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体育学的映画論「ダンケルク」

先月から公開されているクリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』(2017年)を,先日ようやく見ることができました.
公開前からかなり期待していたのですが,その期待を裏切らない迫力ある映画でした.

ネット配信されるようになったらもう一度見てみようとは思いますが,これは映画館で見ることをオススメします.
「追い詰められた軍隊」について,戦地での緊迫感や絶望感を追体験できる映画です.
特に,映画冒頭にある「最初の弾丸」からの銃撃戦で「生き残るために逃げている」側にいることを意識付けられ,没入感は最高.

そう言えば,三谷幸喜監督の映画に『ラヂオの時間』(1997年)というのがあるのですが,そこで「頭にマシンガンの音が必要なんだ.そこで惹きつけておかないと客が食いつかない」とマシンガンの効果音に拘る場面があります.なんだかそれを思い出させられました.
あとは終始,ハンス・ジマーによる不安を煽る重低音の音楽が(いい意味で)ダラダラと流れつづけており,気分が滅入ります.

予告映像にもありますが,浜辺にて帰国用の船を待つ兵隊の行列.
爆撃や機銃掃射を受けても,彼らは行列を崩さない.東京人もびっくりの「行列のできる浜辺」です.
私が過去記事で言いたかったことを「戦争」を通して間接的に表現しているとも言えます.その意味でもとても興味深い.
整列乗車はマナーではない

陸・海・空それぞれのシーンで異なる時間軸により話が進んで行き,最後に3つが統合されるという手法をとっているのですが,これも小説を読んでいるようで面白かった.

とりあえず,英国ジジイがカッコよすぎる映画です.

映画評なんかを見てみますと,ストーリーがないので退屈だとか,「ダンケルクの戦い」を事前に知っていないと意味がわからないなどというコメントが散見されます.
たしかに,ただひたすらダンケルク港からの撤退作業を見させられているのは事実です.
でも,私としては「こういう戦争映画が見たかった」と感じさせられたのも事実でして.
戦争映画の描き方の転機となる作品になるのではないかと思うんですよ.

それはもしかすると,近代以降における「戦争」を考えるテーマにもなるかもしれません.
つまり,「近代戦争とは,そもそも『ストーリーがない』のではないか?」という問題提起.
現代においては尚の事,顔の見えない,物語のない戦争が展開されている.
以前,そんなことを記事にしたこともありました.
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

いえ,戦争にストーリーがないのは近現代に限らず,人類の歴史すべてにおいて言えるのかもしれません.
しかし,かつてはストーリーにすることができたのです.人の姿形が見えていたからです.

スピットファイアと小舟が,戦争において「人の姿形」を見せるための最後の依代だ.
『ダンケルク』において感じるのは,そうした戦争と身体の臨界点のように思えます.