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38:2013年2月7日

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2013年2月7日(木)12時20分

 今日も青葉大学には冷たい風がのしかかっている。
 久しく晴天だが、そんな太陽の奮闘努力の甲斐もなく、芯まで冷える日常には変わりがない。

 4日後にウインタースポーツ実習を控え、慌ただしさが近寄る穂積里香の研究室。
 実習主任を担当する者としての重圧が、知らず識らずのうちにストレスとなっている。

 穂積は、教務課からの報告メールに慎重に目を通している。
 どれだけ慎重に繰り返し読もうとも、内容は変わらないのだが。

「萩原はダメかぁ・・・」
 紅茶を口にしながら穂積はつぶやいた。

 萩原香代(はぎわらかよ)は穂積ゼミの4年生。
 卒業所要単位が取得できていない。
 どうやら来月に控えた卒業式に、彼女は矢絣柄の着物を着ることはできないようだ。

 溜息。
「仕方ないんだけどねぇ・・」
 メールには、萩原に対する今後の対応を申し合わせる記述がならぶ。

「とりあえず彼女を呼ばないとなぁ。萩原とはどんなふうに対面しよう。ま、気にしてもしょうがないんだろうけど」

 窓の外を見る。

 隣にあるマンションのベランダで洗濯物を取り込む主婦が見えた。
 目が合ったような気がする。 


 学生課課長の高石昇は、学生課職員の鈴原美紀(すずはらみき)が着信していた電話を、課長宛ということで手元の電話機に転送させた。
 ウェルフェアプロデュース学科4年生の、西崎祐実の父親からとのこと。

 高石は受話器を取ろうとするが、その前に鈴原に尋ねる。
「ねぇ鈴原ちゃん、西崎っていうと、あのテニス部の?」

「はい、たぶんそうだと思います」と鈴原は首をかしげながら答えた。

 高石は軽く頷きながら、電話の応答ボタンを押す。
「はい、かわりました。学生課課長の高石ですぅ」

 西崎の父と名乗る男は、電話のスピーカーが壊れんばかりの怒声を浴びせてくる。
「どうなってるんだよっ、あんたらの大学は! いつ返事をもらえるんだ!」

 高石は驚きながら、鈴原をもう一度見る。
 鈴原は口をすぼめて困った顔をする。
 あとで鈴原に聞くところによると、11時頃からこの男からの電話が3度ほどあったが、ちょうど高石が不在の時に続けて入っていたとのこと。
 そのたび、課長は今いませんと返事をすると、一方的に電話を切っていたそうである。

「すみません。西崎様、どういったご用件でしょうか?」

「はあ!? どういったご用件でしょうかって、お前ら連絡を受けてねぇのかよ! どんな仕事してんだ!」

「はい、申し訳ございません。しかし、私ども学生課としましては・・・、少なくとも課長である私には耳に入っておりませんでしたので。申し訳ございません。ご用件をもう一度お聞かせいただけますと」と言ったところで、西崎の父はまくしたてる。

「監督が責任を持つって言うから、あんたらの大学に行かせたんだ。それがなんだ。全然返事がないじゃないか! いつ金を貰えるんだ。もうあと1ヶ月しか無いんだぞ! 学長とも話がついてるって聞いてるんだよ」

 周囲の事務員も高石の異変に気づく。
 それを高石も自覚しながら、焦りと不安の顔で返事をしている。
「大変申し訳ございません。本当に申し訳ございませんが、私のところにはそういったお話が入っておりませんので、事情を詳しくお聞かせいただけますと助かります。どうか落ち着いていただきまして、お話をお聞かせください」

「なんなんだ! なんにも知らないのか!? 祐実をそこに入学させたのはな!テニス部に入部すれば、学費が免除になるから、っていう話だったんだよっ! それが、いつまで経っても免除の話が出てこないし、とりあえず学費を納入しておくけど、それと同じ金額が返金されるからって聞いてたんだよ。いつ返金になるんだよ! もう祐実は3月で卒業だぞ! 藤堂監督のところに電話しても、全然出ないし、なんだかよく分からない理由をつけて、事務と協議するって言うし、どうなってんだ! だからもう藤堂監督はダメだから、直接この番号に電話してるんだよ。学生の対応は全部ここでやるんだろ? だったらここで責任持って対応してくれ!」

「はい・・・、えぇー・・・、すみません、承知しました。では、この件は必ず私の責任で対応させていただきます。まず、私どもにお時間をください」

「だぁかぁらぁ! こっちはずっと待ってるんだよ! 4年間だぞ! 4年間! ずっとだ! これ以上どんな時間がかかるんだよ! あと1ヶ月だぞ。それとも、卒業してからも対応してくれるんだろうなぁ!?」

「はい、西崎様、まずは、まずはですね、私どもに、今しばらくお時間をください。急ぎ対応させていただきます。お願い致します」

 西崎の父親は、最後にもう一度怒声を浴びせ、そして電話を切った。

 高石は溜息をつく。
「なんなんだよ、これ」
 誰に言うでもなくつぶやいた。
 そして鈴原の方を向いて尋ねる。
「藤堂先生だよな、テニス部って」

 鈴原は頬を膨らませて頷いている。

 高石は内線を押す。
 藤堂の研究室に向けてのものだった。
 10回ほど呼び出し音を鳴らしたが、藤堂は出ない。

 次は携帯電話にかけてみた。
 すぐに藤堂が着信した。

「青葉大学・学生課の高石ですぅ。藤堂先生の携帯ですか? お世話になっておりますぅ」

「おおっ、高石さんか、おーつかーれさーん」

「あ、今、大丈夫でしょうか。はい。あのですね、今、4年生の西崎祐実の保護者から電話がありまして、それで学生の学費に関して問い合わせがございました。その件で、藤堂先生は何かご存知でしょうか?」

「ん? おぉ、うん。まあ、それはこっちで対応してるんや。大丈夫や」

「はい、そうですか。ただ、西崎のご父兄からは、今回、藤堂先生ではなく、直接、大学の事務局とご相談したいとのご提案がございましたので、それについて一応、藤堂先生からの確認をと思いまして」

「いや、高石さん、西崎のことは俺がやってるんやで」

「そうですか。では、西崎のご父兄には、藤堂先生にご連絡するようお伝えすれば宜しいですか?」

「いや、高石さん。あんたは何もせんでえぇねん。放っといたらえぇねん」

「と申されましても。先生、この件についてご父兄は、かなり熱心に我々のところにご依頼されておりまして。ですから私としましても、なるべく丁寧に対応させていただければと思っております。対応方法について、藤堂先生からのご指示をいただければと思いますが」

「いや、高石さん。西崎のオヤジさんには、俺から連絡するわ。せやから、あんたは何もせんでえぇねん。放っといてもらったらえぇねん。これはな、テニス部の問題や。テニス部を強化するための、俺の仕事やねん」

「そうですかぁ。分かりました。では、本件について、藤堂先生に一任させていただきます。これについては私どもも記録を残していきますので、何か動きがございましたら、学生課に連絡してください。私どもの方でも支援させていただきます」

「はいはい、高石さん、了解や。ハハハ、おーつかーれさーん」




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