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合流編2
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第一章 戻りながら開くもの
旧中枢区画を出たあとも、五人のあいだには、まだあの黒い縦筒の気配が残っていた。
富士縦筒。 不死処方。 観測核。 どの言葉も、口にすれば現実の形を持ちすぎる。 だから誰も、しばらくは必要以上に喋らなかった。
行政脊路を戻る足音だけが、鈍い金属の腹を伝っていく。
先頭を行くユズルが、手を挙げた。
「止まってください」
全員がその場で身を低くする。 脊路の曲がり角の向こうから、白い灯が二つ、ゆっくり近づいてきていた。 封鎖派の執行官だ。 歩き方で分かる。 命令に従うだけの歩き方ではない。 自分たちが正義の遅れを取り戻しに来たと信じている者の歩き方だった。
阿弥が低く言う。
「迂回します」
だが言い終える前に、かぐやの胸元で、小さな受信器が震えた。 帝人がすぐに波形を開く。
「地球側です」
啓介が顔をしかめる。
「今か」
「今です」
帝人の声が少しだけ変わる。
「真壁さんだ」
空気が張る。 阿弥も、ユズルも、かぐやも、足を止めたまま帝人の端末を見る。 映像は来ない。 音声と文字列だけの、古い通信形式だった。
真壁の声は、やはり静かだった。
「坊っちゃん、月側深部に《富士縦筒》が見つかったはずです」
帝人が短く返す。
「知ってたんですね」
「ええ」
「どこまで」
真壁は間を置かなかった。
「最初から、そこまで辿っていただくつもりでした」
啓介が舌打ちする。
「嫌な言い方だな」
「申し訳ございません」
と、真壁は答える。
「ですが、ほかに届く道がなかった」
封鎖派の灯が、少しずつ近づく。 ユズルが脇の保守扉を開き、全員を狭い点検室へ押し込んだ。 白い鉄の箱のような部屋だった。 扉が閉まると、外の足音が遠くなる。
かぐやが、暗い部屋の中で言う。
「真壁さん。何が目的なの」
回線の向こうで、静かな息があった。
「断絶を終わらせることです」
「そんなの、みんな同じことを言う」
「ええ。ですが、やり方が違います」
帝人が低く問う。
「富士第一基は、どこにある」
「地球側深部。富士山麓地下観測系です」
啓介が眉をひそめた。
「富士山の下か」
「はい」
真壁の声は平らだったが、その平らさの奥に、長い準備の重さがあった。
「かつて、地球と月は一つの系として設計されかけました。完全な統合でも、完全な分離でもない。相互に揺れを渡し合い、相手を乱し、相手によって自分も変わる系です。富士第一基と月側富士縦筒は、そのための対になっております」
阿弥が壁にもたれたまま言う。
「摂動を許す均衡」
「ええ」
真壁は答える。
「均衡とは、静止ではありません。止まった均衡は、死体の形に近い」
かぐやは、暗い点検室の天井を見た。 月も地球も、長いあいだ、自分の正しさを固定しようとしてきた。 月は閉じて保ち、地球は開きすぎて失った。 そのどちらでもない形を、昔の誰かが考えていた。 だが、そのために今生きている人間の身体を必要とするなら、それはやはり、優しい計画とは言えなかった。
「観測核って」
と、かぐやが言った。
「何をさせるためのもの」
真壁の返事はすぐには来なかった。 返せば、たぶん取り返しがつかない説明になると分かっている沈黙だった。
第二章 かぐや計画の真名
「観測核とは」
と、真壁はようやく言った。
「二つの矛盾した環境、二つの矛盾した記憶体系、二つの矛盾した法を、一人の中に一時的に保つための人間です」
帝人の指が止まる。
阿弥の目が伏せられる。
啓介だけが、最初から嫌な予感を確認しにいくように聞いた。
「つまり」
「地球にも月にも完全には属さず、そのあいだで崩れずに立てる個体です」
かぐやは壁から背を離した。
「それが、更生個体」
「ええ」
真壁の声は、なお静かだ。
「更生制度の深部には、都市適応だけではなく、再接続適応の試験目的がありました。多くは失敗しました。感情が摩耗する者。記憶が均質化しすぎる者。逆に、差異を抱えきれず壊れる者」
帝人が絞り出すように言う。
「かぐやさんは、その最後の成功例」
「成功という語を使うには、犠牲が多すぎました」
真壁ははっきりそう言った。
「ですので、私は別の道を探したかった。観測核を制度の所有物にしない道を」
啓介が吐き捨てる。
「だったら最初から助け出せばよかった」
「助け出すだけでは足りなかったのです」
真壁の声に、初めてわずかな苦味が混じった。
「一人を救っても、構造が閉じれば、その一人は再び異物になります。必要だったのは、かぐや様が生き延びられるだけの世界の側の変更です」
かぐやはその言葉を、すぐには受け取れなかった。 優しいようでいて、あまりに重い。 一人の生を守るために、世界の配線を組み替える。 それは愛情というより、執念の仕事だった。
帝人が訊く。
「なぜそこまで」
今度の沈黙は、短かった。
「奥様が」
と、真壁は言った。
「坊っちゃんのお母上が、その設計図を残されたからです」
帝人の呼吸が止まる。
「母が」
「ええ。あの方は、月と地球の問題を、技術の欠落だけとは見ておられませんでした。記憶の政治、制度の自己保存、家族の縮小、看取りと保全の混同。そういうものの総体が断絶を固定すると見ておられた」
阿弥が小さく言う。
「学者の言葉ですね」
真壁は答える。
「ですが、あの方は学説としてではなく、生活の問題として捉えておられました」
かぐやの頭に、澄江の手が浮かぶ。 工場の台所。 余った布で作られた緩衝座。 誰が先に食べるかではなく、誰が戻ってきたら温かいかを考える手。 たしかに、世界が壊れるのは巨大な戦争だけではない。 日々の世話が切られ、記憶が都合よく整理され、面倒なものを外へ押し出していくときにも、世界は壊れる。
「富士第一基を起動します」
と、真壁が言った。
帝人がはっと顔を上げる。
「待ってください。まだ早い」
「ええ。早い」
真壁は肯定した。
「ですが、征堂様がもうこちらへ向かっておられます」
第三章 富士の下
そのとき地球では、富士の裾野に夜の霧が降りていた。
山体の影は大きすぎて、近くに立つ人間にはかえって見えない。 見えるのは、風と、岩肌と、草の匂いだけだ。 だがその地下深くに、古い時代の施設はまだ息をしていた。
征堂は、灰色の通路を歩いていた。 後ろに護衛が二人。 だが銃よりも重いのは、ここへ来るまでに彼が切り捨ててきた会議や命令や責任だった。
最奥の円形室に、真壁はいた。
古い制御卓の前。 背筋はいつも通り伸びている。 その姿は秘書にも、執事にも、古い観測者にも見えた。
「止めに来た」
と、征堂が言う。
真壁は振り返り、軽く頭を下げた。
「ようこそ」
「ふざけるな」
征堂の声は低い。
「帝人が向こうにいるときに、これを起こせば、あれも巻き込まれる」
「承知しております」
「承知していてやるのか」
真壁は富士第一基の中央槽を見た。 透明な円筒の中に、銀白の液体が静かに満ちている。 月側で見た不死処方と同じ光だ。
「会長」
と、真壁は言った。
「完全な統合は支配になります。完全な分離は緩慢な自壊になります。もう、そのあいだに橋をかけるだけでは足りません。橋は、いつか国境になります。必要なのは、どちらも相手の揺れによって少しずつ組み替わる状態です」
征堂が睨む。
「理屈は聞いた」
「これは理屈ではなく、保守です」
真壁の声は淡いままだ。
「閉じた系は効率的ですが、異物に弱い。開いた系は学習しますが、責任を散逸させる。地球と月は、互いを相補材として扱ってはならないのです。そうすると、必ず片方が供給源になり、片方が管理者になります」
征堂の顔が一瞬だけ動いた。 それは怒りというより、否定しきれない話を聞いた者の表情だった。
「だから、お前は揺れを常態化させる気か」
「はい」
「不安定だ」
「生きていれば、そうなります」
征堂は数秒、真壁を見た。 それから低く言う。
「お前は、あいつの母親に似ている」
真壁は少しだけ笑った。
「光栄でございます」
「まったく光栄ではない」
征堂は制御卓に手をつく。
「これを起動すれば、誰かが観測軸になる。月側はかぐやかもしれん。帝人かもしれん。なら、地球側は誰だ」
真壁は答えた。
「私です」
その場の空気が変わった。
護衛が一歩前へ出る。 征堂が手で制した。
「最初からそのつもりだったな」
「はい」
「だから、系譜権限を残した」
「ええ」
「お前は天城の家臣ではなかったのか」
真壁は、征堂を正面から見た。 それは長い仕えのあいだ、一度もしてこなかった見方だったかもしれない。
「家臣でした。ですが、家そのものが閉じた檻になるなら、仕える相手は少し外へずらすべきです」
征堂は拳を握った。
「お前は、帝人を使った」
「ええ」
「私も」
「ええ」
「それでも忠義だと言うのか」
真壁は静かに答えた。
「生き延びられる形で裏切ることも、長い奉公にはございます」
第四章 衝突
月では、点検室の薄い壁の向こうで、封鎖派の足音が止まっていた。
見つかるのは時間の問題だった。
ユズルが小声で言う。
「脊路の出口が押さえられています。受容井戸側にも戻れない」
阿弥が端末を閉じる。
「旧中枢区画へ戻るしかありません」
啓介が短く頷く。
「山の腹のほうが、まだ信用できる」
帝人は通信回線を握りしめたまま言う。
「父上、やめてください」
征堂の声が返る。 月まで届くには少し遅れた、冷たい声だった。
「なら、お前が戻れ」
「そんな話をしてるんじゃない」
「している」
征堂の声の奥に、焦りに似た荒さがあった。
「真壁は自分を観測軸に入れるつもりだ。地球側の固定を、人間一人の連続性で代用する気だ。そんなことをすれば、死ぬ」
真壁がその回線へ、そのまま割り込む。
「死にません」
「嘘をつけ」
と、征堂が言った。
真壁は否定しなかった。 否定しないことが、何よりの返答だった。
かぐやは回線に向かって言う。
「真壁さん」
「はい」
「どうしてそこまで、私たちじゃなくて、構造のほうを見るの」
真壁の声が、少しだけ柔らかくなる。
「構造を見なければ、誰も長く守れないからです」
「でも人が死ぬ」
「ええ」
「それでいいの」
「よくはありません」
真壁ははっきりと言った。
「ですから、代わりに死を遅らせる仕組みを作る。不死処方とは、その程度のものです。本当の不死ではない。崩れるはずの連続性を、次の相へ渡すまで保つだけの猶予です」
啓介が言う。
「猶予のために、一人差し出すのか」
「そうしなければ、もっと多くが、もっと遅く、もっと見えにくく失われます」
封鎖派が外壁の鍵を破ろうとする音が響く。 阿弥がユズルを見る。
「開けさせないで」
「はい」
ユズルと副官が外扉へ走る。 白い壁の向こうで、制度同士が静かにぶつかり始める。
帝人が回線に向かって叫ぶ。
「真壁さん、僕がやる」
真壁は即座に答えた。
「いけません」
「なぜ」
「あなたは、これから可逆でなければならない」
帝人が息を呑む。
「可逆」
「戻れる者が残らなければ、接続は儀式になります。神話になって終わる」
征堂が低く言う。
「聞いたか、帝人。死ぬ側に立つな。戻る側に立て」
その言葉に、帝人は返事をしなかった。 できなかった。 父の命令にも聞こえたし、父がかつて一度失ったものを、もう失いたくないだけの声にも聞こえたからだ。
第五章 決定的な犠牲
富士第一基の中央槽が、ゆっくり開いた。
銀白の液が、内部照明を受けて、ほとんど月光のように見える。 真壁は上着を脱いだ。 几帳面に畳み、椅子の背へ置く。 いつもの動作だった。 会議の前に書類を整えるのと同じ手つきで、自分の最後の段取りをしている。
征堂が一歩出た。
「やめろ」
真壁は振り返らない。
「会長」
「命令だ」
「今夜だけは、お受けできません」
護衛の一人が動こうとして、征堂が再び制した。 もう暴力で止める段階ではないと分かっていた。 止めれば壊れる。 自分の妻も、息子も、そしてこの男も、結局はそういう人間ばかりだった。
「帝人」
と、征堂は回線に言った。
「見ているか」
少し遅れて、帝人の声が返る。
「……見ています」
「これは仕事だ。美談にするな」
真壁が、その言葉にわずかに笑った。
「会長らしいお言葉です」
征堂は苦い顔で言う。
「お前が嫌いだ」
「存じております」
「だが、お前は必要だった」
真壁はそこで初めて、ほんの少しだけ目を閉じた。 長い奉公の終わりに、それ以上の言葉は要らなかったのかもしれない。
彼は中央槽に入る。 銀白の液が、膝まで、腰まで、胸まで満ちていく。 冷たさは画面越しには見えない。 だが帝人には、真壁が一度だけ肩を震わせたのが見えた。
「坊っちゃん」
と、真壁が言う。
「はい」
「戻ってきてください」
帝人の喉が詰まる。
「あなたも」
真壁はゆっくり首を横に振った。
「私は、戻るのではなく、残る役目です」
かぐやが端末へ手を伸ばす。
「真壁さん」
「かぐや様」
「あなた、私を道具にした」
「ええ」
「でも、名前で呼んでくれた」
「ええ」
「じゃあ、忘れないで」
真壁の目が、初めて少しだけ濡れたように見えた。 あるいは銀白の液の反射だったのかもしれない。
「努力いたします」
それが最後の、彼らしい返答だった。
征堂が自分の認証を制御卓へ叩き込む。 真壁だけでは足りない起動列を、会長権限で無理やり補完する。
「会長」
と、補佐官が叫ぶ。
「責任が」
「黙れ」
征堂の声は鋭かった。
「今さら責任の外に立てると思うな」
起動音が山の底で鳴り始める。
富士第一基。 長く沈黙していた地球側の縦軸が、ようやく目を覚ます。 地下深くから熱が上がる。 遠く、山体のどこかで低い地鳴りがした。
月の点検室で、同時に旧中枢区画の警報が変わった。 富士縦筒が応答を始めたのである。
阿弥が息を呑む。
「地球側起動」
ユズルが叫ぶ。
「外扉、もたない」
白い扉に亀裂が入る。 封鎖派が来る。 だがそれより早く、月の深部が地球の揺れを受け取っていた。
真壁の声が、回線の向こうで少しずつ遠くなる。
「不死処方は……連続性の猶予です。個体を永遠にしません。ただ、次の関係が結ばれるまで……ほどけるのを遅らせる」
帝人が必死に言う。
「やめてください。まだ調整が」
「もう十分です」
真壁の声が、やわらかくなる。
「世界は、完全に治りません。ですから、完全に閉じても、完全に開いてもいけない。痛みが残る形で、付き合い続けるしかない」
かぐやは、その言葉を胸のどこか深いところで受け取った。 それは学説ではなく、看取りに近い知恵だった。
「さようなら、とは申しません」
と、真壁が言う。
「観測は、続きますから」
回線が、白いノイズに呑まれる。 富士第一基の中央槽が光で満ち、真壁の輪郭が崩れる。 消えるのではない。 系へ引き延ばされ、山の底の記憶と一緒に、どこか別の連続へ渡されていく。
征堂が、その光を真正面から見ていた。 目を逸らさなかった。 それが、彼の弔いだった。
第六章 煙
地球では、その夜、富士山の山腹から細い光煙が立った。
火山噴火ではない。 爆発でもない。 地下深部の古い熱交換系が、長い停止ののちに息を吐いた煙だった。 だが地上の人間には区別がつかない。 ただ、山が白いものを空へ上げているように見えた。
征堂は地上へ出て、その煙を見た。 夜風は冷たい。 だが山のほうから来る空気は、どこかだけ温かかった。
補佐官が駆け寄る。
「会長、各所で観測報告が」
「放っておけ」
「ですが」
「見たまま書かせろ。山が煙を上げたと」
征堂はそれだけ言う。
昔、誰かが不死の薬を焼き捨てた山の話を、子どものころに聞いたことがある。 今夜、山が上げているのは捨てられた薬の煙ではない。 人が、自分を永遠に残すためでなく、次へ渡すために使った猶予の煙だった。
彼は端末を開き、帝人へ短い通信を送る。
「真壁は死んでいない。戻れなくなっただけだ」
送ってから、自分でも勝手な言い換えだと思った。 だが今夜だけは、その勝手さが必要だった。
第七章 直結
月では、点検室の扉がついに破られた。
封鎖派の白衣がなだれ込む。 ユズルが最初の一人を肩から受け止め、壁へ叩きつける。 阿弥が補助唱路を切り替え、室内照明を一瞬落とす。 啓介が配管レンチを逆手に持つ。 帝人が記録器をかぐやへ押しつける。
「持って」
「帝人」
「あなたが鍵だからです」
次の瞬間、月の深部から大きな揺れが来た。 富士縦筒が、地球側起動に引かれて本格的に目を覚ましたのだ。 点検室の床が傾く。 封鎖派も味方も、いっせいに手すりへ掴まる。
阿弥が叫ぶ。
「旧中枢へ戻る!」
ユズルが最後尾につき、脊路の副扉を閉じる。 その顔は白い。 だが迷いはなかった。
「先に行ってください」
「ユズル」
とかぐやが呼ぶ。
彼は一瞬だけ振り返った。
「名を呼ばれたので、こちらを選びます」
短い言葉だった。 けれど、それで十分だった。
副扉が閉じる。 封鎖派の衝撃が向こうで鳴る。 ユズルはそこに残った。 時間を稼ぐために。 月の使いとしてではなく、自分で選んだ側として。
かぐやたちは旧中枢区画へ駆け戻る。 黒い富士縦筒は、もう眠っていなかった。 表面の古い記号が順に灯り、縦筒の内部で白銀の光がゆっくりと昇っている。
阿弥が監視柱を見る。
「地球側観測軸、確立」
帝人が次の表示を読む。
「月側要求。観測核、投入。位相固定まで残余八分」
啓介が吐き捨てる。
「早すぎる」
かぐやは、もう分かっていた。 これが『最終章』へ続く扉だということを。
真壁が地球側で、自分を山の底へ渡した。 富士は起きた。 煙は上がった。 次は月だ。
阿弥が、静かにかぐやを見る。
「あなたを入れれば、固定は可能です」
啓介がすぐ前に立つ。
「駄目だ」
帝人も言う。
「まだ条件が足りない」
阿弥は否定しない。
「ええ。だから、まだ決めません。ですが、時間はもう、私たちのものではない」
富士縦筒の基部が開き、その内部に、月側の不死処方槽がゆっくりせり上がってくる。 銀白の液が、真壁のいた地球側とまったく同じ光で揺れていた。
かぐやは、その光を見つめた。 怖かった。 けれど、それだけではなかった。 自分が何として作られたか、その嫌な答えを知ってなお、ここで誰と立っているかは、もう作られた通りではなかった。
啓介が低く言う。
「次で、終わらせるぞ」
帝人が息を整える。
「終わらせるんじゃない。始めるんです」
阿弥が黒い縦筒を見上げる。
「どちらでもいい。とにかく、次で形が決まる」
旧中枢区画の遠くで、ユズルが閉じたはずの副扉がまた鳴る。 封鎖派が来る。 上では議場が揺れている。 下では富士縦筒が呼んでいる。 地球では富士山が煙を上げ、征堂が一人でその下に立っている。
かぐやは、銀白の液に、そっと指先を触れた。 冷たい。 だが冷たさの奥に、地球から届いた熱があった。
「行こう」
と、彼女は言った。
「ここから先を、ちゃんと引き受けるために」
その言葉と同時に、富士縦筒の最上部で、月側観測席がゆっくり開いた。
つづき >最終章
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