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約束された場所などない


最近,村上春樹の著作で小説以外のものを読んでみました.
『アンダーグラウンド』『約束された場所で』という,オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件にまつわるノンフィクションのインタビュー本です.

『アンダーグラウンド』では地下鉄サリン事件の被害者を,『約束された場所で』では当時のオウム信者を,それぞれ氏がインタビューしています.

大ヒットとなった氏の小説,『1Q84』は,オウム真理教がらみの裁判を氏が傍聴した後に世界観を構想して描いたもです.
村上氏はオウム事件に強い関心を持っているようで,『1Q84』に先立ち上記の2作を刊行していました.
『1Q84』については以前にも記事にしましたが,これだけ関心を寄せていたとは知りませんでした.
とにかく「真実が知りたい.生の状況をダイレクトに感じ取りたい」という一心で企画したのだそうです.


ところで,特に私の印象に残った一文は『アンダーグラウンド』にある次のようなもの.
“自分の置かれている立場は,好むと好まざるとに関わらず,発生的にある種の傲慢さを含んでいるものなのだ”
氏がインタビューという行為によって,対象である “インタビュイー” を傷つけてしまっているのではないかという危惧を告白するところの一文なのですが...

これ..,私の中にある天の邪鬼な感性をうずかせる言葉です.
“人は存在しているだけで迷惑を与えているものなのだ”
というのが私の持論ですので.だから上記の氏の言葉にもとても共感できます.

別に自虐的になっているわけではなくて,そういう気持ちで常に生きて行くんだという私の心構えのようなものでして.
このように考えれば,ある種の達観した物の見方が出来て,少しだけ生きるのが楽になります.

仏教について身の丈以上の御託を並べた記事も何本か書いたことがありますが,「諸法無我」ではないですけど,それを逆説的に意味するような概念だと考えています.
「諸法無我」 なんて言葉,聞き慣れないと思いますので以下にWikipediaから引用しておきます.


***********
一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め,目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている.
このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ,他者に対する慈悲の働きがありうるとする.
***********(諸法無我)


話をオウム事件に戻します.
オウム真理教に入信した人には高学歴で聡明だったはずのエリートが多かったようで,それが当時は「なぜエリートである彼らが...」 という謎として扱われていました.

これについて私はこういう見方をしています.
“エリートだったからこそ入信したのだ” ,と.

これも氏が 『約束された場所で』 の “あとがき” で同じようなことを述べています.
氏の見解では,エリートが入信したのは自分の能力を簡単に活かせる場所をオウムが提供したからだとしています.氏がインタビューによって感じたのは,信者の多くが理想主義者であり,純粋だということ.それを,オウム真理教は解決してくれるものとして存在したのではないかというのです.

賛同できる見解です.
しかし,私はさらにこう付け加えましょう.
彼らは “真の意味でエリートではなかった” から簡単に入信という行為に走ったのだと.
彼らには意識できている・できていないに関わらず,不安と焦りがあったのではないでしょうか.自分の能力というものに.

本当に頭が良くて理想主義で聡明なら,オウム真理教のような教団に,少なくとも社会的にあの手の “イタい教団” に入信するという行為には至らないはず.

自分の能力に一抹の不安があったからこそ,それでも能力を買ってくれる・認めてくれる組織に安易に身を委ねたのではないのでしょうか.
宗教であれば断定的な物言いが安易に許されます.科学者の端くれであれば,言いたくても言えない,ある種のシンパシーを感じる 「断定的表現」 というものを宗教は可能にしてくれるからです.自分の価値を簡単に高めることができるのです.


これは宗教に限ったことではないし,オウム真理教に限ったことではありません.
故に,作品の最後で村上氏が語る,
“我々の社会において本当に怖いのはオウム真理教ではなく「オウム的なもの」だと言ってもいいかもしれない”.
という見解も考えさせられます.