2014年7月27日日曜日

自主的に学ばせるには?…っておかしいでしょ

先日,ニコニコ動画で興味深い論考を耳にしました.
佐藤健志氏による「言葉の使われ方」に関するものです.
YouTubeでは,
https://www.youtube.com/watch?v=_MSpYNDibxQ
で見ることができます.
30分25秒ぐらいのところから,氏の論考を聞くことができます.

どういう話かというと,「現政府の言葉の使われ方が,デタラメになってきている」というもの.
例えば集団的自衛権行使容認については,「これは,憲法解釈の一部変更であるが,解釈改憲ではない」
とか,
成長戦略については,「もはやデフレ状況ではなく,デフレ脱却に向けて着実に前進」
とか,
「私の第三の矢は,日本経済の悪魔を倒す」
とか.

言いたいことは分からないではないが,真っ当な日本語になっていないわけで.
そうした真っ当ではない言葉の使われ方を目の当たりにしても,それがまかり通ってしまうような日本社会というのは,これもまた真っ当なものではないのだろう.という話なのです.

それでですね,
これを聞いた時に「我々もそうなんだよなぁ」と思わされたのが,この国の学術活動を司っている大学も同じであるということなんです.

大学こそ「言葉の使われ方」にひときわ敏感でなければいけない集団なのに,その大学自らが使う言葉に「なんじゃこりゃ?」と思わされるような話がたくさんあるのです.

この前,他大学の先生と雑談していた時に出てきたのが,昨今の大学のFD(ファカルティ・ディベロップメント)があまりに酷い,ということ.
※FDというのは,教員の教育能力向上に向けた取り組みのことです.

最近,(多くの大学で)注目されているのが,
「学生たちが自主的な学びに向かうにはどうすればいいか?」
というテーマでして.

えぇ,もうね・・.既にこの時点で終わってるんですけど.

ピンとこない人のために笑いどころを解説しておくと,
「自主的に学ばせようとしてる時点で,それって自主的じゃないやん」
っていうツッコミなわけです.外野としてはそれが聞いてて面白いんですけどね.

FDに全くと言っていいほど取り組まない大学に移ってきた私なので,ちょっと懐かしい香ばしさに出会えて嬉しい気分になったと同時に,悲しみと哀れみの情が生まれたというか,シュールというか.

関連することとして,学生たちの主体的な学びとやらを促進させるために,大学がよく分かんないイベントとか行事を仕掛けて,積極的に斡旋する(もとい,誘導する)ことも含まれます.
それについては,大学側の裏事情を含め,
危ない大学に奉職してしまったとき「イベント企画対策」
で書いているので参考までに.

話を元に戻すと,
たいていのFDでは,大きな教室や会議室に教員が一堂に会し,自主的に学ばせるための方略をあーでもないこーでもないと,グループワークとかディベートする時間が設けられているのだそうです.

何がつらいって,それに大学教員が大挙して “本気で” 取り組んでいることなのです.
今の私としてはそんなシュールな場面を想像して楽しめるんですが,当事者としてはたまったもんじゃないのでしょう.

あと何が悲しいって,「これって変だよね?」っていうことに,少なくない教員が気づいているはずなんですけど,そうした声が拾われることもないですし,言えない状況になってしまっていることです.
もっと言うと,気づいている教員のクセに,気づいている教員こそが,そんなFDを推進・企画する側にいるという哀れさもあったりで.

それでも・・,誰か言わなかったんですかね.
「このテーマなんですけどぉ.これって日本語になってませんよねぇ」って.

分からんでもないのですよ.
きっと,「学生たちが自主的に学んでくれないと,そもそも大学教育というのは成し得ないし,価値がない」という問題意識があっての話なのでしょう.
であれば,堂々とそういう議論をすればいいじゃないですか.

けど,できないわけです.
そんなこと言うと,「その前に教える技術を高める努力をしてくれ」「教育力があれば,自主的に学ぶようになる」って言われるからでしょう.

でも,大学で学びというのは,100%とは言いませんが99%は学生の学ぶ姿勢によって決定しているものです.

たまに,「大学で学ぶことは何もなかった」「大学で学んだことには意味がない」と言う人がいます.
これは単にその人に「大学で学ぶための力がなかった」だけのことです.学べずに卒業しただけのことです.

少なくとも日本の大学では,大学で学ばなければならないことを学ばなくても卒業ができることになっています.
これは,一つには「大学で学ばなければならないこと」についての厳密な共通見解がないことと,二つ目として「そんな基準で卒業させてたら,ほとんどの学生が卒業できなくなる」ということに起因します.
※じゃあ,大学で学ばなければならないことって何ですか?という点については,
大学について
をご参照ください.

私が今とは別の大学にいた頃には,
「各学科ごとに,学生が4年間の学びで何を得られるのか検討しましょう」
っていうのをFDでやっていました.
「各大学における学びの特色を明確にせよ」っていうどこからかの指令を受けての事だったと思います.
その時は当事者だった私ですから,文字通り頭を抱えて,
「ダメだこいつら.早く何とかしないと」
と憂鬱な気分に苛まれていたことを思い出します.懐かしいですね.

ちなみに,ここでも笑いどころを解説しておくと,
「いまさら検討するもなにも,学ばせたいことがあるから学科を作ったんでしょ」
っていうことです.

大学とか学科の存在意義を,KJ法とかやって,大きな模造紙に手書きで表みたいにしてまとめて,皆の前で発表するみたいな・・,今思うと顔から火が出るようなグループワーク(笑)をやってました.

その時,私はひたすら「パンフレットの学科紹介のところに書いてあることを羅列しましょう(そして余った時間はのんびりしましょう)」って提案してたんですけど,どうしてもワーキングをしたかったようで.
各教員が学生に学ばせたい事やその想いを語る会になっていました.
そんなの居酒屋でやってくれよって,まぁ,そんなところです.

今なら笑い話なんですけど,現在進行形で摩訶不思議なテーマを与えられてFDをやっている先生方からすれば笑えない話ですからね.

そう言えば,教育を司っているとされる文部科学省も問題です.
その象徴が,
「スーパーグローバル大学」
やめましょうよ.これ.
同僚である外国人教員も,「ナニコレ?」って言ってましたよ.

もしかすると初めて目にした人もいましょうが,別にこれはアニメやなんかの架空の大学名ではありません.
れっきとした文部科学省の企画なんです.「ふざけている」「嘘だ」と思う人は以下の資料を.
スーパーグローバル大学等事業

レベルアップしてハイパーグローバル大学になるんじゃないか?とか,スーパーとは異なる方向性を持つグローバル大学があるんでしょうか?なんて話もありますが,
私としては,そもそも普通の「グローバル大学」というものが見てみたい,って思います.そうじゃないと「スーパー」にはなれないですよね.

「スーパーグローバル大学」については,もちろん「(゚Д゚)ハァ? ばっかじゃねーの」と思っている教員はたくさんいます.
でも,そんなことを露骨に表明すると内外から袋叩きに合うし,予算がとれなくなるので仕方なくやっているという事なんです.

まぁそんなわけで,言葉の使われ方を司っているはずの大学こそが,最も言葉の使い方がぶっ壊れているのではないか,ということなんです.