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舌切雀――すずめのお宿連続密室殺人事件

## 第1章
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四国の山奥、どこまでも続く鬱蒼とした竹林を抜ける風の音が、車の窓越しにも低い唸りのように聞こえてきた。

「すごい場所ね。本当にこの道で合っているの?」

助手席に座る妻の小春が、カーナビの画面と窓の外を交互に見比べながら言った。彼女の端正な横顔には、不安よりも好奇心が勝っている。

「案内通りなら、もうすぐ着くはずだよ」

ハンドルを握りながら、私は慎重にアクセルを踏み込んだ。対向車が来たらすれ違うのも困難な、曲がりくねった山道だ。携帯電話の電波は、数キロ手前からすでに圏外を示している。

日常の喧騒から完全に切り離されたこの場所こそが、今回の目的地だった。
私たちの結婚記念日を祝うために私が選んだのは、知る人ぞ知る高級オーベルジュ「笹鳴館(ささなきかん)」。

視界がふいに開け、深い渓谷に架かる鉄線の吊り橋が現れた。
車のタイヤが橋板を踏むたびに、ゴツゴツとしたくぐもった音が響く。下を見下ろせば、目が眩むような高さの谷底を濁った川が流れている。高所恐怖症気味の私は、思わず息を詰め、ただ前だけを見て車を進めた。

「立派な橋。ここを渡らないと辿り着けないなんて、特別感があって素敵ね」

小春は無邪気に景色を楽しんでいる。彼女はいつだって落ち着いていて、どこか凛とした佇まいを崩さない。そんな妻を喜ばせたくて、数ヶ月前から予約戦争を勝ち抜き、ようやく手に入れた特等席だった。

吊り橋を渡りきり、さらに少し進むと、周囲の竹林がふっと途切れ、見事な玉砂利と苔庭に囲まれた和風モダンの空間が姿を現した。



「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

車をエントランスに停めると、パリッとしたスーツを着こなした初老の男性が、柔和な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

「支配人の片岡と申します。雀部様ですね。長旅、お疲れ様でございました」

片岡と名乗ったその男の案内で、私たちは本館のラウンジへと足を踏み入れた。
外観は周囲の自然に溶け込むような落ち着いた和の意匠だったが、内部は豪奢の一言に尽きる。高い天井、間接照明に照らされた重厚な調度品。そして何より目を引くのが、窓の向こうに広がる圧倒的な竹林の風景だった。

「ウェルカムドリンクの、すだちと和三盆のスパークリングでございます」

控えめな声とともに、清潔感のあるブラウスを着た女性従業員がグラスを運んできた。名札には「水口」とある。彼女の所作は丁寧で、高級ホテルのそれというよりは、どこか温かみのある気配りを感じさせた。

「ありがとうございます。美味しい」
小春がグラスに口をつけ、ふわりと微笑む。その完璧な笑顔を見て、私は密かに安堵の息をついた。

「当館は、この本館のほかに、宿泊用の離れが六棟ございます。すべてのお客様に、誰にも邪魔されない極上のプライベート空間をご提供しております」

片岡が、滑らかな口調で笹鳴館のコンセプトを語り始めた。

「離れはすべて、コンクリートの躯体を巨大な竹編みで覆った『つづら』のような造りになっております。防音性とプライバシーを完全に守りつつ、自然との調和を楽しめる当館自慢の建築です」

一息つき、片岡はさらに言葉を継いだ。

「そして何より、当館のオーナーシェフである堂島が腕を振るう、地元食材をふんだんに使ったフレンチ。これを目当てに、全国から美食家の方々に足を運んでいただいております」

「堂島シェフのお料理、ずっと楽しみにしていました」

小春が背筋を伸ばし、真剣な眼差しで言った。
「食と、それを作る方への敬意。それが感じられる素晴らしいレストランだと伺っております。今夜のディナーが本当に待ち遠しいです」

「それはシェフも喜びます。最高の準備をしてお待ちしておりますよ」
片岡は満足げに頷き、水口に目配せをした。

「それでは、お部屋へご案内いたします。雀部様は、大つづらの五号室でございます」

水口の先導で本館を出ると、私たちは再び竹林の中へと足を踏み入れた。
美しく整備された飛び石の小道が、鬱蒼とした竹の間を縫うように続いている。風が吹くたびに、サラサラ、カラカラと竹が擦れ合う音が響き渡る。これが「笹鳴き」というわけか。

しかし、この竹林の小道は、視界が極端に遮られる。
右を向いても左を向いても、似たような竹の壁と飛び石が続くばかりで、方向感覚が狂いそうになる。まるで精巧に作られた迷路だ。

「竹林が深いので、他の離れがどこにあるのか、ここからでは全く見えませんね」
私が感心したように言うと、水口が振り返って微かに微笑んだ。

「はい。お客様同士が顔を合わせることなく、お忍びのような感覚でお過ごしいただけるよう、計算された配置になっております。ただ、少し迷いやすいので、お出かけの際はお足元にお気をつけくださいね」

やがて、小道の奥に異様な、しかし洗練された巨大な構造物が見えてきた。
本当に、巨大な籠か「つづら」が森の中に置かれているようだ。表面を覆う無数の竹の編み込みが、夕暮れ近い光を吸い込んで静かな影を落としている。



「こちらが五号室でございます。ごゆっくりお寛ぎください」

重厚なドアを開け、中へ入る。
外観の奇抜さとは裏腹に、室内は極めて上質で落ち着いた空間だった。広々としたリビングの奥には、ふかふかのベッドが二つ並んでいる。窓からは切り取られた絵画のような竹林が見え、外界の音は分厚い壁に遮られてほとんど聞こえない。



「素晴らしいわ、真悟さん。本当に素敵な記念日になりそう」

荷物を解きながら、小春が振り返って言った。
一切のノイズがない、完璧に切り離された空間。ここでなら、日頃の仕事の疲れもすべて忘れられるだろう。

「喜んでくれてよかったよ。とりあえず、夕食の時間まで少し休もうか」

私はソファに深く腰を沈め、静寂に包まれた部屋の空気をいっぱいに吸い込んだ。窓の外では、音もなく竹が揺れている。私たちを歓迎し、そして優しく外界から隔離するように。

### 2


夜の帳が下りると、笹鳴館は深い静寂と闇に包まれた。
ライトアップされた竹林は、昼間とは違う妖艶な影を落としている。飛び石の小道を歩き本館のダイニングへ向かう途中、他の宿泊客とすれ違うことはなかった。やはりこの宿は、他人の気配を感じさせないように徹底されている。



重厚な扉を開け、本館のダイニングルームへ足を踏み入れる。
そこは、周囲の暗闇を忘れさせるほど豪奢で、洗練された空間だった。高い天井には豪奢なシャンデリアが煌めき、ゆったりと間隔を空けて配置された六つのテーブルが、それぞれの客を待ち受けている。

私たちが席に案内されると、すでに他の客たちも揃い始めていた。
今夜の宿泊客は、私たちを含めて六組のようだ。

右手のテーブルで、一際大きな声で談笑している初老の男が二人。
「いやあ、今年の選挙は骨が折れるよ。まあ、君のところの支援があれば盤石だがね」
恰幅の良い、政治家のような威圧感を持つ男が笑う。
「お任せください、郷田(ごうだ)先生。我々も先生には大いに期待しておりますので」
それに応じるのは、仕立ての良さそうなスーツを着こなした四十代の男だ。実業家といった風情だが、その目には抜け目ない光が宿っている。

彼らのテーブルには、支配人の片岡がつきっきりだった。
「郷田様、財前(ざいぜん)様。今夜は特別なヴィンテージを開けさせていただきました。お口に合うとよろしいのですが」
揉み手でもしそうな片岡の卑屈な態度からは、彼らがこの宿にとって「特別な客」であることが容易に察せられた。

その隣のテーブルには、一人で静かにグラスを傾ける三十代後半の男がいた。
理知的で整った顔立ち。彼はこちらの視線に気づくと、グラスを軽く持ち上げて気さくな笑みを見せた。どこか学者や研究者のような、飄々とした空気を纏っている。

さらに奥のテーブルでは、二十代の若い女性がスマートフォンで熱心に内装の写真を撮っていた。ライターか何かだろうか。高級オーベルジュには少し不釣り合いなほど、カジュアルで落ち着きのない動きをしている。

そして、私たちの斜め向かいのテーブル。
そこに座る五十代の男が、このダイニングで最も異質な空気を放っていた。
仕立てのいいジャケットを羽織っているが、脚を組み、腕を背もたれに回した尊大な姿勢。彼は、給仕をしている女性従業員——チェックインの時に案内してくれた水口——を冷ややかな目で見下ろしていた。

「おい。このグラス、曇ってるんじゃないか? 拭き上げが甘い。これじゃあ、せっかくのワインの香りが台無しだ」
「も、申し訳ございません。すぐに新しいものとお取り替えいたします」
「もういい。それより、水だ。地元の湧き水か何か知らないが、少しカルキ臭い。ペリエはないのか?」

水口が慌てて頭を下げて下がるのを、男は鼻で笑って見送った。
自称美食家といったところか。周囲を睥睨するその視線には、滲み出るようなエリート意識と、他者を見下す優越感が張り付いていた。

「……嫌な感じね」
小春が、メニューに視線を落としたまま小さく呟いた。
「ああ。せっかくの食事が不味くなりそうだ」
私が同調すると、小春は静かに首を振った。

「食事が不味くなるわけじゃないわ。ただ、料理を作る人やサービスを提供する人への敬意がない人間は、この空間にいる資格がないと思うだけ」

彼女の声は、どこまでも平坦で、冷ややかだった。感情の起伏を感じさせないその口調は、理路整然と事実だけを述べているかのようだ。

やがて、コース料理が運ばれてきた。
一皿目がテーブルに置かれた瞬間、空気が変わった。

「本日のアミューズでございます」

厨房の奥から姿を現したのは、純白のコックコートに身を包んだ鋭い眼光の男——オーナーシェフの堂島誠一だった。
余計な愛想笑いは一切ない。ただ、己の生み出した料理への絶対的な自信と、異常なまでの執念が、その立ち姿から立ち昇っている。

出された料理は、芸術品だった。
地元の山菜と海産物を、見たこともない技法で再構築した一皿。口に運んだ瞬間、複雑な香りと鮮烈な旨味が爆発し、私は思わず言葉を失った。

「……美味しい」

小春もまた、目を丸くして感嘆の息を漏らした。
彼女のナイフとフォークの使い方は完璧で、一滴のソースさえ無駄にしないよう、丁寧に、そして心からの敬意を込めて料理を味わっている。

しかし、静寂と至福に包まれるべきダイニングルームに、再びあの男の甲高い声が響いた。

「堂島シェフ。このソース、少し酸味が立ちすぎじゃないか? 地元の柑橘を使っているんだろうが、フレンチの繊細さを殺している。もう少し、全体のバランスを考えた方がいいんじゃないかね?」

傲慢な男——二階堂という名らしい——が、堂島に向かって偉そうに講釈を垂れている。
堂島は一瞬、氷のように冷たい目で二階堂を見据えたが、すぐに表情を消して短く頭を下げた。
「貴重なご意見、ありがとうございます」
それだけ言い残し、堂島は踵を返して厨房へと戻っていった。

「ふん、プライドばかり高くて、客の意見を聞き入れない職人は三流だよ」
二階堂は一人ごちて、乱暴にワインを煽った。
片岡が慌てて二階堂のテーブルへ駆け寄り、愛想笑いを浮かべて機嫌を取り繕っている。

私は溜息をつき、小春の方を見た。
小春は手元の皿を綺麗に平らげ、静かにナイフとフォークを揃えていた。その顔には怒りも不快感もない。ただ、完璧な球体のような無表情があった。

「真悟さん」
「ん?」
「あれは、生きている価値のない社会の害悪ね。素晴らしいお料理に対する冒涜だわ」

彼女は、天気の話でもするかのように、あっさりとそう言った。
声のトーンは至って普通だ。周囲の客に聞こえるような声量でもない。
私は「まあ、あんな奴はどこにでもいるよ」と苦笑して誤魔化した。まさか、その「普通」の言葉が、後にとんでもない事態を引き起こす伏線になるとは、この時の私には知る由もなかった。

極上の料理と、奇妙な不協和音。
外界から隔絶された笹鳴館の夜は、静かに、そして確実に、狂気への助走を始めていた。

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極上のディナーを終え、ラウンジで食後のコーヒーを楽しんでいた時のことだった。
突然、腹の底に響くような轟音が響き渡った。

「なんだ、今の音は?」
葉巻を咥えていた郷田が、眉間に皺を寄せて立ち上がった。地震ではない。地面の揺れはなく、ただ巨大な質量が谷底へ叩きつけられたような、破壊音だけが夜の竹林を震わせたのだ。

「何か、外で起きたみたいですね」
理知的な顔立ちの男——結城蒼と名乗った建築音響学の准教授が、冷静な声で窓の外に視線を向けた。

騒ぎを聞きつけたのか、他の客たちも次々とラウンジに顔を出した。
「おい、何なんだ。今の音! 落ち着いて酒も飲めないじゃないか!」
二階堂は相変わらず不機嫌そうに声を荒らげている。フリーライターの高橋美咲は、興味津々といった様子でスマートフォンを構えていた。

「皆様、どうか落ち着いて……」
受付係の水口がオロオロと宥めようとするが、その直後、作業着姿の初老の男が、血相を変えて本館に駆け込んできた。庭師で施設管理を担当している中田だ。

「ど、堂島シェフ! 大変です!」
厨房から足早に出てきた堂島に向かって、中田は息を切らしながら叫んだ。
「吊り橋が……ここへ来るための唯一の吊り橋が、根元から崩落して、谷底へ落ちちまいました!」

「なんだと?」
堂島の鋭い声に、ラウンジの空気が凍りついた。
「崩落しただと? ケーブルが切れたのか?」
「わかりません。ただ、見事に橋板ごとスッポリと……。これじゃあ、車はおろか、歩いて渡ることも不可能です」

「冗談じゃないぞ!」
郷田が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「私は明日、都内で重要な会合があるんだ! 橋が落ちたなら、すぐにヘリでも何でも呼んで迎えを手配しろ!」

「それが……」結城がスマートフォンを見つめながら、静かに口を開いた。「圏外です。この辺りはもともと電波が届かない場所のようですね」
「衛星Wi-Fiがあるはずだ。ここの通信設備はどうなっている!」
郷田の取り巻きである財前が、水口に詰め寄る。

「は、はい! 本館の裏手に衛星通信用のルーターが設置してあります。すぐに確認を……」
水口は慌ててバックヤードへと走ったが、数分後、絶望的な顔をして戻ってきた。

「だ、駄目です……。ルーターの機器が、外殻ごと何者かに粉々に叩き壊されていました。通信ケーブルも切断されています……」

意図的な破壊。
その言葉の意味を理解した瞬間、場に得体の知れない恐怖が広がった。

「どういうことだ。誰かがわざと通信を絶ったとでも言うのか!」
「ふざけるな! 警察だ! すぐに警察を呼べ!」
二階堂や郷田が口々に騒ぎ立てる中、堂島が冷徹に響く声で一喝した。

「静かにしてください。パニックになっても状況は変わりません」

堂島の圧倒的な威圧感に、男たちは思わず口をつぐんだ。
「中田さん。次の定期業者の訪問はいつですか?」
「ええと……食材とリネン類の搬入業者が来るのは、金曜日です。今日は月曜ですから、丸四日は誰も来ません。地元の人たちも、こんな山奥には山菜採りすら来ない時期ですし……」

「つまり、我々は完全に孤立したということですね」
結城が顎に手を当てながら、状況を整理するように言った。
「橋は落ち、通信手段は絶たれ、外部からの訪問者も四日間は現れない。谷は深く、川は激流。自力での脱出は不可能。見事なクローズドサークルというわけだ」
結城はなぜか、不謹慎にも少し楽しそうな色を瞳に浮かべていた。

私は隣に座る小春を見た。
彼女はコーヒーカップをソーサーに静かに置き、膝の上で両手を綺麗に重ねている。怯える様子も、取り乱す様子も全くない。ただ、目の前で起きている事象を淡々と受け入れているだけの「普通の客」として振る舞っていた。

「おい、片岡はどうした!」
財前が苛立ったように周囲を見回した。
「支配人の片岡だ! 責任者のあいつがなぜ出てこない! どこで油を売っているんだ!」

「そういえば、夕食の片付けが終わってから姿を見ていませんね」
清掃員の吉川が、おずおずと口を挟む。
「私、探してきます。たぶん、地下のワインセラーに明日のボトルの確認に行っているのかと……」

吉川が小走りで地下へ続く階段を降りていく。
数秒後。

「きゃあああああああっ!!」

鼓膜をんざくような悲鳴が、地下から響き渡った。
私を含む男たちと堂島は、すぐさま階段を駆け降りた。小春も静かな足取りでそれに続く。

地下の廊下の突き当たり、分厚いガラスとステンレスで造られたワインセラーの前で、吉川がへたり込んでいた。
「か、片岡さんが……!」

セラーの重厚な扉越しに、中の様子が見えた。
温度管理された薄暗い空間の中で、片岡が床に倒れている。周囲には高級ワインのボトルが何本も割れて散乱し、赤黒い液体が血のように床を濡らしていた。

「片岡! 何をしている、開けろ!」
郷田がドアノブをガチャガチャと回すが、鍵がかかっているのかビクともしない。
「退いてください」
堂島が鍵の束を取り出し、マスターキーを差し込んで重い扉を引き開けた。

その瞬間、「シューーーッ」というかすかな空気の抜ける音がした。

「入るな!」
堂島が鋭く叫び、中へ入ろうとした財前を力強く制止した。堂島自身も口元をハンカチで覆い、セラーの入口付近にあるバルブへ手を伸ばし、急いで何かを閉め、換気扇のスイッチを最大にした。

「堂島シェフ、どういうことですか?」結城が目を細める。
「……窒素ガスです」
堂島は苦々しい表情で、床に倒れ伏す片岡を見下ろした。
「ワインセラーには、開栓したワインの酸化を防ぐために、ボトル内に窒素ガスを充填する専用のシステムがあります。そのメインバルブが全開になっていた。このセラーは温度と湿度を保つために完全な密閉空間になります。その中で大量の窒素ガスが放出されれば……」

「酸素が押し出され、酸欠になる……」
私が呟くと、堂島は重々しく頷いた。

「おそらく、即座に意識を失ったはずです。倒れた拍子にボトルをなぎ倒したのでしょう。……すでに呼吸はしていません。死んでいます」

死。
その単語が落ちた瞬間、廊下は水を打ったような静寂に包まれた。

吊り橋の崩落。通信機器の破壊。そして、支配人の密室での不審死。
これが単なる事故ではないことは、誰の目にも明らかだった。何者かが明確な殺意を持って、私たちをこの笹鳴館に閉じ込めたのだ。

「馬鹿な……片岡が死んだだと……?」
郷田が後ずさりし、財前は顔面を蒼白にして口をパクパクとさせている。二階堂は「チッ」と舌打ちをして顔を背けた。

「皆さん、聞いてください」
堂島が振り返り、我々宿泊客と、怯えきった従業員たちをまっすぐに見据えた。

「状況は最悪です。犯人は、この中にいるかもしれない。警察が来るまでの四日間、これ以上の犠牲者を出さないためには、規律が必要です。支配人である片岡が亡くなった今、この笹鳴館の責任者は私です。私の指示に従っていただきます」

有無を言わせぬ絶対的な声。
堂島誠一という男は、極限状態にあってなお、微塵の動揺も見せていなかった。彼は、この異常事態の主導権を完全に掌握した。

私は無意識に小春の手を握った。
彼女の指先は冷たくも熱くもなく、ただ滑らかだった。
「大変なことになったわね、真悟さん」
小春は、ひそやかな声で私に囁いた。

### 4


「……警察の現場検証が終わるまで、遺体はこのままにしておきます。証拠を保全するため、むやみに中を荒らすべきではありません」

堂島は重厚なガラス扉をきっちりと閉め、マスターキーで厳重に鍵をかけた。
分厚いガラス越しに、赤ワインの海に沈む片岡の姿が見える。まるで悪趣味な標本のようだった。

すすり泣く水口と吉川を中田が支え、我々は重い足取りで一階のラウンジへと戻った。
先ほどまで優雅な食後のひとときを楽しんでいた空間は、今や見えない恐怖が充満する閉鎖空間へと変貌していた。

「まさか、片岡が……」
郷田が額に脂汗を浮かべ、ドサリとソファに腰を下ろした。威圧的だった先ほどの態度は見る影もない。
「おい、本当に警察は呼べないのか? どうにかして連絡を取る方法は……」
「先ほど申し上げた通りです。固定電話の回線も、インターネット用の衛星ルーターも完全に破壊されています」
結城が淡々と答えた。その声には、怯えよりも冷徹な分析の色が濃い。

「ワインの酸化防止用システムを、殺人装置として転用する。しかも、セラーという密閉空間を利用した窒素ガスによる酸欠死。……鮮やかな手口です。犯人は、この笹鳴館の設備と構造を熟知している可能性が高い」
「なんだと?」
財前が結城をキツく睨みつけた。
「まさか、この中に犯人がいると言いたいのか! ふざけるな!」

「落ち着いてください、財前さん」
フリーライターの高橋が、手元のスマートフォン——電波は通じていないが、メモ帳アプリを開いている——から顔を上げた。
「事実として、橋を落とし、通信を切り、支配人を殺せる人間は限られています。外部の犯行だとしても、私たちは今、完全に逃げ場のない檻の中にいるんです。冷静にならなければ、次の犠牲者が出るかもしれない」

「チッ、くだらん」
舌打ちをしたのは、二階堂だった。
彼は苛立った様子で腕を組み、堂島に向かって傲慢な顎をしゃくった。

「誰が誰を殺そうが知ったことか。俺はこんな三文芝居に付き合う気はない。部屋に戻って寝る。おい、明日の朝食は遅れるなよ。こんな状況だろうが、俺は完璧なフレンチトーストとエスプレッソを要求する。サービスの質まで落とすようなら、容赦なくネットで酷評させてもらうからな」

人が一人死んでいるというのに、自分の朝食の心配である。
極限状態によって露わになったその異常なまでの身勝手さに、私は眩暈すら覚えた。

「なんて不作法な方かしら」
隣で静かに座っていた小春が、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「人が亡くなったことより、シェフへの敬意の欠如が許せないわ。あんな振る舞い、一流のオーベルジュの客として恥ずかしくないのかしらね」

彼女の言うことは正論だ。あまりにも正論すぎて、狂気すら孕んでいるように聞こえるのは私の気のせいだろうか。殺人犯がうろついているかもしれないというのに、小春の基準はあくまで「マナー」と「食への敬意」にあった。彼女の横顔には、恐怖の色が一切ない。

「お待ちください、二階堂さん」
足早にラウンジを出ようとした二階堂を、堂島の低く通る声が引き止めた。

「なんだ? 帰るなとでも言うのか」
「ええ。単独行動は危険です」
堂島はラウンジの中央に立ち、全員を見渡した。その鋭い眼光に射抜かれ、誰もが息を呑む。

「結城さんの言う通り、犯人はこの笹鳴館の構造を熟知している可能性があります。外部の人間か、内部の人間かはわかりません。ですが、我々はこの山奥で、最低でも四日間、助けを呼ぶことも逃げることもできずに過ごさなければならない」

堂島は一度言葉を切り、言葉の重みを全員に浸透させた。
「支配人が殺害された今、私はオーナーとして、お客様と従業員の命を守る義務があります。そのためには、徹底した安全管理とルールが必要です」

「ルールだと?」郷田がいぶかしげに眉をひそめる。
「はい。夜間に無防備な状態で襲われるのを防ぐための、『引き籠もりルール』です」

堂島は窓の外、深い闇に沈む竹林を指差した。
「幸いなことに、皆様が宿泊されている離れ『つづら』は、それ自体が堅牢なシェルターとして設計されています。コンクリートの躯体と分厚い防音扉は、中から鍵をかければ外部からの侵入を完全に防ぐことができる。今夜は、その機能について皆様に正しく理解していただき、安全を確保した上で就寝していただきます」

堂島の提案は、極めて合理的だった。
確かに、こんな誰が犯人かわからない状況で、セキュリティに不安がある部屋で眠ることなど到底できない。

「中田さん。あなたは離れのメンテナンスを担当していて、建物の造りに詳しいですね」
堂島が水を向けると、庭師の中田は緊張した面持ちで頷いた。
「は、はい。躯体の構造から鍵の仕組みまで、一通り把握しております」
「では、皆様を本館から一番近い三号室にご案内し、離れの『シェルターとしての機能』を説明してください。全員が納得し、安心を得ることが先決です」

従業員たちは本館のバックヤードにある従業員室で固まって夜を明かすことになり、私たち宿泊客は、己の身を守るための「城」の構造を学ぶことになった。

私はラウンジの窓に映る自分の青ざめた顔を見た。
妻との幸せな結婚記念日になるはずだった旅行は、完璧な密室殺人事件と、底知れない悪意が渦巻くサバイバルゲームへと変貌してしまった。
風が吹き、竹林がサラサラと不気味な音を立てて鳴いている。まるで、私たちを閉じ込めた檻が、さらにその隙間を狭めていくように。

## 第2章
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「それでは、皆様。本館から最も近い三号室へ移動します」

堂島の先導で、私たちは再び夜の竹林へと足を踏み入れた。
足元のフットライトだけが頼りの暗がりの中、風に揺れる竹の葉がザワザワと不穏な音を立てている。誰の顔にも強い緊張が張り付いており、飛び石を歩く靴音だけが異様に響いていた。

「三号室は私の部屋ですね。どうぞ、入ってください」
フリーライターの高橋美咲がルームキーで扉を開け、私たちを中に招き入れた。一人客用の「小つづら」である三号室は、私たちが泊まる大つづらよりもコンパクトだが、機能的で無駄のない造りだった。

全員が部屋に入ったことを確認すると、堂島は庭師の中田を振り返った。
「中田さん。この『つづら』の構造について、皆様に説明をお願いします」

「はい」中田は作業着のポケットから手を出し、壁をコンコンと叩いた。
「皆様、外側から見るとこの建物は巨大な竹編みの籠のように見えますが、それはあくまで外壁の装飾です。この躯体そのものは、厚さ二十センチの鉄筋コンクリートで造られています」

「コンクリート……なるほど、確かに叩いた感触が重い」
結城が壁に触れながら感心したように頷く。

「窓ガラスも防犯用の合わせガラスで、ハンマーで叩いても簡単には割れません。さらに、換気用の小窓は人間が通れるサイズではありません」中田は次に、重厚な玄関ドアに手をかけた。「そして、最も重要なのがこのドアです」

中田はドアを閉め、シリンダー錠のサムターンを回し、さらに頑丈な金属製のドアガード(内鍵)をかけた。ガチャリ、という重たい金属音が室内に響き渡る。

「この状態になれば、外からマスターキーを使っても絶対に開けることはできません。物理的に破壊しようにも、チェーンではなく太い鋼鉄のバーですから、重機でも持ち込まない限り不可能です。つまり、中から鍵をかけてしまえば、この部屋は完全な密室——無敵のシェルターになるというわけです」

「なるほど。これなら確かに、夜中に見知らぬ殺人鬼に寝首を掻かれる心配はないというわけだ」
結城が納得したように腕を組んだ。

「その通りです」堂島が静かに言葉を引き取る。「皆様には、今夜から自室に戻られた際、必ずこの内鍵までをかけてお過ごしいただきます。そして、朝になるまでは絶対に外に出ないでください。これが『夜間引き籠もりルール』です。我々従業員は、本館の従業員用ベッドルームで固まって施錠し、朝を待ちます。これで全員の安全は担保されるはずです」

「……ふん。まあ、鍵がかかるならそれでいい。俺はもう寝るぞ」
二階堂は面倒くさそうに吐き捨て、さっさと自分の六号室へ向けて歩き出してしまった。

「待ってください、二階堂さん! 暗い中を一人で歩くのは……」
水口が慌てて声をかけたが、二階堂は振り返りもしない。

「全く、協調性のない男だ」郷田が忌々しそうに吐き捨てる。「財前、我々も戻るぞ。……堂島、明日の朝には何か進展があることを期待しているからな」
「承知いたしました」

それぞれが重い足取りで自分の離れへと散っていく中、私は小春の手を引き、自分たちの五号室へと向かった。
鬱蒼とした竹林は視界を遮り、五号室に辿り着くまでの数十メートルが、まるで永遠のように長く感じられた。背後の闇から、片岡を殺した何者かが息を殺して見ているのではないか。そんな妄想に取り憑かれ、私は何度も後ろを振り返った。

五号室に入ると、私はすぐさまドアの鍵をかけ、中田が説明していた通りに太い金属製のドアガードをガッチリとはめ込んだ。

「はあ……」
鍵の掛かったドアを見て、ようやく深く息を吐き出すことができた。
これで安全だ。少なくとも、物理的にこの部屋に侵入することは誰にもできない。

「真悟さん、お疲れみたいね。冷たいお水でも飲む?」
振り返ると、小春が冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出していた。

「あ、ああ。ありがとう……小春は、怖くないのか?」

グラスを受け取りながら尋ねると、彼女はきょとんとした顔をした。
「怖い? どうして?」

「どうしてって……人が死んだんだぞ。しかも、殺された。この宿の中に犯人がいるかもしれないんだ」
「そうね。でも、このお部屋は中田さんが言っていた通り、完璧なシェルターなんでしょう? 鍵もちゃんとかけたし、私たちが襲われる理由もないわ。それに……」

小春は自身のトランクを開け、見慣れたスキンケア用品のポーチを取り出した。
「どんな状況でも、お肌のケアは怠りたくないの。せっかくの記念日旅行だし、明日の朝は少しでも綺麗な顔で堂島シェフの朝食をいただきたいじゃない? 私、お風呂に入ってくるわね」

そう言って、彼女は鼻歌交じりにバスルームへと消えていった。

私は呆然と立ち尽くした。
支配人が密室で毒牙にかかり、外界から完全に孤立したというのに。妻の関心事は、明日の朝食と自身のスキンケアにしか向いていない。
異常な事態の中で、彼女の「普通」すぎる振る舞いは、どこかちぐはぐで薄気味悪くすらあった。だが、パニックを起こして泣き叫ばれるよりはマシだ、と私は自分に言い聞かせた。

バスルームから聞こえるシャワーの音を聞きながら、私はリビングのソファに深く沈み込んだ。
頭の中を、ワインセラーで血のように赤いワインの海に沈んでいた片岡の姿がフラッシュバックする。

――犯人は、この中にいる。

その事実は、重い鉛のように私の胃の腑にのしかかっていた。
小春はベッドに入ると五分で寝息を立て始めたが、私は一晩中、窓の外で風に揺れる竹林の音に怯え、一睡もすることができなかった。

### 2


窓から差し込む白々とした光で、私は目を覚ました。
一晩中、浅い眠りと覚醒を繰り返していたせいで、頭の中には薄い膜が張ったように重く、不快な疲労感がこびりついている。

「おはよう、真悟さん。よく眠れた?」

洗面所から出てきた小春は、すでに完璧なメイクを終え、涼やかな顔で微笑んでいた。彼女の肌はツヤツヤとしており、あの異常な状況下で熟睡できたことは明白だった。

「……おはよう。小春は元気そうだな」
「ええ。ベッドのマットレスが最高だったから。さあ、行きましょう。堂島シェフの朝食が待っているわ」

時計を見れば、指定された朝食の時間の五分前だった。
私たちは部屋を出て、昨日と同じように竹林の迷路を抜け、本館のダイニングへと向かった。

ダイニングには、すでにほとんどの顔ぶれが揃っていた。
皆、私と同様に寝不足なのか、顔色が悪く、重苦しい空気を纏っている。二階堂だけは相変わらず不機嫌そうに腕を組み、テーブルを指先でコツコツと叩いていた。

「遅いぞ。何時だと思っている」
二階堂が給仕係の吉川を睨みつける。
「も、申し訳ございません。ですが、まだ郷田様がいらっしゃっていなくて……」
吉川がオロオロと答える。

「郷田先生が?」
財前が不審そうに眉をひそめた。
「あの人は朝が早いはずだが。……おい、誰か様子を見に行ってこい」

「私が行ってきます」
厨房から出てきた堂島が、マスターキーの束を手に取った。
「念のため、男性陣は一緒に来ていただけますか。何があるかわかりません」

堂島の言葉に、私と財前、そして結城が立ち上がった。

郷田が宿泊しているのは、二号室。私たちが泊まる大つづらと同じタイプの大型の離れだ。
本館を出て、朝の清冽な空気に包まれた竹林を進む。二号室の重厚なドアの前に着くと、堂島はノックをして声をかけた。

「郷田様。朝食の時間ですが、いかがなさいましたか」

返事はない。
堂島は躊躇なくマスターキーを鍵穴に差し込み、シリンダーを回した。カチャリと鍵の開く音がして、ドアノブを下げる。
しかし、ドアは数センチ開いたところで、ガツンと重い金属音を立てて止まった。

「……内鍵のドアガードがかかっていますね」
結城が隙間から中を覗き込みながら言った。

「郷田先生! 郷田先生、いらっしゃいますか!」
財前がドアの隙間に向かって大声を出すが、室内からは何の反応もない。ただ、静寂だけが返ってくる。

「……中田さんを呼んできてください。工具でドアガードを切断します」
堂島が低い声で指示を出した。

数分後、駆けつけた中田が大型のボルトクリッパーで強引にドアガードの金属バーを切断した。バキリという鈍い音とともに、ドアが完全に開け放たれる。

室内に踏み込んだ瞬間、異様な空気が肌を撫でた。
リビングの奥、窓を背にしたソファの上。
郷田隆盛は、首に太いロープのようなものを巻きつけられた状態で、不自然に仰け反って絶命していた。

「ひっ……!」
財前が短い悲鳴を上げ、後ずさる。

顔は鬱血してどす黒く変色し、目玉が飛び出さんばかりに見開かれている。明らかに絞殺だった。

「触らないでください」
堂島が財前を制し、結城が冷静に室内を見渡す。
「窓は……すべて内側から鍵がかかっていますね。換気用の小窓も閉まっている。そして玄関のドアは、たった今、私たちが外からぶち破るまで内鍵がかかっていた」

結城は事もなげに、恐ろしい事実を口にした。

「完全な密室ですね。昨夜のルール通り、郷田さんは自室に引き籠もり、完璧に鍵をかけていた。それなのに、犯人はどうやってこの部屋に侵入し、彼を絞殺して、再び内鍵をかけて密室を完成させたのでしょうか」
結城の声には、微かな興奮すら混じっていた。

第二の殺人。しかも、誰も侵入できないはずの「つづら」の内部で。
犯人は、コンクリートと竹の壁をすり抜ける幽霊だとでも言うのだろうか。

「……とにかく、本館に戻りましょう。皆を一人にしておくのは危険です」
堂島の声で、私たちは重い足取りで二号室を後にした。

本館のラウンジに全員を集め、堂島が郷田の死を告げると、場はパニック寸前の騒ぎになった。

「嘘でしょ……また殺されたの!?」
高橋美咲が両手で口を覆う。
「だから言ったんだ! こんな場所に留まっていたら、全員殺されるぞ!」
財前は半狂乱になりながら、ラウンジの中を歩き回っている。

「静かに!」
堂島が床を強く踏み鳴らした。
「取り乱しても解決しません。郷田様が亡くなった以上、事態はさらに深刻です。本日から日中は、このラウンジで全員が待機し、相互監視の状態で過ごしていただきます。単独行動は一切禁止です。トイレに行く際も、必ず複数人で声を掛け合ってください」

堂島の提案に、反対する者はいなかった。
皆、互いが互いを疑い、見えない殺人鬼の影に怯えきっていた。

私はソファに戻り、小春の隣に座った。
「郷田さんが、殺されていたよ。部屋は内側から鍵がかかっていたのに」
私が小声で伝えると、小春は少しだけ眉をひそめた。

「まあ。せっかくの朝食が冷めてしまうわね。堂島シェフのクロワッサン、焼き立てが一番美味しいはずなのに」
「……小春、分かってるのか? 次は俺たちが狙われるかもしれないんだぞ」
「私たちは誰も恨んでいないし、誰からも恨まれていないわ。それに、きちんとルールを守っているのだから、問題ないでしょう?」

彼女の合理主義は、もはや恐怖という感情の欠落を意味していた。

日中のラウンジは、重苦しい空気に包まれていた。
全員が一定の距離を保ち、無言で時間をやり過ごしている。私はこの息詰まる空間に耐えきれず、情報収集も兼ねて、ラウンジの隅でスマートフォンをいじっている高橋美咲に話しかけた。

「高橋さん……少し、いいですか」
「雀部さん。ええ、どうぞ」
高橋は顔を上げ、警戒する様子もなく隣の席を勧めた。

「こんなことになって、本当に恐ろしいですね。高橋さんは、観光リゾートの記事を書くライターなんですよね? 郷田さんや財前さんとは、お知り合いだったんですか?」
私が尋ねると、高橋は少しだけ口角を上げた。

「……ライターというのは表向きです。私、本当は政治ジャーナリスト志望なんですよ」
「ジャーナリスト?」
「ええ。郷田隆盛という政治家は、これまでいくつもの不正プロジェクトに関与してきた黒い噂の絶えない人物です。そして、その裏でいつも実働部隊として動いていたのが、財前康弘の会社。私はその繋がりを追って、この笹鳴館まで潜入してきたんです」

高橋の目は、獲物を狙う記者のそれだった。
「郷田さんが死んだと聞いた時、不謹慎ですが、因果応報だと思いました。彼らが過去に潰してきた人間、犠牲にしてきた人間は星の数ほどいます。恨みを持つ人間なら、それこそ山のようにいるはずですよ」

彼女の言葉には、強い実感がこもっていた。郷田と財前の死を悼む気配は微塵もない。

「それにしても……」
高橋と別れた後、私は給仕係の水口に声をかけた。彼女はコーヒーサーバーの補充をしているところだった。

「水口さん。郷田さんや財前さんは、ここへは何の目的で来ていたか知っていますか? 単なる休暇にしては、ずいぶん物々しい雰囲気でしたが」
水口はビクッと肩を震わせ、周囲を気にするように視線を泳がせた。

「あの……私のような下っ端が口出しすることではないのですが……」
水口は声を潜め、私に顔を近づけた。
「昨日、片岡支配人が郷田様と財前様にお話ししているのを、偶然聞いてしまったんです。何か、この笹鳴館の経営に関わる、良くない打ち合わせのためにいらっしゃったようで……。支配人は『これで堂島の鼻を明かせる』と、とても楽しそうに笑っていました」

「片岡支配人が……堂島シェフを?」
「はい。オーナーは堂島シェフですが、実質的な経営と資金繰りは片岡支配人が握っていましたから。……郷田様も財前様も、支配人と随分親しげに、悪い相談をしているような雰囲気でした」

片岡、郷田、財前。
殺された二人の男と、怯えきっている財前。彼らは裏で結託し、何かを企んでいた。

事件の輪郭が、少しずつだが形を持ち始めているような気がした。
しかし、その理由がわかったところで、「どうやって密室で殺したのか」という最大の謎は、手付かずのまま残されているのだった。

### 3


ラウンジでの相互監視という名の幽閉状態は、神経をすり減らす拷問に等しかった。
誰一人として無駄口を叩かず、互いの些細な動作すらも鋭い視線で追う。外では相変わらず風が吹き荒れ、竹林が不気味なざわめきを繰り返している。

そんな息の詰まるような重苦しい空気のまま、二日目の夕食の時間がやってきた。

「本日のディナーをご用意いたしました」

本館のダイニングテーブルには、昨日と変わらぬ豪奢で美しいフレンチのコースが並べられた。堂島は毅然とした態度のまま厨房に立ち、給仕係の吉川と水口が震える手で皿を運んでいる。

しかし、昨日とは状況が全く違う。
すでに二人の人間が殺されているのだ。いつ誰が襲われるかもわからない極限状態の中で、料理の味などわかるはずがなかった。私を含め、ほとんどの客が皿を前にしてただ俯くか、フォークで意味もなくソースをいじっているだけだった。

唯一の例外を除いて。

「真悟さん、この仔羊のロースト、火入れが本当に絶妙ね。ソースのほのかな酸味が、お肉の旨味を完璧に引き立てているわ」

小春は、静かなダイニングルームで一人、うっとりとした表情でナイフを動かしていた。
彼女の所作には一ミリの狂いもなく、完璧なマナーで極上のフレンチを堪能している。恐怖で食欲を失うという、人間として極めて当たり前の生理現象が、彼女には完全に欠落していた。

「……小春。よく、喉を通るな」
私が声を潜めて言うと、彼女は不思議そうに小首を傾げた。

「どうして? 命をいただいた食材と、これほどの技術で調理してくださった堂島シェフに対して、手をつけないなんて大変な失礼よ。皆様、マナーがなっていないわ」

彼女の声は平坦で、どこまでも理路整然としている。その「普通すぎる」振る舞いが、この異常事態の中では逆に底知れない薄気味悪さを放っていた。

「チッ……本当に不愉快だ」
斜め向かいのテーブルから、二階堂が忌々しそうに舌打ちをした。
「どいつもこいつでお通夜みたいな顔をしやがって。飯が不味くなる。おい、堂島! この状況でフルコースを出すお前の神経もどうにかしてるんじゃないか?」

二階堂の理不尽な怒声に対し、堂島は静かに頭を下げた。
「お気に召しませんでしたか。ですが、私は料理人です。いかなる状況であろうと、お客様に最高の食事を提供するのが私の責務だと考えております」

「ふん、立派な心がけだな」
二階堂はワイングラスを乱暴にテーブルに置き、立ち上がった。
「もういい、部屋に戻る。こんな陰気な連中と一緒にいられるか」

「お待ちください、二階堂さん!」
水口が慌てて制止しようとするが、二階堂はそれを手で払いのけた。

食事が終わり、我々は再びラウンジへと集められた。
外はすでに完全な闇に包まれている。これからの時間をどう過ごすかが、全員にとっての最大の懸案事項だった。

「今夜は……どうしますか」
フリーライターの高橋美咲が、不安げに周囲を見渡して口火を切った。
「昨夜は各々の部屋に引き籠もりましたが、結果として郷田さんが密室で殺されました。もう、自室の鍵なんて信用できません。いっそのこと、全員でこのラウンジに集まって夜を明かした方が安全なんじゃないでしょうか」

「賛成です」私がすぐに同調した。
「誰かが起きている状態で、互いを監視し合えば、犯人も手が出せないはずです」

皆がその提案に傾きかけた時だった。

「ふざけるな!」

それまでラウンジの隅で爪を噛んでいた財前が、血走った目で立ち上がった。彼の顔は恐怖と疲労で土気色に変色し、全身が小刻みに震えている。

「全員でここで寝るだと? 冗談じゃない! この中に、片岡と郷田先生を殺したイカレた人殺しがいるんだぞ! お前らの誰が犯人かわからない状況で、どうして目を閉じられるって言うんだ!」
「財前さん、落ち着いて……」
「触るな!」

宥めようとした私の手を、財前は激しく払い除けた。
彼は、殺された片岡、郷田と何らかの密約を交わしていた人物だ。次に自分が狙われると確信しているのだろう。その目は完全に疑心暗鬼に囚われていた。

「俺は一人で部屋に戻る。一号室だ」
財前は荒い息を吐きながら、全員を威嚇するように見回した。
「昨夜の郷田先生の部屋は、確かに内鍵がかかっていたが、きっと何か巧妙なトリックがあったに違いない。俺はそんな手には引っかからないぞ」

「財前様、危険です。単独行動は……」
堂島が静かに忠告するが、財前は聞く耳を持たない。

「うるさい! いいか、俺は部屋に戻ったら、内鍵をかけるだけじゃない。部屋にある重いオーク材のテーブルも、ソファも、すべてドアの前に積み上げて、**完璧な物理バリケード**を作ってやる!」

財前の声が、ラウンジに響き渡った。
「どんなマスターキーを使おうが、どんなトリックを使おうが、絶対にドアを開けられないようにしてやる。窓枠にも椅子を挟み込んで固定する。誰が来ても、物理的に絶対に入れないようにな! だから俺のことは放っておけ!」

そう叫ぶと、財前は我々を睨みつけながらラウンジを飛び出し、夜の竹林へと消えていった。

「……行ってしまいましたね」
結城が、冷めたコーヒーをすすりながら淡々と呟いた。
「確かに、分厚いコンクリートの壁と防弾ガラスに囲まれた『つづら』の内部で、ドアに何百キロもの家具を積み上げてバリケードを作れば、それは最強の城塞です。どんな凄腕の暗殺者でも、音を立てずに突破することは不可能でしょう」

財前が抜けたことで、「全員でラウンジで夜を明かす」という前提が崩れ去ってしまった。
不信感の連鎖は止まらない。誰が犯人かわからない暗がりで、仮眠をとることへの恐怖が再び頭をもたげてくる。

「……私も、部屋に戻るわ」
高橋がため息をつきながら立ち上がった。
「ラウンジのソファじゃ疲れも取れないし。中田さんの説明を信じて、私も自室で鍵をかけて寝ます」

結局、私たちは再びバラバラになり、それぞれの「つづら」へと戻ることになった。
従業員たちは昨夜と同様に本館のバックヤードに固まり、客は離れに籠もる。

五号室に戻った私は、すぐに内鍵の金属バーをかけ、さらに念を入れてドアの前にトランクを二つ並べて置いた。財前ほどではないが、少しでも物理的な障害物があれば安心できるような気がしたからだ。

「真悟さん、心配しすぎよ。シワが増えちゃうわ」
小春はすでにシルクのパジャマに着替え、優雅にハーブティーを淹れていた。
「……財前さんは、あれだけ警戒していた。バリケードまで作って、誰も部屋に入れないようにするって。なら、明日の朝は無事に生きてるはずだよな」
「そうね。本人がそう言っているのだから、放っておけばいいのよ」

小春はまるで他人の家の庭木の話でもするかのように、あっさりと答えた。

私はベッドに入ったものの、心臓の鼓動がうるさくて一向に眠りにつくことができなかった。
完璧な密室で殺された郷田。そして、家具で完全なバリケードを築き、自らを「絶対の密室」に封じ込めた財前。

静寂に包まれた笹鳴館の夜が、またしても底知れない悪意を孕んで深まっていく。私はただ、無事に朝の光が差し込むことだけを祈りながら、長い夜をじっと耐え忍んだ。

### 4


分厚いコンクリートと竹の装飾に守られた五号室は、恐ろしいほどの静寂に支配されていた。

空調の微かな稼働音以外、何も聞こえない。窓の外では風が竹林を激しく揺らしているはずなのに、そのノイズすら完全に遮断されている。中田が「無敵のシェルター」と豪語しただけのことはある。物理的な安全性は極めて高い。

だが、その完璧な静けさが、かえって私の神経を逆撫でした。
暗闇の中で目を凝らし、ドアの前に積み上げた二つのトランクのシルエットを確認する。あれが動かない限り、誰も侵入していない。頭では理解しているのに、心臓の鼓動は一向に治まらなかった。

隣のベッドからは、規則正しい、静かな寝息が聞こえてくる。
妻の小春だ。彼女はベッドに入って十分もしないうちに、深い眠りに落ちていた。

私は寝返りを打ち、闇の中で彼女の横顔を盗み見た。
小春は、誰からも愛される完璧な妻だ。美しく、気配りができ、家事も完璧にこなし、私の親族や友人からの評判もすこぶる良い。

ただ、昔から時折、彼女の言動に「あれ?」と違和感を覚えることがあった。
たとえば、近所でよく可愛がっていた野良猫が車に轢かれて死んだ時。私がショックを受けている横で、小春は「かわいそうに。でも、左右を確認しなかったから轢かれたのね。事故の原因にならないように、保健所に電話して片付けてもらいましょう」と、ひどく事務的に言い放った。
彼女の言葉は、いつだって「完璧に正しい」。正しいがゆえに、そこには他者の痛みに寄り添う共感というものが、すっぽりと抜け落ちていた。

私はこれまで、それを「極めて合理的で、感情に流されない長所」だと好意的に解釈してきた。泣き喚いたりヒステリーを起こしたりする女性より、よほど付き合いやすいと思っていたからだ。

しかし、この異常事態において、彼女のその「普通さ」は異様だった。
人が二人、無惨に殺されているのだ。いつ自分たちが次の標的になるかもわからない極限状態。それなのに、小春の関心事は「堂島シェフの料理」と「客としてのマナー」、そして「自身の肌の調子」に向けられたままだ。
彼女の中では、殺人事件の恐怖よりも、ディナーの仔羊のローストを残すことの方が、はるかに重大な「異常事態」なのである。

「……狂ってるのは、この状況か、それとも」
私は誰に聞こえるわけでもない呟きを、深い闇の中に溶かした。

ベッドの中で、今日一日の出来事が頭を巡る。
フリーライターの高橋美咲が言っていた、郷田と財前の黒い繋がり。そして、受付の水口が立ち聞きした、片岡と郷田・財前による「堂島を出し抜くための密約」。
動機という点で見れば、過去のプロジェクトで彼らに恨みを持つ人間や、笹鳴館の経営を巡って対立していた堂島自身が怪しい。

だが、問題は「どうやって殺したか」だ。
片岡の窒素ガスによる殺害は、設備の仕組みを知っていれば可能かもしれない。しかし、郷田の死はどうだ。あの二号室は、分厚いコンクリートの壁に守られ、窓もドアも完全に内側から施錠された密室だったのだ。犯人はどうやって中に侵入し、どうやって外へ出たというのか。

そして今夜、財前は一号室に閉じこもり、ドアの前に重いオーク材の家具を積み上げて「完璧な物理バリケード」を築いた。
鍵だけでなく、数百キロの質量でドアを塞いだのだ。あれを外部から音も立てずに突破することなど、絶対に不可能だ。

「……明日の朝になれば、財前さんは無事に起きてくる。そうすれば、少しは落ち着くはずだ」
私は自分に言い聞かせるように念じながら、いつの間にか浅い微睡みへと落ちていった。


三日目の朝。
目覚まし時計のアラームよりも早く、私はひどい頭痛とともに目を覚ました。

「おはよう、真悟さん。なんだか顔色が悪いわね」
洗面所から出てきた小春は、今日も非の打ち所がない完璧なメイクと、涼やかな笑顔を浮かべていた。
「……あまり眠れなくてね」
「神経質になりすぎよ。ほら、ネクタイが曲がっているわ。せっかくの高級オーベルジュなんだから、だらしない格好でダイニングに行くのはマナー違反よ」

小春は私の首元に手を伸ばし、ネクタイの結び目を手際よく直してくれた。その指先からは、上質なハンドクリームの香りがした。

ドアの前に積んだトランクをどかし、重厚な金属バーを外して外へ出る。
三日目の竹林は、どんよりとした鉛色の空に覆われ、今にも雨が降り出しそうな湿気を帯びていた。風の音は昨日よりも不気味に響いている。

本館のラウンジに到着すると、すでに何人かの姿があった。
結城蒼は優雅にモーニングコーヒーを飲みながら、備え付けの美術書をパラパラと捲っている。高橋美咲は目の下に濃いクマを作り、怯えた子動物のように身を縮めていた。

「遅いぞ! 今日も俺を待たせる気か!」
ラウンジの奥で、二階堂が苛立った声を上げた。
「昨日は郷田のせいで朝食が冷めた! 今日は絶対にそんなことは許さんからな。おい堂島、早く朝食を出せ!」

「申し訳ございません、二階堂様」
厨房から姿を見せた堂島は、深く頭を下げた。
「ですが、まだ財前様がいらっしゃっておりません。ルール上、全員が揃ってからの配膳となります」

「あの臆病者の成り上がりか! くだらんバリケードなんか作って部屋に引き籠もってるから、寝過ごしたんだろう! 放っておいて飯にしろ!」

二階堂の身勝手な暴言に、私は思わず眉をひそめた。だが、隣に立つ小春は無表情のまま、二階堂を冷たいガラス玉のような目で見つめていた。その視線には、怒りよりも深い、絶対的な「軽蔑」がこもっているように見えた。

「……いや、状況が状況です。確認に行きましょう」
結城が美術書を閉じ、立ち上がった。
「財前さんが自ら築いた『絶対の城塞』がどうなっているか、個人的にも非常に興味がありますからね」

堂島がマスターキーを持ち、私と結城、そして不承不承ついてきた二階堂の四人で、一号室へと向かうことになった。

一号室は、三号室や四号室と同じ一人用の「小つづら」だ。
飛び石の小道を進み、竹林の奥に佇む一号室の前に到着した。

「財前様。朝食の時間ですが」
堂島がドアをノックする。返事はない。

「おい財前! いつまで籠もってるつもりだ、さっさと開けろ!」
二階堂がドアをバンバンと乱暴に叩くが、やはり内部からは何の音も聞こえなかった。

堂島は無言でマスターキーを差し込み、鍵を開けた。カチャリと音が鳴る。
そして、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引いた。

「……重い」

堂島が眉をひそめた。ドアは数ミリしか動かない。
私も慌ててドアノブに手を添え、堂島と一緒に力一杯引っ張ってみた。

ズズッ……。

鈍い摩擦音とともに、ドアがほんの数センチだけ開いた。
その隙間から中を覗き込んだ結城が、ほう、と感嘆の息を漏らした。

「これは見事だ。予告通り、部屋中の家具がドアの前にぎっしりと積み上げられていますよ。重厚なオーク材のテーブルに、ソファ、チェスト。これでは、外から押し開けるのは物理的に不可能です」

「だが、返事がないのはおかしいぞ」
私が不安に駆られて叫んだ。
「財前さん! 財前さん!!」

隙間から大声を張り上げるが、やはり静寂だけが返ってくる。

「……中田さんを呼びましょう。またドアを外すしかありません」
堂島の顔に、昨日よりも濃い疲労と絶望の色が浮かんだ。

私たちは言葉を失い、ただ立ち尽くした。
完璧なバリケードで封鎖された、絶対の密室。
その扉の向こう側で、新たな惨劇が私たちを待ち受けていることは、もはや誰の目にも明らかだった。

## 第3章
### 1


小雨がぱらつき始めた竹林の奥で、甲高い金属音が鳴り響いた。

駆けつけた中田が、大型の電動カッターで一号室のドアの蝶番を切断しているのだ。火花が散り、コンクリートの躯体にけたたましい駆動音が反響する。

「……これで、外れるはずです」
中田が額の汗を拭いながら機械を止め、堂島とともに重厚なドアを手前に引き剥がした。ズシンと重い音を立ててドアが外れ、我々の目の前に「絶対のバリケード」の全貌が露わになった。

重いオーク材のダイニングテーブルが横倒しにされ、その後ろにソファ、さらに重厚なチェストが隙間なく詰め込まれている。外からドアを押し開けようとしても、数百キロの質量がそれを阻む完璧な構造だ。

「少し、失礼しますよ」
結城が身軽な動作でバリケードの隙間をよじ登り、室内へと降り立った。直後、彼から短い口笛が漏れた。

「これはまた、見事な密室ですね」

私と堂島も慌ててバリケードを乗り越え、室内へ踏み込んだ。
そして、絶句した。

部屋の中央。ひっくり返された家具のせいで乱雑になったリビングの床に、財前が仰向けに倒れていた。
郷田の時と同じだ。首には太いロープが食い込み、鬱血した顔は苦悶に満ちている。目は見開かれ、すでに事切れていた。

「……嘘だろ」
私の口から、掠れた声が漏れた。
窓はすべて内側から鍵がかけられ、防犯用の合わせガラスに傷一つない。換気用の小窓も閉まっている。そして玄関のドアは、彼自身が築き上げた完璧な物理バリケードによって完全に封鎖されていたのだ。

「犯人は、どうやってこの部屋に入り、彼を殺して、どうやって出て行ったんだ……?」
私が震える声で呟くと、結城は死体の周囲をゆっくりと歩きながら、まるで展示品のパズルを眺めるかのような目で言った。

「ええ。これは昨日の郷田さんの部屋よりもさらに厄介だ。内鍵なら外から特殊な器具で操作するトリックも考えられますが、これほどの質量の家具を、外から音もなく積み上げることは不可能です。つまり、犯人はこの部屋の中に『いなかった』はずだ」
結城の言葉は、この殺人事件が人間の手によるものではないとでも言っているかのようだった。

その時、バリケードの外から中を覗き込んでいた二階堂が、突然発狂したような叫び声を上げた。

「あああああっ!! またか! また殺されたのか!」

二階堂は血走った目で室内を指差し、口から唾を飛ばしながら喚き散らし始めた。
「おい堂島! どういうことだ! 安全だと言ったじゃないか! シェルターだと偉そうにほざいておいて、三人も死んでるじゃないか! 嘘つきめ! 詐欺師! お前らがグルになって俺たちを殺す気なんだろう!」

「二階堂様、落ち着いてください……」
「触るな! 近寄るな!」

中田が宥めようと手を伸ばすが、二階堂はそれを力任せに振り払った。
「ふざけるな! 警察を呼べ! ヘリを飛ばせ! こんな呪われた宿、一秒たりともいられるか! だいたいお前の作る飯も気取ってるだけで不味いんだよ! 三流のコックが、偉そうに支配人面しやがって!」

極度の恐怖とパニックが、彼の傲慢さをさらに凶暴なものへと変質させていた。死者に対する哀悼など微塵もなく、ただ己の保身と、周囲への理不尽な怒りだけが爆発している。

「……本当に、見苦しいわね」
いつの間にか私の背後に立っていた小春が、冷ややかに呟いた。

振り返ると、彼女は眉一つ動かさず、パニックに陥る二階堂を見つめている。
「大声を出したところで、亡くなった方が生き返るわけでも、道が拓けるわけでもないのに。それに、堂島シェフの素晴らしいお料理を愚弄するなんて。本当に、品性下劣な方」

彼女のトーンは、道端のゴミを眺める時のように平坦だった。三人の人間が密室で殺されているという事実よりも、二階堂の「マナー違反」と「料理への冒涜」の方が、彼女にとってはるかに許しがたい罪であるらしい。

「小春、今はそんなことを言っている場合じゃ……」
「そう? 私は事実を言っているだけよ」

堂島は二階堂の罵詈雑言を無言で受け止め、やがて低く、しかし絶対的な威圧感を持った声で言い放った。
「……二階堂様。お言葉ですが、騒いでも状況は変わりません。これ以上現場を荒らさないよう、全員ラウンジへ戻ります」


重苦しい空気の中、我々は再び本館のラウンジへと集められた。
これで生存者は、客が四人(私、小春、結城、二階堂)と、高橋美咲。そして従業員が四人(堂島、水口、中田、吉川)。

広々としたラウンジには、絶望的な沈黙が満ちていた。
「……完全に、手詰まりですね」
高橋美咲が、震える手で温かい紅茶のカップを握りしめながら口を開いた。
「片岡支配人、郷田さん、そして財前さん。三人も殺されたのに、犯人の姿どころか、どうやって殺されたのかすら全くわからないなんて」

「しかも、後者の二人は完全な密室状態でしたからね」
結城がソファに深く腰掛け、指先で顎を撫でる。
「犯人は、まるで壁をすり抜ける魔法使いか、あるいは……この宿の構造に、我々の知らない『抜け道』が隠されているかだ」

その言葉に、ラウンジの空気がピクリと動いた。
「抜け道、だと?」二階堂が結城を睨みつける。
「ええ。コンクリートの壁を通り抜けられないのなら、見えない出入り口があると考えるのが妥当でしょう。たとえば、隠し扉のようなものが」

結城の推論に、私は思わず堂島と従業員たちを見た。
堂島は表情を崩さず、静かに結城を見返している。中田は戸惑ったように首を横に振り、水口と吉川はただ怯えて俯いていた。

「馬鹿馬鹿しい!」
二階堂が忌々しそうに吐き捨てる。
「隠し扉だと? そんな三文小説みたいな仕掛けがあるわけないだろう! もしあるなら、管理しているこいつらが知らないはずがない! つまり、こいつらが犯人なんだよ!」

二階堂は堂島を指差して喚いた。
その場の誰もが疲弊し、二階堂のヒステリーにうんざりしていた。しかし、反論する気力すら湧かない。この閉鎖空間で、誰を信じ、誰を疑えばいいのか、その基準が完全に崩壊してしまっていたのだ。

私は重い頭を抱え、ふとラウンジの窓の外を見た。
灰色の空から、細かい雨が竹林を濡らしている。

犯人は、なぜこの三人を選んで殺したのか。
そして、どうやってあの完璧な密室を破ったのか。

ラウンジでの息の詰まるような相互監視の時間は、ただ徒ずらに、私たちの精神を削り取っていくのだった。


### 2


一号室での惨劇から数時間が経過し、日中のラウンジは重苦しい沈黙と、息の詰まるような相互監視の場と化していた。

外は灰色の雨が降り続き、竹林は濡れた葉を重たげに揺らしている。
誰もが一定の距離を保ち、無言で時間をやり過ごしていた。二階堂はソファの片隅で腕を組み、周囲を威嚇するような視線を投げ続けている。そのたびに、従業員の水口や吉川がビクッと肩を震わせた。

私は隣に座る小春を見た。
彼女は備え付けの美術書を膝に広げ、優雅な手つきでページをめくっている。三人の人間が密室で殺害され、すぐそばにはヒステリーを起こしかけている男がいるというのに、彼女の表情には一切のノイズがない。

「……小春。気分は悪くないか」
私が小声で尋ねると、彼女はふわりと微笑んだ。
「ええ。この画集、とてもセンスがいいわ。ただ、せっかくの雨だというのに、あの二階堂さんの舌打ちのせいで雨音が台無しね。本当に、環境への敬意が足りない方」

彼女の基準は、いかなる極限状態においても全くブレない。その異常なまでの「平常心」に少しだけ救われるような気もしたが、同時に、妻の精神構造が底知れない闇に繋がっているような薄ら寒さも感じていた。

私はこの息の詰まる空間に耐えきれず、情報収集のために席を立った。
ラウンジの隅で、空いたカップを片付けている清掃員の吉川恵に近づく。彼女は元々、言われたことだけをこなすタイプのパート従業員だが、この状況下ではひどく怯えきっているようだった。

「吉川さん。少しよろしいですか」
「ヒッ……! あ、雀部様……何でしょうか」
吉川はお盆を胸に抱え込み、後ずさった。

「そんなに警戒しないでください。ただ、少し気になったことがあって。……結城さんが、離れに隠し扉のような『抜け道』があるんじゃないかと言っていましたが、心当たりはありませんか?」
私が尋ねると、吉川は周囲をチラチラと見回し、声を極端に潜めた。

「抜け道なんて、そんな恐ろしいものがあるかはわかりませんけど……。ただ、郷田様が亡くなった二号室と、財前様が亡くなった一号室については、少し特殊なんですよ」
「特殊?」
「はい。この笹鳴館が開業したのは三年前ですが、最初はあの『大つづら』と『小つづら』、今の二号室と一号室の二棟しかなかったんです。三号室から六号室は、後から増設されたものでして」

吉川の言葉に、私はハッとした。
「開業当初の建物……。それが、どう特殊なんですか?」

「昔は『おこもり利用』といって、お客様が誰とも、それこそ私たち従業員とも一切顔を合わせずに、完全なプライベートで食事を楽しめるサービスがあったんです。そのために、食事をこっそり運び入れるための……裏口? 配膳用の小さな扉のようなものが、一号室と二号室にだけはあったはずなんです」

背筋に冷たいものが走った。
裏口。配膳用の扉。
もしそれが今でも使える状態だったなら、そして外側から鍵を開けられる構造だったなら……。完璧な密室に思えた二つの部屋は、最初から穴の空いたザルだったということになる。

「吉川さん、その裏口の場所は……」
「わ、わかりません! 私は清掃担当ですし、そのサービスはすぐに無くなってしまったので、実際に見たことも使ったこともないんです!」
吉川はそれ以上関わりたくないというように、足早に厨房の方へと逃げていった。

私は動悸を抑えながら、今度は窓際で外の様子を窺っている庭師の中田健三に声をかけた。

「中田さん。離れの構造について、吉川さんから気になることを聞いたんですが」
中田は振り返り、訝しげに眉をひそめた。
「吉川から? 一体何をですか」
「一号室と二号室には、開業当初の『おこもり利用』のための裏口があるって……」

中田の顔に、明らかな戸惑いが浮かんだ。
「裏口? いや、私はそんなものは知りません」
「中田さんは施設のメンテナンス担当でしょう? 知らないはずがないじゃないですか」
私が食い下がると、中田は首を横に振った。

「私が本格的に雇われたのは、笹鳴館が繁盛して三号室から六号室が増設された二年前からです。私の仕事は主に庭の手入れと、外側の『竹のつづら』部分のメンテナンスです。コンクリートの躯体そのものの構造は、堂島シェフと……亡くなった片岡支配人しか把握していません。裏口なんて、見たこともありませんよ」

中田の言葉に嘘はないように見えた。
「そうですか……」
「ただ……」中田は顎を撫で、思い出したように言った。「そういえば、一号室と二号室に関して、奇妙なことがあったんです」

「奇妙なこと?」
「ええ。宿泊される部屋の割り当てについてです。もともと、一号室は結城様、二号室は雀部様ご夫婦が宿泊される予定でした」
「……え?」

私は我が耳を疑った。
二号室。郷田が首を絞められ、密室で殺されていたあの部屋だ。もし予定通りなら、私と小春があの部屋に泊まっていたというのか。

「それが、直前になって予約の割り当てが変更されたんですよ。郷田様を二号室に、財前様を一号室にと」
「誰が……その変更をしたんですか?」
「受付と予約管理を担当している、水口です」

中田の視線の先には、フロントカウンターの中で青ざめた顔をして立っている水口結衣の姿があった。

私の頭の中で、いくつかの事実が急速に結びついていく。
一号室と二号室だけに存在する、未知の「裏口」。
そして、郷田と財前を意図的にその二つの部屋へと配置した水口。
彼女は二日目、私に「片岡支配人と郷田・財前が、堂島シェフを出し抜く密約を交わしていた」と証言した人物でもある。

もし、水口が最初から彼らを殺すつもりで、裏口のある部屋に割り当てたのだとしたら?
いや、待て。水口にあの密室トリックが実行できるだろうか。施設の裏口の存在を知っていれば、物理的な侵入は可能だ。だが、財前の部屋のあの重厚な家具による「バリケード」はどうだ。あれは内部からしか作れない。

思考が堂々巡りになり、私はふらつく足取りでソファへと戻った。
犯人は、この中にいる。
その疑心暗鬼が、冷たい雨の湿気とともに私の皮膚にねっとりとまとわりついていた。

###3


ソファに重い体を沈めた私のこめかみを、ドクドクと冷たい汗が流れていた。

水口結衣が、一号室と二号室に郷田と財前を意図的に割り当てた。
そしてその二つの部屋には、開業当初に作られたという「裏口」が存在する可能性がある。
動機と手段のピースがピタリとはまったような気がした。だが、同時に強烈な違和感も拭えなかった。あの小柄で気弱そうな水口に、屈強な成人男性である郷田や財前の首をロープで絞め上げるような腕力があるだろうか。さらに言えば、財前の部屋のあの分厚い家具のバリケードは、どう考えても内側から財前自身が積み上げたものだ。裏口があったところで、どうやって殺害後にあんな密室を完成させるというのか。

「雀部さん。随分と深刻な顔をされていますね」

不意に声をかけられ、私はビクッと肩を震わせた。
顔を上げると、斜め向かいのソファに座る結城蒼が、面白そうに目を細めてこちらを見ていた。

「……結城さん」
「少し、頭の中を整理してみませんか。思考を言語化することで、見えてくるものもありますよ」

結城はそう言って、長い脚を組み替えた。彼の態度は、この異常な連続殺人事件の渦中にいる当事者というよりも、安全な観客席からミステリー劇を鑑賞しているかのようだ。

私は少し迷ったが、吉川や中田から聞いた「裏口」や「部屋の割り当て」の件は伏せたまま、結城に問いを投げてみることにした。
「……犯人の目的が、わかりません。片岡支配人をワインセラーで殺したのは、この施設の主導権を握るためだと理解できます。ですが、郷田さんと財前さんを殺した方法があまりにも異常です」
「異常、と言いますと?」
「わざわざ『夜間引き籠もりルール』を利用して、彼らを密室状態の部屋に閉じ込めさせた上で殺している。財前さんに至っては、物理的なバリケードまで作らせた。どうしてこんな回りくどいマネをする必要があるんですか。本当に殺したいなら、もっと簡単な方法があるはずだ」

私の言葉を聞き、結城はふっと口角を上げた。その瞳の奥で、異様な熱がチロチロと燃え上がったのを見逃さなかった。

「そこですよ、雀部さん。そこがこの事件の最も美しく、そして残酷なところです」
「美しい……?」
人が三人死んでいるというのに、結城の口から出たのはおよそ場違いな単語だった。

「ええ。私は建築音響学を専攻していますが、建物の構造というものには、設計者の明確な『意図』が宿ります。この笹鳴館の離れ『つづら』は、防音性と堅牢性を極限まで高めたコンクリートの箱です。これを一種の『舞台』として見立てた場合、犯人の意図は明白です」

結城はまるで講義を行う教授のように、滑らかな口調で語り続けた。
「犯人は、単にターゲットの命を奪うことだけが目的ではないのでしょう。不可能犯罪という名の芸術作品を創り上げるプロセスそのものを愉しんでいる。密室とは、被害者にとっての『絶対の安全』を意味します。犯人は、彼らが最も安心しきっているその絶対的な城塞を、物理法則を無視するかのように軽々と突破し、絶望の中で殺害した。その事実こそが、犯人にとっての至上の悦びなんですよ」

熱に浮かされたように語る結城を見て、私はゾッと背筋が寒くなった。
この男は、狂っている。

「……まるで、犯人の心理が手に取るようにわかるんですね」
私が皮肉めかして言うと、結城は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「学者の性(さが)ですよ。パズルを出されれば、その作成者の意図を読み解きたくなる」

「結城さん、あなた……」
私は言葉を飲み込んだ。
結城は建築の専門家だ。建物の構造や、閉鎖空間の特性を知り尽くしている。もし、この不可解な密室殺人が「建物の構造を利用したトリック」だとしたら、それを最も容易に考案し、実行できるのは彼なのではないか。
しかも、中田によれば、一号室は元々結城が泊まる予定だった部屋だ。結城が裏口の存在を知っており、あえて自分が泊まる予定だった部屋を殺害現場に選んだのだとしたら。彼が楽しそうに語る「芸術作品」という言葉が、自らの犯行を自慢しているように聞こえて仕方がない。

「結城先生のお話、とても筋が通っていて面白いわね」

張り詰めた空気を切り裂くように、隣から場違いなほど平坦な声が響いた。小春だった。
彼女は優雅な手つきでティーカップをソーサーに置き、結城に向かって涼ややかに微笑んだ。

「犯人はとても頭が良くて、自分の計画に酔いしれている。まるで自分が神様か何かにでもなったつもりなのでしょうね」
「おや、奥様もそう思われますか」結城が興味深そうに身を乗り出す。
「ええ。でもね」

小春はふう、と小さくため息をつき、極めて真っ当な、しかし今の状況では完全に狂っているとしか思えない見解を述べた。

「どんなに立派な芸術作品を作り上げたつもりでも、他人のお食事の時間を台無しにして、シェフの素晴らしいお料理を冷めさせるなんて、最低のマナー違反だわ。そんな身勝手な理由で他人の命を奪うような人間は、そもそも一流のオーベルジュに足を踏み入れる資格なんてないのよ。ただの、社会のゴミです」

小春の言葉は、連続殺人鬼を「マナーの悪い客」と同列に扱い、心底見下していた。そこには恐怖も、命が失われたことへの悲哀もない。ただ「食事のルールを乱す害悪」としての徹底した冷酷な評価があるだけだった。

「……ははっ。これは手厳しい。奥様はどんな時でもブレませんね」
結城が腹を抱えて笑い出した。その笑い声が、雨音だけが響くラウンジに異様に響き渡る。

私は隣で無表情を貫く妻と、目の前で猟奇殺人を芸術と称賛して笑う男を交互に見比べた。
狂気だ。この空間には、まともな人間が私しかいないのではないか。
犯人の正体は依然として闇の中だが、この閉ざされた空間で渦巻く狂気は、確実に限界点へと近づいていた。

### 4


結城の不気味な笑い声が収まると、ラウンジには再び冷たい雨音と、重苦しい静寂だけが残された。

私は頭痛を堪えながら、周囲の人間を密かに観察した。
結城蒼は、自らが泊まるはずだった一号室での密室殺人を「芸術」と呼び、パズルを解くかのように楽しんでいる。彼が犯人であれば、建物の構造を熟知していることにも納得がいく。
一方で、カウンターの奥で青ざめた顔をして震えている水口結衣。彼女は、郷田と財前を意図的にあの裏口のある一号室と二号室に割り当てた。動機は不明だが、状況証拠としては極めて黒に近い。
そして、この笹鳴館のすべてを掌握しているオーナーシェフの堂島誠一。片岡支配人が死に、最も利益を得る立場にあるのは彼だ。

全員が怪しく、全員が信用できない。疑心暗鬼の沼は底なしだった。

やがて、時計の針が夕刻を回り、三日目のディナーの時間がやってきた。
もはや誰も食事の味など求めていなかったが、堂島は頑なに「料理人としての責務」を盾にし、初日と何ら変わらない完璧なコース料理をダイニングテーブルに並べた。

「本日のメインは、地元の鹿肉を使ったローストでございます」
堂島が静かな声で料理の説明をするが、その言葉を遮るように、バンッ!とテーブルを強く叩く音が響いた。

「いい加減にしろ!」
二階堂だった。彼は目の前に置かれた美しい皿を、忌々しそうにフォークで小突いた。
「三人も死んでるんだぞ! 何が鹿肉のローストだ! だいたい、昨日の仔羊といい今日の鹿といい、火入れが素人臭くて話にならん。ソースも野暮ったい。こんな状況でなければ、一口も食えた代物じゃないぞ!」

「……申し訳ございません。お口に合いませんでしたか」
堂島は表情一つ変えずに頭を下げた。それがさらに二階堂の神経を逆撫でしたらしい。

「その澄ました顔が気に入らないと言っているんだ! おい、そこの女!」
二階堂は、給仕のために近づいてきた水口を指差して怒鳴りつけた。
「お前らのような教養のない底辺の人間が、俺たちのような客を嫉んで殺したんだろう! そうに決まってる! 警察が来たら全員タダじゃ済まないからな!」

「ひっ……! わ、私ではありません……!」
水口が涙目で後ずさる。清掃員の吉川も、庭師の中田も、二階堂の理不尽な暴言に顔を強張らせて俯いていた。

二階堂の罵倒は止まらない。彼はグラスのワインを一気に煽り、周囲の客をも見下すように鼻で笑った。
「だいたい、お前らも大人しすぎるんだ。人が死んでいるのに、こんな三流の飯を黙って食っているなんて、頭がおかしいんじゃないのか?」

「それはこちらのセリフですわ」

凛とした、しかし氷のように冷たい声がダイニングに響いた。
小春だった。
彼女は手元のナイフとフォークを綺麗に休め、まっすぐに二階堂を見据えていた。

「……なんだと?」二階堂が目を吊り上げる。
「このお肉の火入れは完璧ですし、ソースも繊細で素晴らしいわ。それを理解できないあなたの舌こそが三流なのです。いえ、味覚以前の問題ね。命をいただいた食材と、それを作ってくださった方、そしてサービスを提供してくださる方々に対しての敬意が完全に欠落している。あなたは、生きている価値すらない、社会の害悪ですわ」

小春の言葉は、怒りに任せたものではなかった。
ただ、数学の定理を証明するかのように、淡々と事実を述べるトーンだった。それが逆に、圧倒的な圧力となって二階堂を打ち据えた。

「きさま……!」
二階堂が顔を真っ赤にして立ち上がりかけたが、結城が「まあまあ、お二人とも。今は味覚の議論をしている場合ではないでしょう」と宥めに入り、その場はなんとか収まった。

最悪の雰囲気のまま夕食が終わり、我々は夜の過ごし方について直面することになった。

「今夜はどうしますか」私が重い口を開いた。
「昨夜、財前さんがあれほどのバリケードを作ったにもかかわらず、密室で殺害されました。もはや、自室の鍵など何の役にも立ちません」

「かと言って、このラウンジで全員で夜を明かすのも得策ではないでしょう」
結城が冷静に分析する。
「この中に犯人がいるかもしれない以上、誰かが隙を見せた瞬間に襲われるリスクがあります。暗闇の中で疑心暗鬼に駆られながら、互いを監視し続けるのは精神的に限界です」

結城の言う通りだった。誰も背中を預けられない状況で、一つの空間に留まることの恐怖は、部屋に引き籠もる恐怖と同等か、それ以上だ。

「……各自、部屋に戻りましょう」
高橋美咲が、疲れ切った声で言った。
「もう、ドアを塞ぐ気力すらありません。ただ鍵をかけて、朝が来るのを祈るだけです」

結局、私たちは再びそれぞれの「つづら」へと散っていくことになった。
雨はしとしとと降り続き、足元の飛び石を滑りやすくしている。暗闇に沈む竹林は、これまでで最も深く、不気味な口を開けて私たちを飲み込んでいった。

五号室に戻り、私は重い金属製のドアガードをかけた。
財前の完璧なバリケードがいとも簡単に破られた以上、こんな鍵一つに意味があるとは思えなかったが、それでもかけないわけにはいかない。

「ああ……疲れた」
私はネクタイを引き剥がし、ソファに倒れ込んだ。精神的な疲労が限界に達し、手足が鉛のように重い。

「お風呂のお湯、張っておいたわよ。真悟さんも早く入って疲れをとったら?」
小春は相変わらずのトーンで言い、自分のトランクからパジャマを取り出している。

「……小春は、二階堂さんが怖くないのか? あんなに露骨に噛み付いて」
私が尋ねると、彼女は振り返り、不思議そうな顔をした。

「どうして私が怖がる必要があるの? 彼が言っていることはすべて間違っていて、私が言っていることが正しいのよ。ただ、あの方と同じ空気を吸いながらお食事をするのは、本当に苦痛だったわ」

彼女にとっての苦痛は、殺人鬼の恐怖ではなく、マナーの悪い同席者の存在なのだ。

私は小さく息を吐き、重い体を起こしてバスルームへと向かった。
熱いシャワーを浴びて、少しでもこの狂った思考を洗い流したかった。水音にかき消され、外の雨音も、静まり返った部屋の気配も、すべてが遠ざかっていく。

明日の朝、どうか誰も死んでいないでくれ。
私はただ、それだけを祈りながら、熱い湯を頭から被り続けた。

## 第4章
### 1


熱いシャワーを長めに浴びたことで、凝り固まっていた全身の筋肉が少しだけほぐれるのを感じた。

「ふう……」
大きく息を吐き出し、バスタオルで濡れた髪をガシガシと拭く。
鏡に映る自分の顔は、三日間の極限状態ですっかり生気を失い、ひどく老け込んで見えた。連続殺人鬼がうろつく閉鎖空間。いつ自分が殺されるかわからない恐怖。それでも、シャワーの熱と水音だけは、ほんのわずかな時間、私を現実から切り離してくれた。

バスルームを出て、パジャマ代わりのルームウェアに袖を通しながらリビングへと戻る。

「あ、真悟さん。お風呂、長かったわね」

ソファでは、小春が備え付けのティーカップを傾けながら、優雅にカモミールティーを飲んでいた。彼女は私がシャワーを浴びる前と全く変わらない、完璧に整った姿でそこに座っている。

「ああ、ごめん。少し考え事をしていて……」
「そう。お疲れ様」

小春はソーサーにカップをコトリと置き、なんでもない日常の報告——たとえば、「冷蔵庫の麦茶、新しいのを作っておいたわよ」とか、「明日は燃えるゴミの日ね」とか、そういう極めてフラットで日常的なトーンで、私に向かってこう言った。

「私、あの人を殺しといたから、あとは真悟さんがなんとかしといてくれる?」

「……え?」

私はタオルで髪を拭く手を止め、間抜けな声を出した。
あの人? 殺しといた?
小春の言葉のピースが、頭の中でうまく噛み合わない。冗談にしては文脈がなさすぎるし、何より彼女の表情は、冗談を言っている時のそれではない。ただの「事実」を伝えている顔だ。

「だから、二階堂さんよ。さっき六号室に行って、頭を叩き割ってきたの」
小春は小首を傾げ、至極当然のことのように言った。

「な、何を言ってるんだ、小春。冗談だろ……?」
「冗談なわけないじゃない。あんな奴と一緒じゃ、せっかくの結婚記念の高級オーベルジュが全く楽しめないじゃん。ディナーの空気も最悪だったし、明日の朝食で堂島シェフにまた失礼な態度をとられたら、私、せっかくの美味しいお料理が台無しになっちゃうもの」

私は完全にフリーズした。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。

「他のみなさんにとっても、あの人がいなくなる方が良かったでしょ? 誰も悲しまないし、むしろ清々するはずよ。合理的でしょ?」
「ご、合理的って……お前、自分が何をやったのか分かってるのか!? 人を殺したんだぞ! 犯罪だ!」

私が思わず声を荒らげると、小春は不思議そうに瞬きをした。
「何をそんなに慌てているの? どうせこの宿、たくさん死んでるんだから、もう一人くらい増えても大したことないわ。連続殺人事件の被害者が三人から四人に変わるだけよ。誤差みたいなものじゃない」

誤差。
人が一人死ぬことを、この女は今、「誤差」と言ったのだ。

「私、もう手が疲れちゃった。あとは真悟さん、適当にうまいこと片付けておいてね。私、お肌に悪いからもう寝るわ。おやすみなさい」

小春はそう言うと、ふわりと立ち上がり、何事もなかったかのようにベッドルームへと向かっていった。シーツをめくり、すこやかに目を閉じる。その呼吸は、あっという間に規則正しい寝息へと変わった。

私は一人、リビングに取り残された。
頭の中が真っ白になり、足の震えが止まらない。

……確認しなければ。
本当に小春が二階堂を殺したのか。もしかしたら、私の恐怖心が生み出した幻聴か、あるいは彼女なりの悪趣味なジョークかもしれない。

私はルームウェアのまま、震える手で五号室のドアガードを外し、外へ飛び出した。
冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、竹林がザワザワと不気味な音を立てている。私は泥跳ねも気にせず、飛び石の小道を六号室に向かって全力で走った。

六号室の前に着く。
重厚なドアは……開いていた。数センチだけ隙間が空き、そこから室内の暖色の明かりが漏れている。

「二階堂……さん……?」
掠れた声で呼びかけながら、ドアを押し開ける。

その瞬間、むせ返るような鉄の匂いが鼻腔を突いた。

「うっ……!」
私は思わず口元を覆い、その場に立ち尽くした。

リビングの床。最高級のペルシャ絨毯の上で、二階堂が倒れていた。
いや、「倒れている」という表現は生ぬるい。
彼の頭部は、原型を留めないほど執拗に破壊されていた。砕けたスイカのように赤黒い果肉が散乱し、絨毯はどす黒い血の海と化している。
その傍らには、凶器と思われる血まみれのブロンズ製の靴べら(エントランスに飾られていた重厚なアンティークだ)が転がっていた。

小春は、私がシャワーを浴びている十数分の間に、「ちょっとコンビニに行ってくる」くらいのテンションで六号室を訪れ、この傲慢な男の頭を叩き割り、そして平然と戻ってきたのだ。

「ああああ……っ」
声にならない呻きが喉の奥から漏れる。

部屋の中を見渡すと、さらに絶望的な事実が目に飛び込んできた。
小春は手袋もしていなかったらしい。凶器の靴べらだけでなく、ドアノブ、壁、あちこちに血のついた指紋がベタベタと残されている。

——これは、連続殺人鬼の犯行ではない。

片岡、郷田、財前。あの三人の殺害現場は、まるで芸術作品のように洗練された完全な密室であり、現場には血の一滴も、指紋の一つも残されていなかった。
しかし、この六号室はどうだ。
ただの力任せの撲殺。血まみれの現場。開きっぱなしのドア。
警察が現場を見れば、一目で「これまでの三件とは別の、素人による衝動的な犯行」だと見抜くだろう。そして、指紋を調べられれば、妻の小春は一発で逮捕される。

「そんな……だめだ、それだけは絶対にだめだ」

私は両手で頭を抱え、血の海を前にしてしゃがみ込んだ。
小春はサイコパスだ。共感性が欠落した異常者だ。だが、私にとってはかけがえのない、私の全てを受け入れてくれる妻なのだ。彼女が殺人鬼として刑務所に入るなんて、私の人生が終わるのと同じことだ。

どうする。どうすればいい。
小春は言った。「あとはあなたがなんとかしといて」と。

「……やるしかない」
私は震える足で立ち上がった。
この血まみれで泥臭い撲殺死体を、「天才的な連続殺人鬼が作り上げた、四番目の密室殺人」に偽装する。
ルミノール反応も指紋も、すべて消し去らなければならない。そして、あの芸術的な密室に見劣りしないような「謎」を、この現場に構築するのだ。

私は恐怖を腹の底にねじ伏せ、決死の覚悟で本館のバックヤードへと向かって駆け出した。

### 2


雨の降りしきる闇の中を、私は這うような姿勢で本館のバックヤードへと走った。

従業員たちは本館の奥の部屋で固まって寝ているはずだ。足音を殺し、息を潜めて清掃用具の保管庫に滑り込む。
暗がりの中、スマートフォンのライトを頼りに目当てのものを探した。吉川が日中の清掃で使っているカートの横に、強烈な塩素系業務用洗浄剤(次亜塩素酸ナトリウム)の巨大なボトルが何本も並んでいる。さらにその奥には、車のエンジンのような無骨な形をした業務用スチームクリーナーが鎮座していた。
私はそれらを両手に抱え込み、さらに厨房の備品棚から肉縛り用のタコ糸と、事務用のセロハンテープをひったくるようにして盗み出した。

六号室に戻ると、凄惨な血の海が私を待っていた。
「やるぞ……やるしかないんだ」
私は自らを鼓舞するように呟き、業務用スチームクリーナーの電源コードをコンセントに突き刺した。

——ギュイィィィィィン!! ブシュゥゥゥゥッ!!

深夜の静寂を引き裂く、爆音とけたたましい蒸気の噴射音。
普通の宿なら一発で隣室から苦情が来る騒音だが、笹鳴館の離れ「つづら」は厚さ二十センチのコンクリートと分厚い防音扉に守られた完全防音のシェルターだ。この圧倒的な防音性能が、今夜ばかりは凶悪な隠蔽工作の最強の味方となった。

私は狂ったようにスチームクリーナーのノズルを振り回し、百度の高温スチームでペルシャ絨毯にこびりついた血肉を吹き飛ばしていった。さらに、原液のままの塩素系洗浄剤を床や壁、ドアノブにドバドバとぶちまける。
「ルミノール反応ゼロ! 指紋ゼロ! 完全滅菌だ!」
私は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、悪鬼の形相で血痕を拭き取った。強烈な塩素の刺激臭で目が潰れそうになり、喉が焼けつくように痛むが、手を止めるわけにはいかない。愛する妻を殺人鬼の汚名から守るためだ。

絨毯の美しい柄は無残に色落ちし、部屋全体がプールの消毒槽のような匂いに包まれた頃、ようやく目立つ血痕と指紋の消去が完了した。

「よし……次は偽装だ」
私は肩で息をしながら、頭部の半分がひしゃげた二階堂の死体を見下ろした。
これまでの三件の殺人は、窒素ガスや絞殺など、血の一滴も流れない極めて「クリーン」な手口だった。それに対し、この撲殺死体はいかにも素人の衝動的な犯行で、連続殺人の手口から完全に浮いている。

「連続殺人鬼の仕業に見せかけるには……猟奇的で、何か儀式めいた演出が必要だ」

私は推理小説の読みすぎで凝り固まった脳味噌をフル回転させ、見よう見まねで死体のデコレーションを始めた。
まず、二階堂の死体をズルズルと引きずってソファに座らせ、足を優雅に組ませた。そして、彼の胸の上で両手をクロスさせ、死後硬直が始まっている指の間に、なぜかテーブルにあった一輪挿しの薔薇を持たせる。
さらに、凶器である血まみれのブロンズ製靴べらを、壁に飾られていた前衛的な絵画に、
——ズンッ!!
と、突き刺した。

「……完璧だ。意味不明で不気味、いかにも狂った殺人鬼のメッセージっぽい」
自分の泥臭い演出に、私は自画自賛の息を吐いた。もはや正常な判断力は完全に吹き飛んでいた。

だが、最大の難関はここからだ。
犯人は、郷田と財前を「完全な密室」で殺している。この六号室も密室にしなければ、あの連続殺人鬼の犯行として成立しない。
私は犯人がどうやって密室を作ったのか全く知らない。だからこそ、ミステリ小説の古典中の古典、カビの生えたような古典的トリックに頼るしかなかった。

「タコ糸とテープ。これでドアガードを外からかける」

私は厨房からくすねてきたタコ糸の先端を輪っか状に結び、ドア内側の金属製ドアガード(内鍵)のバーに引っ掛けた。そして、糸の途中をセロハンテープでドアの枠に軽く固定し、そのまま糸の端をドアの外側へと引き出す。
ドアを閉め、外から糸を引っ張れば、テープを支点にしてドアガードのバーがパタンと倒れて施錠される。その後、さらに糸を強く引けば、テープが剥がれ、バーに引っ掛けた輪っかも抜け落ちて、糸だけを外に回収できるという寸法だ。

「頼む、うまくいってくれ……」

私は外の雨に打たれながら、ドアの隙間から伸びるタコ糸をゆっくりと引っ張った。
ピンと糸が張り、内部で金属が擦れる感覚が手に伝わる。

——カチャン。

鈍い音とともに、内鍵が倒れる音がした。
「よし!」
私はガッツポーズをし、そのまま糸を強く引いて回収しようとした。
ブチッ。
嫌な感触とともに、タコ糸が途中でちぎれてしまった。ドアの隙間に、数センチだけ白い糸の端がだらしなく垂れ下がっている。

「……まあ、いい。どうせ警察が来るまで誰も気づかないだろう」
極度の疲労と寒さで、私の思考は完全に大雑把になっていた。密室は完成した。現場の隠蔽も(私なりに)完璧だ。二階堂の死体は猟奇的だ。これで小春が疑われることは絶対にない。

私は証拠品の業務用クリーナーと塩素の空ボトルを抱え、再び足跡を消しながら五号室へと逃げ帰った。
部屋に戻ると、小春はスヤスヤと美しい寝顔で眠り続けていた。その横顔を見つめながら、私は泥のようにベッドへ倒れ込んだ。全身から漂う強烈な塩素の匂いも気にすることなく、気絶するように意識を手放した。

### 3


四日目の朝。
目覚めた私の全身は、ひどい筋肉痛と極度の疲労で軋み、鼻の奥には強烈なプールの消毒槽の匂いがこびりついていた。

「おはよう、真悟さん。なんだか、ひどく塩素の匂いがするわね。お風呂場のカビ取りでもしてくれたの?」
完璧な身支度を整えた小春が、小首を傾げて尋ねてきた。
「あ、ああ……ちょっと気になってね」
私は引きつった笑みを浮かべ、誤魔化すように洗面所へ向かった。鏡の中の私は、目の下にどす黒いクマを作り、まるで生ける屍だった。昨夜の狂気じみた隠蔽工作が夢ではなかったことを、指先に残る痛みが証明している。

重い足取りで本館のラウンジに向かうと、生存者たちはすでに集まっていた。
しかし、案の定と言うべきか、当たり前と言うべきか、二階堂の姿だけがない。

「……またですか」
結城蒼が、冷めた紅茶のカップを置きながらため息をついた。
「二階堂さんが朝食の時間をすっぽかすなんて、あり得ません。昨日あれだけ堂島シェフを怒鳴りつけていたのに」

堂島の顔に、深い疲労の色がよぎった。
「確認に行きましょう。中田さん、念のため工具を」

私、結城、堂島、そして中田の四人で、六号室へと向かう。
雨はしとしとと降り続き、濡れた玉砂利が足下でジャリジャリと嫌な音を立てた。
六号室の前に到着し、堂島がノックをする。当然、返事はない。堂島が無言でマスターキーを差し込み、ドアノブを引いた。

ガツン。

数センチ開いたところで、ドアは内鍵の金属バーに阻まれて止まった。
「やはり、密室ですか」堂島が重々しく呟く。

だが、その隙間から中を覗き込んだ結城が、「おや?」と声を上げた。
「堂島さん、見てください。ドアの枠にセロハンテープの跡が残っている。そして、内鍵のバーには……白いタコ糸の切れ端が引っかかっていますよ」

私は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪え、息を呑んだふりをした。
中田がボルトクリッパーでドアガードを切断し、私たちが室内へ踏み込んだ瞬間、むせ返るような強烈な塩素系漂白剤の匂いが鼻腔を強打した。

「うっ……なんだ、この匂いは!」
中田が顔をしかめて後ずさる。堂島も眉間を深く刻み、絶句していた。

無理もない。
六号室のリビングは、異常な空間へと変貌していた。最高級のペルシャ絨毯は見事に色落ちしてまだら模様になり、部屋全体が異様なほどに滅菌されている。
そしてソファの上には、頭部がひしゃげた二階堂が優雅に足を組み、胸の前で交差させた手に一輪の薔薇を持って座っていた。壁の絵画には、血のついたブロンズ製の靴べらが突き刺さっている。

「……なんという、ことだ」
堂島が呆然と呟いた。彼のその表情には、これまでの犠牲者を見た時とは明らかに違う、純粋な「困惑」が混じっているように見えた。

その時だ。結城が突然、歓喜に満ちた声を上げた。
「素晴らしい! なるほど、そういうことか!」

結城は死体と部屋の惨状を交互に見比べ、目をキラキラと輝かせた。
「タコ糸とセロハンテープを使った、古典的な扉の施錠トリック! 郷田さんと財前さんの部屋で見せた、あの物理法則を無視したかのような不可解でモダンな密室の後に、あえてカビの生えたようなアナログ密室を提示してきた!」

結城は興奮冷めやらぬ様子で、私の泥臭い偽装工作を解説し始めた。
「わかりますか、堂島さん、雀部さん! これは犯人からのオマージュであり、我々に対する挑戦状ですよ! 『私は見えない魔法も使えるが、こうした古典的な泥臭い手品も完璧にこなせるのだ』と!」

「は、はあ……なるほど……?」
私は変な汗を流しながら、引きつった声で相槌を打つしかなかった。

「そして、この死体のデコレーションと、異常なまでの滅菌処理!」
結城は絵画に刺さった靴べらと、色落ちした絨毯を指差した。
「二階堂さんは、堂島シェフの料理を愚弄し、美意識が欠如していました。だから犯人は、彼の頭を物理的に破壊した上で、薔薇を持たせ、部屋中の血痕を漂白剤で完璧に消し去った。『お前のような下品な男には、滅菌された無機質な空間こそがお似合いだ』という、強烈な皮肉と美学の表現です! 天才のやることは、やはり天才だ。遊び心が効いている!」

堂島は結城のその熱弁を、まるで宇宙の言語でも聞かされているかのような顔で聞いていたが、やがて「……とにかく、ラウンジに戻りましょう」とだけ絞り出した。


四人目の犠牲者が出たことで、ラウンジの空気は限界を超えていた。
高橋美咲は顔面蒼白で震え、水口と吉川はカウンターの奥で身を寄せ合って泣いている。

「二階堂さんが、殺されたのね。やっぱり」
私の隣で、小春がハーブティーを飲みながら淡々と呟いた。
「ほら、言った通りでしょう? 誰も悲しんでいないわ。むしろ、これで静かにお食事ができるのだから、皆ホッとしているはずよ」
彼女のトーンは、雨上がりで空気が澄んでいると喜ぶそれと全く同じだった。

私は妻の狂気を隠し通せたことに安堵しつつも、このままでは本当に全員が「天才的な連続殺人鬼」の犠牲になるまでこの地獄が終わらないのではないかという恐怖に囚われていた。

「結城さん」
私は向かいのソファに座る結城に、意を決して声をかけた。
「あなたなら、この事件の謎が解けるんじゃないですか? 隠し扉の話、あれは本当なんですか?」

結城はコーヒーカップを置き、楽しげに目を細めた。
「ええ。雀部さん、何か心当たりでも?」

「……実は、昨日、吉川さんと中田さんから聞いたんですが」
私は声を潜め、情報を共有した。
「開業当初、この笹鳴館には現在の一号室と二号室しかなく、そこには『おこもり利用』のための配膳用ドア……裏口のようなものがあったらしいんです。そして、その二つの部屋に郷田さんと財前さんを割り当てたのは、受付の水口さんでした」

その言葉を聞いた瞬間、結城の顔から笑顔が消えた。
彼の瞳の中で、散らばっていた無数のパズルのピースが、凄まじい勢いで組み合わさっていくのがわかった。

「おこもり利用……配膳用のドア……」
結城は立ち上がり、ラウンジの窓から見える「つづら」の構造を食い入るように見つめた。
「そうか! 竹編みの装飾『つづら』は、ただの目隠しじゃない! 外壁のコンクリートとの間に、人間が一人通れるだけの空間……メンテナンス用のキャットウォークが存在しているんだ! そこを通れば、裏口から……!」

結城は突然身を翻し、「少し確認してきます!」と叫ぶなり、雨の降る竹林の中へ飛び出していった。

「あっ、結城さん! 単独行動は危険だ!」
私が止める間も無く、彼の姿は鬱蒼とした竹林の向こうへ消えてしまった。

ラウンジに残された私たちは、ただ重い沈黙の中で彼の帰りを待つしかなかった。堂島は腕を組み、目を閉じて壁際に立っている。その横顔からは、感情の一切が読み取れなかった。

十数分後。
ずぶ濡れになった結城が、ラウンジのドアを勢いよく開けて戻ってきた。その顔には、すべての謎を解き明かした者だけが持つ、圧倒的な自信と恍惚が浮かんでいた。

「わかりましたよ。すべての謎が」
結城は雨水を滴らせながら、堂島、そして私たち全員を見回した。

「一号室と二号室の裏口。そして、ワインセラーのシステム。これらを利用し、三つの密室を作り上げた犯人のロジック。……事件の真相に、完全にたどり着きました」

結城の宣言が、冷たい雨音を切り裂き、ラウンジに重く響き渡った。

## 第5章
### 1


ずぶ濡れのコートから雨水を滴らせながら、結城蒼はラウンジの中央に立った。
その顔には、難解なパズルを解き明かした狂気じみた恍惚感が張り付いている。彼は居並ぶ生存者たちをゆっくりと見渡し、最後にその視線を、壁際に立つ一人の男へと固定した。

「この笹鳴館で起きた連続殺人事件。そのすべての絵図を描き、実行した犯人が誰なのか、完全に理解しました」

結城の声が、冷たい雨音を切り裂いて響く。
水口と吉川が息を呑み、中田が眉間に深い皺を刻んだ。私の隣では、小春がまるで退屈な演劇でも観るかのように、静かにティーカップを傾けている。

「犯人は、この施設の構造を誰よりも熟知し、我々の心理を巧みに操ることができる人物。……オーナーシェフ、堂島誠一さん。あなたですね」

ラウンジの空気が凍りついた。
名指しされた堂島は、表情一つ変えなかった。ただ、深く静かな湖面のような瞳で、結城を見返しているだけだ。

「堂島シェフが……犯人……?」
高橋美咲が震える声で呟いた。
「証拠はあるんですか? 結城さん、いくらなんでも推測だけで……」

「推測ではありません。建物の構造と物理法則が、彼を犯人だと指し示しているんです」
結城は一歩前へ踏み出し、まるで講義室の教壇に立つ教授のように滑らかに語り始めた。

「まず、第一の殺人。片岡支配人の密室死についてです。ワインセラーという密閉空間で、大量の窒素ガスを充填させて酸欠死させるという手口。これは、セラーの酸化防止システムの構造を知り尽くしている人間でなければ不可能です。日常的にあの設備を使用し、メインバルブの位置や操作方法を熟知しているのは、ソムリエであった片岡さん本人か、あるいはオーナーシェフである堂島さんしかいない」

「……それだけでは、証拠にはなりません」中田が重い口を開いた。「私も設備のメンテナンスでセラーには入りますし、バルブをひねるだけなら誰にでもできる」

「ええ、その通りです。ワインセラーの事件だけなら、誰にでもチャンスはあったかもしれない」
結城は中田の反論をあっさりと認め、不敵に笑った。

「しかし、続く郷田さんと財前さんの密室殺人はどうでしょう。私が堂島さんを犯人だと断定したのは、第一の殺人の**直後**に彼がとった行動に、決定的な『欺瞞』が隠されていたからです」

結城は私の方を向き、問いかけてきた。
「雀部さん。片岡支配人が亡くなった初日の夜、堂島さんは我々を集めて『夜間引き籠もりルール』を提案しましたね。その際、離れの防音扉がいかに堅牢で、安全なシェルターであるかを説明するために、我々をわざわざ**三号室**へと案内しました。覚えていますか?」

「え、ええ。高橋さんが泊まっていた部屋ですよね。中田さんがコンクリートの壁や内鍵の仕組みを詳しく説明してくれて……」
私が答えると、結城は深く頷いた。

「そこです。なぜ堂島さんは、本館の目の前にある一号室や二号室ではなく、少し奥まった場所にある三号室を選んだのか。それは、一号室と二号室には、絶対に見られてはならない『弱点』が存在していたからです」

結城の言葉に、私は先ほど吉川から聞いた話を思い出した。
開業当初からある一号室と二号室にだけ存在する、おこもり利用のための「裏口」。

「この笹鳴館の離れは、コンクリートの躯体を巨大な竹編みの『つづら』で覆った斬新な建築です。私は先ほど、外からその構造をじっくりと観察してきました」
結城は濡れた髪をかき上げ、目を輝かせた。

「竹編みの装飾は、単なる目隠しではありませんでした。コンクリートの外壁と竹編みの間には、人間が一人通れるだけの細いキャットウォーク——つまり、裏通路が隠されていたんです。そして、その裏通路は、一号室と二号室の壁面に設けられた『配膳用ドア』へと直結している」

「配膳用……ドア」
私が反芻すると、結城は「そうです」と指を鳴らした。

「食事をこっそり運び入れるための、小さな裏口です。堂島さんは、我々に離れが『完全な密室』であると錯覚させるために、あえて裏口の存在しない三号室を使ってデモンストレーションを行った。全員に自分たち自身で『つづら』の構造をすみずみ調べさせ、『中から鍵をかければ絶対に安全だ』と信じ込ませてから、自発的に引き籠もらせるためにね」

背筋に冷たいものが走った。
あの夜、堂島の提案に誰もが安堵し、自ら進んであのコンクリートの箱に鍵をかけた。だがそれは、犯人が用意した「まな板の上」に、自分から乗りに行くようなものだったのだ。

「つまり……」
私が震える声で言うと、結城は残酷な笑みを浮かべて頷いた。

「ええ。郷田さんも財前さんも、玄関のドアの鍵をいくら厳重に閉めようが、家具で完璧な物理バリケードを築こうが、全くの無意味だったのです。堂島さんは深夜、竹林の暗がりから『つづら』の内部に潜り込み、裏通路を通って、壁に偽装された配膳用ドアを外から開けた。そして、無防備に眠る彼らの首にロープを巻きつけた。……これが、不可能犯罪と思われた密室殺人の、あまりにも泥臭く、しかし確実な物理的真相です」

完璧な論理だった。
施設を設計し、増築の歴史を知り、配膳用ドアの鍵を管理している堂島でなければ、絶対に実行不可能なトリック。郷田と財前をその二つの部屋に割り当てたのも、受付の水口に指示を出した堂島自身だろう。

結城の推理を聞きながら、私は額に脂汗を浮かべていた。
(すごい……完全に理にかなっている。これなら、警察が来ても堂島が連続殺人鬼として逮捕されるはずだ)

私は内心で安堵の息をつきかけた。
だが、次の瞬間、隣に座る小春の平坦な声が、私の心臓を素手で鷲掴みにした。

「……それは大変ね」
小春はティーカップを置き、微かに眉をひそめて堂島を見つめた。
「堂島シェフが逮捕されてしまったら、今夜のディナーと明日の朝食は誰が作ってくださるの? こんな素晴らしいお料理をいただける機会は、そうそうないのに。警察の方にお願いして、お食事の提供が終わってから連行していただくことはできないのかしら」

(そこかよ!!)
私は心の中で激しくツッコミを入れた。
連続殺人鬼が目の前で暴かれているというのに、この女の関心事は依然として「自分の食事」のスケジュールだけだ。自分の命が狙われていたかもしれないという恐怖もなければ、三人が殺されたことへの悲哀もない。

だが、私の本当の恐怖はそこではない。
結城の推理は、第三の殺人(財前)までは完璧だ。
しかし、第四の殺人——二階堂の死体だけは、堂島の仕業ではない。
昨夜、私がシャワーを浴びている間に、隣のこの「食事のスケジュールを心配しているサイコパス妻」が、コンビニに行くようなテンションで撲殺してきたのだ。

そして私は、その血まみれの撲殺死体を、必死にルミノール反応から指紋まで消し去り、タコ糸を使って古典的な密室を作り上げ、猟奇殺人に偽装した。

(頼む、結城……! お前のその優秀な頭脳で、四人目の二階堂も、全部堂島の仕業だってことにしてくれ……!)

私は神に祈るような思いで、結城の次の言葉を待った。
結城は、ゆっくりと私と小春の方へ向き直り、そして、あの四番目の部屋——二階堂の殺害現場で見せた、興奮と歓喜の入り混じった笑みを再び浮かべたのだった。

### 2


「さて……」
結城蒼は、ラウンジの沈黙を十分に楽しんだ後、まるで極上のデザートを味わう前のような、ねっとりとした笑みを浮かべた。

「ここからが、この事件の真骨頂です。堂島さん、あなたが仕掛けた第一から第三の殺人は、施設の構造を利用した冷徹で無機質なものでした。しかし、四番目の二階堂さんの殺害現場だけは、明らかに毛色が違っていた。私はあれを見た瞬間、あなたの**芸術家としての業**に震えましたよ」

(来た……!)
私はソファの上で、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
私は息を潜め、結城の口元を見つめた。

「皆さんも六号室の惨状を見て、疑問に思ったはずです」
結城は、高橋や中田に向かって演説するように両手を広げた。
「なぜ、あれほどまでに部屋中を漂白し、滅菌する必要があったのか。なぜ、彼に一輪の薔薇を持たせ、靴べらを絵画に突き刺したのか。そしてなぜ、わざわざタコ糸とセロハンテープを使った、古典的な密室トリックを構築したのか」

結城は堂島に向き直り、ビシッと指を突きつけた。
「答えは一つ。あれは、あなたの『料理人としての怒り』と『私への挑戦状』だったからです!」

「……は? いや、待ってください結城さん。二階堂の件は私では——」

「謙遜なさるな!」

堂島の反論を、結城は食い気味の大声でかき消した。

「二階堂さんは、あなたの料理を執拗に愚弄しましたね。だからこそ、あなたは彼だけは機械的な密室ではなく、自らの手で直接、物理的な鉄槌を下した! そして、彼の存在そのものが『不浄』であると示すために、強烈な塩素系洗浄剤を使って、部屋全体を完璧に滅菌処理したのです!」

(違う……ただルミノール反応と小春の指紋を消すために、私が夜中に半泣きで業務用クリーナーを振り回しただけだ……)
私は心の中でひっそりと訂正した。

「さらに、あのアナログなタコ糸の密室トリック!」
結城のテンションは留まるところを知らず、グイグイと堂島に詰め寄っていく。
「現代の建築構造を利用したスマートな密室の後に、あえてカビの生えたような古典的トリックを提示してきた。これは、建築音響学の専門家である私に対する『こんな泥臭い手品も完璧にこなせるのだ』という、強烈なメッセージであり、極上の遊び心です!」

(遊び心じゃない。密室の作り方がわからなかったから、昔読んだ小説を真似しただけだ。しかも途中で糸が千切れて失敗してたし……)

「そして極めつけは、あの死体のデコレーションです。前衛的な絵画に突き刺さった血まみれの靴べら。胸に抱かせた一輪の薔薇。あれは、美意識の欠如した男に対する痛烈なアイロニーに他ならない。冷徹な復讐劇の最後に、これほどまでに濃厚な猟奇的スパイスを効かせてくるとは……! さすが、堂島誠一。天才のやることは、やはり天才だ!」

結城の恍惚とした熱弁がラウンジに響き渡る。
私の泥臭い偽装工作が、結城の強引な深読みによって、見事に「天才シェフの極上のスパイス」へとすり替えられていた。

一方、連続殺人鬼としてすべてを看破されたはずの堂島は、ポカンと口を開けたまま立ち尽くしていた。
無理もない。彼からすれば、自分が三人殺して部屋で休んでいる間に、勝手に四人目が意味不明な猟奇死体になっており、あまつさえその珍妙な工作を「あなたの極上の遊び心だ!」と大絶賛されているのである。

「いや、ですから!」堂島は顔をしかめ、声を張り上げた。「私は二階堂の部屋になど行っていません! あのタコ糸も薔薇も——」

「ふふっ。照れ隠しですか? 天才特有の、すべてを理解された時の気恥ずかしさですね。わかります、わかりますとも!」
結城は満面の笑みで何度も頷き、堂島が言葉を発する隙を全く与えない。
「あなたの美学は、この結城蒼が完璧に読み解きました。どうぞ、胸を張ってください!」

「胸を張れと言われても……!」
堂島が困惑も露わに言い返そうとしたその時、隣で静かに座っていた小春が、ふう、と感心したように息を吐いた。

「……結城先生の仰る通りね」
小春は、堂島に向かって涼やかに微笑んだ。
「あの方の存在は不浄そのものでしたから、お部屋ごと滅菌消毒するのは極めて合理的だわ。それに、美しい薔薇を持たせてあげるなんて、堂島シェフは本当にロマンチストなのね」

(お前が二階堂の頭をカチ割ったから、俺が必死に掃除したんだろうが……)
妻の恐ろしいまでの他人事に、私は胃がキリキリと痛むのを感じた。

堂島は、自分を「天才」と崇め奉って一歩も引かない結城のドヤ顔と、「素晴らしい滅菌だわ」と微笑む小春の狂気じみた姿を交互に見比べた。
そして、三度目の反論の口を開きかけたものの——。

「ブラボー! 実に見事な殺人芸術でした!」

一人でスタンディングオベーションを始めんばかりの結城の姿を見て、堂島はゆっくりと口を閉じた。

(……こいつらに、何を言っても無駄だ)

堂島の顔に、そんな文字がはっきりと浮かび上がった。
冷徹な連続殺人鬼ですら、このラウンジに蔓延る『結城の狂信的な解釈』と『小春の理不尽な狂気』を前にしては、反論する気力すら根こそぎ奪われてしまったのだ。天才シェフは、あまりの面倒くささに、四人目の殺人を自らの罪として受け入れることを静かに諦めたようだった。

「堂島さん。私の完璧な推理に、何か反論はありますか?」
結城が、勝利を確信した薄笑いを浮かべて堂島に問いかけた。

数秒の重い沈黙の後、堂島は深く、とても深く、疲労困憊したような溜息をついた。

### 3


「……あなたの想像力には、恐れ入りますよ。結城さん」

どこまでも重く、深い沈黙を破ったのは、堂島のひどく疲労した声だった。
彼はゆっくりと顔を上げ、結城の熱を帯びた視線を受け止めながら、諦観の入り混じった息を吐き出した。

「一号室と二号室の裏口。そして、片岡が管理していたワインセラーの窒素ガス。……すべて、あなたの推理通りです。私が、この笹鳴館の構造を利用して、片岡、郷田、財前の三人を殺害しました」

堂島の口から発せられた明確な自白。
「堂島シェフ……嘘ですよね? なぜ、あなたが……」
カウンターの奥で、受付の水口が両手で顔を覆い、泣き崩れた。
清掃員の吉川は腰を抜かして座り込み、庭師の中田は信じられないものを見るような目で雇い主を見つめている。

「水口さん、中田さん、吉川さん。あなたたちには、本当にすまないことをした」
堂島は従業員たちに向かって、深く頭を下げた。
「特に水口さん。あなたに、一号室と二号室の宿泊客を郷田と財前に変更するよう指示したのは私です。何も知らないあなたを、私の殺人の下準備に巻き込んでしまった」

「そんな……私、自分が変な割り当てをしたせいで、お二人が殺されたんじゃないかって……!」
水口の嗚咽がラウンジに響く。
堂島は痛ましげに目を細めたが、すぐにまた冷徹な顔に戻った。
「すべては、あいつらを確実に殺すためでした」

その時、ラウンジの隅で震えていたフリーライターの高橋美咲が、弾かれたように立ち上がった。
「どうして、あなたが郷田と財前を殺したんですか? あの二人は……私が不正を暴いて、社会的に抹殺するはずだったのに!」
高橋は涙ながらに叫んだ。
「十年前に頓挫した、東京都の『美食リゾートプロジェクト』。郷田と財前が私腹を肥やし、そのトカゲの尻尾切りとしてすべての責任を押し付けられ……自殺に追い込まれたプロジェクトリーダーは、私の兄なんです!」

高橋の告白に、堂島の目がわずかに見開かれた。
「美食リゾートプロジェクト……。そうか、あなたは彼の妹さんだったのか」

「おお! なるほど!」
突如、結城がパンッと手を叩いて立ち上がった。まるで名作映画の伏線回収を目撃したかのような大興奮である。
「十年前の幻のプロジェクト! そこに繋がる因縁! 堂島さん、あなたもあのプロジェクトで総料理長を務めるはずだった。動機としてはまさに古典にして王道、完璧なプロットだ!」

「……プロットではありません。私の人生です」
堂島はひきつった顔で結城をたしなめた。

静まり返るラウンジ。復讐の悲壮な決意が、重く空気を支配する……はずだった。

「それはとても悲しいお話ね。でも、シェフ。一つだけ残念なことがありますわ」
小春が、唐突に平坦な声で口を開いた。
「……なんでしょうか、奥様」堂島が怪訝そうに答える。

「二階堂さんの頭を潰したあの手際や、お部屋の滅菌消毒。あれはとても合理的で素晴らしい判断でしたけれど、凶器に使ったエントランスの靴べらは、アンティークの年代物でしょう? 美しい調度品を血で汚してしまうのは、少しだけスマートじゃありませんでしたわね。調理用のミートハンマーか何かを使えばよろしかったのに」

(……小春、お願いだから自分が使った凶器にダメ出ししないでくれ)
私は胃の痛みに耐えながら、ひっそりと心の中で突っ込んだ。

堂島は、小春の言葉に完全に虚を突かれ「……靴べら……ミートハンマー……?」と呟きながら固まってしまった。自分が殺してもいない死体についてのダメ出しなど、反応のしようがない。

だが、ここで名探偵が黙っていなかった。
「ナンセンス! それは違いますよ、奥様!」
結城が身を乗り出し、これ以上ないほどのドヤ顔で堂島をかばい始めたのだ。

「ミートハンマーでは意味がないんです! あえて玄関の『靴べら』を使った点にこそ、堂島さんの深い芸術的意図がある! 料理を愚弄し、土足で他人の領域に踏み込んでくる傲慢な男を、『靴を履くための道具』で物理的に叩き潰す! この痛烈なメッセージ性がおわかりになりませんか! そうですよね、堂島さん!」

鼻息を荒くして同意を求めてくる結城と、「少し残念でしたわ」と首を傾げる小春。
連続殺人鬼である堂島は、熱狂的なファンと的外れなクレーマーに板挟みにされたクリエイターのような顔で、二人を交互に見つめていた。

「いや、私は……その……」
堂島は何かを言いかけたが、結城の「さあ、ご自身の美学を語ってください!」と言わんばかりのキラキラとした瞳に直面し、ふっと肩の力を抜いた。

「……ええ。結城さんの仰る通りです」
堂島は、完全にすべてを放棄したような、虚無の笑みを浮かべた。
「あれは私の……メッセージです。靴べらを使ったのは、決して衝動的なミスではなく、私の……極上の遊び心、ということで。ええ、もう、それでいいです」

(乗っかった……! めんどくさくなって全部認めたぞ、この人!)
私は安堵と申し訳なさで、ただただ平伏したい気分だった。

「素晴らしい! 完璧だ!」結城は拍手喝采である。

「結城さん、あなたの推理は本当にお見事でした。……おかげで、私もようやく終わらせることができます」

## 第6章
### 1


「十年前の、東京都『美食リゾートプロジェクト』。……あれは最初から、郷田と財前が裏金を捻出するためだけに仕組んだ、巨大な詐欺でした」

堂島誠一の声は、静まり返ったラウンジに低く、静かに響いた。
外の雨音だけが、彼の懺悔を伴奏するように降り続いている。

「高橋さん。あなたの優秀だったお兄さんは、彼らにとって都合の良い『顔』であり、いざという時の防波堤でした。そして……その計画に私を引きずり込み、郷田たちに売り渡した張本人こそが、片岡です」

「片岡支配人が……?」
私が思わず口を挟むと、堂島は重々しく頷いた。

「ええ。当時の私は、自分の料理の腕に絶対の自信を持ちながらも、世間に出る機会に恵まれない無名のシェフでした。そんな私を見出し、プロジェクトの総料理長という表舞台へと引き上げてくれたのが、妻だったんです」

堂島の口から「妻」という単語が出た瞬間、彼の冷徹な仮面がわずかに崩れ、隠しきれない痛切な色が滲んだ。

「妻は、不器用な私に代わって各方面を奔走し、スポンサーを集め、私の名前を売り込んでくれました。彼女のサポートと、私の料理に対する深い理解がなければ、私はただの偏屈な料理人に過ぎなかった。妻は私にとって、社会と繋がるための唯一の窓であり、絶対的な理解者だったんです」

私は、堂島の言葉を聞きながら、無意識のうちに隣に座る小春を盗み見た。
小春は、テーブルに置かれた美術書を再び開き、堂島の悲痛な告白を、まるで美術館の音声ガイドでも聞くかのように静かに聞いている。

(……同じだ)
私は背筋に粟立つような感覚を覚えた。
堂島にとっての妻は、自らの才能を社会に適応させるための「不可欠なパーツ」だった。それは、サイコパスである小春の異常性を社会から隠蔽し、彼女が「完璧な妻」として日常を送るために、私が泥臭い事後処理を引き受けている共依存関係と、形は違えど本質的に似ている。
天才料理人も、異常な精神性を持つ人間も、それを完全に受容しサポートする伴侶がいなければ、この世界で生きていくことはできないのだ。

「プロジェクトが大々的に発表され、世間の注目が集まった矢先のことでした。巨額の使途不明金が発覚し、プロジェクトは空中分解した。高橋さんのお兄さんがすべての責任を被らされ、自ら命を絶ったことは、私もニュースで知りました」
堂島は高橋美咲へ向けて、静かに頭を下げた。高橋は両手で顔を覆い、肩を震わせている。

「しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。郷田と財前は法の手を逃れましたが、世間の怒りは収まらなかった。その怒りの矛先は、プロジェクトの『顔』として大々的に宣伝されていた私……いや、私のプロモーションを主導していた妻へと向かったのです」

堂島は拳を固く握りしめた。その関節が白く変色している。

「連日のような誹謗中傷、嫌がらせ。メディアは妻を『詐欺プロジェクトの広告塔』『欲深い女』と書き立てました。妻は、私の評判を地に落としてしまったことを、誰よりも深く嘆き……そして、私に手紙を残して、首を吊りました」

ラウンジに、水口の小さな悲鳴が漏れた。
結城は腕を組み、目を閉じて黙って聞いている。

「妻を失ってからの十年間。私は料理を作り続けましたが、それはただの作業でしかなかった。どれほど技術を磨き、どれほど素晴らしい食材を手に入れても、それを一番に食べさせたい相手はもういない。私らしい料理など、二度と作れなくなってしまったのです」
堂島は自嘲気味に笑った。
「そんな空っぽの私に、三年前に再び声をかけてきたのが片岡でした。彼は『山奥に最高のオーベルジュを作ろう』と持ちかけてきた」

「……片岡さんのこと、あなたを裏切った人だと思っていなかったんですか?」
結城が静かに尋ねる。

「ええ。お恥ずかしい限りです。その時の私は、片岡もあのプロジェクトの頓挫で被害を受けた側だと思っていました。実際には、その逆だったわけですがね。私は片岡の誘いに乗り、この笹鳴館を開業しました。そして彼はまた、郷田と財前と組むことを考え始めたのです」

堂島の目は、過去の怨念を燃やすような暗い光を宿していた。

「昨年末、彼らはバックヤードで、私の才能を利用して新たなプロジェクトを立ち上げ、再び私腹を肥やす算段を嬉々として語り合っていた。……彼らの話を盗み聞きして、ようやく私は事態の全容を掴みました。……その時です。私の十年間くすぶっていた殺意が、明確な計画へと変わったのは」

この「つづら」の構造を知り尽くしている堂島にとって、彼らを密室で葬り去ることは造作もないことだったのだろう。
自分のすべてを奪った三人を、決して逃げられない檻の中に閉じ込め、自らの手で処刑する。そのために彼は、この外界から孤立する日をじっと待ち続けていたのだ。

「……でも、堂島さん」
高橋美咲が、涙で濡れた顔を上げて堂島を睨みつけた。
「気持ちはわかります。私だって、郷田と財前を殺してやりたいと何度も思った。でも……殺して罪を償わせるんじゃなくて、法のもとで裁きを受けさせるべきだったじゃないですか! こんなことをしたって、奥さんは喜ばない!」

正論だった。遺族である高橋からすれば、それは当然の怒りだ。
しかし、堂島はひどく穏やかな、しかし決定的な絶望を湛えた目で高橋を見返した。

「法で裁けるのなら、十年前に裁かれているはずです。それに……私はもう、喜んでくれる妻のために生きているわけではない。ただ、彼らと同じ空気を吸いながら料理を作り続けることに、限界が来ていただけなのです」

その言葉の響きは、どこか小春の「あんな奴と同じ空気を吸いながら食事をするのは苦痛だ」という極端な合理性に通じるものがあった。
私は息を呑み、この狂気に満ちた天才料理人の、最後の告白の行方を見守っていた。

### 2


「……当初の予定では、初日の夜にあの三人を殺し、直後に私も自ら命を絶つはずでした」

堂島は深く息を吸い込み、告白を続けた。
「ですが……殺人という異常行動は、私が考えていた以上に凄まじいストレスを伴うものでした。ワインセラーで片岡を、二号室で郷田を殺害した時点で、私の精神は完全に限界を迎えてしまった。手が震え、足がすくみ、とても初日のうちに財前まで殺し切ることはできなかったのです」

堂島の言葉に、私は財前が怯えきっていた姿を思い出した。
「二日目の夜、財前さんが一号室に家具を積み上げて引き籠もったのは……」
「ええ。私にとっては、これ以上ないほど『ラッキー』でした」
堂島は自嘲するように口角を上げた。
「彼が自ら完璧な密室を作ってくれたおかげで、私は裏口から侵入し、誰にも怪しまれることなく彼を始末することができた。そして、目的を果たした私は、いよいよ服毒して妻のもとへ行くつもりだったんです」

堂島はそこで言葉を切り、ゆっくりとラウンジの全員を見渡した。
そして、その視線が私と小春のところでピタリと止まった。

私はビクッと肩を震わせ、無意識に息を止めた。
(来る……二階堂の話だ。頼む、余計なことは言わないでくれ……!)
私は心の中で絶叫しながら、必死にポーカーフェイスを保とうとした。

「ですが……財前を殺した翌朝、奇妙なことが起きました」
堂島は、どこか遠くを見るような、不思議な目つきになった。
「私の計画には一切存在しなかった、四人目の死体です。二階堂が死んでいた。しかも、部屋は強烈な漂白剤の匂いに包まれ、死体には薔薇が握らされ、壁の絵には靴べらが刺さっていた。おまけに見よう見まねで作られたような、不格好なタコ糸の密室まで添えられて」

「え……?」
結城が、不審そうに眉をひそめた。
「計画に存在しなかった? 堂島さん、それはどういう……」

「正直に言えば、私は混乱しました。そして、自殺するタイミングを完全に見失ってしまった」
堂島は結城の問いを遮るように、淡々と語り続けた。
「自分が処刑を終えた直後に、誰かが別の人間を殺し、意味不明な偽装工作を行っている。私は、この不思議で異常な状況の行く末を、警察が来るまで見届けてみたいという強烈な好奇心に駆られてしまったのです」

「待ってください! では、二階堂さんを殺したのはあなたではないと……?」
結城が身を乗り出した。彼の「完璧な推理」の前提が崩れかかっているのだ。

(あああっ! だめだ、そこで否定されたら小春が捕まる!)
私は全身から冷や汗を吹き出しながら、必死の念を堂島へ送った。
(頼む堂島さん! あんたはもう三人殺してるんだ! 四人目も五人目も同じだろう!?『誤差』の範囲だろう!? その『天才の遊び心』ってやつを受け入れてくれ!!)

私の祈りが通じたのか、あるいは単にこの狂った状況を説明するのが面倒になっただけなのか。
堂島は、隣で相変わらず涼しい顔をして座っている小春をじっと見つめた後、フッと静かに吹き出した。

「……いや。結城さんの仰る通りです」
堂島は、憑き物が落ちたような穏やかな顔で言った。
「あれは、私の料理人としての怒りであり、結城さんへの挑戦状であり、そして……天才ゆえの『遊び心』です。すべては、私の描いた完璧な復讐劇の一部に過ぎません」

(よっしゃああああっ!!)
私は内心で渾身のガッツポーズを決めた。
堂島は、見事に四人目の殺人を被ってくれたのだ。これで、私の泥臭いタコ糸工作も、小春のサイコパス撲殺も、すべて「天才連続殺人鬼の猟奇的なスパイス」として歴史の闇に葬り去られる!

「そうですか。やはり、私の推理通りでしたね」
結城はホッと胸を撫で下ろし、再び満足げなドヤ顔を取り戻した。名探偵のプライドが守られたことで、彼もこれ以上深く追及する気はないらしい。

「結城さん、あなたの推理は見事でした。……おかげで、私もようやく終わらせることができます」
堂島はそう言うと、ベストのポケットから小さなガラスの小瓶を取り出した。

「堂島さん……! それは!」
私が声を上げるのと同時だった。
堂島は小瓶の蓋を指で弾き飛ばし、中に入っていた透明な液体を、一気に喉の奥へと流し込んだ。

「シェフ!!」
中田が血相を変えて飛び出したが、遅かった。
堂島は空になった小瓶を床に落とし、胸を押さえてその場に崩れ落ちた。

「ガッ……ァ……」
苦しげな呻き声が漏れ、堂島の口の端から白い泡が吹き出す。猛毒だ。致死量の劇薬が、瞬く間に彼の全身の機能を破壊していくのがわかった。

「しっかりしてください! 堂島シェフ!」
水口と吉川が泣き叫び、中田が堂島の上半身を抱き起す。
「救急車だ! 誰か……いや、電話が繋がらないんだった……!」
高橋がパニックを起こして周囲を見回す。

もはや、誰の目にも助からないことは明らかだった。
堂島は焦点の合わない目で天井を仰ぎ、荒い呼吸を繰り返しながら、最後に残されたわずかな力で口を動かした。

「……二階堂……のこと……ですが……」
堂島のかすれた声に、全員が息を呑んで耳を傾けた。

「……どうせ、あいつは……皆が……殺したいと……思う奴だった……」

それが、孤高の天才料理人であり、冷徹な連続殺人鬼でもあった堂島誠一の、最期の言葉だった。
彼の身体からふっと力が抜け、その腕が冷たい床へと力なく滑り落ちた。

「堂島シェフ……ああああっ……!」
従業員たちの悲痛な泣き声が、ラウンジに虚しく響き渡る。
三人の標的を確実に仕留め、ついでに私の妻が犯した身勝手な撲殺事件の罪までをもその背に負って、堂島は自ら死を選んだ。これで、この笹鳴館で起きた一連の事件は、犯人死亡による完全犯罪として永遠に幕を下ろしたのだ。

私は、圧倒的な安堵感と、背負いきれないほどの罪悪感に苛まれながら、床に倒れ伏す堂島の亡骸を見つめていた。

「……本当に、残念だわ」
不意に、隣から小春の澄んだ声が聞こえた。

私が振り向くと、小春は堂島の死体をまっすぐに見つめながら、心底惜しそうに、そして少しだけ不満げにため息をついた。
「こんなことになってしまって。もうあの極上の『仔羊のロースト』は、二度と食べられないじゃないの。……せめて、レシピだけでも書き残しておいてほしかったわね」

人が四人も死に、目の前で一人の男が服毒自殺を遂げたというのに。
私の妻の思考は、最後まで「美味しい食事が失われたことへの純粋なクレーム」から一ミリもブレることはなかった。

私は、彼女のその完璧すぎる横顔を見つめながら、ただ乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。

### 3


堂島誠一が息を引き取った後、ラウンジは深い虚脱と静寂に包まれた。

これ以上殺される心配はなくなったというのに、誰の顔にも安堵の色はない。水口と吉川は力なく啜り泣き、中田は窓の外の竹林を虚ろな目で見つめている。高橋美咲は堂島の遺体の前で膝を抱え、ただ呆然と宙を見つめていた。復讐すべき相手を失い、さらにその相手を裁く機会すらも永遠に奪われた彼女の心には、途方もない空洞が空いているのだろう。

結城蒼だけは、自らの完璧な推理が証明されたことに満足したのか、ソファで優雅に脚を組み、冷めた紅茶をすすっていた。彼にとって、四人の死も天才シェフの自殺も、極上のミステリーというパズルのピースがすべて正しい位置に収まったという結果に過ぎない。

「……終わったんだな」
私が力なく呟くと、隣の小春がパタンと美術書を閉じた。
「ええ。とても残念な結末だわ。あのまま堂島シェフが生き延びて、明日も素晴らしい朝食を作ってくださればよかったのに。でも、マナーの悪いお客様はいなくなったし、これで少しは静かに過ごせそうね」

殺人事件が解決したことへの安堵ではなく、静かな環境が戻ってきたことへの喜び。それが私の妻の絶対的な価値観だった。

それから数時間が経過した頃だった。
四日間降り続いていた雨がようやく上がり、分厚い灰色の雲の切れ間から、眩しい陽の光が差し込んできた。
笹鳴館の庭を覆う玉砂利と苔が、雨水を弾いてキラキラと光っている。

ダダダダダダダダッ——!

突然、空気を切り裂くような重低音が、山奥の静寂を破って響き渡った。
「……何の音だ?」
私が顔を上げると、中田が弾かれたように立ち上がり、窓際に駆け寄った。

「ヘリです! ヘリコプターのローター音だ!」
中田の叫びに、我々は一斉にラウンジを飛び出し、本館前のエントランスへと向かった。

頭上の空を、赤と白の機体が旋回していた。県警の航空隊か、消防の防災ヘリだろう。
外部との通信が絶たれ、唯一のアクセスルートである吊り橋が崩落して四日。定期業者の訪問はまだ先だったが、地元の自治体か警察が橋の異常に気づき、空からの偵察にやってきたのに違いない。

「おーい! ここだ! 助けてくれーっ!」
私が両手を大きく振って叫ぶと、中田や結城もそれに倣って合図を送った。
上空を旋回していたヘリが、笹鳴館の敷地の奥、少し開けた竹林の上空でホバリングを開始する。やがて、オレンジ色のレスキュー服を着た隊員が、ワイヤーを伝って降下してくるのが見えた。

「大丈夫ですか! 橋が落ちていますが、怪我人は!」
駆け寄ってきた隊員が、大声で尋ねてきた。

「怪我人は……いません」
私が息を切らしながら答えると、隊員はホッとした表情を浮かべた。しかし、それに続いた私の言葉に、隊員の顔色は一瞬で凍りついた。
「怪我人はいません。ですが……死者が五人、います」

「……は?」
隊員は我が耳を疑ったように聞き返した。
「五人です。殺人事件が起きました。犯人は……すでに服毒自殺しました」
私の報告を聞き、隊員は慌てて無線機に怒鳴り始めた。
こうして、四日間にわたる笹鳴館での惨劇は、ようやく外界へと接続されたのだった。


その後、笹鳴館には県警の捜査員が続々とヘリで送り込まれ、我々は本館のラウンジで一人ずつ厳しい事情聴取を受けることになった。

警察の現場検証と並行して行われた聴取で、私は心臓が縮み上がる思いだった。
もし、六号室の現場を調べた鑑識が、「この撲殺死体だけは、別の素人による犯行だ」「スチームクリーナーで隠蔽工作をした痕跡がある」と見抜いたらどうしようか。小春の指紋が、どこかに残っていたら。

しかし、私のその不安は、驚くほどあっさりと杞憂に終わった。

「……なるほど。堂島誠一は、一号室と二号室の裏口、そしてワインセラーの設備を利用して三人を殺害した。そして、四人目の二階堂氏に対しては、料理人としての怒りから、あのような猟奇的な手口を用いた、と」
取調官は、結城蒼の「完璧な推理」をまとめた調書を見ながら、深く頷いた。

結城の理路整然とした証言と、堂島が遺した「どうせ、あいつは皆が殺したいと思う奴だった」という最期の言葉。
そして何より、現場の状況が結城の推理を裏付けていた。警察は、二階堂の殺害現場に残された不格好なタコ糸の密室や、徹底的な滅菌消毒、絵画に刺さった靴べらといった不可解な状況をすべて、異常な精神状態に陥った天才シェフの「猟奇的な遊び心」として処理したのだ。

私が必死の思いで施した泥臭い偽装工作は、結城の深読みと堂島の諦めによって、警察という国家権力すらも欺く「完全犯罪」へと見事に昇華されていた。

「雀部さん。奥様とともに、大変な目に遭われましたね」
取調官は同情的な目で私を見た。
「ええ……本当に。生きて帰れるとは思いませんでした」
私は引きつった笑みを浮かべ、胃の痛みに耐えながら適当な相槌を打った。
まさか、目の前に座っている平凡なサラリーマンが、その「猟奇的な遊び心」の演出家であり、隣で涼しい顔をしている美しい妻が、その撲殺犯だとは、警察の誰も夢にも思っていないだろう。

聴取が終わり、救助用の大型ヘリで山を降りた後、我々は麓の警察署で解散となった。

それぞれが、事件への重い思いを胸に帰路につく。
高橋美咲は、虚ろな目のままタクシーに乗り込んだ。彼女の兄の無念を晴らすべき相手は、すべて堂島の手によって葬られた。彼女がこれから、ジャーナリストとしてどのような道を歩むのかはわからない。
結城蒼は、「いやあ、実に知的好奇心を刺激される有意義な四日間でしたよ」と不謹慎極まりない感想を言い残し、清々しい足取りで駅へと向かっていった。彼にとっては、これほどの極上のエンターテインメントはなかったのだろう。
水口、吉川、中田の従業員三人は、働き口を失った不安と、信頼していたオーナーシェフが殺人鬼だったというトラウマを抱え、重い足取りでそれぞれの家へと帰っていった。

そして、私と小春もまた、手配したレンタカーに乗り込み、帰途についた。

「はあ……」
運転席でハンドルを握りながら、私はこれまでにないほど長くて重い溜息をついた。
四日間の地獄が終わった。警察の捜査も乗り切った。私たちは、あの狂気の山奥から無事に生還したのだ。

助手席では、小春がスマートフォンの画面をスクロールしながら、微かに鼻歌を歌っていた。
彼女の美しい横顔は、出発前と何一つ変わっていない。四人の人間が殺され、自らも一人を撲殺し、連続殺人鬼の自殺を目の当たりにしたというのに、彼女の精神には傷一つついていないのだ。

「真悟さん」
ふいに、小春が画面から顔を上げて私を見た。

「なんだい?」
「次の結婚記念日なんだけどね。今度は、海が見えるオーベルジュなんてどうかしら? 瀬戸内海の方に、新鮮な魚介を薪火で焼いてくれる、とても評価の高いレストラン併設のホテルがあるみたいなの」

彼女は、まるで週末のショッピングの予定でも立てるかのように、あっさりとそう言った。

私は一瞬言葉に詰まったが、やがて力なく笑い出した。
「……ははっ。ああ、そうだね。海がいい。山奥はもうこりごりだ」

「でしょう? 次は、お食事が邪魔されない、静かなお客様ばかりの宿だといいわね」
小春はふわりと微笑み、再びスマートフォンに視線を落とした。

私は車のアクセルを静かに踏み込んだ。
堂島は、自らの才能を理解し支えてくれる妻を失ったことで、殺人鬼へと堕ちた。
では、この共感性が完全に欠落した異常な妻を持つ私は、どうなのだろうか。彼女の「普通」を守るために、私はまたいつか、あのような泥臭い工作を強いられる日が来るのだろうか。

わからない。
だが確かなのは、私はこれからも、この狂気を孕んだ美しい妻の手を離すことはできないということだ。彼女が私を信頼して「あとはよろしく」と委ねてくれる限り、私は彼女の完璧な日常を支え続けるしかないのだから。

海へと続く見通しの良い道路を走りながら、私は助手席の小春に悟られないように、もう一度だけ、ひっそりと深い溜息をついた。

(完)

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