注目の投稿

湾岸猿蟹仁義――柿ノ木ビル血風録

第一章 おにぎり一個、街ひとつ


湾岸市の南のはずれ。
海と高速道路とパチンコ屋のネオンが、どれも同じくらい胡散臭く光る埋立地に、蟹田組の事務所はあった。

古い二階建てのプレハブで、玄関には
「誠実」
「安全第一」
「暴力追放」
と書かれた看板が三枚ぶら下がっている。

ただし、誠実も安全も暴力追放も、ぜんぶ文字だけが先に就職してきたみたいな雰囲気だった。
看板の下では、若い衆が金属バットのそばに軍手を干していたので、標語の説得力はだいぶ死んでいた。

組長の蟹田剛三は、横に広い男だった。
背が低いのではない。肩幅と威圧感と怒鳴り声が、全部横へ横へ育ちすぎた結果、世界の方が狭く見えているだけである。

その日、若い衆が紙袋を差し出した。

「組長、今日の上納です」

蟹田が袋をのぞく。

「……なんじゃこりゃ」

「現場の親方が、祝い事じゃけえって」

紙袋の中に入っていたのは、現金でも拳銃でもなく、ひとつの巨大なおにぎりだった。

コンビニおにぎりではない。
炊き出し班が米五升を本気で握り、海苔にも気迫を乗せてきたような、尋常ではない質量のおにぎりだ。

「中に梅干しと昆布と、あと現金も入っとります」

「現金入れるなや。食うとき嫌じゃろうが」

「食いづらさ込みで縁起物らしいです」

「縁起に食感を混ぜるな」

蟹田は呆れながらも、おにぎりを片手に機嫌よく倉庫街の裏道を歩いていた。
空は晴れ、潮風はぬるく、遠くで誰かが角材を持って誰かを追い回している。
平和な午後である。

そこで声をかけたのが、猿渡一家の総長、猿渡桃次郎だった。

「おお、蟹田の親分やないけ。えらい景気のええもん持ってまんな」

猿渡は背が高く、スーツは派手で、靴のつま先だけが必要以上に尖っていた。
尖った靴を履く男は信用できない。
そこまで攻撃的なつま先にする必要が、人生のどこにあるのかよくわからないからだ。

「なんじゃ、猿渡。わしのメシを見てよだれでも垂れたか」

「いややわ、親分。そんな浅ましい猿みたいなこと言わんといてくださいよ。今日はええ話を持ってきたんですわ」

「おまえのええ話は、だいたい誰かの悪い話じゃ」

「せやけど儲かる」

「もっと悪いのう」

猿渡は胸ポケットから、小さなジップ袋を取り出した。
中に入っていたのは、柿の種だった。

「煎餅か」

「ちゃいますやん、種ですやん」

「見た目がつまみなんじゃ」

「親分、凡人はつまみと見る。わては未来と見るんです」

「未来がピーナッツ抜きなんか」

「これが、柿ノ木再開発構想の種ですわ」

猿渡は、湾岸東の倉庫地帯が今後「緑化特区」として再開発される見込みだと語った。
そこに一本、象徴になる木を植えれば、助成金、補助金、地域振興、メディア露出、カフェ連携、地元コラボ――いろんな利権が寄ってくるという。

「木ぃ一本が、ビル一棟に化けるんですわ」

「おまえの話はいつも、途中から地面と金の区別がなくなるのう」

「せやけど、夢はある」

「ヤクザの夢はだいたい他人の悪夢じゃ」

それでもその日、蟹田は少しだけ気分がよかった。
差し入れは豪華だし、空は晴れているし、昨日の歯医者で「思ったより歯ぐきが丈夫ですね」と褒められた。
人間、歯ぐきを褒められた日は判断が甘くなる。

「よし。替えたる」

「毎度おおきに!」

「ただし、育たんかったら次に会う時は耳から海苔巻くぞ」

「脅しが衛生的なんか非衛生的なんかわからへんな」

こうして蟹田剛三は、巨大おにぎりを手放し、柿の種ひとつを手に入れた。

その日のうちに、蟹田組は事務所裏の駐車場の隅に種を植えた。
神棚から酒を持ち出し、

「実れ、利権」

「伸びろ、シマ」

「成れ、不動産」

と若い衆が唱えながら水をやった。
水の半分は酒で、残り半分は現場から回ってきた牛糞田清掃興業の有機肥料だった。
成分表示が読めない色をしていたので、何かではあった。

翌朝、芽が出た。

翌々日、三十センチになった。

四日目、二階の窓に届いた。

十日後、柿ノ木は蟹田組の屋根を突き破り、電線を避けながら、近隣住民から「木というより意志」と呼ばれる高さまで育っていた。

「なんじゃこりゃ……」

「組長、成長速度が法に触れとります」

「木に適用される法は、だいたいまだ人類が整備しとらん」

やがて実がついた。
それも、たわわに、図々しく、空へ向かって「勝手に食え」と言わんばかりに実った。

地元テレビが来た。
市役所の緑化推進課が来た。
税務署まで来た。

蟹田組は一夜にして、
「街に潤いをもたらす地元有志団体・蟹田グリーン促進会」
として取材されるようになり、事務所前には柿ソフトクリームの屋台まで出た。

組員が拳銃の手入れをする横で、女子高生が写真を撮る。
教育に悪い観光名所である。

問題が起きたのは、柿が熟した日だった。

猿渡桃次郎が、十数人の若い衆を引き連れて再びやってきたのである。

「いやあ親分、育ちましたなあ。わて、感無量ですわ」

「おまえの感なんぞ量る気もない。何しに来た」

「そらもう、収穫権の確認ですやん」

「なんの権じゃ」

「最初の種、誰が渡しました?」

「おまえじゃ」

「せやろ。ほな元手とうちの知財ですわ」

「柿に知財があるか!」

だが猿渡は返事も待たず、するすると木に登った。
登り方が腹立たしいほど軽い。
猿みたいだった。いや、猿である。

「おおー、ええ色や! ほな先に味見、いかしてもらいますわ!」

熟した柿を次々ともぎり、自分の若い衆に投げる。
下では猿渡一家が大騒ぎしていた。

「会長ナイスキャッチ!」

「糖度えぐいですわ!」

蟹田組が止めに入ると、猿渡はわざわざ硬い青柿を選んで投げ始めた。

一発目が若頭補佐の額に当たり、男は
「果物の打撃力が想定超えです!」
と叫んで倒れた。

二発目が看板を割った。

三発目が蟹田の肩に直撃した。

「いったぁッ! おまえ、青柿は鈍器じゃろうが!」

「食べ頃前のもんには、食べ頃前の使い道がありまんねん!」

猿渡は枝を揺らした。
青柿が雨のように降ってきた。
屋台の柿ソフトは吹き飛び、観光に来ていたカップルは
「思ってた“映え”と違う」
と言って逃げ帰った。

蟹田が木の根元へ走った、そのときだった。

上から、石臼が落ちてきた。

なぜ木の上に石臼があったのか、あとで誰に聞いてもわからなかった。
「雰囲気で持って行った」
という証言が一番それっぽかったが、雰囲気で石臼を持ち歩く集団がいたら、もうその時点で公共の敵である。

石臼は蟹田のすぐ脇に落ち、地面を砕いた。
跳ねた衝撃で蟹田は吹っ飛び、屋台の幟に絡まりながら駐車場へ転がった。

「組長!」

「親分!」

「救急車!」

「いや待て、救急車呼ぶと説明が面倒じゃ!」

蟹田剛三は、頭部打撲、肋骨骨折、全身打撲で病院へ運ばれた。
命に別状はなかった。
ただし、医者に「なんで石臼が?」と三回聞かれ、三回とも「わしも知りたい」と答えるしかなかった。

病室で、包帯だらけの蟹田はベッド柵を握りしめた。

「……猿渡ぁ。ようもわしを舐め腐りよって」

「組長……」

「わしが立てん間に、組を木陰扱いしよって」

「子蟹らは、みんな怒っとります」

「怒るだけじゃダメじゃ」

「へい」

「笑えるぐらい徹底してやれ」

「へい?」

「猿を、笑われながら転がせ」

「方針が独特ですね」

「任侠は顔じゃ。笑われた方が負けなんじゃ」

病室の外では、蟹田組の若い衆――通称子蟹班が、無言で拳を握っていた。
ここから、湾岸市の猿蟹合戦が始まる。

しかも、だいたい全員が途中で話を盛るので、事態は最悪の方向へ、妙に賑やかに転がっていくのである。

第二章 子蟹会議と、ろくでもない義兄弟たち


蟹田組の二階会議室には、長机が三つ、パイプ椅子が十四脚、灰皿が八個、監視カメラが四台、盗聴器が六つ仕掛けられていた。

そのうち監視カメラ一台と盗聴器三つは、蟹田組が自分で設置したものだ。
残りは他所の組が仕込んだもので、さらにそのうち二つは
「盗聴器があるか調べるための偽盗聴器」
だった。

この街では、信用できない相手を調べるために、まず信用できない機械を疑う必要がある。

子蟹班の中心にいたのは、蟹田の甥にあたる蟹田ツメ次だった。
若いが短気で、短気だが妙に几帳面で、几帳面なくせにいつもスーツのボタンがひとつずれている。
人間として、惜しい場所に全力を出していた。

「親父分がやられた。この落とし前、どうつける」

「カチコミじゃ!」

「すぐカチコミ言うな。頭使え」

「兄貴もすぐ頭突きしますやん」

「それは頭を“使う”の中に入るんじゃ」

ツメ次の向かいには、腹心のハサ美とシオ丸がいた。
ハサ美は細身で切れ者、ハサミみたいに口が悪い。
シオ丸はでかくて涙もろく、怒るとすぐ机を塩対応みたいな顔で叩き割る。

ハサ美が資料を広げる。

「猿渡一家は今、湾岸東で“柿ノ木ビル計画”を進めとる。行政も半グレも怪しいコンサルも、だいたい噛んどる。真正面から行ったら泥試合や」

シオ丸が頷く。

「泥試合なら、うちらの得意分野じゃろ」

「港の土砂利権で育っとるけえのう」

「その泥じゃない」

ツメ次は煙草をもみ消した。

「真正面やない。原作通りやる」

「原作?」

「猿蟹や。猿にやられた蟹が、仲間集めて仕返しする」

「兄貴、昔話で落とし前つける気ですか」

「昔話いうんは、生き残った理不尽が物語の顔しとるだけじゃ。使えるもんは使う」

そしてツメ次は、四つの名前を口にした。

蜂須賀連合。
栗林愚連隊。
臼岩会。
牛糞田清掃興業。

聞いた瞬間、全員が嫌な顔になった。
怖い相手への嫌な顔、面倒な相手への嫌な顔、そして
「なんで味方候補がそんな変なのばっかりなんですか」
という、人生そのものへの嫌な顔である。

「兄貴、あいつら全員ろくでもないですよ」

「知っとる。ろくでもないから使える」

「まともなとこは?」

「まともなとこはヤクザやっとらん」

最初に会いに行ったのは、博多港上がりの情報屋集団、蜂須賀連合だった。

表向きはネイルサロン、裏向きは恐喝、盗撮、裏帳簿回収、ドローン監視、鍵開け、SNS炎上代行まで請け負う、現代社会の湿気みたいな組織である。

会長の蜂須賀針児は、金髪に細眉、紫のスーツで、語尾だけが妙に艶っぽかった。

「ほう、蟹田さんとこの子らが、うちば頼りに来たとね」

「頼る言うか、貸し借りの相談じゃ」

「よかよ。猿渡んこと、うちも前から好かんかったっちゃん。あいつ、うちのシノギで飛ばし携帯卸しよるくせに、支払いだけ“来月の風向き次第”言うたとよ。風向きで決済するなっち」

「協力してくれるか」

「条件次第ばい」

「言うてみい」

「あとで刺してよか?」

「程度による」

「ほんなら遠慮なくいくばい」

次に向かったのは、山間の廃ボウリング場を根城にする半グレ集団、栗林愚連隊。

頭の栗林ボン太は、赤い特攻服の背に
「一撃必笑」
と刺繍された男だった。
必殺ではない。必笑である。

「ほう、猿渡をシバくきか。面白いのう」

「力貸せ」

「ええけんど、うちら正面から殴るんは好きやないき」

「半グレが何を言う」

「正面から殴るんは、だいたい相手も殴り返してくるきの。めんどいろうが」

「じゃあ何が好きなんじゃ」

「勢いつけて転ばせる」

「人として嫌な才能しとるな」

「しかも派手に転んだら、みんな笑うきのう。戦いは、勝つよりウケる方が長う語られるぜよ」

三組目は、建設利権と解体業を握る臼岩会。
会長の臼岩盤十は無口な巨漢で、コンクリート色のスーツを着ていた。
似合う似合わない以前に、もはや景観だった。

「……猿渡か」

「おう」

「……嫌いだ」

「理由は」

「……軽い」

「それだけか」

「……それだけで十分だ」

最後に、もっとも会いたくない相手が残っていた。
牛糞田清掃興業。

名前からして会いたくない。
口に出すたび、会議室の空気が一段階だけ農業寄りになる。

社長の牛糞田ぬかるみ太郎は、酪農家上がりで、産廃、肥料、残土、飼料、浄化槽メンテナンスまで手を出す、湾岸市の「地面に近いところ」をだいたい支配している男だった。

「おう、蟹田んとこか。ひさしぶりじゃの」

「世話になっとる。肥料の件でものう」

「はっはっは。あれは効いたろう。効きすぎたが」

「笑いごとじゃない」

「笑わんと、うちの名前で商売できんたい」

ひとしきり笑ってから、牛糞田は急に真顔になった。

「猿渡は最近ようけ嗅ぎ回りよる。うちの積み替え場、倉庫、裏の流れまで。あれは土の匂いを知らん男じゃ。土の匂い知らんやつは、結局どこでも滑る」

「手貸すか」

「貸す。けどの、わしは真正面から行かん。足元や」

こうして蟹田組は、四つの異形の勢力と手を結んだ。

ただしその盃は、紙コップで交わされた。
誰も本物の盃を持ち出さなかった。
なぜなら、誰も本気で長い付き合いになると思っていなかったからだ。

蜂須賀は盗聴器を仕込み、
栗林は会議動画を隠し撮りし、
臼岩会は逃走経路を別に確保し、
牛糞田は全員の車に発信機を付けた。

ツメ次もまた、心の中では思っていた。

――どうせ最後は、全員裏切る。

その考えが彼だけのものならまだよかった。

だが同じ夜、別の場所で猿渡桃次郎もまた、舌打ちしながら同じことを言っていた。

「蟹も蜂も栗も臼も牛糞も、どうせ最後は寝返る。せやから最初から、全員裏切る前提で組まなあかんのですわ」

信じない者同士が手を組むと、同盟は成立する。
ただしそれは橋ではなく、薄い氷として成立する。

そして氷の上で全員がタップダンスを始めると、だいたいろくなことにならない。

第三章 柿ノ木ビルと猿の軍議


猿渡一家の本部は、湾岸東に建設途中の十一階建てビル、その七階にあった。
完成前なのに七階から使っているのは、
「上におる方が偉そうに見えるから」
という猿渡の意向である。
理屈として最低だが、妙な説得力はあった。

現場事務所の壁には完成予想図が貼られていた。
緑化テラス。
カフェ。
シェアオフィス。
柿スイーツ専門店。
地域交流スペース。
キッズルーム。

どの単語も、暴力団事務所に貼るには平和すぎる。
逆に怖い。

猿渡は幹部の青柿六郎、渋柿銀次、甘柿マモルを前に、葉巻をくゆらせていた。

「蟹んとこが動いとる、と」

「へい。蜂須賀連合と接触、栗林愚連隊とも会うとります」

「臼岩会もやそうですわ」

「ほーん」

猿渡は笑った。
笑ったが、目は笑っていない。
他人を信用しない男は、自分の裏切りやすさもよく知っている。
だから他人の裏切りも、妙に正確に読める。

「ええやん。来るなら来たらええ。こっちも仕込み、全部入れときまひょ」

「仕込み、言いますと」

「蜂須賀には偽の会計帳簿を流しとけ。栗林には“こっちがドローン対策にEMP買うた”って噂を流せ。臼岩会には“このビル、基礎に手抜きある”言うとけ。牛糞田には“うちが行政と組んで産廃ライン握る”って聞かせろ」

「全部、火種ですやん」

「火種を持たんやつは、冬に震えるだけですわ」

甘柿マモルが、おずおずと口を開く。

「会長、全方面に嘘流したら、ほんまに全部敵になるんちゃいますか」

「アホ。全部敵やと思うてる連中は、逆に動き読めるねん」

「味方の方が読めへん?」

「せや。味方のフリして寄ってくるやつが、いっちゃん危ない」

猿渡一家では、「信用」という言葉はほとんど死語だった。
部下は上司を盗撮し、上司は部下の預金通帳をコピーし、若い衆はアニキ分を慕うふりをしながら次の出世を計算していた。

それでも組は回る。
危ない歯車ほど、よく回ることがある。

その頃、猿渡は個人的に一本の電話をかけていた。
相手は湾岸署組対四課の名物刑事、握飯田米蔵だった。

「もしもし、米さん? いやあ、いつもお世話になってますわ」

『誰が米さんや。おまえの口から出る“お世話”は、だいたい迷惑の前振りじゃ』

「最近、蟹田んとこ、若いもん荒うて危ないですわ。なにするかわかりまへん」

『ほう』

「市民のためにも、ちょっと見張っといた方がええんちゃいます?」

『なんでわしがおまえの助言を市民のため扱いせにゃならん』

「いやいや、助言やのうて、情報提供です」

『その言い方してる時のおまえは、だいたい自分のケツに火がついとる』

握飯田は電話を切り、机の引き出しから別のメモを取り出した。
そこにはすでに、蜂須賀連合、近日動く
栗林愚連隊、爆竹大量購入
臼岩会、工事用ワイヤー搬出
牛糞田清掃、特殊滑剤を確保

と書かれていた。

全部、匿名のタレコミだった。

「全員、全員、自分以外を売りよる。おまえら、談合より密告の方が得意か」

握飯田米蔵は、四十代後半。
腹だけ少し出て、目だけずっと寝不足、スーツは安物なのに着こなしだけ妙に怖い男だった。
あだ名は**“オニギリ刑事”**。
名字が握飯田だからでもあるが、顔がなんとなく三角に見えるからでもある。ひどいあだ名だが、本人ももう面倒なので否定していない。

彼は元マル暴の叩き上げで、クセが強い。
取り調べ中に急にうどんの話を始め、相手が油断した瞬間に核心を突く。
県警内では
「方言で殴る刑事」
と恐れられていた。

「好きにやらせろ」

握飯田は小さく言った。

「やらせたあとで、まとめて握る」

一方その頃、蟹田組では復讐計画の全容が固まりつつあった。
作戦名は――“猿転がし”。

「そのままですね」

とハサ美。

「ひねると失敗する」

とツメ次。

計画は、昔話どおりだった。

入口では牛糞田清掃興業が特殊ぬめり材を撒く。
転んだところを栗林愚連隊が爆竹と飛び道具でかき回す。
逃げ込んだ室内で蜂須賀連合が電撃針で刺す。
最後に上から臼岩会が落とす。

「落とすって、何を」

「石臼」

「やっぱりか」

「やられたもんで返す」

「でもこのご時世、石臼ってそんな簡単に調達できます?」

「臼岩会に相談したら、“会長の私物でええか”言うてきた」

「私物なのがいちばん怖い」

計画は雑で、暴力的で、しかし妙に筋は通っていた。
ただし最大の問題は、関係者全員がその計画を誰かに漏らしていることだった。

蜂須賀は警察に一部を流し、
栗林は女に武勇伝として喋り、
牛糞田は行政に
「うちは関係ありませんよ」
と根回しし、
臼岩会の若い衆は酒席で
「今度でかいもん落とすらしいで」
と嬉しそうに語った。

そして蟹田組の内部でも、不信はすでに広がっていた。

誰も本気で、誰も信じていない。

だが不思議なことに、信じていない人間ほど、
「裏切られた」
と感じる準備だけは完璧だった。

その準備が整った瞬間から、破滅はもう、かなり近い。

第四章 前夜祭は、だいたい本番よりうるさい


決行前夜、湾岸市は雨だった。
雨の日はだいたい人間が少し静かになるものだが、この街は逆だった。
音が反響して、怒号もサイレンもやたら景気よく聞こえる。

蟹田組の倉庫では、各勢力の準備が進んでいた。

牛糞田清掃興業は、ドラム缶とホースと長靴を持ち込み、床いっぱいに怪しい液体のサンプルを並べていた。

「見てみい。これが最新式の高粘度低摩擦ぬめり材じゃ」

「名前の時点で危険物です」

とハサ美。

「食用なんですか」

「食うな」

「食えなくても危険です」

「でも肌にはやさしいぞ」

「やさしさの方向を間違えとる」

栗林愚連隊は、爆竹、花火、パチンコ玉、スモーク缶、スリングショットを床に広げ、なぜか円陣を組んでいた。

「ええかおまんら、明日は殺しはなしじゃき」

「頭、そこは守るんですね」

「歯は折ってもえい! 骨も一本二本ならえい! けんど死なすな! 死なしたらニュースのトーンが重うなるき!」

「判断基準がメディア寄り!」

蜂須賀連合は、黒いケースを開きながら不機嫌そうだった。

「うちば、もっとスタイリッシュな仕事のつもりで来たっちゃけどね。なんで石臼やら牛糞やらと同じ現場に立たないかんと」

「言い方」

「うちら、電流、針、盗聴、声帯模写が専門たい」

「声帯模写で何するんです」

「警備員になりすまして門ば開けさす」

「地味に便利ですね」

臼岩会は、無言で巨大なワイヤーを巻いていた。
会長の臼岩盤十は片隅に座り、その横に石臼が鎮座している。
まるで石臼の守護霊だった。

「会長、それほんまに落とすんですか」

「……落とす」

「場所どこにします」

「……猿の頭上」

「すごい具体的で、かつ雑」

作戦会議は何度も開かれたが、そのたびに脱線した。

「入口のぬめり材、誰が撒く」

「うちですたい」

「そのあと誰が転ばす」

「勝手に転ぶろうが」

「理屈はそうですが、絵面的に誰か“押した感”が要るんじゃ」

「ほいたらワシらがロープ引っ張るき」

「そこまでしたら事故じゃなくて演出です」

「撤収ルートは」

「各自判断」

「最悪じゃ!」

しかも、深夜になって小さな破綻が起きた。

栗林愚連隊の下っ端が、倉庫の外で誰かと電話していたのを、蜂須賀連合の見張りが見つけたのである。

「おい、いま誰と喋りよった」

「なんちゃないき」

「なんちゃない声じゃなかったばい」

「女じゃ」

「女に“臼は予定通り上から”言う必要ある?」

「……芝居の稽古じゃ」

「どんな芝居だ馬鹿」

その瞬間、天井裏から小さな音がした。
ハサ美が天井板を外すと、小型の盗聴器が二つ出てきた。

「誰や、こんなもん仕込んだの」

三秒後、全員が同時に言った。

「うちじゃない」

会議の空気は壊れた。

「待て待て待て、全員“うちじゃない”言うたら誰かの“うち”やろうが!」

「うちは正々堂々刺すタイプやけん、盗聴はするけど今日のこれはうちやなか!」

「するんかい!」

「わしらもやないぞ。発信機なら付けたが」

「付けたんかい!」

「保険じゃ」

「保険が多いわ!」

ツメ次は机を叩いた。

「ええか! 明日は猿渡を転がす! そのあとでおまえら全員、順番に疑ってやる!」

「順番制なんですね」

「今は戦争優先じゃ!」

一応、全員が頷いた。
だが頷きながら、誰も本気では安心していなかった。

同じ頃、猿渡一家の本部でも似たような地獄が開いていた。

「会長、蜂須賀の帳簿、ほんまもんかもしれません」

「臼岩会が基礎狙うらしいです」

「牛糞田が滑らせに来るって聞きました」

「会長、今のうちに逃げましょ」

猿渡が怒鳴る。

「アホか! 逃げたら負けや!」

「でも会長、全部ほんまやったら危ないですって!」

「全部ほんまなわけあるかい!」

「でも全部嘘とも限りませんやん!」

「そこがいっちゃん腹立つねん!」

結局、猿渡一家もまた、全方向を疑いながら全方向に備えるという、たいへん疲れる布陣を敷いた。

入口には監視員を増やし、
屋内には滑り止めマットを敷き、
天井にはネットを張り、
非常口には鉄パイプ持ちを立たせ、
猿渡本人はヘルメットの上から防災頭巾をかぶった。

「会長、もうその格好で負けてません?」

「うるさい」

前夜祭は、互いを疑う準備だけで終わった。
信頼がないとき、人は慎重になるのではない。
余計な準備を増やし、余計な情報を流し、余計な火種を抱える。

そして当日、その全部にいっぺんに足を取られる。

第五章 猿転がし大作戦、ほぼ運動会


決行の日。
空はよく晴れていた。
晴れたのが余計によくなかった。
派手なことをする連中は、明るい方が元気になるからだ。

午前十時。
柿ノ木ビル前。

作業員、警備員、搬入車両、近隣住民、野次馬、配信者、なぜかキッチンカー。
この街では揉め事の匂いがすると、屋台が先に来る。
商魂とは本当に戦場のどこでも生きる。

猿渡一家の警備は厚かった。
だが、厚い警備には厚い警備なりの穴がある。
人数が多い分、誰が本物で誰がなりすましか、現場責任者以外わからなくなるのだ。

そこを突いたのが蜂須賀連合だった。

インカム越しに、蜂須賀針児の声が響く。

「こちら北口、搬入車通すばい」

「了解」

「こちら南口、資材入れるけん開けて」

「了解」

「こちら正面、あんた今日休みたい」

「……え?」

「いや冗談たい」

声帯模写で警備を混乱させ、そのすきに牛糞田清掃興業のタンク車が横付けした。
車体には
「防災訓練用散水」
と書いてある。
中身は散水ではない。

「いまじゃ!」

牛糞田の号令とともに、ホースが唸る。
透明なぬめり材が、エントランス前の石畳に広がった。
見た目はただの水だが、踏んだ瞬間に人格が裏切られたような滑り方をする。

最初に転んだのは、猿渡一家ではなく、現場を配信していた動画投稿者だった。

「うわーっ!」

スマホを掲げたまま一回転し、着地だけ妙に綺麗だったので、周囲から拍手が起こった。

「違う違う、先に猿側が転べや!」

と栗林ボン太が叫ぶ。

「段取り無視すなや一般人!」

だがその直後、警備の若い衆が三人まとめて滑った。
ひとりは自動ドアに吸い込まれ、
ひとりはキッチンカーの鉄板に頭をぶつけそうになり、
もうひとりは反射的に仲間のベルトを掴んで全員を巻き添えにした。

「いまぜよ! 打ち込めぇ!」

栗林愚連隊がスリングショットを放つ。
パチンコ玉、ゴム弾、色付き煙球、紙テープ、なぜかラムネ瓶。

「なんでラムネ!」

「景気づけじゃ!」

「武器の一貫性!」

猿渡一家も応戦する。
豆鉄砲、催涙スプレー、伸縮警棒、刃引きドス。
発砲音もしたが、どうやら空砲らしく、うるさいわりに建設用ネットしか傷つけていない。

ツメ次が先頭で突っ込んだ。

「行くぞおらァ! 今日は柿の熟れ時じゃ!」

「兄貴、その言い回しだいぶ不吉です!」

エントランスを突破すると、ロビーでは蜂須賀連合がすでに警備員を電撃針で制圧していた。

「動いたら刺さるばい」

「え、もう刺さってますけど」

「そら動いたけん」

ロビーの床はぬめり材でつるつる、
スモークは焚かれ、
館内放送は誰かが勝手に演歌に変え、
非常ベルまで鳴っている。
もはやオフィスビルではなく、理性のない商店街祭りだ。

二階へ上がろうとした青柿六郎が、踊り場で滑って派手に尻を打った。

「いったァ! 尾てい骨が実った!」

「六郎さん、大丈夫ですか!」

「大丈夫に見えるかアホ! 座り方が全部わからん!」

その頭上で、栗林愚連隊が仕掛けた小型爆竹が連鎖し、紙吹雪みたいに火花が散った。
派手だが威力は低い。
驚いた本人が勝手に転ぶタイプの兵器である。

猿渡は七階本部で怒鳴っていた。

「なんでや! なんで入口抜かれんねん!」

「会長、蜂須賀の声帯模写です!」

「そこまで芸達者な犯罪者おるか!」

「この街にはおります!」

「嫌な街やな!」

エレベーターを止めていた猿渡一家に対し、臼岩会は工事用の昇降足場を使って外壁から上がっていた。
いかにも現場系らしいルートである。

「会長、位置よし!」

「……待て」

臼岩盤十は、石臼をクレーン用フックに吊るし、静かに頷いた。

「……猿の真上まで」

「会長、それほんまに精度出るんですか」

「……祈れ」

「工法が急に宗教寄り!」

ロビーではツメ次が猿渡一家と正面衝突していた。
鉄パイプが鳴り、警棒が弾かれ、蹴りが飛び、誰かが自販機の缶コーヒーを投げ、別の誰かがなぜかコーンポタージュを飲んだ。

「戦闘中に飲むな!」

「熱かったです!」

「飲む前にわかるやろ!」

やがてツメ次は、七階本部にたどり着く。
ドアを蹴破った先に、猿渡桃次郎がいた。
防災頭巾つきヘルメットの上からサングラス、両手に警棒、足元だけ異様に慎重である。

「来たな、子蟹」

「終いや、猿」

「誰がするかい。わては謝るぐらいなら逃げる男や」

「そこは少しは反省せえ!」

そこへ、窓を割って臼岩会が侵入した。

「会長! いまです!」

ワイヤーが軋み、石臼が落ちる。
完全に昔話どおりだった。

だが猿渡も備えていた。
床には厚手の安全ネットが張ってあり、石臼はドスンと派手に落ちたが直撃はせず、ネットで弾み、机とモニターを粉砕し、最終的に猿渡の足先をかすめた。

「うわぁっ! つま先ィ!」

「現代安全対策が原作を邪魔しよる!」

その一瞬の混乱で、ツメ次が突っ込む。
二人は床を転がり、ヘルメットが飛び、サングラスが割れた。

だが猿渡が立ち上がろうとした足元には、牛糞田のぬめり材が染み込んでいた。
つるん、と極めて品のない音とともに、猿渡は見事に滑り、後頭部をソファにぶつけた。

「ぐえっ」

「今のは綺麗やったばい」

「百点満点の転び方やね」

「採点するな!」

ツメ次が猿渡の胸ぐらを掴み、拳を振り上げた、そのときだった。

「やめぇ、ツメ次!」

病院から抜け出してきた蟹田剛三が、包帯姿でドアに立っていた。
しかも車椅子である。
なぜかシオ丸が後ろから押していた。

「組長!?」

「大事な見せ場を若いもんだけに任せられるかい!」

蟹田は車椅子ごと進み出て、猿渡を見下ろした。

「おにぎり一個から、ようここまで転がしたのう」

「……親分、よう生きとりましたな」

「石臼ひとつで死ぬほど、わしは軽うない」

「その点は同感ですわ」

「おまえは、わしを騙して木を植えさせ、実りを横取りし、青柿投げつけ、石臼まで落としよった」

「最後のはほんま、誰が落としたんかわからへんのです」

「いまさら言うか」

「ほんまですやん」

蟹田が拳を上げる――かと思われた瞬間。
ドアがさらに開き、猿渡一家の別働隊、栗林愚連隊の後続、牛糞田の現場班まで、七階へ雪崩れ込んできた。

七階フロアはもう、抗争現場というより段取りの悪い合同企業説明会みたいな騒がしさになった。

そして、ここで最悪の一言が飛ぶ。

「会長! 例の裏帳簿、金庫から出しときました!」

叫んだのは、渋柿銀次だった。

「今言うなァ!!」

この一言で、戦いの意味が変わった。

第六章 裏切りのレシート、密告の領収書


「裏帳簿?」

とツメ次が振り向く。

「帳簿あるんか」

と蜂須賀が目を細める。

「ほんまにあるがか」

と栗林が笑う。

「金庫どこじゃ」

と牛糞田が前に出る。

猿渡は頭を抱えた。

「渋柿、おまえ後で覚えとけよ……」

七階本部の乱戦は、この瞬間をもって
猿渡を懲らしめる戦いから、
帳簿争奪戦へと完全に変質した。

金庫は会議室の奥、観葉植物の裏にあった。
観葉植物の裏に金庫を隠すやつは、隠してるつもりになってるだけで、むしろ
「ここに大事なもんあります」
と宣伝している。植物もたぶん迷惑していた。

臼岩会がバールを差し込み、
牛糞田の現場班が溶断機を持ち出し、
蜂須賀連合が電子ロックの解析を始め、
栗林愚連隊が
「とりあえず爆竹で開かんろうか」
と言い出して、全員に止められた。

「そこだけ文明捨てるな!」

猿渡は這うようにして立ち上がる。

「やめや! あれは組の――」

蟹田が低く言った。

「組の何じゃ。未来か?」

「……」

「夢か?」

「……」

「それとも、おまえが全員信じとらん証拠の束か?」

猿渡は答えなかった。
答えられなかった。
答えなくても、答えは全員わかっていた。

やがて金庫が開く。

中から出てきたのは札束ではない。
USB。
通帳コピー。
ボイスレコーダー。
写真。
契約書。
偽名の名刺。
議員秘書との会食メモ。
行政担当者とのLINEを印刷した紙。
土地取引の裏合意書。
そして分厚いリングファイル三冊。

空気が、一気に現実の臭いを帯びた。

「あーあ。これ、面白かね」

と蜂須賀。

「面白いで済む量じゃないき」

と栗林。

「ようここまで貯めたのう」

と牛糞田。

ツメ次が、リングファイルをめくる。
そこには、蟹田組への嫌がらせ計画、地上げの買収一覧、猿渡一家内部の横領記録、そして――

“味方候補・裏切り想定表”

という、人格の悪さがタイトルになった一覧があった。

「蜂須賀連合――金で動く、義理薄い、刺しすぎ注意」

「栗林愚連隊――ノリ優先、酒で漏らす、爆発物を持たせるな」

「臼岩会――重い、遅い、怒らせると落とす」

「牛糞田清掃興業――金と土で揺れる、靴底を見ろ」

「蟹田組――面子最優先、突発的、親分が意外と情に弱い」

全員が猿渡を見る。

青柿六郎がぽつりと言う。

「会長。これ、ようここまで書けましたね」

「分析力が高いだけや!」

「人望が死んどるだけやろ」

と蟹田。

だが最悪はそれだけではなかった。

蜂須賀がUSBの中身を確認すると、別のフォルダが並んでいた。

保険①警察用
保険②行政用
保険③週刊誌用
保険④身内粛清用

「うわ」

とシオ丸。

「会長、保険が生命保険超えて呪いになっとります」

蟹田は鼻を鳴らした。

「見てみい、猿渡。おまえは誰も信じとらんかった。だから誰にでも刺せるよう、証拠を分けて持っとった」

「親分かて似たようなもんやろ」

「……否定しきれんのが腹立つのう」

そのとき、ツメ次の携帯が鳴った。
非通知だった。

「誰じゃ」

『もしもし、わしじゃ』

「誰じゃ」

『わしじゃ言うとるやろ』

「その“わし”が多い街なんじゃここは!」

電話の相手は、握飯田米蔵だった。

『おまえら今、柿ノ木ビル七階やな。こっちも忙しいんや。簡潔に言うぞ。もう包囲しとる』

「……は?」

『玄関、裏口、搬入口、地下駐車場、隣ビル連絡通路、屋上、ぜんぶ押さえた』

「なんでそこまで」

『おまえらが全部教えてくれたからや』

「誰が!?」

『全員や』

部屋が、しん、と静まった。

『この三日で匿名通報が十七件、実名混じりが六件、泣きながらの相談が二件、酒に酔うての自慢電話が四件や。内容は食い違っとるのに、場所と時間だけはきっちり一致しとる。逆にすごいわ』

猿渡が電話をひったくる。

「米さん! これ、わてのとこ狙われとる被害案件でもあるんですわ!」

『せやな。被害者ヅラしながら裏帳簿抱えとる時点で、だいぶ芸風が苦しいがな』

「会って話しましょ! 和解の余地ありますやろ!」

『おまえは和解を商談みたいに言うな』

外から悲鳴が上がる。

「社長! 地下駐車場、警察車両ぎょうさん来とります!」

「屋上にも機動隊ばおる!」

「頭ぁ! 非常階段で上と下から警官来て、真ん中で詰まっちゅう!」

臼岩会の若い衆が、会長を見る。

「会長、どうします」

臼岩盤十は石臼を見て、窓の外を見て、部下を見て、ぼそりと言った。

「……詰んだ」

「会長が将棋みたいに言うな!」

ここに至って、全員ようやく理解した。
この抗争の結末は、相手を倒して決まるのではない。
全員が先回りして全員を売ったことで、すでに決まっていたのだと。

第七章 オニギリ刑事、締めに入る


数分後、七階本部のドアが静かに開いた。

怒号もない。
派手な突入音もない。
その代わり、そこに立っていた男の顔つきだけが、場の空気をぴたりと締めた。

握飯田米蔵。

皺の入ったスーツ。
くたびれた革靴。
三角に見える顔。
片手にはメモ帳。
もう片手にはコンビニの鮭おにぎり。

どういう現場の入り方だ。

「……おう」

握飯田は言った。

「祭りは終いや」

その後ろには、湾岸署組対四課、機動隊、所轄、交通課までいた。
交通課までいるのは、誰かが違法改造原付でビルに突っ込もうとしていたからである。
栗林愚連隊だった。だいたい予想はつく。

猿渡が一歩出る。

「米さん、誤解ですわ」

「おまえの“誤解”は、だいたいファイルに綴じられとる」

蟹田が腕を組む。

「刑事さん、これはわしらも被害者でのう」

「石臼が飛ぶ被害者が鉄パイプ持って七階まで来るか」

蜂須賀が笑ってみせる。

「ちょっと見学に来ただけばい」

「見学でスタンガン持つな」

栗林が胸を張る。

「うちら青春の延長ぜよ!」

「青春に爆竹を箱買いするな」

牛糞田が咳払いする。

「わしは床のメンテじゃ」

「ぬめり材の説明書に“転倒誘発”って書いとるぞ」

「細かいのう!」

握飯田は部屋を見回した。
石臼。
壊れた机。
滑る床。
散乱した帳簿。
呻く負傷者たち。
そして、互いを睨みながらも、決定的にはかばい合わない連中。

「おまえらな」

握飯田は、おにぎりの包装を剥きながら言った。

「こんだけ大人数で騒いどいて、誰ひとり“あいつは関係ないです”って言わんの、逆に感心するわ」

誰も答えない。

「普通、子分の一人や二人、守ろうとするもんや。けどおまえら、全員が全員、先に自分の保険かけとる」

ツメ次が唇を噛む。
猿渡は目を逸らす。
蜂須賀は肩をすくめ、
栗林は苦笑いを浮かべ、
牛糞田は足元を見た。

握飯田は、おにぎりを一口かじった。
なぜ今食うのか、誰にもわからない。

「わし、長いことマル暴やっとるがな。組が潰れる時は、たいてい外からの弾やない。中の“どうせあいつも裏切る”いう空気や」

もう一口食う。

「信用してへん相手と手ぇ組んだら、そら最初は便利や。けどな、便利は義理にならん。義理にならんもんは、いざいう時、誰も身体張って止めん」

最後の一口を食って、包装を畳む。

「今日もそうや。猿は蟹を信じてへん。蟹は仲間を信じてへん。仲間同士も互いを信じてへん。せやから全員、自分だけ助かるつもりで警察に売った。結果どうなった」

握飯田は部屋をぐるりと指さした。

「全員、同じフロアで、同じ時間に、同じように終わりや」

その言葉は、やけに静かだった。
静かな言葉ほど、派手な乱闘のあとではよく響く。

猿渡が、乾いた笑いを漏らした。

「……米さん、あんた説教うまいですな」

「仕事や」

「せやけど、気に入らん」

「知っとる」

猿渡は床に座ったまま、蟹田を見る。

「蟹田の親分。最初、おにぎり替えた時点で、あんたもわてを信じてへんかったやろ」

「当たり前じゃ」

「わてもや」

「じゃろうな」

「ほな、最初から終わっとったんかもしれまへんな」

蟹田は少し考えてから、首を振った。

「いや。終わっとったんは、儲け話を持ってきた相手の目ぇ見ても腹の中が読めても、それでも“まあ何とかなるじゃろ”言うた時点じゃ。つまり、だいぶ早い段階からじゃ」

ツメ次が、がっくりとうなだれた。

「兄貴分……」

「なんじゃ」

「わし、あいつら、最後までどうせ裏切る思うとりました」

「わしもじゃ」

「ほいたら、なんで組んだんです」

「目の前の怒りの方が、先に来たんじゃろ」

「最悪の理由ですね」

「最悪じゃのう」

そこで栗林がぽつりと言った。

「けんどよ、ちくとだけ、面白かったのう」

「おまえは最後までそれやな!」

とハサ美が怒鳴る。

「だって七階から石臼落ちて、しかもネットで跳ねる抗争なんぞ、二度とないぜよ」

「二度とあってたまるか!」

蜂須賀も笑う。

「まあ、配信映えはしたばい」

「おまえ配信しとったんか!?」

「限定公開たい」

「限定でも駄目じゃろうが!」

牛糞田が頭を掻く。

「わし、ぬめり材の在庫どうしようかのう」

「知らん!」

握飯田が手帳を閉じた。

「よし。順番にいくぞ。銃刀法、傷害、建造物侵入、威力業務妨害、恐喝未遂、器物損壊、廃棄物処理法、労安法関係、道路交通法。細かいのは署で聞け」

「細かいのが多そうですね……」

「今日は長いぞ」

手錠が、ひとつずつかかっていく。

猿渡一家の若い衆が肩を落とし、
蟹田組の子蟹班が観念し、
蜂須賀連合が最後までスマホを隠そうとして見つかり、
栗林愚連隊が
「爆竹は文化財みたいなもんやき」
と粘って怒られ、
牛糞田清掃興業が
「これは肥料です」
と何度も言い張り、
臼岩会は会長以下、妙に素直に並んだ。

「会長、えらい大人しいですね」

臼岩盤十は手錠を見て、ぼそりと答えた。

「……重いもんは、落ちたら終わりだ」

それが石臼のことなのか、自分たちの組のことなのか、誰にもわからなかった。

帰り際、握飯田は壊れた会議室を振り返った。

「片付け大変やな」

と部下が言う。

「せやな」

「しかし課長、ようここまで一斉に押さえられましたね」

握飯田は鼻を鳴らした。

「簡単や。信用のない連中は、追わんでも自分で足跡増やしよる」

「なるほど」

「しかも今回は、全員が全員、自分だけは助かる思うて情報流しよった。ああなると捜査はパズルやない。答え合わせや」

窓の外では、夕方の光が柿ノ木ビルの鉄骨に差していた。
カラスが一羽、きしむ梁に止まっている。

最初は、おにぎりひとつだった。

そこから柿の種に替わり、
木が生え、
実がなり、
欲がぶつかり、
意地が膨らみ、
疑いが増えた。

誰も本気で相手を信じなかった。
だから話し合いは取引になり、
取引は牽制になり、
牽制は保険になり、
保険は密告になった。

信じていない関係は壊れる。
しかも静かには壊れない。
だいたい派手に滑って、でかい音を立てて、最後は全員まとめて運ばれる。

湾岸市に残ったのは、壊れた机、割れたガラス、回収される石臼、押収される裏帳簿、営業停止になるキッチンカー、そして数日後には撤去される予定の、あの妙に育ちすぎた柿ノ木だけだった。

なお、その柿ノ木の撤去入札をめぐって、留置場の中で早くも新しい口論が起きたらしいが、それはまた別の、ぜんぜん懲りていない話である。

――完

コメント