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ようするに,余裕のない現場が大学に求めている

昨日,隣の研究室の先生からこんな話題を提供してもらいました.
「教員養成、6年じっくり 愛知教育大、修士まで一貫コース」
教員の質の向上をめざし、国立愛知教育大(愛知県刈谷市)が、全国唯一となる大学院修士課程までの「6年一貫コース(6一コース)」を開設している。大学院での研究と並行して、学校での長期間の授業実践を盛り込んでいるのが特徴だ。意欲の高い学生が集まるが、研究成果を教育にどう生かすかを模索している。
朝日新聞 2013年5月24日
私のところも教員養成をしているので,関係がない話題ではありません.

教育関係者や教育系大学の方々にとっては常識ですが,このニュースの背景には「教員の修士レベル化」というものがあります.教員のレベルを上げるために,免許取得条件に「修士以上の学位を有する」っていうのを必須にしてしまおう,というものです.

そういう潮流を見越して,またはこの理念に賛同して,大学4年間と修士課程2年間,計6年間かけて教員養成をする大学が出てくるのではないか,と思っていたら,早速そういう大学を見つけました.というニュースなのです.


隣の先生にもお話しましたが,この手の話に疎い人のために簡単に解説しておくと,
昨今,教育現場での事件・事故がクローズアップされることから,より質の高い教員が求められておりまして.

そんなわけで,教員の質を高めるにはどのような策が必要か?
そして,教員養成をどのようにすれば効果的か?
が議論されているのです.

さしあたって教員養成改革のメインストリームとしては,
(1)教職課程の修士レベル化 ←上記の流れ
(2)教職課程の質的向上
(3)研修の充実
(4)インターン期間の導入 ←第二次安倍内閣で浮上
(5)免許更新制 ←第一次安倍内閣から開始
といったところです.


上記のことについては,2006年の中央教育審議会(いわゆる中教審です)での議論が,
今後の教員養成・免許制度の在り方について(答申)
として文部科学省のHPに掲載されていますので,詳細が気になる人は参考にしてみてください.

なお,くだりの「教職課程の修士レベル化」は民主党が進めていたものです.当時(2012年8月)の資料として以下のものがあります.
教職生活の全体を通した教員の資質能力の総合的な向上方策について(答申)
独特な教育政策で有名なフィンランドの方法を,浅はかにも付け焼刃しようと目論んでいたのでしょうが,残念ながら「教職課程の修士レベル化」は保留(つまり却下)になる流れです.

さて,こうした教員の指導力向上や教職課程の改革については,掃いて捨てるほどニュースやブログで取り上げているでしょうから,私のブログでは,

「そもそも,なぜ教職課程を改善しようとする流れがあるのか?」

という部分に切り込もうと思います.
もっと言うと,

「修士レベル化にせよ,教職課程の質的向上にせよ,そして免許更新制にせよ,なぜこんなにも大学側に仕事を振ってくるのか?」
というところです.


「当たり前.だって,教職課程の質が問題視されているからだろ」
と脊髄反射せず,どうか最後まで読んでください.


結論から言いますね.
この記事のタイトルにもあるように,
“余裕のない教育現場が,新人教育を大学に求めている”,
ということが事の発端であり,
それに惑わされて本質が見えなくなっているのが残念,
ということです.


教員の指導力を向上させようとして,大学の教職課程の質を向上させたり量を増やしたり,ましてや修士レベル化にしたところで,全くもって無意味です.

「大学が受け持つ仕事を減らしたいからだろ!サボるな!」
という声も聞こえてきそうですが,私が目指しているのは,あくまでも「指導力の高い教員の養成」です.
そして,この目標を達成するためには,大学の教職課程をいじったところで,なんの効果もないのですから,そもそもやる必要がないですよ,と言っているまでです.
無意味な仕事を増やして,学校の先生や大学教員の負担が増えるだけで,誰も得しません.

どうもこの手の話は,
「大学が提供するもの(過程とか研修)の質を上げれば,出口(つまり教師)の質も上がる」
という奇妙奇天烈な理屈が,なんの理論的根拠もなく通ってしまうので迷惑しています.


「学校の教師の指導力を上げる」がテーマなのですよね.
であれば,それに効果があるであろう施策を検討すべきで,なんだかピンぼけした方法論ばかりが積み上げられているのが残念です.

大学が教職を目指す学生に授けられるのは,教育とは何か?学校とは何か?発育とは何か?といった「学術的な思考力」であって,教師として現場で使える指導力やスキルではないのです.
そこを勘違いしている人が非常に多いわけで.

「私は授けられるぞ!」と憤る大学教員もいるかもしれません.
ですが,仮にそれが事実だったとしても,そんなごく一部の先生の影響力が全国的に,そして政策的な効果として期待できるわけがないのですから.
もっと冷静にこの国の教育問題を考えてください,とだけ申し述べておきます.

学校で勤務するにあたっての最低条件である学術的思考力は大学で授けましょう.
しかし,学校の先生に必要とされる指導力や子供との接し方,保護者とのやり取りなんていうのは,学校教育に携わっている人しか分からないですし,その現場でこそ教えられるべきはずのものなのです.
そのための“ふるい(フィルター)”として採用試験があるわけで.

これを民間企業で例えれば,営業で求められる顧客とのコミュニケーションや,社員としての立ち居振る舞いなんてものは,そこの会社でしか学べないし教えられないはずで,これを大学が “胸を張って堂々と”,そして “公式に表立って” 教えてたら明らかに可笑しいというのは容易に分かってくれるはずです.


こうした事態は,世間や保護者から「あーだ,こーだ」と言われ続け,膨れ上がる生徒指導と家族相談,溢れかえる資料作成によって余裕がなくなった学校サイドが,それこそ余裕を持って新人教育ができないことから,あろうことか,

「えぇい,新人教育は大学に任せた!」

ってことにしたくて,果ては,

「もっとレベルの高い卒業生を出せよ!養成校としての責任を果たせ!」

と逆ギレしている,という流れです.


・・・・・,はい.

察しの良い方は分かってくれましたか?
実は途中でサラッと流した「企業」も同じ状況なのです.

民間である「企業」は「学校」よりも節操がないですから,堂々と大学にこれを求めちゃっています.
ググったら日本経団連の調査が出てきますので,そちらも参照ください.

そこには「コミュニケーション能力」とか「グローバルな視点」とか.
果ては,主体性とか実行力とか協調性や一般常識といった,
「おいおい,それって新人教育でやることじゃねぇの?」
というものが盛り沢山.

画面の前で腕を組んでシタリ顔をしている方々,
自分自身を学ぶ側(学生とか新人とか)に置き換えて考えてみてくださいよ.

語学(英語)力がその典型です.
英語とか外国語っていうのは,それを話さなければどうしようもない状況に追い込まれなければ学習できないものでしょ?
今は話せている人自身もそうだったはずですし,未だに上達・学習できずに悩んでいる人も多いはずです.そうじゃないですか?

学生時代には朝が弱かった人も社会人になったら起きれるようになるし,会社の成り立ちやルールも1年くらいかけて慣れたんじゃないですか?

企業にしたって,社員に語学力をつけさせようと考えたら,
「おい,あのさぁ,おまえ来月からイギリスへ行って勉強してこい.なっ♪,がんばれ」
って渡航費・研修費を渡して送り出せる気概があるかどうかの問題です.

外国企業とのコミュニケーションが差し迫ったところなら,それくらいするでしょう.
必要も気概も野望もないのに,ただブームに乗って,見栄をはりたくて「グローバルな人材がいない」「語学力が高い人材が必要」などと回答する企業が多いのではないですか実際のところ.


我々のような大学関係者だって同じです.
必要に迫られるから語学を習得する.
そうじゃないと首切られるし,そもそも仕事にならないからです.

家族や生活を犠牲にしてでも海外経験に投資する教員もいますし,必要に迫られている大学は出張費用を出して研修させるわけで.
※よくイメージされる,のんびりした海外研修・経験というのは,ごく一部の人だけですよ.昨年ノーベル賞を受賞した山中伸弥先生の苦労エピソードなんかが典型的なものだと思います.ご参照ください(そんなわけで,この仕事は自殺者も多い...).


今は不況で業績不振だし,その渡航費や研修費を出すのが苦しいから.
さらには,社内での一般常識とか意気込みといった新人教育を長期間かけてやれる時間や労力が惜しいから,それを大学でやってくれと甘えているだけなのです.

一昔前(90年代中頃)は,
「即戦力が欲しい!」
と恥ずかしげもなく露骨に訴えてたでしょ.
覚えてます?

そう言えばあの頃から不況が本格化しましたよね.
こういうのって,経済状況と符合します.


結局,現在は学校も企業も余裕が無いわけで.
だからといって,それに大学が右往左往してたらヤバイんです.
仕事にならないんです.
※ちなみに,この問題は大学論とか若者論とか時代といったカテゴリで特定できる問題じゃなくて,政治経済から派生する相互関係のある問題だと思われます.
先日の記事,■昔の記事を読みなおす「派遣に思うこと」をご参照ください.


ところが,体力のない大学ほど「世間の要求」を気にするから,そういう方向で学生指導をしてしまう.もちろん,短期的には世間ウケも学生ウケも良いから,「効果があった」とか「私たちのやっていることは正しかった」と錯覚してしまいます.

けど,それだと大学が本来果たすべき,
「学術的な思考力を高める」
ことを弱めてしまい,長い目で見たら日本の,そして人類のためにはならないことは自明のことなのに.

面接官ウケとビジネスの才を高める大学教育がはびこる日本に,未来はないでしょう.

考えてもみてください.
「世間の要求」とやらを丸々実践すれば評判が良くなるはずなのに,延々と「大学の格付け(と一応ここでは呼んでおく)」の大枠は変わらないではないですか.

いわゆる「危ない大学」ほど,この「世間の要求」をしっかりと実現しているんですよ,いやホントに.
ところが,実際には大学間の格差は広がる一方です.
「世間の要求」を受け入れた大学が評価されたなんて聞いたことありません.
不思議でしょ.
って言うか当然なのだが.

※この相反,矛盾するメカニズムは,また後日記事にしましょう.
で,それを記事にしました.
危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策への対策」


つまり,大学らしい大学を続けることこそが,大学が本当の意味で良い人材を育て,社会に貢献するための道なのです.

※後日,この記事で触れている「教職課程の改善」をテーマにした記事を書きました.
どうしても教職課程の改善をしたいなら