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この20年間で学生の「質」は変わったのか? その1

2000年代〜2010年代(現在に至る)までの学生の質を比較


大学教員から身を引くという手前,その総決算のひとつとして今回は,
「学生の質」
について話をしてみます.

学生時代から含めれば20年,研究員時代を含めれば15年,教員になってからは10年,非常勤講師としても5つの異なる大学の学生をバラバラに見てきましたし,周囲の先生方との世間話も交えて分析できることを述べてみようというものです.

ただし,客観的なデータを元にしているわけではないので,その点はご了承ください.

ちなみに,「その1」と銘打っていますが,「その2」以降を書くかどうかは不明です.

あと,「質」というと学力・偏差値とか授業の成績なんかを思い浮かべる人がいるかもしれませんが,それは私にとっては「量」の概念です.

ここでいう質とは,大学生という属性をもった人間の性質のこと.

それがどのように変化してきたのかを,ここ20年ほど定点観測してきた者の一人として評価してみたいと思います.

なお,似たような話題を6年前にもしたことがあります.
大学別の学生の特徴




明らかに変わったこと:将来のビジョンをもたない学生が増えた


「おまえ,将来どうするの?」
という問いに対し,
「ん? 分かんねぇ」
って答える学生.
今から10年前(2010年頃)でも10人中に1〜2人くらいはいました.

当時はそんな学生は,
「おいおい,おまえ,そんな感じで大丈夫なのかよぉ」
という感じで笑いものになっていたのですけど,ところが最近は,大学(の偏差値の違い)を問わず,そんな学生が急増してきたようです.


いえ,私はなにも,大学生たるもの常に将来のビジョンを明確に持っておかねばならないと言っているわけではありません.
結局のところ,大学生の時に考える己のビジョンなんて,たかが知れています.

しかし,現在の自分の行いが,これから先の人生にどのように影響していくか考えておくことは大事です.
ところが,そんな部分に関心を向けない学生が急増しています.

どうしてそんな状況になるのか?
いろいろな見解がありますが,さしあたって「大学の高校化」と称される現象です.

つまり,「モラトリアム」としての大学を通り過ぎて,「人生の通過点」として所属する組織になっています.

なので,近年あれだけ「学費が高くて大変」「貧乏学生が多い」と問題視されている一方で,逆に,自分たちがどれほどの学費を支払っているか知らない,関心がない学生も多いのです.
このギャップが物凄くシュールで不気味に映ります.


繰り返しになりますが,そういう学生は何十年も前から一定数存在しています.
しかし,こうした学生が最近になって目立つということです.





授業で発言や質問を「したくない」割合が増えた


これは私も,ここ4〜5年で顕著に感じます.

例えば,私の授業では小レポート形式で,授業に対する質問を強制的に出させています.
授業を聞いていて疑問に思ったことや,関連することを「質問形式」で書かせ,教員である私はそれに対しQ&Aのかたちで返します.

これは小説家の森博嗣氏が名古屋大学の授業でやっていた方法と非常に似ているやり方です.
詳しくは8年前に書いた以下の記事をどうぞ.
質問させる

このスタイルでずっと授業をやってきましたが,ここ4年ほど前から急に反応が悪くなったんです.
以前は,教員評価アンケートなどにも「細かく質問に答えてくれる機会があったから理解しやすかった」とか「先生ならではの見解が得られて有意義だった」と書かれていたのに,どうやら今では「負担」になっているようなんですね.

私としても教員を辞める手前,もうこんな機会は金輪際ないかと思いますが,やり方をちょっと変えないといけないかな,と思わされるほど激変しています.


もちろんこれは,学生全体がそうではありません.
むしろ,非常に優秀な質問を投げかけてくる学生と,そうでない学生との2極化が進んでいます.

ここから言えるのは,その「授業」に対する向き合い方が,かつてとは大きく異るタイプの学生が増えているということです.

より端的に言えば,何をするでもなくただ座ってぼーっとしているという,たしかに以前から一定数は存在していた,「コイツ大学に何しに来ているんだ系の学生」が増加しているんです.


記述方式ですらこれなので,口頭ではさらに如実です.

例えば,私の体育・スポーツ系の実技では,優勝したチームとか最下位になったチームの中から一人選出して,皆の前に出て「スピーチ(一言挨拶)をする」という機会を用意することが多いんです.
それは1分とか3分といったものではありません.
わずか5秒,10秒くらい「今日の感想」を言えばよいものです.

別に大したことでもないのに,これを物凄く嫌がるんですよ.
当然のことながら,以前も自ら進んでスピーチしようという人は少なかったですし,逆に,闊達な学生は今でも進んでスピーチしてくれます.
ただ,これを「絶対拒絶」をしたがる学生がどんどん増えているんです.

つまりこういうこと.
このスピーチを担当しなくても,別に授業の成績に関わるわけじゃないし,私(教員)の機嫌を損ねることでもないのであれば,とにかく拒絶しておけばよい,という感じ.





授業の受け方を模索しない


これは学校関係の仕事をしている人であれば,「最近の子供あるある」だと思います.

領域外の人や,学生たち自身にとっては,
「え? どういう事?」
といったところでしょう.

これは教育業界に限りません.
例えば,ジュニアスポーツ指導者の方々も口を揃えて言うのが,
「最近の子供は,自分で練習を考えてやらなくなった」
「ルールを提示したり,指示を出さなければプレーしない」
というものです.

これは私も,大学生相手にスポーツ実技の授業をしていて同様のことを感じます.

例としては,サッカーなどで初心者や女子と一緒にゲームをする場合,上級者がそのままハンディキャップなしでプレーすると実力差が大きく出てしまい,つまらなくなってしまいますよね.

これについて,かつての学生なら,
「サッカー経験者はツータッチだけしかできないことにしよう」
とか,
「経験者以外がゴールを決めたら3点ね」
などとゲーム毎にローカルルールを簡単に作っていました.

ところが最近では,そういうローカルルール作りができない学生が多いんです.
「今の子供は,大人がルールを用意してあげないと遊べない」と分析している人もいます.

もっと言えば,「サッカー経験者は〜〜」というルールを作るにしても,本当はサッカー経験者なのに,未経験者のフリをして黙っている学生が頻発します.
どうせプレーが始まったら「こいつ経験者だな」ってバレるのに,ですよ.

これにしても,以前からそんな素直じゃない珍妙な行動をとる学生が少数いましたが,今ではこのパターンが多いんです.

さらに言えば,そいつがサッカー経験者だということを知っている友達が隣にいるのに,彼も「こいつ,サッカー経験者ですよ」と申告しないんです.
そういう「告げ口」をしないのが,最近の子供の社会におけるルールなのでしょうか.

でも,そんなことをすれば,結局はゲームが面白くなくなってしまい,結果的に自分も楽しい時間を過ごせなくなるのに,なぜかそういう「ローカルルール作り」の妨害となる行動をとりたがります.


これと同じことが,講義系の授業でも言えるのです.

まず目につくのが,
「友達と授業内容の情報を共有しない」
ということです.

授業の休講情報とか,教室変更などはLINEなどでバンバンまわすのに,授業内容となると機密情報の如く秘匿されます.

おいおい,皆で授業内容を共有しておけば,テストやレポート対策にもなるんじゃないのか?
とアドバイスしてあげたくなるのですが,なぜかそういう部分は「まじめ」なんですよ.

それこそ,今なら情報共有システムを簡単に構築できますし,専門の情報共有サイトもあったりします.
っていうか,Facebookって本来そういうことができるはずのものですよね.

スライドや講義資料を写メにしてアップしたり,講義の様子を動画にしてアップすることが簡単な時代になっています.
ところがどうして,そんな最先端のテクノロジーを持て余している学生が大量にいるんです.

おそらく,賢い学生たちはグループを作ってそれをやっているでしょう.
これも学生が2極化していることの一つと言えるかもしれません.

使い古された言葉になりますが,
「人間が個別化している」
ということが,如実に現れ始めたのではないでしょうか.

つまりこういうこと.
何かの課題を達成する上で,自分の手が届く範囲のことだけで済まそうとする学生が増えているのです.
協力・協調すればより良い成果が得られるのに,そういうことを検討しないわけです.

でも誤解無きよう.
何度も繰り返しますが,そういう学生は以前からいたんです.
でも,その比率がどんどん増えているのが,最近の学生の特徴だと思います.


この「協力・協調」は,学生・教員間にも同じことが言えます
教員から授業内容をもっと引き出そうとする学生が本当に減りました.
つまり,教員が「授業」として提供する時間と空間だけでしか「学術性」を見出していないわけです.

分かりやすいところでは,授業後に質問をしに来る学生が減ったと思いませんか?
これは,10年以上教員をやっている先生方であれば心当たりがあるのではないでしょうか.


昨今の大学教育改革では,
「学生による主体的な学び」
を目玉にしているのに,それとは逆の現象が波及しているようにしか思えません.

この背景には,根本的なところでボタンの掛け違いがあるような気がします.


続きを書きました.
この20年間で学生の「質」は変わったのか? その2
 学生を変えた原因は「大学」自身です,という内容です.

この20年間で学生の「質」は変わったのか? その3(ラストです)
 ネットの反応に対する補足説明です.

コメント

  1. 私の『日本の教育が劣化することによって得をする人』へのコメントへの返信、ありがとうございました。
    我が家には現在5歳の女児がいますが、一緒に楽しく、むくれさせないように、遊ぼうとすると、ルールの調整が必要になります。屋内用ふわふわボールでのバスケシュート対決では、大人はゴールして1点、子供はリングに当たれば1点、ゴールで2点とか。かるた取りなら、次に読む札を子供向きに子供の目の前に並べ替えてみたりとか。
    以前なら、子供集団でみんなで遊んでいたら、年長者がそのように遊びを工夫したものなのでしょう。将棋なら駒落ち、囲碁なら置き碁、オセロなら一隅を最初からあげておくとか。最近の子供は、その集団で工夫して遊ばず、動画で学んだことだけで遊ぶことが増えたのが、大学生になって自ら学ぶ工夫をしなくなる遠い要因なのかもしれない、などと思いました。…なんでも流行もののせいにするのは年長者の悪い癖かもしれませんけどね。

    親切な先生の申し出を躊躇なく断り、高圧的な先生にはしぶしぶ従うのを見かけることがありました。気分や感覚に流され、自分で先のことまで考えて判断することが苦手な学生が増えているのを感じています。考える体力が低下している、とでも言うのでしょうか。確かに、考え続けるためには持続力が必要ですが…。

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