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9:2002年7月24日

2:ステレオタイプな指導者



最高の訓練とは、完結した知識を習得することではなく、むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させることであり、また教育することなのです。
そうすることによって、生涯を通して、更なる精神的・学問的訓練が可能となるのです。
カール・ヤスパース『大学の理念』



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2002年7月24日(水)11時50分

南海大学 一宮キャンパス B号館(講義棟)3階

 天野優(あまのまさる)は、周囲のざわつきに気がついて目を覚ました。
 講義棟3階で最も広い大教室の右後方。
 天野は、自分が机につっぷして寝ていたことを思い出す。
「んっ、あれ? 終わったん?」
 眠そうな目をしながら、隣の橿原一如を見る。

 橿原はノートを書きながら言う。
「おお、天野、起きたか? ちょうどこれから、出席カードと授業評価アンケートだよ」

 授業評価アンケートとは、南海大学が今年度から始めた授業内提出物である。
 授業の理解度、満足度、分かり易さ、講義設備などに関する評価を、学生からマークシート方式で段階評価させるものだ。
 最近は日本中の大学で展開されているが、それを橿原が知るのは、もっと後になってからだった。

「ああ、この授業でも書くんかいな。また面倒なことしよんなぁ。なんでこんなもん俺らみたいな学生に書かせるん?」
 そう言いながら、天野は座ったまま小さく背伸びした。
「てか、めっちゃ暑っ。ここヤバいな」

 天野は、上半身こそ普通のスポーツTシャツを来ているものの、ボトムは野球用ジャージを履いていた。
 授業後、すぐに野球部の練習に行けるようにするためだった。

 実際、天野優は全国レベルの内野手だ。
 甲子園にもレギュラーで出場しており、南海大学でもクリーンナップを打つ主軸だった。
 しかし、南海大卒業時のドラフトでは残念ながら外れ、その年から四国で立ち上がった独立リーグのチームに所属した。
 その2年後、いっそのこと本場で挑戦したいと渡米し、3Aで3年間プレーするものの、そこで選手生活に見切りをつけて、現在は四国独立リーグの事務的な仕事をしていると聞いている。

 前の席からの手渡しリレーにより、出席カードと一緒に授業評価アンケート用紙が配られている。
 天野や橿原のところまで来るのに、だいたい1分ほどかかった。
 出席カードに名前を記入したあと、天野はすぐに授業評価アンケートに取り掛かった。
 科目コードと学年学科などを記入していく。
 他の授業でも何度か書いたことがあるので、記入方法は知っているのだ。

 一方、壇上では授業担当の教員が、記入方法の説明を、手にした説明書らしきものを見ながら機械的に話していた。

「なあ、橿原、こんなん意味あるんかなぁ? これ、あの先生らぁ、ちゃんと見てるん?」

「そりゃ、一応見てるんじゃないの。まあ、知らんけど」

「いや、絶対見てないでぇ。この授業だけでも200人くらいおるやん。それ、一枚一枚確認するん?」

「まあ、多分このマークのところの得点の平均値だけ見るんじゃないの? 知らんけど」

「平均値? そんなんで先生らぁは参考になるんかな? 俺が指導者やったら嫌やな、そんなん見せられても。それにな、学生からこんなもんとっても、授業のためになるんかな? 考えてみ、だってな、選手からアンケートとりながら指導してる野球部のコーチ、俺は知らんわ。そんなんで勝てるチームにはならへんやろ。だってな、指導してる人にしか指導することが分からへんのやろ? 選手はそれが何か知らんけど、とにかく何か役に立つことを指導してもらおうと思ってやってんねんからさ」

「だけどさ、一応なんらかのフィードバックは必要なんじゃないの。野球部とかのコーチは、指導してる選手の様子が見ててなんとなく分かるんだし」

「まあ、そうやけどさ、せやったら、授業やりながら学生の様子が分かるくらいの人数でやったらええんちゃうん? こんなだだっ広い教室で大人数でやってら、分かりようがないやろ。俺もこうやって寝てられるし」

「まあ、そのための授業評価アンケートなんじゃね?」

「そっか。なんか面倒なことやってんねんな。ほら、あそこ見てみいや。最後のコメント欄のところからめっちゃ書いてる奴おるやん。キモいわ、あれ。あんなに書くんやったら、直接言うたった方がマシちゃう?」

「まあ、無記名だからね。そこでしか主張できない奴もいるんじゃね?」

「せやったら、俺とかも書かんで出しても分からんよな」

「何書いても、お咎めはないでしょ。もともと」

「いや、そういうわけじゃなくて。俺一人くらい書かんでも、平均値なんて変わらへんよな」

「皆がそう考えるとだいぶ変わるんじゃね?」

「そうかぁ、じゃあ・・・、ま、全部3点にしとこ。あと、コメント欄のところに、『この授業では後ろの方で寝てる野球部がいるんで、来年からはガチコン、シバいたった方が良いと思います』って書いといたろか」
 そう言いながら、天野は3点の部分をマークしていった。
「はい、終わりぃっと。なあ、もうすぐテストやんか。橿原さあ、この授業のノート見せてくれへん?」

「ああ、でも、俺より伊藤の方がちゃんと書いてると思うんだけどね」

 天野は、橿原の前の席に座っていた伊藤淳司(いとうじゅんじ)の肩を叩いて言う。
「おい、なあ、伊藤。お前、この授業のノートきちんととってるん?」

 伊藤は振り返って答える。
「まあ、多分な。ある程度やれてると思うけどな」

「せやったら、それコピーさせてくれへん? もうさ、俺、この授業はほとんどノートとってないんやんか。もう丸ごとコピるわ。その方が早い」

「じゃあ、昼飯3日分な。今日から」

「おぉ、ええよ。じゃあ今日、何食うん?」

「Cランチ」

「はぁ? あかんて。Cランチはあかんわ」

「なんで? 一番高いからか? 値段が高いから奢らないってのは無しだぞ」

「ちゃうちゃう。Cランチはやめとけって。あれ、騙されてるって。お前、食堂のおばちゃんに騙されてるから。特にあのパンチパーマが激しくキマってるおばちゃんに騙されてんねん。なあっ、橿原、Cランチはあかんよな」

「ん? あぁ、Cランチねぇ・・。俺も頼まないなぁ」

 評価アンケートを記入していた伊藤は振り返って言う。
「え? Cランチの何がダメなの?」

「お前、Cランチちゃんと見たことあんのか? あれ、Bランチにハムカツとキャベツの千切り、もしくは鳥の唐揚げを刻んだやつのマヨネーズ和えが付いてるだけやん。それで150円アップやで。おかしいやん。騙されてるって。BとCでメインの料理を変えてるだけやん。Cは油モンが多いし。それにあのハムカツとか、スーパーとかのいっちゃん安いハムに、衣べったり付けて揚げてるだけやん。あかんて。それ食うくらいやったら、スペシャルカレーに小鉢3つ付けた方が同じ値段でもお得やって」

「なんでお前そんなに細かいところ見てんだよ。詳しすぎて気持ち悪いから」

「ちゃうやん、俺、これでも野球部のホープやん。体には気ぃつかってるんよ。メシは特に気ぃつけとかんと。っていうか、お前もテニスサークルやろ? ちゃんとしたもん食えって。テニス部に負けとったらあかんて」

「いいじゃん、何食ったって。それにテニス部には絶対負けるから。勝てるんだったらサークルやってねぇから」

「あかんて、そんなんじゃ。お前、1年のとき一緒にとってた栄養学の授業聞いてへんかったやろ。結局のところ、三大栄養素のバランスとアミノ酸スコアが大事らしいで」

「お前さ、野球部のくせになんで授業覚えてんだよ。野球部なら野球部らしく他の奴みたいに授業サボっとけよ」

「だからさっきまで寝てたやん。ちゃんと授業は聞いてへんからな。なんも分からんし」

 壇上の教員が声をあげる。
「おい、そこ。うるさいぞ!」

 天野と伊藤が答えた。
「すみませーん」




10:2012年4月9日