に興味をもたせる授業を展開する」のとは違います.
興味を持つためにはどうすればいいのか? を,学生に努力させるのです.

宇佐美氏は高圧的な物言いで賛否のある方ですが,大学教員が授業準備する上で重要なヒントをもらえるのでオススメしておきます.


そんな宇佐美氏ですから,アクティブ・ラーニングにも批判的です.
2年前にそんな本が出ていました.


宇佐美氏に言わせれば,アクティブ・ラーニングの説明はこうなります.

「見せかけの行動重視の方法によってうすめられ効力をそがれた学習」

上述した私の記事の定義と似ていたので笑いました.
と同時に,やっぱり宇佐美氏もアクティブ・ラーニングについては同じように捉えていたんだなと.

宇佐美氏はさらに言います.
「アクティブ・ラーニング」と称してなされる活動は,多くの場合,このように教材から遊離した学習まがいである.それなのに,学習者も教師も,学習が活発であると錯覚しているのだから,たちが悪い.

繰り返しになりますが,アクティブ・ラーニングは,
「学修者が能動的に学習に取り組む学習法の総称」
とされています.
そして,座学中心の一方的教授方法では身につくことの少なかった,
「自らが学ぶ力」
が養われることが期待されているそうです.

こういうのを,5年以上前から,大学界では一般的に「自主的に学ばせる授業」と言われていました.

しかし,これは言葉として矛盾しています.
昨今の大学用語辞典でも,

【自主的に学ばせる授業】矛盾.

と書かせてもらっています.







「学ばせる」のに「自主的」とは,これいかに?
そんな問題提起を大学のFDのグループワークで発言した20代最後の夏.
その場では,
「話が進まなくなるから,今回は具体案を出していきましょう」
ということになりました.

ほれみろ.安易にグループワークなんかすると,大学教員同士ですら,こんな事態になる.
結局,既定路線をなぞるだけの活動になりやすいのです.
典型的なアクティブ・ラーニングの弊害と言えます.

宇佐美氏も,アクティブ・ラーニングについて本質的な批判をしていました.
例えば,「アクティブ」と「ラーニング」とは,相互にどう影響しあう語なのか.つまり,概念として,「ラーニング」が「アクティブ」だとは,どういう概念なのか.アクティブ・ラーニングではないラーニングから何故,どんな基準で見分けるのか.より望ましいアクティブ・ラーニングとそうでないものをどんな評価基準で見分けるのか?
こういう原理的な問いが意識された痕跡さえ無い.
笑ってられませんが,言葉をいい加減に使うのが,文部科学省ではブームです(笑).
「スーパーグローバル大学」とか,
「スーパー・プロフェッショナル・ハイスクール」とか,
「革新的イノベーション創出プログラム」とか.

あとは,「いじめ防止対策推進法」なんてものあります.
日本語すらまともに使えない.


言葉がいい加減だから,内容もいい加減です.
否,いい加減にやりたいから,いい加減になっているのです.

アクティブ・ラーニングを取り巻いている輩と空気はそんなもの.
まじめにアクティブ・ラーニングを研究している人が気の毒です.

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