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1:2005年6月19日

どこへ出しても恥ずかしい



研究と授業の統合は、大学の高い、捨て去ってはならない原則なのです。
自ら研究する人だけが、本質的に教えることが出来るのです。
そうでない人は、固定したものを伝えるに過ぎず、教授法的に並べ立てるに過ぎません。
大学は、単なる学校というものではなく、高等教育機関なのです。
カール・ヤスパース『大学の理念』


1: アップルヒール・パーティー


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2005年6月19日(日)13時11分

 南海大学 一宮キャンパス C号館4階。
 大学院生用として設置された簡素な給湯室。

 水垢にまみれた蛇口を慎重にひねって、水音がたたない程度に細く垂らす。
 大きめの無地の湯呑の中にはウイスキーが3分の1ほど。
 これを水道水で約2倍に希釈してトゥワイスアップにした。

 もうひとつ同じものをつくる。
 こちらはアニメキャラの絵が入った白いマグカップだった。

 このC号館4階の窓からは、3階の屋上部へと進み出ることができる。
 そのために用意された構造ではないのだが、学生の多くは開放感を求めて外に出る。
 もちろん、安全管理の観点から大学としてはこうした行為を快く思ってはいない。

 マグカップと湯呑で両手がふさがれているため、肘と肩を使って窓を開けた。
 幸いなことに低目に施工されているアルミサッシを、足を上げてまたぎ、腰掛けながら乗り越えて屋上に出ると、煙を上げる七輪を囲んで2人の男性が焼き肉をしていた。
 申し訳程度に、人目につきにくいよう、空調の室外機のそばに陣取っている。

 空は曇ってはいるが、雨が降り出す心配はない。
 夏の輝きが足りないが、その代わりに弾力のある空気は漂っていた。

 マグカップと湯呑を両手に持って、中身をこぼさないようにソロリソロリと2人のところに進むのは橿原一如(かしはらかずゆき)。
「やっぱ、どうせならウイスキーと水ごと持ってくればよかったなぁ。もっと飲みますよね」
 そう言って笑いながら、七輪の前に置いた折りたたみチェアに座る。
「永山さん、本棚に置いてたバランタイン・ファイネストです。どっちがいいですか? マグカップか湯呑か。量はたぶん一緒です」

 永山義春(ながやまよしはる)は、橿原が両手で突き出した2つの器から、湯呑の方を受け取った。
「橿原君、なんか他にいいグラスなかったの? ウイスキーはマグカップとか湯呑で飲むもんじゃないよ」

「飲めればなんでも良いですよ。どうせ水も水道水なんだし。けど、いい加減、あの給湯室にも普通のグラスが欲しいですよね。なんで湯呑だとかマグカップしか置いてないんですかね。とにかく普通の備品がない」

 もうひとりの、無精ヒゲを蓄えた男は缶ビールを飲んでいた。
 既に1缶あけている。
「そこ使ってる奴等がみんな普通じゃないからね」
 そう言って大げさに笑ってみせるのは、研究助手の富士本昭(ふじもとあきら)。

 去年から期限付きのこのポストに就いている。
 精力的に実験を繰り返していて研究業績も多く、30歳という若さにして学会でも注目されている。

 湯呑に口をつけた永山が気持ちのいい溜息をする。
「おぉ〜。いいね、湯呑でもいいよ。割加減、完璧だね」

「はい、ありがとうございます。ウイスキーを1に対して、水を0.85くらいにしてます。あの蛇口を制するものが水割りを制しますから」

 この3人は同じ4階エリアに部屋とデスクを置く研究者。
 とは言っても、富士本昭は研究助手として大学に勤めていているのに対し、永山義春は大学院博士課程3年、橿原一如は修士課程1年の大学院生だ。
 研究室も分野も3人共が違っているが、同じフロアにいる縁ということもあって、昼食や夕食の時間を一緒に過ごすことは多い。

 富士本が骨付きカルビを裏返しながら橿原に尋ねる。
「そういや、橿原君、先週やった実験のデータ、打ち終わった?」

 橿原が所属している研究室は、その指導教員が放任である。
 これには橿原も不満があるわけではない。
 同級生のなかには、やることに細かく注文をつけてくる指導教員に辟易している者もいるので、こういうのは良し悪しだと割り切っている。
 そのため橿原は、富士本や永山に研究の相談や実験の手伝いをしてもらうことも多い。

 富士本としても、橿原の研究室の事情は知っているので、気兼ねなく積極的に研究のことをアドバイスしていた。
 院生を囲い込みたい研究室や教員もいるので、そんな所では外部からの指導やアドバイスを好ましく思わないことも多い。
 場合によっては人間関係が大きく崩れたり、学内闘争に発展することもあるので注意が必要である。

 橿原のように、この時期に実験を何度か展開している院生は、実はそんなに多くない。
 富士本は、橿原が4月に入学した直後から、早めに実験に取り組んで、研究手順に慣れることが大事だと説得していた。
 最初のうちは、実験計画を富士本や永山が作ったりもしていた。

 橿原としては、秋までは論文や資料を集める準備期間だと想定していたので、いきなり実験をせかしてくる富士本が、当初は鬱陶しくもあった。
 しかし、手探りで研究を進めていくよりも、実験をしながらの方が気分も楽だということに気がついた。

「あのデータ、かなり外れ値が多くて困ってるんですよ。やっぱり事前の処理が甘かったんですかね。有意差を出すのが難しそうです」

「いや、そんなこと気にしなくてもいいよ。やる前にも言ったじゃん。今回の実験は、事前処理をほとんど無視して測定しても、前までと同じ傾向が見られるか調べる意味もあるんだって。外れ値が多いんだったら、そういうもんだと受け止めればいいよ」

 富士本は缶ビールに手をつけると、少ない残りをすするように飲んで続ける。
「それに、あれを測定した人って国内にはほとんどいないからね。測定の癖とか限界みたいなのを、橿原君が把握しておくのも今後のためにも重要だよ。こういうの、橿原君の分野ではあんまり気にしてないのかな。そういう話題って少ないよね」

 富士本の研究領域は、橿原が取り組んでいる領域から遠いはずなのだが、こうして対等に、むしろ最先端の話題提供もしてくれる。
 一体どうやってリサーチをしているのか? 橿原はそれに驚かされることも多い。
 本当なら自分の方が専門なのだから、こういう状態になることに悔しさがあると同時に、目標にすべき人間を見せられている興奮もある。

 焼き上がった豚トロをタレにつけながら、永山が言う。
「っていうか、橿原君、あのデータ、もう入力終わってるわけ。それって結構優秀だと思うんだけど。めちゃくちゃ多いでしょ、あのデータ。しかも、手作業じゃないとダメなんだよね」

「はい。なんか、他の大学とかだと、測定値を自動でエクセルファイルに出力してくれる奴があるらしいんですけど。うちは手入力です。先生に言ったら、研究費が無いんだそうです」

 永山は、豚トロを熱そうに舌の上で転がしている。
「けどさ、なんとかならんの? それ」

 富士本がそれに口をはさむ。
「ホントに無いと思うよ。あの梨田(なしだ)先生、たぶん研究費を大学院生用の研究に使ってないでしょ。別のところに使ってるでしょ」

 永山が笑いながら返す。
「いや、そんなの有りですか? 研究費の無駄遣いじゃないですか?」

「うーん・・・。まあ、大学教員にもいろいろいるからね。それに、梨田先生の場合はそれでもOKな気もするんだよ。大学って、誰もが学術研究を重視して活動すればいいってもんじゃないしね。梨田先生のおかげで、この階の人間関係がうまく回ってるってのも、あながちバカにできないと思うし。梨田先生がいなかったら、4階の人間関係はギスギスしてやりにくいと思うよ。そしたら、僕らみたいな立場の人間も、その煽りを食って辛い目にあってるかもしれないし。職員さんや、学部生たちも助かってるところもある。だって、もし梨田先生がいなかったら、この前の新入生オリエンテーションはめちゃくちゃになるところだったよ。僕もそれでだいぶ助けられたんだから。まあ、その分が、橿原君にシワ寄せがいってるという側面も否定できないけど」
 そう言って、富士本は橿原に向けてビール缶を差し出してみせ、コミカルに乾杯の仕草をした。
「だから、僕らみたいなのが橿原君の手伝いをしてやらにゃいかんのだよ、永山君、わかるかい? これが4階の構造というものだ」

「えぇ、なんかわかる気がします。相互扶助みたいなもんですね」

「そうそう、社会っていうのはそうやってうまく回ってんの」

 そうこうするうち、3人のそばにある空調の室外機が稼働を始め、必要以上な轟音を響かせる。
 3人は会話の音量を少しだけ上げた。

「あと、橿原君さ、永山君が言うように、あれだけの短時間にきちんと実験データを出してくるのは、たしかに凄いと思うよ。地道なことだけど、こういうのが研究者として一番大事」

 富士本が丁寧に育てていた骨付きカルビが食べられるようになった。
「よしよし、これこれ」

 富士本は自分の皿に移し、指で骨をつまんで食べようとする。
 ところが、思いのほか骨が熱くて指で弾いてしまう。

「あーつぅっ!」
 コンクリートの上に落としてしまった。

 絶叫する富士本。
 笑う二人。

 すると、後ろの窓から高齢の警備員が身を乗り出してこちらに向かって声をあげる。
「おーい、君ら、そんなところで何してんの?」

 3人は答えた。
「研究です」

 警備員は軽く右手を挙げながら笑い、廊下を進んでいった。



2:2012年3月14日