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40:2013年2月12日

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2013年2月12日(火)13時05分

 青葉大学のウインタースポーツ実習が始まっている。
 今日で2日目だ。

 宿泊に使っているホテルの窓からは、一面の銀世界が広がっていた。
 今日は午前中から晴天で、絶好の実習日和だと教員たちは喜んでいる。
 そんな良好なコンディションであるが、このホテルには人影は少ない。
 青葉大学の実習以外の宿泊客がいないからである。
 ホテルの人曰く、最終日までは貸切状態だという。
 最終日はスキー客やその日の宿泊客が入ってくるため、その点は注意が必要との連絡があった。

 穂積里香は、そのホテルのフロント前にあるロビーでノートパソコンを操作していた。
 スキー実習グループと、スノーボード実習グループでの班分け調整である。
 事前に経験日数でおおまかに分けた班を、現地で技術レベル別に再度調整する作業だ。
 履修学生は全部で約100名。
 スキー実習が70名で、スノーボード実習が30名だ。

 スキー実習を指導するのは、そのほとんどがウェルフェアプロデュース学科の教員である。
 穂積もその一人だった。
 一方、スノーボード実習は4名の指導員しか現状では用意できていない。
 スノーボード実習の方が学生からの履修希望者が多いのだが、一人の教員あたり履修者7〜10名が相場であるため、この人数割合になっている。
 履修倍率はスキー実習が1.2倍だが、スノーボード実習は4倍ほどある。

 あまりに歪なので、ゆくゆくはスノーボード実習の定員を増やそう、などという話が出ている。
 そういった学科内での議論を、穂積は興味を持たずに聞いていた。
 実際、穂積はスキーやスノボが得意ではないし、できれば避けたいと思っているほどだ。

 班分け作業を終えると、次は携帯電話を取り出す。
 穂積のゼミ生である萩原香代に電話を入れた。
 実習業務より、こっちの電話の方が自分らしい仕事だと、自己暗示に似た何かをかけている気がする。

 現状では、ほぼ間違いなく萩原の卒業は不可能。
 その決定は2月25日に出るから、来年度のことについて家族とも相談してほしい、といったことを言付ける。

 また、これはまだ調整中で確定ではないのだが、萩原が単位未習得にしている卒業必修科目2件を、2013年度の春学期にまとめる案も出ている。
 これは永山義春が提案していた。
 この時期ではかなりアクロバティックなカリキュラム変更になるが、この方法であれば、萩原を9月卒業という形にすることが可能で、半期分の学費納入で済ませられるという配慮だった。

 永山がこの案を学科会議で出したところ、前学科長の増田信吾と、現学科長の藤堂道雄が難色を示した。
 増田は、こうした前例がなく、昨年にも同じケースがあったため、今年の萩原にそうした対処をするのは公平性に欠けるという理由だった。

 藤堂は永山の話している内容そのものが理解できなかった。
 特に、カリキュラムやセメスターなどという単語の意味がまるで分からなかったことが理由だった。
 結局、カリキュラムと授業の違いは理解できていない。

 しかし、その方が学生に優しい、今後の学生のためになると訴えることで、この方法を進めることになっている。

 ただし、「言い出しっぺがなんとかしてくれ」という、学科内教務担当でもあるはずの藤堂道雄の要請により、このカリキュラム変更手続きについては永山が受け持っている。
 今もきっと永山が教務課と話をしているはずだ。
 昨日も、教務課長の羽山から、2件のうち1件については、授業担当教員から春学期に移すことについてOKが出たとの報告があった。

 ただ、永山と教務課の羽山のこうした努力は、萩原が来年度も授業を履修することを前提としているものだ。
 もし萩原が来年度は休学、退学などと言い出したら、このカリキュラム変更は年度末の混乱を引き起こしただけの行為となる。
 かなりリスクのあることなのだ。

 穂積は、このカリキュラム変更がまだ確定的ではないことを踏まえた上で、萩原にそうした永山と羽山の現在の労力を、メールと電話で知らせた。
 押し付けがましい話だとは思うが、一人の学生のために、これだけのエネルギーが注がれていることを、学生には知ってもらいたい気持ちが強かった。

 萩原との電話を終えた穂積に、一人の男がコーヒーカップを持って近づいてくる。
 スノーボード実習の指導担当をしている、非常勤講師の堀内昌利(ほりうちまさとし)である。
 58歳であるが、それほど背は高くないものの、ガッシリとした体格に日焼けした肌がその年齢を感じさせない。
 普段は扶桑大学に勤務している教授で、青葉大学のウインタースポーツ実習の非常勤講師を、かれこれ20年以上勤めてくれている。
 以前はスキー実習を担当していたが、青葉大学がスノーボード実習を立ち上げた際に、そちらの教員を受け持った。
 もともとスキーよりもスノーボードの方が得意なのだという。

「どうも、穂積先生、お疲れさんです。ここえぇですか?」
 堀内は穂積が座っていた隣の、小さな丸形テーブルを指差す。

「あっ、堀内先生、どうぞ」

 ホテル内は暖房がよく効いているため、堀内は季節感がないほどの薄着だった。
 コーヒーカップをテーブルに置くと、堀内はボリュームのあるソファ型の椅子にゆったりと座る。

「それにしても、実習の主任をやってるっちゅうのに、いろいろ大変そうですねぇ。学生との電話ですか? あ、すんません、聞き耳を立ててたわけやないけど、ちょっと耳に入ってきたもんで」

「はい、ちょっと学生の卒業についてトラブルがありまして」

「ああ、ほんまそれは大変ですねぇ。穂積先生も、気を休める時間がないんとちゃいますか? 休める時に休んどかな、そのうち倒れまっせ」

 堀内は藤堂道雄の先輩にあたる人だという。
 2人は郷里が一緒ということもあって、昔から強い先輩後輩関係がある。
 藤堂は、青葉大学に赴任する前は非常勤講師生活を続けていた。
 その時代、堀内には非常勤先をたくさん斡旋してもらっており、藤堂は、堀内の存在によって生活できていたと言っても過言ではないとされている。

 また、前学科長の増田も堀内には頭が上がらない。
 青葉大学におけるカリキュラム調整やイベントで困った時は堀内にお願いして、非常勤講師やゲスト講師など、なにかと無理な注文を聞いてもらっていたようである。

「けどまあ、穂積先生がこの実習の主任っちゅうのも、また思い切ったことしよりますなぁ。たしか先生って、専門はこういうのとちゃいますやろ?」

「はい、まあ、舞踊学ですかね。ダンスです。厳密には心理学が専門と言えるかもしれません」

「なんでまたぁ」
 そう言って堀内はコーヒーを一口飲む。

「うーん、まあ、若手のための経験づくりってことらしいんですけど」

 堀内は軽く笑い、下唇を少し噛んで言う。
「藤堂先生やろ?」
 わずかに舌打ちが聞こえる。
 コーヒーカップを置いて、腕組みをしながら言う。
「アイツはほんまに、どうしたんや。昔はあんな奴じゃなかったんやけどな。あれでも昔は、明朗闊達を絵に書いたような奴で、学生からも人気があったんやで。それがなんや、青葉大学に入って専任になって。そんな時からおかしなってきたんや。ここ最近はほんまにアカンわ。学科長になったんも、それに拍車をかけたんやな。なんでアイツが学科長やねん。適材適所として一番アカンやろ」そう言って笑う。「いや、アイツが全くダメやって言うてるんやないねん。藤堂は学科長をやるような器でもないし、そもそも学科の中心メンバーとして動けるような奴やないねん。それは本人も自覚しとかなアカンし、それは、まあ、そうやなぁ、増田先生あたりが配慮せなアカンことなんかもしれんしなぁ。とにかく、藤堂は淡々と授業をやってるような場所が似おうとるんや」

「でも、大学の教員は、授業だけやっていればいいわけじゃないですよね」

「うん、分かるで。穂積先生が言いたいことも分かるんやけど。けど、大学の教員はそれぞれ得手不得手というものもありますでしょ。0か100かで話ができるわけでもないんですよ。そらぁ、大学教員としての理想的な能力っていうもんも、頭の中で想定はできますよね。でもそれは、やっぱりそいつの頭の中でつくったもんに過ぎませんよ。現実には、そうはいかんでしょう。そうはいかへんから、皆で協力して、お互いを補い合って。そして、学生が卒業するとき、『あぁ、なんかこの大学で学べて良かったなぁ』っちゅう感じのものを与えることができたら、それでえぇんちゃいますか。なんか、私みたいな人間からしたら、世の大学の先生の多くが、『オレ一人がいれば大学教育の全てを授けられる』っていう態度でやり過ぎてるんちゃうかって思いますねぇ。うぬぼれっちゅうやつですわ。とてもじゃないけど、そんなこと出来へんもん」

「そうかもしれないですよねぇ。でも、藤堂先生はどんなところで活躍できるんでしょうか」

 それを聞いて、堀内は大きく笑う。
「藤堂先生は、おもろいオッチャンでいてくれたらえぇんちゃいますか? それが本人のためでもあると思いますし、学生にとってもそれでえぇと思いますよ。考えようによっては、学生の社会勉強になりますよ。あんなアホな奴が、大学でフラフラしてんのも。害にならんように周りが調整したったら、それでえぇんですよ。アイツも変に気負うからアカンのですよ。せやから、やっぱりどっかのタイミングで自覚してもらわなあきません。私もアイツには何度か言うてんねんけどな。うーん・・・、アカンのですよ」

「堀内先生は、何を言われてるんですか?」

「いえね、ちょっと権力とか権威とか、人から羨ましがられることを目指し過ぎなんちゃうかって。もう、最近はそのまま直接言うてますよ。お前、そんな奴やなかったやろって。アイツにそんなこと言えるんも、僭越ながら、今じゃ私だけやろうな、っていう気もするしね」
 そう言ってコーヒーカップを手に取り、そして時間を使って飲んだ
 溜息。
「・・・、でも、まぁ、それが彼の正体、本性ってことなんかもしれへんしなぁ」
 穂積の方を向いてニコリと笑い、テーブルに置いたコーヒーカップを凝視する。
「大学の専任教員に、どうしてもなりたかったんやろうなぁ。そのために、泥水すすって生きてきたと、本人は思ってるんやろ。で、そうした自分の努力が認められて、今の地位がある。この今の自分の地位は、自分がしてきた努力の結果やと」
 そしてまた穂積の方を見ながら言う。
「たぶんですけど、彼にとって、非常勤講師で生活してきてない穂積先生とか、あと橿原先生とか永山先生みたいな若手に対しては、しょうもないコンプレックスがあるんとちゃいますか。せやから、君らに簡単に専任教員をやられてもらっては困るんですよ。自分より地位が低いやつが、自分よりも能力や成績が高くてはいけない、そんなふうに考えてるように感じますね。で、君らがミスをしそうなこと、困りそうなことをふっかけることに尽力して、大学全体のこととか、学生の利益になることは考えられへんようになってるんちゃいますか。せやったら、ほんま、しょうもない話やで」

 コーヒーを飲み終えた堀内は、午後の準備があるということで部屋に戻ろうとする。
 そこにちょうど藤堂が現れた。

「あ、堀内先生、どうも。コーヒーですか? 午後も、晴れますね。えぇ天気やわぁ」
 そう言って窓の外を眺める。
 そして振り返って言う。
「堀内先生、この穂積先生に教えたってくださいよ。実習主任としての仕事を。この子もまだまだ若手なんでね、まだまだですわ」

 堀内はニヤつきながら言う。
「そんなん俺が教えることちゃうやろ。お前が教えたれよ。けど、お前が主任やってた時より、今年の実習は快適やで」と言って笑った。

「いやいや、堀内先生。私も学科長になって大変ですわ。学科長になるんわ、ほんまにほんまですわ」
 藤堂はそう言って笑い返す。
「ほな、私、ジュースを買ってこなあきませんので、ほな」と言って玄関を出ていく。

「ジュースて、そこに自販機があるやろ」
 堀内はそう言って、穂積の方を向いて笑う。
「あかんな。もう完全におかしなってるわアイツ」


 ちょうどその頃、青葉大学事務の学生課では、各クラブ活動の決算報告の作業が終わりかけていた。
 学生課長の高石昇は、それらの書類を整理してファイリングしようとする。
 そこに、先日一悶着があったテニス部の備品購入リストが開いてあった。
 ボール代とトレーニング器具代として計上されている書類だが、購入元や設置場所の記述に不備があるものだった。
 こういう場合、学生課は学生たちに指示を出さなければならない。

「これ、現物確認が必要なものだねぇ」
 高石は、一緒に作業していた学生課員に向かってつぶやいてみる。

 その一人の課員が返事をする。
「そうなんですか? でも、10月のものですから、だいぶ経ってますよね」
 書類を覗き込んで言う。
「あぁ、これですね。これって結局、テニス部監督の藤堂先生が『ボールは他のところで使ってるから今はここにない。トレーニング器具は学生一人ひとりに渡して自宅で使用させているからここにない』って言ってるうちに、もう面倒になって、現物確認が放ったらかしになったやつだと思いますよ」

 高石は目をパチクリさせながら言う
「え? そうなの? でも、一応確認しないとね。どうしてこんな書き方なんだろう。テニス部の主務の子ってさ、えぇーと・・・」

 課員の一人が答える。
「岸本さんですよね。4年の」

「そうそう、あの子、しっかりしてるのにねぇ。なんでこんな書き方なんだ? うーん、どうしようかなぁ。もうだいぶ時間が経ってるけど・・・」