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金太郎 ― 灰燼の足柄、最後の土俵 ―

第一章 世界が死んだ日、山が呼んだ


20xx年。

空は一度、割れた。

大陸間弾道弾でも、隕石でも、神の怒りでもない。
人類が人類を滅ぼすために生み出した、気象制御衛星群《アマツミ》の暴走。
それが空を裂き、雲を焼き、海を沸かし、都市を骨に変えた。

高層ビルは墓標となり、道路は地割れに呑まれ、文明は砂と鉄屑になった。
水は金より高く、命は弾丸より軽い。

世界を支配したのは、法でも金でも技術でもない。

暴力だ。

殴る者が奪い、奪う者が食らい、食らう者だけが明日を見た。
その荒野に、一人の男がいた。

坂田金時。

通称――金太郎。

身の丈を超える鉞《まさかり》を肩に担ぎ、赤銅色の髪を風に逆立て、獣のような眼で地平を睨む男。
背は高く、肩は岩のように厚く、脚は大木の根のように地を噛んでいた。

彼は荒野の悪党どもから、こう囁かれていた。

「鉞の鬼」
「足柄の赤鬼」
「笑って人を叩き潰す男」

だが、彼を知る者は別の名で呼んだ。

「山の子だ」と。




その日、金太郎は、枯れかけた集落《柴原の砦》に戻ってきた。
夕日は血の色をしていた。
砦を囲む外壁は、バスの残骸と鉄骨を繋いだだけの粗末なもの。
井戸は底が見え、子どもたちの唇はひび割れていた。

水が尽きかけていた。

砦の中央で、痩せた老人が叫ぶ。

「南の盗賊団が来るぞ! 水樽を狙ってやがる!」

見張り台の鐘が鳴る。
砂煙の向こうから、改造バイクの群れが迫ってきた。
棘鉄板を巻きつけたタイヤ。
火炎瓶。
鎖。
骨の面。

先頭の男が笑う。

「水をよこせェ! さもなくばガキから干物にして吊るすぞ!」

砦の者たちは怯え、槍を構える手が震えていた。

そのとき、金太郎が門の前に立った。

誰よりも静かに。

肩の鉞を、どすん、と地面に立てる。

「……水が欲しいなら」

彼は低く言った。

「山から汲んでこい」

盗賊たちが一瞬きょとんとしたあと、下卑た笑いを上げる。

「なんだてめェ一人か! 英雄気取り――」

言い終わる前に、金太郎は動いていた。

地を蹴った瞬間、砂が爆ぜる。
その踏み込みは人間のものではなかった。

必殺――《雷童爆歩》。

一歩で十間を詰め、二歩目で先頭車両の上に飛び乗る。
三歩目と同時に鉞が閃いた。

《坂田流鉞技・轟山断》。

分厚い鉄板を巻いたバイクごと、男の胴が左右に裂ける。
血と火花が夕暮れに弧を描いた。

「なっ――」

二台目の男が火炎瓶を投げる。
金太郎は鉞の腹で弾き返した。
火炎瓶は空中で回転し、持ち主の胸元で砕ける。

炎上。

絶叫。

三人目、四人目、五人目が一斉に飛びかかる。
鎖がうなり、鉈が光り、散弾銃が火を噴く。

だが金太郎は退かない。

鉞の柄で散弾を受け、肩で鎖を引きちぎり、額突き一発で相手の前歯を吹き飛ばす。
そのまま身体をひねり、丸太のような脚で横薙ぎに払う。

《山神回し蹴り》。

三人まとめて門壁に叩きつけられ、鉄屑と土埃の中へ沈んだ。

残った盗賊たちは、ようやく理解した。

目の前にいるのは、ただの腕自慢ではない。

怪物だ。

先頭格の大男が怒鳴る。

「囲め! 遠巻きに削れ!」

四方からバイクが旋回し、弾丸が飛び、火炎瓶が雨のように落ちる。
金太郎は一度、目を閉じた。

呼吸。

肺を満たし、地の熱を吸い上げるように。

そして、鉞を大きく振りかぶる。

「まとめて来い」

次の一撃は、砦の子どもたちの目に、まるで山が振り下ろされたように映った。

《坂田流奥義・天破鉞嵐》。

暴風のような鉞の連撃。
火炎瓶は空中で砕け、弾丸は軌道を逸らされ、接近した盗賊たちは一人残らず吹き飛ぶ。
車体がひしゃげ、骨が折れ、砂地に黒い帯がいくつも伸びた。

やがて、静かになった。

立っているのは、金太郎だけだった。

砦の門前に積み上がる、盗賊の残骸。
その向こうで、夕陽が沈む。

金太郎は鉞を肩に担ぎ直した。

「次に水を奪いに来るやつがいたら、名前を聞く前に埋める」

それだけ言って、彼は砦の中へ戻った。

子どもたちが駆け寄る。

「金太兄ちゃん!」

「すげえ! 今の見た!?」

「バイクが真っ二つだった!」

金太郎は頭をかき、少しだけ照れくさそうに笑った。
だが、その笑顔は長く続かなかった。

砦の最奥。
古いトラックの荷台を改造した小屋の中で、一人の老女が咳き込んでいた。

白髪を後ろで束ね、獣皮を羽織ったその女は、かつて荒野で“山姥”と恐れられた女戦士だった。
今は金太郎の育ての親であり、この砦の最後の知恵袋でもある。

「……帰ったかい、金時」

「婆ちゃん、また無理して起きてたのか」

「寝てりゃ水が湧くなら、いくらでも寝るさ」

山姥は苦く笑った。
だが唇は青く、咳には血が混じっていた。

金太郎の顔から笑みが消える。

「薬は?」

「もうない」

「水は」

「今日の配分で終わりだ」

小屋の隅には、底の見える水瓶が一つ。
それが、この砦の命そのものだった。

山姥はしばらく黙り、やがて錆びた鉄箱を引き寄せた。
中には、古い地図と、ひしゃげた金属板、それから一枚の写真が入っていた。

写真には、まだ世界が壊れる前の青い山と、大きなダム施設が写っている。

山姥が指先で山頂を叩く。

「足柄山《あしがらやま》だ」

金太郎の目が細くなる。

足柄山。
この荒野の中央にそびえる、黒く巨大な山塊。
雷を呼び、霧を飲み込み、山腹には無数の廃施設が穿たれている。
そして頂上には、一人の男がいる。

東郷熊吉。

通称、“熊”。

世紀末最強の裸拳王。
素手で戦車を止め、投げ一発で岩壁を砕くと言われる男。
足柄山の頂に居を構え、この周辺一帯の水脈と通行路を支配する存在。

金太郎は低く呟いた。

「……あいつか」

山姥はうなずいた。

「山頂には、旧世界の気象制御施設――**《天ノ雫門》**が眠ってる。
あれが動けば、足柄の地下水路が開く。
止まっていた川が流れ、砦にも、周りの集落にも水が戻る」

「なら、今すぐ開けりゃいい」

「開かねえから困ってるのさ」

山姥は写真の横にあった金属板を見せた。
拳大の認証鍵。その表面には、奇妙な紋様が刻まれている。

「天ノ雫門は、ただの機械じゃない。
起動には旧式の認証と――最後に“力”がいる。
それも、そこらのゴロツキの力じゃ駄目だ。
山そのものを従わせるほどの、とびきりの強さがな」

「……熊吉ならできるってことか」

「できる。だが、やつは開かない」

「独り占めしてるってことか」

「半分はな」

山姥は目を伏せた。

「もう半分は……待ってるのさ」

「何を」

「お前をだよ、金時」

小屋の中の空気が止まった。

外では風が壁を叩き、遠くで子どもが泣いている。

金太郎は眉をひそめた。

「どういう意味だ」

山姥は少し考え、ゆっくりと言った。

「昔、お前と熊吉は同じ土俵にいた。
食うものもなく、死体の山のそばで殴り合って、生きるために勝ち続けた。
お前は途中で私がさらってきた。
あのままじゃ、お前まで人殺しの見世物になると思ってな」

「……覚えてねえ」

「小さかったからね。
だが、熊吉は忘れていないはずだ。
あいつは昔から、お前にだけは負けたくなかった」

金太郎は写真を見つめた。
青い山。
もう存在しない世界。

「山に登れば、砦に水が戻るのか」

「戻る」

「熊吉を倒せば」

「戻る」

「……四天王がいるって話は」

山姥の口元が、獣のように歪んだ。

「いるさ。
山腹四層、それぞれに一人ずつ。
弓、太刀、大槌、槍。
あれを抜けて山頂だ」

「つまり、喧嘩しながら登れってことだな」

「そうだ」

金太郎は立ち上がった。
迷いはなかった。

山姥が咳き込みながら叫ぶ。

「待ちな! 熊吉はただの暴君じゃない。
あいつにはあいつの理屈がある。
もし会ったら、まず目を見ろ。
それでも殴る価値がある相手か、ちゃんと確かめな」

金太郎は背を向けたまま答えた。

「婆ちゃん」

「なんだい」

「水が戻ったら、何が飲みたい」

山姥は少しだけ目を丸くし、それから笑った。

「冷てえ水だよ。
ただの、透き通ったやつだ」

金太郎も笑った。

「わかった。
山ごとぶっ叩いて、持って帰る」

翌朝。

空は鉛色だった。
砦の門前に、わずかな見送りが集まっていた。

子どもたち。
痩せた大人たち。
傷だらけの老人たち。
誰もが、金太郎を見ていた。

一人の少女が、布切れを差し出す。
粗末だが、丁寧に縫われた赤い前掛けだった。

「お守り。……兄ちゃん、死なないで」

金太郎は少し黙って、それを腰に結んだ。

「縁起でもねえ。死ぬのは向こうだ」

砦に、小さな笑いが広がる。

山姥が最後に認証鍵を投げて寄こした。
金太郎は片手で受け取る。

「金時」

「おう」

「勝て。
でも、ただ勝つんじゃない。
背負ってるもんを忘れるな」

金太郎はうなずいた。

そして、鉞を肩に担ぎ、黒い山を見上げた。

足柄山。

雷雲を頂き、無数の残骸を腹に抱え、まるで死んだ世界の王のようにそびえ立つ山。
山腹には旧高速道路の骨組みが巻きつき、斜面には錆びた送電塔が突き刺さっている。
頂上の雲間には、時折、白い閃光が走った。

あそこに熊吉がいる。

あそこに水がある。

あそこに、この荒野の明日がある。

金太郎は一歩を踏み出した。

「待ってろ、熊吉」

風が唸る。

「お前をぶっ倒して――川を取り戻す」

こうして、坂田金時の足柄登山が始まった。

それは、ただ山を登る旅ではない。

死んだ世界の喉を潤すための、
最後の喧嘩だった。

第二章 風哭の弓聖、白羽の巴


足柄山の一層目は、風の処刑場だった。

崩れた高架道路が何重にも折り重なり、
ねじ曲がった鉄骨が空へ突き出し、
その隙間を、刃のような風が吹き抜けている。

風が鳴る。

ひゅう、ではない。

ぎぃん、
きぃん、
と、金属そのものが泣いているような音だった。

金太郎は山道ではなく、かつて高速道路だった残骸の上を進んでいた。
地面を行けば狙われる。
上を行っても狙われる。

だが、この山の最初の番人がどこから来るのか、もうわかっていた。

高いところだ。

遠いところだ。

そして、こちらの「届かなさ」を笑う場所だ。

次の瞬間、空気が裂けた。

金太郎は反射で鉞を立てる。
火花。

一本。

すぐに二本目。

三本目は見えなかった。

それが頬をかすめ、金太郎の右の耳元で高架の欄干を貫いた。
欄干は、ぐしゃりと折れた。

「……でけえ威力だな」

見上げる。

はるか上。
崩落した標識の先端、わずかに残った鉄骨の上に、女が立っていた。

長い髪を風になびかせ、
片目を布で覆い、
背に巨大な反曲弓を負い、
全身に矢筒をいくつも巻きつけている。

女は風の上に立っているようだった。

「第一天王」

女が告げる。

「風哭の弓聖、白羽の巴」




その声は静かだった。
だが静かな声ほど、よく響くことがある。

「坂田金時。通称、金太郎。
足柄山を登る理由は、水か」

「そうだ」

「自分のためか」

「違う」

「なら、誰のためだ」

金太郎は肩の鉞を担ぎ直した。

「喉が渇いてる奴ら全部だ」

巴は、わずかに目を細めた。

「模範解答だ」

「お前、教師か何かか」

「違う。
外した答えの人間を、山から落とす役目だ」

巴が弓を引いた。

風が集まる。

鉄骨が鳴る。

割れたアスファルトの砂粒までが、一本の線へ吸い寄せられていく。

「来い」

金太郎が低く言った。

「試すなら本気で来い」

巴の第一射が放たれる。

《風哭流・疾風裂矢》

矢が風を引き裂くのではない。
風そのものが矢の形を取っていた。

金太郎は鉞で受けた。
鈍い衝撃。
腕がしびれる。

だが、二射、三射、四射。
巴はすでに次を放っていた。

《白羽散花》

一射で三本に分裂する特殊矢。
しかも分裂したあとで軌道が違う。

正面を防いでも、頭上から落ちる。
それを避ければ、地面すれすれの一本が膝を狙う。

金太郎は欄干を蹴り、横転し、身を沈めた。
背後で鉄骨が弾け飛ぶ。

「遠くからチクチク、性格が悪いな!」

「近づかせないのが弓兵だ!」

巴は高架を蹴ってさらに上へ移る。
風の流れを読み、足場を替え、絶えず優位な射点を取る。
その動きは獣というより、猛禽だった。

金太郎は高架の上を走り出した。

巴は即座に射る。

《十六夜連弧》

連続十六射。
一本一本が別の場所を狙っているようでいて、
すべて金太郎の「逃げ道」を奪うための矢だった。

金太郎は一本を鉞の腹で弾き、
二本目を肩で受け、
三本目を橋脚の陰で避け、
四本目を踏み込みでかわし、
五本目から八本目までを、崩れた標識を盾に使ってしのぐ。

だが九本目が標識ごと貫いた。

標識の鉄板が砕け散る。

金太郎の胸に小さな痛みが走る。
矢が浅く刺さっていた。

「うっとうしいな!」

金太郎は刺さった矢を引き抜くと、逆に巴へ投げ返した。

巴は鼻で笑う。

「届くわけが――」

その矢は巴に届かなかった。
代わりに、巴の立つ鉄骨の根元へ刺さる。

一瞬遅れて、爆ぜた。

「なっ!」

さっき自分が使った爆裂矢だと、巴はそのとき気づいた。

鉄骨が揺れる。

巴が体勢を崩す。

その瞬間だった。

金太郎が踏み込む。

《雷童爆歩》

大地を蹴る音ではない。
破裂音だった。

一歩で距離を半分潰し、
二歩目で高架の欄干を飛び越え、
三歩目で巴の目の前に現れる。

「届いたぞ」

巴の表情が初めて大きく変わる。

だが巴もまた、一流だった。

彼女は弓を捨てない。

弓を持ったまま、柄で金太郎の喉を打ち、
足を払って体勢を崩し、
そのまま至近距離用の短矢を連射した。

《近衛六つ矢》

喉、眼、心臓、脇腹、膝、こめかみ。

どれも急所。

金太郎は反射で鉞を横に寝かせ、三本を防ぎ、
残り三本を腕と肩に受けながら前へ出る。

「馬鹿な……!」

「近いなら、こっちのもんだ!」

金太郎は鉞を振り上げた。

巴はそれを弓で受けた。

次の瞬間。

ばきぃっ、と、
弓が真っ二つに折れた。

巴の身体が後方へ吹き飛ぶ。
高架の残骸を転がり、崩れた標識に叩きつけられる。

それでも巴は倒れたまま矢を番えた。
折れた弓の半身を、短弓のように使う。

「まだ終わらない!」

「根性あるじゃねえか!」

「この山の門を預かる者が、簡単に折れるか!」

巴の最後の一射。

《天穿風牙箭》

風が鳴き、
空が裂ける。

一本でありながら、大気そのものを穿ってくる最終矢。

金太郎は真正面から踏み込んだ。

矢と鉞がぶつかる。

衝撃。

火花。

風圧で高架が軋む。

金太郎の両腕に血管が浮き上がる。
鉞がきしむ。
腕が引きちぎれそうな重圧。

それでも、金太郎は叫んだ。

「喉が渇いてるガキの顔、見たことあるか!」

そのまま、矢を押し返す。

「俺は、見てきたんだよ!」

鉞が回転し、矢を弾き飛ばした。

巴の目の前に、鉞の刃が止まる。

風だけが吹いていた。

巴はしばらく黙り、やがて折れた弓を手放した。

「……負けだ」

金太郎は鉞を下ろす。

巴は空を見上げたまま言った。

「私は昔、届かなかった。
守りたかったものに、何一つ届かなかった。
だから、誰より遠くへ届く弓を求めた」

「それで熊吉の下についたのか」

「下、ではない」

巴は首を振る。

「熊吉は私たちを従えたんじゃない。
待たせたんだ」

「何を」

「お前を」

金太郎は黙る。

巴は矢筒から一本の青い矢を抜き、差し出した。

「二層目の磁場門を開く鍵だ。
持っていけ」

金太郎はそれを受け取った。

巴は続ける。

「次は刃蔵。
あの男は距離ではなく、心を斬る。
技の切れ味だけじゃない。
お前の覚悟を試す」

「なら、ますます面白い」

巴は、そこで初めて少し笑った。

「そう言うと思った」

金太郎が歩き出すと、背中越しに巴が言う。

「金太郎」

「あ?」

「熊吉に会ったら、まず目を見ろ。
あの男が何を抱えているか、そこに全部出る」

「目で語るタイプか」

「顔が怖すぎて損をしているだけだ」

金太郎は少しだけ笑い、
風の処刑場を抜けていった。

第三章 断界の太刀鬼、刃蔵


二層目は、鉄の迷宮だった。

送電塔の残骸、
倒れた変電施設、
巨大な鉄管、
むき出しの配線、
金属の墓標が乱立し、
その隙間を青白い放電が走る。

巴から受け取った青い矢を、磁場門の制御孔へ差し込む。
ごごご、と重い音を立てて門が開き、
その奥に冷えた暗闇が広がった。

金太郎が足を踏み入れた瞬間、
目の前の空気が細く光った。

反射で身を引く。

一閃。

金太郎の前髪が数本、宙に舞った。

そして、背後の鉄柱が、音もなく斜めに滑り落ちる。

「……今のが首だったら、終わってたな」

暗闇の向こうから、男が歩いてくる。

黒い羽織。
長い太刀。
長い髪。
痩せた顔。
無駄のない立ち姿。

まるで一本の刃が、人間の形をして歩いてくるようだった。

「第二天王」

男は静かに名乗る。

「断界の太刀鬼、刃蔵」



刀を抜く。

その音がまた、嫌に綺麗だった。

「鉞使い、ひとつ聞こう。
お前は、何を斬りたい」

「斬る?」

「そうだ。
人か。
運命か。
自分の弱さか。
それとも、この世界そのものか」

金太郎は肩をすくめた。

「俺は斬るより、割る方が得意だ」

「答えになっていない」

「じゃあ答え直す。
俺は道を開きたい。
その邪魔するもんは、全部どかす」

刃蔵の目が細くなる。

「悪くない」

その瞬間、姿が消えた。

金太郎は本能で鉞を横に払う。

ぎぃんっ!

太刀と鉞がぶつかる。
だが刃蔵は受けたのではない。
触れて滑り、その勢いのまま金太郎の脇腹へ返し刃を走らせる。

血が飛ぶ。

「ちっ……!」

「遅い」

刃蔵はもう背後にいた。

《断界一文字》

抜き、斬り、納めるまでが一つ。
まるで雷の線だった。

金太郎は振り向きざまに鉞を振るう。
だが刃蔵はその外側へ一歩抜け、足首を狙う。

《骸月》

低い、鋭い、嫌な斬撃。

金太郎は咄嗟に跳んだ。
足元の鉄管が斬り飛ぶ。

「脚を奪えば、お前の突進は死ぬ」

「丁寧に説明ありがとよ」

「理解した上で絶望しろ」

刃蔵の剣は速い。
だがそれ以上に厄介なのは、間の取り方だった。

近く見えて遠い。
遠く見えて近い。
間合いの境目が曖昧で、
こちらが「届く」と思った瞬間には、もうそこにいない。

《断界六連・斬魔流》

上段、下段、逆袈裟、突き、払い、返し。

金太郎は三つを防ぎ、二つをかわし、一つを肩に受けた。
浅くない。
だが踏み込む。

刃蔵の剣筋は美しい。
だからこそ、きっちり対応していては終わらない。

金太郎はあえて雑に、大きく、荒く振るった。

「力任せか」

「そう見えるか?」

鉞の一撃が、近くの変電器を直撃する。
火花が噴き上がり、周囲の鉄骨に青白い放電が走る。

刃蔵が跳んで避ける。

その着地点を、金太郎はもう読んでいた。

《山神回し蹴り》

太刀鬼の横腹へ、丸太のような脚がめり込む。
刃蔵は刀の峰で受けたが、それでも数歩流された。

「なるほど。
周囲ごと戦場にするか」

「一本道のルールに付き合ってられるか」

刃蔵が微かに笑う。

「よろしい。
ではこちらも、剣の理だけではないと見せよう」

刃蔵は鞘を投げ捨てた。
両手で太刀を構える。

気配が変わる。

さっきまでの冷たい静けさではない。
飢えた獣のような、むき出しの圧。

「必殺――《断界奥義・無明獄門》」

一瞬、視界が黒く染まったように見えた。

刃蔵が左右前後、
いや、八方から同時に斬ってきたように感じる。
残像か。
錯覚か。
それとも、殺気で脳を騙しているのか。

金太郎は直感でその場に鉞を突き立て、自分の体を回転させた。

《鉞技・金剛輪砕》

回転防御。
火花が散る。
だが一太刀だけ、防ぎきれない。

左腕が裂けた。

「ぐっ!」

刃蔵の太刀が、次は喉を狙う。

その瞬間、金太郎は笑った。

「取ったと思ったろ」

金太郎は鉞から手を離し、空いた右手で刃蔵の手首を掴んだ。

「なに……!」

「俺は、武器がなくても殴れる」

そのまま額を振りかぶり、刃蔵の顔面へ頭突き。

《金時頭砕》

刃蔵の鼻梁が鳴る。
わずかに態勢が崩れる。

金太郎はさらに踏み込み、
肩から胸へ体当たり。

《山嵐肩衝》

刃蔵の体が浮いた。

そこへ、抜き取った鉞の柄尻が腹へめり込む。

《金剛腹穿ち》

空気が抜ける音。

刃蔵が膝をつく。

金太郎は鉞を振り上げたが、寸前で止めた。

静寂。

送電塔の残骸が風に鳴る。

刃蔵は膝をついたまま、小さく息を吐いた。

「……見事だ」

「もうやるか?」

「いや」

刃蔵は太刀を地面に置いた。

「負けだ。
剣の理を崩された。
しかも力でではなく、覚悟でな」

金太郎は眉をひそめる。

「覚悟?」

「お前は痛みを恐れない。
いや、正確には“痛みの先にあるもの”を見ている。
だから斬っても止まらない」

刃蔵は懐から金属札を取り出し、差し出した。

「三層目への鍵だ」

金太郎が受け取ると、刃蔵は少しだけ遠くを見る目になった。

「昔の俺は、斬れないものがあるのが許せなかった。
だからもっと鋭く、もっと速くと求め続けた」

「今は違うのか」

「熊吉に言われた。
“守るものを決めた剣は、ただ鋭いだけの剣より重い”とな」

金太郎は鼻を鳴らす。

「やっぱり説教臭えな、そいつ」

「否定はしない」

刃蔵は立ち上がり、刀を鞘もなく肩に乗せた。

「次は玄破。
大槌の男だ。
あいつは正面から来る。
その代わり、正面から来るくせに、正面で受けると死ぬ」

「面倒な説明だな」

「要するに、真正面から壊してくる」

「わかりやすくなった」

金太郎が歩き出す。

刃蔵は最後に言った。

「金太郎」

「あ?」

「熊吉を斬るな」

「俺、斬るより割る方が得意だって言っただろ」

「そういう意味じゃない」

刃蔵の声が少しだけ低くなる。

「もし勝つなら、あの男を終わらせてやれ。
あいつはたぶん、もう長くない」

金太郎は足を止めなかった。

だが、その言葉は胸に残った。

第四章 震獄の大槌王、玄破


三層目は、砕けた大地そのものだった。

採石場の跡地。
深い穴。
崩れた掘削機。
巨大なクレーター。
地割れの隙間から、硫黄を混ぜた熱い蒸気が吹き上がっている。

立っているだけで地面が軋む。

金太郎が金属札を岩壁の制御盤に差し込むと、
山肌の石門が音を立てて開いた。

その先にあったのは、自然の闘技場だった。

中央に一人の巨漢が立っている。

いや、立っているというより、
そこだけ岩山がひとつ生えているようだった。

全身に鉄板を巻き、
肩に鎖を垂らし、
手には常人なら持ち上げることすらできない巨大な大槌。

男は笑う。

「来たか、鉞坊主!」

声が地鳴りのように響いた。



「第三天王、震獄の大槌王・玄破!」

大槌を肩から下ろす。

「ここから先は力比べだ。
こねくり回す理屈は要らねえ。
立ってる方が山だ!」

金太郎は鉞を構え、口元を吊り上げた。

「いいな。
そういう奴は好きだ」

玄破が、ぐうっと腰を落とす。

「なら――潰す!」

第一打。

《震獄一打・地哭》

大槌が地面を叩いた。

その瞬間、
闘技場全体が爆発したように跳ね上がる。

岩盤が割れ、
土砂が噴き上がり、
地面の一部が波のようにめくれる。

金太郎は跳んだ。
だが着地した場所へ、すでに二打目が来ている。

《砕岳連崩》

左右の連撃。
風圧だけで肺がつぶれそうになる。

金太郎は鉞を盾にして受けた。
だが、受けたというより、吹き飛ばされた。

岩壁へ叩きつけられる。
肺から空気が抜ける。

「どうしたァ!」

玄破が吠える。

「風と剣を越えて来た男が、その程度か!」

「うるせえな……!」

金太郎は血を吐き捨て、立ち上がる。

「一発がでけえんだよ!」

「褒め言葉として受け取っとくぜ!」

玄破は大槌を振り回しながら突進してくる。
巨体のくせに速い。
まるで装甲車が人型になったような圧。

金太郎は横へずれる。
鉞で玄破の脇腹を薙ぐ。

硬い。

鉄板だけではない。
中身もほとんど岩だ。

玄破が笑った。

「効いてる効いてる!」

そのまま左手で金太郎の胴を掴む。

「捕まえた!」

持ち上げる。
視界が逆さになる。

「必殺――《獄砕抱え落とし》!」

叩きつけ。

金太郎は空中で鉞の柄を玄破の首元へ差し込み、
落下の軌道をずらす。
二人まとめて横転し、岩壁を何枚も砕きながら転がった。

蒸気が噴き上がる。

土煙の中から、先に立ち上がったのは玄破だった。

「いいじゃねえか!」

「てめえもな!」

金太郎も立つ。
膝が少し笑っている。
今の一撃で脚に来た。

それを玄破は見逃さない。

「足が鈍ったな」

「目ざといな」

「大槌使いは、相手のどこが壊れたかを見るもんだ!」

玄破は今度、大槌ではなく足で踏み込んだ。

ただの踏み込みではない。

《地脈踏破》

足裏で大地の亀裂を読み、その反動で身体ごと加速する突進。
巨体のまま矢のように迫る。

玄破の頭突き。
肘。
膝。
体当たり。

大槌だけでなく、本体も凶器だった。

金太郎は肘を肩で受け、
膝を脇腹に食らい、
それでも玄破の顎へ拳を叩き込む。

拳と拳がぶつかる。

衝撃波で足元が割れる。

「おおおおおっ!」

「がああああっ!」

両者同時に叫ぶ。

玄破は槌を振りかぶり、
金太郎は鉞を下段から回す。

武器同士が激突する。

鈍い轟音。
火花。

一度ではない。

二度。
三度。
四度。

まるで山と山がぶつかり合っているようだった。

玄破が笑う。

「最高だぜ、金太郎!」

「こっちのセリフだ!」

「そうだろうよ!」

玄破の筋肉がさらに膨れ上がる。
血管が浮く。
地面が沈む。

「必殺――《大地葬送・百裂震》!」

連打。

一打ごとに地面が爆ぜる。
闘技場そのものが破壊されていく。

金太郎は逃げ場を失う。

右も左も足場が崩れ、
跳べば着地点が砕かれる。

ならば、と金太郎は鉞を地面に突き刺した。

「婆ちゃん、悪い」

低く呟く。

「少し、山のやり方で行く」

両脚に力をためる。
腰を沈める。
地の反発を全身に通す。

そして、砕ける地面の波そのものを踏み台にして、跳んだ。

《山神跳梁》

常識外れの踏み込み。
崩壊する足場を逆利用した跳躍技。

玄破の頭上へ、一気に出る。

「なっ――」

「上だ!」

金太郎は鉞を真上から叩きつけた。

《轟山断・天落》

玄破は大槌で受ける。
だが、上からの重圧に膝が沈む。

金太郎はさらに自分の身体ごと落とした。
重さと勢いを全部乗せる。

玄破の体勢が崩れる。

そこへ金太郎は武器を離し、懐へ潜った。

「武器だけが力じゃねえ!」

肩を入れる。

腰を切る。

脚で地を掴む。

《足柄大返し》

大技だった。

玄破ほどの巨体を、腰で返す。
山を投げるような無茶苦茶な投げ。

玄破の巨体が浮く。

「うおおおおおっ!?」

そのまま背負い、回転し、
闘技場の中心へ叩きつけた。

大地が裂けた。

蒸気が噴き、
岩盤が沈み、
闘技場の中央に新しいクレーターが生まれる。

玄破はその底で、大の字になっていた。

しばらく動かない。

やがて、どっと笑い声が響いた。

「はは……っ。
すげえな、お前」

玄破は仰向けのまま言った。

「押し合いで負けるとは思ってなかった」

金太郎は息を切らしながら歩み寄る。

「まだやるか?」

「いや、負けだ」

玄破は素直に認めた。

上体を起こし、首にかけていた歯車の首飾りを外す。

「四層目への鍵だ。
持っていけ」

金太郎が受け取ると、玄破は目を細めた。

「昔の俺は、怒ることしかできなかった。
殴って、壊して、気づいたら守りたかったものまで壊してた」

「今は違うのか」

「熊吉に止められた。
拳ひとつでな」

玄破は苦笑した。

「“止まれない強さは半端だ”ってよ」

「やっぱり説教してんな、そいつ」

「めちゃくちゃ怖い顔でな」

玄破は空を見上げた。

「次は叉兵衛。
槍の男だ。
俺たちの中じゃいちばん熊吉に近い」

「強いって意味か」

「それだけじゃねえ」

玄破の声が少しだけ真面目になる。

「あいつは最後の門だ。
勝てば、お前は本当に熊吉のところへ行く。
負ければそこで終わる」

金太郎は歯車を腰へしまう。

玄破は最後に叫んだ。

「金太郎!」

「あ?」

「最後に物を言うのは脚だ!
腕でも武器でもねえ!
踏ん張った方が勝つ!」

金太郎は片手を上げた。

「覚えとく!」

そのまま、さらに上へ。

山頂は近い。
だが、空気はますます重くなっていく。

第五章 穿河の槍将、叉兵衛


四層目は、水のない川だった。

かつて導水路だった巨大な水道が、
今は干上がったまま山腹を横切っている。
白く乾いた泥。
ひび割れたコンクリート。
壊れた水門。
水の記憶だけが残る場所。

金太郎が歯車を制御盤へはめ込むと、
導水路の中央に一本の橋がせり上がった。

細い。
長い。
逃げ場がない。

橋の向こう、霞む陽炎の中に、男が立っていた。

青い外套。
細身の長身。
身長を超える白い長槍。
顔立ちは穏やかだが、目だけが鋭い。

男は槍を立て、軽く一礼した。

「第四天王。
穿河の槍将、叉兵衛」




金太郎は橋を踏みしめる。

「最後の四天王か」

「そうなる」

「通してもらうぞ」

「通したいが、それはできん」

叉兵衛は槍を静かに構えた。

「ここは最後の門だ。
お前が本当に熊吉の前に立つに足るか、見極める」

「みんな似たようなこと言うな」

「似たような理由でここにいるからな」

金太郎は鼻で笑う。

「なら、手っ取り早く始めようぜ」

叉兵衛の槍が動いた。

速い。

いや、速いというより、
最初からそこにあったような突きだった。

金太郎は鉞で受ける。
火花。

そのまま槍は滑り、喉を狙う。
かわす。
石突が足を払う。
跳ぶ。
着地点へ、また穂先。

《穿河流・水鏡三連》

一撃一撃が水面の反射のように滑らかで、
しかも間合いが完璧だった。

橋の狭さが、槍に味方している。
鉞の大振りを、欄干と橋幅が殺す。

金太郎の腕に浅い傷が増える。

「ここでは槍が王だ」

叉兵衛が告げる。

「狭い道。
長い得物。
お前の豪腕も、振りきれなければ半端になる」

「言われなくてもわかってる!」

金太郎は橋板を蹴り、わざと欄干を壊した。
欄干が崩れる。

叉兵衛は一瞬だけ目を細める。

「足場を壊して間合いを狂わせるか」

「一本道のルールは嫌いでな!」

金太郎はさらに橋板そのものを鉞で叩き割った。
橋の一部が崩れ、二人とも体勢を乱す。

その隙を狙って金太郎が踏み込む。

だが叉兵衛は乱れない。

崩れる橋材の上を滑るように移動し、
逆に高所から槍を打ち下ろした。

《白浪断》

斬るような突き。
空気が裂ける。

金太郎は鉞の柄で受けるが、
衝撃で柄に裂け目が入る。

「……ちっ」

叉兵衛の目が、その裂け目を見逃さない。

「熊吉の前まで、その鉞が持つか」

「縁起でもねえな」

「真実は縁起を選ばん」

橋が完全に崩れ、二人は導水路の底へ降りた。

多少広い。
だが周囲には壊れた支柱や残骸が多く、
槍の死角が少ない。

叉兵衛は槍を構え直す。

「ここからが本番だ」

空気が変わった。

静かだ。
あまりにも静かで、逆に怖い。

金太郎の背筋に冷たいものが走る。

次の瞬間。

《穿河奥義・千条瀑布突》

槍が増えたように見えた。

いや、増えてはいない。
速すぎて、一本が千本の残像になるのだ。

喉。
心臓。
腹。
肩。
膝。
脇腹。
目。

あらゆる急所に、同時に槍が来る。

金太郎は鉞を回し、防ぐ。
だが一本、二本、三本と掠めていく。

ついに腹へ深く入った。

「がっ……!」

膝がつく。

叉兵衛は槍を引かず、そのまま言った。

「ここまでか」

金太郎は血を吐きながら笑った。

「まだだ」

「お前は強い。
だが熊吉の前へ行くには、一つ足りない」

「何がだ」

「怒りを超えた先の力だ」

金太郎の目が細くなる。

「説教か」

「違う。
確認だ」

叉兵衛は槍を引き抜き、再び構える。

「熊吉と戦えば、いずれ武器は意味を失う。
あの男の前では、技も理も最後には肉ひとつになる。
その時、お前は何で立つ」

金太郎はゆっくり立ち上がった。
腹から血が流れる。
それでも目は死なない。

「背負ってるもんで立つ」

叉兵衛の口元が、初めて少しだけ緩む。

「よし」

再び突き。

今度、金太郎は避けなかった。

左肩で受けた。

穂先が肉にめり込み、止まる。

「なにっ!」

「捕まえたぞ!」

金太郎は肩に食い込んだ槍ごと、叉兵衛の得物を掴んだ。

そのまま全身で引く。

叉兵衛の体勢が崩れる。

槍の使い手にとって、間合いと軸を奪われるのは死だ。

金太郎は一気に踏み込む。

額と額がぶつかる。

《金時頭砕》

叉兵衛の視界が揺れる。

そこへ、鉞の峰ではなく柄の根元を叩きつける。

《鉞技・柄砕き》

槍の中程が、べきりとひしゃげた。

叉兵衛が数歩よろめき、膝をつく。

金太郎は刃を止めた。

静寂。

干上がった川床を風が抜ける。

叉兵衛は壊れた槍を見つめ、それから小さく笑った。

「……見事だ」

首から下げていた円盤状の鍵を外し、差し出す。

「山頂門の鍵だ」

金太郎が受け取ると、叉兵衛は真っ直ぐ言った。

「熊吉は、水を独り占めしていたわけではない」

「どういう意味だ」

「天ノ雫門の下にある龍脈炉は、長年の暴走で限界にある。
無理に開けば、水圧と地熱が一気に噴き出して山を裂く。
麓の集落は濁流に呑まれ、全滅する」

金太郎の顔が険しくなる。

「なら、熊吉は……」

「抑えていた」

叉兵衛はうなずく。

「あの男は己の技と肉体と旧世界の制御装置で、
ずっと龍脈炉を押さえ込み続けていた。
だから足柄は完全には死ななかった」

「そんな大事なこと、なんで黙ってやがる」

「信じるか?
“苦しめているのは守るためだ”と語る王を」

金太郎は答えない。

叉兵衛は続ける。

「だから熊吉は待った。
自分より強く、
自分より背負える者を。
山も、水も、怒りも、何もかも託せる相手を」

導水路の上空で雷が鳴る。

叉兵衛はゆっくり頭を下げた。

「行け、金太郎。
最後は武器ではない。
お前自身が問われる」

金太郎は山頂を見上げた。

そこに、巨大な白い施設の輪郭がある。
雲の中に、獣のような気配がある。

「行く」

そのひと言だけを残し、
金太郎は最後の門へ向かった。

第六章 頂の王、東郷熊吉


山頂は、世界の終わりのような場所だった。

足柄山の頂上には、
旧文明の巨大施設《天ノ雫門》がそびえていた。

白い塔。
黒い雲。
円環状の制御門。
壊れたアンテナ群。
岩肌に食い込む巨大な配管。

そのすべてが雷に照らされ、
死んだ神殿のような威容を見せている。

金太郎が山頂門へ円盤状の鍵を差し込むと、
重い音を立てて門が開いた。

その奥――
広大な石の広場の中央に、一人の男がいた。

上半身は裸。
肩幅は広く、
胸板は厚く、
全身に古傷が走っている。
腰には相撲取りのような太い布帯。
腕は丸太ではなく、もはや柱だった。

顔には深い皺。
鋭い眼。
鼻梁は何度も折れて歪んでいる。

そして、その場に立っているだけで、
周囲の空気が重く沈む。

東郷熊吉。

通称、熊。

四天王の誰よりも静かで、
誰よりも恐ろしい気配を持つ男だった。




熊吉は腕を組んだまま、金太郎を見ていた。

「来たか」

声は低く、腹に響く。

金太郎は鉞を肩から下ろした。

「待ってたみてえだな」

「待っていた」

「なら話は早い。
お前を倒して、山を開く」

熊吉はしばらく黙っていた。
その目は怒っているわけでも、笑っているわけでもない。

ただ、長く生きすぎた獣のように静かだった。

「砦の者たちはまだ生きているか」

「生きてる。
水がねえから死にかけてるがな」

「そうか」

「そうか、じゃねえ」

金太郎の声に怒気が混じる。

「お前が水を止めてたせいで、どれだけ苦しんだと思ってやがる」

「止めていたのではない」

「叉兵衛から聞いた。
抑えてたんだろ。
山が裂れねえように」

熊吉の目がわずかに動いた。

「……そこまで聞いたか」

「だったら、なおさらわからねえ。
なんで一人で抱え込む。
なんで全部、敵みてえな顔して背負う」

熊吉はゆっくり腕を解いた。

「簡単だ」

一歩、前へ出る。

それだけで広場が軋んだ気がした。

「俺以外にできる者がいなかった」

金太郎は睨み返す。

「だからって黙るな」

「黙るしかなかった」

「ふざけんな」

「ふざけていない」

熊吉の声が少しだけ重くなる。

「世界が壊れたあと、人は真実より、わかりやすい憎しみを選ぶ。
“俺が抑えている。開けば皆死ぬ”と言って、誰が信じる」

「信じさせろよ!」

「その前に奪いに来る」

雷が落ちた。

白い閃光が二人の間を照らす。

熊吉の顔に刻まれた傷が浮かび上がる。

「だから、必要だった。
俺より強い者が」

金太郎は歯を食いしばる。

「……俺か」

「そうだ」

熊吉はうなずいた。

「お前は昔から、止まらなかった。
飢えても、殴られても、負けても、立ち上がった。
あの頃の瓦礫の闘技場で、お前だけは最後まで目が死ななかった」

金太郎の脳裏に、ぼんやりした残像がよぎる。

血の匂い。
歓声。
瓦礫の円。
大きな影。

「覚えてねえ」

「覚えていなくていい」

熊吉は腰を落とした。

「今の、お前を見せろ」

金太郎も鉞を構える。

「最初からそれでよかったんだよ」

熊吉は素手のまま。

だが、その構えは尋常ではない。

相撲。
だが単なる相撲ではない。
全身の重心が大地と一体化し、
押しも、投げも、受けも、すべてが極限まで研ぎ澄まされた構え。

「来い、金太郎」

「行くぞ、熊吉!」

二人が同時に踏み込んだ。

第七章 鉞、砕ける


開戦の瞬間、
広場の石畳が一斉にひび割れた。

金太郎の鉞が唸る。

《轟山断》

熊吉は避けない。
掌ひとつで受ける。

がぎぃんっ!

金属と肉がぶつかったはずなのに、
鳴った音は岩と鉄の衝突だった。

金太郎の目が見開かれる。

「素手で……!」

熊吉は鉞の刃を掴んでいた。
掌から血は出ている。
だが、その指は刃を止め、
そのまま鉞の軌道ごとねじってくる。

「武器に頼るな」

熊吉が低く言う。

「お前の強さは、そこだけじゃない」

金太郎は鉞を引く。
だが動かない。

熊吉の足腰が、山そのもののように根を張っている。

「なら、これならどうだ!」

金太郎は鉞を手放さず、逆の拳で熊吉の顔面へ打ち込む。

熊吉は額で受けた。

鈍い音。

そのまま肩で前へ出る。

《熊王押し》

ただの押しではない。
山崩れのような圧力。

金太郎の全身が後ろへ滑る。
石畳が削れる。
両脚が沈む。

それでも耐える。

「うおおおおっ!」

「踏ん張れ!」

熊吉の眼が燃える。

「お前は玄破から何を聞いた!」

「最後に物を言うのは脚だってよ!」

「なら――!」

熊吉の押しがさらに重くなる。

「見せてみろ!」

金太郎は歯を食いしばり、
鉞を手放し、
両腕で熊吉の押しを受ける。

真正面からの押し合い。

腕が鳴る。
肩が軋む。
腰が悲鳴を上げる。

だが金太郎は、一歩も退かない。

「まだだァ!」

逆に踏み込む。

《足柄山返し》

押しの力を受け流し、横へ返す投げ技。
熊吉の体勢がわずかに崩れる。

金太郎はその隙に転がる鉞を拾い、
腰を切って横薙ぎに振るう。

《天破鉞嵐》

連続斬撃。
横、斜め、返し、打ち込み。

熊吉はそれを避けず、腕と掌と肩で受けていく。
皮膚が裂け、血が飛ぶ。
だが熊吉は前へ出る。

「浅い!」

「だったら深く行く!」

金太郎は跳んだ。

《山神跳梁》

頭上からの一撃。

熊吉は両腕を交差して受ける。

次の瞬間、
広場の石畳が円形に砕けた。

だが、熊吉は倒れない。

「重い……!」

金太郎の鉞を、熊吉は再び素手で掴む。
今度は両手で。

そして、静かに言った。

「その鉞は、いい武器だ」

「褒められてもうれしくねえ!」

「だからこそ――」

熊吉の全身の筋肉が隆起する。

腕。
肩。
背。
腰。
脚。

相撲の立ち合いにも似た爆発的な全身連動。

「砕く!」

《剛力無双・熊砕き》

熊吉は鉞を真正面からへし折った。

ばぎぃぃんっ!

金太郎の愛用の鉞が、
柄から真っ二つに砕け散る。

刃が宙を舞う。

金太郎の目が一瞬だけ止まる。

熊吉の張り手が飛ぶ。

《雷獣張手》

顔面を打ち抜かれ、金太郎の体が吹っ飛ぶ。
石柱を二本折り、壁に叩きつけられる。

金太郎は膝をついた。

手には、折れた鉞の柄だけが残る。

熊吉は砕けた刃を見下ろし、
ゆっくりと構えを解いた。

「ここから先だ」

金太郎が血を拭う。

「……何がだ」

熊吉は帯を締め直した。

「武器が折れた。
なら、もう飾りはない」

その声には、不思議な静けさがあった。

「俺は素手。
お前も素手。
最後は、男と男の勝負だ」

金太郎は、折れた鉞の柄を見つめた。

子どものころから握ってきた重み。
砦を守った重み。
山を登ってきた重み。

それが、終わった。

だが、不思議と絶望はなかった。

巴の言葉。
刃蔵の言葉。
玄破の言葉。
叉兵衛の言葉。

そして、山姥の言葉。

全部が胸の奥で一つになる。

金太郎は折れた鉞をそっと地面へ置いた。

そして、前へ出る。

「いいぜ」

腰を落とす。

掌を開く。

「相撲で来い、熊吉」

熊吉の目に、初めて明確な笑みが宿った。

「それでいい」

雷鳴。

暴風。

二人は土俵もない山頂広場で、
同時に仕切った。

第八章 終幕、灰燼の土俵


最終決戦は、相撲だった。

だが、それは人が知る相撲ではない。

神話が地上で取っ組み合っているような、
山と山がぶつかる決戦だった。

立ち合い。

二人の足が石畳を砕く。

正面衝突。

轟音。

衝撃だけで広場の外周にあった古木が何本も薙ぎ倒される。

「ぬおおおおっ!」

「おおおおおっ!」

胸と肩と腕がぶつかる。
張り手が飛ぶ。
差し手が入る。
首を取る。
切り返す。
上手を探る。
下手を切る。

一瞬の組み手の中に、
殴り合い百回分の圧力が詰まっていた。

熊吉の張り手が金太郎の頬を打つ。

《雷獣張手》

空気が弾ける。
金太郎の体が半歩流れる。

そのまま熊吉が前へ出る。

《熊王押し・双連》

連続押し。
まるで崩落する岩盤。

金太郎は両腕で受け止め、
脚で耐え、
腰を落とし、
一気に横へ回る。

《金時雲龍返し》

差し手からの捻り。
熊吉の巨体がわずかに傾く。

そこへ金太郎は肩を入れ、持ち上げにかかる。

「うおおおっ!」

「甘い!」

熊吉が上からのしかかる。

体重ではない。
重心そのものを乗せてくる。
山が膝の上に落ちてきたみたいだった。

石畳が沈む。

亀裂が走る。

二人の足元から、地の底へ向かって割れ目が広がっていく。

熊吉は組みながら言った。

「山は、軽い気持ちで背負うもんじゃない」

「知ってる!」

金太郎も食いしばる。

「でも、誰かが背負わなきゃ、渇いたまま死ぬんだよ!」

熊吉の目が、ほんのわずかに揺れる。

「その通りだ」

次の瞬間、熊吉が頭をつけたまま前へ出る。

《岩戸押破》

押し込みの必殺技。
前方の大地ごと破砕しながら進む超重量押し。

金太郎は十歩、二十歩と押し込まれる。
背後の石塔が砕け、
木々がへし折れ、
広場の端まで追い込まれる。

その先は断崖だった。

熊吉が吠える。

「落ちろ!」

「断る!」

金太郎は崖際で右足を深く踏み込んだ。
脚が岩にめり込む。

玄破の言葉が響く。

最後に物を言うのは脚だ。

金太郎は、押されながらも笑った。

「ここからが、俺の相撲だァ!」

両腕を差し入れる。

熊吉の脇の下。
一瞬だけ空いた内側へ、強引に差し込む。

《坂田流相撲・赤鬼差し》

密着戦。

熊吉の押しを内側から止める差し手。

熊吉が目を見開く。

「それをここで使うか」

「お前が教えたんじゃねえのかよ、昔に!」

熊吉の顔に、一瞬だけ懐かしさがよぎる。

「……覚えていたか」

「身体がな!」

そのまま金太郎は腰を切る。

抱え、起こし、返す。

《足柄天地返し》

崖際からの大逆転投げ。

熊吉の巨体が浮き、
逆に広場中央へ叩きつけられる。

山頂全体が揺れた。

大木が何本も倒れ、
岩壁が崩れ、
遠くの導水路へまで亀裂が走る。

天ノ雫門の塔がうなり声を上げる。

二人は同時に立ち上がった。

息は荒い。
全身が血まみれだ。

だが目だけが、ますます澄んでいく。

熊吉が笑う。

「いいぞ、金太郎」

金太郎も笑う。

「てめえこそな、熊吉」

二人は再びぶつかった。

張り手。

差し手。

投げ。

外掛け。

小手投げ。

首投げ。

吊り。

寄り。

豪快な技の応酬。

そのたびに大地が割れ、
木々が吹き飛び、
岩が砕け、
山腹の川筋の形まで変わっていく。

あるときは熊吉が金太郎を持ち上げ、
そのまま地面へ叩きつけた。

《獣王吊り落とし》

広場の石畳が粉砕される。

あるときは金太郎が熊吉の帯を取り、
巨体を回転させて岩壁へ投げた。

《赤雷大車輪》

岩壁が崩壊し、
無数の岩塊が流れ落ちる。

二人は、もはや人間の範囲を超えていた。

それでも、どちらも倒れない。

どちらも退かない。

やがて、動きが鈍ってきた。

肩が落ちる。
息が荒い。
血だけではない。
命そのものを削って戦っているのがわかる。

それでも熊吉は構えた。

「最後だ」

金太郎も構える。

「来い」

熊吉の全身の筋肉が、異様に膨れ上がった。

四天王たちの技の要素が、そこで見えた。

巴のような風の読み。
刃蔵のような重心の切り替え。
玄破のような地脈の踏み。
叉兵衛のような最短の間合い。

そのすべてを熊吉は素手で極めていた。

「これが……俺の全力だ」

熊吉が踏み込む。

《終極奥義・天裂熊王寄り》

ただの寄りではない。

山の力をすべて前へ変える究極の押し相撲。

金太郎の体が浮きそうになる。
骨が軋む。
背骨が悲鳴を上げる。

負ける。

そう思った、その瞬間。

金太郎の中で、何かがつながった。

四天王の言葉。
山姥の顔。
砦の子どもの手で縫われた赤い前掛け。
乾いた井戸。
笑えなくなった大人たち。

全部が背中を押す。

金太郎は、ただ踏ん張った。

小手先の技じゃない。
気合でもない。

生きろと願う人間の数だけ、踏ん張った。

「俺は――」

両脚が岩へ沈む。

「一人じゃねえんだよッ!!」

腰が入る。

胸を当てる。

差し手を差し替える。

熊吉の圧を、真正面から受け止める。

そして――

《坂田金時・大金星》

それは技名というより、
生き様そのものみたいな一撃だった。

受け止め、
堪え、
押し返し、
最後にすべてを乗せて前へ出る。

熊吉の重心が、ついに浮いた。

「……見事だ」

熊吉が微笑む。

次の瞬間、金太郎は熊吉を抱え、
大きく一歩踏み込み、
天ノ雫門の前の岩盤へ叩きつけた。

轟音。

大地が裂ける。

岩盤が爆ぜる。

塔の基部に眠っていた制御輪が露出し、
その中心へ、熊吉の体が沈み込む。

沈黙。

風が止む。

雷も止む。

金太郎はふらつきながら立っていた。

熊吉は仰向けのまま、空を見ていた。

しばらくして、熊吉が笑った。

「……負けたか」

金太郎は息を切らしながら近づく。

「そうだ。
俺の勝ちだ」

「そうだな」

熊吉はゆっくり上半身を起こそうとして、やめた。
その腕が、もう震えている。

「もう……立てん」

金太郎の顔が曇る。

「まだ死ぬな」

「死にはしない」

熊吉は苦く笑った。

「だが、もう二度と戦えんだろう」

金太郎は黙る。

熊吉の身体の内側から、嫌な音がしていた。
筋肉だけじゃない。
骨も、神経も、内臓も。
全力の反動が、全身を焼き切っている。

熊吉はそれを承知で、最後まで出し切ったのだ。

「よく来たな、金太郎」

「……うるせえ」

「よく登った」

「黙ってろ」

「よく、俺を超えた」

金太郎は俯いたまま、拳を握る。

熊吉は天ノ雫門の露出した制御輪へ目を向けた。

「その鍵を、はめろ」

金太郎は四天王から受け取った四つの鍵と、最後の円盤を取り出した。
露出した制御輪の窪みに、ひとつずつはめ込んでいく。

巴の矢。
刃蔵の札。
玄破の歯車。
叉兵衛の円盤。
そして、熊吉の帯から外した最後の核鍵。

すべてが噛み合った。

天ノ雫門が震え始める。

山全体が低く唸る。

熊吉が言う。

「最後の起動には、二人分の力が要る。
山を抑える力と、山を開く力だ」

金太郎は熊吉を見る。

熊吉は笑った。

「安心しろ。
立てなくても、力くらいは残ってる」

金太郎は何も言わず、制御輪へ手を当てた。

熊吉もまた、震える腕を伸ばす。

二人の掌が、同じ輪に触れる。

「行くぞ」

「ああ」

二人同時に、力を込めた。

光。

轟音。

天ノ雫門が、ついに開く。

山の奥深くで止まっていた水が、
何十年分もの咆哮となって走り出す。

閉ざされていた導水路が震え、
干上がっていた川床へ水が流れ込み、
山肌を縫うように新しい流れが生まれていく。

遠く麓の方から、
まるで世界が初めて息を吹き返したような水音が聞こえた。

金太郎は膝をつく。

熊吉もまた、制御輪にもたれたまま息を吐く。

しばらく二人は、何も言わなかった。

ただ、水の音を聞いていた。

やがて熊吉が、小さく言った。

「綺麗だな」

金太郎は、かすれた声で答える。

「ああ」

「昔、こういう水を見たことがある。
世界がまだ、壊れる前にな」

「俺はたぶん、覚えてねえ」

「これから覚えればいい」

熊吉は空を見上げる。

雲の切れ間から、わずかに青がのぞいていた。

「お前が守れ」

「言われなくても守る」

「そうか」

熊吉は満足そうに目を閉じる。

「それでいい」

金太郎はしばらく黙っていたが、やがて座り込んで言った。

「熊吉」

「なんだ」

「また喧嘩したかったら、してもいいぞ」

熊吉は目を閉じたまま笑う。

「無理だ。
もう腕も脚も、土俵に上がれる身体じゃない」

「……そうか」

「だが」

熊吉は少しだけ顔を向けた。

「今日の一番で、十分だ」

金太郎の喉が詰まる。

熊吉は続ける。

「強い奴と、全部出し切って戦う。
それ以上の幸せは、たぶんない」

風が吹く。

今度の風は、冷たくなかった。

山の下から、確かな水の気配を運んでくる。

熊吉は静かに言った。

「認めるぞ、坂田金時。
お前が、足柄の次の山だ」

金太郎は涙を見せまいとして、乱暴に笑った。

「重てえ肩書き押しつけやがって」

「似合う」

「うるせえ」

しばらくして、熊吉の呼吸は落ち着いた。
命はある。

だが、その眼にはもう、
戦いの獣が持つ火ではなく、
全部を出し終えた者だけが持つ静かな灯が宿っていた。

二度と戦えない。

けれど、それは敗北ではなかった。

生涯でただ一度、
本当に望んだ相手と、
本当に望んだ決着をつけた男の、
ひとつの完成だった。

終章 川のある朝


数日後。
柴原の砦に、子どもたちの叫び声が響いた。

「水だ!」
「川が戻ったぞ!」

干上がっていた水路に、透き通った水が流れていた。
井戸も満ち、人々は泣きながら笑い、顔を洗い、喉を潤した。

山姥は小屋の前で椀に水を受け、一口飲んだ。

「……冷てえな」

そのそばで、金太郎は黙って山を見ていた。
全身傷だらけだったが、ちゃんと立っていた。

子どもたちが駆け寄る。

「金太兄ちゃん!」
「熊は倒したの!?」

金太郎はうなずいた。

「倒した。
でも最後は、ちゃんと相撲で勝った」

子どもたちはよくわからないまま、大喜びで笑った。

山姥が聞く。

「熊吉はどうした」

「生きてる。
でも、もう戦えねえ」

山姥は静かにうなずいた。

「それでいい。
戦いしか知らなかった男が、最後に戦いを終えられたんなら、それは悪くない」

夕方、金太郎が足柄山を見上げていると、四天王たちが現れた。

巴は見張りに立つと言い、
刃蔵は水路沿いの盗賊を警戒し、
玄破は堰の補強へ向かい、
叉兵衛は流れを整えると言った。

もう彼らは、山の門番ではなかった。
山と水を守る者たちだった。

巴が言う。

「お前は山を継いだ」

金太郎は顔をしかめた。

「偉くなる気はねえよ」

刃蔵が静かに返す。

「偉くなりたがらない者ほど、背負うに向いている」

金太郎は少し黙り、山を流れる水を見下ろした。

「ああ。
よくわかんねえけど……投げるわけにはいかねえ。
熊吉が守ってきたもんだからな」

四人はそれを聞き、それぞれの持ち場へ去っていった。

入れ違いに、今度は山姥が現れた。

「迎えに来たよ、金時」

「婆ちゃん、こんなとこまで来たのかよ」

「山を取った馬鹿が、いつまでも黄昏れてるからさ」

山姥は金太郎の腰を見た。
そこに、もう鉞はなかった。

「折れたのかい」

「ああ」

「ならいい。
道具は壊れても、お前の中に残るもんは壊れない」

金太郎は胸の奥に残る熱を、静かに感じた。

砦へ戻ると、そこは祭りのようだった。
人々は水を汲み、笑い、明日の話をしていた。

誰かが金太郎に椀を押しつける。

「飲め! 今日は祝いだ!」

中には、ただの水。

けれどこの世界で、何より尊いものだった。

金太郎は一口飲み、息をついた。

「……うめえ」

その夜、砦には久しぶりに笑い声が満ちた。
戦いの話ではなく、畑や水路や暮らしの話が交わされた。

金太郎は壁の上に座り、山頂の方を見た。

熊吉は、もう二度と戦えないだろう。
けれどその強さは消えたわけではない。
水となって流れ、山に残り、次の誰かを支えるものになった。

金太郎は小さくつぶやく。

「見てろよ、熊吉。
お前が守ったもん、ちゃんと守ってやる」

風が返事のように吹いた。
どこかで、水が鳴る。

壊れた世界は元には戻らない。
それでも人は、生きる方へ進める。

翌朝。
朝日に光る川のそばで、赤い前掛けを揺らしながら水路を見て回る金太郎の姿があった。

誰かが言った。

「金太郎だ」

すると別の誰かが、笑って言った。

「いや――あれはもう、足柄の金太郎様だ」

川は流れていた。
山はそこにあった。
人々は、生きていた。

それで十分だった。

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