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浦島太郎(AIアレンジ)

浦の浜、時の宮


第一章 潮の匂いのする朝


むかしむかし、丹後の国とも、越の浜とも、あるいは遠い西の海辺ともいわれる土地に、浦島太郎という若者が住んでいました。 土地によっては浦島子と呼ばれ、またあるところでは、ただ「浦の漁師の息子」とだけ語られることもありますが、この話では、村の者たちが呼んだとおり、浦島太郎としておきましょう。

太郎は、年老いた母と二人で暮らしていました。 父はずいぶん前に海で亡くなり、その小さな家には、古い櫂と、使いこまれた網と、潮風に削られた木箱が残っているだけでした。

朝になると、太郎は誰より先に浜へ出ました。 空が群青から薄青に変わるころ、潮はゆるやかに満ち、海鳥が低く飛び、舟の腹を撫でる波の音がかすかに聞こえてきます。

「母さん、行ってくる」 「気をつけてお行き。今日は沖の流れが少し早そうだよ」 「わかってる」 「それから」 母はいつものように言いました。 「欲を出して深追いするんじゃないよ」 太郎は笑いました。 「魚にも海にも、いやだと言われるほど追いかけたりしないよ」

太郎は、よく獲る漁師でした。 けれど、それ以上に、海の気配をよく知る漁師でした。 今日は沖へ出るべき日か、浜近くで網を打つべき日か。 今の波は魚を寄せる波か、沖へ散らす波か。 雲の色、潮の匂い、風の重さ。 それらを見て、海と相談するように舟を出すのでした。

「おまえは勘がいいな」 年寄りの漁師がよくそう言うと、太郎は首を振りました。 「勘じゃないですよ。海が教えてくれるんです」 「海が口をきくのか」 「口はききません。でも、黙ってばかりでもないでしょう」

そう言って笑う太郎を、村の娘たちは好ましく見ましたし、年寄りたちも悪く思いませんでした。 けれど、太郎は誰かに気を持たせるようなことはしませんでした。 浜の向こうを見つめる癖があって、目の前の話をしていても、ときどき、もっと遠い波の音を聞いているような顔をすることがあったからです。

「太郎は、あの子どものころから、少し海に気を取られすぎる」 母は近所の女たちにそう言って、困ったように笑うのでした。 「嫁をもらえば変わるかと思ったけど、どうもねえ。あの子の胸の半分は、もう海へ預けてあるみたいだよ」

そんな太郎に、大きな運命の潮が寄せてきたのは、夏の光がもっとも強いころのことでした。

第二章 浜の亀


その日、太郎はいつもの漁を早めに切り上げ、まだ日が高いうちに浜へ戻ってきました。 魚籠には鯛が二尾、鯵がいくつか、烏賊も一杯入っていて、母も喜ぶだろうと思いながら浜道を歩いていると、どこからか子どもたちの騒ぐ声が聞こえてきました。

「もっとやれ」 「逃がすな」 「甲羅が硬いぞ」 「ひっくり返せ、ひっくり返せ」

太郎は眉をひそめ、声のするほうへ足を向けました。 浜の端、潮だまりの近くに、五、六人の子どもが輪になっていました。 その中心にいたのは、一匹の亀でした。

子どもたちは細い棒で甲羅をつつき、砂をかけ、ひっくり返そうとしては、亀がもがくのを見て笑っていました。 亀は、海へ戻ろうと前脚をばたつかせていましたが、子どもたちに囲まれて、思うように進めません。

「こら」

太郎が低く言うと、子どもたちはびくりとしました。 太郎は魚籠を下ろし、ゆっくり輪の中へ入りました。

「何をしている」 年かさの子が口を尖らせました。 「遊んでるだけだよ」 「遊び?」 「亀なんて、のろいし、変な顔してるし」 「海のものを浜へあげて、みんなでいじめるのが遊びか」 別の子が言いました。 「だって、こんな大きな亀、めずらしいんだもん」 「めずらしいから痛い目にあわせていいのか」

太郎の声は大きくありませんでしたが、潮風よりも冷たく響きました。 子どもたちは顔を見合わせました。 太郎は怒鳴りつけるかわりに、ひとりひとりの顔を見ました。 その目を受けると、子どもたちはだんだん、自分がしていたことを自分で見せつけられたような気持ちになったのでした。

「帰りなさい」 太郎は言いました。 「今日のことは、家の人に話す」 「ええ」 「いやなら、もう二度とこんなことをするな」 子どもたちは渋い顔をしながらも、やがて棒を捨て、ぱらぱらと散っていきました。

ひとり残された亀は、浅い息をしていました。 甲羅には傷がつき、片方の前脚には縄の痕のようなものまでありました。 太郎はそっと近づき、海水で砂を洗い落としてやりました。

「大丈夫か」 もちろん、亀が人の言葉を返すはずはありません。 けれど、亀は黒い目でじっと太郎を見ました。 その目は、ただ怯えているだけではありませんでした。 まるで、長いあいだ人を見てきたもののような、奇妙に澄んだ目でした。

「海へ帰ろう」

太郎は両腕で亀を抱えました。 思ったより重く、ひんやりとしていました。 胸に抱くと、亀の体から、ただの磯の匂いではない、深い海の底のような、青く古い匂いがしました。

波打ち際まで運び、砂の上にそっと下ろすと、亀はすぐには泳ぎ去りませんでした。 太郎のほうを向き、じっとしていたのです。

「行きな」 太郎がそう言うと、亀は一歩、二歩、海へ進みました。 そして、波が甲羅を撫でた瞬間、ふっと振り返ったように見えました。

その夜、母は太郎の話を聞いて、囲炉裏の火を見つめながら言いました。

「亀は、海の使いだって言う人もいるよ」 「ただの亀かもしれない」 「ただの亀でも、命は命だよ」 「うん」 「でもね、海には、人がうっかり助けたつもりで、こちらが見初められることもあるんだと」

太郎は笑いました。 「亀にですか」 「海そのものにさ」 母はそう言って、少しだけ寂しそうに笑いました。 「おまえは昔から、海に好かれそうな顔をしてるからね」

そのとき太郎は、なんでもない言葉だと思っていました。 けれど後になって、そのひと言が、妙に胸に残っていたことを思い出すのです。

第三章 沖の呼び声


それから三日が過ぎました。 太郎は変わらず漁に出て、変わらず海と話をするように働いていましたが、どうにも気になることがありました。 あの日の亀の目が、ときどき胸の奥によみがえるのです。

四日目の朝、空は晴れていましたが、海はどこか不思議な静けさをまとっていました。 波はあるのに、音が遠い。 風は吹いているのに、肌を撫でる感じが薄い。 そんな朝でした。

「今日は沖へ出るなよ」 と、年寄りの漁師が言いました。 「凪ぎすぎる日は、海の底で何か動いてる」 太郎は笑いかけましたが、その笑いは半分しか形になりませんでした。 「……そうかもしれませんね」

けれど、舟を浜につなぎとめたままでも、胸の奥が落ち着かないのです。 まるで、遠くから誰かに名を呼ばれているようでした。

結局、太郎は小舟を出しました。 沖へ出るつもりはなく、浜から見える範囲を少し流すだけのつもりでした。 けれど、櫂をひと掻き、ふた掻きするうちに、海の色が変わりました。 浅瀬の明るい青から、深い群青へ。 そしてその群青の上を、白い泡が一本、道のように伸びていました。

「なんだ、これは」

その泡の道の先に、見覚えのある甲羅が浮かんでいました。 あの日の亀でした。

亀は、まっすぐこちらを見ていました。 逃げもせず、沈みもせず、ただ波間にいて、太郎を待っているようでした。

「おまえ……」

亀はくるりと向きを変え、沖へ向かって泳ぎはじめました。 そして少し進んでは止まり、また太郎のほうを見ました。 ついてこい、と言われているようでした。

太郎は迷いました。 母の顔が浮かびました。 年寄りの漁師のことばも思い出しました。 けれど同時に、あの日助けた亀が、理由もなく沖へ誘うようなことはしないだろうという思いもありました。

「少しだけだぞ」

そう言って櫂を入れると、泡の道はさらに沖へ伸びていきました。 岸はだんだん遠くなり、村の屋根も松林も、白い線のようにぼやけていきました。 太郎の胸は高鳴っていましたが、不思議と恐ろしさは半分しかありませんでした。 残り半分は、子どものころ、はじめて夜の海を見たときのような、底知れぬ憧れでした。

やがて亀は、大きな渦の前で止まりました。 海面にぽっかりと口を開けたその渦は、ただ水が巻いているのではありませんでした。 光が回り、青が重なり、底のほうから鈴のような音がかすかに響いていました。

太郎は息をのみました。 すると、亀が初めて、人の声で言ったのです。

「浦島太郎どの」

太郎は櫂を取り落としそうになりました。

「……しゃべった」 「はい。あの日は、お助けいただき、まことにありがとうございました」 「おまえ、亀じゃ」 「亀でございます」 「亀が、しゃべるのか」 「海の奥では、そう珍しいことでもございません」

亀の声は老いた者のようでもあり、若い娘のようでもありました。 波の裏側から聞こえるような、不思議な声でした。

「これより、竜宮へおいで願いたく、お迎えに参りました」 「竜宮」 「海の底の宮でございます」 「なぜ、私を」 「あなたが命を助けてくださったから」 「それだけで、竜宮へ?」 「それだけ、と申されますか」

亀の声が、少しだけ柔らかくなりました。

「海では、ひとつの情けが、千の波より重いこともございます」

太郎は渦を見つめました。 母の顔がまた浮かびました。 帰るべきだ、という思いはたしかにありました。 けれど、こんな呼び声を一生に二度も受けることはないとも感じていました。

「少しだけ、行って帰れるのか」 「行って帰れます」 「ほんとうか」 亀は答えず、ただ静かに太郎を見つめました。 その沈黙を、あとになって太郎は何度も思い返すことになるのでした。

第四章 竜宮


太郎が意を決して亀の甲羅に手をかけると、海はすぐに姿を変えました。 渦は荒々しく見えたのに、中へ入ると不思議なほど静かで、冷たくも苦しくもありません。 まるで、水そのものが薄いガラスになり、身体をやさしく包んでいるようでした。

光る魚たちが列をなし、青白い海月が提灯のように漂い、遠くでは海底の砂が月のように淡く輝いていました。 太郎は、息をしているのかどうかもわからぬまま、ただ目を見開いていました。

「これは夢か」 「夢と申せば夢のようなもの」 「では現か」 「現と申せば現のようなもの」 「どっちなんだ」 亀は小さく笑ったようでした。 「海の底では、そのふたつの境がゆるいのでございます」

やがて目の前に、大きな門が現れました。 珊瑚で組まれ、真珠がちりばめられ、貝の柱が幾重にも立ち並ぶ、それはまさしく宮殿でした。 門の向こうには、青い庭、白い階、金のように光る廊があり、海の底だというのに、春の昼のように明るいのです。

「竜宮にございます」

門をくぐると、色とりどりの魚たちが舞い、海の者たちが道をあけました。 鯛は緋色の裳をまとい、比目魚は薄い絹を引くように泳ぎ、海老はまるで槍持ちのようにひげをそらしていました。 太郎は思わず笑ってしまいました。

「これはまた、たいそう賑やかだ」 「ようこそ、お客人」 どこからか声がして、奥の階から、一人の娘が降りてきました。

その娘は人の姿をしていました。 けれど、ただの人ではありませんでした。 髪は夜の海のように長く、衣は貝の内側のように淡く光り、歩くたび、足もとに細かな泡が花のように散りました。 その目は、あの日の亀の目と同じ色をしていました。

太郎ははっとしました。 「……おまえ」 娘は微笑みました。 「はい。あの日の亀にございます」 「亀が、姫だったのか」 「姫と呼ばれることもありますし、使いと呼ばれることもあります」 「本当の名は」 「乙姫、と人の世では呼ぶことが多うございます」

乙姫は深く頭を下げました。

「浦島太郎さま、よくおいでくださいました。命を助けていただいたご恩、竜宮をあげておもてなしいたします」

太郎は、浜の漁師でしかありません。 こんな麗しい娘に、こんな宮で迎えられるなど、まるで筋違いの物語に迷い込んだような気分でした。

「私は、ただ亀を助けただけだ」 「その、ただ、が難しいのです」 乙姫は言いました。 「多くの者は、助けるかどうかを考える前に、石を投げます。見て見ぬふりをします。珍しいものを珍しいまま傷つけます。あなたは立ち止まって、手を差し出しました」 「見過ごせなかっただけだ」 「それを情けと申します」

そう言われると、太郎は返す言葉がありませんでした。

第五章 四季の座敷


竜宮での日々は、眩しいほどでした。 ある座敷を開けば、そこは春。 桜色の魚が花びらのように泳ぎ、遠くで鶯のような声をした貝が鳴いています。 別の座敷を開けば、夏。 青い水面に金の光が揺れ、珊瑚の間を涼しい風が通り、海藻の葉が笹のようにさやさや鳴ります。 秋の座敷には紅い珊瑚の森があり、冬の座敷では白銀の砂が静かに光っていました。

「海の底に、四季があるのか」 太郎がたずねると、乙姫は答えました。 「人の世の四季を映しているのです。海は、空も山も里も、みな写し取りますから」 「じゃあ、ここには地上のすべてがあるのか」 「すべてではありません」 乙姫は少し目を伏せました。 「失われたものに近いものほど、よく映ります」

宴も続きました。 鯛や平目の舞いは、人の世で聞く噂どおり美しく、杯には月の光を溶かしたような酒が注がれました。 その酒をひと口飲むと、胸の奥に冷たい泉がひらくような心地がしました。

「どうぞ」 乙姫が盃を差し出しました。 「これは、どんな酒だ」 「海の記憶を少しだけ薄めたものです」 「海に、記憶があるのか」 「ございますとも。人が浜で泣いたことも、船乗りが歌ったことも、母が子を待つことも、みな波は覚えております」

太郎は笑いながらも、どこか胸を衝かれました。 母のことを思い出したからです。

「母は、今ごろ夕餉の支度をしているかな」 乙姫は盃を置きました。 「帰りたくなりましたか」 「いや……」 太郎は言いよどみました。 「帰りたくないわけじゃない。ただ、ここがあまりに不思議で」 「不思議なものは、目を離しにくいものです」 「おまえは、私が帰ると困るのか」 乙姫は少し笑いました。 「困る、というのは人の世の言い方に近いでしょうか」 「では、海の言い方では?」 「寂しい、に近いかもしれません」

そのひと言に、太郎は不意を打たれたように黙りました。 乙姫は華やかな姫であるだけでなく、ときおり、海の底の暗いところを思わせる影を見せるのでした。

ある夜、宮の外れの回廊で、太郎は乙姫と二人きりになりました。 外には青い闇が広がり、その中を無数の小魚が星のように流れていました。

「おまえは、ずっとここにいるのか」 「ええ」 「退屈しないのか」 「海は広いので、退屈はしません」 「でも、同じところにいる」 「同じように見えて、同じではありません」 乙姫は海の闇を見つめたまま言いました。 「潮は常に変わります。昨日の海と今日の海は違います。けれど人の世は、海から見れば、ずいぶん速く変わってしまう」 「速く?」 「人はすぐに老い、すぐに別れ、すぐに名を失います」 太郎は笑いました。 「そんなふうに言うと、おまえはずいぶん長く生きているように聞こえる」 「長く生きております」 「どれほど」 乙姫は少し考えるようにしてから、やわらかく首を振りました。 「それを知ると、あなたは寂しくなります」

太郎は、そのとき初めて、竜宮に流れている時が、自分の知る時とは違うのではないかと思いました。 けれど、その不安を、酒と音楽と乙姫の微笑みが、すぐに薄めてしまいました。

第六章 忘れられぬもの


竜宮で過ごす日々が、三日だったのか、七日だったのか、それとももっと長かったのか、太郎にはよくわからなくなっていました。 眠れば朝のような光があり、目覚めれば宴の支度が整っている。 疲れはなく、腹も減りすぎず、心はいつも半分ほど夢の中にあるようでした。

けれど、忘れられぬものが一つだけありました。 母です。

あるとき、楽の音がふっと途切れた瞬間、太郎は囲炉裏の匂いを思い出しました。 潮と煙の混じった、小さな家の匂い。 母が魚を焼く匂い。 冬の夜、戸を閉める音。 朝、まだ暗いうちにかけられる声。

「太郎、起きな。潮が動くよ」

その記憶が胸に差し込んだ途端、竜宮の華やかさが、かえって遠いものに感じられました。

その夜、太郎は乙姫に言いました。

「帰りたい」 乙姫はすぐには答えませんでした。 長いまつげを伏せ、しばらく黙ってから、静かにたずねました。 「母君のことを思い出されましたか」 「うん」 「そうですか」 「おまえには悪いが」 「悪くはありません」 乙姫は微笑みました。 けれど、その微笑みはどこか薄く、波の下の月のようでした。 「帰りたいと思える方が、人としては自然でしょう」 「また来られるか」 「来られるかもしれません」 「かもしれない?」 「海の道は、行きより帰りのほうが、ずっと気まぐれなのです」 太郎は胸騒ぎを覚えました。 「何を隠している」 「隠してはおりません」 「では教えてくれ。竜宮にいるあいだ、地上ではどれくらい時が過ぎる」 乙姫は太郎を見つめました。 その目には、止めたい思いと、止めてはならぬ思いが、どちらもありました。

「人の世と海の底では、時の流れが同じではありません」 「どれほど違う」 「それは、潮の具合にも、来た者の宿命にもよります」 「宿命なんて言葉でごまかすな」 太郎の声は思わず強くなりました。 乙姫は少しだけ目を細めましたが、怒りは見せませんでした。

「ごまかしてはおりません。けれど、もし今ここで数字を申しても、あなたはそれを本当に信じられますか」 太郎は黙りました。 信じたくないものは、聞いても信じられない。 乙姫はそれを知っているようでした。

「ひとつだけ約束してください」 乙姫は言いました。 「お帰りになるなら、これをお持ちなさい」 そう言って差し出したのは、美しい箱でした。 小ぶりな手箱ほどの大きさで、白木にも見え、玉のようにも見える、不思議な箱でした。 結び紐は淡い紫で、指をかけると冷たいのに、胸に抱くとほのかにあたたかいのです。

「玉手箱」 乙姫はそう呼びました。 「何が入っている」 「あなたを守るものです」 「なら、開けてもいいのか」 乙姫は、今度ははっきりと首を振りました。 「いいえ。決して、決して開けてはなりません」 「なぜ」 「開けば、あなたは人の世の時と、まともに向き合うことになります」 「どういう意味だ」 「今は、それ以上申せません」 「私は子どもじゃない」 「ええ。だからこそ、これ以上は申せないのです」

太郎は箱を見つめました。 美しいものほど、何かを隠している。 そう思う一方で、乙姫が悪意をもってこれを差し出しているのではないことも、痛いほどわかりました。

「開けるな、と約束してくれるなら」 乙姫は言いました。 「私はあなたを地上へお返しします」 「……わかった」 「本当に?」 「約束する」 乙姫はそれを聞いても、安心した顔はしませんでした。 ただ、深い海の底のように静かな顔でうなずきました。

第七章 帰る浜


帰りの道は、来たときよりもずっと短く感じられました。 あるいは、太郎が胸のざわめきに気を取られていただけかもしれません。 亀の甲羅に乗り、青い闇を抜け、泡の道を上がっていくあいだ、乙姫はほとんど口をききませんでした。

ただ、別れ際にひと言だけ、こう言いました。

「浦島太郎さま」 「なんだ」 「あなたが私を助けたことを、私は忘れません」 「私も、おまえのことは忘れない」 乙姫は少しだけ笑いました。 「人の忘れぬ、は、海の忘れぬ、とは少し違うのですけれど」 「どう違う」 「人は、忘れぬつもりでも、季節に削られます」 「海は?」 「海は、削りながら残します」 太郎はその意味をたずねようとしましたが、そのときにはもう、亀は水面の下へ沈みはじめていました。

気がつくと、小舟は浜近くの浅瀬に浮かんでいました。 空は夕方でも朝でもないような、妙に白い色をしていました。 太郎は岸へ舟を寄せ、飛び降りました。

「母さん」 そう呼びながら浜道を走って、ふと足を止めました。

何かが違う。 浜の形が、少し違うのです。 松の位置が違う。 道の幅も違う。 見覚えのある岩が欠け、なかったはずの小さな祠が立っています。

「……なんだ」

太郎は胸が冷えるのを感じながら、村へ向かいました。 そこにあったはずの家並みも、どこか違っていました。 屋根の角度、戸の作り、井戸の囲い。 知っているようで、知らない。

太郎は自分の家があった場所まで走りました。 けれど、そこにあったのは、見知らぬ家でした。 戸口には、見たこともない女が立っています。

「すみません」 太郎は息を切らしながら言いました。 「ここに、浦島という家があったはずだ。母が住んでいる」 女は怪訝そうな顔をしました。 「浦島?」 「そうだ。漁師の浦島だ」 「そんな家は知りませんねえ」

太郎は、頭の中が音を失っていくのを感じました。 隣の家の老人にたずねても、辻の男に聞いても、若い娘に問うても、誰も浦島の名を知りません。 やがて、一番年老いた者だという白髪の老人が、杖をついて現れました。

「浦島、とな」 「そうです。私が浦島太郎です」 老人は、太郎の顔をしげしげと見てから、目を細めました。 「それはまた、ずいぶん古い名を言う」 「古い?」 「この村に、昔、浦島という漁師がいたと聞く。亀に乗って海の底へ行ったとか、帰ってこなかったとか」 太郎の喉がからからになりました。 「それは、いつの話だ」 老人は首をかしげました。 「わしの祖父の、そのまた祖父のころかのう。詳しくは知らん」 「そんなはずはない」 太郎はかすれた声で言いました。 「私は、ほんの数日」 「若いの」 老人は静かに言いました。 「人が夢から覚めたとき、一番つらいのは、夢が嘘だったことではない。夢のあいだにも、外では本当の時が流れていたと知ることだ」

太郎は立っていられなくなり、その場に膝をつきました。

第八章 箱の中の時


日が傾いていきました。 村の者たちは、気味の悪いものを見るように太郎を遠巻きに眺めていましたが、やがて夕餉の刻になると、それぞれ家へ戻っていきました。 浜には潮騒だけが残りました。

太郎は一人、波打ち際に座りこみました。 腕の中には、玉手箱があります。 それだけが、竜宮が夢ではなかった証のようでした。

「母さん」

返事はありません。 囲炉裏の煙の匂いもしません。 自分を知る声も、名を呼ぶ者もいない。 村はたしかにここにあるのに、自分の居場所だけが、きれいに削り取られてしまったようでした。

太郎は箱を見つめました。 開けるな。 乙姫はそう言った。 決して開けてはなりません、と。

「これを開ければ、人の世の時と向き合うことになる」

その意味が、今なら少しわかる気がしました。 自分は、まだ本当には理解していないのです。 母が死んだことも、村が変わったことも、自分がもう帰る場所を失ったことも。 理解していないから、まだこうして若いままで座っていられるのかもしれない。

「私は、何を守られている」

波が来て、足もとを濡らしました。 引いていく水の音が、まるで誰かのため息のように聞こえました。

「乙姫」 太郎はつぶやきました。 「おまえは、これを開けなければ私は幸せだと思ったのか」 返事はありません。 ただ、遠い沖で、一つの波頭だけが白く光りました。

太郎は箱を胸に抱きました。 開ければ、何かが決定的に終わる。 それはわかります。 けれど、開けなければ、始まらないこともあるように思えたのです。

「私は、置いていかれた時を知らなければならない」

そう言って、太郎は結び紐に手をかけました。 指は震えていました。 それでも、ほどきました。

箱のふたが、かすかに鳴って開きました。

次の瞬間、白い煙が、細く、やさしく、そして容赦なく立ちのぼりました。 それはただの煙ではありませんでした。 冬の朝、夏の夕立、秋の風、春の霞。 笑い声、泣き声、別れの吐息、名を呼ぶ声。 人の世の季節そのものが、細い糸になってほどけていくようでした。

煙は太郎の顔を撫で、髪に触れ、肩に降り、身体のすみずみにしみこんでいきました。

「……あ」

その一瞬で、太郎は知りました。 母がどれほど待ったか。 待ちながら、どれほど年をとったか。 浜が何度荒れ、何度晴れ、村の子どもが親になり、その子がまた親になったか。 自分が不在のあいだに流れた時が、どれほど長かったか。

太郎の黒髪は白くなり、肌はたちまち乾いた木の皮のようにしわみ、背は曲がり、声はかすれました。 若い漁師の姿は、潮風にさらされた老翁へと変わっていきました。

けれど、不思議なことに、太郎は恐怖の中で、ほんのわずかな安堵も感じました。 ようやく、自分が置き去りにしてきた時間に追いついたのです。 遅すぎたとしても。 あまりに残酷だったとしても。

「母さん……」

その声は、ほとんど風と変わりませんでした。

第九章 鶴の影、亀の影


そこから先は、土地によって語り方が分かれます。

あるところでは、太郎はその場で老いて倒れ、海辺の砂になったと言います。 あるところでは、白い煙に包まれたのち、鶴となって空へ飛び立ったとも。 またある話では、乙姫がふたたび亀を遣わし、今度は太郎を人ではないものの住む常世へ迎えたとも語られます。

この話では、太郎はすぐには倒れませんでした。

老いた身体を支えながら、太郎は波打ち際に立ちました。 目はもうかすみ、耳も遠くなっていましたが、沖に一つ、見覚えのある影が見えました。 亀です。

「おまえか」

亀は近づいてきました。 あの日の亀と同じか、別の亀か、それはわかりません。 けれど、その目はあまりにも静かで、見ているだけで胸が痛くなりました。

「迎えに来たのか」 亀は答えません。 太郎はかすかに笑いました。 「そうか。もう言葉はなくてもいいな」

ふと、頭上を一羽の白い鳥が横切りました。 鶴でした。 夕暮れの空を大きく旋回し、しばらく太郎の上を飛んでいました。 その羽ばたきの音は、なぜか玉手箱のふたを開けたときの気配によく似ていました。

「人は、鶴になるのかもしれんな」 太郎はつぶやきました。 「いや、亀になるのかもしれん。待つ者にも、帰る者にも、長い時が要る」

そして太郎は、波の来るところまで歩いていきました。 冷たい水が足首を包み、膝を包み、腰を包みました。 老いた身体は軽く、今にもほどけてしまいそうでした。

そのとき、遠くから、たしかに母の声が聞こえたような気がしました。

「太郎、無茶をするんじゃないよ」

太郎は笑いました。 「遅かったよ、母さん」 それでも、声が聞こえたのなら、それでよかったのです。 人は、帰る場所を失っても、呼ぶ声まで失うわけではないのかもしれません。

波はさらに寄せ、引き、寄せました。 亀はそばにいました。 鶴は上を舞っていました。 空と海のあわいで、太郎の姿は夕霧にまぎれるように薄くなっていきました。

第十章 浦の話が残るわけ


その後、浜の者たちはときおり、不思議なことを語るようになりました。 凪いだ夕方、沖に白い鶴が一羽、低く飛ぶのを見た。 その真下を、大きな亀が泳いでいた。 浜で泣く子がいると、どこからか古い子守歌のような波の音が近づいてきた。 嵐の夜、舟を出してしまった者が、沖で「深追いするな」と呼ぶ男の声を聞いて助かった。

「あれは浦島さまだ」 年寄りたちはそう言いました。 「海へ行き、海に時を取られ、海へ返った人だ」 「かわいそうな人だ」 と言う者もいれば、 「羨ましい人だ」 と言う者もいました。

たしかに、かわいそうな話です。 帰ってきたときには、待っていた者がもういないのですから。 けれど、羨ましいという気持ちが混じるのも、人の心でしょう。 人は誰しも、老いのない国、悲しみの届かぬ宮、失ったものがそのままの姿で眠っている場所を、一度は夢見るのですから。

ただ、浦島太郎の話が長く残ったのは、竜宮が美しかったからだけではありません。 この話が、誰の胸にもある問いをそのまま抱いているからです。

大切なものを前にしたとき、人はどこまでそこにとどまれるのか。 失った時間は、取り戻せるのか。 帰るとは、元に戻ることなのか。 それとも、戻れないと知ることが、ほんとうの帰りなのか。

玉手箱は、ただの禁じられた箱ではありません。 見ないふりをしている時の重さであり、知れば失うけれど、知らなければ生きていけない真実でもあります。 だからこそ、誰もが一度は思うのです。 開けなければよかった、と。 けれど同時に、開けずにはいられなかっただろう、と。

海は今も、浜へさまざまなものを運んできます。 貝殻、流木、見知らぬ種、遠い土地の欠片。 そして、ときには、まだ言葉になっていない後悔や、誰にも打ち明けていない願いまで。

もしも、静かな浜で一匹の亀を見かけたなら、どうか石を投げずにいてください。 その亀がただの亀でも、海の使いでも、あるいは昔、帰る時を失った誰かの名残でも、こちらにはわからないのですから。 助けることは、何かを始めてしまうことかもしれません。 けれど、始めずにすむ人生ばかりが、よいとも限りません。

浦島太郎は、竜宮へ行った若者であり、帰ってきた老人であり、時に鶴となり、時に波の声となる人です。 海に誘われた人であり、海に返された人でもあります。 そして何より、失った時を前にして、それでも最後に、自分の名を捨てずに立っていた人でした。

だから今でも、夕暮れの浜で波の音がいつもより古く聞こえるとき、年寄りたちはこう言うのです。

「浦島さまが、まだ沖で海と話しておいでだ」

そうして、白い波は寄せては返し、返しては寄せます。 来るものを迎え、去るものを見送りながら、海は今日も、ひとつの物語を何度でも語りなおしているのでしょう。

――おしまい――

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