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御産霊、ころりん
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## 第一章:常世の口開く
その山は、喰らう山であった。
土佐の地を這う黒潮の湿気が、山背の冷気と激しく衝突するその山塊を、麓の村人たちは古くから「畚(ふご)降ろし」と呼んで畏れた。
畚とは、かつて鉱山で土砂や鉱石を運び出すために使われた泥籠のことである。つまりこの山は、足を踏み入れた人間の肉も骨も、あたかも掘り出された泥のように底なしの割れ目へと「引きずり降ろす」怪異の宿る場所とされていた。
茂兵衛(もへえ)は、その山に一本の楔(くさび)のように生きていた。
六十を数えた身体は、長年の山仕事によって立ち枯れた木の幹のように硬く、ねじくれていた。村の協同体から一里も離れた山際、夜になれば獣の息遣いが障子を震わせる粗末な小屋が、彼と、齢(よわい)を同じくする妻の「ぬい」の拠り所であった。
村人から「山の物の怪に魂を半分売った男」と忌まれ、遠巻きにされていたが、彼自身は山をただの自然とは見ていなかった。それは、無数の生霊と死霊が蠢く、巨大な「境界」そのものであった。
---
十一月の中旬、山の頂がうっすらと白く化粧を始める頃、茂兵衛は冬を越すための木炭を焼くべく、さらに深い奥山へと足を踏み入れていた。
昼時になり、茂兵衛は古びた落葉松(からまつ)の根元に腰を下ろした。手のかじかむ寒さの中、腰の竹皮をほどく。現れたのは、ぬいが今朝、まだ夜が明ける前の暗がりの中で握ってくれた、二つの「おむすび」であった。
日本の古い信仰において、「むすび(産霊)」とは単なる調理行為を指す言葉ではない。それは万物を生み出し、育む神秘的な生命力を意味する。米という天日の霊力を宿した穀物を、人間の手によって「結ぶ」行為は、一種の呪術であった。
おむすびは、日常(此岸)から非日常(彼岸)へと赴く旅人や労働者が、異界の魔から身を守るための「魔除けの神饌(しんせん)」であり、同時に異界の神への「最も原初的な供物(生贄の代替品)」としての意味を内包していた。
ぬいが握るおむすびは、完璧な三角形をしていた。その角(かど)はまるで刃のように尖り、米粒同士が異様な密度で結託している。
塩は、海岸の塩番から譲り受けた粗塩。薪の煙の匂いが残るその白い結晶は、米の甘みを引き立てると同時に、強烈な「清め」の気配を放っていた。
茂兵衛がおむすびを口へ運ぼうとした、その刹那であった。
山の「呼吸」が止まった。
鳥の囀(さえず)りも、木々を揺らす風の音も、一瞬にして圧殺された。訪れたのは、鼓膜が痛むほどの絶対的な沈黙。
直後、足元の岩盤から、地響きとも、巨大な獣の唸りともつかぬ重低音が突き上げてきた。
ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……。
地震ではなかった。大地が、まるで大きな「顎(あご)」を開くかのように、茂兵衛の目の前の地面が裂けた。落葉松の根が悲鳴を上げて引きちぎられ、積もった腐葉土が、滝のようにその亀裂へと吸い込まれていく。
「うおっ!?」
茂兵衛は咄嗟に幹にしがみついた。身体が大きく揺さぶられ、その拍子に、手元から白磁のようなおむすびが、一つ、滑り落ちた。
おむすびは、斜めになった地面を転がった。
ころ、ころ。
それは不自然なほど滑らかに、まるで自らの意思で、その漆黒の割れ目へと急いでいるかのように見えた。
「あ――」
茂兵衛の声は、地鳴りに掻き消された。
おむすびは、大地の裂け目の縁を一度だけ跳ねると、そのまま底の知れない暗黒へと、吸い込まれて消えた。
---
やがて、地鳴りは嘘のように収まった。
後に残されたのは、直径三尺ほどの、不自然なまでに真円に近い、垂直の縦穴であった。それはまるで、地底の巨獣がストローで地上を穿ったかのようであった。
茂兵衛は、息を荒くしながら穴の縁に這い寄った。
諦めて立ち上がろうとした、その時だった。
闇の奥底から、微かな「音」が上ってきた。
それは風の音ではなかった。ましてや、地底の泥が爆ぜる音でもない。
それは、唄であった。
――おむすび ころりん すっとんとん
――根の底 闇の底 すっとんとん
背筋が凍りつくような、しかし同時に、甘やかな陶酔を誘うような美しい不協和音。何十、何百という「割れた喉」が、一斉に、調和を保ちながら囁き、歌っている。
その言葉は、確かに茂兵衛の耳に「おむすび」と届いた。地上の言語ではないはずのそれが、脳裏に直接、血の文字となって染み込んでくる。
――天日の生贄(いけにえ)が 落ちてきた
――血肉の結びが 落ちてきた
――おむすび ころりん すっとんとん
古来、日本の民話において、怪異が「唄」を歌う事例は非常に多い。川霊や山姥が歌う唄は、人間を精神的に拘束し、異界へ誘うための「呪歌」である。
「すっとんとん」という一見軽妙な擬音は、後世の児童文学化によって楽しい響きに改変されたものであるが、原初的には「主(ぬし)の殿(との)」、あるいは「底の殿」――すなわち、地底を支配する絶対的な神への拝礼の呼び声であったとされる。
あるいは、生贄が底へ「吸い落とされる」落下の物理的・呪術的衝撃そのものを表す、血生臭い言葉だったのかもしれない。
歌声は、徐々に熱を帯び、狂気じみた飢餓感を込めて歌い上げられていく。地底の奥深くで、何かがそのおむすびを囲み、狂おしく踊り狂っている気配が、音の振動となって茂兵衛の皮膚を打った。
---
「何が、居る……?」
普通の人間であれば、恐怖のあまり山を駆け下りるだろう。だが、茂兵衛は違った。
彼は、ぬいが握ったあの完璧な三角形の呪物が、異界の何者かに奪われたという事実に、一種の義務感を覚えていた。供物を受け取った異界の神は、必ずその「対価」を地上に要求する。それを有耶無耶にすれば、麓の村、あるいは我が小屋にどのような災厄が降りかかるか分かったものではない。
「契約を、見届けねばならん」
茂兵衛は腰から太い麻縄を取り出すと、近くの頑丈な落葉松の根に固く結びつけた。そして、鉈(なた)をしっかりと腰に差し直す。
茂兵衛は、ためらうことなく、その漆黒の縦穴へと足を入れ、自らの身体を闇の中へと滑り込ませた。
---
穴の壁面は、驚くほど滑らかだった。岩肌には、人間のものではない、無数の小さな「爪」で引っ掻いたような、血の滲むような跡が、規則正しく刻まれている。
下へ、下へと降りるにつれ、地上の寒さは遠のき、代わりに、発酵した土の匂いと、微かに「腐敗した肉」のような、あるいは「古い血」のような、生々しい香気が鼻腔を満たし始めた。
唄は、確実に近づいていた。
地底の闇が、ゆっくりと、赤紫色の淡い光へと変色していく。それは、壁面に群生する未知の発光菌――通称「死人苔(しびとごけ)」の輝きであった。
縄の端に達したとき、茂兵衛の足は、湿った、しかし無数の骨片が混ざり合う、硬く踏み固められた土の床に触れた。
そこは、地上からは想像もつかない、巨大な地下空洞の入り口であった。
茂兵衛は鉈に手をかけながら、赤紫に光る苔の回廊の先へと、静かに歩みを進めた。
彼が「黄泉(よみ)」あるいは「根の国」と呼ばれる、二度と生きては戻れぬ異界の第一歩を踏み出したことに、地上の妻はまだ気付いていなかった。
## 第二章:黒鉄の土蜘蛛
赤紫色の「死人苔」が不気味に蠢く回廊を抜けたとき、茂兵衛は思わず息を呑んだ。
頭上に広がるのは、地上のいかなる漆黒をも凌駕する、圧倒的な質量を持った岩の虚空。発光菌の放つ網膜を刺すような光の海の下に、無数の「横穴」が、まるで巨大な白骨の眼窩のように不気味に穿たれていた。
そこは、童話に描かれるような可愛らしい小動物の隠れ家などでは断じてなかった。
かつて大和の朝廷に抗い、文字通り「害獣」として生きて地底へと追いやられた、異形の亜人たちの血腥い王朝。民俗学において古くから「土蜘蛛(つちぐも)」あるいは「国栖(くず)」と貶められてきた、まつろわぬ民の末裔――それこそが、この地底を這う「鼠の眷属」の正体であった。
彼らは人間ほどの大きさがあり、異様に肥大化した漆黒の爪と、針金のような剛毛に覆われた身体を持っていた。背は丸く、顔はネズミに酷似しているが、その双眸には、暗黒に適応した捕食者特有の、冷酷な知性の光が宿っている。
巨大な広場の中央には、赤黒い血が染み付いた石の祭壇が据えられていた。
その上に、ぬいの握ったあのおむすびが、まるで生贄の生首のように厳かに捧げられていた。
「見よ。此岸(しがん)の調停者が、真なる産霊(むすび)を差し出したぞ」
祭壇の奥から、一際巨大な、白毛の混ざった老異形が姿を現した。この地底の王朝を統べる「長老」である。その長い尾は、かつて地上で受けたであろう太刀傷で無惨に引きちぎられていた。
彼らの周囲では、幾百もの若い眷属たちが、おむすびを囲んで手を取り合い、狂おしいステップで円を描いていた。
――おむすび ころりん すっとんとん
――血肉の結びが 落ちてきた
彼らの歌声が響くたび、おむすびの尖った角から、純白の湯気とともに、地上の「生の気配」が蛇のように立ち上る。ネズミたちはそれを飢えた獣のように鼻腔から吸い込み、恍惚のあまり鋭い牙を鳴らして身震いしていた。
古来、日本の地底(黄泉の国)の住人は、地上の生者が口にする食べ物を激しく渇望する。それは、日の当たらない根の国では「米」という天日の結晶を絶対に生産できないからである。
地底の民にとって、人間が魂を込めて結んだ米を食すことは、一種の「霊的輸血」であった。彼らはこれによって衰退する種族の命を繋ぎ、地上への復讐の活力を維持していたのである。
「おい」
地鳴りのような、しかし確固たる人間の声が、狂宴の広場を圧殺した。
ネズミたちの動きが、一瞬にして凝固する。幾千もの獰猛な赤い瞳が、一斉に入り口の暗がりに立つ茂兵衛へと向けられた。
茂兵衛は腰から引き抜いた使い込まれた鉈(なた)を、地底の毒気に晒しながら、低く構えていた。
「俺の身内の握ったものだ。勝手に貪ることは許さん。対価を支払うか、さもなくばその薄汚い首を差し出せ」
数匹の若いネズミが、威嚇の声を上げて茂兵衛に飛びかかろうとした。その爪は、一振りで人間の喉笛を裂くに十分な長さを誇っていた。
「退け、愚か者ども」
長老の地を這うような声が、若者たちを制した。長老は、茂兵衛がまとう「山の殺気」を正しく見抜いていた。この老爺は、ただの迷い人ではない。山そのものに生贄を捧げ、境界を守ってきた「調停者」であると。
「……ようこそ、地上の結び手よ」
長老は、長い爪の生えた両手を、奇妙な礼の形で胸の前に組んだ。
---
「誤解をされるな。我らはこれを、ただの糧食として貪るわけではない。これは我らにとって、契約の聖体拝領(せいたいはいりょう)なのだ」
長老の歪んだ口元から、黄色い牙が覗く。
「かつて地上の人間は、山を開くたび、我らに米を、そして時には人の血肉を捧げ、山の怒りを鎮めてきた。だが、今の地上はどうだ? 神仏を忘れ、大地をただの泥と侮り、儀式を捨て去った。その結果、我ら根の国の神々は飢え、大地の底は干からびかけている」
長老はおむすびを指差した。
「だが、お前の妻が握ったこのおむすびには、古い時代の血の匂いがする。時間をかけ、祈りを込め、大地の神への畏れを持って結ばれた、本物の供物だ。これ一つで、我が王朝の呪いは、あと数年の猶予を得る」
茂兵衛は、ネズミたちの目をじっと見据えた。
そこにあるのは、単なる怪物の飢餓ではない。地上から忘れ去られ、歴史の闇に埋もれていく者たちの、執念と悲哀であった。
「……ならば、契約は成立だ」
茂兵衛はゆっくりと鉈を引いた。
「そのおむすびは、お前たちにやる。だが、此岸の理を乱すような災いを、麓の村に落とすことは許さんぞ」
「承知した。ならば、我らもまた、古い法に従って『生贄の対価』を支払わねばならぬ」
長老が低く鳴くと、広場の奥の闇から、四匹のネズミが重々しく【一つの箱】を運んできた。
それは、人間の大腿骨(だいたいこつ)を削って作られた留め具と、黒鉄の鎖で幾重にも縛られた、禍々しい「小さいつづら」であった。
「この中には、地上の人間が掘り起こしてはならぬ、しかし持っていれば大地の富を約束する『神体』が入っている。これを持って、地上へ戻るが良い」
茂兵衛がその骨の箱を受け取った瞬間、ずしりと、呪いの重みが腕を伝わって脳髄を揺るがした。
だが、茂兵衛は怯まなかった。彼はそれを背負い籠に叩き込むと、踵を返し、再び赤紫色の闇の中へと歩き出した。
背後からは、再び、地底の民たちの、どこか哀悼を込めた「すっとんとん」の唄が響き始めていた。
## 第三章:生贄の対価
麻縄を伝って地上の光が見える縦穴の縁へと這い上がったとき、山はいつも通りの、しかしどこか余所余所しい冷気を取り戻していた。
茂兵衛は背負い籠の中の、黒鉄の鎖で縛られた「小さいつづら」の重みを感じながら、夕闇の迫る山道を急いだ。箱から発せられる仄暗い冷気が、彼の背中を通じて骨の髄まで凍えさせようとしていたが、茂兵衛は一言も零さなかった。異界の神から受け取った「対価」を背負うということは、そういうことだと分かっていたからだ。
山際の小屋へ戻り、煤けた板の間にその骨の箱を置いたとき、ぬいはやはり、何も訊ねなかった。
ただ、箱の異様な佇まいと、留め具に使われている人間の骨の白さを見つめ、静かに竃(かまど)の灰を均しただけだった。夫婦の間に言葉は要らない。ぬいはすぐに、戸棚から一合の塩を取り出すと、その箱の周囲に真っ白な結界の輪を描いた。
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その夜から、茂兵衛の小屋の周囲で、奇妙な現象が起き始めた。
夜半になると、庭の土がひとりでに盛り上がり、地中から見たこともない巨大な山芋や、黒い茸が次々と顔を出すようになった。さらに、茂兵衛が焼く木炭は、火を熾せば一切の煙を立てず、まるで生き物の血のように赤黒く、そして恐ろしいほどの熱を何日も保ち続けるようになった。
日本の古い民俗信仰において、こうした地底からの賜り物は「宇賀神(うがじん)」や「蛇神」がもたらす、文字通りの『福徳の呪い』として解釈される。地底の「根の国」は、死者の集まる清浄ならざる世界であると同時に、地上のあらゆる植物を芽吹かせる根源的な生命力が渦巻く「富の源泉」でもあった。
おむすびという生贄の代替品を受け取った地底の民は、古い血の契約に基づき、茂兵衛の土地にその過剰なまでの豊饒(ほうじょう)を流し込んできたのだ。
茂兵衛の焼く奇妙な炭は、村の市場で「物の怪の炭」と恐れられながらも、その桁外れの火力の強さから、すぐに近隣の網元や有力者たちが高値で買い取るようになった。老夫婦の暮らしは、飢えの恐怖から完全に切り離された。
だが、神仏の加護なき過剰な富は、常に周囲の「人間の業」を呼び寄せる呼び水となる。
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「おい、茂兵衛。随分と羽振りがいいじゃないか」
十二月に入り、本格的な冬の雪が山を閉ざし始めたある朝。小屋の戸を乱暴に蹴り開けて入ってきたのは、村の庄屋の息子であり、強欲な金貸しとしても知られる「仁太(じんた)」であった。
仁太は、冷たい風とともに土足のまま板の間に上がり込み、神棚の脇に置かれた、塩に囲まれたつづらを、ぎらついた目で見据えた。
「村の連中が噂しているぞ。お前が『畚降ろし』の深淵で、地底の神から黄金の湧き出る箱を授かったとな。その箱のせいで、お前の山の土地だけが冬だというのに不気味なほど肥え太っている」
仁太の背後には、彼の命令に唯々諾々と従う、人相の悪い数人の猟師たちが控えていた。皆、手には鋭い猟銃や、猪を突き刺すための太い槍を握っている。
「茂兵衛、その箱の出処を教えろ。あの山は、元々は村の共有林だ。物の怪に魂を売ったお前のような老いぼれが、一人で独占していい富ではない。俺たちがその場所を引き継ぎ、もっと効率よく、地底の財宝を掘り出してやる」
茂兵衛はピクリとも動かず、ただ囲炉裏の熾火を見つめていた。
「……あの穴には、近づくな。あれは、此岸の人間が触れていい場所ではない。地底の主(ぬし)は、相応の生贄を求めておられる。生半可な気持ちで覗けば、身を滅ぼすぞ」
「ふん、生贄だと? 迷信をほざくな」
仁太は吐き捨て、床に唾を吐いた。
「ネズミか何だか知らんが、獣なら鉄砲と煙で燻り出してやればいい。言葉を話すなら、なおさら話が早い。金を見せてやれば、いくらでも地底の黄金を差し出すはずだ」
仁太は茂兵衛の忠告を鼻で笑うと、背後の猟師たちに顎で指示を出し、小屋を飛び出していった。その手には、彼が今朝、急ぎ足で妻に作らせたという、巨大な布袋が握られていた。
袋の中には、ぬいが握ったような祈りの込められたおむすびではなく、ただ米に泥と小石を混ぜ込み、大きく丸めただけの「紛い物の塊」が詰め込まれていた。神を騙し、最小の労力で最大の富を奪い取ろうとする、人間の浅ましい知恵の産物であった。
彼らの足跡が雪山を汚しながら、あの漆黒の縦穴へと向かっていくのを、茂兵衛は静かに見送った。
「因果の輪が、回り始めたな」
茂兵衛の呟きに、ぬいはただ、竃の火を静かに消すことで応えた。山の神域の境界線が、今まさに、傲慢な足によって踏み荒らされようとしていた。
## 第四章:常世の不整合
雪を戴いた落葉松の森を、乱暴な息遣いと、かん高い笑い声が蹂躙していく。
仁太(じんた)を筆頭とする男たちは、茂兵衛が残した太い麻縄を目印に、ついにあの垂直の縦穴へと辿り着いた。穴の縁からは、地上の寒気を拒絶するような、生温かく、かつ発酵した臓物のような、異様な匂いが混ざる蒸気が絶え間なく立ち上っている。
「本当にあったぞ……。この奥に、あの老いぼれの宝の山が眠っているわけか」
仁太は、泥と小石を混ぜ込んで丸めた歪な布袋を肩に担ぎ直すと、連れてきた猟師たちに命じて、先に穴の中へ猟銃を構えさせた。
日本の山岳信仰や伝奇において、神聖な儀式を「模倣」して異界の富を掠め取ろうとする行為は、最も忌むべき禁忌とされる。神に捧げる供物は、此岸の人間が己の命や労働を削って差し出す「誠」の象徴でなければならない。しかし、仁太が用意したのは、ただ神を欺き、力ずくで取引を成立させるための「泥のおむすび」であった。
「おい、お前たち、鉄砲の用意を忘れるな。中にいるのがどんな化け物だろうと、鉛の弾をぶち込んでやればただの肉塊だ。言葉を話すなら、脅して契約書に爪印でも押させてやる」
仁太は醜い笑みを浮かべ、布袋から泥の塊を一つ取り出すと、漆黒の深淵へと容赦なく投げ落とした。
---
おむすびの紛い物は、穴の壁面にぶつかりながら、不快な音を立てて落ちていった。
ごつ、ごつ、べちゃり。
やがて、地底の奥深くから、あの不気味な唄が再び這い上がってきた。
――おむすび ころりん すっとんとん
――根の底 闇の底 すっとんとん
「聞こえたぞ! ネズミどもの歌だ!」
仁太は歓喜に身を震わせ、懐から一本の竹笛を取り出した。
彼は事前に、茂兵衛の小屋の周囲を徘徊し、老爺がかつて地下で聞いたというネズミの鳴き真似の音色を、執拗に調べていたのだ。仁太は笛を唇に当てると、ひゅうひゅうと、ネズミの警戒の鳴き声に酷似した、しかしどこか歪んだ音を穴に向かって吹き鳴らした。
古来、異界の住人と交信するために「音」を用いる例は多いが、それは神降ろしのための極めて厳粛な技術である。信仰なき者が形だけを真似る「偽りの鳴き真似」は、異界の神々にとっては最大の侮辱、すなわち「呪詛(じゅそ)」と同義であった。
「よし、これで俺を『新しい調停者』だと勘違いするはずだ。行くぞ!」
仁太たちは麻縄を掴み、次々と闇の縦穴へと這い降りていった。
---
辿り着いた「根の国」の広場は、茂兵衛が訪れた時とは打って変わって、悍ましい静寂に包まれていた。
赤紫色の「死人苔」が、まるで侵入者を拒むように激しく明滅している。広場の中央、血の染み付いた祭壇の上には、仁太が投げ落とした泥のおむすびが、無惨に潰れて転がっていた。
「おい、ネズミども! 隠れていないで出てこい! 望み通りおむすびを持ってきてやったぞ!」
仁太が怒鳴り声を上げると、無数の横穴から、音もなく黒い影が這い出してきた。
それは、服を着た小さなネズミなどではなかった。体長は人間に匹敵し、針金のような剛毛を生やした、異形の亜人たち――土蜘蛛の群れであった。彼らは一言も発せず、ただ飢えた捕食者の目で、地上から降りてきた男たちを包囲していく。
長老が、引きちぎられた尾を揺らしながら、祭壇の前に進み出た。その赤い双眸は、潰れた泥の塊を冷徹に見つめていた。
「地上の新たな来訪者よ。お前が投げ入れたのは、産霊(むすび)の力を宿さぬ、ただの泥と欺瞞の塊だ」
長老の割れた喉から、地を這うような落胆と、激しい怒りの混ざった声が漏れた。
「我ら根の国の神々は、音の裏にある魂の響きを聞き分ける。お前が吹いた笛の音には、山への畏れも、契約への敬意もない。あるのは、すべてを奪い尽くそうとする、浅ましい獣の飢餓だけだ。お前は神を騙したのだ」
---
「うるさい! 害獣の分際で、偉そうに能書きを垂れるな!」
仁太は顔を真っ赤にし、背後の猟師たちに叫んだ。
「撃て! この化け物どもを皆殺しにして、奥にある宝箱を力ずくで奪い取るんだ!」
猟師たちが一斉に猟銃の銃口を長老へと向け、引き金に指をかけた。
しかし、彼らが火薬を炸裂させるよりも早く、地下世界の「本当の不条理」が、彼らの足元から襲いかかった。
ズズ、ズズズ……!
足元の土壌から、人間の大腿骨や肋骨を模したような、無数の白い「骨の根」が触手のように凄まじい勢いで伸びてきたのだ。それは猟師たちの足首を、さらにその身体を、一瞬にして地面へと縫い付けた。あまりの衝撃に、猟師たちは猟銃を落とし、恐怖に顔を歪めた。
「な、なんだこれは!? 動けん! 仁太、助けてくれ!」
地底の「根の国」は、死者が還る黄泉の国そのものである。偽りの供物によって結界を破られた地底の怒りは、侵入者たちの肉体を直接、死者の大地へと引きずり込もうとしていた。
長老は、ゆっくりと右手を上げた。その鋭い漆黒の爪が、赤紫色の光を反射して冷たく輝く。
「此岸の者が、自ら血の契約を破ったのだ。ならば、我らも古い法に従い、お前たちを『新たな生贄』として迎え入れよう。米の代わりに、お前たちの血と肉で、この大地の渇きを癒すのだ」
周囲を取り囲む何千もの異形たちが、一斉に牙を剥き、歌うような不協和音を上げながら、身動きの取れない人間たちへと一歩ずつ、確実に距離を詰め始めた。地下の狂宴は、地上の強欲を貪り喰らう、本物の地獄へと変貌しようとしていた。
## 第五章:因果の崩落
「キシャァァァッ!!」
地底の闇を裂いて湧き上がったのは、歓喜とも飢餓ともつかぬ、無数の異形たちの咆哮であった。
骨の根によって大地に縫い付けられた猟師たちは、おのれの猟銃を引き金に指をかけたまま、もはや身動き一つ叶わなかった。針金のような剛毛に覆われた土蜘蛛の群れが、津波のように彼らへ圧し掛かる。
鋭い漆黒の爪が肉を裂き、黄色い牙が人間の骨を噛み砕く生々しい音が、赤紫色の空洞に響き渡った。絶叫は一瞬にして、凄惨な肉塊の咀嚼音(そしゃくおん)へと掻き消されていく。
「ひ、ひえええっ! 来るな、来るなァ!」
仁太(じんた)だけは、恐怖のあまり錯乱しながらも、手にした鉈で辛うじて足元の骨の根を叩き切り、背後の神殿へと逃げ込んでいた。そこは、異形たちが「此岸への対価」として保管していた、数々のつづらが安置された禁域であった。
---
仁太の眼前にあったのは、茂兵衛が持ち帰ったものとは比較にならないほど巨大な、「大きいつづら」であった。
人間の頭蓋骨が埋め込まれ、地底の泥と乾いた血で塗り固められたその巨大な箱は、怪しく黒い光を放っている。
「これだ……これさえあれば、俺は村一番の、いや、国一番の富豪になれる……!」
仲間たちが生きたまま貪り喰われている阿鼻叫喚の地獄の中で、仁太の脳髄は完全に物欲に支配されていた。彼はつづらに飛びつき、黒鉄の鎖を強引に引きちぎって、その蓋を押し開けた。
――だが、中に黄金などは入っていなかった。
蓋が開いた瞬間、箱の内部から溢れ出たのは、この世のものとは思えない濃密な「死気(しき)」と、無数の百足(むかで)や毒蛇の這い回る不快な音であった。
我が国の古い説話において、「大きいつづら」の中に、妖怪や毒虫、あるいは死の呪いが詰まっているのは定番の結末である。
これは、異界の神を欺いた者への「過剰な呪いの返報」を意味していた。身の丈に合わない巨大な富を求める強欲は、そのまま異界の「負のエネルギー」をすべて引き受ける器となり、開けた者を内部から侵食し、呪い殺す結界の破壊装置へと変貌するのだ。
「あ、ぎゃああああっ!?」
つづらから溢れ出た黒い泥のような呪気が、仁太の衣服を侵し、その皮膚を瞬く間に腐らせていく。箱の中からは、かつて地上で強欲の限りを尽くし、地底へと引きずり落とされた過去の人間たちの「生首」が、怨嗟の声を上げて仁太の肉体に噛みついてきた。
重い。あまりにも重い。
つづらから溢れ出る呪いと、地底の「欲の重み」によって、仁太の身体は岩盤へと押し潰され、指一本動かすことができなくなった。
長老が、血に濡れた爪を引きずりながら、動けなくなった仁太の前にゆっくりと佇んだ。
「強欲な地上人よ。お前が望んだ『大きいつづら』は、地底の底に溜まった、人間の業の全重量だ。それを背負って、永遠にこの国の土を肥やすが良い」
長老が低く呪文を唱えると、広場全体の岩盤が、凄まじい地鳴りとともに崩落を始めた。仁太の絶叫は、崩れ落ちる巨岩と、地底の底なしの割れ目へと吸い込まれていく泥の中に、永久に埋没していった。
---
ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……。
地上の「畚(ふご)降ろし」の山際。
茂兵衛の小屋の囲炉裏の火が、一瞬、激しく爆ぜた。
茂兵衛とぬいは、静かに立ち上がり、奥山の方向を見つめた。遠くの山肌が大きく地盤沈下を起こし、凄まじい土煙が冬の夜空へと舞い上がっていくのが見えた。
あの異界へと続いていた垂直の縦穴は、仁太たちの強欲の自滅によって大地が自ら閉ざし、完全に埋め戻されたのだ。
「……境界が、閉じたか」
茂兵衛がぼそりと呟くと、ぬいはただ黙って、神棚の脇にある「小さいつづら」の前に、新しく汲んってきた湧き水とお塩を供えた。
あの骨の箱が開かれることは、これからも決してない。
だが、老夫婦が山への畏れを忘れず、毎朝、神聖な「産霊(むすび)」をお供えし続ける限り、地底の民との血の契約は、静かに、そして確かに彼らの足元を守り続けるだろう。
山は再び、深い、深い沈黙へと戻っていった。
現代の地上人がどれほど効率を求め、神仏を忘れようとも、人間の足元の暗黒には、今も変わらず、まつろわぬ神々の「すっとんとん」という唄が響き続けている。
(了)
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