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11:2012年5月5日

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2012年5月5日(土)9時45分

 橿原一如は、越ヶ浦駅の西側ロータリーに立っている。
 1ヶ月前と同じく、3ウェイバッグを背負って、華獄温泉行きの送迎バスを待っているのだ。

 結局、また秘密結社のグループで華獄温泉で合宿することになった。

 今回は、前回のメンバーに加えて、その時に話していた学生課職員の中村奈々未(なかむらななみ)と、兵藤学長が声をかけたというマルチメディア学科の助教である葛西雅子(かさいまさこ)が同行する。
 中村には水本誠二が声をかけたそうだ。
 中村からOKが出たと、嬉しそうに報告メールをまわしていた。
 葛西は、兵藤学長以外は誰も知らなかった。
 兵藤が声をかけて参加させたようで、橿原たちとは初対面となる。

 その2人が駅の方から連れ立って歩いてくる。
 橿原よりも先に、2人の方が橿原を見つけていたようだ。
 中村が軽く手を振りながら近づいてくる。
 抑制の効いた笑顔が自然だ。
 橿原には、これが53万ムスクのツワモノとは思えない。

 中村は小型のスーツケースを転がし、葛西はリュックを背負っている。
 並んで来る両者のキャラ造形はとても対照的で、ガッチリとした男性のような体格の葛西の隣を歩く中村はとても華奢に見えた。
 葛西は髪をツーブロックぎみに短く刈り上げているので、遠目には男女のカップルのようにも思える。

「橿原先生、おはようございます。今回はよろしくお願いします」と中村が挨拶する。
 橿原も返事をした。

「あっ、どうも。橿原先生、私は葛西と言います。よろしくお願いします。マルチメディアの教員です。調べてみたら、橿原先生と私は同時期に青葉大学に着任していたんですね。先生も今年で3年目、ですよね。普段まったく会わないから、これまでお話したことなかったですよねぇ。もしかすると、どこかで話してるかもしれないですけど」と言って笑った。そして続ける。「今回、兵藤先生からご紹介いただきまして、参加することになりました。あのぉ、温泉ですよね。楽しみなんですけど、この会ってどういう集まりなんですか?」と言いながら葛西は、ぎこちなくも豪快な笑いを振りまく。

「どうも、橿原です。よろしくお願いします。えっと、僕にもちゃんと分かってないんですよ。まあ、せっかくゴールデンウィークを潰して行くんですから、楽しみましょう」と返した。


 その後、永山義春、藤堂道雄、学長の兵藤芳裕が合流する。
 今回も幹事をやっている水本は、今日も集合時間がギリギリになった。

「すみません、遅れました。まだバスは来てないですよね」そう言って、ロータリー前でお互いの自己紹介をし合う時間を作った。

 旅館の送迎バスの到着はやや遅れた。

 到着したバスの運転手は、平謝りの態度で橿原たちの乗車を丁寧に促している。

 橿原と永山は、末尾で乗り込むタイミングとした。
 そこで永山が橿原だけに聞こえる声で言う。
「ほら、中村さん、思ったとおりだよ。計算し尽くされたファッションだよね。ムスク臭を消しにきてる。ここでルーズ気味のナイキのパーカーを羽織ってくるのは、さすがだよ。あれで脇から胸にかけてのラインが消えるからね。中村さん特有のエロさが全くなくなっとるよ。水本先生とか、ガッカリ気味なんじゃない? でもさあ、むしろこれの方が良かったりするよね。こんな状態でも、100ムスクくらい漏れ出してきてるよね」

「永山さん、やっぱ見過ぎですよ」


宿泊するのは、前回と同じ旅館・華獄の里だった。
混浴じゃないのか、とちょっぴりガッカリした。


 館内レストランで夕食をとる。
 今回は個室をとっている。
 予約をすれば利用できることが分かったと、水本が言っていた。

 10人が腰掛けられる、掘りごたつ式のテーブルだった。
 7人ではあるが、水本と藤堂が太り気味なので、ちょうどの広さだった。

「いやぁー、いいお湯でしたぁ」
 葛西は朗らかな顔で報告する。
 中村もそれに同意する言葉を述べた。

 店の給仕係が、注文された飲み物を配っているなかで、兵藤があらためて葛西雅子を紹介した。
「あのですね、葛西先生は、私の知り合いの先生からの紹介があった縁で、青葉大学に来てもらってるんですよ。もちろん公募ですけどね。でも、その先生が、彼女はとても優秀だからってことで、かなり推薦してもらったなぁ。それで、助教でも良いですか、ってことで来てもらってます」

「いえいえ、そんな」と葛西は謙遜した。

 兵藤は続けた。「ご存知の方もいるかもしれないですけど、葛西先生は、本学の講義系の授業で、2年間ずっと、授業評価アンケートの成績がトップなんですよ、はい」

 テーブルを囲むメンバーから感嘆のため息が静かに漏れる。
 葛西は縮こまってさらに謙遜する。
「いやいや、たまたまです。狙ってできることじゃないですから」

 兵藤が言う。
「いやぁー、そんなことないですよ。非常に優秀な先生をお招きできたと思っています。ぜひ、これからも本学の授業の質を上げていただくようご尽力いただけると嬉しいです。それに、私もその授業テクニックを教えてほしいとも思っていますから。はい、そんなわけで皆さん、今回は新しくこの葛西先生と、あと事務の中村さんをお呼びして会合を開くことが出来ました。では、お手元に飲み物はありますでしょうか。せっかくですので、乾杯をしたいと思います。では、乾杯」


 ひとしきり雑談が終わると、水本が切り出した。
「今回こうやって温泉に来てもらったのは、今年の5月病を皆で癒やすという目的もあると同時に、もう一つ、これからの学長の大学改革というイノベーションのビジョンを、皆で共有してシェアしてシェアリングして、それを出来る限りバックアップしてサポートしてマネジメントする。そういう組織にしていきたいと思っておりまして、そのスタートとして私・水本ですとか、藤堂先生がバックアップしてサポートするということになっていました。そこに、永山先生と橿原先生も加わってきて、より強力な体制になることを目指して、ステップアップしている段階です。そして今回、私達の学科以外からもバックアップとサポートをしてもらおうと思いまして、葛西先生にぜひご協力していただければと思っています」

 葛西はそれにちょっと驚く。
「はい。あっ、学長、皆さん、具体的にどんなことを私はすればいいですか? なかなか、イノベーションと言われても、どうしていいものか」と言って、ぎこちなく、そして豪快に笑ってみせた。

 水本は学長の方を見る。

 兵藤学長が葛西の問いに答えた。
「うん、まあ、青葉大学は現在、非常に経営難に陥っています。もう、来年再来年にはどうなるか分からない状態です。実際、いくつかの学科は恒常的に定員割れが続いていますし、河合塾やベネッセだったかな、そういうところの偏差値も、かなり下がってきていて、危険水域です。これを改善していくためには、しっかりとした教育体制、特に授業や課外活動の質を高めていく必要があるんです。葛西先生は授業評価がトップですし、そういった面からサポートしていただければと思っています」

 葛西は頷いた。
「はい。がんばります」

 兵藤は話を藤堂にふる。
「藤堂先生はテニス部ですよね。もうずっと優秀な選手を育ててくれています。今年も大会でいい成績を残してくれていますよね。報告が上がってきていますよ」

 藤堂は答える。
「はい。まあ、うちの選手はめっちゃ優秀ですわ。どんどん強くなってますからね。そのうちの一人は、全国に行ってますからね。もう青葉の名前は全国区ですよ。青葉は凄いことになってきてるなぁと思われてますんでね。ただ、兵藤先生、それだけにちょっと気になるのは、大学のテニスコートがもうボロボロになってきてますんでね。これをなんとかせなあきませんわ。もう、学生がボールがポッーン!ってなったらパッーンパッーン!ってなって大変ですわ。ポンッポッーン!いうて。ですから、これをなんとか、お金を出してもらえないかと」と身振り手振りで話す。
 そんな藤堂を見ながら、葛西と中村は笑いを堪えている。

「はい、藤堂先生には去年から提言してもらっていますよね。ですけどねぇ、なかなか難しいですよ。今、そこにお金を割くのは」

 兵藤の困った顔での発言が終わるや、藤堂はすぐに続ける。
「ですけどね先生、青葉大学はクラブがメイン、クラブで活躍するっていうのを前面に打ち出していますよね。それが、入ってみたらこんな状態や、っていうのが知れたら、もう学生は来なくなりますよ。本気でクラブを強くしようと思ったら、もっとクラブにお金や時間を注ぎ込まないといけませんわ。私なんか、クラブに授業に、そして学科長ですわ。手が回らんし、首も回らんし、身動きできへん状態で、もう大変ですわ。うちの選手なんか、私が指導してる時間がないから、監督は一体いつも何してるんやろうと思って、不満が溜まってきますよ」

 藤堂は、人形劇の顔のように眉を上下左右に激しく動かしながら訴える。

 それを聞き終わった兵藤は、腕を組んで話しだした。

「うんうん、藤堂先生には非常にご負担をいただいていると思います。特に今年から学科長ですからねぇ。非常に申し訳ないと思っています」

「まっ、学長からそう言っていただけるんであればね。私も任侠の世界の人間ですからね。体育会系ですから。そこはなんとかしますよ」と言って藤堂は笑う。

 兵藤は胸の前で組んでいた両腕を話し、それを膝の上に置いて目線を目の前の料理に落としながら、改まった雰囲気を作りつつ話しだした。
「えぇーっと、あとは、これは、なかなか言いづらいことなんですけど、まあね、水本先生と藤堂先生は、非常に私のためにご尽力くださっているんで、本当に大変だと思っているんですけど、やっぱり青葉大学は教育力を前面に出しているんですよ。授業の質を高めたいわけです。今はまだ、ねぇ」と言って、兵藤はよそよそしい笑顔を水本と藤堂に見せる。「水本先生と藤堂先生は、もう少し授業の評価をね」またぎこちなく笑った。「授業評価アンケートの結果を、お二人はもう少し改善してもらえると良いかなと思っています。まあね、なかなか時間が作れないですから、大変かと思いますけど」

 兵藤は普段から、「授業が大事だ」と話すことが多い。
 その場の者たちも、この兵藤の発言には驚くことはなかったが、水本と藤堂の名前が出たことで、わずかな緊張感が走った。

 そこですかさず水本が言う。
「いやあ、兵藤先生のおっしゃりたいことは分かります。私もなかなか授業に時間を割いている時間がないんでね。授業というのは、授業準備で全てが決まりますからね。それがもう私は、委員会やら、会議やら、学生相談やら、クラブ活動やら、進路相談やら、会議やら委員会やらなんやらで、もうてんてこ舞いですから。全然準備にかけられる時間がなくて、もう今持ってるリソースだけで、その場でパッと作ってやってる感じですよ。学生にもこれは悪いなぁと思いながら、それでも、そのなかでの最大限のアウトプットをして、学生にインプットしている状態です」

 藤堂もそれに続く。
「私も一緒ですわ。それに学科長やってますでしょ。もう、てんてこ舞いですわ」

 水本が付け加える。
「それに比べて、理事長派閥の奴等はなんにもしていないですからね。昔ながらの黒板とチョークでチーチーパッパですよ。私は時間が無いなかで、予算やリソースが無いなかで、それでもiPadとか最新アプリを展開して、学生のモチベーションやインタレスト、興味関心をアップして高めるようにしているのに、あいつらはまだ、コケの生えたような授業をいまだに続けてますからね。これじゃ学生の、シンクするマインドを鍛えられないですよ。葛西先生もそう思いませんか。もう、黒板にチョークでやってるのは厳しいでしょう?」

 兵藤がそこに反応する。
「まあ、私もまだ黒板にチョークだけどね」と言って大笑いしている。
 攻撃的な色は見えない発言だった。

 水本もつられて笑った。
「まあ、学長の場合は年季が入ってますから。そういうクラシックな授業のほうが、学生も新鮮でいいんですよ」

 話すタイミングを逃していた葛西が、回転ドアに入るようにして口を開いた。
「うーん、まぁ、私が担当しているのはプログラミングの授業ですので、なかなか黒板にチョークというわけにはいかないんですけど。でも」

 水本がそれに反応した。
「まあ、プログラミングの授業やったら、パソコンでやるわけでしょ。ちょっと特殊ですよね」

「あ、いえ、プログラミングといっても学生に実際にプログラミングを組ませてみるのは15週間のなかでも極僅かで、ほぼ全て講義とグループワークなんですけど、やっぱりプログラミングの本質的なところを理解してもらいたいので、そのあたりを工夫していますね。たしかに、黒板にチョークでやるのは難しいとは思いますが。まあでも、私が学生の頃は、プログラミングの授業でも、先生は黒板にチョークでしたよ。私も今、黒板じゃないですけどホワイトボードは使ってますし」そう言ってから葛西はビールに口をつける。

 ふいに沈黙が訪れたところで水本は、その沈黙を嫌うように声を出す。
「あ、学長、来週の教授会ですけど・・」と言って、このテーブルの話題を変えた。


 いつしか、7人の話題共有が分割された。

 上座の位置に座る兵藤、水本、藤堂の3人で話題を共有し、永山と中村が向かい合っていることもあって、この2人も独自に会話を始めた。

 橿原は、目の前に座っている葛西に声をかけた。
「葛西先生、さっき言ってたプログラミングの本質的なところを理解してもらう、ってやつですけど、どんな授業にしてるんですか? 葛西先生は学内トップの先生ですから、ぜひその工夫を聞いてみたいです」

「ありがとうございます。それですか? でも、説明するのって難しいですよね。そういえば、橿原先生も授業評価アンケートの結果が良いですよね。上位何名かが公開になってるじゃないですか。そこにいつも入ってきてますよね」

「あ、はい。でも、すみません、自分のことはなんとなく知ってましたけど、この2年間ずっとトップが葛西先生だったというのは、実は確認していませんでした」

「あぁ、いえいえ、どうでもいいですよ。で、橿原先生もそうかもしれないんですけど、評価の良い授業をやるコツって、なかなか説明できないですよね」

「ああ、葛西先生もそうなんですか。ですよねぇ」

「うん、私も教えられるものなら伝えたいって思うんですけど、やっぱり、なんていうか、その先生に独特のものってあると思うんです。私がやっている方法をそのままコピーして別の人がやっても、絶対同じ結果にはならないですよ。例えば、私ってこんなオトコオンナなキャラクターじゃないですか。それは自覚してるんですよ。だから、そういうところで学生も受け止め方が違ってくると思いますし」

「あと、僕が思うのは、授業の科目によって学生の反応が違いますからね。この大学の授業評価アンケートって、最高値のものでランキング化してくれてますよね。僕の場合、各科目で評価が違いますから。当たり前かもしれませんけど、全部で高いわけじゃないですよ。低いやつもあります」

「なるほど、そういうところもありますね。私の場合、似た授業を2種類しか受け持っていないんですよ。全学的な科目で、コマ数が多いだけです。そうなると、さっき先生方が言っていた授業準備というのも、私にはかなりアドバンテージがあります。同じ内容の授業を繰り返せばいいんですから。あ、でも、各クラスでやり方は微妙に違いますよ。学生の理解度とか、反応とか、興味の示し方に応じて内容も変えています。どの学科なのかによって、だいぶ違いますよね」

「プログラミングの本質を理解させる工夫っていうのは、例えばどんなことをしているんですか?」

「あっ、すみません、それに答えてませんでしたね。いえ、そんな特別な工夫じゃないんです。とにかく、1つの指導テーマを明確に決めたら、これでもかってくらい分かりやすいところから始めていくんです。逆もあります。分かりにくくて深いところから始めて、徐々に浅くしていくんです。どこから自分が理解できるのかが分かると、それだけでもプログラミングに対するハードルが下がりますから。プログラミングって、普通の高校生とか学生には馴染みがないじゃないですか。なんにも分からないわけですよ。それに、きちんと学習するためには他にもいろいろな事前知識が必要なんですけど、それをすっ飛ばして授業をしなければいけませんよね。これを嘆いていても仕方ないので、とにかく私の授業だけで完結させます。たまにいるじゃないですか。『私の授業は、もっと基礎的な勉強をしてからじゃないと理解できないよ』って言う教員。あれって、授業をやる上での逃げだと思うんです。そんなことは、授業を履修する側にとっては関係ないですから」

「あー、僕、たまにそれ言ってますねぇ」

「ハハハ、すみません。でも、私も昔はそうだったんですよ。むしろ、それで学生にしょっちゅうキレてましたから。もっと自主勉強しとけって。でもあれって、学生に対してマウントとってるだけですよね。今思うと恥ずかしい限りです。そんなとき、ある学会で、プログラミングの授業方法に関するワークショップがあったんです。特に、専門以外の学科の学生を対象にする場合に、皆さん苦労されているんですよね。でも、そこで担当されていた人の授業方法がとても斬新だったので、私なりにアレンジしてやるようになりました。物語、ストーリーを作るんです。どうしてプログラミングが必要なのか、っていう。そして、そのストーリーを学生にも作らせるようにして、そこでプログラミングの考え方とか必要性を理解してもらうようにしています。結局、学生が自分自身でその授業のテーマや、教員が提示している問題意識について掘り下げる過程を経ないと、いつまで経っても与えるだけの一方通行な授業になりますから。そうなると、どうしてもアンケート結果は低くなります。それに、そんな状況下で強引な教授法を使うと、学生の反感を買いますしね。なかなか具体的な授業方法としてお話できないんですけど、そんな感じで展開しています」

「んー・・・、すみません、よく分からないですかね」と言って橿原はわざとらしく困った顔をしてみせた。

「あぁー、そうですかぁ、伝わらないですよねぇ。やっぱり、実際に何度か授業を受けてもらわないと」

「そりゃそうですよね、こうやって飲み会しながら伝わるものなら、授業なんていらないですよね。プログラミングの本質的なところっていうと、僕なんかが思うのは、どうしてコンピュータに文字を入力しただけで、プログラムが動いてくれるのか、あの理屈が分からないんですよ。あれってなんですか?」

「あっ、先生、まさにそれが結構重要なことなんですよ。でもそれを理解してもらうのって、めちゃくちゃ難しいんです。ですけど、そこが理解できちゃえば、たとえ自分でプログラミングを書けなくても、プログラミングとは何かが分かってくれれば、この授業を受けてもらった価値があると思うんです。いつかきっと何か別の機会とか、自分の専門分野の勉強において役立ってくれるはずですから。とりあえず、私はこの大学の学生に求めるのは、そこまでです。それ以上となると、かなり専門的に勉強したり、それこそ自主的に猛勉強しなきゃダメだし、もしくは才能の世界だったりします」

「そうなると、やっぱりまず、学生ありきですかね」

「そうですね。良い授業とか教え方というものが固定的にあるわけじゃないと思います。もちろん、ある程度はそういう要素がみられるんでしょうけど、そこから先は、学生の様子や理解度に応じて、こちらが対応対処しなきゃいけません。なので、良い授業の条件を敢えてあげるとすれば、各クラスや個々の学生といった対象者に応じて、カスタマイズする余地が用意されている授業じゃないかなって思います。そして、教員はそれを自在にカスタマイズできるだけの引き出しを持つことですかね。で、そこが一番大事で、しかもマニュアル化できないところでもあります」


 夕飯は19時30分ごろに終わった。

 中村と葛西は部屋に戻ってゆっくりするということで、男性メンバーとは別れた。

 水本が「じゃあ、今回も兵藤先生のところで打ち合わせますか」と言ったので、永山と橿原はコンビニにおつかいに出ることになった。


「ねえ、このイチゴ大福だけどさぁ、10個くらい買っていこうよ」そう言って永山がイチゴ大福を鷲掴みにして買い物カゴに放り込んでいる。

「けっこう高いですよね、イチゴ大福って」

「でもさあ、微妙に美味しいから、余っても持って帰ればいいよね。それに、お金は今回も学長持ちだし」

 その他に、豪華プリンやポテトチップス、せんべい、ロールケーキなどを買っていった。

 そのあとのために、一応、角瓶ウイスキーを購入している。

「今は、夏カラメルソースのプリンに切り替わってるんですね。どのあたりが夏なんでしょう?」

「コンビニ業界の人も、年中よくこんなの思いつくよね。尊敬するよ」


 集合場所に指定された兵藤の部屋に向かったのだが、以前とは雰囲気が違う客室エリアだった。
 どうやらグレードを上げているようだ。
 明らかに格調高い空気が廊下を流れている。

 指示された部屋につくと、既に入り口からして豪華である。
 調度品と花が飾られ、ちょっとした料亭の玄関のように見える。

 入ると、3人がテレビを見ながらモンブランケーキを食べていた。
 今回も水本がスイーツを用意していたようである。

 永山と橿原に気づいた水本が声をかける。
「おぅ、二人共ありがとう。これ、俺が持ってきたモンブランだ。お前らも食えよ。うまいぞ。俺が駅前で買ってきたんだ」

 永山が答える。
「先生、ありがとうございます。すみません、コンビニでロールケーキを買ってきちゃったんですけど、かぶりましたね」

藤堂が言う。
「永山先生、ええねん、ええねん、食べてしまえば一緒や。一緒に食べてしまおう」

そういう問題じゃないよなと橿原は思ったが、この感情をかき消すために口を開く。
「凄いですよね、この部屋。めちゃくちゃ豪華です」

兵藤が笑顔で答える。
「そうでしょ。凄いですよここは。水本先生が用意してくれてね。でもね、もちろん私一人で泊まってるわけじゃないですよ。3人で泊まってます」

 水本がモンブランを頬張りながら付け加えた。
「今回はな、俺ら3人でこの部屋を予約したんだよ。凄いだろ。ちょうど空いてたからな、3人だったら泊まれるだろってことで。そしたらやっぱり凄いな。何もかもが一流だ。気分はセレブだぞ。なあっ、藤堂先生、こんなところなかなか泊まれないからなぁ」

「そうですね先生、さすが水本先生は情報に長けてますねぇ。この部屋、匂いも凄いですなぁ、ええ匂いやぁ」と言って鼻をクンクンさせている。

「そうだろ、お前の研究室は、油臭いからなぁ。ゴキブリみたいな匂いがしてるぞ。あれ、なんとかしろよ。そのうち女子学生が寄ってこないようになるぞ」

「そんなことありませんて先生。今年もぎょうさんゼミに入ってますから」

「お前もか、俺のところも結構多いぞ。俺は男子ばっかりだけどな。なんで藤堂のところには女子が多いのかなぁ。不思議でしょうがないよな。そう言えば永山先生、お前のところは今年一人らしいな。しかも編入生だろ。大丈夫か? もっとゼミ生が入るように努力しないと、理事長派閥の奴らに舐められるぞ」

 兵藤はそこに口をはさむ。
「えっ、永山先生のところは一人なの? それはマズいなぁ。まあ、ゼロっていうよりはいいけどねぇ」

 座椅子に仰け反っていた水本が、座り直して兵藤の方に向く。
「けど学長、理事長にべったりの河野っているでしょ。あいつは今年もゼミ生はゼロですよ。もう3年連続。3年続けてゼミ生ゼロ。大学の教員として存在する価値無し。終わってます」そう言って大笑いする。

 藤堂が露骨な驚きを見せる。
「え! 河野先生のところはゼミの希望者がいないんですか。そらあかんわ。河野先生はやっぱりダメや。教授会とかでも変やもん。おかしい人やと思ってましたけど、やっぱりあかんのですね河野先生は。永山先生も気をつけとかんと、永山先生には能力が無い、指導力が無いって判断されるからな。俺らみたいに実力をつけて、学生から認められていかないと、教員としての価値がないってことになるからな」

 兵藤は藤堂に微笑みながら言う。
「いやぁ、さすが藤堂先生ですね。藤堂先生の行動力と突破力は凄いですからね。だから学生がついてくるんでしょうねぇ。永山先生も、橿原先生も、藤堂先生と一緒に頑張ってくださいよ。今回も来れなかったけど、そのうち穂積先生にも来てほしいなぁ。彼女はぜひメンバーに入れたいですからねぇ」

 藤堂はこれに不満そうな声で答える。
「兵藤先生、穂積先生はあきませんわ。あれはダメやわ。あの子には指導力がありません。学生からの信頼がありませんからね。この前も、学生が言うてましたわ。穂積先生は怖い、学生のことを考えてない、いうて。実際、あの子も授業評価低いでしょ。それにゼミ生もあんまおりませんやん。たしか今年は4人やったかな」

兵藤は笑いながら返す。
「ですが、あの歯に衣着せぬ物言いは魅力ですよ。度胸があるんだよねぇ。話をしてみても、面白いことを言ってますよ。あの人なら理事長のグループに対抗できるかもしれないなぁ」

「兵藤先生、けど、穂積先生は組織っちゅうものが分かってませんよ。人間関係を簡単に考えてます。パソコンみたいなものと思ってるんですよ。心が無いわぁ、うん、あかん」

「藤堂先生がそんなに言うなら、そうなのかもしれませんけどね」と兵藤は笑顔を見せた。

 水本は腕を組み、宙を眺めながら語りだす。
「たしかに俺らは授業評価アンケートの結果は悪いけど、結局最後には学生からは慕わてるわけよ。授業というその場限りの、いわゆる短期間のショートタームの関係では不評だったとしても、もっと長いスパンの、ロングタームの関係では、俺らは学生から評価を得ているわけで、それがある意味で大学教育と大学教員の本質的な部分なわけよ」そして兵藤の方を向いて言う。「兵藤学長。大学教員というのは、そういう長期的な視点から評価される必要があるんですよ。でも、最近の青葉大学は、理事長が強引に授業評価アンケートを絶対視して、そういった人間味のない、フェイス・トゥ・フェイスじゃない、無機質な評価システムで、大学教員の本質的な部分を抹殺しようとしているんですよ。兵藤学長には、そのあたりを改革して、学生から本当に慕われている教員、学生からニーズがある教員、学生の将来にしっかりとコミットする教員をちゃんと評価できるシステムを構築してもらいたいんです」

 水本の話を聞きながら、兵藤はおもむろに真剣な顔になっていく。
 真剣な顔で話しだした。
「そうですねぇ。たしかに、授業評価アンケートだけでは教員の評価は決まりませんからねぇ。学生のことを本当に考えている教員を引っ張り上げる仕組みが大事ですねぇ。うん、良いことを聞いたなぁ。とにかく、すべての教員が活躍できる大学にしなければいけないんですよ。一心不乱に学生の面倒をみることができる。そんな大学へと生まれ変わらないと、青葉大学にまとわりついている閉塞感は打破できません。あと重要なのは職員ですね。教員だけじゃダメで、職員が生まれ変わらないといけません。例えば、今ちょっと問題だなと思っているのは、学生課や就職支援センターですね。ここの人たちはまだ、学生の面倒を見る、ということに尽力できていませんよ。学生課なんて、今回来てくれている中村さん以外はホントに呑気にやってますよ。私が出した指示も、馬耳東風です。あれは田之浦理事長体制の弊害だと思います。こういうところも改革が必要です」

 水本は目をつぶって、腕を組みなおした。
「そうですよ。今回、兵藤先生が学長になれたのも、理事長派閥以外の先生方が、このまま理事長のやり方でやっていたのでは青葉大学は崩壊する。兵藤先生じゃないといけないと、そんな空気が充満していたんでしょうね」

「でも私は、もともと学内では嫌われ者でしたからねぇ。理事長とは馬が合わないし、よく当選できたよなぁ」

「兵藤先生のやり方を気に入らない人が多いのは知っていますよ。でも、それ以上に、青葉大学に対する危機感が教職員にあったんです。もうこうなったら、一回、兵藤先生に学長になってもらって、おもいっきり暴れまわってもらおうという意思表示じゃないですかね」そう言って水本はモンブランを食べ尽くした。

 藤堂はイチゴ大福を頬張りながら、オペラ歌手のように両腕を広げて言う。
「みーんな期待してますよ。兵藤先生やったら、なんかやってくれるんちゃうか、いうて。いっぺん、大学という枠組みをぶち壊してもえぇんちゃいますか? 皆、頭の中が古すぎるわ。よう分からん授業を展開しても、社会人になってから全然使えない人材ですからね。今までずっとそうやったんや、日本の大学は。私も、大学の授業なんて、これっぽっちも覚えてませんよ。これからの大学、そして未来の大学を考えて、私らの能力を使ってもらいたいですね。そのためやったら、私はこの身を喜んで捧げますよ。どんなドサ周りでもやりますから」

 水本は500mlペットボトルの三ツ矢サイダーを飲みながら、意気揚々と吠えた。
「よし、改革だっ。なぁっ、イノベーションを起こすぞ。面白くなってきたっ。青葉大学だけじゃなくて、日本の大学にイノベーションを起こそう。永山、橿原、お前らも頼むぞ」

 貝殻による螺鈿細工で鳳凰の図柄がほどこされた豪華絢爛な黒い漆塗りのテーブルに、永山と橿原はポテトチップスやせんべい、夏カラメルソースのプリンを展開した。
 イチゴ大福はとりあえず5つ転がしておいた。

「シュールっすね」と橿原は口に出して言った。

 その意味と笑いは、永山だけが理解した。


22時10分。
 橿原の部屋のドアを永山がノックしようとする。
 もう片方の腕には、一つ下の階の自動販売機コーナーに設置してあった製氷機から取ってきた、水割り用の氷を抱えていた。

「あっ、永山先生」
 そう言って声をかけてきたのは中村奈々未だった。
「これから何か飲まれるんですか? それ」
 氷の入ったボウルを指差している。

「あ、あぁ、そうなんです。これから橿原君と軽く飲もうかと思っていまして」

「そうなんですか。あ、じゃあ、私もまざっていいですか? お酒弱いですし、あまり長居はできないですけど、せっかく温泉に来ているので、ぜひ大学の先生方とお話してみたいんです」

 永山による測定結果は、1500ムスクだった。
 抑えた笑顔の瞳が透き通り過ぎててちょっと怖い。

「いいですよ。ウイスキーしかないんですけど、いいですかね?」

「はい。ぜんぜん」


 ドアをノックし、出てきた橿原に事情を説明する。

「お邪魔しまぁす。あ、橿原先生」と言って中村も入ってきた。

 夜はまだまだ肌寒い季節ではあるものの、館内は適温で維持されていて快適だ。
 夕食時には浴衣と半纏の姿だった中村は、今は長めの丈のハーフパンツにロングTシャツへと着替えている。
 畳の上で三角座りを崩して座った中村は、まるで体育会系クラブの学生のような印象を与える。
 なんとなくだが、女子バスケットボール部だろうか。
 30歳だと聞いていたが、ここに映る中村の姿はノーメイクであることも手伝って20代前半のような初々しさがある。
 永山が観測するムスク値は急低下していった。
 これが橿原の言う、「素朴」な中村なのだろうか。
 いやいや、こうやってムスク値をころころと変動させる能力があるのが中村奈々未だ。
 永山はそう自分に言い聞かせて注意する。

 永山としては、先程のメンバーで開催していた「甘い物を食べる会」への愚痴を橿原と論じようと思っていたのだが、中村がいる手前、それは控えておいた。

 話題はもっぱら、中村が所属している学生課での出来事や、そこでの笑い話や愚痴だった。


 水本誠二が客室内のトイレを使っていたので、兵藤芳裕は廊下のトイレに出て行った。
 藤堂道雄はリビングルームで、テレビのスポーツニュース番組を見ている。

 トイレから水を流す音が聞こえ、ドアが開く。
 水本がリビングルームに戻ってきた。
「おい、藤堂。兵藤先生はいるか? どこ行った?」

「さっきトイレに行くぅ言うて、出ていきましたよ」

「おぉ、そうか。それにしても、あの兵藤先生が連れてきた姉ちゃん、凄いなぁ!」

「あっ、あの葛西先生っていう人ですか」

「そうっ。あれ、気合い入ってるよなぁっ。なんだあれ。まるで神取忍かライオネス飛鳥みたいだったよなっ。俺、最初、駅で会った時、普通に男だと思ったぞ。なんだこのイカツいオッサンってな」

 藤堂も、テレビを見ながら大笑いする。「いやぁ、私もですわ。あれ、女ですか? 凄いなぁ。兵藤先生、なんちゅう人を連れてきたんや、て思いましたわ」

「けど、あれでも授業評価アンケートでずっとトップだからな。青葉大に、あんな女がいるなんて知らなかったな。でもな、どうせあのキャラクターが学生にウケてるだけだぞ。学生はそんなもんだからな。授業内容の面白さよりも、キャラクターの面白さに惹きつけられるだけなんだよ」

「まあ、そうでしょうねぇ。でも、兵藤先生は葛西先生を買ってるんでしょ?」

水本は新しく三ツ矢サイダーのボトルを開けて、それを口にする。
「兵藤先生、あんなのが趣味なのかな。気合い入ってる、神取忍かライオネス飛鳥みたいな女が」

 藤堂は笑い続けている。
 そしてテレビから目を離し、水本の方を向いて言う。
「いやぁ、そうかもしれませんねぇ。今回、兵藤先生が学長秘書として選んだ子も、あの浜本(はまもと)ちゃんでしょ? 前まで国際関係課にいた。あの子はあきませんわ。全然、華が無いもの」

 水本は大笑いする。
「藤堂からそんなこと言われたら、浜本も怒るぞっ」

「けど、やっぱり学長秘書っていうからには、やっぱりシュッとして色っぽい感じがせなあきませんでしょ? やっぱり秘書ですから。けど浜本ちゃんはダメだわ」

「そうだなぁ。浜本は仕事はメチャクチャ出来るけど、どっちかっていうとブサイクだからな。最近出てきた女芸人にちょっと似てるよな。なんて名前だったかなぁ。まあ、その点、今回来てくれた中村さんはいいよな。あれ、やっぱり色っぽいぞ。若いしな、仕事もできるしな。もう俺とか、あの子を眺めてるだけでチンコ勃ってくるからなっ。今日もそれを隠すのが大変大変。もう、俺の息子はフライングしてるかもしれんぞっ!」
 そう言いながら、水本は股間に手をあててみせる。

 藤堂はそんな水本を見ながら大笑いしている。
「いやぁ、水本先生も元気ですなぁ! えぇ、そうですねぇ。中村さんはえぇわぁ。今回、水本先生が呼んだんでしょ? さっすが水本先生ですねぇ。兵藤先生も、中村さんを秘書にしたら良かったのに。なんで浜本ちゃんなんでしょうねぇ」

「今、中村さん何してるのかなぁ。あっ、おい、藤堂! お前ちょっと中村さんの部屋に行ってこいよ」

「えっ! なんでですの」

「せっかくだから、一発やってこい。ここで子供作ってしまえ。華獄湯けむり子作りツアーだ!」
 水本は三ツ矢サイダーを一気に飲み干した。
「学科長なんだから、それくらいできるだろ。それともなにか、お前も葛西先生の方がいいのか? いいぞ! 葛西先生でもいいじゃないか! お前、葛西先生に布団の上でタイガー・スープレックスを決めてこいよ!」
 そう言って水本はさらに大笑い。
 そしてサイダーの炭酸がゲップとして爆音を轟かせた。




12:2012年5月9日