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死刑についての一考察|あってもいいけど冤罪補償を強化しろ

突然ですが死刑の話です

ふらっとこんなニュースを目にしたので,話題にしてみたいと思います.
死刑に参加した刑務官が明かす…失敗が許されない執行の瞬間に起きた「ありえない事態」(現代ビジネス|ヤフー・ニュース 2022.6.17)
死刑に参加した刑務官が明かす…死刑囚が死刑確定後に手渡される「しおり」の衝撃内容(現代ビジネス|ヤフー・ニュース 2022.6.18)


ここで死刑の是非や賛否について議論したいわけではありません.
そうした議論は星の数ほどされていて,そして結論が出そうにないテーマだからです.

私としては,高校生までは死刑賛成派でした.
私の家族も概ね死刑賛成ですね.

高校生の頃も,何かのきっかけでこうした話題になったことがあったのですけど,たいていの人が賛成派でした.
日本人の多くが死刑賛成派なのでしょう.
上述のニュース記事はヤフー・ニュースサイトなんですが,そこのヤフコメを覗いてみても,やっぱり賛成の論調が多いです.

実際,内閣府の世論調査に「死刑制度」に関するアンケート調査があるようですが,約80%が「死刑もやむを得ない」と回答しています.
死刑制度に対する意識(内閣府)


ただ,今の私は死刑反対派です.
死刑は廃止にする方向で進めたほうがいいと思っています.

大学生の頃,映画を手当り次第に見まくっていた,っていう話を過去記事でもしたことがありましたよね.
そんな折,死刑制度について問題意識をもった映画に出会ったことがあります.

タイトルもストーリーも全然覚えていないんですけど,ケビン・スペイシーとケイト・ウィンスレットが出演しているハリウッド映画だったことと,その内容が死刑の是非について考えさせられるものだった,ってことだけ覚えています.

これらのキーワードを頼りにググってみたら,出てきました.これです.

「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」(2003年)



ストーリーは覚えてませんけど,死刑は冤罪だった時に取り返しのつかないことになるよね.
そして,「人が人を裁く」ことの不確実さと限界,そしてその量刑として「死刑」がとれほどバランスを欠いているか,っていうのがテーマだったと思います.


あと,死刑における冤罪の恐怖を描いたものとして有名なのが,クリント・イーストウッドの「トゥルー・クライム」(1999年)ですね.



こういうのを観たあとで,いろいろと考えちゃったんです.
で,死刑に対する考え方を変えました.
以後,私は死刑制度廃止を唱えることにしています.


ところで,内閣府のアンケート調査は,「死刑もやむを得ない」「死刑は廃止すべきである」の2択になっているのですが,この聞き方が微妙なところ.

というのも,この聞き方だと私も「死刑もやむを得ない」と答えちゃうことになるからです.

私の考え方を,より正確に述べるなら以下のような感じ.

現状,どうしても国民の多くが死刑を求めているっていうならやむを得ないところもあるけど,とは言え将来的には廃止していくべき制度だと思うので,とりあえず今は死刑の在り方を改善していくことが望ましい.
ってところでしょうか.


では,どのような改善をすべきなのか?

まず,死刑を求める人の声は無視しちゃいけないと思います.
死刑賛成論者には,それなりに聴くべきところがあるし,「死刑」によって慰められるものがあることもまた事実でしょう.

しかし,冤罪とか,量刑としてのバランスを欠いた判決によって死刑になってしまう人の怖さも考えられるべきだと思うのです.

私の考え方としては,「死刑」という制度と量刑は被害者のために存在するのではありません.
あくまでも,「社会秩序を守るため」にあると考えます.

で,これに対し反対論をはる人たちは「死刑では社会秩序を守ることはできない!」云々の話をし始めますが,もうそんなこと言ってても埒が明かないですよね.
死刑によって社会秩序が守られていると頑なに信じられている現状がある以上,ここから話をスタートするほうが建設的です.


死刑執行された人は,記念施設または靖国神社に祀り,記念日を制定して,毎年,天皇陛下のお言葉をもらえるようにしよう


私としては,死刑を宣告されて命を絶たれた人というのは,「社会秩序を守るための制度による大きな犠牲」の一つとしてカウントすべきだと思うのです.
なので,上に書いたように,終戦記念日のイベントみたいに「日本社会の秩序を守るために支払った犠牲」として,それこそ「靖国神社」に祀ってはどうでしょうか.
神道的な解釈としても,大罪を犯した者を成敗した鎮魂にもなるでしょうし.
征夷大将軍が土蜘蛛を退治したあと,塚をつくって祀るみたいなのと同じ感じで.

そりゃ,被害者やその遺族にとっては心地よいものではないかもしれませんが,そもそも,本当にその捜査・調査結果と判断は正しいのか? という点は「絶対」ではありません.

前述の「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」においても,死刑廃止を訴える登場人物が,自分を意図的に冤罪に導くことで「死刑制度」に疑問を投げかける内容になっていた(と思う)のですが,そうした裁判や捜査に対するトラップがある可能性も排除できません.

もっと言えば,自暴自棄になった無実の容疑者が,「もう死刑でいいからどうにでもしてくれ」といった感じで,有る事無い事言いふらして「真実」をでっちあげ,架空の犯罪によって裁かれてしまっている可能性だってあるでしょう.

っていうか,死刑判決に限らず,裁判のほとんどがそんなもんかもしれない.

死刑ではないのですが,痴漢の冤罪を扱った映画に「それでもボクはやってない」っていうのがありますよね.



そのクライマックスにおける印象的なセリフに,
「そしてボクはとりあえず有罪になった」
というのがあります.

その時その状況において,とりあえずの結論を出すのが裁判.
そこに真実なんてないのです.
ここに「死刑」が例外になるわけではありません.

「とりあえず死刑」になった人が,過去に何人いたかしれない.


それでも,死刑を望む人が多いのはたしかだし,死刑によって社会秩序が守られている側面があることを,私は支持しておきます.
であるならば,せめて死刑囚には「日本のための犠牲者」という格を用意してあげるべきと考えるのです.

さらに,もしそれが冤罪だった場合には,死刑囚の一族郎党すべてを国家予算で養うくらいの制度があってもいいと思います.

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