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【大学教員になりたい人ための哲学入門】ヤージュニャヴァルキヤ様,半端ないって

人類史上,最強の哲学者|ヤージュニャヴァルキヤ


本ブログでは,大学教員を目指している人のための記事をいくつか書いています.
大学教員になる方法
大学教員になる方法「強化版」
大学教員になる準備
大学教員になるための履歴書作成方法


しかし,大学教員になるためにはテクニカルな部分も大事ですが,やっぱり,

Ph.D.(Doctor of Philosophy)

と名乗って教壇に立つのであれば,専門ではなくても「哲学」をある程度おさえておくほうが日本と学生のためです.


夏休み前に,
【大学教員になる方法】哲学の基本はおさえておきましょう

っていう記事を書いていて,その続編を書いていこうと思っていたのですが,思いのほかサボってしまいました.

今回は,西洋哲学と対をなす「東洋哲学」.

前回の記事でも紹介した飲茶氏による哲学入門書をオススメします.

『史上最強の哲学入門』と,
『史上最強の哲学入門〜東洋の哲人たち』



あらゆる本屋における書評・レビューもすこぶる高く,

「人類史における哲学の流れをつかむ」

という目的のためには,現時点で,最良の書だと思います.





西洋哲学と東洋哲学の違い


古代ギリシャのプロタゴラスやソクラテスを祖とする西洋哲学の歴史を紐解くと,この2500年をかけて一歩一歩少しずつ前進してきた印象があります.

絶対的な真理とは何か?

いや,絶対的な真理など存在しない(プロタゴラス).
いや,絶対的な真理と呼べるものを人間は内に秘めている(プラトン).
いや,絶対的に確認できるものは「私」自身の存在だけだ(デカルト).
いや,その「私」すら存在を確認できない(カント).
いや,今その絶対的な真理を見つけられていないが,いつか絶対的な真理が見つかる方法はある(ヘーゲル).
いや,そんな真理を見つけることになんの意味があるのか?(デリダ)

などという調子で2500年もの間激論しており,現在に至ります.

現在は,「ポスト構造主義」や「ポストモダン」と呼ばれるステージで切磋琢磨しているのです.



一方,東洋哲学は「一歩一歩前進」という感じではなく,その逆です.

今から2700年ほど前のインドにいた哲学者・ヤージュニャヴァルキヤが語った哲学が圧倒的過ぎて,それを超える思想が誕生していません.

ところが,ヤージュニャヴァルキヤの哲学・思想は非常にシンプルではあるのですが,一般人には理解されにくい.
また,その思想を学べば人間はより善い人生が送れるのではないか,と考える人もいました.

この思想を分かりやすく(といっても難解だが)伝えた一人が「老子」であり,
具体的な実践法として伝えた一人が,お釈迦様として知られる「ゴータマ・シッダールタ」です.


つまり,東洋哲学の歴史とは,

「ヤージュニャヴァルキヤの思想を分かりやすく伝えるための入門法」

が2700年もの間展開されてきたと言えます.


梵我一如の思想


「聖仙」と呼ばれるヤージュニャヴァルキヤが語った哲学は,

「梵我一如」

として知られています.


これは,

梵:世界を構成するもの(ブラフマン)
我:私を構成するもの(アートマン)

が,「一如」つまり一つである,という思想です.

そして,この思想は西洋哲学が2500年かけて,ようやく到達した境地でもあります.


この世界に私は存在しない.
認識するものを認識することはできないからだ.

しかし,あたかも私が存在しているような気がするのはなぜだろうか.
それは,私が世界を認識しているからである.
つまり,私が私として存在するためには,世界が同時に存在しなければいけない.

そんな世界で,私の存在を捉えようとしても無駄.
私とは,この世界にある「そうではないもの(〜に非ず)」としか言いようがない.

故に,梵我一如なのだ.


東洋哲学というと,まるで宗教や自己啓発セミナーのように思われがちですが,それは違います.
実際,この思想はこれまでに議論されてきた西洋哲学の全てを,一瞬で葬り去る思想です.

そして,現代哲学ではこの「梵我一如」の境地と戦うことを避け,その周辺部分で議論を進めていると言えます.


ちなみに,この「梵我一如」については,これから先の未来,ネット社会やロボット工学が発展するなかで,もっと注目される思想です.

薬品や脳刺激などによる認識力の増大や,身体の置き換え(サイボーグ化),IT技術の進化による所有物の曖昧化によって,

「私」であると言える存在は何か?
「私」を形作っているものは何か?
「私」のものと言えるものは何か?

といった認識や常識が不安定になったり,破壊されたりするでしょう.


例えば,かつての子供は野山で遊び,「水晶」「古銭」を手に入れて喜んでいました.

時代が移ると,「カード」や「シール」などを集めてコレクションしたものです.

さらに時代が移ると,「コンピューターゲーム」が登場し,その電子空間のなかで「アイテム」「スコア」を集めて喜ぶようになります.
しかしまだこの時代は,そのゲーム自体が「カセット」や「CD」などで,「自分のもの」として認識しやすかったのです.

ところが,いつの頃からかそれが「オンラインゲーム」になり,そこでもアイテムやスコアを集めるようになりました.
これは,ログインすれば「私のもの」のように扱えますが,実際のところは「誰かのもの」と言える存在ではなく,実体のない信号・情報でしかありません.

かつて,「自分のもの」だと認識しやすかったものが,あやふやなものになっているのです.


事実上,「お金(マネー)」もそういうものです.
お金に実体はありませんし,どこかの誰かのものとして存在している「物体」ではないのです.

この世は,徐々に「梵我一如」であるということを認識せざるを得ない状況に進んでいるように思えます.


もしかすると,ヤージュニャヴァルキヤが到達した境地は,人間が人間のままで思考可能な最終境地である可能性もあります.


ヤージュニャヴァルキヤは,なぜ2700年もの昔に,そんな境地に辿り着けたのか?


実際のところ,2000年や3000年くらいは,人類の歴史においては誤差範囲だと言えるのかもしれません.

なぜかって,人類が現在のような認識力や思考ができるようになって,もう既に数万年が経過しています.

そう考えると,数万年のうちの2000年くらい,ちょっとした誤差ですよ.

「真理とは何か?」
「私とは何か?」
「世界とは何か」
と辛抱強く思考し続けた人が,たまたまインドに何世代かいたことで,この境地に辿り着けたのでしょう.

実際,ヤージュニャヴァルキヤも一人で「梵我一如」を唱えたわけではなく,彼には「ウッダーラカ・アールニ」という師匠がいたことが知られています.


また,この時代(紀元前700年頃)のインド地方で爆発的に哲学が発展した理由は,その時にインドが平和で,気候や資源も豊かであり,多くの人が「哲学」に没頭できる下地があったからだと言われています.

これは古代ギリシャにも同じことが言えるとされます.


大学教育も同じで,せかせか働くよりも,じっくりどっしりのんびり構えるくらいの方が,実りある研究や教育ができるはずなのですが.

そういう環境づくりが大事である,ということを最後に申し添えておきます.


関連書籍| 今回紹介した飲茶氏の書籍
 




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