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55:2013年3月24日

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2013年3月24日(日)11時20分

 青葉大学から自動車で30分ほど東へ移動した小高い丘の上に、最近、穂積里香が見つけた喫茶店がある。
 定年退職した老夫婦が営む、お洒落な空間だ。
 まだネットやSNSなどでも紹介されておらず、その魅力を知る数少ない者としての優越感が得られている。

 この丘は草木が生い茂っているものの、住宅地として開発されていることもあって手入れは行き届いている感がある。
 豪華な緑の風景ではないにせよ、柔らかく穏やかな時間が流れる場所だった。

 穂積は、乗ってきた2007年型ホンダ・フィットを、喫茶店に併設されている駐車場に停めた。
 既に駐車場には、待ち合わせしている者の白いダイハツ・ムーヴがあった。

 店内に入ると、エプロン姿の70歳ほどの男性が笑顔を見せる。
 入ってきた客が馴染みの穂積だと分かると、「あ、今日は待ち合わせですね」と言って奥の席を指差した。

 その4人がけの席には、中村奈々未がいた。

 店内は、床、壁、天井がライトブラウンのオーク材で統一されている。
 周囲に長めにとられた特徴的な屋根の軒が、太陽の光をゆるやかに取り込んで、陰影のコントラストを弱めていた。
 壁や仕切りにたくさん飾られている蔓工芸は、この喫茶店を切り盛りする男性の妻が手作りしたものだという。

 今日はその奥さんは店にいない。
 用事があって出かけているそうだ。

 穂積は、こちらに気づいた中村を見ながら、「すみません、お待たせしました」と言って近づき、そして中村の前の席に座る。

「いえいえ、待っていませんよ。30分の予定ですし。私もさっき来たところです」
 中村は笑顔を返した。

 昨年末、中村もこの喫茶店を利用していることを知った。
 店長である男性が、お互いが2年前の開店以来からの客であることを語っていた。
 2人とも、特徴的な容姿で当初より常連だから、よく覚えているとのこと。

 穂積は「落ち着かなくなるから、青葉大の学生はバイトとして雇わないでください」と冗談まじりに言っていたが、店長としては、もともとアルバイトは使わないつもりだそうだ。

 軽く周囲を見回したが、店には2人以外に客はいないようである。

「中村さん、凄いですよね。来週から学長秘書ですよね」
 穂積は、歯の浮くような自分のセリフにちょっと嫌気がさした。

「はい、ありがとうございます。なんだか幸運が転がり込んできたという感じです。ビックリしました。今、理事長秘書の土居さんから、いろいろと教わっています。前の秘書の浜本さんからも、引き継ぎ作業がありますし」
 中村は、いかにも恐縮したような態度で、穂積に話をしている。

 中村は話を続ける。
「それにしても、今年度は大変でしたよね。いろいろと事件が起きました。そんな事件がいろいろあったから、私も秘書になっているようなものですし」

 穂積は口を少し尖らせると、真一文字にしてから話しだす。
「なんかさぁ、経営難の大学とは思えませんよね。経営難だっていうんなら、こんな感じで騒いでいる場合じゃないですよねぇ」

 中村は眉間にシワを寄せ、困った顔をつくりながら言う。
「うん。そうですよねぇ。経営陣の方々も、どうしちゃったんでしょうね」

「ここの経営陣の人たちって、皆、けっこうな高齢者でしょ? たぶんね、自分たちが大学人として関わっている間だけは大丈夫っていう、変な安心感があるんですよ」

「ああ、なるほど」と中村は相槌をうつ。

 店長が注文をとりに来た。
「どうしますか? コーヒーだけでいい? 二人とも、いつも注文しているものでいいですかね?」
 はい、お願いしますと二人は応えた。

 そこに穂積が付け加える。
「あっ、じゃあ、ショートケーキ。2つ。中村さんもいい?」
 中村は笑顔で頷いている

 店長は笑う。
「珍しいね。初めてじゃない? ショートケーキなんて頼むの」

「はい、でも、なんかそんな気分で。最近、そんな面白い話を聞いたから」

 店長は、「はい、はーい」と返事をして戻っていく。

穂積は、さっきまでしていた話を思い出しながら言う。
「困るんですよ。もっとちゃんと危機感を持ってもらわないと。そりゃ、あの人達に聞いてみたら、俺たちは危機感を持ってるぞぉって言うんでしょうけど、そうじゃなくてさ。本当の危機感」

「本当の危機感ですか。それって、長期というか、将来的な話ですよね」

「そうそう」

「ちょっと分かります。私も、この仕事は今後も続けていこうと思っているんですけど、だとしたら、今この大学がやっていることって、その場しのぎのところが多いですよね。もっと抜本的に改革しないと、マズいところがあるんじゃないかって。でもね」と言って、中村は少し笑ってから続ける。「以前、ウェルフェアプロデュースの永山先生と橿原先生とお話したことがあるんですけど、特に橿原先生なんかは、抜本的改革っていうのが嫌いみたいで」そして口に手を当て、明るく笑った。「なんでですかね? 橿原先生が言ってることって、抜本的改革っていうのが、ちょうど似合うような気がするんですけど」

「おそらくですけど、あの人の場合、改革するよりも、大学本来の姿に戻れってことだと思います。つまり、何もするなって事だと思いますけどね。何もしないっていうのは、かなり勇気がいることだし、捉える人によっては、かなりラディカルな行為に映るんですよ」

 中村は頷きながら、話を続ける。
「最近、理事長が経営手法とかマネジメントに凝ってるじゃないですか。あれなんか、必死に藻掻いていることの現れじゃないかなって。でも、いまいちピンとこないです。結局、大学って文部科学省とか行政とか、あとは企業とか保護者なんかの要望で動いているところがありますよね。私が思うのは、じゃあ、それを素直に実現すればいいんじゃないのかな? って。だって、仕組みや能力的に、十分に実現可能なんですから。分かりますか? 普通の民間企業って、お客様からの要望を超えたところで製品を作ったり、サービスを展開しなきゃいけないですよね。でも、大学の場合、これをやってくれ、ていう要望がもともとあるのに、全然やってないじゃないですか。それに対応できていないし、やろうともしていないのに、世間の要望を聞かなきゃいけないって、口だけでは言ってるんですよ。なんだか不思議な労力を使っている感じがします」

穂積がそれに応える。
「橿原先生からすれば、大学はそんな要望を聞く必要はないって言うでしょうし、永山先生からすれば、本気で要望に応える気がないのにチャラチャラしてるって言うでしょうね。私がさっき言ったことは、そのバックグラウンドなんですよ。つまり、現在の青葉大学の経営陣て、社会的要望とか、行政からの命令・通達に応えているフリだけしたいんです。そうやって、改革を進めたがるんですよ。改革したい理由は、改革するのが格好良いからじゃないでしょうか。ブームだから。で、彼ら50代以上の人たちにしてみれば、どんなにメチャクチャな改革をしても、どんなに乱暴な経営をしても、自分たちが給料を貰っている間は安泰なんです。大学って、潰れるにしても時間がかかります。ヤバいとなってから10年はかかりますよ。その間に、自分自身は定年退職になるか、早期退職すればいいので、人生安泰なんです。だから、碌でもない大学改革とか大転換とか、平気でやっちゃえるんですよ。成功すれば、改革を実現した当事者として冥土の土産にできるし、失敗しても、その時は無関係の人間で済ませられます。民間企業の場合、ヤバいとなってから1年や半年、場合によっては1ヶ月で破綻します。だからその戦犯が誰なのか明確ですよね。けど、大学はそうじゃないんです。でもこれって、30代以下の人間にとっては、そんな感じでやられちゃたまったもんじゃないですよね。私なんか、マジで殺意が湧くからね」

 中村は眉間にシワを寄せて頷いている。
「そうですよねぇ。だからこそ、今の経営陣からは、絞るだけ絞っとかないと。普通にリタイアできると思ったら大間違いだぞぉって」と言って笑う。

「ですよねぇ。中村さんさ、岩崎学長にはさ、いろいろとオネダリしときなよ。車とか、今のムーヴから買い替えてもらおうよ」

「え? そうですかね。じゃあ、思い切って、アウディとか」

 穂積は首を横に振る。
「アルファ・ロメオ」

「んんー、はい。なんか夢が広がりますよねぇ。あとはそうだなぁ。とりあえずアイツの家庭は壊しときます」

 店長が商品を持ってきた。
「はい、お待たせー。コーヒーとショートケーキ。なんか二人とも、怖い話をしてない?」

「そうですか?」と穂積。

 コーヒーとケーキをテーブルに置きながら、店長が言う。
「穏やかぁにさ、普通にさ、リタイアさせてあげなよ。リタイアしてさ、こうやってのんびりコーヒーを淹れる人生を送ってる奴もいるんだし」

 中村が朗らか応える。
「えぇー。ダメですよぉ。苦しんでから消えてもらいます。まずは田之浦、その次が岩崎」
 穂積と中村は仲良く笑った。




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