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3:2012年3月17日

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2012年3月17日(土)9時20分

 今日はFDがあるということで、ほぼ全ての教員が大学に集められている。
 FDというのはファカルティ・ディベロップメントと呼ばれる教員の指導力向上のための組織的研修活動のことを指す。
 さらに今日はSD、いわゆるスタッフ・ディベロップメントと呼ばれる大学職員の研修も兼ねた企画が催されることになっている。

 青葉大学で最も大きな室内空間となる4号館大講堂に、全ての教職員が集合していた。
 今回は学内シンポジウムを開催するということで、青葉大学としてはだいぶ気合の入ったFD・SDである。

 特別ゲストとして、大学改革の急先鋒と称される岡本浩市(おかもとこういち)という大学教員を招聘して講演をするそうだ。
 岡本は、時折テレビのコメンテーターとして出演することもあるタレント教員。
 大学改革の具体例やFDの在り方について、自身のアメリカの大学での教員経験をもとに、日本の大学で何が出来るのか研究しているという。

 老いも若きも、大学の教職員がそろって一堂に会するわけで、ちょっと大掛かりなイベントだ。
 今、その講演会の会場には5人ほどの教職員の姿があるが、まだ開演までに時間がある。
 あと15分くらいしたらザワつき始めるのだろうか。


「永山さん。こんな活動、意味ないっすよ」
 橿原一如は不満そうだ。

「まあまあ、ものを考えるきっかけにはなるんじゃない。言うなれば、僕らのお勉強のテーマなんよ」

 橿原と永山義春は、一足早めに講演会の会場の席で座っていた。
 座席左側後方のなかでも比較的前の方、学内イベントなどでは、いつも大体ここらへんに2人は陣取る。

 永山は青葉大学の准教授である。
 年齢は30代半ば。
 橿原が赴任した次の年に永山も赴任した。
 永山と橿原は、同じ南海大学の大学院の出身ということもあって、二人はよく連れ立って動いている。

 永山は青葉大学に希望と期待を抱いて赴任してきた。
 それが1年前。
 前任校は大学の運営が理事会と理事長の独断と思惑で進められてゆく、いわゆるブラック大学と称されるところであった。
 そこから命からがら逃げきた、というのは過言ではない。

 それでも、昨年度まで所属していたブラック大学で身につけた事務処理能力とサバイバル能力、忍耐力という名の諦観力には自信がある。
 やれと言われた仕事は水道管修理だろうとキャバクラの客引きだろうと、なにかの形にすることができる大学教員だ。

 赴任1年目の永山であるが、実は初年度から既に学内のFD委員をやらされている。
 つまり、今回のFD企画も永山は事情をよく知っているわけだ。

 橿原はそれを承知であえて口にする。
「大学を改革したいんなら、この岡本って先生も、まずは自分とこの大学で成功例を作ってから触れ回ればいいのにって感じっすよ。なんで大学を改革することが無条件に良いことになってるんですかねぇ。根拠ゼロ、エビデンス無し、論理矛盾も甚だしい話に、日本中の大学教員が飛びつくなんて、正気の沙汰ではないですよ。それこそ、そんな頭を先にディベロップメントしなきゃいけないでしょ」
 橿原は投げやりに笑った。

 苦笑いしながら永山は頭の後ろで組んでいた手を机の上に出し、頬杖に変える。
「僕たちは何か良いことやってますよぉ、ってことを見せたいんよ。得るものが何かとか、どうやって変えていくとか、変わった先に何があるのかなんて考えとらんのやない? FDなんて規定事実作りにすぎんのよ。っていうか、俺もそのFD委員のメンバーなんだけど。そんなこと言わんといて。傷つくから」

「勇気ありますよね。大学は変わらなきゃいけないからって、真っ暗闇の中をドクタースランプ・アラレちゃんばりに両手広げてブゥーンって全力ダッシュしてるようなもんですよ。やるにしても走ったりせず、歩けばいいじゃないですか。手さぐりしながら、慎重に歩けばいい。僕はね、規定事実のためにと思ってやっていたことが、いつか本気になって取り組み始めるんじゃないかと気が気でならないんですよ。嘘も百ぺん言えば事実になるとか言うじゃないですか。ここで言う規定事実作りって手段のことですよね。それも、大学としての外ヅラをよく見せるための手段ですよ。でも、いつかその手段が目的に変わっていく可能性もありますよ」

「いや、っていうか、もう既に目的になってしまっとる気がするんよ。もはや規定事実作りが目的っていうことよ」

「えぇ! それって最悪じゃないですか。終わりの始まりって、まさにこのことですよ」

「だいたい、なんにせよ彼らの目的がもの凄く浅いわけで。とにかく目の前の快、心地よさを重視して動いとるんよね。生き残りに必死。生き残りさえすれば勝ちっ、みたいな。俺はこの大学はそんなことする必要なんか無いはずやと思っとるんやけどね。まあ、どうしようもない大学やったら別よ。クーポン券を配ってでも学生を募集して、パンダの着ぐるみをかぶって客引きせなあかんのよ」

「そのうち、大学独自でなんか適当なユルキャラ作るかもしれないっすよね。今、ユルキャラっていうのがあるそうですよ。先日、学生課の鈴原(すずはら)さんに教えてもらいました。あの人、ユルキャラ・マニアらしいです。で、そういうのの着ぐるみを僕が着て、オープンキャンパス用に躾けられた学生と騒ぎながら、学生ホールの前で徘徊するんですかね。キチガイですよ」

「意外と着ぐるみって制作費は安いんよ。40万円くらいで作れる。でも、そこまで落ちぶれとる大学やないわけよ、ここは。先生方が、それぞれの立場で真っ当に仕事してくれればいいんよ。でも、そんな真っ当な仕事って、実はしんどいわけで。だって、ちゃんと仕事しなきゃいけないことになるから、つまり、大学教員としての資質を問われることになるわけで。だから、そうではない形で安易に大学の名前を打ち出せる着想に至りやすいんじゃない」

「顧客満足度ナンバーワンみたいな」

「いや、まさにそれ。ビジネスライクな大学経営というのは、教員が大学の教員としての本来の仕事をしなくても容認される空気ができちゃう側面があって。大学教員らしい仕事をしていなくても、私は大学経営のために尽力していますよぉ、って言えちゃうわけ。つまり隠れミノになるんよ。教育も指導も研究もしなくても、とりあえずは仕事してる気になるし、大学の名を高めていることに取り組んでいるように見えるわけで。そういう方針でやってる大学の中では、それが評価されることになるから、教員一同、皆それを目指すことになる。でもそれって本当の意味で大学のためにはなっとらんからねぇ」

「そのうち、学費ポイント還元セール、今なら現金特価5%オフっ、とか言い出すんじゃないですか」

「購買コーナーで学生証を提示すれば、ポイントを貯めることができたりね」

「きっと、青葉大オリジナルグッズは獲得ポイントが高いんですね」

「なんにせよ、とにかく生き残りに必死なんよ。というか、さらに言うなら、まだ死なないのに、頑張れば生き残れる可能性が高いくせに、こういう改革とか、お客様は神様ですみたいなことしなきゃ生き残れないゾーっ、みたいにして内部で煽ってる部分もあるわけで」

「あっ、それ分かります。大学が本来やらなきゃいけないことを議論せず、ゼニカネの、つまり経営の論理で話が進むのは悲しいですよね。もっと言うと、大学がそんなことを始めるくらいなら、そんな大学は大人しく死ね、と思うんですけどね。だって、大学としての機能を果たし得てないじゃないですか。そんなことをやってまで生き残らなきゃならない大学なんて、人類のためにならないですよ」

「あんた、サムライみたいなこと言うね。危ないよ。この大学の経営陣から睨まれるよ」

「ここって見廻組とかいるんですかね。青葉見廻組。トイレの前をぼーっと歩いてたら、天誅っ、とか言いながら事務局長なんかが斬りかかってくるんですかね。だとしたら、いつも鍋のフタを持って歩いとかなきゃいけないですね」

「いや、局長クラスが殺りにはこないでしょ。例えばさぁ、施設課にサイボーグみたいな事務の人いるよね。その人とか」

「あ、人造人間19号みたいな人ですよね。あの人の名前、なんだったけかなぁ」

「それそれ。あの人さぁ、まじでガソリンで動いてるんじゃないかって感じよね。やっぱハイオクなんかなぁ。レギュラーじゃないよね」

「なんか、地上1cmくらいを浮かんで移動してるみたいな感じですよね。歩く時、ぜんぜん股関節とか膝関節が動いてなくないですか? 不気味です」

「まあ、なんにせよ、生き残りをかけた競争、というか、そういうゲームを楽しんでるんよ。けど実際はまだ余裕があるわけで。ビジネスごっこをして楽しんでるところがあると思うよ。でもそのうち、『今年の大学認可取り消し大学はどこでしょう!』、みたいなスリルを味わう時期が来るんやないかと思うと、今のうちからちゃんと真っ当なお仕事をしておくべきなんよね」

「そうなってきたら、毎年3月末あたりにNHKホールみたいなステージに、認可取り消し大学としてノミネートされた大学の学長が集められて、学長のみなさんが雛壇みたいなところに並ばされて、音楽が鳴りつつ観客がキャーって騒いで、鳴り終わったら認可取り消し大学がボッシュートして、床が抜け落ちて学長は白い粉まみれ、みたいな。そういうイベントをやるのも面白いですね」

「あの白い粉ってさぁ、なにで出来てるんやろね。小麦粉なんかなぁ。グラウンドの白線の粉っぽいけど、それだったら体に悪いよね。それにさぁ、開催するとしても場所は東京なんだろうね。じゃあ、地方の学長には交通費はどこまで出るんかな?」

「落ちて真っ白になった学長のみ支給されるんじゃないですか。そのほうが予算少なくて済むし」

「真っ白になった状態でステージの前に出てきて、『いや~、認可取り消しになっちゃいましたねぇ。残念でしたぁ~っ』てインタビューされながらも、『交通費』って書かれた馬鹿デカい小切手型のボードを、脇から出てきたバニーガール姿の女性から受け取る感じよね。それって結構シュールじゃない?」

「で、司会者から『では最後に、テレビの前の教職員の皆様に一言を』とか言われて、カメラ目線になって『みんな、ゴメン、今年で募集停止だよ。でも最後まで一緒に走り切ろう!』とか言うんでしょうかね。この世の終わりですよ」

「じゃあ、最後の年の3月くらいになったら、ZARDの『負けないで』を合唱しながら働くんかなぁ」

「でも、それってもう、負けてますよね」


 FDでは講演者である岡本浩市の熱弁が冴え渡った。
 さすがにタレント教員はトークが上手い。
 ただ、講演後の質問コーナーで手を挙げる者は少なかった。
 無理やりサクラじみた教員とFD委員が質問する程度だった。
 大学改革を学是とするところのくせに、いささか消極的すぎるのではないかと橿原は皮肉りたかった。

 藤堂道雄は、FD委員が用意していた学科長席に座っていた。
 役職のついている教員には、予め席が指定されていたのである。
 藤堂としては、岡本浩市の話はよく理解できなかったが、それでも岡本が口にしていた、「大学の教員というのは、全員が研究をする必要はない。教えるだけでいい先生だっているはずだ」という部分には共感できた。

 しかし、それ以外の部分は共感できない。
 岡本の講演内容をこの大学がそのまま素直に実践したら、瞬殺されるのは藤堂になる。

 岡本が言うところによると、教員は学生に対して学費に見合った分の何かを還元しなければならない。
 できていない場合は、その責任を取らなければならない。
 授業においては、シラバスに書かれている内容、もしくはカリキュラム・ポリシー、つまり大学がその教員に求められることが本当に実践されているかどうか厳格に確認されなければならない。
 そして、授業によって学生が成長しているのか確認されなければならい、と言う。

 藤堂としては、還元とか、シラバス、カリキュラムという単語の意味がわからなかった。
 聞いたことはあるのだが、意味を調べたことはない。
 カリキュラム・ポリシーというのは初耳だ。


「ただね、永山さん。岡本先生が提言してるような、そういう大学の方針にしてしまうと、結局は各大学が無難に定量化できる目標を宣言し、しかも世間受けが良い項目ばかりを目指すようになるんですよ。それって、ブランドのある大学だったらまだしも、そうではない大学においては大学教育、すなわち高等教育が果たし得なくなるということなんですよ」

 FD講演会の後、大学図書館の2階にある永山の研究室で、缶コーヒーをチビリチビリとすすりながら橿原がつぶやいている。

 シンポジウムは11時15分に終わった。
 このあと昼食を一緒にとろうということで、一旦、永山の研究室に来ている。

 永山はMac Proのディスプレイに向かってタイピングをしていたが、その手を止めて振り向いた。
「まあ、バランスの問題なんやろうけどね。でも、なんでも定量化して、世間に説明できなければいけない、という風潮なんよね。説明して、納得できるような話をしなきゃいけない。それで学生を、保護者を、企業を納得させなきゃいけない」

「というかですよ、だいたいですよ、そもそも世間が納得できるような、世間が理解できるようなことを大学がやってたりしたら、それこそ大学の存在意義ってないわけですよ。だって、世間が間違ってるかもしれないんだから。もっと言うと、だいたい世間って間違ってるんですよ。いつも間違う。それが人類の歴史です。フランス革命しかり、ナチス政権しかり。日本なら最近は民主党政権というのがありましたけど、この次もきっと間違うはずです。世間、つまり一般大衆と呼ばれる集団は、単純な欲望、単純な着想でもって付和雷同する。数の暴力で押そうとする。正しいか間違ってるかじゃなくて、高揚感とか閉塞感といった空気で判断する。でもそれじゃダメだから、だから大学教育というものが遥か昔より尊ばれてきたわけです。社会に対し、一種の鎮静剤、トランキライザーとしての役割をずっと担ってきた。言うなればバカにつける薬ですよ。世間のベクトルとは違うことを大学というのはやらなきゃいけない。世間受けしてチヤホヤされるかどうかなんて、その時代の流行とか嗜好によるものなんですから、そこに良し悪しなんて存在しないんです。そんなこと、ちょっと考えれば分かるはずなんですよ。大学教育をやろうと志した者であれば、少しは考えたはずなんです。でも今、そういう着地点にはならない。むしろ、そういう大学としての本来の機能を削ろうとしている。嬉々としてやってる。恐ろしいことに、つまり世間が、一般大衆と呼ばれる俗物が、大学経営を牛耳り始めたということを意味するんです。これってバカなんです。狂ってるんですよ」

「いや、ちょっと、橿原君、そんなこと表で堂々と言ったら『こいつ、生意気!』って怒られるよ。謝罪会見しなきゃいけないよ」

「そうです。こういうのって表で堂々としゃべることじゃないんです。わざわざ私みたいな青二才がしゃべらなくたって、普通に共有されているはずのものだったんです。でもそれを、世間に納得させなきゃいけない、とか言い出し始めたわけです。大学のために税金を払っている俺達に、大学という教育機関が存在する理由を説明して納得させろってね。さっきの岡本先生なんかは、学費を払っている学生や保護者にそれを説明しろってダイレクトに主張してたでしょ。大学の価値は、払った学費に見合ったものが提供できているかどうかだと。それを説明して納得させろってことです。でも、それが納得できるような準備、レディネスが無いから彼らは大学教育を受けに来ているわけだし、一般大衆なわけです。それが納得できるような知性や悟性があるなら、一般大衆ではないし、わざわざ大学へ学びに来る意義はないわけですよ。ようは、『バカがなぜバカかというと、バカだからだ』としか説明できないわけで、『泳げない人がなぜ泳げないのかというと、泳いでいないからだ』としか言えないのと一緒です。泳げるようになりたいのなら、つらくても泳ぐ練習をするしかないんです。泳ぎのコツをコーチから真摯に学ぶしかないんですね。同じように、バカを治してほしいというのなら、つらくても我慢してこちらの話を聞きなさいとしか言い様がないんですよ。もちろんそれだけに、我々としては人類の英知を引き継ぐ使命を背負っているという、神聖で厳格な心意気が必要になります。そういう自覚が、大学教員には求められるんですよ。けどそれが今、崩壊しようとしているんです。しかもヤバイことに、教員たちが、自分達で壊しにかかっているんです」

「教員のことを聖職っていうのも、そういうところがあるからだろうしね。一般大衆も結局、大学が提示する何に納得したいのか、というところが問題なんよね。世間の人って、大学側の言い分としての説明を真摯に受けて納得したいわけじゃないんよ。もともと彼らの側に納得できるための理由というのがアプリオリにあって、それを大学側がなぞることができているかどうか、というところで話が進んでいる。じゃあ、それは何かというと、彼らが望む社会貢献とか学生指導って呼んでいるものは、トドのつまり、ビジネススキルとか金儲けができる知識や技術を提供できているかどうか、という点なんやろ。結局、そこなんよ。だから意味もない資格を乱発して、就職サポートとかボランティアに必死こいたりするわけで。こういうのって全部、定量化、明文化しやすい活動やからやるんよ」

「まったくです」橿原は缶コーヒーに残った最後の一口をすすり飲んだ。

 永山はディスプレイに目を向けた。

「それにさ、悲しいことに、今やってる作業がまさにその資格関連科目の調整だしね。これ、めちゃくちゃ大変なんよ。しかもさ、卒業時にこの資格取得の申請するのって、70人いるうちの3人とか4人だよ。試験とかがあるわけじゃないのに」

「あれですよね。その作業、去年まで私も関わってましたけど、年度末に資格取得のためのガイダンスを開いて、申請手続きと登録料金がかかるって説明したら、とたんに希望者が減るんですよね。1年生の頃には半数以上の希望者がいたのに」

「まあ、4年かけて、資格の価値を理解してもらえたんだ、って思えば気が楽かな」




4: 2012年3月26日