2017年8月9日水曜日

学校教育対談(4回目)

和田先生とお酒を酌み交わしながらの対談を,今夏も開催しました.
早いもので,これで4回目となります.
※過去の様子はこちら
学校教育対談(2回目)
学校教育対談(3回目)

この懇親会ですが,回を追うごとに参加人数が増えていきます.
現場で働いている先生方が参加してくれているのが良いですね.
今回新規参加してくれた人は,なんと私が勤務している大学の卒業生です.
比較的大きな大学ですし学部が違っていたので,在学中には私との接点がなかったのですが,意外なところに関係者が現れるものです.世間は狭い.

和田先生は,現場で働いている教師の皆さんに自身の経験を役立ててほしいとの願いを込めて書籍も出版されています.

『実録 高校生事件ファイル』
『すばらしきかな、教師人生 先生が元気になる本』
 

現場の先生方にこそ聞いてほしい言葉が,たくさん散りばめられた書籍.オススメです.
高校で発生する事件・トラブルに,現場の教師がどのように向き合えばよいか理解が進みます.

今回の懇親会の参加者で読者の一人が言うには,「学者の理想論やスーパー教師の成功体験自慢は役に立たない.僕達が直面しているのは,もっと地味で泥臭いこと.いろいろなトラブルや事件の事例集が欲しかったから手にしたんです」とのこと.

和田先生はこうした情報を役立ててもらうため,ホームページを作ってそれを相談窓口にされています.
そのホームページはこちら↓
先生が元気になる部屋(和田慎市ホームページ)
これまでにも,全国各地の学校や教育関連研修などでたくさん講演をされています.

私も本当なら和田先生をお呼びして教師志望者に向けた講演会を開きたいのですが,いかんせん立場が・・・.
もう少し偉くなってからにしましょう.

さて,今回の懇談会の様子ですが,私以上に同席してくれた東京都の先生方が和田先生にいろいろと聞きたいことがあったようで,それで話が弾みました.
この先生方も「若手」ながら熱意と行動力がある人達ですから,上からどんどん仕事を任されるようになっており,教育現場を仕切っていく立場になることで,新たに和田先生にたくさん相談があったそうです.

いずれの先生も,いわゆる “教育困難校” を「任される」ようになってしまった教師です.
実はある側面において,公立の「教育困難校」に配属される教師は「指導力不足教員」や「不祥事を起こした教員」がまわされるという見解があります.
教育するのが困難な高校なのですから,そりゃ誰も好んで行くことを希望しませんから.
しかし,教育困難校なのですから,問題を起こしやすい生徒が集まっているわけで.そこに指導力不足教員ばかりが集まってしまうと,更なる大問題を起こしかねません.なので,教育困難校の生徒を相手にできる資質と能力のある教師もまわされることになるのです.
彼らはこれまでに,そんな教育困難校での「実績」ができてしまっていて,コイツらならなんとかしてくれる,と思われているらしい.

今回も,いろいろ興味深い話を聞きました.
私の後輩でもある教師は,学園祭に向けた準備を何もしないクラスと生徒に対し,「何もしない」という指導をしたそうです.
それって指導じゃないのでは? と思われるかもしれませんが,それこそが「普通の学校」で子供時代を過ごした人の発想です.

学園祭や運動会などが典型ですが,近年の教師はそういうイベントにおいて,
「生徒がやらないこと・できないことを教師が先にやってしまう」
という傾向にあるそうです.
なぜかというと,このようなイベントではクラスやグループが「一致団結して上手くいく」というストーリーが予め要求されており,そうならなかったクラスやグループがあると,そこを担当した教師の力量がなかったと見做されるからです.
しかも,そうしたイベントを「成功裏に済ます」ことに教育的効果があると考えています.
つまり,教師側にはクラスやグループが「無様な状況」になることを,「自分自身の評価」のためにも避けたい心理が働いているのです.

ところが,彼はそうは思わなかった.学園祭とは,生徒が自分たちで催し物を企画し,自分たちで準備を進めることができるよう教育する「機会」「場」であると考えます.
そりゃ普通の高校であれば,「何をやりたいですか?」とクラスに問えば,あれやこれやと意見が出て,「じゃあそのためにはどうしますか?」と聞けば,あーだこーだと準備すべきことが決まっていきます.
これは,あたかも教師が提案しているように見えますが,実は生徒側からのアクションを引き出しているから成り立っているわけです.
ところが,教育困難校で同じアプローチをしても,そうはならない.
「先生ぇ・・,ウチら,かったりぃから」とだけ言って,何もしようとしない.
学園祭では各クラス何か催し物をするものだ.という前提条件は共有されているものの,「どうせ先生が用意してくれるんだろ?」という甘えがそこにはあります.

いよいよ学園祭間近となった時期にも,どうやらウチの子が所属するクラスでは何もしないつもりでいるらしい.ということが保護者にも伝わります.
で,クレームが舞い込みます.なぜウチの子のクラスは何もしないのか? それでも学校か,教育なのか.担任を出せ!

「生徒がやりたくないと言っているのでね」
そうやって,頑として突っぱねるメンタルが彼にはありました.あと,管理職にも.
彼がやることだから,まぁ,なんとかなるんじゃないのっていう.

「やばい,ホントにあと少しで学園祭じゃん!」
という状況になって,そのクラスの生徒達は学園祭の企画立案と準備に一生懸命取り組んだそうです.
もちろん付け焼き刃のような催し物になってしまうし,学園ドラマのように「最後に一致団結して,怒涛の準備で結果的に上手くいった」なんてことにはならない.
しかし,ここで生徒たちが学んだことが大事なのです.
すなわち,「自分たちが協力して主体的に動かないと,マジで本当に状況は動かない」.
その後,このクラスの雰囲気は落ち着いて,生徒同士が協力的になったとのこと.

さらに言えば,彼はこのクラスの生徒が「掃除の時間」に何もしないからって,教師自らが教室を掃除することはしなかったそうです.
結果,年度の途中までに恐ろしく汚い教室になったとのこと.
ところが,やっぱりそのうち「自分たちでやらないと,マジで本当に掃除されない」ということに気がついた生徒たちは,きちんと掃除するようになります.むしろ,学内で最もきれいに掃除するクラスになったそうですよ.
しかも,問題になりそうなのでブログでは書けませんが,彼は「或ること」をしてワザと教室を汚くしたそうなんです.さすがにそれはヤバイだろ,という手法を使って.
でも,結局それが生徒のための「教育」になったのなら,それでいいじゃないか.そういうことです.

こうした教育困難校に勤めている先生方が口を揃えて言うのは,
「学力がどうであれ,一端の社会人として通用する人間になるための勉強をしているのが高校だと思う」
ということです.
学力が高い生徒は,その特徴を活かした将来を考えればいいのだし,学力が低い生徒だからといって,高校に通う価値がないわけではない.勉強ができない者なりに,この社会における役割を探すための研鑽を「高校」という場で積めばいいのです.

日本全体を俯瞰してみれば,「最近の若者」が総じて学力優秀で犯罪に手を染めることが少ないのも,こうした先生方が「教育困難校」において努力されていることの結果とも考えられます.
極端な例かもしれませんが,かつてなら中学卒業後に犯罪者予備軍として社会に出ていた者が,「学力向上」にはつながらなくとも高校生活を送ることによって,「学力」で測られるものとは別の,まっとうな社会人としてのスキルを身につけている可能性があります.

それと同じことが,これからの大学教育にも求められるのかもしれない.
「多過ぎる大学」「全入時代」が叫ばれ,いずれは「大学の高校化」が危惧されている今日.
研究者を養成するだけが大学ではないと言われる一方,優れたビジネスマンを輩出することも大学の機能ではありません.
普遍的な表現をとれば,「アカデミックな考え方や視点を持った人間を育てる」ということになるのですが.
これについての醜い妥協をせず,方向性も間違わないならば,やりようによっては「大学の高校化」も悪くないのではないか.そんなことを考えさせられました.