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地球側並行編2

第一章 図面のない船


朝の工場は、いつも鉄のにおいから始まる。

削りかすの光。 油の膜。 昨夜の熱をまだ抱えている旋盤の胴。 窓の外では、町工場ばかりが並ぶ細い道を、配達の小さな車が一台ずつ通ってゆく。

啓介は作業台に肘をつき、広げた紙の上に黙って視線を落としていた。紙は図面ではなかった。図面のように見えて、図面ではないものだった。月から送られてきた信号列を帝人が解析し、真壁が古い規格書へ無理やり引き寄せ、最後に啓介が鉛筆で人間の手の届くかたちへ直した、いわば「まだ物になっていない物」の地図だった。

その脇に、銀白色の薄膜片が一枚、静かに置かれていた。かぐやが来た夜、工場の屋根に刺さっていたものの一部である。光を受けると金属のように見え、指で触れると紙のように柔らかい。だが折ろうとすれば折れず、熱をかければ熱を逃がし、冷やせば冷たさを内部へ呑み込んだ。

澄江が湯気の立つ茶碗を置いた。

「朝からその顔は、よくないよ」

啓介は薄く笑った。

「いい顔で鉄は曲がらん」

「悪い顔でも曲がらないけどね」

澄江は紙を覗き込み、ため息とも感心ともつかない息をついた。

「ほんとに作るのかい、これ」

「作らなきゃ向こうへ行けん」

「名前は」

「まだない」

「名のない物は、呼びにくいよ」

「呼べるようになったら、物になる」

澄江はしばらく黙っていたが、やがて銀白の膜片を見て言った。

「じゃあ、仮でもつけようよ。人が怖がらないような名前」

啓介は鉛筆を置いた。

「怖がらない名前なんぞ、たいてい中身が怖い」

「それでもよ」

澄江は茶碗を押しやった。

「向こうにいるあの子を迎えに行く船だろう。船なら、呼び名が要る」

啓介は窓の外を見た。 工場の屋根の向こうに、昼間の月が淡く浮いていた。

「梯子舟」

澄江が目を上げた。

「はしごぶね」

「空に梯子をかける船だ。たいそうな名じゃないが、うちにはそのくらいでいい」

澄江は少し笑って、頷いた。

「いいじゃないか」

そこへ、工場の引き戸が開いた。冷たい朝の空気といっしょに、帝人が入ってきた。黒いコートの肩に夜露が残っている。目の下には眠らなかった者の薄い影があったが、歩き方には乱れがない。乱れないように育てられた人間の歩き方だった。

「おはようございます」

「おはよう」

と、澄江が言う。

「まず食べるかい」

「いただきます」

帝人は遠慮を口にしない。遠慮するより受けるほうが礼儀になる場を、この工場で学んでいた。澄江から茶碗を受け取り、一口すすってから、机上の紙へ視線を落とした。

「昨夜の同期信号ですが、三回目で規則性がはっきりしました」

「喋るなら喋るように言え」

と、啓介が言った。

帝人は小さく息を吐いた。

「月側の再接続計画は、単なる通信回復ではありません。向こうは、地球側にある低位技術と手作業補正を前提にした接続を求めています。つまり、こちらで完全な月の機械を再現する必要はない」

「助かる話だね」

と、澄江が言う。

「うちには完全なものなんて、一つもないから」

「ええ」

帝人は頷いた。

「必要なのは、三つです。位相のずれを合わせる中枢、月の膜材に近い外皮、そして加速度を人間の身体が耐えられるように逃がす座席機構。これが揃えば、少なくとも人ひとり、もしくは二人分の試験往還は可能になる」

啓介は紙の中央を指で叩いた。

「この丸いのが中枢か」

「はい。月の原簿では《反照圧変換筒》と呼ばれていた部分です。ただ、原理は半分しか読めていない。ですから」

帝人は言葉を切り、少しだけ笑った。

「半分は、竹守製作所のやり方でやるしかない」

澄江が笑う。

「聞いたかい、啓介。大企業のぼんぼんが、ようやく正しいことを言ったよ」

帝人も、ごくわずかに笑った。 そういう笑い方が、最近の彼には増えていた。

「真壁さんは」

と、啓介が言った。

「もう動いてるのか」

「はい」

帝人の声が少し低くなった。

「部材の流れ、監査の目、港湾の記録、衛星の観測窓。その全部を、目立たないようにずらしています。父にも、まだ全貌は見せていないはずです」

「まだ、か」

啓介の言葉のあとに、短い沈黙が来た。

帝人は否定しなかった。

第二章 征堂の机


天城コンソーシアム本部の最上階は、地上にあるくせに、地上の気配が薄かった。窓からは都市全体が見える。高速道路の流れ。幾つもの工場地帯。埠頭のクレーン。ヘリポート。企業ロゴを掲げた高層棟。だがその高さは、人の暮らしを見るためではなく、人の暮らしを数値に変えるための高さだった。

征堂は、長い机の向こうに座っていた。 背筋は伸びている。 眼差しは冷たい。 それでも帝人は、その冷たさが単純な拒絶ではないことを、子どもの頃より今のほうがよく知っていた。

机の脇には、真壁がいた。 いる、と意識させないように立つ男である。影に徹することの技術が、そのまま忠誠になっているような人間だった。年齢を読ませない穏やかな顔つきで、手元の端末を閉じ、帝人に軽く会釈した。

「座れ」

征堂が言う。

帝人は座らない。

「今日は立ったままで結構です」

「そうか。なら、立ったまま聞け」

征堂は机上の一枚の紙を押し出した。軍事安全保障会議の資料だった。表紙の半分が黒塗りになっている。

「政府は軌道上異常を月起源と断定した。世論は二つに割れている。忘れていた敵を恐れる者と、失われた財を欲しがる者だ。どちらも浅い。浅いが、数は力になる」

「それで」

「我が社は、その浅さの上に秩序を作る」

征堂の声は変わらない。 感情を薄く均した水のような声だ。

「帝人。お前は個人の情動を大義と誤認している。あの娘一人のために、企業の将来も安全保障も捨てるつもりか」

帝人は静かに答えた。

「違います。あの人一人を、最初に捨てたから今の世界があるんです」

真壁の睫毛が、わずかに動いた。 征堂は動かない。

「言葉が大きくなったな」

「事実です。地球は月を忘れ、月は地球を断ち切った。その境目にいた者を、人ではなく手段として扱い続けた結果が、今です」

征堂は椅子にもたれなかった。疲れを見せない男は、ときに自分の疲れを他人へ配分する。

「理想を語る者は、たいてい物流を知らん」

「知っています」

「知らん」

征堂は切って捨てた。

「月へ向かうには、法の外にある資材、法の内にある許認可、法そのものを動かす根回し、その全てが要る。お前は一つでも、血を流さずに通せるのか」

帝人は一瞬だけ、答えを選んだ。

「血を流さないために、今やるんです」

「幼い」

「そうでしょうね」

帝人は父をまっすぐ見た。

「でも、父上も本当は分かっている」

室内の空気が、少しだけ硬くなった。

征堂の指先が、机上のペンを一度だけ転がした。

「何をだ」

「母なら、そうしたからです」

真壁が目を伏せた。 征堂の瞳の奥に、はじめて微かな揺れが走った。怒りではない。もっと古く、もっと深く、長く手を触れないまま密閉されていた記憶が、不意に圧を受けたときの揺れだった。

しばらくして、征堂は言った。

「……お前は、あの人に似ているところがある」

帝人は何も言わない。

「厄介なところがだ」

「褒め言葉として受け取ります」

「勝手にしろ」

征堂は資料の下から、薄い記録媒体を一枚取り出した。

「これは旧月面輸送規格の残骸だ。完全ではない。うちの保管庫にあった。公には存在しない」

帝人は目を見開かなかった。 驚きを見せないことが、父と向き合うときの礼儀だと知っている。

「使え、と」

「貸すだけだ」

征堂の声はふたたび冷たい。

「成功すれば回収する。失敗すれば、お前はすべての責任を負え」

「父上は」

帝人はそこで言葉を止めた。 征堂の顔に、亡き妻の面影を探すような息をしたからだ。

「何だ」

「いえ」

帝人は頭を下げた。

「借ります」

真壁が、そのとき初めて口を開いた。

「坊っちゃん」

帝人が顔を上げる。

「資材の搬出は今夜が最適です。港湾監査も、軌道監視も、三時間ほど鈍ります」

征堂が目だけで真壁を見る。

「お前は、いつからこいつの執事になった」

真壁は穏やかに答えた。

「若様のお祖父様に拾われた日から、ずっと天城の執事でございます」

その返答は、誰にも逆らっていないようでいて、誰にも譲っていなかった。

第三章 真壁の手


真壁が動くとき、たいてい物音はしない。

港では、帳簿の数字が一つずつ場所を変えた。 防衛関連名目で留め置かれていた耐圧ケーブルが、災害備蓄物資として再登録される。 医療用慣性緩衝材が、研究機関向けの試験素材に変わる。 ある監査官の甥の進学記録が、なぜか今日に限って丁寧に救われる。 ある記者には、本当に必要な不正ではなく、もう燃え尽きた不正の残り火だけが渡される。 そうして大きな目は、ほんの少し別の方角を見る。

真壁は人を壊さないやり方を知っていた。 壊したほうが早い場面でも、壊さずに済む手順を先に積む。 その積み重ねを、善意と呼ぶには冷静すぎたし、陰謀と呼ぶには清潔すぎた。

夜、真壁は工場へ来た。 高価な車ではなく、ありふれた配送車で来た。車体には架空の設備会社の名が刷られている。荷台を開けると、中には灰色の箱が八つ、整然と積まれていた。

澄江が腕を組んで見ていた。

「ほんとに秘書かい、あんた」

真壁は少し笑った。

「長く勤めますと、肩書きはだんだん道具入れの仕切りみたいなものになります」

啓介が箱の一つを開ける。 内部には、見たことのない形の継手と、見たことのある規格に無理やり寄せた端子が並んでいた。向こうの技術とこちらの手を繋ぐために、だれかが途中で諦めずに加工した痕跡がある。

「誰がやった」

「昔の者です」

真壁は答えた。

「月を忘れ切る前に、忘れまいとした者たちがおりました」

「残ってたのか」

「ええ。残し方の上手い人々が」

啓介は箱の底にあった小さな刻印を指でなぞった。 見覚えのない印だったが、妙に人間の字に近い。

「これは」

真壁は少し間を置いた。

「奥様の、です」

帝人が顔を上げた。

「母の」

「はい。奥様は生前、月面史料の復元に私費を投じておられました。表向きは文化事業でしたが、実際にはもっと実務的でした。忘却の時代が来ることを、あの方は早くから恐れておいででした」

帝人の喉が、一度だけ鳴った。

「父は知っていたのか」

「知っておいででした」

「なのに止めなかった」

「止められなかったのでしょう」

真壁の声は、責めるでも庇うでもない。

「愛していた方の仕事を、理解し切れぬままでも壊せないことが、人にはあります」

工場の天井灯が、わずかに明滅した。 遠くで列車の音がした。

澄江が静かに言う。

「じゃあ、あの人も来てるんだね」

帝人が澄江を見る。

「え」

「この船にさ」

澄江は、箱の中の継手へ目を落とした。

「かぐやだけじゃない。忘れられた人も、諦めなかった人も、みんな少しずつ乗ってる」

真壁はその言葉に、ほんのわずかだけ目を細めた。 それは感情を見せるというより、感情があることを隠し切れなかった動きだった。

第四章 梯子舟


試作機構は、工場の中で少しずつ姿を得ていった。

最初に組まれたのは中心筒だった。啓介が「腹」と呼んだ部分である。古い圧延機のフレームを削り直し、月の薄膜材を内側に張り、幾重にも補助環を通した。見た目は無骨だった。宇宙へ行く装置というより、地上の荷を真面目に支えるための機械に見えた。

だが澄江は、その無骨さを気に入った。

「空へ行く物が、空ばっかり見てると失敗するよ」

そう言って、慣性緩衝座の縫製まで引き受けた。高機能素材だけでは身体は守れない。人間の骨がどこで痛み、どこでずれるかは、布と手の感覚のほうが知っているというのが、彼女の持論だった。

帝人は中枢制御の前に座り、何十回も同期波形を流しては止めた。彼は数字に強いが、数字だけでは届かないところへ今は踏み込まされていた。月側の信号は、単なる指令ではない。祈りに似ている。しかも祈りが、そのまま機械の手順になっている。

「だから厄介なんだ」

夜更け、帝人は独り言のように言った。

啓介がボルトを締めながら返す。

「何がだ」

「向こうは理屈を儀式に埋めた。だから、間違っていても長く保つ。でも、正しさを更新しにくい」

「こっちは逆だな」

「はい」

帝人は笑わない。

「理屈を失っても手を動かすから、更新は早いが蓄積が薄い」

澄江が配線束を持って近づいてくる。

「なら、ちょうどいいんじゃないかい」

帝人が振り向く。

「ちょうどいい、ですか」

「向こうは覚え方が強すぎて、こっちは忘れ方が強すぎる。まんなかで会えばいい」

その言い方は簡単だったが、工場には、その簡単を実際の形へ変える人間しかいなかった。

帝人は新しい名称を端末に入力した。 梯子舟一号試作往還機。 その文字列は無機質だったが、画面の中に初めて、行くための意志が定着したように見えた。

試験は夜明け前に行われた。 工場のシャッターを半分だけ開け、内部を簡易真空状態へ近づける。 反照圧変換筒に電力を流す。 中心筒の内部で、月の薄膜が呼吸するように震える。 銀白色の表面に、かすかな光の筋が走った。

帝人が声を上げる。

「第一段、起動」

啓介がレバーを押す。

「第二段、通電」

澄江が圧力計を読む。

「三番系統、まだ固い。啓介」

「分かってる」

工具の先が、金属を小さく鳴らす。 その音に応じるように、膜材の震え方が変わる。

帝人が息を呑んだ。

「……同期率、上がった」

「数字は」

「四十二」

「半端だねえ」

と、澄江が言う。

「悪い数字じゃない」

啓介は中心筒へ耳を寄せていた。

「音がある。まだ死んでない」

帝人は父ならこの言い方を嗤うだろうと思った。だが同時に、父が月の技術資料を貸した理由は、結局この種の感覚をまったく信じていないからではない、とも思った。

数字の向こうにあるもの。 合理のふちでしか拾えない確かさ。 それを、征堂もまた、かつては誰かから学んだのだろう。

第五章 父と子の角度


翌日、征堂は工場へ来た。

護衛も報道も連れず、黒い車が一台、昼の町工場街には不似合いなほど静かに停まった。征堂が降りてくると、近所の自販機の前にいた学生まで、なぜか声を潜めた。権力とは、説明される前に空気を押し曲げる。

啓介は手を止めずに言った。

「ずいぶん綺麗な靴だな」

征堂は工場の床を見下ろした。

「汚れる場所へ来るときは、汚れてもいい靴で来る」

「なら、少し見直す」

帝人が近づく。

「父上」

「進捗を見に来ただけだ」

征堂の視線は梯子舟へ向かった。 無骨な筒体。 継ぎ足しの補助環。 手縫いの緩衝座。 企業研究所の白い清潔さとは無縁の、雑多で執念深い構造物。

「美しくないな」

と、征堂は言った。

啓介が笑った。

「飛ぶ機械に見えるだろ」

征堂は否定しなかった。

帝人が言う。

「軍の監視網が縮まっています。発進までに残された時間は長くない」

「知っている」

「なら、もう少し情報を」

征堂はそこで帝人を見た。

「条件がある」

「何です」

「行くな」

工場の空気が止まった。

澄江が眉を上げる。

「それはまた、ずいぶん急だね」

征堂は澄江に対しても礼を欠かさず、しかし一歩も引かない声で答えた。

「帝人は天城の後継だ。死地へ出すわけにはいかん」

帝人の表情が冷える。

「今さら後継ですか」

「今だからだ」

「父上は結局、僕を会社の器としてしか見ていない」

その言葉に、征堂の視線がわずかに硬くなった。

「器は中身が空では務まらん」

「なら、なおさら行くべきです。向こうとこちらを繋ぐ最初の局面に、当事者がいないまま何を継ぐんです」

征堂が低く言う。

「死んだ者は継げん」

沈黙が落ちた。

帝人が何かを言い返そうとした、その前に、征堂が続けた。

「私は一度、見送っている」

帝人の瞳が揺れた。

征堂は梯子舟を見たまま、ほとんど独り言のように言う。

「お前の母は、戻らぬ種類の場所へ向かう人だった。私は止められなかった。止めれば壊れると思った。だから見送った。正しかったかは、今でも分からん」

澄江が静かに息をつく。 啓介は手の中のレンチを置いた。

征堂は帝人を見た。

「お前も似ている。止めれば壊れる」

帝人は、言葉を失ったように立っていた。

「だから条件を変える」

と、征堂が言う。

「行くなら、生きて戻れ。英雄になるな。証人として戻れ。月を征服するな。接続して帰ってこい」

帝人の喉が動く。

「……命令ですか」

「願いだ」

それは征堂という男の口から出るには、あまりに柔らかい言葉だった。 だが柔らかいゆえに、帝人は返す言葉を持てなかった。

しばらくして、彼は頭を下げた。

「承知しました」

征堂はそれ以上、情を見せなかった。 ただ帰り際、真壁にだけ聞こえる程度の声で言った。

「座席固定を二重にしろ。あれは必ず無茶をする」

真壁は静かに頷いた。

「すでに」

征堂は一瞬だけ口元を緩めた。 それは笑みに見えたが、本人は認めない種類のものだった。

第六章 暗い水路


月への道は、空の上だけにあるわけではない。 地上の下にもある。

真壁はそのことを、帝人よりよく知っていた。 古い物流網。 廃線になった搬送路。 軍需転用のために建てられ、記録の上では解体された地下倉庫。 国家と企業が互いの不祥事を見なかったことにする代償として残した、誰のものでもない水路のような経路。

梯子舟の主要部材は、そういう道を通って運ばれた。

ある夜、真壁は一人で旧軌道研究施設へ入った。名目上は閉鎖済み、実態としては半死半生のまま維持されている場所だった。長い廊下の両側に、忘れられた機械が眠っている。誰も使い方を知らないが、誰も完全には壊せない機械だ。

真壁は最奥の保管庫で足を止めた。 そこには古い発進補助レールの制御基盤が残っていた。梯子舟を月へ押し出す最後の一手として、どうしても必要なものだった。

背後で声がした。

「禁制区域ですよ」

真壁は振り向かない。

「ええ」

「通報するべきでしょうか」

「お任せします」

相手は防衛省の監査官だった。若いが、若いゆえに正義をまだまっすぐ信じている顔をしていた。

真壁は静かに言った。

「ただ、その前に一つだけ。あなたのお父上が勤務されていた第七避難港の事故記録を、ご覧になりますか」

監査官の気配が止まる。

「なぜ、それを」

「あなたが正しい判断をするために必要かと思いまして」

真壁は端末を差し出した。 そこには、月戦争末期に行われた切り離し作戦の一部記録が映っていた。避難の名で行われた封鎖。助けを求める民間船。救援しなかった命令系統。監査官の父は、それを止めようとして左遷され、そのまま記録から消えていた。

真壁はあくまで平らな声で言う。

「この世界は、忘却の上に立っております。ですが、忘れたまま未来を作ると、また同じ形の穴へ落ちます」

監査官は端末を見たまま言った。

「あなたは脅しているのか」

「いいえ」

真壁は答える。

「お誘いしております」

長い沈黙のあと、監査官は道を開けた。

「……基盤の持ち出し記録は、明朝の火災点検で焼失します」

「助かります」

「私は、何も見ていない」

「それが最善です」

真壁は制御基盤を抱えた。 重かった。だが重さのわりに、足取りは不思議なほど軽かった。

彼は知っていた。 誰かの背を押すとは、前へ出ることではない。 退くべき場所で正しく退き、押すべき瞬間だけ指先に力を込めることだと。

第七章 月から来る時刻


その夜、工場の受信機が鳴いた。

高い音ではない。 低い、柔らかな揺れだった。 金属の腹の底で、遠くの海鳴りが反射したような音。

帝人が端末へ飛びつく。 啓介は電源部を押さえ、澄江は窓を閉める。工場の中にだけ、世界の外の声を残すためだ。

波形が立ち上がる。 不規則に見えて、そこには確かな拍があった。 かぐやが以前、台所で包丁を研ぐ音に耳を澄ませながら言ったことを、啓介は思い出した。

向こうの機械は、祈るように動くのだと。 だから、正しい波は歌に似るのだと。

帝人が震える声で言う。

「……来た」

「何て言ってる」

「同期窓です。月側が第一相を起動する時刻を通知してる。こちらの発進補助と、向こうの受容井戸を同時に開く気です」

澄江が聞く。

「いつ」

「四十七時間後」

「早いね」

「向こうは、待てない状況なんだと思います」

帝人は次の波形を読む。 顔色が変わった。

「いや……違う。これ、時刻だけじゃない」

「何だ」

「識別句がある。人名だ」

工場が静まり返る。

帝人はゆっくり読み上げた。

「……阿弥」

その名は、これまで物語の中でしか聞かなかったはずなのに、妙に現実の重みを持って響いた。

続いて、もう一つの符号が出る。

「それから……継唱院主系統、逸脱。禁書層中枢、解放進行」

啓介が短く息を吐いた。

「向こうで始まってるな」

「はい」

帝人は画面を凝視した。

「かぐやさんは、もう後戻りできない場所まで行ってる」

澄江は受信機に手を触れた。 誰かの額に触れるような手つきだった。

「待ってなさいよ」

小さな声だったが、工場じゅうに広がった。

「こっちも行くから」

第八章 共闘の前の再対立


発進の前日、天城本部で緊急理事会が開かれた。

月側の異常波が複数都市で観測され、政府も軍も動きを早めていた。天城コンソーシアム内部では、月面技術の独占回収を唱える強硬派と、地球側の防衛優先を主張する保守派がぶつかり合い、会議室の空気は煙のない火事のようだった。

帝人は壇上に立ち、梯子舟計画の要点を説明した。 独占ではなく接続であること。 月側の秩序が崩壊寸前であり、武力介入は双方の断絶を固定化すること。 先行する少人数往還が、全面衝突を避ける唯一の現実策であること。

最後に、重役の一人が冷ややかに言った。

「甘いな。接続した先に、敵がいるかもしれん」

帝人は答える。

「敵を敵のまま固定したがる発想が、もっとも高くつきます」

「感傷だ」

「費用対効果の話をしている」

そこへ、征堂が口を開いた。

「帝人案を暫定承認する」

会議室がざわめいた。

帝人が父を見る。 征堂は彼を見ない。

「ただし、天城単独事業とはしない。政府監察、複数企業監視、技術公開の限定条項を付す。独占疑惑を消し、失敗時の政治的火勢を抑える」

反対派の役員が顔をしかめる。

「会長、それでは旨味が」

征堂の視線がそちらへ向く。 その一瞬で、男は口を閉ざした。

「旨味の話をしているのではない。延命の話をしている」

征堂は机を軽く叩いた。

「月を掴みに行って地球の政治が壊れれば、誰が回収する。技術は奪って終わりではない。使う社会が残っていなければ、ただの骨董だ」

帝人は、胸の奥で何かが静かにずれるのを感じた。 対立は消えていない。 父と子の考え方は、依然として遠い。 だが遠いまま、同じ方向を向くことがある。そのことを、今の一言が証明していた。

会議の後、廊下で帝人は征堂に追いついた。

「なぜ、あそこまで」

征堂は歩みを止めない。

「お前が失敗したときに焼ける範囲を、少しでも狭くするためだ」

「やはり失敗前提なんですね」

「成功だけを前提にする人間は、経営に向かん」

「ひどい言い方だ」

「生きて帰れば訂正してやる」

征堂はそこで立ち止まり、帝人のほうを見た。

「帝人」

「はい」

「向こうで、もし選べと言われたら」

帝人は待つ。

「技術より人を取れ」

短い言葉だった。 だがそれは、征堂という男が長い人生をかけてようやく言葉にした順序のように聞こえた。

第九章 発進準備


旧軌道研究施設の地下発進路は、まるで墓の中のように静かだった。

長い直線。 両側の壁に埋まる古いケーブル。 ところどころ剥がれた識別塗装。 忘れられた国家事業の残骸は、巨大であるほど哀しい。

梯子舟は、その中央に据えられた。 小さい。 滑稽なほど小さい。 こんな物が月へ届くのかと笑う者がいれば、啓介は笑わせておけばいいと思っただろう。届くか届かないかは、笑う者ではなく、締めた者と待つ者が決める。

澄江は座席ベルトを一本ずつ確認した。 啓介は推進補助レールの接続を見た。 帝人は最終同期を取る。

真壁は少し離れた場所に立ち、全体を見ていた。 現場に立ちながら、現場の誰より前へ出ない。 その在り方だけで、この男が今日までどれほど多くの修羅場を無音で渡ってきたかが分かる。

澄江が振り返る。

「真壁さん」

「はい」

「あんたは来ないのかい」

真壁は微笑した。

「私は地上で、戻る場所を整える役目がございます」

「それも大事だね」

「ありがとうございます」

帝人が発進口の縁に手を置く。 啓介が横に立つ。

「俺が行く」

と、啓介が言った。

「一号機は俺だ」

帝人は首を振る。

「制御の最終判断がいる。僕も乗る」

「お前は数字の人間だろ」

「数字の人間が、数字だけで済まないところまで来てしまったんです」

澄江が間に入る。

「なら二人とも行く」

啓介と帝人が同時に彼女を見る。

「何だその顔は」

澄江は腕を組んだ。

「向こうへ着いてから、片方が倒れても片方が動ける。単純な話だよ。あたしは地上に残る。戻る場所を残すのは、ここでも母親の仕事だ」

啓介が言う。

「澄江」

「異論は」

「……ない」

帝人も静かに頭を下げた。

「お願いします」

澄江は、二人の肩を順に叩いた。

「かぐやを迎えに行くんだ。理屈はそのあとでいい」

第十章 同期


発進一時間前、月側からの信号が急変した。

帝人の端末に、複数の波形が重なる。 継唱院主系統の圧変動。 禁書層中枢の解放進度。 受容井戸の開口率。 そして、断続的に現れる一つの識別パターン。

「かぐやさんだ」

帝人の声が低くなる。

「個体認証……いや、違う。これは認証じゃない。発信者署名だ」

啓介が座席へ身を沈めながら言う。

「要するに」

「名前で送ってきてる」

澄江が目を閉じた。 泣かない。 泣いていい場面ほど、彼女は泣かない。

「なら、大丈夫だ」

帝人が信号列を追う。

「月側第一相、開始」

同時に、地下発進路の空気が微かに震えた。 古い発進補助レールが、何十年ぶりかに目を覚ます。真壁が搬入した制御基盤が緑に灯る。梯子舟の腹の内側で、月の膜材が歌うように震えた。

「第二相まで七十秒」

帝人が言う。

「向こうで何か起きてる。阿弥という人物が主系統に介入してる。かぐやさんと衝突して、それでも同じ系に手を入れている」

啓介はベルトを締め直した。

「喧嘩しながら一緒に直してるのか」

「そう見えます」

澄江が、小さく笑った。

「人間らしいじゃないか」

警報が一つ鳴る。 すぐに消える。 旧施設の古い機械が、不慣れな仕事に震えている。

真壁が発進路脇の通信卓へ顔を寄せた。

「地上監視網、北東セクタに接近車両三。軍ではありません。報道です。こちらで遅らせます」

征堂の声が、通信回線へ入った。 低く、短い。

「十七分稼ぐ。使え」

帝人が目を見開く。

「父上」

「喋るな。集中しろ」

征堂の回線はそこで切れた。

澄江が、梯子舟の外殻に手を当てる。

「行っといで」

その一言が、祝詞より強く、命令より柔らかく、二人を押した。

帝人がカウントを始める。

「三十秒前」

月側波形が跳ねる。 禁書層中枢、開放率七十八。 受容井戸、固定。 継唱院主系統、逆接続許可。 発信者署名、かぐや。 副署名、阿弥。

帝人が息を呑む。

「……阿弥も認証した」

啓介が前を見る。

「向こうも決めたんだな」

「はい」

「じゃあ、こっちもだ」

「十秒前」

地下発進路の灯が順に点る。 長い直線が、一本の意志になる。

「九」

月の裏側。 禁書層の黒い柱。 白い衣の使いたち。 阿弥とかぐやの声が、見えないのにそこにある気がした。

「八」

地上では、征堂が会議室の窓から夜の都市を見ていた。 報告端末には次々と警告が入る。 彼はどれにも目をくれず、ただ一度だけ、亡き妻の名を口の中で呼んだ。

「七」

真壁は通信卓に立ち、虚偽でも偽装でもない、しかし真実の全体でもない報告を各所へ流す。 世界を騙すのではない。 世界が自分で自分を妨げる速度を、少しだけ遅らせる。

「六」

澄江は発進路の脇で、祈らなかった。 祈りは向こうに任せる。 こちらは、帰ってきた者に飯を食わせる準備をしておけばいい。

「五」

かぐやの署名波形が強くなる。 それは数字でありながら、帝人には声に聞こえた。

「四」

梯子舟の膜材が白く光る。 中心筒の奥に、暗い水面のような円が生まれる。

「三」

啓介が言う。

「帝人」

「はい」

「迎えに行くぞ」

「はい」

「二」

月側第二相、完全同期。

「一」

発進。

轟音は、意外なほど短かった。 押し出された、という感覚が最初に来た。 次いで、身体の輪郭が少し遅れて追いつく。 梯子舟は旧式レールの上を滑り、反照圧変換筒の内側で世界の圧を反転させながら、地上の重さから剥がれてゆく。

澄江の視界から、船体が消える。 だが音は一瞬遅れて残り、それから地下発進路の奥へ呑まれていった。

受信機が最後に一度だけ鳴った。

短い。 けれど確かな音。

帝人の残した地上回線に、月側から新しい識別が灯る。

発信者署名、かぐや。 受信側接続、梯子舟一号。 地球側相互路、開通。

澄江はゆっくりと顔を上げた。 地上には月が見えない。 厚いコンクリートの上に夜があるだけだ。

それでも彼女には分かった。 今、あの子のいる場所と、この工場と、この古びた世界のどこかが、一本の細い道で繋がったのだと。

真壁が静かに言う。

「始まりました」

澄江は頷く。

「ええ」

そして、母親の声で答えた。

「ここからだよ」

つづき >月側並行編1

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