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泥の舟

第一章:新緑の血溜まり


1982年(昭和57年)5月。

富士の裾野を覆う新緑は、息をのむほどに青かった。

だが、その瑞々しい美しさは、これから始まる未曾有の好景気――誰もが金という名の幻影に踊らされ、土地を転がし、株に狂う前夜の、歪んだ熱気と地続きだった。

東京では地価の高騰が始まり、その狂騒の波は、確実にこの静かな地方へと押し寄せつつあった。

河口湖の北岸。

いまだ観光地化の本格的な波に飲まれきっていない、ひっそりとした一角に、喫茶店「ふじみ亭」はある。

店主の柴田宗平(60)は、妻の志乃(63)とともに、30年間この店を守ってきた。

使い込まれた真鍮のサイフォンからポコポコと立ち上る珈琲の香りと、志乃が毎朝丁寧に焼き上げる素朴なパウンドケーキ。

それだけが「ふじみ亭」のすべてであり、実直に生きてきた老夫婦の世界のすべてだった。

しかし、そのささやかな世界は、ある激しい雨の夜に唐突に、あまりにも無残に引き裂かれた。

「おい、報告は済んだのか! 鑑識、まだか!」

ブルーシートが敷き詰められた「ふじみ亭」の奥の居住スペースに、男の野太い怒鳴り声が響いた。

山梨県警捜査一課の警部補、大河内(45)である。

よれよれのトレンチコートを羽織り、顎には濃い無精髭を生やしたその姿は、一見するとうだつの上がらない中年男だ。

だが、その鋭い眼光だけは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた凄みを隠しきれていない。

指先には、常に嗜むハイライトのヤニの匂いが染み付いていた。

「大河内さん、奥の勝手口から侵入した形跡があります。足跡は雨で泥のようになっていて、判別が難しいですが……。金庫は手つかずです。棚の売上金も残っています」

そう言って、几帳面な文字で埋まったメモ帳を差し出したのは、今年配属されたばかりの若手刑事、新谷(24)だった。

都内有名大学の法学部を卒業し、キャリア組としての将来を嘱望されながらも、本人の強い希望で現場に配属された男だ。

仕立ての良いスラックスを穿き、スマートな身なりと、冷徹なまでの観察眼を持っている。

「物取りじゃねえ、か」

大河内は床に転がる志乃の遺体を見下ろした。

その損壊具合は、凄惨という言葉すら生ぬるかった。

頭部は執拗に重い鈍器で殴打され、原型を留めていない。

それだけではなく、衣服は引き裂かれ、全身に無数の刺し傷があった。

さらに奇妙なのは、何かを無理やり引きはがされたような表皮の剥離が背中を中心に広がっていることだった。

まるで、人間を人間として扱っていないような、徹底した「処理」の痕跡。

「怨恨……にしては、この近所でも評判の好々爺と老婆です。こんな敵がいるとは思えません」

新谷が端正な眉をひそめ、吐き気を堪えるように口元を押さえた。

「新谷、世の中にはな、怨みや怒りじゃなく、単なる『効率』と『保身』で人をここまでなぶり殺しにできる奴らがいるんだよ。感情じゃねえ、ただの計算で動く連中だ」

大河内はポケットからハイライトを取り出そうとして、ここが被害者の血に染まった現場であることに気づき、忌々しげに手を引っ込めた。

数日前のことだ。

志乃は、店の裏手にある勝手口の近くで、泥だらけになって倒れていた若い男を助けた。

泥を拭い、温かいスープを飲ませてやった。

その男は「タヌキ」と呼ばれる、近年急激に地方へ勢力を拡大している新興の犯罪組織の下っ端だった。

彼らには、昔ながらのヤクザのような任侠や義理人情は一切ない。

あるのは、徹底した利益至上主義。

資本主義の利潤追求システムをそのまま裏社会に適用したような、冷酷な支配関係だ。

彼らは地上げ、闇金融、そして密輸など、金になることならどんな汚いことでもやった。

河口湖周辺の土地をリゾート開発地として高く転売するため、小規模な地主を執拗に脅していた。

志乃は男の怪我を介抱し、怯える彼を警察に通報することもせず、「もうこんな危険な仕事はおやめなさい。お天道様に顔向けできる生き方をしなさい」と優しく諭して帰したという。

だが、組織にとって、その老婆の「慈悲」はただの『情報の漏洩リスク』でしかなかった。

下っ端が組織の動向を漏らしたのではないか。

その懸念が生じただけで十分だった。

組織の主要メンバー――通称「七福神」と呼ばれる経営陣は、リスクを即座に、かつ最も確実な方法で排除することを決定した。

関わった可能性のある者を、周辺ごと完全に「消却」する。

それが、この凄惨な結末だった。

河口湖赤十字病院の待合室。

蛍光灯の白い光が、殺風景な廊下を照らしている。

柴田宗平は、緑色のビニール張りのパイプ椅子に腰掛けたまま、微動だにしなかった。

白髪混じりの頭を深く垂れ、長年の厨房仕事で皺だらけになった手を、膝の上で固く握りしめている。

その手の甲には、妻の遺体を確認した際に付着した、消えない血の記憶がこびりついているようだった。

「柴田さん」

大河内が静かに声をかけた。

トレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま、老人の前にしゃがみ込む。

「奥様のことは……本当に、なんと申し上げればいいか。我々も全力を尽くして犯人を捕まえます。山梨県警の威信に懸けて、必ず」

宗平はゆっくりと顔を上げた。

その目は完全に光を失い、深い奈落の底のような暗闇が広がっていた。

「……警察の旦那。あの人たちは、捕まったらどうなりますか」

「裁判にかけられ、相応の刑罰が下ります。法律に基づいて、厳正に処罰されます」

新谷が、一歩前に出て教科書通りの答えを返す。

その声にはまだ、若さゆえの正義感が混じっていた。

「死刑になりますか。志乃をあんな目にした奴らは、全員死刑になりますか」

「それは……」

新谷が言葉を詰まらせる。

日本の法制度において、前科のない人間が一人の殺害で即座に死刑が適用されるケースは極めて稀だ。

どれほど残虐な手口であっても、法廷の判例という壁が立ち塞がる。

「あの人たちは……」

宗平の声は、震えてはいなかった。

ただ、底知れない暗い地底から響くような冷たさがあった。

「あの人たちは、志乃を人間だと思って殺しちゃいねえ。ただの邪魔な虫ケラみたいに潰したんだ。だったら、法律なんて生ぬるいもので裁けるわけがない」

「柴田さん、気持ちは分かりますが、私刑は許されません」

新谷が宥めるように言ったが、宗平はそれを無視した。

「警察じゃ、あの連中を同じ目に遭わせることはできない。違いますか」

大河内は何も答えず、ただ静かに宗平を見つめていた。

その沈黙と、無念そうに歪んだ表情が、警察組織という巨大なシステムの限界を明確に肯定していた。

その夜。

宗平は「ふじみ亭」の、電気もつけない暗いカウンターに一人で座っていた。

窓から差し込む月光だけが、並べられた珈琲カップを微かに照らしている。

店内の空気には、まだ志乃の遺品から漂う線香の香りと、消え去らない血の匂いが混ざり合っていた。

チリン、とドアの鈴が寂しく鳴った。

そこへ、一人の男が訪ねてきた。

河口湖畔にあるホテル「ふじみレイクサイド」のオーナー、高橋(58)だった。

仕立ての良いジャケットを着ているが、その顔は親友の悲劇に酷くやつれていた。

宗平とは小学校からの竹馬の友である。

「宗平……」

高橋はゆっくりとカウンターに近づき、宗平の細い肩に手を置いた。

「高橋か……。わざわざすまんな」

「かける言葉も見つからん。志乃さんが、なぜあんな目に……。警察は何と言っている」

「犯人の目星はついているらしい。だが、捕まっても死刑にはならんそうだ。数年か十数年、塀の中で大人しくしていれば、またシャバに出てこられる」

宗平は乾いた声で笑った。

「高橋。俺は、あいつらを許さない。この手で肉を引き裂いてやりたい。だが、俺はただの老人だ。腕力もない、あいつらのアジトの場所すらわからない。どうすればいい……」

高橋はしばらく押し黙っていた。

外では、夜の河口湖の不気味な波の音が、ザザン、ザザンと静かに響いている。

やがて、高橋は深くため息をつき、周囲を警戒するように見回してから、懐から一枚の小さなメモ用紙を取り出した。

そこには、数字だけの電話番号が掠れた文字で書かれていた。

「宗平、これから話すことは、誰にも、警察にも絶対に言うな。お前と私だけの秘密だ」

「なんだ、それは」

「うちに、半年前からルームメイキングのパートとして雇っている女がいる。名前は『浅見』ということになっているが、本名じゃない。あれは偽名だ」

高橋の声は、さらに低く潜められた。

「彼女はな……昔、日本中を震撼させた、あの大騒動の渦中にいた人間だ。連合赤軍、あるいは赤軍派。その幹部だった女だ」

宗平の目が、わずかに見開かれた。

昭和40年代後半、日本中を恐怖に陥れた極左暴力集団。

浅間山荘事件や山岳ベース事件など、凄惨な内部粛清と武装闘争を繰り広げた、あの生き残りということか。

「彼女は、完全に足を洗っている。今は思想も何も持たない、ただの地味な女だ。だが……その、何と言うか、俺たちが知らない裏社会に通じていて、そこで必要とされる技術は、本物らしい。当時、公安の包囲網を何度も潜り抜けたことから、組織内では『ウサギ』と呼ばれていたらしい」

「ウサギ……」

「彼女は私の古い恩人の縁者でね、その関係からうちで匿っている。普段は本当に真面目で、物静かな女性だ。だが、もしお前が本気で、地獄へ落ちる覚悟があるなら……彼女を紹介する。お前の代わりに、その『技術』を使ってくれるかもしれない。まあ、つまり、復讐のための技術を」

宗平はメモ用紙をひったくるように受け取った。

「地獄なら、もうとっくに足を踏み入れているさ。志乃が殺されたあの夜から、俺のいる場所は地獄だけだ」

宗平は低く呟き、メモを握りしめた。

翌日の午後。

宗平は、指定されたホテルの裏手にある、従業員用の屋外休憩所にいた。

錆びついたベンチと、吸い殻入れの一斗缶が置かれたコンクリートの床を、初夏の強い陽気が無慈悲に照らしている。

背後のドアが開き、軽い足音が聞こえた。

一人の女性が現れた。

年齢は35歳前後。

黒い髪を後ろで無造作に一つに結び、化粧っ気のない顔には、深い疲労とも、世界に対する徹底した無関心とも取れる平坦な表情が張り付いている。

ホテルの地味な緑色の制服を着た彼女は、どこにでもいる「少し疲れた労働者」にしか見えなかった。

だが、その歩行には一切の無駄がなく、足音がほとんど響かない。

「柴田さんですね」

彼女の声は、低く、鈴の鳴るような澄んだ響きを持っていたが、感情の起伏が全くなかった。

「あんたが……浅見さんか」

「名前はどうでもいいです。高橋さんから話は聞きました。奥様のこと、お気の毒に」

彼女は事務的に言い、宗平の正面に立った。

その佇まいには、風が吹いても揺らがないような不思議な安定感があった。

「俺は、志乃を殺した連中に復讐したい。金を払う。店を売ってもいい。いくらでも用意する。あいつらに、同じ苦しみを味わわせてやってくれ」

宗平はベンチから立ち上がり、深く頭を下げた。

年下の、それも一回りの女性に対して、プライドも捨てて懇願する。

女――「ウサギ」は、しばらく宗平の白髪頭をじっと見つめていた。

その瞳は、まるで冷たい鏡のように宗平の絶望を映し出すだけで、同情や憐れみといった感情の揺らぎが全く見られない。

「勘違いしないでください」

ウサギは静かに、しかし拒絶するように言った。

「私は正義の味方でもなければ、暗殺請負人でもありません。政治活動からも、暴力からも、10年前に決別しました。今の日本は、猫も杓子も金、金、金。汗水垂らして働くよりも、土地を転がした奴が偉いとされる、狂った資本主義の世の中です。私はそんな世界で、ただ静かに息を潜めて、死ぬのを待っているだけの人間です。他人の怨みに関わる義理はありません」

「だが、あいつらは、あの『タヌキ』と呼ばれる連中は!」

宗平が声を荒らげる。

「わかっています。その資本主義の究極のバケモノが、相手ですね」

ウサギはわずかに目を細め、遠くの富士の稜線を睨んだ。

「彼らは法も、人情も、倫理も信じない。ただ『利益』という数字のためだけに、効率的に人を殺す。ある意味、今の日本社会の縮図のような存在です。私たちがかつて、命を賭して、血を流してまで壊そうとした、最悪のシステムの具現化だ。あの男たちが、今やこの国の主役というわけです」

ウサギは一歩、宗平に近づいた。

その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。

先ほどまでの「地味な清掃員」のオーラが霧散し、背筋が凍るような、圧倒的な「死」の気配が立ち上る。

戦場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、特有の乾いた匂い。

「柴田さん。復讐をすれば、あなたの心は二度と元には戻りません。綺麗に生きることはできなくなる。それでも、やりますか」

「……志乃のいない人生に、戻る価値などない。俺の心など、どうなってもいい」

ウサギは小さく息を吐いた。

その顔に、微かな、本当に微かな笑みが浮かんだ。

それは、自分の内側で眠っていた「暴力の獣」が目覚めることを、自嘲気味に、しかしどこか歓喜を持って受け入れているような、歪んだ笑みだった。

「わかりました。契約成立です。お金はいりません。私も、あの肥え太った『タヌキ』どもが、この小綺麗な日本でふんぞり返っているのが、少しばかり気に入らなかったところです。私たちの過去をあざ笑うかのように、金転がしで肥え太るダニどもが」

彼女はポケットから、小さな古びた手帳を取り出した。

「これから、私のやり方でやります」

ウサギの目が、獲物を定めた野生のそれへと完全に変わっていた。

かつて国家権力を震撼させた冷徹な頭脳が、再び回転を始める。

「まずは、彼らの足元を切り崩します。おじいさん、あなたはただ、店でじっとしていてください。決して、警察に余計なことを言わないように。いつも通りの被害者でいてください」

宗平は深く頷いた。

遠くで、河口湖を巡る観光遊覧船の、のんきな汽笛が鳴り響いていた。

バブルへと向かって狂い始める昭和57年の日本。

その華やかな影で、かつて国家を揺るがした「ウサギ」が、再びその牙を剥こうとしていた。


第二章:暗がりの公衆電話

「……危険分散(保身)、か」

中央自動車道のうらぶれた高架下。

新谷が口にした冷淡な説明に、大河内は渋い顔をして、紫煙とともに言葉を吐き出した。

「おい新谷、お前さん横文字やら大層な専門用語の使いすぎだ。大学の講義じゃないんだ、現場じゃあ『危険分散』じゃなくて『保身』、『リスク』じゃなくて『火の粉』と言え。耳が痒くなる」

「失礼しました」

新谷は眉一つ動かさず、警察支給の薄い警察手帳に流麗な筆記体でペンを走らせる。

「要するに、その『タヌキ』と通称されるグループは、ヤクザのような『メンツ』や『ナワバリ』という感情では動いていないということです。組織の不利益になる芽は、どれほど小さくとも冷酷に摘み取る。柴田志乃さんの殺害は、見せしめですらなく、彼らにとっては単なる『帳簿上の不良資産の処理』に過ぎない。実に出口戦略が徹底しています」

昭和57年の初夏。

日本経済は狂乱のバブルへと向かう坂道を、猛烈な勢いで駆け上がっていた。

地上げ屋が札束で人の面を張り、株やゴルフ会員権の机上取引で、一晩に億の金が右から左へと動く。

誰もが「明日は今日より豊かになる」と信じて疑わない、どこか地に足の着かない好景気の足音が、すぐそこまで迫っていた。

その眩い光の真裏で、富士の裾野に這い出たのが「タヌキ」だった。

彼らは役所の幹部や銀行員の前では、スマートな投資顧問会社の社員としてスーツを着こなし、裏では暴力団さえ躊躇するような非道な手口で、河口湖周辺の肥沃な土地を強引に買い漁っていた。

断れば、ダンプが門を塞ぎ、夜中に無言電話が鳴り響く。

「大河内さん、鑑識から追加のデータが上がってきました。現場に残されていた微物の泥、および被害者の傷口から検出された機械油の成分。どうやら、彼らが移動に使っているのは、外車の大型セダン……それも、最近この辺りの地上げで我が物顔で幅を利かせている『東洋開発』の社用車と一致します」

「東洋開発。タヌキの表の顔だな」

大河内は短くなったハイライトを、錆びついたガードレールに押し付けて揉み消した。

「あいつら、カタギのツラして、やることは戦後の愚連隊以下だ。仁義もへったくれもありゃしねえ。数字しか頭にない奴ほど、他人の痛みに鈍感になる」

その頃、ウサギ――浅見は、ホテルの地下にある狭いリネン室で、静かに作業をこなしていた。

蛍光灯のジーという不快な雑音の中、白いシーツを几帳面に畳み、一ミリのズレもなく積み上げていく。

その手元は正確無比で、まるでプログラムされた機械のようだった。

だが、彼女の頭脳は今、ホテルのリネン管理とは全く別の「殲滅の設計図」を組み立てていた。

かつて新左翼の最高幹部から「ウサギの足の速さと、その異常なまでの耳の良さだけが、我が軍の唯一の兵站(へいたん)だ」と評された彼女の諜報能力。

それは、10年の空白を経てもなお、寸分も錆びついてはいなかった。

(組織の主要メンバーは7人。トップは、かつて総会屋あがりで今は投資会社の社長を名乗る男……。実務を動かしているのは各地の支店長。ならば、まずは手近な四肢から切り落とす)

ウサギは作業を終えると、緑色の作業着のまま、高橋オーナーから鍵を借り受けてホテルの管理用公衆電話に向かった。

一般の宿泊客の目が届かない、バックヤードの暗がりに設置されたピンク色の電話機だ。

ポケットから十円玉を数枚取り出し、滑らかな手つきでスリットに投入する。

チャリン、チャリンと金属音が響く。ダイヤルを回す指に迷いはなかった。

かけた先は、山梨から遠く離れた東京・赤坂にある高級クラブの黒電話だった。

かつて彼女が組織を脱走し「転向」する際、公安の執拗な追及から逃れるために一度だけ利用した、裏社会のブローカー(情報屋)の男へと繋がる。

数回の呼出音の後、低く警戒するような声が耳に届いた。

「……私だ。ウサギだ」

受話器の向こうで、男が明らかに息を呑む音が聞こえた。

『……おい、生きていたのか。あの『総括』の血の嵐を生き延びて、まだ日本にいたとはな。今さら何の用だ』

「昔話をするつもりはない。取引よ。頼みたいことがある。『東洋開発』、通称『タヌキ』の動向を知りたい。特に、ここ河口湖周辺の実務を仕切っている現場責任者の足取りを」

『タヌキか……。あいつらは厄介だぞ。ヤクザの親分衆も、あの徹底した金勘定と法律の抜け穴使いには手を焼いている。あいつらには裏社会の『貸し借り』という概念がない。利用価値がなくなれば、身内でも平気でトカゲの尻尾切りだ。情報を取りに動くだけでもリスクが高い』

「だからこそ、隙がある。彼らは金と効率しか信じない。それは、それ以外の要素――たとえば、人間の『情』や、測定不可能な『怨念』といった不確定要素を計算に入れていないということ。数式でしか世界を見ていない奴は、数式の外からの一撃に脆い」

『ふん、相変わらず冷徹な頭脳だな。いいだろう、かつてのよしみだ。ただし、情報は高くつくぞ。今の俺はボランティアで動いちゃいない』

「富士の麓にある、未開発の別荘地の登記簿謄本のコピーをそっちの私書箱に送る。バブルの種地(たねち)よ。地元の有力者が手放したがっているのを高橋オーナー経由で押さえた。転売すれば、お前の取り分は十分に出る」

『……交渉成立だ。やはりお前と話すのは早い。今夜、河口湖の寂れたドライブインの公衆便所に情報を置いておく。深追いするなよ、ウサギ』

受話器を置いたウサギの顔には、宿泊施設のパートタイマーとしての影は微塵もなかった。

彼女の血管を流れるのは、かつて「革命」という大義名分のもとで極限まで研ぎ澄まされた、純粋な闘争の血だった。


その日の深夜、午前二時。

河口湖畔の街灯もまばらな、寂れたドライブインの駐車場に、一台の地味な国産大衆車が滑り込んだ。

夜霧がフロントガラスを白く濡らしている。

運転席にいるのはウサギだ。

彼女はエンジンを切ると、車内に残されたわずかな明かりも消し、周囲の気配を完全にうかがった。

バックミラー、サイドミラー。霧の向こうに尾行のライトがないか、三分間、ただ息を潜めて確認する。

完全に安全だと確信した後、車を降りた。

足音を立てない地下足袋の歩行で、照明の切れた公衆便所へと侵入する。

鼻を突くアンモニア臭の中、洗面台の裏側、配管の隙間に指を這わせると、指先に硬い感触があった。

ビニールテープで厳重に貼り付けられていた茶封筒を、音もなく回収する。

車内に戻り、外に光が漏れないようダッシュボードの下で、手元の小さな懐中電灯を点けて中身を確認した。

「東洋開発・甲府支店長、猪狩(いがり)。元は闇金の取り立て屋。現在はタヌキの主要メンバーの一人として、御坂峠の近くにある林業作業員の廃屋をアジトに、配下の若い衆を兵隊として使っている……」

書類には、猪狩の乗る車両のナンバー、その行動確認の綿密な記録、そしてアジトに集まるメンバーの人数と、それぞれの武装の有無までが詳細に記されていた。

さらに、明晩、猪狩を含めた4人のメンバーが、周辺の地上げの首尾を東京の本部へ報告するため、その廃屋に集まるという決定的な情報も添えられていた。

ウサギは書類を読み終えると、火のついたマッチを近づけ、灰皿の中でそれを燃やした。

ゆらゆらと揺れる炎が、彼女の冷え切った横顔を赤く照らす。

立ち上る重油混じりの煙を見つめながら、彼女の脳裏に、かつて自分が所属していた赤軍派の「山岳ベース」の光景がよみがえった。

あの、冷たい山の空気。凍える手で握った黒い小銃。そして、互いを「自己批判」の名のもとに殴り殺していった、あの狂気の日々。

(あの時、私たちは社会を変えられると本気で信じていた。だけど、今の日本はどうだ? 誰もが金に狂い、額に汗して働く者をあざ笑う。あの『タヌキ』どもは、その狂った社会が、最も深い闇の底で生み出したダニだ)

ウサギは静かに車のギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。

夜霧の中に、赤いテールランプが消えていく。

「おじいさん、あなたの仇は、私が引き受ける」

翌朝、「ふじみ亭」の前に、一台の白黒のパトカーが停まった。

大河内と新谷が、再び宗平の元を訪れたのだ。

営業休止の札がかかった店内に案内された二人は、カウンターの奥で力なく座っている宗平に向き合った。

「柴田さん」

大河内が湯呑みの白湯をすすりながら、切り出した。

「少し、お耳に入れたいことがありましてね。奥様を手にかけた連中の目星が、大体ついてきました。『東洋開発』という地上げ会社の周辺者です。近々、一網打尽にするための令状を請求します」

宗平はピクリと眉を動かしたが、すぐに元の、感情の抜け落ちた無表情に戻った。

「……そうですか。警察の旦那、そいつらは本当に、捕まるんですか。また逃げたりはしませんか」

「ええ、必ず」

新谷が手帳を閉じ、自信をのぞかせて言った。

「彼らの手口は明確ですが、それゆえに足跡が残りやすい。まもなく法のもとに引きずり出せます。ですから、柴田さんも、妙な気を起こさないでください。我々を信じることです」

新谷の鋭い目が、カウンターの上で固く結ばれた宗平の手元に向いた。

宗平の爪の間、そして親指の付け根の皺に、ほんの少し、黒い「煤(すす)」のようなものが不自然に付着していた。

「柴田さん、その手のアザのようなものは?」

「……ああ、これですか」

宗平はハッとして、慌てて手をエプロンの下に隠した。

「志乃の遺品を、裏庭で少し燃やしていたんですよ。あいつの服や、愛用していたエプロンなんかをね。それを見ていると悲しくなってしまって……」

「そうですか……。お辛いでしょうが、我々プロに任せてください」

大河内はそう言い残し、新谷の肩を叩いて店を出た。

パトカーに乗り込み、エンジンをかけた後、助手席の新谷がポツリと言った。

その声には、明らかな不信感が混じっていた。

「大河内さん。あの老人、何かを決定的に隠しています」

「……何だと?」

「遺品を燃やしていたと言いましたが、この近辺の勝手口周辺に、衣服や綿を燃やした形跡は一切ありませんでした。灰の一片も落ちていない。それに、あの爪の間にあった煤は……薪や衣服を燃やした乾いた煤ではない。もっと粘り気のある、油臭い重油か何かの煤です」

大河内はハンドルを握ったまま、バックミラーに映る、遠ざかるふじみ亭の古ぼけた建物をじっと見つめた。

「新谷、老人の執念を甘く見るな。すべてを失った人間は、何をするか分からん。だが……もしあの爺さんが、俺たちの知らない、とんでもない『影』と繋がっているとしたら、話は別だ」

五月の爽やかな風が、河口湖の美しい湖面を揺らしていた。

しかし、その穏やかな水面下では、警察の捜査網と、タヌキの冷酷な計算、そしてウサギの冷徹なゲリラ戦の準備が、すでに恐ろしい速度で交錯し始めていた。


第三章:総括の狼烟

昭和57年5月18日。 御坂峠の旧道は、夜の帳が下りると同時に、すべてを拒絶するような深い霧と闇に包まれた。

現在の河口湖周辺は、バブル前夜の観光地としての華やかさを急速に増しつつあったが、一歩山道へ入れば、そこには近代化の光が届かない鬱蒼とした原生林がどこまでも広がっている。

その深い森の奥に、かつて林業の作業員たちが寝泊まりに使っていた飯場(はんば)の廃屋があった。 今やそこは、裏社会で「タヌキ」と恐れられる犯罪組織の、山梨における最大のアジトと化していた。

「おい、甲府の土地の件はどうなった。東京の本部からは、来月の上場までにカタをつけろと催促が来てるんだ」

廃屋の奥。 カビ臭い板張りの部屋に不釣り合いなほど立派な、高級革張りのソファに深く腰掛けた男が、高級ライターで火をつけた煙草の煙をくゆらせながら訊ねた。

東洋開発・甲府支店長であり、組織の主要メンバー「七福神」の一人、猪狩(42)だ。 仕立ての良い三つ揃えのスーツを着込んでいるが、鋭い眼光と、横着な座り直しかたに、かつて闇金の取り立てで何人もの債務者を自殺に追い込んできた過去が隠しきれずに滲み出ている。

「へえ、地主の爺さん、最初はゴネてましたがね。身内のダンプの前にちょっと『うっかり』若い衆を転がしてやりましてね。今じゃ震え上がって、明日の朝一番で実印を捺すって言ってますよ」

そう言って下卑た笑い声を上げたのは、猪狩の配下である若い男たち、合わせて3名だ。 彼らはみな、派手なアロハシャツに金色のネックレスという、当時のツッパリや極道崩れの典型的な格好をしていた。

「結構。義理や人情、あるいは先祖代々の土地などという感傷で、この時代の金が守れると思ったら大間違いだ」

猪狩は鼻で笑い、灰皿に灰を落とした。

「この世はな、有効活用できる人間に資産が集まるようにできているんだよ。あの『ふじみ亭』のババアも同じだ。余計な情けをかけずに、さっさと店を売ってりゃ、あんな惨めな死に方をせずに済んだものを。身の程を知らないから、帳簿の上の『不良債権』として処理されることになる」

「全くです。組織の効率化の邪魔をする奴は、身内だろうがカタギだろうが、ただの障害物ですよ」

若い衆の一人が調子を合わせて笑う。 彼らの足元には、数日前の激しい雨で運ばれた泥の足跡が、点々と汚らしく残されていた。


その頃、廃屋の周囲を、風に揺れる影のように音もなく動く人影があった。 ウサギ――浅見である。

彼女の服装は、昼間のホテルの地味な制服とは打って変わり、新左翼の活動家時代を彷彿とさせる黒い作業服(ナッパ服)に身を包んでいた。 足元は地下足袋。音を立てずに不整地を移動するための、かつての「潜行活動」の基本中の基本だ。

ウサギは背中に、ずっしりと重い一斗缶を二つ、特製の木枠で背負っていた。 中身は、ホテルのボイラー室から数回に分けて密かに抜き取ってきた重油と、大衆車のタンクから吸い出したガソリンを、最も引火性と持続性に優れた比率で混ぜ合わせた、彼女特製の燃料だった。

闇の中で外壁に指を触れ、建物の乾燥度を確かめる。 そのとき、彼女の脳裏には、柴田宗平から復讐を懇願されたあの午後の光景が、鮮明に蘇っていた。

ウサギは自問する。 単なる人助けなどという高尚な精神は、とうの昔にあの雪山に捨ててきた。 だが、宗平が「志乃をあんな目にした奴らは、人間だと思って殺しちゃいねえ。ただの邪魔な虫ケラみたいに潰したんだ」と言ったあの瞬間、彼女の胸の奥で、10年間凍結していた何かが、決定的に決壊したのだ。

それは、彼女自身が「山」で経験した、あの絶対的な恐怖の構造と同じだった。 理想や効率という名目のもと、昨日までの同志を「反革命分子という名の虫ケラ」として扱い、次々とリンチで処理していったあの山岳ベースの狂気。

そして何より、高橋オーナーから見せられた手帳の断片にあった、タヌキの首魁「星野」の名。 かつて自分たちと同じ組織に身を置き、革命を叫びながら、同志たちの血とカンパ金を横領して逃亡した裏切り者。 その男が、今や資本主義の最先端で、かつての山と同じ「冷酷な効率」を使って、罪のない老婆を虫ケラのように処理した。

(星野……お前はあの山を汚し、今度はこのシャバの平穏までを数字で蹂躙した。お前たちのような奴らが肥え太る世界を、私はどうしても許せない。柴田宗平の絶望は、あの山で虫ケラのように殺されていった、私の同志たちの無念そのものだ)

これは宗平の復讐であると同時に、彼女自身の過去に対する、避けては通れない「総括」の始まりだった。 だからこそ、彼女は拒絶する理屈を持たなかったのだ。

ウサギは冷徹な理性を取り戻し、廃屋の構造を素早く観察した。 築年数の経った木造建築。乾燥しきった柱と梁。 出口は正面の頑丈な引き戸と、裏手の勝手口の二箇所のみ。

ウサギはまず、裏手の勝手口へと回り、ノブに、あらかじめ用意していた太い番線を何度も巻き付け、外側の柱と緊結して完全に固定した。 これで内側からは、大人が何人で押そうが絶対に開かない。

続いて、背中の一斗缶から長いゴムホースを伸ばし、廃屋の外壁の隙間、電力メーター、そして床下に、静かに、しかし大量の混合燃料を流し込んでいった。 ガソリンの鼻を突く強烈な臭いが闇に広がる。 だが、今夜の風は山頂から湖へと吹き下ろしている。 気密性の低い建物の中にいる猪狩たちに、その異臭が届くことはない。

最後に、正面の玄関扉の前に、重油をたっぷりと染み込ませた薪を、逃げ道を塞ぐように積み上げた。

ウサギはポケットから、古いジッポーのライターを取り出した。 かつて赤軍派の、厳しかったが純粋だった同志から譲り受けた、星のマークが微かに刻まれたものだ。

火花が散り、小さな炎が宿る。 ウサギはその炎を、迷うことなく積み上げられた薪へと投げ落とした。

「……総括の時間よ。あなたたちが奪った命の、重さを知りなさい」

ボッ、という低い重低音とともに、炎が一気に爆発した。

「おい……なんだ? この臭いは」

廃屋の中で、猪狩が最初に異変に気づいた。 煙草の煙とは明らかに違う、有機物が激しく燃える、鼻の奥を刺すような不快な臭い。

「支店長! 表が、表が燃えてます! 火事だ!」

見張りの若い衆が、顔を真っ青にして悲鳴を上げた。 正面の扉を開けようとしたが、すでに扉自体が激しい炎の壁と化しており、凄まじい熱気で近づくことすらできない。

「バカ野郎! 裏だ! 勝手口から出ろ!」

猪狩が紫煙を吹き飛ばしながら怒鳴る。 男たちは慌てて奥の勝手口へと走り、ノブを掴んで力任せに引いた。 しかし、ウサギが施した番線の結束は、ビクともしない。

「開かねえ! クソ、外から何かが引っかかってて、びくともしねえ!」

「窓だ! 窓の格子を割れ!」

猪狩が叫んだ瞬間、足元の床下からゴオオオ、という地鳴りのような爆鳴音が響いた。 ウサギが流し込んだガソリン混じりの重油が、床下の乾燥しきった木材に完全に引火したのだ。 一瞬にして、廃屋は逃げ場のない「炎の檻」へと変貌した。

「熱っ、熱ええええ! 助けてくれ!」

若い衆の衣服に火が燃え移る。 彼らは狂ったように床を転げ回ったが、床自体がすでに一面の火の海だった。

猪狩は黒煙に巻かれ、激しく咳き込みながら、辛うじて割った窓のサッシから外へ這い出そうとした。 だが、窓の向こう――深い霧と闇の中に、一人の女が微動だにせず立っているのが見えた。

炎の赤い明かりに照らされたその女の目は、冷酷そのものだった。

猪狩は、その女の顔に明確な見覚えがあった。 昼間、地上げのターゲットである「ふじみ亭」の周辺を調べさせた際、近くの老舗ホテルで見かけた、あの地味な清掃員の女だ。

「お前……お前は、あのババアの……何なんだ!」

猪狩が血の混じった絶叫を上げる。 ウサギは何も答えなかった。 ただ、激しく燃え盛る廃屋を背景に、静かに右手を挙げ、衣服に火がついたまま苦しむ猪狩を、冷ややかに、ただ観察するように見下ろした。

やがて、廃屋の屋根が凄まじい火花を散らしながら、轟音を立てて崩落した。 猪狩の断末魔の悲鳴は、すべてを飲み込む業火の音の中へと、完全に消え去っていった。

翌朝。 御坂峠の廃屋跡は、黒焦げた骨組みだけを残して、不気味に煙を燻らせ続けていた。

「ひでえな……。これは事故じゃない」

新谷が、焦げ臭い空気から鼻を白いハンカチで押さえながら、眉をひそめて呟いた。 現場には、県警の鑑識課員や消防の調査員が慌ただしく動き回っている。

大河内は、焼け焦げたソファの残骸の近くに立ち、地面の泥をじっと見つめていた。

「大河内さん、4人の遺体が確認されました。歯型と所持品から、一人は東洋開発の甲府支店長・猪狩、残りの3人はその配下の兵隊です。出火原因は、建物の周囲に撒かれた大量の鉱物油。裏口が外から固定されていた形跡もあり、明らかに怨恨による計画殺人の線が濃厚です」

新谷の冷静な報告を聞きながら、大河内はその場にしゃがみ込み、現場から少し離れた未舗装の泥を指でなぞった。

「新谷。ここに、妙な足跡がある。鑑識が見落としそうな、極めて浅い痕跡だ」

「足跡、ですか?」

「ああ。地下足袋だ。それも、この泥の沈み込みの浅さ、足のサイズからして、かなり小柄な人間……おそらく、女だ」

大河内は目を細め、ハイライトを取り出した。

「それだけじゃねえ。この裏回りの手口を見てみろ。勝手口を外から番線で完璧に固定し、退路を完全に塞いだ上で、一気に火を回している。これは素人の生半可な復讐じゃねえぞ。かつて昭和40年代後半に、あちこちの権力の拠点を焼き払った連中の手口……いわゆる『ゲリラ戦』のプロの仕業だ」

新谷の若い顔に、明らかな緊張が走る。

「まさか……新左翼の、あの時代の過激派の生き残りですか? なぜ、そんな連中がタヌキを狙うんです。思想的な対立ですか?」

「さあな。だが、一つだけ確かなことがある」

大河内は立ち上がり、煙を吐き出しながら、河口湖の方向を鋭く睨みつけた。

「このヤマは、ただのヤクザの抗争や、地上げのトラブルじゃ済まねえ。もっと泥沼の、恐ろしい何かが、このバブルの足音の裏で始まっていやがるぞ」

その頃、ふじみ亭の薄暗いカウンターでは、柴田宗平が静かに珈琲を淹れていた。 テレビの朝のニュースが、御坂峠での火災と遺体発見を淡々と報じている。

宗平のサイフォンを持つ手は、わずかに震えていたが、その皺だらけの顔には、ここ数日見られなかった、暗い、底知れない歓喜の色が微かに浮かんでいた。


第四章:溶ける強欲

御坂峠の炎上劇から中三日。 「東洋開発」の甲府支店が実質的に壊滅したという衝撃は、瞬く間に組織の幹部たちを震え上がらせた。

バブル前夜の狂騒に沸く1982年の日本において、彼らのような地上げ組織にとって「恐怖」こそが最大の資本だった。 その資本の最前線が、たった一晩の、あまりにも鮮やかな手際によって跡形もなく焼き払われたのだ。

河口湖の南岸にある、会員制の高級割烹。 一般の観光客を寄せ付けないその奥座敷で、タヌキの主要メンバーである経営陣「七福神」の役員三人、そして東京の本部から今回の地上げのテコ入れのために派遣されてきた統括の佐伯(38)が、密談を交わしていた。

「猪狩の奴、本当に焼き殺されたのか……。裏口が固定されていたなんて噂もある。これはただの火事じゃない。絶対に『見えない敵』がいる」

役員の一人が、冷や汗を拭いながら怯えた声を上げた。 彼らの頭脳は、どこまでも利害の数式でしか動かない。 リスクがリターンを上回ったと判断した瞬間、彼らの足元は急速に脆くなる。

「怯えるな。所詮は田舎の小地主の怨恨だ」

佐伯が、冷徹な目で役員たちを睨みつけた。 仕立ての良い三つ揃えのスーツを着こなし、細い金縁の眼鏡をかけたその姿は、冷酷なエリートそのものだった。

「明日、東京の本部から応援の兵隊(ヤクザ)が到着する。河口湖北岸の『ふじみ亭』周辺は、リゾートホテル建設の目玉となる土地だ。泣こうが喚こうが、力ずくで毟り取る。邪魔をする虫ケラがいるなら、まとめて駆除するだけだ」

「し、しかし佐伯さん……」

「これ以上の弱音は、本部の星野社長への反逆とみなす。明晩、もう一度ここで最終的な詰めを行う。遅れるなよ」

佐伯はそう言い捨てると、懐から取り出した海外製の煙草に火をつけた。 その傲慢な瞳は、自分たちが犯してきた非道が、どのような形の刃となって返ってくるかを、全く想像できていなかった。

割烹の勝手口から少し離れた、竹林の死角。 ウサギは軽トラックの助手席に深く腰掛け、集音機能付きの小型レシーバーのイヤホンを耳に押し当てていた。

彼女がホテルの備品を改造して作り上げた、超指向性マイク。 それを用いた数日間に及ぶ緻密な盗聴により、ウサギはすでに、佐伯たち幹部が明晩この割烹の別館(離れ)に再び集まるという決定的な情報を掴んでいた。

(明晩、四人全員が揃う……。一網打尽にするには、これ以上ない機会ね)

ウサギはレシーバーを外し、静かにダッシュボードへ置いた。

彼女の手元には、ホテルの特殊清掃用、およびボイラー室の配管洗浄用としてストックされていた、高濃度の工業用劇薬(強酸性薬品)のボトルが数本並んでいた。 それは、皮膚に触れれば一瞬で肉を融解させ、気化したガスを吸い込めば肺胞を破壊して窒息死させる、恐るべき化学兵器に変わり得るものだった。

ウサギは暗闇の中で、静かに自分の手のひらを見つめた。 長年の肉体労働で荒れたその手には、昼間の清掃員の顔からは想像もつかない、かつて世界のどこかの戦場か、あるいは凄惨なゲリラ戦の最中でしか培われ得ない、冷徹な「処理」の記憶が染み付いているようだった。

(私はただのウサギ。静かに息を潜め、世界の片隅で死を待つだけの存在。だけど、額に汗して実直に生きてきた人を虫ケラのように踏み潰すあなたたちを、そのままにしておくわけにはいかない)

彼女の胸の奥にあるのは、正義感などという生ぬるいものではなかった。 他人の痛みにどこまでも鈍感な「タヌキ」どもに対する、絶対的な拒絶。 それが、彼女を闇の処刑人へと突き動かしていた。


明晩。激しい雨が、河口湖の黒い水面を容赦なく叩いていた。

高級割烹の離れ。 防音の施された密閉性の高い和室で、佐伯をはじめとする四人の幹部が、机の上に広げられた地上げの図面を囲んでいた。

「よし、これが北岸の買収計画だ……」

佐伯が説明を始めたその瞬間、部屋の明かりが唐突に消え、あたりは完全な暗闇に包まれた。

「なんだ? 停電か?」

「おい、部屋のブレーカーを見てこい」

男たちが不審に思い、立ち上がろうとしたその時だった。 障子戸が音もなく細く開けられ、暗闇の隙間から、不気味な金属製のノズルが差し込まれた。

ウサギがホテルの清掃用高圧噴霧器を改造して作り上げた、特製の劇薬散布装置だった。

プシューッ!という激しい噴射音とともに、部屋の中に無色透明の液体が、凄まじい勢いで霧状になって拡散していった。

「うわっ!? なんだこれ、水か? いや、臭い……うああああっ!」

最初にその霧を顔面に浴びた役員が、獣のような悲鳴を上げて床に転がった。 液体が触れた瞬間に、彼の皮膚はジュクジュクと音を立てて焼けただれ、衣服が黒く溶け始めていた。

「劇薬だ! 目、目が開かねえ! 熱い、熱いいいい!」

「出ろ! ドアを開けろ!」

佐伯は眼鏡を叩き割り、狂ったように出口へと這いつくばった。 しかし、ウサギはすでに外側の引き戸の隙間に、頑丈な鉄製のクサビを打ち込んでいた。 内側からどれほど体当たりをしようが、扉はビクともしない。

狭い密閉空間の中で、気化した強酸のガスが急速に充満していく。

「カハッ……ウ、ウグッ……!」

男たちは喉を掻きむしり、血を吐きながら床をのたうち回った。 ガスを吸い込んだ瞬間に、彼らの気管支と肺は化学火傷を起こし、呼吸をすることすら不可能になっていたのだ。

佐伯は爛れた手で床を掻きむしりながら、薄れゆく意識の中で、閉ざされた障子の向こうに、一人の女の影が静かに立っているのを見た。 雨の音の中に紛れる、地下足袋の、全く足音のしない冷徹な佇まい。

「お前……誰、だ……。なぜ、こんな……」

佐伯が血の泡を吹きながら問いかける。 だが、窓の向こうの影は、何も答えなかった。 ただ、部屋の中から悲鳴と苦悶の息が完全に途絶えるまで、冷酷な彫刻のように、その場にじっと佇み続けていた。

四人の幹部が、自分たちの欲の部屋の中で、文字通り内側からドロドロに溶け去るまで、時間は三分もかからなかった。

翌朝。 高級割烹の離れは、異様な悪臭と、黄色い立ち入り禁止のテープによって封鎖されていた。

「……凄惨極まりないな。新谷、中を見る時はマスクを二重にしろ」

大河内は、防毒マスク越しにこもった声で、現場の惨状を見つめていた。 畳は薬品で黒く焼け焦げ、そこには原型を留めていない四つの「肉の塊」が転がっていた。

「大河内さん……。鑑定の結果、使用されたのは工業用の高濃度硫酸と塩酸の混合物です。被害者たちは、逃げ道を完全に塞がれた上で、これを霧状にして浴びせられています」

新谷は、流石に顔色を土気色に変え、手帳を握る手を震わせていた。

「これはヤクザの抗争のレベルを遥かに超えています。軍用ゲリラ、あるいは特殊な専門知識を持った『プロ』の仕業です。一体、誰がこんな真似を……」

大河内は床にしゃがみ込み、割れた窓のサッシの近くに、うっすらと残された「泥の跡」に目を留めた。 それは、数日前の御坂峠の現場にも残されていた、あの奇妙に浅い、小柄な足跡だった。

「新谷。犯人は、地上げの件でタヌキに怨みを持つ者の枠を超えてる。この手際、この冷徹さ……。まるで、人間を効率的に『処理』することだけに特化した、名前のない怪物の仕業だ」

大河内はマスクを外し、忌々しげに現場の空気を睨みつけた。

「タヌキの四肢はこれで完全に切り落とされた。残るは、東京の本部にいる最高権力者……星野社長一人だ。犯人の次の標的も、間違いなくそこだぞ」

その頃、「ふじみ亭」のカウンターでは、柴田宗平が静かにテレビのニュースを見つめていた。 割烹での集団不審死を報じるアナウンサーの声を聞きながら、宗平は静かに目を閉じ、妻の遺影に向かって、深く、深く頭を下げていた。


第五章:過去の亡霊

激しい雨は夜が明けても止む気配がなく、河口湖周辺を濃い霧とともに白く閉ざしていた。

山梨県警捜査一課のパトカーの車内。 大河内は助手席で、ワイパーが忙しなく動くフロントガラスをじっと睨みつけていた。 運転席の新谷は、手元の捜査資料に目を落としたまま、固い声で切り出した。

「大河内さん、高級割烹の離れで使われた高圧噴霧器の出所、および劇薬の入手経路の線から捜査を絞り込みました。近隣のいくつかのホテルや工場を洗った結果……『ふじみレイクサイド』のバックヤードから、清掃用の高濃度硫酸とボイラー配管洗浄用の強酸性薬品が、数日前にまとめて抜き取られていることが判明しました」

「ふじみレイクサイド、か……」

大河内は咥えたハイライトに火をつけた。 小さな炎が、彼の無精髭に覆われた顔を鋭く照らす。

「あそこのオーナーの高橋は、ふじみ亭の柴田宗平と小学校からの竹馬の友だ。そして、そのふじみレイクサイドのバックヤードへ日常的に出入りし、薬品の管理状況を知り得る立場にある人間が一人いる。半年前から清掃員のパートとして雇われている、浅見という女だ」

新谷が顔を上げ、鋭い目を大河内に向けた。

「その『浅見』の身元を調べました。ですが、提出されていた履歴書の内容はすべてデタラメ、住民票も偽造されたものです。本名はおろか、年齢、過去の経歴、一切が不明。まるでこの世に最初から存在していないかのような、完全な『幽霊』です」

「幽霊、ねえ」

大河内は煙を窓の隙間から吐き出した。

「御坂峠を火の海にし、割烹の密閉空間で四人の人間をドロドロに溶かした犯人だ。ただの清掃員なわけがない。かつて世界のどこかの過激な戦場をくぐり抜けてきたか、あるいは昭和40年代のあの大騒動の裏で、国家権力を相手にゲリラ戦を指揮していたプロの生き残りか……。いずれにせよ、名前もツラもない『ウサギ』のように足の速い怪物を、俺たちは相手にしているということだ」

新谷はごくりと唾を飲み込んだ。

「柴田宗平が、その怪物とどうやって繋がったのかは分かりません。ですが、残された標的はあと一人、東京の本部にいる東洋開発のトップ、星野社長だけです。星野社長は今日、幹部たちの急死を受けて、自ら河口湖の別荘へ身を隠しに来るという情報があります。仕掛けるなら、今夜です」

「よし、車を出せ、新谷。その『ウサギ』が罠に飛び込んでくる前に、俺たちの手で星野を抑えるぞ」

パトカーは静かにギアを入れ、激しい雨の霧の向こうへと急発進した。

その頃、ウサギはホテルの地下にある薄暗いボイラー室の片隅にいた。 ゴーというボイラーの低い燃焼音と、肌を焦がすような強烈な熱気。 その空間は、彼女にとって、世界のどこかにある激しい闘争の記憶を呼び覚ます、最も落ち着く場所であり、同時に最悪の檻でもあった。

ウサギはパイプ椅子に腰掛け、膝の上に一本の古い軍用ナイフを置いていた。 刃渡り20センチほどの、黒く染められた特殊鋼のブレード。 昼間の「地味で疲れた清掃員」のオーラは完全に消え失せ、その佇まいからは、背筋が凍るような圧倒的な「死」の気配が立ち上っていた。

(なぜ、私はあの老人の依頼を、金も受け取らずに引き受けたのか……)

ウサギは目をつむり、自らの胸の奥底にある暗い穴を見つめた。

佐伯たちの部屋に劇薬を散布したあの瞬間。 扉の隙間から聞こえる悲鳴と、肉が溶ける不快な音を聞きながら、彼女の心臓は確かに歓喜に震えていた。 それは正義感などではない。 他人の痛みにどこまでも鈍感で、実直に生きる人々を「効率」という数字だけで踏み潰していく「タヌキ」どもに対する、猛烈な、そして純粋な暴力衝動の解放だった。

(私は、光のある世界では生きられない。名前を捨て、過去を捨て、ただ静かに死を待つだけの亡霊)

だが、東洋開発のトップである星野という男の顔を、今日、ふじみ亭で見かけたとき、彼女の冷徹な理性は完全に「闘争」のモードへと切り替わっていた。

星野のあの傲慢な目。 かつて彼女が身を置いていた世界のどこかで、仲間を裏切り、他人の血を啜って真っ先に安全なシャバへと逃げ出し、今やバブルの寵児としてふんぞり返っている男たちの、あの醜悪な縮図。

(星野……お前たちがどれほど大金を転がし、この小綺麗な日本で成功者を気取ろうとも、お前たちが踏みにじってきた者たちの怨念からは、絶対に逃れられない)

これは柴田宗平の復讐であると同時に、ウサギという「謎の怪物」が、この狂ったバブルの世の中に対して叩きつける、最後の一撃だった。

ウサギは静かに目を開けると、軍用ナイフをナッパ服の内ポケットへと滑り込ませた。 その瞳には、ボイラーの赤い炎が不気味に、そして冷酷に反射していた。

その日の昼過ぎだった。

ふじみ亭の店内。 営業休止の札がかかった薄暗いカウンターの奥で、宗平はぼんやりとガラス窓の外を眺めていた。 そこへ、激しい雨を突いて、一人の男が静かに足を踏み入れてきた。 東洋開発の社長、星野(45)本人だった。

高級なキャメルのコートを羽織り、金の腕時計を光らせたその姿は、完璧な「勝者」のオーラを纏っていた。 だが、その背後には、二人の屈強なボディガードが張り付くように控えている。 幹部たちを次々と不審死で失った星野の顔には、隠しきれない焦燥と、狂気的な怒りが滲んでいた。

「柴田宗平さん、ですね」

星野はカウンターの椅子に横着に腰掛け、宗平を睨みつけた。

「……何の用だ。店は見ての通り、休業中だ」

宗平は声を低くし、星野を見返した。

「挨拶に来たんですよ。我が社の幹部たちが、ここ数日で次々と不審な死を遂げましてね。御坂峠で焼き殺され、昨夜は割烹でドロドロに溶かされた。警察は事故や抗争の線で動いているようだが、私はそんなにボケちゃいない。……あんた、誰を雇いました?」

星野は身を乗り出し、カウンターの木目を指先で激しく叩いた。

「法律だの警察だのという生ぬるいものではなく、我が社のやり方、いや、それ以上の『暴力』で対抗してくる者がいる。心当たりがあるはずだ」

「知らん。志乃をあんな目にした罰が、天から降ってきただけの話だ」

「天、ですか。滑稽なことを言う」

星野は冷笑した。

「この世に神も仏もない。あるのは、力と、効率と、金だけだ。……おじいさん、これ以上私を煩わせるなら、次はあんた自身がどうなるか、分かっていますね。明日、我が社の代理人が書類を持ってくる。それに実印を捺して、さっさとこの土地を明け渡しなさい。それが、あんたが生き残る唯一の『合理的判断』だ」

星野は立ち上がり、背後のボディガードに合図を送って店を出ようとした。

そのとき、店のドアが静かに開き、一人の女が入ってきた。 ホテルの地味な制服を着た、ウサギだった。 彼女の手には、シーツをクリーニングに出すための大きな麻袋が握られている。そこにいた星野たちの目には、ふじみ亭に出入りしている清掃係の女として映った。

星野は女とすれ違う瞬間、ふと足を止め、その鋭い目が女の化粧っ気のない顔に注がれた。 一瞬、息が詰まるような沈黙が店内に流れる。 ウサギは感情の完全に消えた目で、静かに星野を見返した。

「……いや、人違いか。こんな田舎に、そんな手合いがいるはずがないな」

星野は自嘲気味に呟き、そのまま店を出て、待たせていた黒い高級外車へと乗り込んでいった。 車が激しい排気音を残して去っていく。

ウサギは星野の後ろ姿を、ガラス窓越しにじっと見つめていた。 その手の中の麻袋が、破れんばかりに強く握りしめられていた。

「おじいさん」

ウサギは宗平に向き直った。その声は、驚くほど冷えていた。

「明日、すべてを終わらせます。あの男を、湖の底へ沈めます」

宗平は静かに頷き、爪の間の、あの消えない黒い煤を愛おしそうに撫でた。

最終決戦の舞台は、すべてを拒絶する霧深き河口湖の夜へと、確実に移ろうとしていた。



第六章:虚空への漕ぎ出し

1982年(昭和57年)5月21日。 河口湖の夜は、すべてを濃密な闇の彼方へと連れ去るような、深い霧に包まれていた。

湖畔に点在するリゾートホテルのネオンや街灯の灯りは乳白色の霧に遮られ、水面はまるで黒いインクを流し込んだように不気味に静まり返っている。 遠くでかすかに聞こえる車の走行音すら、濡れた空気に吸い込まれて消えていった。

この夜、河口湖南岸の鬱蒼とした原生林に囲まれた一等地に佇む、東洋開発の最高権力者・星野(45)の隠れ別荘は、異様な緊張感に包まれていた。

「……おい、本当に警察の警護(マルタイ)はつかないのか」

別荘の広いリビング。 高級なペルシャ絨毯の上に立ち、ウイスキーのグラスを握りしめた星野が、苛立たしげに声を荒らげた。 数日前の御坂峠での火災、そして昨夜の割烹での劇薬散布。 組織の幹部四人を一度に失った星野の顔は恐怖で土気色に変色し、額からは絶え間なく冷や汗が滲み出ていた。

「社長、山梨県警の大河内とかいう警部補が、社長の身柄を保護するという名目で嗅ぎ回っています。今そいつらを受け入れるのは、かえって藪蛇です。東洋開発の裏の帳簿を握られるわけにはいきません」

そう答えたのは、星野が東京の本部から呼び寄せた、私設のボディガードの男だった。 部屋の中には、極道崩れの屈強な大男が三人、それぞれ懐に密輸品のアメリカ製拳銃を忍ばせて鋭い目を光らせている。 さらに別荘の敷地内には、最新の赤外線センサー付き防犯ライトが張り巡らされ、外周にはさらに二人の見張りが大型の懐中電灯を持って巡回していた。

「法律も警察も関係ない。相手がどんな怪物だろうと、近づけばこの銃(はじき)でハチの巣にしてやるだけです」

男たちは不敵に笑った。 だが、彼らが信奉する近代的で即物的な「暴力」の手順は、暗闇の奥から近づきつつある本当の「ゲリラのプロ」の前では、あまりにも無力だった。

敷地外縁の、刺すようなイバラの生い茂る茂みの中。 ウサギは霧と同化するように、完全に気配を消して這いつくばっていた。 黒い作業服に身を包み、顔には植物の汁と泥を混ぜ合わせた黒い遮光塗料を塗っている。

彼女の耳には、ホテルの無線インカムのパーツを改造した自作の盗聴受信機から、別荘内の男たちの会話が明瞭に届いていた。

(見張りは外に二人、中に三人。全員が銃器を所持。防犯ライトの照射周期は12秒……)

ウサギは冷徹に、チェスの駒を動かすように脳内で制圧のシミュレーションを組み立てていった。 名前も、過去も、戸籍すら持たない謎の存在。 だが、その細い身体に眠る闘争の技術だけは、かつて世界のどこかの過激な戦場で、国家の軍隊すら翻弄した本物の輝きを放っていた。

ウサギはまず、懐から一本の細い針金と、小型のバッテリーを取り出した。 猫のような足取りで外周の電気配線ボックスへと近づき、防犯ライトの主電源を突く。 一瞬、バチチ、と小さな火花が散った。

「あ? なんだ、ライトが消えたぞ」

外の見張りの一人が不審に思い、懐中電灯の光を配線ボックスへと向けた。 その光の光条がウサギの姿を捉えるよりも早く、闇の中から一筋の影が飛び出した。

ウサギの地下足袋の足が、男の喉仏へと無音の速さで突き刺さる。 「ガハッ……!」という短い息の漏れとともに、男が白目を剥いて崩れ落ちた。 ウサギはその巨体を音も立てずに受け止め、茂みの奥へと引きずり込んだ。

「おい、どうした? 返事をしろ」

もう一人の見張りが異変に気づき、銃に手をかけながら近づいてくる。 ウサギは倒した男の懐中電灯をわざと地面に転がし、カタ、と小さな音を立てた。

男が音のした方向へ銃口を向けた瞬間、ウサギは彼の死角である頭上――別荘のテラスの屋根から、音もなく舞い降りた。 着地と同時に、男の右腕を掴んで不自然な方向へ捻り上げる。 パキッという鈍い骨折音。男が悲鳴を上げる前に、ウサギの鋭い手刀がその頸動脈を正確に強打していた。

外周の制圧、わずか40秒。

ウサギは奪った拳銃のシリンダーを確認し、セーフティを外すと、別荘の勝手口へと向かった。 彼女の手には、ホテルの清掃用具室から持ち出した、高濃度の催涙ガス(即効性の神経刺激薬品)のボンベが握られていた。

「おい、外の奴らの定時連絡が途絶えたぞ。おかしい」

リビングの中のボディガードが、無線機を叩きながら表情を強張らせた。

「クソッ、本当に来やがったのか……!」

星野がウイスキーグラスを床に落とし、ガラスが派手に割れる音が響いた。

「社長、奥の部屋へ! 俺たちがここで食い止めます!」

男たちがリビングのドアに銃口を向けた、その瞬間だった。 ガシャン!という激しい音とともに、窓ガラスを突き破って二本の金属製ボンベが室内に投げ込まれた。

次の瞬間、部屋の中に凄まじい密度の黄色いガスが爆発的に充満した。

「ぶはっ!? なんだこれ、目が、皮膚が焼けるッ!」

「カハッ、息が……吸えねえ!」

男たちは銃を撃つこともできず、ボロボロと涙と鼻水を流しながら床にのたうち回った。 それはウサギが事前に調合した、網膜と呼吸器を強制的に麻痺させる特殊ガスだった。

霧とガスが渦巻くリビングのドアを蹴破り、黒い影が侵入する。 ウサギだった。 彼女は視覚を失い、狂ったように銃を乱射しようとした一人目の男の腕を容赦なく蹴り折り、銃を叩き落とした。 続く二人目の巨漢がナイフを振りかざして突進してきたが、ウサギは彼の力を利用して鮮やかに背負い投げ、大理石のテーブルへと叩きつけた。テーブルが粉々に砕け散り、男は意識を失った。

最後の一人が、ガスに塗れながらも星野を連れて奥の寝室へ逃げ込もうとする。 ウサギは躊躇なく、懐から抜いた黒い軍用ナイフを投擲した。 正確に男の太ももを貫き、男は絶叫を上げて転倒した。

「ひっ……ひいいいい!」

星野は、自分の周囲の「最強の暴力」たちが、わずか数分で完全に『処理』されていく光景を前に、腰を抜かして床を這いつくばっていた。

ガスの中から歩み寄ってくる黒い服の女。 その化粧っ気のない顔、そして、他人の存在を何とも思っていないような冷酷な彫刻の瞳。

「お前……お前は、あの時の、ふじみ亭の清掃員……!」

星野の頭脳が、ついに目の前の「見えない怪物」の正体を捉えた。 だが、もう遅かった。

ウサギは何も答えず、星野の髪を掴んで無理やり引きずり起こすと、その口に容赦なく猿ぐつわを嵌め、太い麻縄でその身体を完璧に拘束した。 星野の脂汗でギトギトに光った顔には、バブルの成功者のプライドなど微塵もなく、ただ生への卑屈な執着(保身)だけが残されていた。

ウサギは星野をガムテープでぐるぐる巻きにし、荷物のように台車に載せ、別荘の裏手から、霧深い河口湖の桟橋へと音もなく消え去っていった。

そして、深夜二時。 湖の中央。

視界を完全に遮る濃霧の中で、一艘の古ぼけた木造の手漕ぎボートが、頼りなげに浮かんでいた。 キィ、キィ、と錆びついたオールのきしみ音だけが、世界のすべてであるかのように自堕落に響く。

オールを握るウサギの対面に、星野は木製の椅子ごと縛り付けられていた。 ウサギがゆっくりとオールを止め、星野の猿ぐつわを乱暴に引き抜いた。

「ウサギ。お前、ウサギだろ。……いや、お前は一体誰なんだ! 頼む、助けてくれ! 何でもする!」

星野は狂ったように叫んだ。

「金ならいくらでも出す! スイスの秘密口座に、お前が一生遊んで暮らせるだけのドルがあるんだ! 今の日本はお金がすべてだろ!? あの『ふじみ亭』のババアの件だって、あれは猪狩が勝手にやったことで、私は命令なんてしてない! 全部あいつの独断だ!」

「星野」

ウサギは低く、ひび割れた声でその見苦しい言い訳を遮った。

「あなたたちはいつもそうね。自分の手を汚さず、常に安全な場所から数字だけを見て他人を動かす。そして都合が悪くなれば、身内すらトカゲの尻尾のように切り捨てる」

星野の身体が、寒さとは違う恐怖でガタガタと激しく震え出した。

「汗水垂らして生きてきた老人の平穏を、命を、自分たちの『効率』のために踏み潰した。あなたのような人間が肥え太る世界を、私はどうしても許せない。柴田宗平の絶望は、この理不尽な世界に踏みつぶされていった、名もなき人々の無念そのものよ」

ウサギはボートの底に転がしてあった、重い泥と砂利が詰まった土嚢袋を、星野の足元へ手際よく縛り付けた。

「お前だって同類だろう!」

星野は死を前にして、開き直ったように狂った笑声を上げ、絶叫した。

「お前だってその手を血で染めている! 暴力を楽しんでいるんだよ! このバブルの世の中を冷めた目で見てるふりをして、本当はまた合法的に人殺しができる機会を、ずっと待っていただけじゃないのか! お前も俺と同じ、闇の中の怪物だ!」

ウサギの動きが、一瞬だけ止まった。 彼女の脳裏に、夜の闇の中で火を放った時の心臓の高鳴り、部屋に劇薬を注入した瞬間の、あの震えるような鮮烈な「生」の感覚がよみがえる。 星野の言葉は、彼女の最も深い傷口を正確に抉っていた。

「……ええ、その通りよ」

ウサギは自嘲気味に、しかし酷く優しい声で微笑んだ。

「私は、光のある世界では生きられない、名前も過去もない亡霊。そしてあなたは、この狂った資本主義の泥水で肥え太った豚。いえ、『タヌキ』かしら。お互い、昭和の華やかな光の中には、最初から居場所のない人間だわ。だから、一緒に闇へ帰りましょう」

「やめろ! やめてくれええ!」

ウサギは星野の胸元を、地下足袋の足で容赦なく、全力で蹴り飛ばした。

ドボン、という重く鈍い水音が、霧の中に低く響き渡る。

泥の重りをつけられた星野の身体は、一切の抵抗を許されず、一瞬にして河口湖の深い底へと沈んでいった。 水面にいくつかの大きな気泡がボコボコと浮かび上がり、やがて、再び元の不気味な静寂が戻った。

ウサギはしばらくの間、その黒い水面をただ見つめていた。 胸の中にあるのは、達成感でも、正義の執行による満足感でもなかった。 自分の古傷をただ深く抉ったあとのような、底知れない、冷たい虚無だけだった。

「……遅かったか」

一時間後、河口湖の寂れた桟橋に、大河内と新谷の乗ったパトカーが激しいタイヤのきしみ音を立てて滑り込んだ。 星野の別荘での惨劇を無線で受け、急行したものの、そこに残されていたのは、無人で岸辺に打ち寄せられた木造のボートと、その近くの泥の上に残された、あの「地下足袋の足跡」だけだった。

「大河内さん、星野の姿はありません。……やられたんですね。我々は間に合わなかった」

新谷が悔しげに地面のボラードを叩いた。エリートとしてのプライドが完全に打ち砕かれていた。

大河内はパトカーのボンネットに腰掛け、濡れた手でハイライトに火をつけた。

「終わったんだよ、新谷。タヌキも、ウサギも、これで完全に闇の中だ。星野の遺体は、おそらく二度と上がってこねえ。あの湖の底の深い泥にまみれて、彼らが愛した『金』と一緒に朽ちていくのさ」

「私たちは、結局何もできなかった……。あの『浅見』という女は、一体何者だったんでしょうか。経歴も、本名も、何一つ掴めないままだ」

「さあな。だが、あの女は最初からこのシャバに居場所なんて求めちゃいなかった。ただの通りすがりの、名前のない怪物さ。……新谷、俺たちの仕事は、この狂った時代に法律という名のブレーキをかけることだ。だが、あの女は、最初からアクセルしか持っていなかった。それだけのことだ」

大河内は夜空を見上げた。霧の向こうに、富士山の巨大な影がうっすらと、何事も拒絶するようにそびえ立っていた。


数日後。 五月晴れの爽やかな陽気の中、河口湖北岸の「ふじみ亭」は、何事もなかったかのように営業を再開していた。

カウンターの奥には、柴田宗平がいつもと変わらぬ清潔なエプロン姿で立ち、サイフォンで珈琲を淹れている。 コトコトと鳴るガラスの音が、店内に穏やかに響く。

チリン、とドアの鈴が寂しげに鳴った。 入ってきたのは、いつも通りの、地味なホテルの緑色の制服を着た「浅見」だった。 彼女はカウンターの端の、いつもの席に静かに腰掛けた。

「……いらっしゃい」

宗平の声は、以前よりも少し掠れ、老け込んでいた。

「珈琲を、一杯」

「あいよ」

宗平は黙って、丁寧に淹れた珈琲を彼女の前に置いた。 ウサギはそれを一口すすり、ガラス窓の外を眺めた。 河口湖の湖面は、数日前の惨劇など嘘であったかのように、キラキラと新緑の光を反射して輝いている。

「……終わったんだね」

宗平が、窓を拭く手を止め、誰に言うでもなく呟いた。

「はい。すべて、終わりました。もう火の粉が降りかかることはありません」

ウサギは平坦な、起伏のない声で答えた。

宗平は自分の皺だらけの手を見つめた。 志乃の仇は討った。彼女を虫ケラのように惨殺した男たちは、一人残らずこの世から消え去った。 だが。 胸の中に残っているのは、すっきりとした晴れやかさなどでは毛頭なかった。 ただ、身体の中心に大きな、冷たい風の吹き抜ける穴が空いてしまったような、圧倒的な虚しさだけだった。

復讐を遂げても、志乃は戻らない。サイフォンの向こうで微笑む彼女は、もうどこにもいない。 店の外では、今日も若い観光客たちが、バブルの好景気に浮かれた大声を上げて笑いながら通り過ぎていく。 世界は、何一つ変わっていないのだ。

「私は、明日ここを立ちます。高橋さんにも、先ほど挨拶を済めてきました」

ウサギは薬を飲むように珈琲を静かに飲み干し、百円玉を二枚、正確にカウンターへと置いた。

「そうか。……達者でな」

宗平はそれ以上、何も言わなかった。言うべき言葉を、二人はすでに持ち合わせていなかった。

ウサギは席を立ち、ドアへ向かった。 その背中は、やはりどこにでもいる、少し疲れたただの労働者のそれだった。 彼女はまた、名前を変え、場所を変え、この狂ったバブルの日本のどこかで、息を潜めて生きていくのだろう。 自分の中にある「暴力の獣」を、再び深い眠りにつかせながら。

ドアが開くと、賑やかな観光地の喧騒と、昭和57年の熱い、歪んだ風が店内に激しく流れ込んできた。

ウサギが去った後、宗平は一人、誰もいない店内で、カウンターに両手をついて静かに涙を流した。 その涙の滴が、復讐の完全な終わりと、彼に残された残酷なまでの孤独の始まりを、静かに告げていた。

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