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真・鶴の恩返し
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## 序章:観測されぬ神の系譜
そこは、現世(うつしよ)の住人が「天」と呼び、「山」と崇める、隠世(かくりよ)の領域だった。
光とも闇ともつかぬ極彩色の霊気が満ちるその世界では、万物が言葉を持ち、形を定めず、ただ純粋な「理(ことわり)」として存在している。
その領域の主たる大いなる白鶴――現世では神の眷属と呼ばれる存在――は、高次元の波形を揺らしながら、現世との境界線を見下ろしていた。
彼女の瞳に映るのは、人間の住む因幡(いなば)の雪山。
近年、そこから発せられる不協和音が、隠世の平穏を脅かしていた。人間たちが山の掟を破り、境界線の奥深くにまで「鉄の罠」を仕掛け始めたからだ。
鉄は、隠世の流動的な霊力を無理やり固定し、遮断する「文明の呪い」である。
世界のバランス――すなわち、人間が山から命を借り、また返すという【互酬(ごしゅう)の均衡】が、人間の強欲によって崩れかけていた。
「理の乱れを、正さねばならない」
彼女は純白の翼を広げた。
隠世から現世へと降りるということは、自らの神聖な構成要素を、人間の肉眼でも捉えられる「物質(鳥の肉体)」へと凝縮・降下させることを意味する。それは大きな消耗を伴う行為だったが、彼女は躊躇わなかった。
境界線を越え、雪深い禁足地へと降り立った瞬間、彼女の身体は一羽の巨大な白鶴へと固定された。
しかし、現世の悪意は、神の計算をも超えていた。
バチンッ――!
「……ッ!?」
雪に隠された強靭なバネが跳ね、鋭い鉄の歯が彼女の片脚を深く噛み砕いた。
激痛と共に、鉄の呪いが彼女の体内に流れ込む。隠世へ還るための霊的な経路が完全に遮断され、彼女の肉体はただの「傷ついた鳥」として雪原に縛り付けられた。
(しま、った……。このままでは、私は……)
鶴は狂ったように羽ばたき、罠から逃れようともがいた。だが、動けば動くほど鉄の歯は深く食い込み、純白の羽毛を血が汚していく。
死の恐怖以上に、彼女を絶望させたのは、隠世の絶対的な法律だった。
――異界の住人は、現世の住民に「真の姿」のまま無様に救われてはならない。
もし、人間から一方的に施しを受け、そのまま負債を返さずにいれば、魂の格(霊的地位)が反転する。彼女は神の眷属としての神聖性を失い、その人間に対する「従属物(家畜や所有物)」へと世界のシステムによって書き換えられてしまうのだ。それだけは、誇り高き隠世の住人として、死よりも受け入れがたい屈辱だった。
バサバサと雪を跳ね上げる音が、白銀の山に虚しく響く。
その時、雪をかき分ける重い足音が近づいてきた。
「おい、暴れるな! 動けば脚がちぎれるぞ!」
現れたのは、若い人間の猟師だった。
鶴は長い首をもたげ、その男――与平を鋭く睨みつけた。
(来るな、人間。私をその汚れた手で消費するつもりか。私の肉を喰らい、羽を毟るか)
彼女の瞳には、冷徹な知性と、人間に対する深い拒絶が燃えていた。
だが、その男の行動は、彼女の予測を裏切るものだった。
「悪かった。これは俺たちの身勝手だ。……今、外してやるからな」
男は武器を捨て、両手を広げて近づいてきた。
その目に宿っていたのは、支配の欲でも、哀れみでもない。ただの、純粋な「すまなさ」だった。
男は全身の体重をかけ、血を流しながら鉄のバネを押し下げた。
自由になった彼女が、男を突き飛ばして飛びのいた時、男はさらに信じがたい行動に出た。
「待て、そのままじゃ死ぬ!」
男は自分の着物の裾を迷わず引き破り、にじり寄ってきた。
鳥の鋭いくちばしを恐れもせず、その温かい手で傷口に布を巻きつけたのだ。
「よし。これで少しはもつはずだ。……さあ、早く行け。人間が来ない場所へ」
手放された瞬間、彼女の脳裏には、隠世の因果律が凄まじい速度で弾き出した「数式」が浮かび上がっていた。
(この男は、私を消費しなかった。それどころか、己の衣服を裂き、無償で私の命を繋ぎ止めた……)
それは、現世の言葉で言えば「極大の恩義」。隠世のルールに照らせば、「人間側に一生かかっても返しきれないほどの、圧倒的な霊的負債」の発生を意味していた。
このまま隠世に還れば、天秤は完全に傾き、彼女の魂の格は男に負ける。
それを防ぐ方法は、ただ一つ。
人間側のルール(通貨、労働、あるいは婚姻関係)に則って彼の隣に収まり、彼が「もう十分だ、もらいすぎだ」と降参するほどの圧倒的な対価を現世の物質として返却し、因果の天秤を元に戻すこと。
空へと舞い上がった鶴は、眼下で呆然と見上げる与平を深く見つめた。
男の優しさに触れたことへの、名前のない微かなときめき。そして、神の尊厳を守らねばならないという、冷徹な義務感。
(待っていなさい、人間の若者よ。私はすぐに、あなたの元へ還ります)
彼女は灰色の雲を突き抜け、自らの姿を「人間の娘」へと再構築するための大いなる術式へと身を投じていった。
## 第一章 神殺しの罠、あるいは因果の始まり
人の物語はここから始まる。
その冬の雪は、まるで山の怒りそのもののように激しかった。
四方を険しい峰に囲まれた因幡(いなば)の最奥。
若き猟師である与平(よへい)は、膝まで埋まる白銀をかき分けながら、一人で山道を下っていた。
息を吐き出すたびに、真っ白な霧が目の前を遮る。
背負った竹籠には、小ぶりな野ウサギが二羽。これだけでは、来月の年貢はおろか、明日の米にも事欠く有様だった。
「……しけた猟だ」
与平は冷え切った手を口元に当て、はあと息を吹きかけた。
この村には、古くから不文律がある。
――山で得たものは、山の神からの借り物である。ゆえに、必ずその一部を山へ返さねばならない。
ウサギを仕留めれば、その臓物を雪に埋めて山の獣に返す。木を伐れば、その根元に一握りの米を供える。
そうして人間と山は、互いに「貸し借り」の均衡を保ちながら生きてきた。それがこの地の、生きていくための絶対のルールだった。
しかし、ここ数年はその均衡が崩れつつある。
町からやってきた強欲な名主が、村の境界を越え、山の奥深くにまで「鉄の罠」を仕掛け始めたからだ。
鉄は、人間の文明の象徴であり、山にとっては異物だ。
一度それに囚われれば、山の生き物は肉を引き裂かれ、無残に命を落とす。与平はそのやり方が、どうしても気に入らなかった。
「……ん?」
ふと、風の音に混じって、奇妙な音が耳に届いた。
キィ、キィ、と、凍った金属が擦れ合うような、不吉な音。
それに続いて、バサバサと激しく雪を跳ね上げる音が聞こえる。
与平は歩みを止め、腰の鉈(なた)に手をかけた。
音の主は、村人が決して足を踏み入れない「禁足地」――神の領域との境界線に立つ、一本の巨木の根元からしていた。
警戒しながら雪を踏み締め、大木の陰を覗き込む。
その瞬間、与平は息を呑んだ。
「……大鶴(おおづる)か?」
そこにいたのは、今まで見たこともないほど巨大で、美しい白鶴だった。
広げれば一丈はあろうかという見事な翼。
だが、その片脚は、名主の仕掛けた太い鉄の罠に、深く噛みつかれていた。
鋭い鉄の歯が肉に食い込み、純白の羽毛をどす黒い鮮血が染めている。
鶴は狂ったように羽ばたき、罠から逃れようともがいていたが、動けば動くほど鉄の歯は深く食い込んでいくようだった。
「おい、暴れるな! 動けば脚がちぎれるぞ!」
与平は思わず叫び、駆け寄ろうとした。
その時、鶴の動きがピタリと止まった。
長い首をもたげ、その瞳がまっすぐにと与平を捉える。
与平の背筋に、ゾクリとした戦慄が走った。
それは、ただの動物の目ではなかった。
底冷えするような知性と、人間に対する深い拒絶、そして――威厳。
まるで、身分の低い者が立ち入るのを咎める、高貴な何者かの視線だった。
(こいつは、ただの鳥じゃない……)
村の老人が語っていた、山の神の眷属(けんぞく)。
現世(うつしよ)の理を超えた、隠世(かくりよ)の住人。
その言葉が、にわかに真実味を帯びて脳裏をよぎる。
鶴の目は、罠を仕掛けた「人間」という存在を、激しく呪い、睨みつけていた。
「……悪かった。これは俺たちの身勝手だ」
与平は鉈を雪に突き刺し、両手を広げて敵意がないことを示した。
「俺は猟師だが、こんな鉄の道具で命を奪うつもりはない。お前を殺せば、山の罰が当たる。……今、外してやるからな」
一歩、また一歩と近づく。
鶴は喉の奥で「グルル……」と低く威嚇の声を上げたが、傷の痛みに耐えかねたのか、それ以上は動かなかった。
与平は雪に膝をつき、凍てついた鉄の罠に手をかけた。
じっとりとした血の熱さが、与平の手のひらに伝わってくる。
「くそ、なんて硬いバネだ……!」
人間のエゴで固められた鉄の歯は、容易には開かない。
与平は歯を食いしばり、全身の体重をかけてレバーを押し下げた。腕の筋肉が悲鳴を上げる。
「開け……ッ! 開けろッ!」
パキィン、と凍ったバネが跳ねる音が響き、ようやく鉄の歯が緩んだ。
「今だ、脚を抜け!」
鶴は素早く脚を引き抜いた。
自由になった瞬間、鶴は大きく羽ばたき、与平を強烈な風圧で雪原へと突き飛ばした。
「うわっと!」
雪の中に倒れ込んだ与平は、慌てて顔を上げる。
鶴はすでに数間ほど離れた雪の上に立ち、深く傷ついた脚をかばうように、じっと与平を見ていた。
その脚からは、いまだに激しく血が流れ落ち、白雪を赤く汚している。
この寒さだ。このままでは飛び立つ前に血を失い、凍りついて死んでしまうだろう。
「待て、そのままじゃ死ぬ!」
与平は自分の着物の裾を掴むと、躊躇なく、力任せに引き破った。
ビリビリと小気味よい音が響き、細長い布切れができる。
それを手にしたまま、与平はにじり寄った。
「頼むから大人しくしてくれ。血を止めなきゃ、お前はもう飛べない」
鶴は鋭いくちばしを向け、今にも与平の目を突き穿たんばかりの姿勢をとった。
しかし、与平の目に宿る純粋な「必死さ」に圧されたのか、かすかに首を引いた。
与平は息を詰め、鶴の傷口に布を巻きつけた。
鳥の体温は、驚くほど高かった。まるで、命そのものが激しく燃焼しているかのように熱い。
きつく布を結び終えると、与平はそっと手を離した。
「よし。これで少しはもつはずだ。……さあ、早く行け。人間が来ない場所へ」
鶴は、包帯代わりに巻かれた与平の着物の切れ端を、不思議そうに見つめた。
それから、再びあの理知的な瞳で与平を深く、深く見つめる。
その眼差しは、先ほどの「呪い」から、何か得体の知れない「重み」へと変わっていた。
バサァッ、と。
一際大きな羽音が響いた。
激しい向かい風が与平の顔を叩く。
鶴は大きな翼を広げ、傷ついた脚をものともせず、垂直に空へと舞い上がった。
吹雪の混じる灰色の空へ、白き一閃が昇っていく。
鶴は一度だけ、与平の頭上で大きく旋回し、そのまま禁足地の奥深く、山の峰の彼方へと消え去った。
あとに残されたのは、鉄の罠と、雪の上に点々と散った赤い血の跡だけだった。
「……行ってしまったか」
与平は呆然と空を見上げていたが、急激に身体が冷えていくのを感じて、我に返った。
裾を破られた着物から、冷たい風が容赦なく入り込んでくる。
「寒い、寒い。早く帰って暖まろう」
突き刺していた鉈を引き抜き、与平は自分の家へと歩き出した。
この時、与平はまだ知らなかった。
異界のモノにとって、人間から「命を救われる」ということが、どれほど重大な意味を持つのかを。
彼が施したささやかな善意は、隠世の厳格なルールによって、巨大な因果の歯車を回し始めていた。
## 第二章 夜降ちの訪問者
鶴を助けたあの日から、さらに数日が過ぎた。
山の冬はいよいよ深まり、家々の屋根には大人の背丈ほどの雪が積もっていた。
その夜の吹雪は、とりわけ酷かった。
地吹雪が家を揺らし、隙間風が容赦なく室内の熱を奪っていく。
与平は薄暗い囲炉裏の前に座り、わずかな薪の爆ぜる音を聞きながら、冷え切った手をかざしていた。
竹籠の中の米は、あと二日もすれば底を突く。山へ罠を仕掛けに行こうにも、この猛吹雪では遭難を待つようなものだった。
「冷えるな……」
与平は自分の腕をさすった。
ふと、視線が自身の着物の裾に向く。あの日、鶴の傷口を縛るために引き破った跡が、不格好にほつれたままになっていた。
――トントン。
風の咆哮に混じって、微かな音が聞こえた。
与平は耳を澄ます。気のせいかと思ったが、しばらくして、今度ははっきりと、板戸を叩く音が響いた。
――トントン、トントン。
「こんな夜更けに、誰だ?」
与平は怪訝に思いながらも、立ち上がって戸口へと向かった。
この村の人間なら、こんな猛吹雪の夜にわざわざ他人の家を訪ねたりはしない。第一、周囲に民家はほとんどないのだ。
引き戸に手をかけ、力を込めて横に引く。
途端に、強烈な雪風が室内に吹き込み、囲炉裏の火が激しく揺らめいた。
「うわっと……!」
目を細め、雪煙の向こうを見つめた与平は、その場に凍りついた。
そこに立っていたのは、一人の若い娘だった。
傘もささず、頭から雪をかぶった彼女は、今にも倒れそうなほどに身を震わせている。
何より与平を驚かせたのは、その尋常ではない美しさだった。
透き通るような白い肌に、夜の闇を溶かし込んだような黒髪。切れ長の瞳は、どこかこの世のものとは思えない神秘的な光を宿している。
「あの……お頼み申します……」
娘は蚊の鳴くような、ひどく掠れた声で言った。
「吹雪で……道に迷ってしまい……。どうか、今宵一晩だけで構いません。暖を取らせてはいただけないでしょうか」
「あ、ああ。おい、大丈夫か」
与平は慌てて娘の肩を支え、家の中へと引き入れた。
急いで戸を閉め、閂(かんぬき)をかける。外の地獄のような寒さが、ようやく遮断された。
娘を囲炉裏のそばへと座らせる。
だが、その時に与平は妙な違和感を覚えた。
(足音が……しなかったな)
板張りの床を歩くとき、彼女からは一切の物音がしなかった。まるで、体重というものが存在しないかのように、音もなく囲炉裏の前へと移動したのだ。
さらに不審な点は続いた。
娘は囲炉裏の赤々とした炎を前にした瞬間、びくりと身体を強張らせ、拒絶するように数寸ほど後ろへ身を引いたのだ。
「火が……苦手なのか?」
「いえ……その。あまりに温かそうで、驚いてしまっただけです」
娘は俯き、長い睫毛を揺らした。
与平は彼女の衣服に目をやった。
町の上等な着物というわけではないが、かといって、この界隈の百姓が着るような粗末な麻の服でもない。どこか浮世離れした仕立ての衣だ。
そして、その腰回りを不格好に縛っている「帯」を見た瞬間、与平の心臓が大きく跳ねた。
それは、青い木綿の布切れだった。
与平が数日前、あの白鶴のために引き破った、自身の着物の裾とまったく同じ柄、同じ裂き織りの布だった。
「お前……その帯は……」
与平の言葉に、娘はゆっくりと顔を上げた。
その理知的な瞳がまっすぐにと与平を捉える。あの日、雪原の中で自分を睨みつけた、あの高貴な白鶴の眼差しが、脳裏に鮮烈に蘇った。
「私の名は、つう、と申します」
娘は静かに頭を下げた。
「身寄りもなく、行くあてもございません。あの雪山で命を落とすはずだった私を……あなたが救ってくださいました。その御恩を返すまで、私はここを動くわけにはいかないのです」
「恩返し、だって……?」
与平の頭の中で、村の古い信仰が繋がっていく。
――隠世(かくりよ)の住人は、人間に命を救われると『格』が下がる。
それを良しとしない彼らは、必ず等価、あるいはそれ以上の対価を払い、因果の天秤を元に戻そうとするのだ。
目の前にいる娘は、人間ではない。
あの日、自分が助けたあの白鶴そのものなのだ。
「お前、本当に……」
言いかけて、与平は言葉を飲み込んだ。
彼女の瞳には、強い意志の裏に、かすかな「怯え」が見えたからだ。
もしここで「お前はあの時の鶴だろう」と指摘してしまえば、彼女の正体を暴くことになり、何か取り返しのつかない境界線を越えてしまうような、不吉な予感がした。
それに、彼女は必死に「人間の娘」としての振る舞いを取り繕おうとしている。
冷え切った手を健気にすり合わせ、人間の言葉を使い、この狭い家の中に、人間側の婚姻のルールに則って収まろうとしている。
(この地にとどまるための、資格を得ようとしているのか……)
与平はひとつ、深く息を吐き出した。
「……そうか。つう、と言ったな」
与平は努めて穏やかな声を出した。
「行くあてがないなら、ここにいればいい。こんなむさ苦しい男の一人暮らしだ。米も大してないが、屋根と薪だけならいくらでもある。吹雪が晴れるまで、いや、お前がいたいと思うまで、ここにいるといい」
つうは驚いたように目を見張った。
それから、その白い頬をほんのりと赤く染め、今度は人間の娘らしい、心からの安堵の微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、与平様。……私、精一杯、あなたにお仕えいたします」
その夜から、奇妙な二人の共同生活が始まった。
つうは言葉通り、実によく働いた。
掃除や洗濯、料理など、不慣れながらも必死に与平の手伝いをした。
ただ、やはりどこか奇妙な部分は隠しきれなかった。
彼女が触れた水は、冬場であっても決して凍りつかなかった。
彼女が家の周りを歩くと、なぜかその足跡の周りだけ、雪が綺麗に溶けていくのだ。
そして何より、つうは与平に対して、過剰なまでの献身と、時折「置いていかれること」を極度に恐れるような、危うい視線を向けるのだった。
与平はそれを、彼女が「隠世のルール」と「孤独への恐怖」の間で揺れ動いているからだとは、まだ正確には気づいていなかった。
ただ、寂しかった与平の家に、彼女の優しい笑顔があることが、素直に嬉しかった。
二人の距離は、冬の寒さとは裏腹に、静かに、確実に縮まっていった。
しかし、穏やかな日常は、長くは続かない。
厳しい冬の終わりと共に、現世の残酷な現実が、二人の足元へとしのび寄っていた。
## 第三章 反転する聖域
冬が最後の悪あがきをするかのように、湿った重い雪が降る日々が続いていた。
「与平様、今月分の年貢ですが……」
村の組頭から突きつけられた紙切れを前に、与平は暗い囲炉裏の火を見つめたまま、深くため息をついた。
町の名主が変わってからというもの、取り立ては容赦がなくなっていた。今年の冬は猟果が乏しく、手元に残ったわずかな蓄えも底を突きかけている。このままでは、春を迎える前につうを養うどころか、二人して飢え死にするか、罪人として連行されるかの二択だった。
「……すまない、つう。俺に甲斐性がないばかりに、お前にまで苦労をかける」
与平が頭を下げると、つうは静かに首を振った。
その切れ長の瞳には、迷いのない、冷徹なまでの決意が宿っていた。
「いいえ、与平様。私に一つ、当てがございます。……あなたのために、機(はた)を織らせてください」
「機織り? だが、この家には古い機織り機が一台あるきりだ。それに、糸を買う金さえ……」
「糸は要りません」
つうは遮るように、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「私がお部屋にこもっている間、何があっても、決して中を覗かないと約束してください。それだけが、私の条件です」
つうは与平の前に膝をつき、その両手をそっと包み込んだ。
彼女の手は驚くほど熱かった。あの雪原で、傷口に布を巻いた時に感じた、命そのものが燃焼するようなあの異常な体温だ。
「与平様。私はあなたと、この世界で生きたいのです。人間の妻として、あなたの隣にいたい。だからこそ……私を信じて、決して約束を破らないでください」
その言葉は、単なる懇願ではなかった。
もしその一線を越えれば、二人の関係だけでなく、世界の理(ことわり)そのものが崩壊するという、悲痛な警告のようだった。
「わかった。お前がそこまで言うなら、決して覗かない。約束する」
与平が深く頷くと、つうは痛切なほどの安堵を浮かべて微笑んだ。
その夜、つうは物置の奥にある小さな機織り部屋へと入っていった。
パタン、と木の戸が閉まった瞬間だった。
「――っ!?」
与平は思わず身震いした。
家の中の温度が、一瞬にして凍土のように急激に下がったのだ。囲炉裏の火が、まるで目に見えない力に抑え込まれるように、極端に小さく、青白く変色していく。
戸の隙間から漏れてくるのは、現世(うつしよ)の松明の光ではない。それは、深い闇のようでもあり、同時に、人間の目では捉えきれない極彩色の波紋のようでもあった。
(あそこはもう、この家の中じゃない……)
与平は直感的に理解した。
つうが現世での肉体――「人間の娘」としての姿を維持するための演算と制御を、あの部屋の中で一時的に解除したのだ。
中を覗くということは、現世の不完全な人間が、隠世(かくりよ)の生々しい霊的法則と高密度のエネルギーを「直視」することを意味する。それは人間の精神を容易に崩壊させるほどの禁忌(タブー)なのだ。
ガコン、バタン。
ガコン、バタン。
静まり返った家の中に、規則正しい機織りの音が響き始めた。
だが、その音の合間に、時折、風の咆哮のような不気味な鳴動が混じる。
与平は囲炉裏の前に座り込み、ただひたすらに祈るように耳を塞いだ。
つうが部屋にこもってから、丸三日三晩が過ぎた。
四日目の朝、機織りの音が止まり、静寂が戻った。
ギィ……と、乾いた音を立てて戸が開く。
中から現れたつうを見て、与平は息を呑んだ。
「つう……!」
彼女の顔は幽霊のように真っ白で、美しかった黒髪はどこか艶を失っているように見えた。その腕に抱えられていたのは、一反の布だった。
「……与平様。これを、町へ持って行ってください」
つうは弱々しく笑みを作った。
その布を一目見た瞬間、与平の目は釘付けになった。
それは、この世のものとは思えないほど、圧倒的な美しさを放つ布だった。
純白でありながら、光の当たる角度によって、まるで生き物のように深紅や黄金の輝きを放つ。触れてみれば、凍えるような冬の空気の中で、まるで手向けられた体温のようにじんわりと温かかった。
「これは……」
「『鶴の諸羽織(もろはおり)』と、現世の人は呼ぶそうです。これでお上の年貢も、これからの暮らしも、きっと良くなります」
つうはそう言って、満足そうに目を閉じた。
与平は布を受け取ったが、そのあまりの「価値」の重さに、言い知れぬ恐ろしさを感じていた。
命を救われた隠世のモノは、人間に対して「返しきれないほどの富」を差し出すことでしか、その霊的な負債を清算できない。
彼女は今、自らの何かを決定的に削り落として、この奇跡を紡ぎ出したのだ。
与平は、手の中の温かい布を強く握りしめながら、彼女のやつれた横顔を、ただ見守ることしかできなかった。
## 第四章 神の血、人の欲
与平が町へと赴き、つうの織った布を差し出すと、市場は一時(いっとき)ひっくり返るような大騒ぎになった。
並み居る呉服商たちが目の色を変えて群がり、最終的には、小さな家なら十軒は建つほどの黄金が与平の手元に転がり込んできた。村の数年分の年貢など、一瞬で端金(はしたがね)に変わるほどの莫大な富だった。
「本当に、お前が一人でこれを……?」
与平は自宅の板間に黄金の入った袋を置き、呆然と呟いた。
だが、その顔に歓喜の色はない。むしろ、背筋を這い上がってくるような寒気に襲われていた。
つうは囲炉裏の傍らに座っていたが、その姿は、三日前よりも明らかに異質さを増していた。
透き通るような肌は白さを通り越し、まるで薄い磁器のようになっている。驚くべきことに、彼女の指先は痛々しく白くひび割れ、そこから血が流れることさえなかった。
「与平様が安心されたのなら、私はそれで満足です」
つうは微笑むが、その声には、人間が持つはずの「肉の響き」が欠けていた。かすれ、乾き、まるで遠くの風が鳴いているような音。
さらに、彼女が立ち上がって歩いた時、与平は見てしまった。床にわずかに残った灰の上を歩く彼女の足跡には、つま先も踵(かかと)の凹凸もない。ただ、一本の棒を押したような、平坦で質量のない不可解な痕跡だけが残されていた。
彼女は、人間としての肉体のバランスを失い、崩壊しつつある。
「つう、もう機(はた)は織らなくていい。これだけの金があれば、俺たちは一生遊んで暮らせる。だから、もういいんだ」
与平がすがるように言うと、つうは寂しげに、しかし頑なな目で首を振った。
「いいえ、与平様。まだ足りないのです」
(足りない? これほどの富があってもか?)
与平には理解できなかった。だが、つうの胸中は、隠世(かくりよ)の過酷な法律に支配されていた。
――異界の住人は、人間に命を救われたままでいてはならない。
もし、人間側が「もらいすぎだ、これ以上は返せない」と完全に降参するほどの圧倒的な対価を支払わなければ、天秤は傾いたままになる。そうなれば、つうの魂の格(霊的格付け)は人間に負け、いずれ彼女は与平の『所有物(家畜)』として世界のシステムに書き換えられてしまう。
彼女は与平を愛していた。人間の妻として対等に愛されたかった。だからこそ、一日も早くこの「命の負債」を完済し、契約を対等以上に引き上げなければならなかったのだ。
翌日、不穏な影が与平の家に落ちた。
「おい、与平。いるのだろう」
傲慢な声と共に、家の戸が乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、あの鉄の罠を山に仕掛けた張本人であり、この地を治める名主(なぬし)の男だった。その後ろには、いかにも狡猾そうな町の商人が、揉み手をして控えている。
「町で大層な布を売ったそうだな。大名家がこぞって買い求めたがっていると聞いたぞ」
名主は与平を値踏みするような目で見下ろし、それから奥にいるつうへと言葉を向けた。
「おい、娘。大名様の奥方様の婚礼のために、もう一反、同じ布を織れ。これはお上の命令だ」
「断る!」
与平はつうを背中に隠すようにして、名主の前に立ちはだかった。
「金なら、年貢ならもう十分にある! これ以上、つうに無理をさせるつもりはない。帰ってくれ!」
名主は不愉快そうに眉をひそめ、鼻で笑った。
「ふん、色ボケしたか与平。忘れるな、この娘がどこから来たか、誰も知らぬのだぞ。身元も分からぬ流れ者を囲うのは、この国の掟では『死罪』にあたる。……大人しくもう一反織らねば、この娘を罪人として役所に突き出すが、どうする?」
「貴様……ッ!」
与平が怒りで鉈(なた)に手をかけようとした、その時。
背後から、つうの冷ややかに澄んだ声が響いた。
「――分かりました。お織りいたします」
「つう!? 何を言っているんだ!」
驚いて振り返る与平の腕を、つうの冷たい指先がそっと制した。
彼女は名主と商人を見据え、一歩も引かずに告げた。
「ただし、猶予を三日ください。その間、この家に近づくことも、中を覗くことも、決して許しません。……それが守れるのであれば、最高のものを差し上げましょう」
「ふっ、話が早くて助かる。三日後だ、違えるなよ」
名主たちは満足そうに笑い、家を出て行った。
静まり返った家の中で、与平は激しい無力感に拳を握りしめた。
「なぜ受けるんだ、つう。あんな奴らの脅しなんて……」
「これで、最後にするためです」
つうは与平を見つめた。その瞳には、すでに現世への未練を断ち切ったような、恐ろしいほどの純粋さが宿っていた。
「これでもう一反、誰も届かないほどの価値を持った布を織れば……。名主たちも、この世界も、私を人間に縛り付けることはできなくなります。私は、本当の意味で自由になれるのです」
彼女のエゴと、世界のルールが、完全に噛み合ってしまった。
つうはそのまま、躊躇のない足取りで、あの反転する聖域――機織り部屋へと歩みを進めていった。
## 第五章 禁忌の境界線
パタン、と。
機織り部屋の戸が、重々しい音を立てて閉ざされた。
その瞬間、家の中の空気が一変した。
囲炉裏の火はまるで見えない氷に閉ざされたかのように、一気にその勢いを失い、小さく青い光を放つだけの冷たい塊へと成り果てた。
家のすべての隙間から、ヒタヒタと「隠世(かくりよ)」の気配が染み出してくる。
壁の木目は生き物のように歪み、天井の影は不自然に長く伸びては縮む。部屋の障子戸の隙間からは、この世の光を反転させたような、どす黒くも鮮烈な紫の燐光が微かに漏れ出ていた。
「つう……」
与平は板間にへたり込み、冷え切った己の両手を凝視した。
彼女が部屋に入る直前、その目には現世の人間には到底理解できない「決意」が宿っていた。
彼女が織ろうとしている布は、もはや単なる絹ではない。
命の天秤を無理やり跳ね上げ、名主たちのエゴをも黙らせるほどの「絶対的な神格の結晶」――彼女の寿命と存在そのものを、限界を超えて紡ぎ出す最終手段だった。
ガコン、バタン。
ガコン、バタン。
やがて、凍りついた静寂を破り、機織りの音が響き始めた。
しかし、その音はこれまでとは明らかに違っていた。
木と木が噛み合う美しい音の合間に、時折、何かが激しく擦れる「生々しい音」が混じる。
ピチャリ、ピチャリ、と、何かが床に滴る不吉な音が、機織りの規則正しいリズムに重なっていた。
(あれは、何の音だ……?)
与平は頭を抱え、耳を塞いだ。
つうは「決して覗かないで」と言った。その約束こそが、彼女が「人間の妻」というアバター(仮の姿)を現世に繋ぎ止めておける唯一の楔なのだ。
もし覗いてしまえば、彼女の正体を「鳥(異形)」として観測し、確定させてしまうことになる。そうなれば、隠世の厳しいペナルティが発動し、彼女は二度と人間の姿に戻れなくなる。それは、つう自身の口から論理的に説明されたわけではなかったが、この家に満ちる異常な気圧が、与平の肌にその「世界の法則」を直接刻み込んでいた。
一日目が過ぎ、二日目の夜を迎える。
機織りの音は衰えるどころか、ますます狂気を帯びて激しくなっていく。
ガコン、バタンッ!
ガコン、バタンッ!
「……う、あ……あ……」
音の合間に、人間のものではない「声」が聞こえ始めた。
それは、喉の奥を引き裂くような、金属質の苦しげな呼吸音。そして、細い骨が何本もバキバキと強制的に組み替えられるような、悍ましい肉体の軋みだった。
与平の精神は、徐々に恐怖と焦燥で磨り潰されていった。
(つうは、中で死にかけているのではないか?)
(名主たちの脅しから俺を守るために、あの部屋で自らを破壊しているのではないか?)
富など、もうどうでもよかった。大名への布も、名主の脅しも、すべて捨ててこの土地を逃げ出せばいい。
与平の胸中に沸き起こったのは、物欲でも好奇心でもない。
「愛する者を救わねばならない」という、純粋で、それゆえに他者の制止が効かない【善意の暴走】だった。
「つう! もうやめろ! 布なんてどうでもいい!」
与平は立ち上がり、機織り部屋の戸の前に歩み寄った。
戸の表面は、まるで冬の池の氷のように冷たく凍りついている。
「開けるぞ、つう! 俺はお前がいてくれれば、それだけでいいんだ!」
中からの返事はない。ただ、肉を引き裂くような凄惨な羽音と、激しい悲鳴に似た鳥の鳴き声が、板戸を震わせるばかりだった。
「つうっ……!」
約束という名の境界線。
それを守ることが彼女の尊厳であり、破ることが彼女の死を意味するかもしれないという矛盾。
与平は狂わんばかりの葛藤の末、ついに凍りついた引き戸に手をかけ、力任せに横へと引き放った。
##幕間:呉服問屋の古文書
深夜。
戸締まりを終えた町の老舗呉服問屋の奥の蔵で、主(あるじ)である源四郎(げんしろう)は、行灯(あんどん)の細い灯りを頼りに、漆塗りの文机に向かっていた。
彼の目の前には、昼間に因幡の山奥から来た若き猟師――与平が持ち込んだ一反の布が置かれている。
「……やはり、これは人が手にして良いものではない」
源四郎は、深い溜息をついた。
蔵の中は芯から冷え切っているというのに、その布の周囲だけは、まるで春の陽だまりのように温かい。純白の布地は、かすかな灯りを受けるだけで、自ら命を持っているかのように深紅や黄金の艶やかな波紋を浮かび上がらせていた。
これほどの代物を、あの身なりの貧しい猟師が「妻が織った」と言って持ち込んだのだ。
源四郎は、代々この町で呉服を商ってきた家系の長である。彼には、祖父から密かに受け継いできた一冊の古い書物があった。
源四郎は机の引き出しから、虫食いだらけの和綴じの古文書『異類婚姻覚書(いるいこんいんおぼえがき)』を取り出し、そっと頁を開いた。
そこには、過去数百年にわたり、この国で稀に起きた「神の眷属(けんぞく)」と「人間」の交わりの記録が記されている。狐、蛇、そして、鳥。
『――異界のモノ、人に命を救わるれば、その身は人の霊格にひれ伏す理(ことわり)なり。神の矜持(きょうじ)を保つため、彼らは己が命を削りて過剰なる対価を紡ぎ、天秤の均衡を戻さんとする』
古文書の一節を指でなぞりながら、源四郎は布に触れた。
じんわりとした、恐ろしいほどの熱。
「山神の眷属が、男への恩義を返すために紡いだ『命の切り売り』か……。道理で、この世の物とは思えぬほどの美しさと温もりを持つわけだ」
異界の住人が、人間に「無償で」命を救われることは、彼らのシステムにおいては絶対的なタブー(霊的格付けの敗北)を意味する。それを防ぎ、現世で対等な関係を築くためには、人間が一生かかっても得られないほどの莫大な富を与え、「もらいすぎだ」と人間に白旗を揚げさせるしかない。
この布は、その娘が自らの寿命と神聖性を限界まで圧縮して生み出した「完済の証明」なのだ。
しかし、と源四郎は目を伏せた。
悲しいかな、人間の欲望には底がない。
今日、あの名主が与平を脅し、「大名のためにもう一反織れ」と命じるのを、源四郎は黙って見ていた。止めることはできなかった。それが、この古文書に記された「避けられない破滅の道程」と同じだったからだ。
源四郎は、書物の次の頁をめくった。
そこには、太い墨の字で、ただ一行だけ恐ろしい警告が記されている。
『――決して、開けてはならず。現し世の目で異界の理を観測すれば、縁(えにし)は砕け散る』
「見るなの禁忌、か」
源四郎は独りごちた。
民話ではよく「恥ずかしいから見ないでくれ」と語られるが、事実はそんな感傷的なものではないことを、源四郎は理解していた。
機を織る部屋は、神の眷属がその強大なエネルギーを物質(布)に変換するための、いわば「隠世(かくりよ)」の空間だ。そこでは、人間の娘という仮の姿を維持することはできない。
もし、現世の人間がその戸を開け、中を覗き見てしまえばどうなるか。
「現世の人間」が、彼女の真の姿を「異形の化け物」として視覚に捉え、認識を確定させてしまうのだ。
観測された瞬間、人間と神を繋いでいた細い因果の糸はパチンと弾け飛ぶ。世界の冷酷なシステムが作動し、異界のモノは二度と人間の姿を保てなくなり、強制的に現世から追放される。
彼女たちが「見ないで」と懇願するのは、単なる恥じらいではない。
愛する人間の精神を異形の姿で壊さないための優しさであり、同時に、自分が「人間の妻」としてこの世界に存在し続けるための、最後の防衛線なのだ。
「あの不器用な若者は……きっと、開けてしまうだろうな」
源四郎は、昼間に見た与平の悲痛な顔を思い出した。
与平の目にあったのは、富への執着ではない。妻が命を削っているのではないかという、純粋な恐怖と心配だった。
悪意や欲望なら、止められるかもしれない。
だが、「愛する者を救いたい」という善意の暴走ほど、この世で残酷にタブーを打ち砕くものはない。
「神が人に近づきすぎた罰か、人が神を型枠に嵌めようとした罰か……。いずれにせよ、今宵あたり、山で悲しい風が吹くことだろう」
源四郎は古文書を閉じ、重い溜息と共に、行灯の火を吹き消した。
暗闇に包まれた蔵の中で、純白の諸羽織だけが、これから起こる悲劇を予言するように、ひっそりと熱を帯びて光り続けていた。
## 第六章 観測の破滅
ガガガガンッ!
激しい音を立てて戸が開いた瞬間、与平は強烈な風圧に押し戻され、床に激しく叩きつけられた。
「がはっ……!」
肺の空気を強制的に吐き出され、激しく咳き込む。
部屋から吹き出してきたのは、現世(うつしよ)の冷気ではない。それは、大気そのものが歪み、重さの狂った異界の暴風だった。目を開けることすら容易ではない風の中、与平は必死に顔を上げた。
「つう……っ!」
叫び、部屋の中を直視した瞬間。
与平の思考は、あまりの衝撃に完全に停止した。
そこにいたのは――人間の娘ではなかった。
かつて雪原で見た、あの巨大な白鶴。
だが、その姿はあまりにも凄惨で、悍(おぞ)ましく、そして神聖だった。
機織り機に向かうその身体は、人間の皮膚を半分脱ぎ散らかしたように引き裂かれ、むき出しになった鳥の骨格と翼が、不自然な角度で蠢いている。
「ガ、ハッ……グゥ……」
人間の声帯を失った喉から、血の混じった金属音が漏れる。
鶴は、自らの長く美しい嘴(くちばし)で、自身の胸元を容赦なく突き刺していた。そして、肉ごと引きちぎった純白の羽毛を、鮮血に濡れたまま機の糸へと紡ぎ込んでいたのだ。
床には、彼女の身体から流れ落ちた大量の血が漆黒の池を作っている。
彼女が命を削り、若さと美貌を換金性の高い布へと変換していた、その呪わしい儀式の全貌がそこにあった。
「あ、ああ……」
与平の口から、掠れた声が漏れた。
恐怖、驚愕、そして、底知れない罪悪感。
愛する妻が、自分のために、これほど凄まじい地獄を生きのびていた。その「真実」の圧倒的な重量が、与平の脳髄を叩き割るように襲いかかる。
その時。与平の声に、異形の怪物がゆっくりと首を巡らせた。
その瞳と、視線が交わる。
知性と悲しみに満ちた、あの白鶴の瞳。
その瞬間、部屋を満たしていた異界の燐光が、パチンと弾けるように霧散した。
現世の人間である与平が、彼女の姿を「鳥(異形)」として完全に【観測・確定】した。その事実が、この家に張られていた隠世(かくりよ)の結界を根底から破壊したのだ。
「あ……、あ……」
つうの身体を覆っていた「人間の皮膚」の残骸が、光の粒子となって剥がれ落ちていく。因果の数式がバグを起こし、強制的なリセットが始まったのだ。
彼女はもう、二度と人間の姿を維持できない。
鶴の瞳から、一筋の血に染まった涙が流れ落ち、床の血だまりに波紋を作った。
その目は怒ってなどいなかった。ただ、世界の冷酷なルールに従わざるを得ない絶望と、最も見せたくなかった「醜い自傷の姿」を愛する者に見られてしまったという、圧倒的な恥辱に震えていた。
## 第七章 千羽の風に消える
「つう……! すまない、俺は、お前が心配で……っ!」
与平は血の海に塗れた床を這い、異形の姿となった彼女へと手を伸ばした。
抱きしめたかった。その傷だらけの身体を。自分の勝手な「善意」が、彼女の誇りを、彼女が命がけで築いた現世での居場所を、すべて台無しにしてしまったのだと激しく悔いた。
しかし、与平の手が彼女に触れるより先に、冷酷な世界のルールが執行される。
バサァッ――!
一際大きな羽音が部屋の中に吹き荒れた。
人間の輪郭は完全に崩壊し、そこには一羽の巨大な白鶴だけが残された。
彼女はもう、現世の言葉を発する声帯を持たない。だが、引き裂かれた結界の歪みを通じて、彼女の霊的な残響が、直接与平の脳裏へと流れ込んできた。
――見てほしくはなかった、与平様。
それは、どこまでも優しく、そして痛切な響きだった。
――私は、あなたの中で、常に美しく幸福な人間の妻でありたかった。化け物の姿のまま、あなたに罪悪感を背負わせたくはなかったのです。
「違う! 化け物なんかじゃない、お前はつうだ! 俺の妻だ!」
――現世の人間が、隠世(かくりよ)のモノを『異類』と正しく認識した瞬間、婚姻の契約は強制的に解除される。それが、この世界の絶対の掟。もう、私は人間の姿に偽る因果の糸を持たない。ここに留まれば、私はあなたの『所有物』として、ただの鳥に書き換えられてしまう。
鶴は静かに、その大きな翼を広げた。
胸元からは未だに血が滲んでいたが、その立ち姿には、出会ったあの日と同じ、誇り高き神の眷属としての威厳が戻りつつあった。
――けれど、これで負債は返しました。大名も、名主も、これ以上の価値を私から奪うことはできない。私はあなたの奴隷ではなく、一羽の誇り高き神の眷属として、あなたを愛したまま去ります。
「つう! 待ってくれ! 行かないでくれ!」
与平の叫びをかき消すように、鶴は大きく羽ばたき、機織り部屋の天井を突き破らんばかりに舞い上がった。
そのまま、開け放たれた戸口から、激しい吹雪の夜空へと一気に飛び出していく。
「つうううっ!!」
与平は裸足のまま、雪原へと飛び出した。
灰色の夜空を見上げる。そこには、吹き荒れる千羽の風を従えるように、悠然と、しかし二度と戻らない速度で、禁足地の奥深くへと去っていく白き一閃があった。
鶴は一度だけ、与平の頭上で哀切な鳴き声を響かせ、そのまま山の峰の彼方へと消えた。
あとに残されたのは、凍えるような夜の静寂だけだった。
翌朝、名主と商人が約束通り、傲慢な笑みを浮かべて与平の家を訪れた。
しかし、そこにいたのは、燃え殻のようになった囲炉裏の前で、放心したように座り込む与平の姿だけだった。
「おい、与平。布はできているんだろうな」
名主が部屋を覗き込み、言葉を失った。
機織り部屋の中央には、見たこともないほど美しく、そして恐ろしい布が完成していた。
それは、一切の混じり気のない純白でありながら、触れずとも陽炎のような熱気を放ち、見る者の心を狂わせるほどの神聖な光を放っていた。つうが自らの命のすべてを賭して織り上げた、最後の諸羽織(もろはおり)だった。
「これ、これは……まさしく神の布だ……!」
商人が狂喜乱舞して布に手を伸ばそうとした、その時。
布の表面からパチパチと青白い火花が散り、強烈な霊気が名主たちを弾き飛ばした。
「うわああっ!?」
「な、何だこれは! 触れられん!」
どれほど手を尽くしても、強欲な人間がその布に触れることは叶わなかった。その布は、現世の価値基準では測れない、隠世の『完済の証』としてそこに固定されていたからだ。名主たちは恐怖に顔を引き攣らせ、逃げるように去っていった。
一人残された与平は、そっと布に近づいた。
与平が手を触れると、布はまるで愛しい者の肌のように、優しく、温かくその手を包み込んだ。
「つう……」
与平はその布を売ることも、誰かに見せることもしなかった。
大富豪になるはずだった黄金の袋も、そのまま床下に埋めた。
ただ、彼女が遺してくれたその温もりだけを胸に抱き、与平は一生、あの山を裏切ることなく、自然の貸し借りのルールを守りながら静かに生きた。
冬が来るたび、与平は禁足地の空を見上げる。
そこには今も、かつて現世を、そして自分を、確かに愛してくれた一羽の美しい鶴の気配が、風の中に溶けて優しく響いているのだった。
## エピローグ:語り継がれる因果の書
あれから、五十年の歳月が流れた。
因幡の最奥にあったあの小さな村も、今ではすっかり様変わりしていた。強欲だった名主の家系はとっくに没落し、時代の波と共に新しい顔ぶれが土地を耕している。
しかし、山々の峻厳たる佇まいと、冬になれば全てを白く閉ざす猛吹雪だけは、何一つ変わっていなかった。
その年の冬の暮れ、一人の若き旅人が村を訪れた。
名を、高明(たかあきら)という。京の都で民俗学や古の伝承を修める、新進気鋭の学者であった。彼は村外れの粗末な庵(いおり)の前に立ち、深く息を吐き出した。
「ここが……『体温を持つ布』が遺るという庵か」
高明が戸を叩くと、中から「入りなされ」と、ひどくかすれた、しかし穏やかな老人の声が響いた。
戸を開けると、薄暗い囲炉裏の前に、一人の老翁が座っていた。白い髪と髭を蓄え、深く刻まれた皺の奥にある瞳だけが、驚くほど澄んでいる。彼こそが、かつて若き猟師と呼ばれた与平の、老いた姿であった。
「突然の訪問、失礼いたします。私は都から参りました。この地に伝わる、ある奇妙な織物の噂を確かめに偏(ひとえ)に参ったのです」
高明は丁寧に頭を下げ、懐から帳面を取り出した。
「噂によれば、その布は五十年経った今もなお、触れると人の肌のような温もりを持ち、どれほど強欲な者が手に入れようとしても、決して触れることすら叶わないとか。……それは、本当なのですか」
老いた与平は、囲炉裏の炭を火箸で静かにつついた。
そして、何も言わずに部屋の奥を指差した。
そこには、古びた機織り機と共に、一反の純白の布が大切に祀られていた。
高明は息を呑んだ。五十年という歳月が経っているにもかかわらず、その布は埃一つ被っておらず、外からの微かな光を浴びて、まるで生き物のように深紅や黄金の輝きを放っている。
「触れてみても、よろしいでしょうか」
高明の問いに、与平は小さく頷いた。
「お前さんが、ただの物欲や好奇心で来たのでないなら、拒まれはせんよ」
高明は緊張に手を震わせながら、その白き織物へと指先を伸ばした。
触れた瞬間、高明の全身に衝撃が走った。
それは、ただの温もりではなかった。厳冬の空気の中で、確かに「生きた人間の体温」が、じんわりと手のひらを伝ってきたのだ。同時に、脳裏に圧倒的な『神聖さ』が直接流れ込み、高明は思わず手を引き、その場に跪いた。
「これは……人が織ったものではない。やはり、異界の住人が紡いだ、霊的な結晶だ」
高明は興奮を抑えきれない声で、与平を振り返った。
「お爺さん、私はこれまで数々の異類婚姻譚を調べてきました。蛇、狐、そして鳥。彼らは皆、人間に恩を返しに現れ、そして最後には『見るなのタブー』を破られて去っていきます。
私はずっと疑問でした。なぜ彼らは、それほどまでに正体を見られることを拒むのか。なぜ、ただ見られただけで、愛する人のもとを去らねばならないのか。……ですが、この布に触れて、ようやく理解できました」
高明は自らの学術的な推論を、確認するように言葉にしていった。
「隠世(かくりよ)のモノにとって、『恩』とは単なる感情ではなく、世界のバランスを保つための【絶対的な互酬(ごしゅう)の原則】なのですね。命を救われた彼女は、あなたへの負債を清算し、対等な存在であるために、己の生命そのものである羽を毟り、この圧倒的な価値を紡ぐしかなかった。
そして、機織り部屋とは現世の理を反転させた『聖域』だった。あなたが戸を開け、彼女の真の姿を『鳥』だと認識――すなわち【観測】してしまった瞬間、彼女が人間として現世に留まるための因果の数式が破壊され、世界のシステムによって強制的に排除されてしまった。……彼女はあなたを嫌って去ったのではない。去らねば、ただの家畜(とり)へと墜とされるから、己の神格と、あなたへの愛を守るために、去るしかなかったのですね」
若い学者の熱を帯びた言葉を、老与平は静かに聞いていた。
やがて、火箸を置き、遠い空を見上げるように目を細めた。
「難しい学問のことは、俺には分からんよ、学者先生」
与平は寂しげに、しかし愛おしそうに微笑んだ。
「ただ、あいつが部屋に入る前、哀しい顔で『私を信じて』と言ったんだ。あいつは、世界の決まり事なんてものと戦っていたのかもしれんな。
俺が約束を破って中を覗いた時、あいつの身体からボロボロと人間の皮が剥がれ落ちていくのが見えた。あいつは泣いていたよ。怒っていたんじゃない。俺のせいで世界から追い出されることよりも、一番見せたくなかった、ボロボロに傷ついた醜い姿を、俺に見られてしまったことが、堪らなく恥ずかしく、悲しかったんだと思う」
与平は自身の、皺だらけの大きな手をそっと布に当てた。
布は、待っていましたと言わんばかりに、老人の手に心地よい熱を返した。
「あいつは最後に、脳みそに直接響く声で『これで負債は返した。私はあなたの奴隷ではなく、一羽の誇り高き神の眷属として、あなたを愛したまま去る』と言った。
俺はあいつを失って、神様を覗き見た罰として、一生をこの寂しい山奥で終える。だがね、先生。俺はちっとも不幸じゃないんだ」
与平の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「この布が今も温かいのは、あいつの『お返し』が、今もずっと続いているからだ。俺のささやかな善意なんてとうに超えて、あいつの命そのものが、今も俺の心を温め続けてくれている。俺たちは世界の決まりに引き裂かれたが、心だけは、あの時たしかに対等な夫婦だったんだよ」
高明は、返す言葉を持たなかった。
民俗学のシステムや、因果律の数式などという無機質な言葉では括りきれない、圧倒的な「愛のエゴ」が、そこには確かに息づいていた。
高明は開いていた帳面を静かに閉じた。
この真実は、論文として世に発表すべきではない。ただ、この美しい悲劇のロジックと切なさを、胸の奥深くに刻み込んでおくだけで十分だった。
「……ありがとうございました。長居をいたしました」
高明が庵を後にし、雪の積もる山道を下り始めた時。
背後から、バサバサと、一際大きな風の鳴る音が聞こえたような気がして、彼は振り返った。
灰色の空の彼方、禁足地の峰の上を、一羽の大きな白き鳥が、円を描くように悠然と飛んでいくのが見えた。
それは現世の鳥か、それとも隠世の幻影か。
ただ、その翼が起こした風は、凍えるような冬の山道の中で、驚くほど温かく、高明の頬を撫でて通り過ぎていった。
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