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鳥無き島の蝙蝠たち(3)三好長慶
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長宗我部元親に続き,四国の戦国武将をもう一人.
■三好長慶(wikipedia)
阿波国(徳島)の三好郡に本拠地を持つ三好氏の中でも有能な武将の一人で,
「事実上の最初の天下人」
とされています.
詳細はウィキペディアをご覧ください.
このシリーズ第1回でもご紹介したように,四国・徳島は近畿・大阪京都に攻め入る上で好都合な場所です.
海を隔てているので攻撃しにくい反面,防御も容易です.
じっくり腰を据えて大阪湾を眺めるのが阿波徳島方式.
機を見て攻め入り,危なくなたら四国に戻ればいいのです.
それを戦国時代にやってのけたのが阿波国の三好一族で,その最盛期を演じたのが長慶でした.
室町幕府管領の主君である細川氏を操り,足利将軍家をおさえることで三好政権を作り上げ,事実上,日本の天下をとっていたわけです.
保有していた領地も四国東部,淡路島,近畿と広大だった.
三好長慶は明らかに天下人でした.
ですが,三好一族に対する後世の扱いが非常に悪く,戦国最初の覇者は「織田信長」もしくは「豊臣秀吉」だとされるようになってしまいます.
どうやら,イノベーティブな政治や戦略を展開した信長や秀吉,独自に徳川幕府をつくった家康といった戦国の「三英傑」などと比べて,長慶は保守的で寛大過ぎたからではないかと言われています.
保守的で寛大過ぎたとはどういうことか,気になりますよね.
1549年,なんだかんだあって京の都を制圧し,主君・細川晴元と将軍・足利義晴を追い出して天下人となった長慶ですが,彼らの息の根を止めることはありませんでした.
近江(滋賀県あたり)に逃がしたのです.
いつの日かまた会えるその時まで.
で,すぐ会えました.
1550年,打倒長慶に燃える細川晴元と足利義輝は,京都奪還に向けて「中尾城の戦い」を始めます.
長慶はこれを撃退.
したのにも関わらず,なんと長慶は彼らに和談を申し入れます.
勝ったのに和談.
長慶の法則です.
何がどう和談なのか分からない不気味な申し入れは,もちろん交渉決裂.
翌年1551年,こりもせず晴元と義輝は京都奪還に動きます.「相国寺の戦い」です.
が,強大な兵力をもつ長慶に敵うわけもなく,あえなく敗退.
そしてここでもまた長慶の法則が発動.
攻め入ってきたはずの敵将・義輝を将軍として迎え入れ,しかも長慶が義輝の家臣になれることを条件に和睦.
意味不明です.
二度あることは三度ある.
1553年,晴元と将軍・義輝は,性懲りもなく打倒長慶のため戦を始めます.
そして敗走.
彼らはズタボロになって近江に逃げますが,これを長慶は追いもせず,トドメもさしませんでした.
長慶の半分は優しさでできています.
三度あったら四度あります.
晴元と義輝が再び京都に攻め込んだのは1558年,「北白川の戦い」です.
もちろん敗退.
で,また長慶の法則がフル稼働.
彼らとやっぱり和睦した長慶は,帰京してきた将軍・義輝を手厚く出迎えおもてなし.
1561年,長慶はかつての主君であり長年敵対していた晴元と再開すると,そこで人質にしていた晴元の長男・昭元と引き合わせます.
何度も反乱を起こしているのだから,殺されていて当然だと思っていた人質の息子が立派に育っていた姿に晴元は感動し,長慶は涙します.
え? 長慶が涙した?
はい.長慶はこうして晴元と和睦できたことが嬉しかったようです.
ここまでくると,「おかしいですよ長慶さん!」って言いたくなります.
いろいろありましたが,つまり,現存している権力構造はそのままに,その中で天下を得ようとしたのが三好氏であり長慶なのです.
たしかに地味.
っていうか,なんだかストーカーみたいですね.
「君のために僕は君と戦うんだ!」って.倒錯した愛です.
殴ってはナデナデ,殴ってはナデナデ.
実際のところ,ボコられてる晴元と義輝も,
「コイツちょっと頭おかしいんじゃないの?」
と思ってたんじゃないですか.
ところで,三好長慶に対する評価ついて,ウィキペディアの文章を引けば,
ちなみにその「一般的な評価」を作り上げることに多大な貢献をしているのが,あの「司馬遼太郎」とのこと.
司馬氏の物語に通底するものとは,つまりこういうこと.
「日本のそれぞれの時代を作ってきたのは革新的イノベーション(笑)を持った人物であり,そうではない者が淘汰されてきた」
この考え方で歴史を眺めていくと,戦国時代と幕末以外は「面白くない」ということになってしまうのですが,良いか悪いか,それがしっかりと根付いているのが現在の日本ではないでしょうか.
三好長慶,いいと思いますよ私は.
戦国保守本流.
ソフトランディングの鬼.
彼にはそんな名前を贈りたいと思います.
■三好長慶(wikipedia)
阿波国(徳島)の三好郡に本拠地を持つ三好氏の中でも有能な武将の一人で,
「事実上の最初の天下人」
とされています.
詳細はウィキペディアをご覧ください.
このシリーズ第1回でもご紹介したように,四国・徳島は近畿・大阪京都に攻め入る上で好都合な場所です.
海を隔てているので攻撃しにくい反面,防御も容易です.
じっくり腰を据えて大阪湾を眺めるのが阿波徳島方式.
機を見て攻め入り,危なくなたら四国に戻ればいいのです.
それを戦国時代にやってのけたのが阿波国の三好一族で,その最盛期を演じたのが長慶でした.
室町幕府管領の主君である細川氏を操り,足利将軍家をおさえることで三好政権を作り上げ,事実上,日本の天下をとっていたわけです.
保有していた領地も四国東部,淡路島,近畿と広大だった.
三好長慶は明らかに天下人でした.
ですが,三好一族に対する後世の扱いが非常に悪く,戦国最初の覇者は「織田信長」もしくは「豊臣秀吉」だとされるようになってしまいます.
どうやら,イノベーティブな政治や戦略を展開した信長や秀吉,独自に徳川幕府をつくった家康といった戦国の「三英傑」などと比べて,長慶は保守的で寛大過ぎたからではないかと言われています.
保守的で寛大過ぎたとはどういうことか,気になりますよね.
1549年,なんだかんだあって京の都を制圧し,主君・細川晴元と将軍・足利義晴を追い出して天下人となった長慶ですが,彼らの息の根を止めることはありませんでした.
近江(滋賀県あたり)に逃がしたのです.
いつの日かまた会えるその時まで.
で,すぐ会えました.
1550年,打倒長慶に燃える細川晴元と足利義輝は,京都奪還に向けて「中尾城の戦い」を始めます.
長慶はこれを撃退.
したのにも関わらず,なんと長慶は彼らに和談を申し入れます.
勝ったのに和談.
長慶の法則です.
何がどう和談なのか分からない不気味な申し入れは,もちろん交渉決裂.
翌年1551年,こりもせず晴元と義輝は京都奪還に動きます.「相国寺の戦い」です.
が,強大な兵力をもつ長慶に敵うわけもなく,あえなく敗退.
そしてここでもまた長慶の法則が発動.
攻め入ってきたはずの敵将・義輝を将軍として迎え入れ,しかも長慶が義輝の家臣になれることを条件に和睦.
意味不明です.
二度あることは三度ある.
1553年,晴元と将軍・義輝は,性懲りもなく打倒長慶のため戦を始めます.
そして敗走.
彼らはズタボロになって近江に逃げますが,これを長慶は追いもせず,トドメもさしませんでした.
長慶の半分は優しさでできています.
三度あったら四度あります.
晴元と義輝が再び京都に攻め込んだのは1558年,「北白川の戦い」です.
もちろん敗退.
で,また長慶の法則がフル稼働.
彼らとやっぱり和睦した長慶は,帰京してきた将軍・義輝を手厚く出迎えおもてなし.
1561年,長慶はかつての主君であり長年敵対していた晴元と再開すると,そこで人質にしていた晴元の長男・昭元と引き合わせます.
何度も反乱を起こしているのだから,殺されていて当然だと思っていた人質の息子が立派に育っていた姿に晴元は感動し,長慶は涙します.
え? 長慶が涙した?
はい.長慶はこうして晴元と和睦できたことが嬉しかったようです.
ここまでくると,「おかしいですよ長慶さん!」って言いたくなります.
いろいろありましたが,つまり,現存している権力構造はそのままに,その中で天下を得ようとしたのが三好氏であり長慶なのです.
たしかに地味.
っていうか,なんだかストーカーみたいですね.
「君のために僕は君と戦うんだ!」って.倒錯した愛です.
殴ってはナデナデ,殴ってはナデナデ.
実際のところ,ボコられてる晴元と義輝も,
「コイツちょっと頭おかしいんじゃないの?」
と思ってたんじゃないですか.
ところで,三好長慶に対する評価ついて,ウィキペディアの文章を引けば,
現在では、松永久秀の壟断、横暴を許し、下剋上されてしまった凡庸な君主としての評価が、「一般的な評価として」定着してしまっている。 そして、織田信長の「革新的」なイメージと比較され、旧主・保守的・文弱・柔弱というレッテルを張られてしまっている。とあります.
ちなみにその「一般的な評価」を作り上げることに多大な貢献をしているのが,あの「司馬遼太郎」とのこと.
司馬遼太郎は三好長慶みたいな人を低評価する向きがあります.
彼の代表作といえば,「国盗り物語」「竜馬がゆく」「燃えよ剣」,そして「坂の上の雲」.
いずれも “革新的イノベーション(笑)” を感じる人たちを題材としていますよね.
司馬氏の物語に通底するものとは,つまりこういうこと.
「日本のそれぞれの時代を作ってきたのは革新的イノベーション(笑)を持った人物であり,そうではない者が淘汰されてきた」
この考え方で歴史を眺めていくと,戦国時代と幕末以外は「面白くない」ということになってしまうのですが,良いか悪いか,それがしっかりと根付いているのが現在の日本ではないでしょうか.
三好長慶,いいと思いますよ私は.
戦国保守本流.
ソフトランディングの鬼.
彼にはそんな名前を贈りたいと思います.
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