2009年11月4日水曜日

鏡は悟りの具ならず 迷いの具なり

『仏教聖典』 を買いました.
以前から買おう買おうと思っていたのですが,その度に忘れて結局今に至っていました.

ユダヤ教やキリスト教の『聖書』,イスラム教の 『コーラン(クルアーン)』,に並ぶ世界三大聖典の一つです.
残すは 『コーラン』だけとなりましたが,コーランを買うのは気が引けます.なんとなく.


聖典の中身はというと,主にお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)の発した言葉が記載されておりまして,個人的ではありますが聖書以上に日本人の心にグッとくる言葉が並びます.
聖書は言い回しがまわりくどくてイライラするのですが,仏教聖典ではストレートにズバッと言い切る感じが心地よいのです.

例えば,
我が愚かさを悲しむ者あり.この者すでに愚者にあらず.
自らを知らずして賢きと称するは愚中の愚なり.

ソクラテスの「無知の知」,孔子の「知るを知るとなし,知らざるを知らずとなす.これ知るなり」という言葉にも通じる表現ですが,お釈迦様の表現の方が明確で生活に役立つ言い回しのように思います.
この3者(ソクラテス,孔子,釈迦),生を受けた時代は同じですけど(紀元前500年ほど前),生まれた場所も違えば関わりもなかったはずなのに全く同じような考え方にたどり着いたようです.さすがですね.

私も悟りを開けるように精進して参りたいと思います.

ちなみに,この記事のタイトルは斎藤緑雨の言葉.
意味は不明ですけど,私なりの解釈としては,自分を客観視すればするほど自分を見失うことになるという意味ではないかと.
自らの感性,心の声を大切にして判断せよとということでしょうか?
スポーツ・体育にも同じようなことが言えそうです.

仏教の教えにも,
自らを灯火とし,自らを拠り所とせよ.他を拠り所としてはならない.法(真理)を灯火とし,法を拠り所とせよ
と言うのもあります.

この時期になって就職しようか大学院へ進学しようか,と猛烈に悩んでいる優柔不断な4年生がおります.
いろいろな人の意見を聞いて考え込むのもいいですが,結局は自らを灯火とせねばならないのです.他を拠り所としてはなりません.