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この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ パート6

「わかりやすい」を疑え


シリーズ化してきた感のある記事.
過去記事はこちら.
この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ
この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ パート2
この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ パート3
この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ パート4
この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ パート5


私自身,この本を読んでいると,まるで自分が書いたんじゃないかと思うくらい思考が酷似しているので驚きです.

武田砂鉄 著『わかりやすさの罪』


ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー曰く,
「それを読んで,自分と同じ意見だと感じた本は読む価値がない」
とのことですが,ということは私にとっては読む価値がないのかもしれません.

ですから,このブログを読んでいる皆さんに是非オススメの本ということになります.

思いつきで書かれたブログ記事よりも,プロのライターさんが丁寧に書いた本の方が得るものも多いでしょう.
実際,本書は示唆に富む内容となっております.

私は大学教育現場で発生している「わかりやすさの罪」を記事にしてきましたが,本書ではもっと俯瞰的な視点から「わかりやすさ」が抱えている問題点を扱っていると言えます.


この本の帯には,
「納得と共感に溺れる社会で,与えられた選択肢を疑うために」
とありますが,これには激しく同意です.


結局,現代社会が抱えているのは「納得共感症候群」という病です.
新型コロナが引き起こす風邪症候群より,危険度も毒性も高いので注意しましょう.

私も「納得と共感」は危険視しています.
っていうか,納得と共感が嫌いです.

なんで,ことあるごとに納得や共感をしなきゃいけないのか.
そもそも,納得と共感を重要視していると,人間として腐っていきます.

そんな危険思考を糾すために,こんな記事も書きました.

「共感」については,
において,
大学生になったら,映画を見るときは共感ではなく理解しようと務めましょう.
それが大学での学問にも通じます.
自分とは異なる思想信条を持っている人々の姿や行動を見て,なんでいちいち「共感」しなければいけないのでしょう.
作り手にしたって,共感してもらおうと思って作ってなんかいません.
などと述べています.


あと,「納得」については,
とかで,学生に「納得」させるための授業を展開する大学教員は危ない,という話をしました.
大学の授業は納得するためのものではありません.物事を正しく捉えるための考え方を身につけるためにあります.納得できたかどうかと,物事の正否は別です.
その授業を受けて「その事」について納得してしまうということは,それによって「その事」について考えることをやめることを意味します.
なのに学生から好かれたいという一心で「納得できる授業」という不思議なものを目指す教員がいます.そんな教員はダークサイドに堕ちた危ない教員と言えます.

ブログ内検索をかけて出てきたものとしては,代表的なものがそんなところでしょうか.
なんにせよ,「わかりやすさ」と一口に言っても,特に「納得と共感」を目指したわかりやすさには厳重注意です.

武田氏の言葉を借りれば,こうした「わかりやすさ」は,
「平均値に幅寄せしていく行為」
と言えます.
つまり,多くの平均的な人々が,もともと初期値として持っているレベルに擦り寄せて話を展開することで,多くの人に「わかりやすい」と感じさせる手法です.

これを巧妙に利用しているのが池上彰だと,武田氏は指摘します.

この手法は,たしかに「わかりやすい」と感じさせることはできますが,物事を雑に捉えすぎる傾向にあり,その物事を解釈する上での,その他多くの大事な要素をバッサリと切り捨てています.

百歩譲って,「わかりやすくするため “だけ” に切り捨てる」のであればまだいい.
ところが,池上氏などが用いている手法は,平均的な知識レベルの聞き手をターゲットとしておもねり,しかも,
「その聞き手が納得と共感できる解釈」
という着地点を目指したわかりやすさであることが問題なのです.

大学教育にも,こうした「わかりやすさ」が求められてきているし,教員側としても,自分の授業評価を高めようと,学生におもねる力学が働いています.
現場では教員が堂々と,
「池上彰みたいな授業ができたらいいですね」
などと言っているところもあったりする.

結果として,「役立つ知識」「すぐに使える知識」と称する,聞き手が「そうだったのか!」と納得し,共感できる授業を展開しがちなのです.
これは,大学教育の自殺に等しい,非常に危険なことです.


なお,本書で私が個人的に「共感」して「納得」できたのは(笑),第5章の「勝手に理解しないで」で紹介されているエピソードです.
この部分は説明するのが煩雑なので,これは本書を手にとって読んでもらいたいですね.

ただ,そうやって放り投げちゃうのもなんなので,その部分の一部を引用しておきます.

たとえば,中央分離帯に乗り上げたまま暴走している自動車を見たとする.私たちはクラクションを鳴らしながら「危ない! 元の道に戻れ!」と叫ぶ.その時に,ドライバーが「確かにみなさんが言うように危ないですね.おっしゃる通りだと思います」と言って元の道に戻ったら,その場にいた全員が「そういうことじゃないだろ!」と怒声を浴びせるだろう.みんなに言われたから危険運転を止めるのではなく,そもそも危険運転は止めるべき行為である.このようにして,なるほどそういう意見もありますかと,(造語だが)「意見化」する行為によって,対置すべき見解として膨張してしまう,昇格してしまうことがあるのではないか.
(中略)
私たちは今,シェアすることばかりが求められている.同意ばかりしている.リツイートし,「いいね!」を押す.さぁどうだ,これはキミにとってはどういう反応をもたらしたいんだい,と問い詰められる.「反応してくれるかどうか」と「どういう反応をしてくれるか」には,当然大きな差がある.まずは「反応してくれるかどうか」,その後に「どういう反応をしてくれるか」という順番である.だが,同意を強要する社会においては,最初の「反応してくれるかどうか」がすっ飛ばされる.

つまり,「対等な立場での議論」というものを履き違えており,昨今よくみられる議論マナーである「相手の意見に一旦同意しおいてから」という態度に甘えてしまい,まるで真摯な議論やコミュニケーションを展開していると勘違いしている輩が増えてきたのではないか,ということです.

これは,特に最近の政治家・与党政府などの答弁でも散見されます.
散見ていうか,頻繁に見ますね.
これも,「わかりやすい」を目指してしまった社会の末路の一つと言えます.


「わかりやすい授業」「わかりやすい教育」を目指してしまうと,大変なことになりますよっていう本ブログの記事の内容を,とても丁寧に説明した良書だと思います.


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