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現代大学論の古典

これまで私なりの「大学論」を展開してきました.
とっ散らかっているので,それをまとめたページも用意しました.
大学について

こうした私なりの大学論の参考書としてオススメする書籍がこちらです.

内田樹 著『街場の大学論』


文庫化したのが2010年.
その元になっている書籍が2007年のものなので,もう「古典」と言ってもいいかもしれません.

私がこれを手にとったのは2011年でして(Amazonに履歴がある),大学教育を考える上でかなり参考にさせてもらった本です.
ちょうどこのブログでも,2011年頃から「大学教育の批評」を始めました.
本書は,その参考文献として位置づけられます.

著者は,現代社会を鋭く論評することで定評のある内田樹氏.
内田氏が2007年当時から感じていた「日本社会における大学教育の没落」と,「大学改革の功罪(っていうか「罪」)」が列記されています.





(1)そろそろ,大学改革の将来予想を当てた人の意見を聞くべきでは?


2007年頃と言えば,「大学改革」の影響がちょっとずつ現れてきた頃と言えます.
その時点で,見る人が見れば,
「あっ,大学改革ってダメじゃね?」
という評価があったわけです.

私も2010年から大学教員を始めましたが,その時点で,
「あっ,大学って将来は無いな」
と感じました.

内田氏の『街場の大学論』は,私のその自信を確信に変えた本と言えます.


その後,あらゆるところで「大学改革」の悪影響が出てきた現在,それでも大学改革に対する反省の動きはありません.
むしろ,「うまくいっていないのは,改革が足りないから」という調子で,理屈を捏ねくり回して継続・加速しています.

かつて,民間療法に「乾布摩擦」というのがありました.
乾布摩擦(Wikipedia)
寒い冬であっても,たとえ風邪を引いていても,庭(都市部では公園とかベランダ)に出て,乾布(乾いた手ぬぐい等)で体を擦ることで健康になるはずだという,トンデモ健康法です.
精神論が好きなジジイたちから好評を得ていた時代があります.

風邪を引いている中で乾布摩擦をしたら,当然のことながら風邪は酷くなります.
ところが,乾布摩擦を盲信している人は,
「風邪が治らないのは,乾布摩擦が足りないからだ」
と継続し,そして倒れます.
大学改革とは,それとよく似ています.
バカは「省みる」ということを知りません.


大学改革の危険性を訴えていたのは,内田樹氏に限りません.
たくさんの教育識者が「大学改革を続けると日本の教育が崩壊する」と言っていました.
しかし,日本国民はそうした批判の声に耳を貸さなかったのです.
実際,今も貸していません.


もういい加減,大学改革の失敗を認めた方がいいと思います.
だって,この20年間余り,ずっと続けてきても全く改善していないからです.

そして,「この大学改革は失敗する」と訴えていた人たちが提唱していた,「対案」の方に舵を切るべきではないでしょうか.
常識的に考えて,この大学改革の失敗を予想していた人たちの方が,「大学教育の在り方」を正しく認識しているはずだからです.

「風邪の時は,栄養を摂って安静にした方がいい」
という意見を出す人のほうが,乾布摩擦をする人よりも「風邪」のことを正しく認識しているのです.

以下に,『街場の大学論』から内田氏の主張をいくつか取り出してみます.
私が傍線を引いたところでもあります.
きっと大学教育を考える上で参考になるはずです.





(2)学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である


一方,受験勉強は「自分が何を知っているか」を誇示することである.

現代において,こうした「教育」の在り方を理解・信用してもらうことは難しいのです.
むしろ,私は「無理」だと思っています.
諦めた私は,敗戦宣言として,
どうして「絶対理解してくれない高等教育論」なのか
を書きました.

どうして理解してくれないのかというと,上記のような事を言う人を,一般の人は,
「上から目線の生意気な奴」
と判断するからです.

一般の人達の認識では,教育や学校(大学)とは,
「社会に出た時に活用できる知識や技能を,加算的に習得させる機関」
と解釈しているからです.

もちろん教育の役割は違います.

人は,学校や大学がなくても社会で活躍できます.
社会に出れば,人は勝手に生きるすべや,効率的なお金の儲け方を習得するのです.
それこそ,本能的に習得します.

では,教育機関が担っている役割とは何か?
それは,「生きるすべや,お金の儲け方以外に大切なものがある」ことを学ばせることです.

放っておいても身につける事を,わざわざ習得させる必要はありません.
学校に行こうが行くまいが,人は死にません.
つまり,「生きるすべや,お金の儲け方」というのは,人間がすでに「知っていること」なのです.
教育機関の役割とは,放っておいても身につけられない事を学ばせる場です.

ところが,大衆はそれを認めたくありません.
せっかく大金をはたいて通わせた学校・大学です.
それなりの見返りを求めるのです.

大衆の要望がダイレクトに通るようになった現在,教育機関全般は,ひとまず堕ちるところまで堕ちて,彼らが否応なく「反省」するのを待つしかありません.
文明とは,そうやって滅亡と勃興を繰り返してきたのですから.





(3)実学志向という虚妄


実学ではなく,教養を身につけるべきだという「保守的な教育論」に対し,大学改革を進める論者のなかには,
「そもそも,日本古来の教育は,実学志向であった」
という主張があります.
実際,慶應義塾大学の建学の祖である福沢諭吉も,そのように述べています.

日本の教育は,江戸時代から「実学」が重視 されていたというものです.
それに対し,内田氏は反論します.
ただ,江戸時代の私塾とか藩校とか寺子屋における「実学」と,私たちがいま「実学」と呼んでいるものは,言葉は同じだけれども,意味内容がかなり違うと思う.かつて「実学」という言葉にこめられたのは,学んだことの有効性は現実の生活の場面で検証されなければならないということであった.現実の検証に耐えることができない学問は虚ろであるという考え方に私だって異議はさしはさまない.けれども,いまの人たちが「実学」というときの「現実の検証」はすべて「金になるかどうか」である.「それを勉強すると,お金になるの?」という問いが「実学」か否かを決定するほとんど唯一の基準になってしまっている.
文学のなかに,人間社会を円滑に運営するための知恵が練り込まれています.
宗教学のなかに,ヒトを解釈する上での智性が盛り込まれています.
数学のなかに,自然やテクノロジーを見つめる視座があるはずなのです.

これらはビジネスになりにくいし,なにより金になりません.
結果,子供や保護者の興味は惹かないし,学生募集につながらない.
しかしそれは紛うことなき「実学」であり,人が生きていく上での実りある学びのはずなのです.

そんなことをぶった切り始めたのが日本の教育改革であり,大学改革です.





(4)大学教育についての自分の意見がこの十年間でずいぶん変わった


内田氏は,かつて文部科学省が提唱していた「教員評価システム」を推進していました.
本書『街場の大学論』でも,その経緯が読み取れます.

内田氏は,その「教員評価システム」に対する御自分の考え方が誤っていたことを吐露します.
僕は重大な点を2つ見落としていたからです.
ひとつは「評価コスト」を過小評価していたこと,ひとつは教員を「給料分働かせる」ためのシステムは,「給料以上のオーバーアチーブをしている教員たち」の活動を少しも支援せず,むしろ妨害すること,この二点です.
「経営改善に要するコスト」は「経営改善がもたらすベネフィット」を超えてはならない.これはビジネスの基本ルールです.でも,現在の教育現場における「評価コスト」はどこでも「評価のもたらす利益」を超えてしまっています.評価活動に時間を割き,人的資源を投入すればするほど手元の教育資源が目減りし,教育効果が滅殺されてゆく・・・という悪循環に日本の大学は入りこんでいる.

かつて私の恩師も,この「教員評価システム」を構築する委員に任命されてしまい,その労力の大変さを語ってくれたことがあります.
しかし,恩師も陥っていたのが,
「教員評価をきちんとしないと,給料分働かない奴がいるから,不公平感が出る」
というものでした.

私は恩師に結構ズケズケ言えるキャラ関係でしたので,そこで具申させてもらったのが,
「給料分働かない人をピックアップすることよりも,先生方がのびのび仕事できることの方が,大学として利益じゃないですか?」
というもの.

別にいいじゃないですか,仕事していない教員がいたって.
そのぶん,他の教員が好きにできていたのですから.

教員評価システムを導入することによって,誰が得をしたのでしょう?
誰もしていません.
むしろ,研究教育予算の削減と,その分配率をシビアにすることに利用されただけでした.
そういう意味では,文部科学省の役人に一杯食わされたと言えます.



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