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ところで,東京オリンピック開催の是非を「体育・スポーツ系学会」がガン無視したのはなぜか?

先日,知り合いの大学教員の方とリモート飲み会をしまして.
で,そこで酔っ払った勢いで指摘させてもらったのが,
「なぜ,コロナ禍でのオリンピック開催について『体育・スポーツ系研究者』から学術的な指摘や解説がなかったのか?」
というものです.

まあ,詳しく探せばそんな人が誰かいたのかもしれませんけど,とりあえず私は見かけなかったですね.
少なくと,地方で田舎暮らしをしている元スポーツ系大学教員の耳と目には入らなかった.

まず,昨年2020年の段階で誰か声を出しても良かった,っていうか出すべきだった.
でもまあ,それは百歩譲っても,開催の是非について沸きに沸いていた今年の5月頃には,どっかの体育・スポーツ系研究者,もしくは学会が声を上げる必要があったと思いますよ.

例えば,NHKとかの全国放送系の番組で,学会が企画した「現代におけるオリンピック開催の意義とはなにか」みたいなやつを放送するとか.
あとは,複数の全国紙に,「オリンピック開催の意義」についての賛否を交えた論考を掲載するとか.

皆さんがあまりにもガン無視を決め込んでるみたいだから,痺れを切らした私がこんな記事を書いたくらいです.


その記事では雑な説明になってしまったので,もうちょっと具体的に話します.

一例として,人類文明の基礎は「法・法律(Law)」の存在だとされますよね.
他の動物社会と違い,人間社会では法律が機能します.

で,この「法」の起源の一つとされているのが「スポーツ」や「遊び」です.
直感的に考えても,人類には法律に先んじてスポーツが存在していたことは自明です.

スポーツとは,対峙する相手同士,または個人内でさまざまなルールを課し,そのルールによって制限された範疇でスコア獲得を目指す営みです.
このスポーツという「営み」の延長線上にあるものが,人間社会に存在するさまざまな活動と言えます.

つまり,スポーツのプレーの価値を高め,魅力的にするための「ルール」が「法」になったということ.
逆に言えば,法律があるものは総じて「スポーツ」だとも言える.

よく,囲碁将棋やラジコン,テレビゲームのことを「スポーツ」だという話題が出ると,
「そんなものまでスポーツだと言い出したら,逆に何がスポーツではないのか」
などという指摘がなされることがありますが,これは実にご尤もな指摘であり,実際にこう言えます.
「はいそうです.そもそも人間社会のすべての活動は『スポーツ』なんですよ」
と.

ホモ・サピエンスは,自らの行為をスポーツにさせることでスポーツ文化を作り出し,スポーツ文化を通して法律を生み出し,そこから人間社会を形成させてきました.
つまり,スポーツは人間社会の基礎なのです.

スポーツを失った人間は,ただの獣でしかありません.
人間は,スポーツによって人間らしく生きているのです.

シリアスで凄惨な「戦争」という行為ですら,人間はそれをスポーツにしています.
戦争はただの殺し合いではありません.
そこには必ず守るべきルールやマナーがあり,建前本音にかかわらず,ひとまずそれを尊重することが重要になっています.
「国際スポーツ大会は国家間の代理戦争」などと言われますが,バカ言っちゃけない.
逆です.
スポーツの延長線上に戦争があるのです.

そんなわけですから,私も過去記事で繰り返しているように,
「オリンピック等の巨大スポーツイベントへの取り組み状況を観察すれば,その国・社会の正体が分析できる」
ということなのです.

で,どうやら日本人は「オリンピック」のことを「楽しくドンチャン騒ぎするためのイベント」だと思っているらしく,そのドンチャン騒ぎに便乗して金儲けをするための機会だということが,徹頭徹尾染み付いていたように思います.

つまり言い換えれば,現在の日本は「ドンチャン騒ぎに便乗して一儲けを狙っている」,そんな国家・民族だと言えます.


だからこそ,なのです.
そんな明後日の方向を向いた世間に対し,トランキライザーとしての一撃を喰らわせることができるはずだったのが「体育・スポーツ系学会」からの声明でした.
おいおい君たち,オリンピックを一体何だと思っているのかね,と.


この手の学会は,「スポーツ指導現場での暴力」とか「女性アスリートへのハラスメント」とかには熱心に声明を出しますが,肝心要の「コロナ禍におけるスポーツイベント」についてはだんまりを決め込む.

むしろ,こうした学会や,その代表格となっている偉い研究者さんたちは,今まさにこれについて語るのが社会的存在意義ではないのか?

あえて指摘しときましょう.
これは,自分たち自身が「スポーツの価値」を信じていないからです.
スポーツのことを,自分たちの「飯の種」だと捉えているからです.


事実,こんな話があります.

国立スポーツ科学センター(JISS)に「スポーツ哲学」「スポーツ文学」が無い


日本のスポーツ科学研究の拠点として「国立スポーツ科学センター(JISS)」というのがあるんですけど,これの設立経緯にちょっとしたエピソードがあります.

否,ちょっとしてるようで,今となってはかなりでっかいエピソードです.


国立スポーツ科学センターの主な設置目的は,
「日本のスポーツの国際競技力の向上」
であり,そのための研究を促進させることにあります.
つまり,ワールドカップとかオリンピックとか世界選手権とか,そんな大会で好成績を得ようという目的で設立された機関というわけ.

別にそれはそれでいいんですけど,そのために促進される「研究」の分野が問題です.
JISSでは,その研究分野を医学や自然科学系,情報系と位置づけています.

これについて,スポーツ史・スポーツ哲学を専門とする稲垣正浩氏はこんなことを言っていました.
以下の話は,私が通っていた大学院の特別講義のゲスト講師として登壇されていた際に,この国立スポーツ科学センター設立にあたってのエピソードとして述べていたことです.
正確な発言内容ではありませんが,中身としてはだいたいこんな感じでした.

曰く,
「国際競技力を向上させるために,医学や自然科学系,情報系がまずもって大事だということは分かるが,これは短期的な視点である危険性がある.JISSを日本の国際的なスポーツ競技現場の拠点だと位置づけるのであれば,なおのこと,哲学や文学,歴史といった領域についてもしっかり研究し,発信する拠点である必要がある.こうした領域をなおざりにしてしまうと,日本のスポーツ文化そのものが劣化してしまい,結果的に,オリンピックやワールドカップに出場することはできても,そこで日本のスポーツが恥をかくことになりかねない」

なお,今でも国立スポーツ科学センター内には,スポーツ哲学やスポーツ文学といった文系研究をする部署は無いようです.
競技力向上に必要なしと判断したからでしょう.

今年の東京オリンピック騒動を見るたびに,私としてはこの稲垣氏の指摘を毎度思い出してしまうのです.

結局,日本のスポーツは,目先の競技力向上だけを目指してしまい,肝心の「スポーツ文化」を疎かにしてしまった.
そのつけとして,オリンピックがなんのために開催されているのか,時の総理大臣や大会委員長ですら,国民に,そして世界に向けて発信できない事態になっているのです.


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