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月側並行編2
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第一章 受容井戸の縁
受容井戸は、月の都の喉に似ていた。
深く、円く、白い。 壁面には古い感応板が幾層にも埋め込まれ、そのどれもが、もう現代の保守官には完全には理解されていない順序で明滅している。 かつて人と物と記録を通した道。 切り離しのあと、長いあいだ祈りだけを通してきた道。 その喉が今、何百年ぶりかで、本来の働きを思い出そうとしていた。
かぐやは井戸の縁に立っていた。 下を覗いても、底は見えない。 見えるのは、黒より少しだけ薄い円の奥で、かすかに脈打つ光だけだ。
ユズルが監視卓から言う。
「外縁相互路、安定率五十七」
阿弥が補助盤へ手を置いたまま問う。
「保守限界は」
「現行設備なら六十八を超えると危険です」
「地球側の機体は」
「まだ細い道の中です」
かぐやが振り返る。
「細いまま来てるのね」
「ええ」
と、ユズルが答える。
「押し切るのではなく、こちらの揺れを見ながら合わせている」
かぐやは思わず、少しだけ笑った。
「らしい」
阿弥がその横顔を見た。
「信頼しているのですね」
「してる」
「地球を」
「地球全部じゃない」
かぐやは井戸の底を見つめたまま言う。
「来る人を」
その言葉に、阿弥は何も返さなかった。 返さないことが、この女なりの了承の仕方になりつつある。
第二章 白い者たちの会議
継唱院上層では、別の種類の静けさが広がっていた。
議場は円形で、壁一面に圧唱板が並んでいる。 発言者の声量に応じて光量が変わる仕組みだったが、今そこにいる保守官たちは、皆、声を抑えて話した。 怒りを見せることが秩序の敗北だと、長く教えられてきたからだ。
「首座は逸脱しました」
「禁書層を開いた以上、月の法はすでに汚染されている」
「地球由来の接触を受け入れれば、更生制度の正統が崩れる」
「執行官隊を再編し、受容井戸を閉鎖すべきです」
そのどれもが、理に見えた。 彼らは狂っているのではない。 むしろ正確すぎるほど、これまでの月の理屈に忠実だった。
ただ、その理屈は、壊れかけた都市を守るために作られたものであって、壊れかけた都市を変えるためのものではない。
議場の片隅で、若い保守官が恐る恐る言う。
「ですが、部材備蓄は三環以下で限界です。接続骨の新規移植率も上がり続けている。現行制度を維持するだけでも、いずれ」
年長の保守官が遮る。
「だからこそ、乱れを入れるべきではない」
若い官は黙る。 だが黙っただけで、消えたわけではない。 今の月では、沈黙の中にこそ亀裂が残る。
そこへ、外周監視から緊急報が入った。
「受容井戸の外縁に有人機体反応。首座補助認証、執行官維持認証、更生区画例外認証が重なっています。閉鎖命令、法的順位不明」
議場の空気が凍る。
「順位不明」
老保守官の一人が呟いた。
「そんなことが」
若い官が小さく答える。
「禁書層の旧行政権限が復帰したためです」
誰もその続きを言わない。 言えば、自分たちの立っている秩序の床が、最初から一枚板ではなかったことを認めることになるからだ。
第三章 月面更生区画の夜
更生区画には夜がない。 それでも、人の心には夜が来る。
受容井戸の下層から離れた居住列では、多くの更生個体が眠れずにいた。 白い寝台に横たわり、天井の変わらぬ光を見つめる。 記憶希釈室は止まっている。 調整薬の供給も絞られている。 感情は均されず、思考は一人ひとりの内側で久しぶりに角を持ち始めていた。
寝台の女が、かぐやに聞いたあの言葉を、また繰り返していた。
「再会」
それは月には長くない語彙だった。 戻る、補正する、収める、均す。 そういう動詞は多くあった。 だが再会は違う。 相手がいて、自分も変わっていて、前とは同じでないことを前提にする言葉だった。
一人の少年が、区画窓のない壁を見つめて言う。
「地球は、本当に土の匂いがするのか」
別の男が答える。
「知らん」
「お前、地球の映像片を見たことあるだろ」
「禁書層の断片だけだ。色が多すぎて、本物かどうか分からなかった」
「月は白すぎる」
誰かがそう言った。 それは不満ではなく、初めて自分の世界の色を外から言い当てた者の声だった。
更生区画の監視回廊では、執行官たちが沈黙のまま配置についていた。 彼らの身体には接続骨があり、手順の多くが半ば反射として染みついている。 だがその反射の向こうに、今夜は別の迷いが生まれていた。
もし地球から誰かが来るなら。 その者を個体として扱うのか。 侵入者として扱うのか。 それとも、失われた規程が言うように、来訪者として迎えるのか。
ユズルは巡回の途中で足を止め、窓のない壁に掌を当てた。 その向こうに地球があるわけではない。 だが今夜に限っては、何かがそこまで来ている気がした。
「来たら」
と、若い副官が訊いた。
「先任は、どうするのですか」
ユズルは少し考えた。
「先に名を聞く」
副官が戸惑う。
「名を」
「番号ではなく」
その答えを口にしたとき、ユズル自身が、前の自分から少し離れたのを感じていた。
第四章 阿弥の遅い決断
禁書層脇の制御室で、阿弥は一つずつ権限の組み替えを行っていた。
首座である彼女にしか触れられない認証板がある。 逆に、首座ではあるがゆえに、触れてはならないとされてきた板もある。 月の制度は、信仰に似ているくせに、人間の恐れに驚くほど忠実だった。
「そこを開くと」
とかぐやが言う。
「上層は、完全にあなたを裏切り者扱いするよ」
阿弥は淡々と答える。
「もうしているでしょう」
「そうだけど」
「違いはありません」
かぐやは制御盤にもたれた。 阿弥はまっすぐ前を向いたまま、低く言う。
「違いがあるとすれば、これ以後は私自身も、自分を首座だけとは呼べなくなる」
「怖い」
「ええ」
それを阿弥が認めたので、かぐやは少し驚いた。
「怖いの」
「制度にいる者が制度の外へ片足を出すとき、怖くないはずがありません」
「でも出す」
「今の月は、もう内側だけでは閉じられない」
阿弥は最後の認証板へ掌を置いた。
「更生区画外周門、来訪者規程に基づき一時転用」
制御室の空気が変わる。 壁内の圧唱板が、ほんの一拍だけ、典礼ではない調子で鳴った。 都市そのものが、自分の忘れていた法を思い出した音だった。
「これで」
と、阿弥が言う。
「地球から来る者は、侵入者ではなくなります」
かぐやは小さく息を吐く。
「あなた、思ったより思い切るね」
「遅いだけです」
阿弥が言う。
「思い切るまでが」
第五章 細い船
受容井戸の光は、次第に輪郭を持ち始めた。
最初は筋。 次に針。 やがて、白い闇の中に浮かぶ小さな種のような形。 月の都が過去に通してきた大型輸送器に比べれば、あまりにも小さい。 記録の中の戦闘艇にも似ていない。 むしろ、壊れやすい物を慎重に送り届けるためだけに考えられた、不格好な容れ物に見えた。
「……小さい」
と、ユズルが呟く。
副官が波形を読む。
「外皮材、月面規格に不一致。しかし局所的に同質。手動補正の痕跡、多数」
阿弥が言う。
「向こうで組んだのですね」
「おそらく」
とかぐやが答える。
その姿を見た瞬間、彼女の胸に、地球の工場の音がいくつも蘇った。 油の匂い。 鉄を叩く音。 澄江の声。 啓介の無愛想な返事。 帝人が数字を睨みながら、数字では済まないものに腹を立てていた夜。
「あれだ」
かぐやは井戸の縁へ一歩出た。
「迎えに来た」
誰に言うでもなく、そう言った。
だが船は、受容井戸の手前で一度、大きく揺れた。 相互路の位相が乱れたのである。 監視卓の光が赤に寄る。
「安定率、低下」
「上層から干渉」
「継唱院議場経由で閉鎖補助信号が流れています」
ユズルの声が鋭くなる。
「誰が出した」
「議場共同名義。封鎖賛成派です」
阿弥が、初めてはっきり怒りの温度を帯びた声を出した。
「遅すぎる」
かぐやが受容井戸へ手を伸ばす。
「どうする」
阿弥は即答した。
「受容井戸を開いたまま保ちます。ユズル、議場信号を副系へ落としなさい」
「法的には」
「あとで裁かれます」
「了解」
ユズルが走る。 副官たちも動く。 月の使いたちは命令に従っているようでいて、今この瞬間だけは、命令より先に判断へ踏み込んでいた。
第六章 地球への反応
月の都じゅうで、地球からの船の映像が共有され始めた。
公式映像ではない。 禁書層を経由して漏れた監視片。 保守官の端末から複写された外縁光景。 更生区画の副官が、こっそり寝台群に流した低解像の受容井戸映像。 禁止は広がる。 広がるから、なおさら見られる。
「これが地球」
「地球から来る物」
「戦闘艇には見えない」
「棺みたいだ」
「ゆりかごみたいでもある」
感想はばらばらだった。 ばらばらであること自体が、月には珍しかった。
上層の一部では恐怖が走る。 再接続は汚染だ。 来訪者は、忘却と争乱を運ぶ。 月が長く封じた不確定を、また中へ入れることになる。
だが別の層では、もっと静かな熱が広がっていた。
「あれが通れるなら」
「こちらからも、いつか行けるのか」
「向こうに、水以外の海があるなら」
「接続骨を増やさなくて済む技術があるなら」
地球は、もはや単なる古い敵でも、封じられた神話でもなくなりつつあった。 現実になり始めたものは、恐れと同時に欲望を生む。
阿弥は、それを分かっていた。 だからこそ、最初の受け入れを誤ってはならなかった。 歓迎しすぎれば、月は自分を売り渡したと感じる。 拒みすぎれば、月はまた自分の喉を締める。
必要なのは、細いままの受容だった。
「かぐや」
と、阿弥が言う。
「最初に会うのは、あなたです」
「うん」
「あなたは地球に迎えられ、月に戻った。両方の失敗を知っている」
「褒めてる」
「役目を押しつけています」
かぐやは少し笑った。
「それ、あなたの優しさだよ」
阿弥は否定しなかった。 否定しないことでしか守れないものが、今の彼女には増えていた。
第七章 接触
細い船は、受容井戸の縁で二度、三度と揺れたあと、ようやく月側の固定拍と噛み合い始めた。
中心部に見えるのは、手作業で継ぎ足された補助環。 月の機械なら隠すはずの縫い目が、あの船には隠されずに残っている。 不完全であることを恥じない構造だった。
「固定率六十三」
「限界に近い」
「これ以上待てば、向こうもこちらも持ちません」
かぐやは一歩前へ出る。
「開ける」
阿弥が頷く。
「来訪者規程第一条に基づき、受け入れ開始」
ユズルが制御輪を回す。 井戸の縁が低く唸る。 古い機構が、長い眠りから覚めるときの、不機嫌なような、しかしどこか嬉しそうな音だった。
白い闇の奥から、船体の先端がゆっくり現れる。
そこに傷があった。 焼けた跡。 削った跡。 月の都では、本来なら交換対象として処理される傷だ。 だがかぐやには、それがどうしようもなく懐かしかった。
「来た」
彼女はもう一度、そう言った。
船体が固定枠へ触れる。 一瞬、全照明が落ちる。 更生区画の遠い居住列で、小さな悲鳴が上がる。 継唱院上層で、誰かが閉鎖命令を再送しようとする。 真空と圧力の境目で、月の都全体が短く息を止めた。
そして、光が戻る。
「固定、完了」
ユズルの声が響く。
その瞬間、更生区画の奥で、誰かが拍手した。 たった一度。 月にはないはずの、歓迎の雑音だった。
だがそれは、すぐに広がった。 一人。 二人。 三人。 遠慮がちに、しかし止まらずに。 白い区画のどこかで、保守回廊のどこかで、月の使いたちの誰かが、初めて手を鳴らした。
阿弥が目を閉じる。 かぐやは涙をこらえず、笑った。
第八章 扉の前
船体の外殻が冷えていく音がした。
固定枠の前には、かぐや、阿弥、ユズル、その副官たちが立っていた。 武器は抜かれていない。 だが誰も、無防備でもなかった。 再接続とは、和解の美名だけでは済まない。 互いに恐れを持ったまま、それでも扉の前に立つことだ。
「内部圧、調整中」
と、副官が言う。
「あと九十秒」
かぐやは船体へ手を触れた。 冷たい。 その冷たさの向こうに、人の気配がある。
「啓介さん」
と、彼女はごく小さく言った。
「帝人」
名を呼ぶことが、ここではもう手順の一部になっていた。
阿弥が静かに訊く。
「怖いですか」
「うん」
「どちらが」
かぐやは少し考える。
「会えるのが」
阿弥はわずかに目を上げた。 それが理解なのか、驚きなのかは分からない。
「失うのが怖いのではなく」
「会えると、もう前のままではいられないから」
その言葉に、阿弥は返事をしなかった。 返せなかったのかもしれない。 月の制度の中で生きてきた者にとって、再会とは、秩序よりも不安定な出来事だ。
「三十秒」
ユズルが告げる。 声が少しだけ掠れている。
「受容井戸、安定」
更生区画の寝台群では、多くの者が映像板を見ていた。 上層議場でも、反対派の保守官たちが無言で監視映像を見ていた。 誰もが同じ一点を見ている。 月にとって、それだけで異常な夜だった。
「十秒」
かぐやはまっすぐ立った。 白い都市の中で、彼女だけが少し地球の色を持って見えた。
「五」
阿弥が脇に立つ。
「四」
ユズルが制御輪から手を離す。
「三」
副官たちが一歩引く。
「二」
船体の継ぎ目が、かすかに鳴る。
「一」
扉が、開いた。
第九章 同じ時刻
最初に見えたのは、光ではなかった。
人の手だった。 内側から、慎重に、しかし確かな意志で縁を押さえる手。 機械の手ではない。 祈りの所作でもない。 作業のために傷み、掴むために厚くなった手。
その手を見た瞬間、かぐやは、地球と月が再び繋がるとは、こういうことなのだと思った。
巨大な理念ではない。 戦争の終結宣言でもない。 まず一つの手が、もう一つの世界の縁を掴むこと。
啓介が最初に姿を見せた。 顔色は悪い。 重力差と加速の名残が全身に出ている。 それでも彼は、いつものように不機嫌そうな顔で外を見た。
「狭いな」
その第一声に、かぐやは泣きながら笑った。
「月だから」
啓介の背後から帝人が現れる。 顔は青いが、目だけは冴えている。 彼は阿弥とユズルを見て、一瞬だけ緊張し、それからかぐやへ視線を向けた。
「間に合った」
「うん」
「こっちは、ぎりぎりでした」
「こっちも」
阿弥が一歩前へ出る。
「来訪者として迎えます」
帝人が姿勢を正す。
「天城帝人です」
その名を聞いて、阿弥はほんの少しだけ頷いた。
「阿弥」
啓介がかぐやを見る。
「迎えに来た」
かぐやは答える。
「待ってた」
その言葉が言い終わるのとほとんど同時に、受容井戸の奥で、第二波の警報が鳴り始めた。 上層保守系統の一部が、まだ閉鎖を諦めていない。 再接続は成立した。 だが成立したからこそ、ここから先の争いが本当にはじまる。
ユズルが監視卓を振り返る。
「主系統、再揺動」
阿弥が冷静に言う。
「分かっています」
啓介が船の縁を掴んだまま訊く。
「ゆっくり話してる暇はなさそうだな」
かぐやは涙を拭いて、笑った。
「うん。でも、それでいい」
月の都はまだ白い。 更生区画も、継唱院も、禁書層も、何一つ片づいていない。 地球から来た二人も、月の内部へ一歩入ったばかりだ。
けれど、もう戻らない。 扉は開いた。 名は交わされた。 細い船は、たしかにここへ届いた。
かぐやは、啓介と帝人のあいだに立ち、阿弥とユズルのほうを見た。 月の者と地球の者が、同じ警報の中に立っている。
「行こう」
と、かぐやは言った。
「ここから先を、ちゃんと繋ぎに」
受容井戸の光が、背後で静かに脈を打つ。 それは終わりの灯ではなく、遅れて始まった同じ時刻の灯だった。
つづき >合流編1
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