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モラトリアム・プロトコル 終章

 

終章 白くあれ、と

終-1 台帳

 十二月に入って、雪が根雪になった。

 旧事務所棟の廊下は、冬になると冷える。北側に面していて、窓の建て付けが悪い。夜中に拭くと、雑巾を絞った手が、拭き終わるころには感覚をなくしている。

 彼女は、その仕事を二年目の冬も続けていた。

 午前一時から四時まで。廊下と、共同トイレと、風呂場と、洗濯場。人数が増えたので、四時に終わらない日が増えた。

 報酬は、受け取っていない。

 受け取れば、就労になる。就労すれば、次の出頭で収容される。

 だから、彼女は受け取っていない。

 寝る場所と、一日三度の食事と、必要な物資は出る。それは配給であり、労働の対価ではないことになっている。この共同体の全員が、そういうことになっていると言い張っている。

 梶原も、桐島も、トアンも、巳之吉も、同じことを言う。

 彼女は、その構造を正確に理解していた。

 書かないことで、守られている。

 十五年前も、同じだった。あのとき彼女は日系ペルー人二世の名前で住民登録され、その名前で住民票が出て、その名前で保険証が発行された。書類は完璧だった。完璧な書類の下で、彼女は誰でもない人間だった。

 今度は、書かないことで守られている。

 違うのは、一つだけである。

 今度は、書かないことを、彼女が選んだ。

 十二月の第三週、ユラが彼女のところへ来た。

 道具置き場の入口に立って、端末を差し出した。

「見るか」

「何を」

「あんたの行だ」

 彼女は、モップを壁に立てかけて、その画面を覗いた。

 黒い背景に、文字の行が並んでいる。

 所在。旧事務所棟一階。対象。洗濯場、廊下、共同便所、浴室。作業の種別。床面清掃、排水口清掃、防黴処理。頻度。日次。開始年月。

 最後の欄に、こう書いてあった。

 実施者。氏名の記載なし。本人の申出により空欄とする。

 彼女は、それを読んだ。

 二度読んだ。

「これでいいか」

 ユラが訊いた。

「いいわ」

 彼女は言った。

「私の名前がないことが、書いてあるのね」

「そうだ」

 ユラは頷いた。

「名前がないのと、名前を書かなかったのは、違う」

 彼女は、しばらく画面を見ていた。

「他のも、見せて」

 ユラは、画面を送った。

 行が流れていった。

 上寒河、集水路、清掃、実施者ユラ。上寒河、集水路、清掃、実施者ユラ、巳之吉。神谷、農業用ため池、廃止、決定者巽冴子、最後の維持実施者、庄司忠一、庄司清一、岡崎栄一。

 その下に、彼女の知らない集落の名前があった。

 地図から消えている集落だという。農業用水路、延長およそ千二百メートル。停止年、記載あり。決定者、空欄。最後の維持実施者、佐吉。

 備考の欄に、一行あった。

 春に四日、二人で泥を上げていた。一人になったあと、止まった。

「この人は」

 彼女は訊いた。

「俺を育てた人だ」

 ユラは言った。

「姓は」

「知らない」

 彼は、それだけ答えた。

 彼女は、その行を、しばらく見ていた。

 名前のある行と、名前のない行が、同じ幅で並んでいる。誰かが書くと決めた名前と、書かないと決めた空欄が、同じ形式で残っている。

 十五年前、この街には、こういう紙が一枚もなかった。

 夜勤の清掃が六人から二人になったことを、誰も書かなかった。書かなかったので、街は自分が何をしたのかを、いまも知らない。

「ありがとう」

 彼女は言った。

 ユラは、頷いて、出て行った。

 礼を言ったのは、この一年半で初めてだった。

 彼女は、この街が凍え死ぬと言った。

 十二年前、警察の車に乗せられる前に、彼女はそう言った。冷たい正義の中で、あなたたちだけで静かに凍え死になさい、と。

 当たった。

 工場は潰れた。人は出て行った。商店街は半分になった。市の財政は破綻寸前で、雪は下ろされず、屋根は抜けた。谷は畳まれ、ため池は埋められた。彼女が言ったとおり、この街は静かに凍えた。

 だが、そのあとが違った。

 凍え死んだあとで、この街は燃え始めた。

 汚い燃え方である。

 誰の土地でもなくなった山に、名前を散らした法人が入り込み、産業廃棄物が夜のうちに運び込まれた。登記に載らない人間が、登記に載らない土地を耕し、正規の半値で米を売った。市は、実施主体を把握しないと決めた。国は、財政措置をつけないという形でだけ、そこにいた。

 制度の外側で、三百人が飯を食っている。

 彼女は、それを予想していなかった。

 凍え死んだ街は、そのまま静かに無くなるものだと思っていた。彼女の生まれた村が、そうなったからである。線を引いた側の人間も、翌年から少しずつ食えなくなり、誰もそれを線と繋げず、村は静かに消えた。

 海崎は、消えなかった。

 消えずに、腐りながら、それでも回っている。

 これが良いことなのかどうかを、彼女は判断していない。

 産廃は山に埋まっている。土は四年で使い切られる。機械は寿命の半分で回されている。二十二人のうち十年後も働ける年齢の者は六、七人しかいない。誰の未来も、どこにも保証されていない。

 ただ一つ、十二年前と違うことがある。

 書いている。

 この街が、自分が何をしたのかを、後から見られる形にしようとしている。見るかどうかは、まだ分からない。見たところで、間に合うかどうかも分からない。

 それでも、書いていなかった街と、書いている街は、違う。

 彼女は、その違いに希望という名前をつけなかった。

 つけると、何かを差し出させる言葉になる。

 三日後の夜、洗濯場で巳之吉と会った。

 彼が作業着を持ってきたところだった。油の匂いがした。

「まだ、やってるんですか」

 彼は言った。

「やってるわ」

「体は」

「腰が痛い」

 彼女は答えた。

「あなたは」

「膝です」

 巳之吉は言った。

「山を登ると、下りが駄目だ」

 それだけだった。

 彼は洗濯機に作業着を入れ、彼女は排水溝のへらを取りに行った。

 二人は、夫婦に戻らなかった。

 戻る話は、一度も出ていない。彼が切り出さなかったからではない。切り出すつもりがないことを、二人とも分かっていたからである。

 十二年は、長い。

 長さの問題でもなかった。彼女が三年間あの家でやっていたことは、いま彼女が寮でやっていることと同じ種類の労働である。あのとき、それは妻の務めと呼ばれ、記録されなかった。

 同じことを、もう一度やる気は、彼女にはない。

 いま、彼女がやっている清掃は、台帳の中で一行になっている。実施者は空欄である。空欄だが、行はある。

 彼と彼女は、同じ台帳の、別の行として並んでいる。

 それ以上のものになるつもりは、二人ともなかった。

 彼女は、へらで排水溝の油膜を剥がした。

 黒い膜が、固まりかけている。二日に一度剥がさないと、流れが悪くなる。

 剥がしたものを、彼女はバケツに落とした。


終-2 雪

 一月の第二週に、上寒河へ上がった。

 冬の点検である。夏と秋にやることと、内容は違う。溝を掘るわけではない。雪の下で何が起きているかを、外から推測するだけの作業だった。

 巳之吉とユラの二人で行った。

 林道は、途中まで除雪してある。市の除雪路線ではない。コモンズの重機が、ついでに開けたものである。ついでに開けたことは、どこにも記録されていない。市が把握しないと決めているからである。

 終点から先は、かんじきを履いて歩いた。

 雪は、腰の高さまであった。

 巳之吉は、四十八歳になっていた。膝が、登りより下りで痛む。半日歩くと、翌日は動けない。ユラは、彼の三歩前を、同じ速さで登っていく。

「そこ、右に寄れ」

 ユラが言った。

「雪庇が出てる」

 巳之吉は、言われたとおりに寄った。

 斜面の中腹まで登ったところで、ユラが止まった。

 彼は、雪の上にしゃがんで、耳を近づけた。

「聞こえるか」

 巳之吉も、しゃがんだ。

 しばらく、何も聞こえなかった。風の音と、自分の息の音だけである。

 やがて、その下に、別の音があるのが分かった。

 水の音だった。

 細く、途切れずに、続いている。

「流れてます」

「流れてる」

 ユラは言った。

「溝は、生きてる」

 巳之吉は、雪の上に手を置いた。

 この下に、去年の春に掘った溝がある。上の谷の水を受けて、横へ逃がしている。土の溝である。コンクリートは使っていない。

 水は、いま、その中を通っている。

 通っているあいだ、この斜面は動かない。

 動かないことを、誰も見ていない。彼とユラだけが、雪の上にしゃがんで、その音を聞いている。

「三年で詰まる」

 ユラが言った。

「掘ったのは、去年の春だ。落ち葉が入って、泥が溜まる。……再来年か、その次には、掻き出さないと駄目になる」

「掻き出しゃいい」

 巳之吉は言った。

「掻き出す」

 ユラは頷いた。

「その次も、詰まる」

「その次も掻き出す」

 二人は、それきり黙った。

 風が、谷を吹き上げてきた。杉の枝から、雪が塊で落ちた。

 巳之吉は、防寒着のポケットから小さなノートを出した。

 伝票の裏に書いていたのは、去年の秋までである。玲が、使いやすいだろうと言って、防水の表紙のものをくれた。鉛筆でも書ける紙である。

 彼は、その場で書いた。

 所在。上寒河、三号斜面。作業。冬季点検。所見。積雪下で通水を確認。閉塞なし。

 日付を入れ、最後の欄に、二つの名前を書いた。

 ユラ。巳之吉。

 自分の名前を台帳に書くことに、彼はまだ慣れていない。

 書くたびに、少し時間がかかる。書いたものが、いつか誰かに読まれるということを、そのたびに考えるからである。読む人間は、たぶんこの共同体の外にいる。外にいる誰かが、いつか、この行を見て、何が行われていたかを知る。

 知って、それをどう扱うかは、こちらでは決められない。

 裁くために使うかもしれない。

 それでもいい、と彼は思うようになっていた。

 思うようになったのは、去年の秋、神谷の堤の上で三つの名前を書いたときからである。

 庄司忠一。庄司清一。岡崎栄一。

 あの三人のうち二人に、彼は会ったことがない。会ったことのない人間の名前を、彼が書いた。

 書かなければ、その三人は、この国のどこにも残らなかった。

 池を造った人間たちの名前は、残らなかった。三十戸が三年かけて土を担いだのに、誰の名前も分からない。

 名前が残らないというのは、そういうことである。

 下りは、二時間かかった。

 林道の終点に着いたとき、日が傾いていた。軽トラックの荷台に、五センチほど雪が積もっている。

 巳之吉は、その雪を手で払った。

 払いながら、ふと、廃工場のほうを見た。谷の口から、湾岸の方角が見える。この時間だと、工場の屋根が、灰色の中に薄く見えた。

 あの屋根の下に、三百二十人がいる。

 そのうち何人が、来年の今日もそこにいるかは、誰にも分からない。

 軽トラックに乗る前に、ユラが言った。

「巳之吉」

「なんだ」

「あんた、名前で呼ばれるのが嫌いか」

 巳之吉は、少し考えた。

「なんでだ」

「あんた、人を名前で呼ばない」

 ユラは言った。

「現場でも、おい、とか、そこの、とか言ってる」

 巳之吉は、答えなかった。

 答えられなかった。

 その夜、彼はガレージにいた。

 油圧のホースを交換していた。夏に来た若いのが、隣で工具を渡している。ミャンマーから来て、四年目になる男である。

 巳之吉は、レンチを受け取ろうとして、手を止めた。

 この一年半、彼はこの男を名前で呼んだことがない。

 覚えていないわけではない。名簿で見ている。トアンから聞いてもいる。

 呼ばなかった。

 呼ぶ習慣を、彼は十二年前に失くしていた。

「ミン」

 彼は言った。

 若いのが、顔を上げた。

「はい」

「そっちの、十九ミリを取ってくれ」

「はい」

 男は、工具箱から取って、渡した。

 それだけである。

 巳之吉は、レンチを受け取って、ホースの継手にかけた。手が、少し震えていた。寒さのせいではなかった。

 その晩、彼は寮の前を通った。

 一階の洗濯場に、明かりがついていた。

 窓の内側が結露していて、中の様子は見えない。人影が動いているのだけが、白く曇ったガラス越しに分かった。

 彼は、そこで立ち止まらなかった。

 立ち止まらずに、通り過ぎた。

 外は、雪が降っていた。

 海崎の雪は、いつも同じ降り方をする。斜めに、細かく、音もなく。屋根に積もり、道に積もり、下ろされなければそこに残る。春が来るまで、あるいは誰かが下ろすまで、雪は物としてそこにある。

 白い。

 この街では、白は長いあいだ、そういう色だった。すべてを同じ形に覆って、下にあるものを見えなくする色である。屋根の形も、畑の畦も、獣道も、その下で何が起きているかも、白は等しく隠した。

 隠されたものを、この街は数えてこなかった。

 巳之吉は、防寒着のポケットの上から、ノートの角を押さえた。

 まだ、ほとんど白紙である。

 書いてあるのは、四十七箇所の斜面と、埋めた水路と、切ったため池と、そこにいた人間の名前だけだった。空欄の行も多い。分からないまま残した名前が、いくつもある。

 それでも、白紙は、雪とは違う。

 雪は、下にあるものを隠す。

 白紙は、まだ何も書かれていないだけである。

 彼は、ガレージへ戻る道を歩いた。

 雪が、肩に積もり始めていた。彼はそれを払わなかった。払っても、また積もる。

 払うのは、中に入ってからでいい。



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