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10:2012年4月9日

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2012年4月9日(月)14時25分

 一条実咲は4限のゼミのために永山義春の研究室を訪れた。
 履修者の人数が1名ということもあって、研究室でゼミをやると永山から連絡が入っていた。
 今日から大学の授業が開始である。
 一条にとっては、短大とは違い規模の大きなキャンパスを歩き回ることに気分が高揚した初日だった。
 月曜である今日は1限と2限、そしてこの4限のゼミを履修している。
 3限の時間帯は、図書館や談話コーナーなどのエリアを見て回っていた。

 4限の開始は14時50分からだったが、早めに行っても問題ないだろう。
 永山がいなくても研究室の前で待っていればいい、と考えていた。
 細く暗い通路を通ってドアを開けると、中には永山以外にも2人の姿があった。

「あ、どうも、一条さんでしたっけ」と言ったのは橿原一如だ。

「ん? あ、そろそろ4限ですよね」と椅子を立とうとしているのは穂積里香。
 そんな穂積を、永山は制して座らせている。

 2人の大学教員を前に、やや緊張気味だった一条に永山が言う。
「この先生たちは同じ学科の先生ですよ。橿原先生には前に会ったよね」

 一条はペコペコとお辞儀をしながら対応する。
「はい、どうも。えぇっと、そちらの方は・・・」

「穂積と言います。よろしくぅ」
 穂積は片手を振っていた。

永山は、研究室中央部に置いている長机の上に散らかった資料を片付けながら、「一条さんはそっちにどうぞ。今ね、この人達とどうでもいい話をしていたんよ。だから気にしなくてもいいから」

 橿原がそれに続ける。
「ホントはどうでもいい話じゃないんだけどね。頭が良いはずの偉い人たちが、バカになっちゃってるって話だから」

 穂積が頬杖をつきながら言う。
「まあ、学生の前で話すことではないですからねぇ。っていうか、やっぱり私の言った通りじゃないですか。もうあんな連中と、プリンを食べるのやめたらどうですか? そのうち抜けられなくなりますよ」

 永山は頭を掻きながら、「分かってるんですけど、そんな簡単に抜けられんのよ。あともう一回くらい行ってからかな」と言っている。

 橿原は一条の方を向いて、「温泉旅行の話ですから」と笑う。

 永山が話題の切り替えを図った。
「それよりさ、一条さん、女子からの意見を聞きたいんだけどさぁ。この穂積先生をどう思う?」

「え? どう思うって、どういうことですか?」

「いやね、この人、キャットスーツとか似合いそうだよね、って」

「キャットスーツですか? なんですか、それ」と悩む一条。

「知らなくていいよ。調べる必要もないからね」と橿原が笑っている。

 穂積は呆れた顔をしている。
「永山先生、そういうのセクハラですよ。それに、なんで私がキャットスーツなんですか」

「いやさ、それこそ、さっき話してたこの大学のお偉いさんたちがさ、穂積先生をそういう感じで褒めてたから。で、僕もそう思うんよ。僕はキャットスーツが似合いそうだなぁって」

 橿原も続けた。
「あれですよね、穂積先生が真っ黒なキャットスーツ着て鞭を持って授業したら、多分うちの男子学生たち喜ぶんじゃないですか。その気のある奴等なんか、その場で靴舐めるかもしれないですよ」

「やめてください、気持ち悪い」
 穂積はしかめっ面をする。

「あ、橿原君、俺はね、黒じゃなくて紫がいいな。ちょっと濃い目の。穂積先生は紫だと思う」と永山が言った。

そこにスマホを見ながら一条が声を出す。
「あぁ、たしかにぃ。これ、穂積先生に似合いそう」
 一条はスマホでキャットスーツを調べたようだ。
「凄い、カッコいいですよね。なんかルパン三世の峰不二子みたいで」

 穂積は一条の方を向く。
「カッコ良くないよぉ。この人達が言ってるのって、もっと厭らしいやつだよ。峰不二子って鞭なんか持ってないでしょ」

 橿原はテーブルに肘を付き、いよいよ話にノッてきた。
「でもそれをやったら、穂積先生の授業評価アンケート、爆上げじゃないですか? 先生困ってるんですよね。授業評価アンケートがあんまり良くないって」

 一条は話の流れが分からなかったが、なんとか付いていこうと考えた。
「アンケートですか? なにかのアンケートがダメなんですか?」

 永山が口をはさむ。
「大学ではね、授業期間の最後の方で、授業評価アンケートっていうのがあってね。一条さんも短大のときにあったんじゃないの?」

「あ、はい。ありました。穂積先生、それで困ってるんですか?」

「まあね。よく『高圧的』とか『上から目線でムカつく』って書かれるのよ」

 橿原がそれに続ける。
「だ・か・ら、なんですよ。そこでキャットスーツ着て鞭持って授業すれば、この状況を逆手に取れるんです。しかも穂積先生ならぴったりです。『ほぉーらぁ、さっさとレポート書きな!』とか言って胸ぐら掴んでやれば、イッちゃう男子とかいるんじゃないですか」

「そんなことしても、高評価つける学生は一部ですよ。それに、女子には最悪じゃないですか」と穂積は呆れている。

 橿原は退かない。
「いやいや、考えてもみてください。この学科は男子の割合が圧倒的に多いんです。その男子さえおさえておけば、アンケート結果は好転するんです。さらに、M男が多い年度なら、評価は振り切れますよ。それに、そんな穂積先生のキャラを面白がる学生は男女問わず出てきますから、大丈夫」

「そんなの最早、授業じゃないですよ」
 穂積は怒り出した。

「もともと授業改善につながらないアンケートなんですから、そんなことは元より織り込み済みですよぉ」と橿原は笑いながら投げやりに言った。「ようは、測定値さえコントロールできればいいんです。授業評価上位常連の僕が言うんだから間違いありません」

 一条は驚きながら言う。
「四大の先生って、そんなことしないといけないんですか? 大変ですね」

 永山が笑いながら言う。
「え、いや、一条さん、僕らは半分冗談で話してるからね。本気にしないで」

 橿原が言う。
「でも、そのうち本気でやらないといけなくなるかもしれませんよね。特にこういう大学では」と真顔になった。

「それでさぁ、橿原君、こういう穂積先生は、何ムスクかなぁ? 俺はそこが謎なんよ」
 永山は話題を変える。

 橿原は悩んだ素振りをする。
「ん〜。・・・実はゼロムスクじゃないですかね。一見、3万ムスクくらいありそうなんですけど、その他の要因を含めるとプラスマイナスゼロってところじゃないですか」

 穂積が聞く。
「なんですか、そのムスクっていうの? なんか良い気分じゃないですよ」

 これに永山が答える。
「あぁ、あのね、俺らが院生の頃に考えてた単位なんだけどね。なんていうのかなぁ、測定評価が難しいんよ。一応の定義としては、『女性における自身の妖艶さの自覚度と、他者利用度および他者依存度から生み出される得点、ポイント』のことで。それを、俺らがその女性のルックスとか、立ち居振る舞い、あと直感から総合判断して得点化してます」

「は? なんですかそれ。結局、永山先生と橿原先生の女性に対する主観ですか?」
 穂積は不満そうな声だ。

 一条が聞いてみた。
「美人かどうかですか?」

 それを橿原が否定する。
「いや、違うんだよ。エロさとかセクシーさとも違う」

 体を少し前に傾けて、穂積が聞く。
「じゃあ、女っぽさですか? 女子力っていうやつですか?」

 永山がそれを否定する。
「いや、うーん、似てるけど。うん、やっぱ違うんよ。ムスクなんよ」

 穂積は呆れた顔をする。
「えぇー? 意味がわかりません」

「僕の大学院の先輩で、その人は女性なんですけど、ムスクを理解してくれましたよ。もともとその人は、ムスクのことを『女のそれ』って表現してるそうです」
 笑いながら橿原が言う。

 永山が解説を始めた。
「例えばさ、藤原紀香っているじゃない。あの人がピークのときで100万ムスクなんよね。極めて高い数値。ある意味、これが基準値だね。あとは、全盛期のカミラ夫人とか300万ムスクじゃない?」

「へぇ、じゃあ同じ人間でも、変動するんですね」

「そう、変動性があるんよ。一定ではない。そして、さっき橿原君が言ったように、美人かどうかとは違うんよ。例えば、深津絵里とかは、あれは低いね。あれだけのものを持ってても、50ムスクくらいだね。まあ、実際に会ったことがないから推定値だけど」

「じゃあ、永山さん、一条さんはどれくらいですかね。実際に知ってる人で例示した方が分かりやすくないですか?」
 橿原は一条の方を向いて言う。

 永山も一条を見た。
「うーん、・・・70、そう、70ムスクかな?」

 穂積が微笑を浮かべている
「一条さんは深津絵里より高いんですか? なんかバカバカしいです。私が3万で、一条さんは70なんですね。カミラ夫人が300万とか、落差激しすぎません?」

 永山は困った顔をする。
「生データだと、どうしても対数近似しちゃうからね。補正する方法を考えてるんだけど」

 橿原が続けて言う。
「あの人は分かりやすいと思いますよ。理事長秘書の土居さん。あの人は50万ムスクですね。藤原紀香の半分くらい」

 穂積の顔が少し明るくなる。
「ああぁー。はいはいはい、なんか分かってきました」納得と言った表情だ。

「逆に、学生課の鈴原さん、あの人はむしろマイナス100ムスクです。チュッパチャップスとかイチゴ牛乳が似合いそうですよね」

「いや、鈴原ちゃんはイチゴ牛乳じゃなくて、普通の牛乳が似合うと思うよ。瓶のやつ。でも橿原君、そう言えば土居さんってさ、最近ちょっと小ジワが増えてきてるでしょ。あれで1万ムスクくらいマイナスになってるよね」

「乳も垂れてきてませんか。もう結構歳ですからね。あれによっても1万ムスクくらいマイナスです」

 穂積がすぐに返す。
「ちょっとぉ。失礼じゃないですか。っていうか、私達を前にしてそんなこと言って、まじでセクハラで訴えられてもおかしくないですよ。なんですか、牛乳が似合うとか乳が垂れてるとか。完璧に変態ですよ」

 一条が笑いながら質問してきた。
「ムスクってどういう意味ですか?」

 橿原が答える。
「ああ、なんかジャコウのような匂いがするっぽいよねってことで、それで『ムスク』って名付けたんだよ。僕らの設定では、その元素はムスキウムっていうやつで、元素記号はMu。常温常圧では液体として存在してることになってます。1ムスクは、その女性が1分あたりに放出するムスキウムの個数です」

 すかさず永山も続ける。
「ただし、摂氏36.5度よりやや高めになると気体化して、その際に、これを浴びた男性には強いジャコウ臭を呈する幻覚症状が現れて、思わずアクセサリーとか車を買ってあげたい衝動が惹起されるんよ」と言って笑った。

「ちなみに、ムスクは暗い紫色で発光しています。ヒトにとってはほぼ不可視光ではあるものの、可視光と紫外線の間ギリギリの波長です」

「そう、たぶん、一部の虫とか動物は、ムスクの発光を識別できるはず」と永山が付け加えた。

「あれですよね、藤原紀香とか土居さんって、モンシロチョウとかにはドラゴンボールの超サイヤ人みたいに激しいオーラをまとった者として見えてるんですよね」と言って橿原は大笑いした。

「へぇー、よくもまぁそんな妄想をたくましくできますよね。院卒の男の人って、なんで皆そんな感じなんですか? 私がいた大学院の男たちも、院生室とかでずっと意味不明な妄想をして、2時間くらい無駄にしてましたよ。真面目に勉強しろって感じです。一条さん、こんなのがゼミの先生なんだよ。考え直した方がいいんじゃない?」

「ちょっとぉ、穂積先生やめてくれますか。貴重な今年の一人なんですから」

 穂積も笑っていたが、もう一言付け加えた。
「そうだ、じゃあ、学生課の中村さんとかは、何ムスクなんですか?」

 永山は腕を組んで考える。
「あぁー、あの人ねぇ。それこそ、ここのお偉いさんたちのお気に入りなんですよ。けど、難しいなぁ」

「中村さんって、私が先週ここに来たときに案内してくれた人ですかぁ?」と一条が聞いた。

「そうそう、あの人」と永山が答えた。

「すごく美人で格好いいですよね。めちゃくちゃ憧れます。中村さんって何歳なんですかね」

「たしか30歳ですよ。ちょっと前に、どっかで彼女と話したことありますから」と穂積が答えた。

 それまで考えていた橿原が口を開く。
「そうですねぇ、中村さんって、かなり低値じゃないですか? 10から20ムスクくらいだと思います。なんていうか、とても素朴な感じですよね。頑張り屋でしっかり者ですし」

 すぐに永山が返す。
「いや、あの人はめっちゃ高いよ。っていうか、橿原君、騙されたらダメだよ。あの人は場面に合わせて自由にムスク放出濃度をコントロールできる、超危険な人だと思うよ」

「えっ? そうなんですか?」と驚く橿原。

 そこに穂積が加わる。
「やっぱ永山先生もそう思いますか? 私もそこが興味深くて中村さんのことを聞いてみたんです。あの人、結構やり手ですよね。ってことは中村さん、橿原先生には、低ムスクに見せてるんですね。へぇ〜・・」と言って、わざとらしく流し目で橿原を見た。

「中村さんってさ、あれは女優の満島ひかりみたいなタイプだよね。色気とか品性とか性格とか、自由自在に演じ分けれるじゃない。あんな感じだよ中村さんは。ずっとムスク放出能力を隠しててさ、ある時、『私のムスクは53万です』とか言いそうだよ」

「フリーザですね」と橿原が返す。「そうなると青葉大学のなかでは、土居さん以上ということですから、まさに土居を超えた女、超ド級とも言えますね」

「あの土居さんでも50万なのに、53万だよ。猛烈なジャコウ臭だろうね。あ、そうそう、この前の卒業式のあとの謝恩会でもさ、橿原君としゃべってた時には普通な感じだったのに、事務局長とか理事会の輪に入っていたら、途端に妖艶な感じになってるんよ。いや、凄いよ。なんかね、首の動かし方とかがヤバいんよ。しかもさ、あの謝恩会という場に出席する大学の事務員として不自然ではない、絶妙なドレスアップをしてきてるよね。地味でもなく、派手でもなく、それでいて強烈にエロいっていう。極めて高度な手法で男心をくすぐるよね。見てて恐ろしかったもん」

 橿原が言う。
「ってことはそれ、永山さんはパーティーの間、ずっと中村さんを追いかけてたってことですか」

 穂積も付け加える。
「気持ち悪いですよ、永山先生」

 永山は笑いを堪えながら言う。
「そう、そういうことなんやけどさぁ、やっぱりムスク研究者としては興味があるでしょ。中村さんは非常に貴重なサンプルだよ。それにさ、これも興味深いことなんだけど、大学事務って必ずこういうタイプの人が一人はいるよね。なんでだろうね」




11:2012年5月5日