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黒潮の網目 ― 七星剣異聞

序 ―― 土佐、最南端の社

 高知自動車道の終点からさらに南へ、車を二時間走らせた先に、その集落はある。

 四万十の川口を越えると、道は海を離れて山へ食いこみ、また海へ戻る。それを何度も繰り返す。リアス式の海岸線が、鋸の歯のように太平洋を噛んでいる。国道の標識がまばらになり、対向車が来なくなり、やがて谷の奥に、小さな一宮(いっく)が現れた。

 盆の午後だった。杉に囲まれた参道は、日が差さないのに蒸していて、蝉の声が壁のように立っていた。石段は苔でぬめり、一段ごとに靴底が滑る。社殿は町の予算では到底修繕の追いつかぬほど古びていて、屋根の一部が青い波板で応急に覆われていた。

 考古学を専門にする私が、帰省のついでにこの社を訪ねたのは、まったくの気まぐれだった。地元の郷土史家が編んだ薄い冊子に、一行だけ気になる記述があったからだ。

 ――当社御神体、鉄剣一口。刀身に北斗七星の象嵌あり。

 北斗七星の象嵌。それは、大陸の道教思想を背景に持つ、いわゆる「七星剣」の意匠である。飛鳥の四天王寺に伝わる国宝、正倉院や法隆寺献納宝物に納まるものが名高い。だが、そのいずれも都の中枢、権力の頂点に近い場所でしか出会えないはずの遺物だ。星の剣が地方の一社に伝わったという例を、私は一つも知らない。

 それが、なぜ。

 都から見れば地の果て、律令の網の目がもっとも薄く届いた土佐の、そのまた最南端の谷に。

 ――もっとも、と私はそこで立ち止まる。土佐という土地は、この手のことに、まったくの前例がないわけではない。

 ここから山を隔てた日高村に、小村(おむら)神社という古社がある。土佐国の二宮。その御神体は、七世紀に作られた国宝の直刀――金銅荘環頭大刀だ。柄の頭に、二匹の竜が玉をくわえて透かし彫りにされた、飛鳥のころの宝剣である。何が異例かといえば、それが古墳から掘り出されたものではないという一点に尽きる。千数百年ものあいだ、社殿の奥に、ただ伝えられてきた。出土ではなく伝世した宝剣として、日本でただ一つの例だと言われている。

 都の中枢級の宝剣が、なぜ、辺境の社に、掘り出されるのでもなく、静かに手渡されつづけてきたのか。学界はその答えを持っていない。

 辺境に伝世した宝剣。この土地には、確かに、その前例がある。ならば――もう一口あっても、おかしくはないのではないか。

 宮司は八十を越えた老人だった。社務所というよりは物置に近い板間で、彼は麦茶を出してくれた。扇風機が首を振るたび、綴じの外れた奉加帳の紙がめくれた。

 御神体は数十年に一度しか開扉しないと言い、剣そのものを見せてはくれなかった。かわりに、社に代々伝わるという由緒を、たどたどしく語ってくれた。

「この社はな、海の彼方から流れ着いた、名も無い翁を祀ったものじゃ。都のもんではない。海から来た翁を、この土地の最初の国造(くにのみやつこ)が敬うて、社を建てたと伝わっとる」

 海から来た、名も無い翁。

「この星の剣はな、その翁の御霊に手向けられたものよ。翁は星を頼りに夜の海を渡った人ゆえ、国造が己の佩いた剣を捧げたと。――この剣には、人を斬った匂いがない。星の配りは、夜の海を渡るための道しるべじゃ、とな」

 老人は皺だらけの手で、汗をかいた湯呑みを両手に包んだ。

「昔はな、この谷の年寄りはみな知っとった。海の向こうに、王も倉も持たん、それでいて豊かに暮らす者らの国があったと。リュウグウじゃ。玉手箱の、あのリュウグウよ」

 そこで彼は、思い出したように口元をゆるめた。

「――もっとも、わしの祖父さんの代は、リュウキュウ、と言うとったな。リュウグウではのうて、リュウキュウ。子供のころ、なんぞ言い間違えとるんじゃろうと思うて、笑うたことがある。今から思えば、わしのほうが失礼じゃった」

 私は麦茶の縁から口を離した。

 リュウキュウ。

「なぜ、そう言っていたんでしょう」

「さあ。昔の言い方じゃろ。この谷の年寄りは、みなそう言うた」老人は無造作に言った。「もっとも今どき、そんな話を本気にする者はおらんがの」

 それから、彼はもう一つ、思い出したように付け加えた。

「こんな話もある。翁は国造に、竜を彫った別の剣を遺したそうじゃ。じゃがそちらは、留めてはならぬと翁が言うたとかで、いつしかどこぞへ流れて、行方知れずになったと。……まあ、年寄りの寝言よ」

 私は曖昧に笑い、礼を言って社を辞した。

 帰りの石段を下りながら、しかし私の頭からは、いくつもの断片が離れなくなっていた。北斗七星の剣。海から来た翁。王も倉も持たぬ国。竜を彫った、消えた剣。そして、リュウキュウ。

 ――浦島太郎。

 誰もが知る、あの昔話。亀に乗り、龍宮へ行き、玉手箱を開けて老いる漁師の物語。あれは本当に、ただの荒唐無稽なおとぎ話だったのだろうか。

 物語というものは、しばしば、消された歴史がとる最後の姿である。正史から名を削られた者が、それでも消えきれずに、神話の衣をまとって生き延びる。亀甲の刺青が「亀」に、密封された水銀朱の箱が「玉手箱」に、無暦の海の歳月が「浦島効果」に。

 もしそうだとしたら。

 この剣がここにある理由を知る者は、もう千五百年、誰もいない。

 ――だが、私は、その物語を知っている。



第一幕 陸の理(ことわり)

 秋雨は三日降りつづき、四日目の朝にようやく上がった。

 浦嶋(うらしま)は、造営中の陵(みささぎ)の裾を歩いていた。参内の道は、この普請場を横切るのが最も近い。

 右手に、山が生まれつつあった。人の手で。

 前方後円の墳丘は、すでに三段のうち二段まで土が積まれ、雨に洗われた斜面が黒々と光っている。その上を、蟻のように人が動いていた。もっこを担いだ男たちが、細い坂道を切れ目なく登り、頂で土をあけ、空のもっこを担いで下りてくる。登る列と下る列が、朝から日暮れまで、途切れることなく回りつづける。

 斜面の中腹では、別の一団が石を並べていた。葺石(ふきいし)である。川原から運ばれた拳ほどの石を、隙間なく、鱗のように貼りつけていく。完成すれば、この山は雨のたびに白く光るはずだった。

 風下に回ると、匂いが変わった。粘土と、窯の煙と、汗の匂いだ。埴輪の工房である。轆轤(ろくろ)を回す音、粘土を叩く音、そして焼き上がった円筒を運ぶ音。並べられた埴輪の列は、すでに墳丘の裾を半周していた。

 浦嶋の前を、担架が横切った。

 載せられているのは、男だった。土気色の顔で、口を半開きにして、目だけが空を向いている。もっこ担ぎの列から外れて、そのまま倒れたのだろう。担いでいる二人は急いでいなかった。慣れた足取りで、普請場の外れの木陰へ運んでいく。

 列は乱れなかった。倒れた者の抜けた隙間は、後ろの者が一歩詰めて、すぐに埋まった。

 浦嶋は足を止めなかった。止めるべきではないと思った。この山は、一人の大王の亡骸を納めるために積まれている。積むために、幾万の人日(にんにち)が費やされ、幾人かが死ぬ。それは、この国が不死を建てるために支払っている代価だった。

 ――だが、この普請ができるということは、この国が人と食を、それだけ確かに数えられるということだ。

 彼はそう考えるようにしていた。実際、そうだった。誰が、どの村から、何日出るか。その間、その者の家の食い扶持を誰が持つか。すべては木簡に刻まれ、屯倉(みやけ)から支えられている。飢えという名の獣を、計算によって檻に閉じ込める。それがヤマトの理であり、この列島を野の争いから救いだす、ただ一つの道だと、浦嶋は信じていた。

 普請場を抜けると、視界が開けた。

 幾何学に区切られた水田が、雨上がりの光の中に、見渡すかぎり広がっている。畦が直線を描き、その直線が水路と直角に交わり、区画の一つ一つが同じ大きさに揃っていた。刈り取られた稲は、統率された民の手で、次々と高倉(たかくら)へ運ばれていく。

 その光景は、浦嶋には美しく見えた。

 道の脇では、渡来の工人たちの窯が、幾筋もの煙を上げていた。窯の口から引き出されたばかりの器は、青みを帯びた灰色で、叩けば石のような音がする。半島の技である。その隣では鍛冶の槌音が響き、さらにその先の柵の中では、馬が数頭、湯気を立てて草を食んでいた。馬もまた、海を渡ってきたばかりの、新しいものだった。

 王宮は、掘立柱の建物である。柱は太く、屋根は分厚い茅葺きで、雨に濡れて黒く沈んでいた。

 その日の朝議は、はじめから空気が悪かった。

「南方の夷狄(いてき)、いまだ大王(おおきみ)の御稜威(みいつ)に服さず」

 軍事をつかさどる大連(おおむらじ)が、床を平手で叩いた。板がびりびりと鳴った。

「熊襲(くまそ)の者ども、我らが兵を退けたばかりか、見知らぬ鉄の武器を手にしておるという。大和の鉄座を通らぬ剣、通らぬ鏃(やじり)よ」

 列座がざわめいた。

 鉄は、半島の伽耶(かや)から運ばれる。それをヤマトが国家の力をもって束ね、分け与える。誰にどれだけ配るかが、そのまま誰が誰に従うかを決める。その理が崩れれば、地方の豪族は明日にも大王の顔色を窺わなくなる。

「どこの鉄か」

「それが、判りませぬ」大連は苛立ちを隠さなかった。「鉄鋌(てってい)の形が違う。我らが半島から受けるものと、寸法が合わぬのです」

 列の下座から、若い官人がおずおずと口を挟んだ。

「筑紫か、あるいは出雲を経て――」

「関はすべて調べた。陸からは入っておらぬ」

 沈黙が落ちた。

 その沈黙を、帳(とばり)の向こうから、しゃがれた声が破った。外交と諜報をつかさどる老官吏である。彼は目を病んでから人前に出ず、いつも帳の奥で話した。

「海だ」

 誰も口を利かなかった。

「南の果ての海より、土地も港も持たぬ者どもが波に乗って現れ、熊襲に鉄を渡しておる。田を持たず、倉を持たず、戸に名を記されぬ者ども。……大陸の商人は、それを、りうきう、と呼ぶそうな」

「りうきう」大連が眉を寄せた。「国の名か」

「さあて。国と申すには、あまりに掴めませぬ。地図に記そうにも、記す先が動きますゆえ」

 大王の御簾の内から、低い声があった。

「――記録には、なんと書く」

 しばし、誰も答えなかった。

 やがて、記録役として末席に控えていた若い書記官が、膝で少し前に出た。渡来の史部(ふひとべ)の生まれで、青白い顔をしていた。名を、アヤという。

「音を写すのであれば、いくつか当てられます」アヤは木簡と小刀を膝に置いたまま言った。「ただ、音のみを写しては、読んだ者に何のことか判りませぬ。……音が近く、意味も通る字がよろしいかと」

「申せ」

「龍宮、と」アヤは言った。「龍の、宮。海の彼方に、竜の住まう宮がある。そう読めます」

 大連が、鼻で笑った。

「童(わらべ)の話ではないか」

「はい」アヤは表情を変えなかった。「ですが、字は残ります。残る形にしておかねば、この者どもは、初めからいなかったことになりましょう」

 帳の奥で、老官吏がかすかに笑ったようだった。

「よかろう。りうきう――龍宮、と記せ」

 小刀が木簡を削る音が、短く鳴った。

 議は、そこから荒れた。

「湊を焼くべし」大連は太刀の柄に手をかけて立った。「南の湊をことごとく焼き、海の化け物どもにヤマトの鉾(ほこ)の鋭さを思い知らせるべきです」

「兵を、どれほど出す」

「三千」

「三千の兵を、幾月食わせる」年老いた大夫(まえつきみ)が呻いた。「稲の入りは去年より少ない。今年また兵を出せば、来年の種籾に手をつけることになるぞ」

「手をつければよい。取り返せばよいのだ」

「取り返す先が、海の上だと申しておるのです」

 議論は同じところを二度、三度と回った。

 やがて御簾の内から、決を占うようにと沙汰が下った。

 卜部(うらべ)が呼ばれた。

 庭に筵が敷かれ、火が熾された。卜部は老女と若い男の二人で、老女のほうが炉の前に座った。彼女は布に包まれたものを解いた。

 通常、この場で焼かれるのは鹿の肩の骨である。だが老女が取りだしたのは、平たく、黄ばんだ、大人の胸ほどもある甲羅だった。

 浦嶋は、それが何か知っていた。海亀の腹の甲である。この列島の海にも亀はいるが、これほど大きなものは南の島から来る。貝や香木とともに、細々と北へ流れてくる品の一つだった。

「南の海のことは、南の海のもので問うのが筋にございます」老女はそう言って、甲羅を炉にかざした。

 波波迦(ははか)の木の先を火に入れ、赤くなったところで甲羅の裏に押しあてる。

 じゅ、と音がした。

 骨と獣脂の焼ける匂いが、庭に広がった。浦嶋は、その匂いを鼻の奥に受けた。甘くて、酸いような、嫌な匂いだった。

 しばらくして、乾いた音が鳴った。

 甲羅の表に、細い罅(ひび)が走っていた。

 卜部の老女は、それを長いこと見つめた。若い男が墨で罅をなぞり、老女に見せた。

「――道が、南へ開いております」老女は言った。「ただし、開いた道を、鉾で塞げば、罅は割れる、と」

「どちらとも取れるではないか」大連が吐き捨てた。

「亀は、どちらとも申しませぬ」老女は静かに言った。「そう読める、と申しただけにございます」

 その時、浦嶋は自分でも思いがけず、声を出していた。

「――ならば、まず使いを出されませ」

 視線が一斉に刺さった。若い、位もさほど高くない官人が、大連の言に逆らったのだ。

「申せ」御簾の内が言った。

 浦嶋は、床に手をついた。心の臓が耳の奥で鳴っていたが、言葉は不思議なほど滑らかに出た。

「相手は領土なき波の上の者にございます。湊を焼こうと、彼らは別の海へ逃れ、また熊襲と結び直すのみ。実体なき網を、刀で斬るようなもの。戦は長引き、いたずらに民の血と倉の稲を費やしましょう」

「では、そなたならばいかにする」大連の声は冷たかった。

「彼らにも、我らの理を示せばよいのです」浦嶋は顔を上げた。「国を持たぬとは、明日の糧の保証もない生き方。ヤマトの高倉に守られた、飢えなき暮らしを説く。熊襲への鉄を絶たせ、代わりに王権の正規の海路を担わせる。互いの利を結ぶことこそ、真の平定にございます」

「海の化け物に、理が通じると」

「通じぬなら、そのときこそ鉾を執ればよろしい。順が違うと申しております」

 大連は何か言いかけ、しかし言わなかった。かわりに、浦嶋の顔をゆっくりと眺めた。値踏みするような、それでいてどこか満足げな眺め方だった。

 しばしの沈黙のあと、御簾の奥から裁可が下った。

「浦嶋よ。そなたを密使に任ずる。向かうは四国南西の、波多(はた)の国。黒潮が列島にもっとも強くぶつかる地じゃ。海の者どもに触れ、龍宮の網を、言葉をもって切り崩してまいれ」

「はっ。必ずや、御心のままに」

 深く平伏する浦嶋の背を、大連が見つめていた。浦嶋はそれに気づかなかった。彼は、自分が任された仕事の大きさに、胸が焼けるように熱くなるのを感じていた。

 庭では、焼けた甲羅がまだ煙を上げていた。

 その夜、浦嶋の家では、灯りが遅くまで消えなかった。

 浦嶋の氏は、大氏ではない。大王の側近くに仕える家柄でもない。それでも、記録と外交という地味な役どころで、三代かけて少しずつ位を上げてきた。その三代の努力が、今日、密使という一語に結晶したのだった。

「そなたが、密使とはな」

 老いた父は、囲炉裏の向こうで何度も同じことを言った。耳が遠く、同じ話を繰り返す癖がついていたが、この夜のそれは、耳のせいではなかった。

「わしは、この家から使いが出る日を見られるとは思わなんだ。……大王の御名を負うて、海へ行くのだぞ。海へ」

「父上。まだ何も成しておりませぬ」

「成すとも」父は断言した。「そなたは、昔から数が合う子であった」

 妹のヌカが、汁の椀を運んできて、父と兄のあいだに座った。年が明ければ嫁ぐことになっている。相手は屯倉の管理に関わる家で、悪い話ではなかった。

「兄上」ヌカは椀を置きながら言った。「海の彼方の者は、人を食うと聞きました」

「誰が言うた」

「みなが言います」

「みなが言うことは、たいてい、誰も見ておらぬ」浦嶋は笑った。「私が見てこよう。見て、書いて、帰ってくる。書いてあれば、次からは、みなが言うことに従わずに済む」

 ヌカは少し安心したように見え、それからまた不安そうな顔をした。

「祝言には、間に合いますか」

 浦嶋は、答える前に一拍おいた。

「間に合わせる」

 嘘ではなかった。往復に三月、交渉に二月。長く見ても半年の任である。海の民は文字を持たず、暦を持たぬと聞くが、こちらが暦を持っている。

 父が、ふいに真顔になった。

「浦嶋。使いというものはな、行った先で何を得るかより、帰った先で誰が待っておるかが大事じゃ」

「はい」

「都は、海より危い」

 浦嶋は笑って受け流した。老人の繰り言だと思った。

 出立は、五日後だった。

 随員は、十名に満たなかった。武具を帯びた兵は最小限で、代わりに随行したのは、水路と地勢を記す書記官と、南方の言葉に明るい通詞(つうじ)である。討伐軍ではない。理を運ぶ使節なのだ。

 書記官のアヤは、出立の朝、木簡の束を三つ抱えて現れた。

「多すぎぬか」浦嶋は言った。

「足りぬほうが困ります」アヤは真顔だった。「削って書き直せば済むと思われましょうが、削れば前に書いたものが消えます。消えたものは、無かったことになる」

 浦嶋は少し笑った。この男は、たぶん一生こういう男なのだろうと思った。

 通詞の名を、ハヤといった。

 日に焼けた、肩の張った男だった。南九州の隼人(はやと)の血を引くと噂されたが、本人は多くを語らなかった。母が海の女だったとも、幼いころ南の島に流されて育ったとも言われた。訊けば「さあ、忘れました」と笑い、それ以上は続かなかった。

 浦嶋は、この二人がどういう人間かを、まだ知らなかった。

 ただ、出立の朝、都の外れで振り返ったとき、造営中の陵が朝日を受けて、白く光りはじめているのが見えた。葺石が、いつのまにか三段目まで届いていた。

 あの山が完成するころには、自分は帰ってきているだろう。浦嶋はそう思った。

 難波津から舟に乗った。

 瀬戸の内海は、湖のように穏やかだった。だが穏やかなのは見た目だけで、島と島のあいだの狭い水道では、潮が川のように流れる。舟は幾度も岸に寄せ、潮が変わるのを待った。潮待ちのあいだ、水手(かこ)たちは浜に上がり、火を焚いて魚を焼いた。

 アヤは、その待ち時間さえ惜しんだ。

「浦嶋様。この島は、どちらの支配にございますか」

「知らぬ」

「では、どちらの戸籍に」

「島によって違う。載っておらぬ島もあろう」

 アヤは、木簡に何かを刻む手を止めた。

「載っておらぬ、とは」

「載っておらぬのだ」

「……それでは、いないのと同じではありませんか」

 浦嶋は、この時はまだ、その言葉を書記官らしい生真面目さだと思って聞いた。

 伊予に上がり、山へ入る前に、一行は湯に立ち寄った。

 岩を組んだだけの湯だまりから、白い湯気が立ち、硫黄の匂いが谷にこもっていた。都から下向した官人や、地方の役人が、身分を忘れたような顔で湯に浸かっていた。

 浦嶋も湯に入った。三日ぶんの汗と塩が溶けていくのが分かった。

 隣で、ハヤが湯を手ですくって顔を洗っていた。

「ハヤ。南の言葉は、どこで覚えた」

「あちこちで」

「あちこちとは」

「あちこちです」ハヤは笑った。「湊には、いろんな者が流れてきますから」

 浦嶋は、それ以上訊かなかった。訊いてはならない気がした。

 伊予から南へ、四国の背骨を越える。

 道は、あるようでない。獣道に近い踏み分けが、尾根をたどり、沢へ下り、また尾根へ登る。雨が降ると、道は水路になった。足の指のあいだに山蛭が食いつき、剥がすと血が止まらなかった。

 峠を越えるたびに、一行は足を止めた。

 峠には必ず、石が積んであった。誰が積みはじめたのか分からない、小さな塚である。ハヤはそこへ来ると、荷から干した魚を一切れ出して、石の上に置いた。

「何をしている」

「手向け(たむけ)にございます」ハヤは手を合わせながら言った。「境には、境の神がおられます。断りなく越えれば、障ります」

「都の神ではあるまい」

「ここは都ではございませんので」

 浦嶋は、その返答をどう受け取るべきか、少し迷った。

 道中で通った山中の集落で、アヤが村人に問うた。

「この村は、幾戸(いくへ)ある」

 白髪の老人が、口を半開きにして浦嶋たちを見た。

「へ、とは何じゃ」

「戸だ。家の数だ」

「家なら、あそこと、あそこと、川向こうに二つ」老人は指で数えた。「あとは、冬は下りてくる者もおるし、夏はおらん者もおる」

「その者らは、どこに属す」

「属す」老人は、聞いたことのない言葉を聞いたような顔をした。「山に、おるが」

 アヤは、木簡を持ったまま立ち尽くした。

 浦嶋には、アヤが何にうろたえているのか分かった。数えられないのだ。この村は、数えられるようにできていない。冬と夏で人数が変わり、誰がどの家に属すのかも定かでない。ヤマトの帳簿は、こういうものの上には載らない。

 その夜、山中の小屋を借りて泊まった。

 囲炉裏の脇で、老婆が何かを歌っていた。子守唄らしかった。言葉が、浦嶋にはほとんど聞き取れなかった。

 ハヤが、ふと口を開いた。老婆の歌に、二言、三言、返した。

 老婆が驚いて顔を上げ、ハヤに何か訊いた。ハヤはまた答えた。二人はしばらく、浦嶋の知らない言葉で話した。

 やがてハヤが黙り、老婆も黙った。

 浦嶋はハヤを見た。ハヤは炎を見ていた。

「今の言葉は」

「……訛りにございます」ハヤは、少し間を置いて言った。「南のほうの。似た言葉が、あちこちに散っておりますので」

 それきり、ハヤは何も言わなかった。

 浦嶋は、この男が今、何かを閉じたのを感じた。だがそれが何なのか、この時の彼には見当もつかなかった。

 山を下るにつれ、足元の土が変わった。大和の肥えた赤土から、痩せた石まじりの砂へ。木の種類が変わり、風の匂いが変わった。

 そして、深い山脈を抜けた先で、彼らを待っていたのは、理を拒むような荒々しい地であった。

 鋸の歯のごとく、無数の入り江が陸を噛む。山は海へ急落し、平地は猫の額ほどもない。

 浦嶋は、久しぶりに測量儀を取りだした。長い竹竿に麻の糸と鉛の重りを吊した、土地の高低を測るための儀(き)である。彼はこれで山を測り、水を導き、混沌を田の升目へ切り分けてきた。のちの世が、海辺にたたずむ老人の手にあったこの重りを見て「釣竿」と取り違えることになる、その代物であった。

 彼は入り江を見下ろす斜面に立ち、糸を垂らした。重りが揺れ、止まる。竿を寝かせ、対岸の岩を狙う。目を細めて、傾きを読む。

 しばらくして、彼は竿を下ろした。

「……無理だな」

「何がでございますか」アヤが訊いた。

「田だ。この谷には、条里が引けぬ」浦嶋は斜面を指した。「水が保てぬ。平らな土地がない。仮に段々に切ったとして、一枚の田が小さすぎて、数えられぬ」

 アヤが、また黙った。

 浦嶋は竿を担ぎ、なぜかその時、妙な気分になった。

 ヤマトの物差しでは、この土地には値がつかない。稲を絞りとるべき陸がないのだから、ここは辺境であり、不毛の地であるはずだった。

 だが、視線を海へ向けたとたん、同じ地形がまったく別のものに見えた。

 無数の入り江は、外洋の荒波から船を隠す天然の湊であり、暗礁の迷路は、小型で機動する舟を操る者たちの砦だった。

 そして沖合。

 海面だけが異様に濃い藍に染まり、白波を立てて、轟々と渦巻いていた。

 浦嶋は、その帯をしばらく黙って見ていた。

 湊に近づくにつれ、白いものが目についた。

 海沿いの集落の脇に、貝殻と骨の山が築かれている。貝塚である。膨大な二枚貝と巻貝の殻、魚の骨、そして海獣の牙まで混じっていた。

 大和のまわりにも貝塚はある。だがそれは、遠い昔に人が捨てたものが土に埋もれた、いわば過去の遺物だ。

 ここでは、それが今も積まれつづけていた。山の縁には、まだ濡れた貝殻が捨てられたばかりで、蠅がたかっていた。

 浦嶋は集落を横切りながら、軒先を見た。

 鍬がない。鋤もない。かわりに、鹿角を削った釣針が幾種類も吊るされ、丸い石に穴を開けた潜り用の重りが束ねられ、擦り減った櫂が壁に立てかけてあった。

「稲を作っておらぬのか」アヤが小声で言った。

「作れる土地がないのだ」

「……ですが、それでは、貧しいはずでは」

 浦嶋も、そう思った。だが子供らは痩せていなかった。むしろ大和の水呑みの子らより、腹が出て、肌が艶やかだった。

 湊は、入り江の最も奥にあった。波多の最深部、スクモである。

 足を踏み入れたとたん、浦嶋の五感が打たれた。

 継ぎ板の構造船と丸木舟がひしめき、黒く焼けた肌の者たちが、樹皮の布や貝殻の飾りをつけて行き交う。条里の区画もなく、高倉もない。ただ波打ち際に、市(いち)が湧いていた。

 筵の上に、乾した魚、束ねた海藻、鮫の歯、大ぶりの巻貝、黒い塊の香木。そして、都では見たこともない大きさの、真珠色に光る貝が、幾つも転がされていた。

 浦嶋の目を引いたのは、売り買いのしかたのほうだった。

 男が二人、筵を挟んで向かい合っている。片方が舟から下りてきたばかりの男で、もう片方は地元の者らしい。

 二人は、まず何も言わずに手を打ち合わせた。それから、舟から来た男が、懐から何かを出して、相手に渡した。小さな貝の腕輪だった。

 相手は、それを受け取り、押し頂くようにして額に当て、それから自分の腰から下げていた小刀を外して、渡した。

 互いに、ひとしきり笑った。

 それから、ようやく、乾した魚と海藻の話が始まった。

 浦嶋は眉を寄せた。

「ハヤ。あれは、何をしている」

「品の交換にございます」

「その前だ。腕輪と小刀を交わしていた。あれは何の勘定だ」

 ハヤは、少し考えるような顔をした。

「……勘定では、ないようです」

「贈っているのか。売り買いの前に、ただで」

「はい」

「なぜだ。損ではないか」

 ハヤは答えなかった。答えられなかったのだ。彼にも、まだ分かっていなかった。

 浦嶋は、腕輪を渡された男の顔を見た。喜んでいた。だが、単に得をした顔ではなかった。もっと別の――安堵に近い顔だった。

 その意味を彼が理解するまでには、まだ何年もかかることになる。

 突如、怒声が喧騒を裂いた。

 聞き取れぬ、南の島を思わせる抑揚。

「浦嶋様」ハヤが素早く耳打ちした。「諍いです。……水だ。あの男、真水を求めている。品を出したが、足りぬと言われたようです」

「水など、そこの沢にいくらでもあろう」

「沢は、この浜の者の沢にございます」

 砂の中央で、十数人の海人(あま)に組み伏せられているのは、筋骨たくましい若い男だった。四方から押さえこまれ、それでも足を蹴り上げ、砂を跳ね上げていた。

 男が身をよじった拍子に、樹皮の衣が肩から裂けた。

 その背が、あらわになった。

 六角を幾重にも連ねた、巨大な亀甲の刺青が、肩から腰まで一面に刻まれていた。

 浦嶋は、息を呑んだ。

 身体に文様を刻む風は、この列島にめずらしくない。海に潜る民にとって、それは水底の魔から身を守る呪いだった。だがヤマトが衣冠の制を敷いて以来、消えぬ傷を刻む行為は、化外(けがい)の印とされた。

 だが――この亀甲は、単なる野蛮の印ではなかった。

 六角の連なりは寸分の狂いもなく、辺の長さが揃い、肩の丸みに沿って歪みなく巻いていた。彫った者は、平らでない面に幾何を描く術を知っていた。

 浦嶋の鼻の奥で、なぜか、あの朝の匂いが甦った。焼けた甲羅の、甘くて酸い匂い。

「止めよ!」

 浦嶋の声が波音を裂いた。随員が一斉に直刀の柄へ手をかけ、場が凍る。

 彼は測量儀を杖に、ゆっくりと諍いの中心へ歩み寄った。

「その者を放せ。血で穢した品を、いかなる海神(わたつみ)も喜ぶまい」

 ハヤが、波多の訛りを取り入れた言葉で朗々と訳した。

 アヤが葛籠(つづら)から真新しい麻布を取りだし、続いて、大和の鉄座で精錬された鉄鋌を一本、砂の上に置いた。

 場の空気が、変わった。

 海人たちは鉄鋌を見た。誰も動かなかった。やがて年かさの一人が進み出て、それを拾い、重さを確かめ、断面を見た。それから短く何か言い、仲間に顎をしゃくった。

 押さえていた手が、離れた。

 海人たちは布と鉄を持って、潮が引くように去っていった。

 砂に残されたのは、浦嶋と、背に亀甲を刻んだ男だけだった。

 男は起き上がり、裂けた衣を肩に引き上げた。砂を吐き、それから浦嶋を見た。

「……ヤマトの、役人か」

 ひどく訛っていたが、まぎれもない大和の言葉だった。

「恩に着る、とは言わねえぞ」男は言った。「俺の出した貝は、お前らの布切れよりよっぽど価値があった」

「価値とは、測る定規によって変わるものだ」浦嶋は淡々と返した。「ヤマトの定規では、そなたの命のほうが布より重かった。それだけのことだ」

 男は、ふん、と鼻を鳴らした。

「安く見られたもんだ」

「安くはない。鉄一本だ」浦嶋は言った。「あれで、そなたは水を買える」

 男の目の色が、わずかに変わった。

 浦嶋は、その変化を見逃さなかった。値の話が通じたということは、この男は交易の理を知っているということだ。

「名を、なんと申す」

 男はしばらく答えなかった。それから、砂を蹴った。

「ウズだ。黒潮の渦の、ウズ」

「ウズよ」浦嶋は、慎重に言葉を選んだ。「そなた、国を持たず波に生きる、りうきうの者だな」

 男の表情が、はっきりと硬直した。

 その名を、ヤマトの官人が口にしたこと。それがどれほど異常なことか、浦嶋にはまだ半分しか分かっていなかった。

 ウズは、じっと浦嶋を見た。それから、低く言った。

「……誰が、そう呼んだ」

「大陸の商人が、そう呼ぶと聞いた」

「大陸の商人な」ウズは唇の端を歪めた。「あいつら、なんにでも名前をつけたがる。名前をつけて、書いて、帳面に貼りつけて。……そうしねえと、あるって思えねえんだろうな」

「そなたらは、自分たちを何と呼ぶ」

「呼ばねえよ」ウズはあっさり言った。「呼ぶ必要がねえもんに、名前はいらねえ」

 浦嶋は、返す言葉を持たなかった。

 ウズは沖へ視線を投げた。黒い帯が、白波を立てて流れていた。

「討伐に来たのではない」浦嶋は測量儀の重りを揺らし、外交官の笑みを浮かべた。「話をしたいのだ。ヤマトの陸の理と、そなたらの海の理。争うのではなく、交わる点を探るために。案内をしてくれるなら、今日の代価は帳消しにしてやろう」

「代価な」

 ウズは笑った。声を出して、腹の底から笑った。

「お前、面白いこと言うな。――帳消しにできると思ってんのか」

 浦嶋は、その笑いの意味が分からなかった。

 だが、ウズは沖を見たまま、しばらくしてこう言った。

「いいぜ。乗せてやる」

 そして付け加えた。

「ただし、覚えとけ。お前は今日、俺に鉄を一本くれた。俺はそれを、忘れねえ。――そういうもんだ、こっちじゃな」

 浦嶋は、それを社交辞令だと思って聞き流した。

 彼は確信していた。この男の背の亀甲こそが、未だ見ぬ龍宮の深淵へ至る、ただ一つの道しるべなのだと。

 そのとき彼は、自分がすでに、この海の掟に足を踏み入れていたことを、知らなかった。

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第二幕 海の理(ことわり)

 スクモを出たのは、月のない夜だった。

 なぜ夜に出るのかと浦嶋が訊くと、ウズは短く「潮だ」と答えただけだった。

 舟は、浦嶋がこれまで見たどの船とも違っていた。

 二つの細長い船体が、太い横木で結ばれ、そのあいだに板が渡してある。帆柱は一本。帆は、幅の広い葉を編んだもので、月がないというのに、闇の中でぼんやりと白かった。

 だが最も異様だったのは、船体そのものだった。

 釘が、一本も打たれていない。

 板と板は、縁に穴を穿たれ、そこに縄を通して縫い合わされていた。縄は椰子の繊維で、幾重にも巻かれ、隙間には樹脂と繊維が詰めてある。

「これは、ほどけぬのか」浦嶋は縫い目を指でなぞった。

「ほどける」ウズは平然と言った。「ほどけるから、いいんだ」

 入り江を出て、四半刻ほどで、水の色が変わった。

 黒い。

 闇夜だから黒いのではなかった。周囲の海面が、まだ夜の灰色を残しているのに、その帯だけが墨を流したように沈んでいた。そして音が違った。低い、腹に響く唸りが、前方から絶えず届いてくる。

「掴まってろ!」

 ウズが怒鳴った直後、舟が持ち上がった。

 浦嶋の胃が落ちた。舟は斜めに傾ぎ、次の瞬間、下から突き上げられ、また落ちた。飛沫が横殴りに顔を叩いた。塩が目に染みた。

「浦嶋様!」

 アヤの悲鳴が背後で上がった。振り返ると、書記官は板にしがみつき、片腕で木簡の束を胸に抱えこんでいた。波を一つ受けるたび、束が水を吸って重くなっていく。

「捨てよ!」浦嶋が叫んだ。

「なりませぬ!」

「濡れれば読めなくなる!」

「濡れても、字は残ります!」アヤは歯を食いしばった。「無ければ、初めから無いのです!」

 その横で、ハヤは板に片膝をついたまま、驚くほど平然としていた。舟が跳ねるたび、身体が波に合わせて沈み、上がる。まるで、この揺れ方を昔から知っているような身体の使い方だった。

 浦嶋は、舟そのものに驚いていた。

 大和の刳舟(くりぶね)は、太い木を刳り抜き、厚い板を継いだ剛の船である。波を、質量と硬さで跳ね返す。もしこの波に大和の船で突っ込んだなら、衝撃を逃す場所がどこにもなく、継ぎ目から裂けているはずだった。

 だがこの舟は、裂けなかった。

 波を受けるたび、船体がわずかに軋み、たわむ。縫い目の縄が伸び、また縮む。二つの船体をつなぐ横木がしなり、片方が持ち上がると、もう片方が水面を叩いて力を逃がす。

 抗っていない。受け流している。

「――ほどけるから、いい、とはこのことか」

 浦嶋の呟きは、波音に消えた。

 ウズは、舵を握ったまま、ほとんど海を見ていなかった。

 時おり空を仰いで星の位置を確かめるほかは、目を半ば閉じ、板の上に胡座をかいて座っている。片方の手のひらは、常に船体の縁に置かれていた。

「ウズよ。前を見ずともよいのか」

「前は見ても分からん」ウズは目を閉じたまま言った。「尻で分かる」

「尻」

「うねりは何本も重なってる。この下の一番深いのが、遠くの島に当たって返ってきたやつだ。そいつの向きが変われば、島が近いか、遠いか分かる」ウズは船縁を軽く叩いた。「板が教えてくれる。だから縫ってあるんだ。釘で固めちまったら、板が黙る」

 浦嶋は、自分の尻の下の板を意識した。震えている。細かく、絶えず。

 それが何を意味するのかは、まるで読めなかった。

 夜半を過ぎたころ、風が変わり、ウズが帆を張らせた。

 編んだ葉の帆が孕んだ瞬間、舟が矢のように前へ出た。浦嶋は思わず船縁を握った。これほどの速さで水の上を行くものを、彼は知らなかった。

 黒い帯が、舟を運んでいた。

 浦嶋はふと、幼いころ聞かされた話を思い出した。死者は海の彼方へ行く。常世(とこよ)へ行く。陸の民にとって死者の国は地の底にあるはずだったが、海辺の村ではそう言わなかった。

「ウズ。この先には、何がある」

「町がある」

「その、さらに先には」

 ウズは、しばらく黙っていた。

「――死んだ奴が行くところだ」ウズは言った。「うちの婆さんも、そっちへ流した。舟に乗せて、燃やして、あとは潮に任せる。潮はいつか、必ず戻ってくるからな。だから、また会える」

 浦嶋は、何も言えなかった。

 やがて、水平線の際に、赤い点が一つ灯った。

 浦嶋は目を凝らした。星ではない。星は白い。それは低く、揺れていた。

 一つが二つになり、二つが十になり、やがて数えるのをやめた。

 赤い点は帯になり、帯は広がり、闇の底に横たわる巨大な炎の列となった。

 近づくにつれ、音が届きはじめた。人の声だ。歌のようでもあり、笑いのようでもあった。楽の音が混じっている。浦嶋の知らない弦の音だった。

 そして炎の下に、影が見えた。

 舟だった。数えきれぬ数の舟が、板と綱で互いに結ばれ、海の上に一枚の広大な平面を成していた。うねりが来るたび、その平面全体がゆっくりと持ち上がり、また沈む。呼吸しているようだった。

 浦嶋の隣で、アヤが濡れた木簡を抱えたまま、口を開けていた。

「……都でございます」アヤが呻いた。「海の上に、都が」

 ウズが、その言葉を聞きつけて、鼻を鳴らした。

「都じゃねえよ」

「では、何と」

「待ち合わせだ」

 板の上に降り立った瞬間、足の裏が沈んだ。

 地面が、揺れている。うねりが来るたび、町全体が数寸持ち上がり、また下がる。浦嶋はよろけ、ハヤに支えられた。

「陸の足でございますな」ハヤが笑った。彼自身は、すでに膝を柔らかく使って揺れを吸っていた。

 通路は、板を渡しただけのものだった。その両脇に舟が繋がれ、舟の上に苫(とま)を葺いた住まいが並ぶ。煮炊きの煙が、あちこちから細く立っていた。炉は、木箱に砂を敷いたものだった。舟の上で火を焚くための工夫である。

 人が、多かった。

 黒く焼けた肌の海人。頭に布を巻き、鼻の高い商人。大陸の絹らしきものを羽織った男。腕に何重にも貝の輪を嵌めた女。誰もが違う顔をし、違う言葉を話していた。

 浦嶋が最初に足を止めたのは、通路の交わる場所だった。

 そこに一人の老女が座り、竹筒から水を注いでいた。

 列ができていた。順に椀を差し出し、老女が注ぐ。だがその量が、人によって違った。ある者にはなみなみと。ある者には半分ほど。ある若い男には、老女は首を振り、注がなかった。

 男は何か言い返したが、老女は取り合わなかった。男は舌打ちをして、列を離れた。

「ハヤ。今のは」

「水が、足りぬのです」ハヤは声を落とした。「この町には、真水が湧きませぬゆえ。島で汲んだものを分けております」

「では、なぜ量が違う」

「……それが、分かりませぬ」ハヤは眉を寄せた。「身分ではないようです。あの断られた男、身なりは悪くない」

 浦嶋は、老女の脇に置かれた板を見た。細い刻みが、何十と入っている。

 帳簿のようなものだ、と彼は思った。だが、その刻みが何を数えているのかは分からなかった。

 ウズが、二人を先へ促した。

 途中、一艘の舟の前でウズが足を止めた。舟の上では、初老の男が網を繕っていた。

 ウズは何も言わず、その男の前に立った。

 男が顔を上げた。二人は、初対面のようだった。

 それから、奇妙なことが始まった。

 ウズが、低い声で何かを唱えはじめた。歌ではない。名前の羅列らしかった。一つ、また一つと、名を連ねていく。

 初老の男は、じっと聞いていた。

 やがてウズが、ある名前を言ったとき、男の目が動いた。

 男が、後を引き取った。今度は男が、続きの名を唱えていく。ウズが頷く。男が唱え終える。

 二人は、同時に手を打ち合わせた。

 それから初老の男は立ち上がり、舟の奥から干した魚を一束取ってきて、ウズに押しつけた。ウズは受け取り、腰に下げていた鮫の歯を一つ外して、男に渡した。

 二人はひとしきり笑い、それで終わりだった。

 浦嶋は、その一部始終を見ていた。

「ハヤ。訳せ」

「……名を、唱え合っておりました」ハヤは戸惑っていた。「ウズ殿が、己の祖父の名、その祖父に世話になった者の名、と遡ってゆき、あの男の側の名に行き当たった。あの男は、そこから今日まで下ってきた」

「何のためだ」

「――繋がりを、確かめたのかと」

「繋がって、どうなる」

 ハヤは答えられなかった。

 ウズが振り返り、干した魚を掲げて見せた。

「今夜の飯だ」

「その男とは、初めて会ったのだろう」

「ああ」

「では、なぜ魚をくれる」

「くれてねえよ」ウズは怪訝な顔をした。「あいつの爺さんが、俺の爺さんに重さを持ってた。だから、返ってきただけだ」

 浦嶋は、その言葉を反芻した。

「――重さ、と申したか」

「重さだ」

 浦嶋はハヤを見た。ハヤは眉を寄せ、口を開き、また閉じた。

「訳せませぬ」ハヤは言った。「借り、とも、貸し、とも違います。……重さ、としか」

 ちょうどそのとき、通路の先で、怒声が上がった。

 人が割れた。

 中央の広い甲板の上で、二人の男が向かい合っていた。片方は頭に布を巻いた商人、もう片方は刺青の海人である。二人とも、すでに刃を抜いていた。

 周囲の者は止めなかった。輪を作り、遠巻きに見ているだけだった。

「止めぬのか」浦嶋は言った。

「止める者がおりません」ハヤが青くなった。「兵も、裁く役人も」

 浦嶋は理解した。ここでは、諍いは即座に血になる。裁く機関がないとは、そういうことだ。

 商人が、先に踏みこんだ。

「――待ちなさい」

 声は、大きくなかった。

 だがその声は、甲板の隅々まで届いた。

 群衆が割れ、一人の女が歩み出てきた。

 薄い異国の布をまとい、黒髪に幾つものガラス玉を編みこんでいる。護衛はいない。抜き身の交わる只中へ、まったく怯まずに歩み入った。

 二人の男が、動きを止めた。

 女はまず商人に向き直り、喉の奥を鳴らすような言葉で語りかけた。商人が何か言い返す。女はそれを聞き、こんどは海人のほうを向いて、まったく別の――舌を打つような響きの言葉で語った。

 浦嶋は、その切り替わりに背筋が寒くなった。

 声の高さも、息の使い方も、顔の筋肉の動かし方までが、別人のように変わっていた。訛りではない。二つの言葉が、それぞれ別の身体を持っているかのようだった。

 商人が、激した口調で何かを訴えた。

 女は頷き、それから、静かに何かを唱えはじめた。

 名前だった。

 ウズがしたのと同じ、名の羅列である。だが、長さが違った。女は、途切れることなく唱えつづけた。十、二十、それ以上。時おり、名のあいだに短い言葉を挟む。

 海人の顔色が変わっていった。

 女が唱え終えたとき、海人は刃を下ろしていた。

 商人が、まだ何か言った。女は短く答えた。商人は口をつぐんだ。

 二人は互いに、渋々といった様子で、しかし確かに手を打ち合わせた。

 輪が、崩れた。何事もなかったように、人が動きはじめた。

「――今のは」浦嶋はハヤを見た。「何を言った」

 ハヤは、蒼白な顔をしていた。

「……覚えて、おられたのです」

「何を」

「あの二人の、祖父の代からの、やり取りのすべてを」ハヤの声は震えていた。「誰が誰に何を渡し、誰がそれをまだ返しておらぬか。三代ぶん。……あの方は、それを、そらで」

 浦嶋は、女を見た。

 女は、群衆に紛れることなく、まっすぐ浦嶋のほうへ歩いてきた。

 近くで見ると、目の下に濃い隈があった。

「ヤマトの大王の使いと、お見受けします」

 訛り一つない、完璧な大和言葉だった。

「……私の名を、ご存知か」

「風は海を越えて、あらゆる報せを運びます。ヤマトの賢き官が、武具の代わりに奇妙な儀を携えて海を渡ってきたことも」女の視線が、浦嶋の右手の鉛の重りへ落ちた。「オトと申します」

「オト殿は、この町の何を司っておられる」

 オトは、少し笑った。

「覚えることを」

 浦嶋は、その答えの意味が半分も分からなかった。

「王ではないのか」

「王がいれば、こんなに疲れませぬ」オトは目の下を指で押さえた。「浦嶋殿。貴方はさきほど、あの水を配る老婆をご覧になっていましたね」

 見られていたのか、と浦嶋は思った。

「なぜ、量が違うのだと思われました」

「分からぬ」浦嶋は正直に言った。「身分ではないようだった」

「身分はありません」オトは頷いた。「量を決めているのは、その者が、この町にどれだけ重さを預けているか、です」

 また、その言葉だ。

「浦嶋殿。貴方は、どちらの名でここへ来られました」

 問いの意味が取れず、浦嶋は聞き返した。

「――名、とは」

「大陸の商人は、我々を、りうきう、と呼びます」オトは静かに言った。「ヤマトの方も、そう聞き及んでこられたはず」

「聞いた。りうきう、と」浦嶋は答えた。「都では、龍宮、と書き記すことに決した。龍の、宮だ」

 オトは、しばらく黙って浦嶋を見た。

 そして、笑った。声を立てずに、目だけで。

「美しい字を選ばれたこと」

「気に障ったか」

「いいえ。ただ――それは、我々の名ではありません」オトは言った。「我々に、名はない。名は、書き留めねばならぬ者が、外から付けるものです」

「名がなくて、困らぬのか」

「名のあるものは、地図に載ります」オトは沖の闇を見た。「載れば、いつか、そこを攻めればよいと考える者が現れる」

 浦嶋は、返す言葉を持たなかった。

「今宵は風が凪いでおります」オトは向き直った。「ゆっくりお休みなさい。明日、市(いち)をご覧になるとよろしい。……貴方がたの理で、あれをどう読まれるか、私は少し楽しみです」

 翌朝、浦嶋は市を歩いた。

 板を渡した通路の両側に、筵が敷かれ、その上に品が並んでいる。

 まず目についたのは、貝だった。

 真珠色に光る大ぶりの巻貝。掌ほどもある、白く分厚い貝。渦を巻いた重い貝。どれも、大和の海では見たことのないものだった。

 その隣には、亀の甲を薄く剥いだ飴色の板。黒い塊の香木。乾した海鼠。

 反対側の筵には、まったく別の系統の品が並んでいた。

 鉄鋌が束ねてある。麻布の反物。青みを帯びた灰色の器。そして、俵に入った穀。

 さらに奥の一角には、透き通る玉が並んでいた。ガラスである。深い青、乳白、緑。日を透かすと、それ自体が光っているように見えた。その脇には、薄い絹が畳まれていた。

 浦嶋は、しばらく歩き回って、ある事実に気づいた。

 北から来た品と、南から来た品と、西から来た品が、ここで交わっている。

 鉄は北にしかない。貝と香木は南にしかない。ガラスと絹は、はるか西から来る。そして真水と薪と帆の葉は、島にしかない。

 どこの海も、全部は持っていないのだ。

 浦嶋は、これは分かる、と思った。欠けたものを、互いに埋め合っている。それは商いの理として、ヤマトのそれと変わらない。

 彼は、次に値を知ろうとした。

 貝を並べた老人の前にしゃがみ、ハヤに訳させた。

「この貝は、鉄いくつと替わる」

 老人はきょとんとした顔をした。それから、指を三本立てた。

 浦嶋は頷いた。貝三つで鉄一本か。

 だが数歩先で、別の男が同じ貝を並べていた。

「この貝は、鉄いくつだ」

 男は、指を一本立てた。

 浦嶋は眉を寄せた。

「一つでよいのか。あちらでは三つと申したが」

 男は肩をすくめ、何か言った。ハヤが訳した。

「あちらは、あちらだ、と」

「それでは商いにならぬ。同じ品なら、同じ値のはずだ」

 男は、心底不思議そうな顔をした。そして、こう言った――とハヤが訳した。

「同じ品でも、渡す相手が違えば、別の物だ」

 その日の午後、浦嶋はアヤに命じた。

「市の取り引きを、書き留めよ」

「はっ」

 アヤは喜んだ。彼にとって、これほど嬉しい仕事はなかった。

 彼は乾いた木簡を膝に置き、通路の隅に座りこんで、目の前で交わされる取り引きを一つ一つ刻みはじめた。誰が、何を、いくつ、誰に。それを、朝から日が傾くまで続けた。

 浦嶋が戻ってきたとき、アヤは木簡を膝に置いたまま、動かなくなっていた。

「どうした」

「……浦嶋様」アヤの声は、掠れていた。「合いませぬ」

「何が」

「帳尻が」

 アヤは、木簡を差し出した。刻みで埋まっていた。

「たとえば、これ」アヤは指した。「南の男が、北の男に、貝を五つ渡しました。北の男は、何も返しておりませぬ」

「後で返すのだろう」

「返しておりませぬ。日が暮れるまで、見ておりました」アヤは別の行を指した。「そしてこちら。西の商人が、南の男に、ガラスの玉を三つ渡した。これも、返りがない。ですが同じ日の夕方、まったく別の、四人目の男が、その西の商人に、水を二筒渡しました。返りはありませぬ」

 アヤの指が、震えていた。

「誰も、返しておらぬのです。誰もが、渡しております。……それなのに、この市は、成り立っております」

 浦嶋は、木簡を受け取り、刻みを追った。

 確かに、どの列も閉じていなかった。片方の側だけが伸びて、対になる側が空いたままだ。それが、何十も並んでいる。

「書き損じではないな」

「ございませぬ」

「……ならば、これは何だ」

「分かりませぬ」アヤは頭を抱えた。「浦嶋様。私は、数えられぬのです。数えられぬものは、記せませぬ。記せぬものは――」

 彼はそこで言葉を切った。無いのと同じだ、といういつもの結びを、彼は口にできなかった。

 目の前にあるからだ。

 その夜、浦嶋はオトの舟を訪ねた。

 天幕の内は、外の喧騒が嘘のように静かだった。色付きのガラスのランプが吊るされ、内の炎が紋様となって床に落ちている。

 浦嶋は、アヤの木簡を差し出した。

「これを、読んでいただきたい」

 オトは受け取り、刻みに指を這わせた。彼女は文字を読めるようだった。

「よく書けています」オトは言った。「ずいぶん熱心に見ておられた」

「帳尻が、合わぬのだ」

「ええ」

「なぜ合わぬ」

 オトは木簡を膝に置き、浦嶋を見た。

「合っては、困るのです」

 浦嶋は、聞き違えたかと思った。

「――困る」

「はい」

「借りを返して、何が困る」

「返し切ってしまえば、そこで終わりだからです」

 オトは、ランプの炎を見ながら言った。

「浦嶋殿。ここには、法がありません。裁く役所も、罰する兵も。……昨日ご覧になったでしょう。刃を抜いた者を、誰も止めなかった」

「見た」

「では、なぜ我々は、日々、見知らぬ者と品を交わして、殺し合わずにいられるのだと思われますか」

 浦嶋は答えられなかった。

「見知らぬ者ではなくなればよいのです」オトは言った。「そのために、先に渡す。渡せば、相手に重さが残る。重さを持った者は、こちらを見捨てられません。次に会ったとき、水を分けてくれる。嵐が来れば、入り江に匿ってくれる」

「――それが、贈り物の正体か」

「贈り物は、値ではないのです」オトは木簡を軽く叩いた。「これは、勘定ではなく、縁の記録です。片側が伸びたままなのは、そこに、まだ生きている縁があるということ」

 浦嶋の中で、何かが音を立てて組み変わった。

「では、この市に並んでいる宝は」彼は声を落とした。「貝も、ガラスも、絹も。あれは、富ではないのか」

「富でもあります」オトは頷いた。「ですが、それだけなら、抱えこんだほうが得でしょう。……浦嶋殿。ここで一番宝を持っている者が、誰だと思われますか」

「知らぬ」

「いません」オトは言った。「抱えこんだ者は、いなくなるのです。宝を回さなくなった者は、誰にも重さを預けられません。重さのない者は、水をもらえません。嵐の日に、どの入り江も開きません」

 浦嶋は、水を配る老女の板を思い出した。細い刻みの列を。

「――あの水の量は」

「その者が、どれだけの重さを預けているか、です」オトは静かに言った。「昨日、断られた男がおりましたね。あの人は、去年、預かった品を回さずに手元に置いた。それだけのことです」

 浦嶋は、しばらく口が利けなかった。

 彼はヤマトの官人として、富とは蓄えるものだと教えられて育った。倉に積み、鍵を掛け、それを守るために兵を置く。

 ここでは、蓄えることが、そのまま死につながる。

 道徳の話ではない。仕組みの話だった。

「……オト殿。一つ、伺いたい」

「どうぞ」

「では、なぜそなたは、市を歩かぬ」

 オトは、初めて虚を突かれた顔をした。

「私は、覚えるだけです」

「その、覚えたものは、どこにある」

 オトは自分の額を、指先で軽く叩いた。

「ここに」

「書き留めておかぬのか」

「書けば、盗まれます」オトは微笑んだ。「それに、書くほどの暇がありません」

 浦嶋はそのとき、彼女の目の下の隈を、もう一度見た。

 この巨大な網は、この女ひとりの頭の中にある。

 彼はその事実の重さに、まだ気づいていなかった。ただ、なぜか、胸の奥がひやりとした。

 天幕を出しなに、浦嶋は貝の筵の前でもう一度足を止めた。

 朝の老人が、まだ座っていた。

「この貝は、北へ運ぶのか」

 老人は頷いた。ハヤが訳す。

「北の偉い方々が、これを削って、腕輪にすると。……代々、そうしてきたと申しております」

 浦嶋は、その白く分厚い貝を手に取った。

 思い当たることがあった。都で見たことがある。豪族の墓に納められる腕輪だ。だが近ごろ都に出回っているのは、貝ではない。

 碧玉を削ったもの。青銅を鋳たもの。

 形だけが貝を真似た、石と金属の腕輪である。

 浦嶋は、それを口に出しかけて、やめた。

 だが老人は、彼の顔を見ていた。何か察したように、ハヤに向かって短く問うた。ハヤが困った顔で浦嶋を見た。

「――近ごろ、北からの注文が減っておらぬか、と」

 浦嶋は、貝を筵に戻した。

「……減っているのか」

 老人は、長いこと答えなかった。

 それから、ゆっくりと頷いた。

 翌日、浦嶋はオトに正式な交渉を申し入れた。

 天幕には、ウズも同席した。ハヤが浦嶋の後ろに控え、アヤが記録のために端に座った。

「では、伺いましょう」オトが先を促した。

「単刀直入に申す」浦嶋は姿勢を正した。「南の熊襲へ渡る鉄の道を、絶っていただきたい」

「代わりに、何を」

「ヤマトの傘下に入られよ」浦嶋は言った。「熊襲への支援を絶ち、王権の正規の海路を担う。その代わり、気候に左右されぬ五穀を約束しよう。もう嵐の海に命を懸けて小魚を追う必要はない。そなたらの民は、飢えから解き放たれる」

 それは、浦嶋が心から信じている救済だった。

 統べられ、戸籍に管理されることは、自由を失うことかもしれぬ。だが飢え死ぬ自由に、何の意味があるのか。

 オトは、最後まで静かに聞いていた。

「浦嶋殿。一つ、伺ってよろしいですか」

「どうぞ」

「ヤマトでは、稲の入りが悪い年、飢えた者はどうなりますか」

 浦嶋は、用意していた答えを口にした。

「屯倉から、種籾と食が下される。それが高倉のある意味だ」

「必ず、下されますか」

「――必ずとは、言えぬ」浦嶋は正直に答えた。「近隣の屯倉が空であれば、遠くから運ぶことになる。間に合わぬこともある」

「間に合わなかった者は」

「……逃げる」

「どこへ」

 浦嶋の口が、止まった。

 彼は知っていた。逃げた者は山へ入る。戸籍から消える。消えた者は、翌年の帳簿に「亡」と刻まれるか、あるいは何も刻まれない。

 彼は、その帳簿を自分の手で書いたことがある。

「浦嶋殿。貴方の説かれた仕組みは、よくできています」オトは言った。「私は、稲を悪いとは申しません。稲は優れた食べ物です。……ただ、少しばかり、優れすぎている」

「優れすぎる、とは」

「決まった時期に、一斉に実ります。地上で刈ります。乾かせば保ちます。そして――升で量れる」

 オトは、指を一本ずつ折った。

「いつ穫れるか分かり、目に見える場所にあり、蓄えられ、正確に量れる。これほど税に向いた食べ物は、この世にありません」

 浦嶋は、反論を探した。

「山の芋は、いつでも掘れます。掘るまで土の中にあり、量るのも面倒です」オトは続けた。「だから、芋を税にする国はない。魚を税にする国もない。……浦嶋殿。国が稲を選んだのではありません。稲が、国を作ったのです」

「詭弁だ」浦嶋の声が、わずかに荒れた。「稲があるから、我々は飢えを免れている」

「では、なぜ稲を作る者ほど、飢えを恐れているのですか」

 浦嶋は、答えられなかった。

 彼の脳裏に、造営中の陵が浮かんだ。もっこを担いで登り、下り、また登る列。倒れた男を運ぶ担架。詰めて埋まった隙間。

「倉を建てれば、守る壁がいります」オトは静かに言った。「壁を守るには、耕さぬ兵がいる。兵を養うには、耕す者からさらに絞らねばならぬ。……飢えを防ぐための仕組みが、いつのまにか、人を飢えさせている」

「ならば」浦嶋は身を乗り出した。「そなたらはどうだ。この町には、絹があり、ガラスがあり、鉄がある。それは蓄えではないのか」

「循環です」

「言い換えただけではないか」

「では、こう申しましょう」オトは、初めて少し語気を強めた。「我々が抱えこめば、死にます。昨日、申しあげたはずです」

 浦嶋は、口をつぐんだ。

 水を配る老女。断られた男。片側だけが伸びた帳簿。

 彼らは、無欲なのではない。抱えこむことができない仕組みの上に、生きているのだ。

「……では、我らの申し出は」浦嶋は絞り出した。「そなたらにとって、何に見える」

 オトは、しばらく答えなかった。

 やがて、こう言った。

「首輪です」

「――飢えぬ首輪だ」

「はい」オトは頷いた。「ですから、迷う者もおります」

 その一言に、浦嶋は顔を上げた。

 天幕の隅で、ウズが動いた。膝の上の拳が、握られていた。

「オト」

「本当のことです、ウズ」

 ウズは何も言わなかった。だが、その沈黙は重かった。

 浦嶋は、この天幕の中に、自分が持ちこんだものが何であったかを、まだ理解していなかった。

「交渉は、決裂か」浦嶋は言った。

「決裂ではありません」オトは首を振った。「ただ、貴方はまだ、我々の暮らしを、言葉でしか知らない。陸の定規を握ったままでは、海は測れません」

 彼女は立ち上がり、天幕の布を開けた。

 外では、日が傾きはじめていた。

「今宵、風待ちの宴があります」オトは言った。「明後日には、風が変わりますので」

「風が変わると、何が起きる」

「この町が、無くなります」

 浦嶋は、聞き返した。

「……無くなる」

「散るのです」オトは事もなげに言った。「北の風が海を押しはじめれば、我々は南へ下ります。この集いは、風を待つあいだの、仮のものにすぎません」

 浦嶋は、絶句した。

 彼はこの三日、この海上の町を、龍宮の都だと思って歩いていた。中心があり、王がいなくとも府があり、そこを押さえれば全体を押さえられる、と。

 押さえるべき中心は、明後日、消える。

 その夜の宴を、浦嶋は生涯忘れなかった。

 板の上の至るところに火が焚かれ、幾百の松明が海面に映って揺れた。異国の弦が奏でられ、太鼓が打たれ、足を踏み鳴らす音が板を通して足の裏に響いた。

 ヤマトの楽は、神を鎮めるためのものである。整い、静まり、正されている。

 ここで鳴っているのは、それとは反対のものだった。荒れる海への恐れを笑い飛ばし、今この瞬間に生きていることを、全身で肯定する音だった。

 浦嶋は、ガラスを商う西方の男の前に座った。

 男は、緑に透き通る切子の坏(つき)を差しだした。松明の火を透かして、器そのものが発光しているように見えた。ヤマトの王侯なら、これを奇跡と呼び、古墳の底に納めて永遠に守ろうとするだろう。

「俺の国じゃ、これは砂から生まれる」男は交易の言葉で笑った。「灼熱の火で砂を焼き、息を吹きこむ。それだけだ」

「それだけで、これほどのものが」

「ああ。だが、動かさなけりゃ、ただの塊さ」男は坏を回した。「海を渡って、他人の手に渡るからこそ、こいつは宝になる。土の中に隠して自慢するためのもんじゃねえ」

 少し離れた岩――ではなく、舟の舳先に、痩せた僧が座っていた。天竺から法を求めて海に出たのだという。

 僧は、細い指で夜空を指した。

「陸に足をつける者は、海を境と申します」僧は言った。「ですが、風の理を知れば、世界は裏返る」

「風の理」

「風は、半年ごとに向きを変えます」僧は掌を返してみせた。「半年は西から東へ、半年は東から西へ。行ったきりにはならぬ。必ず、帰りの風が吹く。……ゆえに我らは、往きます。関を設けても、海の上には一本の線も引けませぬゆえ」

 浦嶋は、その言葉を噛みしめた。

 この巨大な集いが、明後日に散るのは、風がそう決めているからだ。彼らは風の都合で集まり、風の都合で散る。人の決めた暦ではなく、地の呼吸に合わせて動いている。

 宴が進むにつれ、浦嶋はもう一つ、奇妙なことに気づいた。

 誰も、食い物を取っておかない。

 次から次へと料理が回され、回された者は必ず一部を隣へ渡す。取り分けて舟へ持ち帰る者がいない。魚も、酒も、南の甘い実も、その夜のうちに、きれいに無くなっていく。

「ウズ。これでは、明日の分が残らぬ」

「残さねえよ」ウズは口を拭った。「残すと、面倒だ」

「面倒」

「残ってりゃ、誰かが欲しがるだろ」ウズは、当たり前のことを言うように言った。「奪うもんがなけりゃ、奪いに来る奴もいねえ」

 浦嶋は、坏を持つ手を止めた。

 彼はこの数日、この町に武器を持った者がほとんどいないことを不思議に思っていた。刃はある。だが、それは魚を割き、綱を切るためのものだ。ヤマトの湊なら、湊の数だけ守る者がいる。

 守るべきものが無いのだ。

 ――戦とは、人の本能などではないのかもしれぬ。

 その思いが、浦嶋の中に、初めてはっきりと形をとった。

 土地に定住し、そこに富を蓄えるようになって初めて、それを守る者と奪う者が生まれたのではないか。土地を持たず、富を留めぬ彼らにとって、戦という考えそのものが意味を成さない。争いが起きれば、殺すのではなく、帆を上げて別の海へ去ればよいのだから。

 その夜、宴の輪のあちこちで、浦嶋の二人の側近は、それぞれ別の場所にいた。

 ハヤは、焚火のそばに座りこんでいた。

 彼の周りでは、西の言葉と、海人の言葉と、島の言葉が入り混じっていた。奇妙なのは、それらが混ざったまま、なぜか通じていることだった。

 誰も、他人に自分の言葉を強いていなかった。

 文の決まりが崩れ、難しい言い回しが落ち、通じるために最も便利な単語だけが、どの言葉からともなく拾い上げられ、磨かれて残っていく。

 ハヤは、そのやり取りに耳を澄ませながら、少しずつ、自分の呼吸が変わっていくのを感じていた。

 ここには、彼が幼いころから半分だけ知っていて、しかし都では使い道のなかった響きが、いくつも混じっていた。

 誰も、彼にどこの生まれかを訊かなかった。

 アヤは、反対の岸にいた。

 彼は火の届かぬ通路の隅にうずくまり、乾いた木簡に、猛烈な勢いで小刀を走らせていた。

 文字を持たぬ者は野蛮だと、彼は教わってきた。

 だが、あの女は、三代ぶんの縁を頭の中に納めていた。あの老婆は、板の刻みだけで町の水を分けていた。あの舟乗りは、板の震えで島の位置を読んだ。

 彼らは、文字を持てないのではない。要らないのだ。

 ――ならば。

 アヤの手が、震えた。

 ならば、この者たちは、記録されねばならない。

 誰も書き留めぬのなら、この者たちは、いつか消えたときに、初めから存在しなかったことになる。

 そう考えたとき、アヤは自分が何をしているのか、初めて怖くなった。

 自分は、この者たちを守るために書いているのか。

 それとも、この者たちを、ヤマトの文字で縛りつけようとしているのか。

 彼には、区別がつかなかった。

 宴の中央では、オトが誰かと話していた。

 浦嶋は、離れた場所から彼女を見ていた。

 彼女は笑っていた。だが、その目は笑っていなかった。彼女は宴のあいだじゅう、誰かに呼び止められ、何かを問われ、何かを答えていた。休むことがなかった。

 ――ここには、王がいない。

 浦嶋は思った。ゆえに、この網は、あの女ひとりの頭に懸かっている。

 もしあの頭が眠れば。

 もしあの頭が、消えたなら。

 浦嶋は、その先を考えるのをやめた。考えたくなかった。

 やがて宴は更け、火が細り、歌がまばらになった。

 浦嶋は板の縁に腰を下ろし、脚を海に垂らした。足の裏に、うねりの重い上下が伝わってくる。

 彼は、大和の水田を思い浮かべようとした。

 あの、月光に銀色に光る、幾何学に区切られた完璧な世界を。

 だが、うまく像を結ばなかった。

 あれは美しかった。今も、美しいと思っている。

 ただ、あの美しさは、この海には、まったく届いていなかった。都から見れば地の果てであるはずのこの海に、都の名を知らぬ者が、これほど大勢いた。

 彼が生涯をかけて信じてきた理は、この世界の一部を説明する、一つの方便にすぎなかったのかもしれない。

「……私の負けだ、オトよ」

 誰に聞かせるでもない呟きが、波音に落ちて、消えた。

 背後で、板を踏む音がした。

 振り返ると、オトが立っていた。彼女は何も言わず、浦嶋の隣に腰を下ろし、同じように脚を垂らした。

 二人は、しばらく黙って海を見ていた。

「明日には、風が変わります」オトが言った。

「行くのか」

「行きます。北の風に押されて、南へ」

 浦嶋は、自分でも思いがけないことを口にした。

「――連れて行ってはもらえぬか」

 オトが、こちらを見た気配がした。

 浦嶋は海を見たまま、続けた。

「密使としてではない。この目で見ねば、私は都へ帰っても、何も言えぬ。……ヤマトの定規は短すぎた。私は、そなたらの海を測る物差しを、まだ持っておらぬ」

 長い沈黙があった。

「一つだけ、覚悟していただきます」

「何を」

「海には、暦がありません」オトの声は静かだった。「土地という目印を失い、季節を風の匂いだけで知るようになったとき、貴方の中の年月は、陸の人のそれとは、別のものになります」

「構わぬ」

「戻ったとき、思っているより、時が経っているかもしれません」

「構わぬ」浦嶋は繰り返した。

 オトは、それ以上何も言わなかった。

 翌々日の明け方、風が変わった。

 朝の光の中で、海上の町は、驚くべき速さで解体されていった。舟と舟を結んでいた綱が次々に解かれ、板が外され、苫が畳まれる。昨日まで通路だった場所が、ただの海面に戻っていく。

 浦嶋は、その光景を呆然と見ていた。

 都が、消えていくのではなかった。

 初めから、都ではなかったのだ。

 やがて数千の帆が、一斉に北風を孕んだ。

 編んだ葉の帆が膨らみ、船体が軋み、無数の舟が、まるで示し合わせたように同じ方角へ滑りだした。号令はなかった。太鼓もなかった。ただ、あちこちから短い口笛と鳥の声を真似た合図が飛び、それが波紋のように伝わっていった。

 浦嶋は、ウズの舟の板の上に立っていた。

 背後に、アヤとハヤがいた。

 二人とも、都へ帰る道を、この朝、いったん手放したのだった。まだ、そのことの意味を、誰も分かってはいなかった。

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第三幕 回遊

 三日も経つと、浦嶋は喉の渇きの種類が変わることを知った。

 水は、朝と夕の二度、配られる。竹筒の口から椀へ、老女が一定の高さまで注ぐ。それだけである。多く欲しいと言う者はいない。言っても意味がないからだ。

 最初の二日は、ただ足りないと思った。三日目からは、口の中が乾いているのが常態になり、渇きが背中のほうから来るようになった。喉ではなく、身体の芯が水を求めている感じがした。

「浦嶋様」四日目の朝、アヤが青い顔で言った。「舌が、割れました」

「舐めるな」ハヤが言った。「舐めると、余計に乾きます」

 ハヤは平気そうだった。彼は水を口に含んだあと、すぐに飲みこまず、しばらく口の中で転がしていた。

「そうすると、保つのか」

「保つ気がするだけかもしれませぬ」ハヤは笑った。「ですが、そう教わりましたので」

 誰に、とは浦嶋は訊かなかった。

 舟の上には、火があった。

 木箱に厚く砂を敷き、その上で小さく焚く。風の強い日は蓋をする。煮炊きはその上で行い、鍋は必ず紐で舟に結んである。飛沫が入って塩辛くなった汁を、誰も文句を言わずに啜った。

 夜は、交替だった。

 舟のどれにも、必ず起きている者がいる。星を見る当直である。星の位置を確かめ、うねりの向きを確かめ、隣の舟の火が見えているかを確かめる。

 浦嶋も、一度その当直に付き合った。

 真夜中、板の上に仰向けに寝て、天を見る。雲が薄く、星が多かった。

「これを、朝まで見ているのか」

「見てるだけじゃねえ」当直の若い男が言った。「聞いてる。あと、感じてる」

「何を」

「あそこの星が、あの高さに来たら、そろそろ島だ」男は指した。「それと、下から来るやつ」

 男は板を掌で叩いた。

「深いところから来るうねりが、ゆっくり向きを変えてる。まだ気づかねえ程度だけどな。あれが変わりきったら、島の陰に入った証拠だ」

 浦嶋は、しばらく黙って板に背を預けていた。

 うねりの向きは、彼には分からなかった。

 ある昼、隣の舟から、女の子の歌う声が聞こえてきた。

 節が単調で、同じ形が何度も繰り返される。子守唄のような甘さはなく、どちらかというと呪文に近かった。長い。異様に長い。

 浦嶋は、ハヤを呼んだ。

「あれは、何の歌だ」

 ハヤはしばらく耳を澄ませ、それから、妙な顔をした。

「……道でございます」

「道」

「北の水が細くなったら左へ、鳥が二度戻ったらそのまま、赤い星が三つ分上がったら右へ――そういうものを、順に並べて歌っております」ハヤは言った。「あの子は、島への行き方を歌っているのです」

 浦嶋は、その場に立ち尽くした。

「書き留めよ」彼は言った。「アヤ、書き留めよ」

 アヤは飛びついた。彼は木簡を膝に置き、ハヤに訳させながら、必死に小刀を走らせた。

 一刻ほどして、アヤは顔を上げた。

「浦嶋様。……書けました」

「読んでみよ」

 アヤが読み上げた。浦嶋は聞き、ウズに向かって言った。

「これで、その島へ行けるか」

 ウズは、干した魚を齧りながら聞いていた。読み終わると、彼は首を横に振った。

「無理だな」

「なぜだ。同じことが書いてある」

「同じことが書いてある。だが、書いてあることが分からねえ」ウズは言った。「北の水が細くなる、ってのは、どういう時に、どのくらい細くなるのか。赤い星が三つ分ってのは、誰の三つ分だ。俺の腕か、お前の腕か」

「――ならば、それも書き足せばよい」

「書き足したら、その書き足したのが、また分からねえ」

 ウズは魚の骨を海に投げた。

「あの歌はな、覚えるためのもんじゃねえ。覚えた奴が、忘れねえためのもんだ」

 アヤが、木簡を握ったまま俯いた。

 浦嶋は、船団の動き方に、いつまでも慣れることができなかった。

 数千の民が同じ方向へ進んでいるのに、陣太鼓がない。大将の号令もない。それでいて、舟は衝突せず、群れは崩れず、時おり全体がゆっくりと向きを変える。

 その仕組みが分かったのは、五日目だった。

 朝から昼にかけて、幾艘もの舟がオトの中央船に寄せてきた。乗り移ってきた男や女が、次々に何かを告げていく。

「東の水平に、鱗のような雲」

「海面の色が、昨日より黒い」

「南から来るうねりの間が、鼓動三つ分のびました」

 オトは、それを一つも書き留めなかった。ただ頷き、時おり短く問い返し、そして返した。

「東の雲は、三日後の時化。南のうねりは黒潮の反流。西へ寄れ。西の浅瀬の流れに乗れば、時化を避けて南へ着く」

 告げに来た者が、また自分の舟へ戻っていく。彼らは自分の舟へ戻ると、隣の舟へ口笛で何かを送る。それが波紋のように広がっていく。

 浦嶋は、その様子を長いこと見ていた。

 ヤマトでは、稲が中央へ集まる。集まった稲は、倉に留まる。留まった稲が、権力になる。

 ここでは、報せが中央へ集まる。集まった報せは、留まらない。

 すぐに、末端へ返される。

「オト殿」浦嶋はその夜、訊いた。「なぜ、隠さぬのだ」

「何をです」

「報せだ。そなたが握っている報せを、誰にも渡さずにいれば、そなたはこの海の王になれる」

 オトは、心底おかしそうに笑った。

「王になって、どうするのです」

「――誰も、そなたに逆らえなくなる」

「逆らわれて困ることなど、何一つありません」オトは言った。「私が報せを止めれば、その報せを届けるはずだった舟が、嵐に遭って沈みます。沈んだ舟は、二度と私に報せを持ってこない。……浦嶋殿。私は握っていません。通しているだけです」

 浦嶋は、この十日ほどのあいだに、同じ問いを何度もぶつけていた。

 なぜ、回るのか、と。

 答えは、訊く相手によって違った。

「魚が回るからよ」と、網を繕っていた女は言った。「鰹はな、黒い潮について北へ行って、また南へ戻る。あれを追わなんだら、食えん」

「風だ」と、帆を張っていた男は言った。「半年は北から吹く。半年は南から吹く。逆らって行くやつは阿呆だ」

「同じ礁を続けて獲ると、翌る年、貝が育たん」と、老人は言った。「三年空ければ戻る。だから回るんじゃ」

「蓄えがないからな」と、ウズはにべもなかった。「食い物のあるところへ行くしかねえだろ」

「嵐でございます」と、ハヤが調べてきた。「夏の終わりに南の海は荒れます。その頃には北へ抜けておらねばなりませぬ」

 浦嶋は苛立った。彼は一つの理由が欲しかった。

「オト殿。結局、なぜ回るのだ」

「全部です」

「それでは答えになっておらぬ」

「では、一つだけ挙げましょう」オトは言った。「――会いに行かねば、切れるからです」

「切れる」

「重さは、置いておくと薄れます」オトは静かに言った。「三年会わねば、相手の子は私の顔を知りません。五年会わねば、名を唱えても、通じません。……浦嶋殿。この網は、放っておけば、勝手にほどけます」

 浦嶋は、その言葉の重さを、まだ計りかねていた。

「では、この回遊は」

「見回りです」オトは言った。「結び目が生きているかどうか、一つずつ、確かめて回っているのです」

十一

 十二日目の朝、水平線に、緑の壁が立った。

 浦嶋は、最初それを雲だと思った。だが雲は動かなかった。近づくにつれ、それが海面から直立する山であることが分かった。頂は雲に隠れ、麓の岩肌に波が砕けて白く散っている。

 屋久である。

 黒潮の只中に打ちこまれた楔のような島だった。どれほど流されていても、この島さえ見えれば、自分がどこにいるか分かる。

 だが、近づくのは容易ではなかった。

 島の周囲は、岩礁と激流の罠だった。潮が岩に当たって渦を巻き、白い筋が縦横に走っている。

 ウズは、その筋を読んで舟を入れた。喫水の浅い双胴船が、岩の隙間を魚のように抜けていく。もし大和の重い軍船でここへ入れば、四半刻ももたぬだろう、と浦嶋は思った。

 入り江に着くと、島の者が浜に出てきていた。

 ウズが舟から降り、浜の男に向かって歩いた。

 例の、名の唱え合いが始まった。

 ウズが唱える。浜の男が受ける。すぐに繋がった。二人は手を打ち合わせ、それからひとしきり大声で笑い、肩を叩き合った。

 その後は、早かった。

 女たちが水を汲みに走り、子供が薪を運び、火が焚かれ、鍋が掛けられた。誰も何も要求しなかった。

 浦嶋は、その手際に見とれていた。

「ハヤ。あの二人は、知り合いか」

「初めてのようです」ハヤは言った。「ですが、ウズ殿の父の代からの縁だそうで」

 その日、浜では終日、修理が行われた。

 浦嶋は、それを見て初めて、彼らが海の上だけでは生きられないことを知った。

 帆が、駄目になっていた。

 編んだ葉は、潮と日に晒されると脆くなる。指で押すと、繊維が粉になって落ちた。女たちが島の茂みから新しい葉を刈ってきて、浜に並べ、干し、裂き、編み直していく。

 綱も同じだった。椰子の繊維を撚った綱は、濡れて乾いてを繰り返すと、芯から腐る。舟を縫っている縄も、何本かは替えねばならなかった。

 男たちが、船体の縫い目を解いていた。

 浦嶋は、その光景に息を呑んだ。舟が、ばらばらになっていく。板と板のあいだが開き、中の樹脂が掻き出され、新しい縄が通される。

「これを、毎回やるのか」

「やらんと沈むぞ」浜の男が笑った。

 浦嶋は、そのとき理解した。

 彼らは、海の上で自足しているわけではない。真水も、帆も、綱も、木も、すべて島から得ている。島がなければ、この船団は三月ももたない。

 ならば、島の者に嫌われたら、どうなるのか。

 その答えを、彼は次の島で知ることになった。

十二

 トカラへ向かう途中、小さな島に寄った。

 水を補うためだった。ウズの舟を含む十数艘だけが本隊を離れ、その島の入り江に入った。

 ウズは、いつもと同じように、迷いなく浜へ降りた。

 浜には、人がいた。若い男が数人、槍を持って立っていた。

 ウズは、唱えはじめた。

 最初の名、次の名、その次。

 途中で、彼は止まった。

 浜の若い男が、何も返さなかったからだ。

 ウズは、もう一度、同じ名を唱えた。

 男は、黙っていた。

 やがて、男の後ろから、年配の女が出てきて、短く何かを言った。

 ハヤの顔色が変わった。

「――死んだそうです」ハヤは言った。「ウズ殿が唱えていた男。二つ前の冬に、亡くなったと」

「では、その子に唱えればよかろう」

「その子が、あれです」ハヤは槍を持った若者を指した。「ですが、続きを知らぬと」

「知らぬ」

「父が、教える前に死んだのです」

 浜の空気が、変わっていた。

 槍の先が、わずかに下がった。だが下がっただけで、退きはしなかった。

 浦嶋は、事態の意味を、この時ようやく飲みこんだ。

 繋がりが、切れている。

 昨日まで代々の相棒だった島が、今日、まったくの他人になっていた。他人ということは――ここには法も裁く者もいないのだから――潜在的な敵だということだ。

 水が、もらえない。

 舟の水は、あと三日ぶんもなかった。

「浦嶋様」アヤが囁いた。「本隊に追いつくのは」

「風向きが悪い。四日はかかる」

 ウズは、浜に立ったまま動かなかった。彼にできることは、もうなかった。名を唱える以外の方法を、彼は知らないのだ。

 浦嶋は、前に出た。

 ――これは、自分の領分だ。

 彼はそう思った。国と国が、初めて向き合ったときにすることを、自分は知っている。

「ハヤ、訳せ」浦嶋は言った。「我らはヤマトより来た者。この者たちの水を、買い受けたい」

 ハヤが訳した。若者は、答えなかった。

「対価を示す」浦嶋はアヤに合図した。アヤが葛籠から鉄鋌を二本取り出し、砂の上に置いた。「水二十筒に対し、鉄二本。これは、そちらに損のない値のはずだ」

 ざわめきが起きた。鉄は、この島では作れない。

 若者の目が、鉄鋌に落ちた。

 浦嶋は、畳みかけた。

「さらに申す。今日この場で、我らとそなたらのあいだに、新たな約定を結びたい。我らは今後、この島に寄るたび、鉄と布を持参する。そなたらは、水と薪を供する。互いに違えぬことを誓い、これを記す」

 彼はアヤを振り返った。

「書け」

 アヤが、木簡を膝に置いた。

 浦嶋は、条を口述した。数量、時期、違えた場合の措置。彼は都で幾度もこれをやってきた。

 アヤの小刀が、木簡を削る音が、浜に響いた。

 書き終えた木簡を、浦嶋は両手で捧げ、若者に差し出した。

 若者は、それを見た。

 受け取らなかった。

 彼は何かを言った。ハヤが訳した。

「……これは、何だ、と」

「約定だ。今しがた交わした取り決めが、そこに記してある」

 若者が、また言った。ハヤの声が、少し落ちた。

「――誰が、守らせるのか、と」

 浦嶋は、答えようとして、口が動かなかった。

 誰が守らせる。

 ヤマトなら、答えは決まっている。国が守らせる。違えた者は罰せられる。だからこそ、書いた文字に力が宿るのだ。

 ここには、国がない。

 この木簡は、ただの削られた板だった。

 若者は、もう一つ言った。ハヤが訳す前に、言葉を探すように黙った。

「……訳せ」

「はい」ハヤは唾を飲んだ。「――鉄を払えば、それで終わりだ。終われば、また他人だ。……他人に、水はやらん」

 浦嶋の膝から、力が抜けた。

 払い切ってはならないのだ。

 オトの言葉が、頭の中で鳴った。合っては、困るのです。返し切ってしまえば、そこで終わりだから。

 彼は、この場で最も丁重に、最も公正に、最も速やかに――関係を終わらせる提案をしたのだった。

 浜が、静まりかえっていた。

 そのとき、ハヤが前に出た。

「浦嶋様。しばし、お預けください」

「――ハヤ」

「私が、やってみます」

 ハヤは、鉄鋌を拾い上げなかった。木簡にも手を触れなかった。

 彼は槍を持った若者の前まで歩き、その場に膝をついた。

 そして、若者ではなく、後ろにいた年配の女に向かって、何かを言った。

 浦嶋には分からなかった。だが、女の表情が動いた。

 ハヤは、続けた。長かった。時おり詰まり、言い直し、また続けた。

 やがて女が、短く返した。

 ハヤは頷き、それから立ち上がって、若者に向き直った。

 彼は腰から、小さなものを外した。

 浦嶋には見えた。木を削った、粗末な笛だった。ハヤがいつも腰に下げていたものだ。都を出るときから、ずっと。

 ハヤは、それを若者に差し出した。

 そして、言った。ハヤは今度、自分で大和の言葉に訳した。浦嶋に聞かせるためだった。

「――水を、貸してくれ」

 若者が、動いた。

「買うのではない。借りる」ハヤは言った。「返し方は、まだ分からん。何年かかるかも分からん。だが、俺はあんたに借りたことを、忘れん。俺が忘れても、この舟の連中が覚えてる」

 彼は笛を、若者の手に押しつけた。

「これは、代価じゃない。俺の親が作ったものだ。あんたに預ける。……返してもらいに、また来る」

 浜が、静かだった。

 若者は、笛を見ていた。

 それから、彼はゆっくりと、後ろの女を振り返った。女が、頷いた。

 若者は、笛を握った。

 そして、初めて口を開いた。短い言葉だった。

 ハヤが、訳した。

「――親父の名を、もう一度、言ってくれ」

 ウズが、前に出た。

 ウズは、もう一度、最初から唱えた。今度は、若者が聞いていた。若者は途中で、たどたどしく、自分の知っている名を継ぎ足した。間違っていた。ウズが直した。若者が言い直した。

 二人は、手を打ち合わせた。

 その日の夕方、舟には水が満たされた。

 鉄鋌は、砂の上に置かれたままだった。誰も拾わなかった。ハヤが最後にそれを拾い、アヤの葛籠に戻した。

 舟が島を離れるとき、浦嶋はハヤに訊いた。

「あの女に、何を言った」

「亡くなった男の話を、伺いました」ハヤは言った。「どんな男だったか。何が好きだったか。最期はどうだったか」

「それだけか」

「はい」

「――なぜ、それを」

 ハヤは、しばらく答えなかった。

「あの人たちは、水が惜しかったのではありませぬ」やがて彼は言った。「忘れられるのが、怖かったのだと思います」

 浦嶋は、削られた木簡を懐から取り出した。

 完璧な条文だった。数量も、時期も、違約の措置も、一つの曖昧さもない。

 彼は、それをしばらく見つめ、そして懐に戻した。

 捨てはしなかった。だが、その日から二度と、それを他人に差し出すことはなかった。

十三

「匂いが変わったな」

 トカラの島影が見えはじめたころ、ウズが空を仰いで鼻をひくつかせた。

 空は晴れていた。雲一つない。

 だがオトの舟から、笛が鳴った。

 高く、短く、三度。

 その音が響いた瞬間、船団が、崩れた。

 浦嶋には、そう見えた。互いを結んでいた綱が次々に解かれ、まとまっていた群れが、蜘蛛の子を散らすように分かれていく。数十艘ずつの小さな塊になって、それぞれ違う方角へ散っていった。

「何をしている!」アヤが叫んだ。「嵐が来るなら、固く結んで、一丸で耐えるべきでは!」

 それは、ヤマトの発想だった。壁を築き、束ね、質量で耐える。

「逆だ」浦嶋は言った。自分でも意外なほど、すぐに口から出た。「一枚の板になれば、折れる」

 ウズが振り返り、にやりと笑った。

「役人殿、分かってきたじゃねえか」

 ウズの舟は、火山島の裏側へ回った。断崖が風上を遮る、細長い入り江である。舟を岩に繋ぎ、綱を三重にし、帆柱を倒し、荷を縛った。

 最後の綱を締めた直後、空が変わった。

 北の空が、灰から黒へ、黒から鉛へ。

 風が来た。

 横殴りの雨が断崖を叩き、入り江の中でさえ、舟が跳ねた。半刻遅ければ外洋にいた。外洋にいれば、生きていない。

 入り江の奥では、島の者が待っていた。

 彼らは、崖の岩陰に洞のような小屋を持っていた。海人たちを、そこへ入れた。

 浦嶋は、火の側でその者たちを見た。

 言葉が違った。ハヤも半分ほどしか分からないと言った。顔立ちも、肌の色も、屋久の者とは少し違う。彼らが食べているものも違った。

 浦嶋は、島に上がったときから、妙な感覚があった。

 木が、違うのだ。

 葉が厚く、幅が広く、色が濃い。大和で見たことのない形をしている。鳥の声も違った。夜に鳴く虫の音まで違った。

「ここから南は」ウズが火を突きながら言った。「別の海だ」

「どう違う」

「木が違う。獣が違う。人も違う」ウズは言った。「境目がどこか、誰も知らねえ。だが、越えたら分かる」

 嵐は三日三晩続いた。

 四日目の朝、風が止み、雲の切れ間から陽が差した。

 ウズが崖に登り、澄んだ口笛を吹いた。

 しばらく、何もなかった。

 やがて、遠くの島陰から、鳥の声のようなものが返ってきた。次に、別の方角から。さらに別の方角から。

 ウズは、指を折って数えていた。数え終えると、崖を降りてきた。

「一つも欠けてねえ」

 浦嶋は、その言葉を反芻した。

 ヤマトなら、嵐で湊が壊れれば、湊が壊れたという報せが都へ届くのに何日もかかり、報せを受けてから人が動くのにまた何日もかかる。

 ここでは、崖の上の口笛一つで、数千の民の生死が確かめられた。

十四

 その夜のことを、浦嶋は、後年まではっきりと覚えていた。

 嵐の去った空は、異様に澄んでいた。

 彼は板の上に仰向けになり、いつもの癖で、北の空を探した。

 北の空には、動かぬ星がある。

 都では、それを特別なものとして扱った。他のすべての星が夜ごと天を巡るのに、その一点だけは動かない。だからそこには、この世の中心が座している。大王を仰ぐ言葉に、その星が引かれることがあった。中心は動かず、万物がそのまわりを回る、と。

 浦嶋は、その星を見つけた。

 そして、違和感を覚えた。

 低い。

 彼は身を起こし、目を凝らした。低い気がする、というだけかもしれない。海の上では、比べるものがない。陸なら、山の稜線を目安にできる。ここには何もない。

 彼は、そのまま朝まで考えていた。

 翌朝、彼は籠の底から測量儀を取り出した。

 久しぶりだった。竹の竿に麻の糸、鉛の重り。土地の高低を測るための、ただそれだけの道具である。

 その夜、彼は舟の板の上に座り、糸を垂らした。重りが静止するのを待ち、竿を星に向け、糸と竿のなす角を目で読んだ。

 舟が揺れる。重りが振れる。何度もやり直した。

 アヤに手伝わせて、読みを控えさせた。

「浦嶋様。これは、何を測っておられるのですか」

「星の高さだ」

「星の高さ……」アヤは戸惑った。「それを測って、何が分かるのです」

「分からぬ。だから測る」

 それから毎晩、浦嶋は同じことをした。

 揺れる舟の上での測りだから、精度は知れている。彼は一晩に十度も二十度も読みを取り、その真ん中あたりを控えさせた。

 三日目には、まだ何とも言えなかった。

 六日目に、傾向が見えた。

 十日目には、疑いようがなくなった。

「アヤ。数えよ」

 アヤは木簡を膝に、控えた数を並べた。そして、指を止めた。

「……減っております」

「減っているな」

「浦嶋様、これは、測り違いでは」

「十日ぶんある。十日とも同じ方向に間違えることは、あるまい」

 アヤは、木簡を持つ手を下ろした。

「では――星が、下がっているのですか」

 浦嶋は、答えなかった。

 彼は、竿を膝に置いたまま、北の空を見ていた。

 動かぬはずのものが、動いていた。

 いや、と彼は思い直した。星は動いていない。動いているのは、こちらだ。

 南へ、南へと進むにつれて、あの星は、水平線に近づいていく。

 ――ならば、さらに南へ行けば。

 彼は、その先を考えて、背筋が冷えた。

 いつか、沈む。

 この世の中心と呼ばれ、動かぬがゆえに尊いとされ、大王を喩える言葉にまで使われるあの一点が、南へ行けば、水平線の下に消える。

 都では、あの星は動かない。

 都で動かないというだけだったのだ。

 浦嶋は、自分の手の中の道具を見た。

 この竿と重りは、田を割り、水を導き、民を升目に配するために作られたものだ。彼はこれで、幾つもの谷を測り、幾つもの村を帳簿の上に載せてきた。

 その同じ道具が、たった今、彼の信じてきた世界の骨組みを、一つ、外した。

 彼は、ウズにそれを話した。

 ウズは、干した魚を齧りながら聞いていた。聞き終えると、心底不思議そうな顔をした。

「そりゃ、下がるだろ」

「――知っていたのか」

「知ってるも何も」ウズは言った。「そいつで、どこまで来たか測るんだ」

 浦嶋は、しばらく声が出なかった。

「……測るのか。そなたらは、あの星を」

「腕を伸ばして、指の幅で見る」ウズは腕を伸ばし、指を三本立てて水平線に当ててみせた。「爺さんの島は指四本。ここは二本と半分。南へ下がるほど減る。減った分だけ、南へ来たってことだ」

 彼は、当たり前のことを言うように言った。

「星が下がるから、どこにいるか分かるんだよ。下がらなかったら、迷子だ」

 浦嶋は、板の上に座りこんだ。

 同じ星である。

 都はそれを、動かぬがゆえに尊いと言い、権威の座に喩える。

 この海の者は、動くからこそ役に立つと言い、道しるべに使う。

 同じ一点を見上げて、片方は玉座を見、片方は道を見ている。

 浦嶋は、その夜、測量儀を籠に戻さなかった。

 彼は毎晩、それで星の高さを測りつづけた。土地を測る道具は、その日から、どこまで来たかを知るための道具になった。

十五

 琉球の弧に入る手前、船団はある島の沖で止まった。

 止まったまま、動かなかった。

 入るのだろうと浦嶋は思っていた。島影は近く、入り江もはっきり見えた。浜には集落があり、煙が上がっている。水も薪も、明らかにある。

 だが、オトの舟からは何の合図も出なかった。

「なぜ入らぬ」

「入らねえよ」ウズが吐き捨てた。「あそこは、もう駄目だ」

 浦嶋は、島を見た。

 目を凝らして、初めて気づいた。

 浜の奥に、石が積んである。

 人の背丈ほどの高さで、集落の一角を囲っていた。積み方は粗いが、確かに壁だった。そしてその内側に、高い床の建物が二棟、見えた。

 倉である。

 浦嶋は、思わず身を乗り出した。

「あれは――」

「去年から、あんなだ」ウズは言った。「あそこの頭が、蓄えはじめやがった」

「悪いことか」

 ウズは、浦嶋を見た。

「あんたには、悪いことに見えねえだろうな」

 その日の夕方、オトの舟から、小さな伝馬が一艘だけ出た。

 オトが乗っていた。ウズが漕ぎ手を務め、浦嶋も同乗を許された。

 浜には、男が待っていた。

 四十がらみの、がっしりとした男である。背後に、槍を持った若者が十人ほど並んでいた。

 男は、笑顔でオトを迎えた。名の唱え合いはなかった。かわりに男は、大陸ふうに手を胸に当ててみせた。

 二人はしばらく、浜で話した。ハヤはいない。浦嶋には言葉が分からない。

 だが、途中でオトが、はっきりと首を横に振ったのが見えた。

 男は、なおも何かを言った。長かった。熱心だった。

 オトは、最後まで聞いた。そして、短く答えた。

 男の顔から、笑みが消えた。

 帰りの伝馬の上で、浦嶋はオトに訊いた。

「何を言われた」

「水を売る、と」オトは言った。「一筒いくらで、と申しました」

「売る。……水を」

「あの島の湧き水は、あの人のものになったそうです」オトは前を見たまま言った。「壁の内に囲って、番人を置いて、外の者には売る。船が寄れば、必ず水が要りますから。よく考えられています」

「そなたは、断ったのか」

「断りました」

「なぜだ」

 オトは、答えなかった。

 浦嶋は、食い下がった。

「オト殿。あの男の言うことは、間違っているのか」

「間違ってはおりません」

「では――」

「浦嶋殿」オトは初めて彼を見た。「あの人は、貴方と同じことを言いました」

 浦嶋の口が、止まった。

「嵐が来れば、我々は一夜ですべてを失う。だから蓄える。蓄えれば、飢えぬ。飢えぬ者は強い」オトは淡々と復唱した。「そして、こうも申しました。――いずれ、北の大きな国がここまで来る。そのとき、何も持たぬ者は交渉相手にもされぬ。壁を持ち、倉を持ち、頭のいる形にしておかねば、話すら聞いてもらえぬ、と」

 浦嶋は、掌が冷たくなるのを感じた。

 それは、彼自身が第一日目にこの海へ持ちこんだ言葉だった。

「……あの男の言うことは、当たっている」

「当たっています」オトは頷いた。「だからこそ、恐ろしいのです」

「では、なぜ断った」

「あの人は、去年まで、我々の結び目の一つでした」オトは言った。「水を分けてくれました。我々も、鉄を渡しました。互いに、重さを預け合っていた。……ですが、値をつけた瞬間に、それが終わったのです」

「値をつければ、払える。払えば、終わる」

「はい。買った者は、次の年に来る義理がありません」オトは言った。「あの人は、水を金に換えました。かわりに、二十の島との縁を失いました」

 伝馬が本船に着いた。

 その夜、ウズが焚火の前で、低い声で言った。

「オト。焼くか」

「なりません」

「あそこの壁は、まだ低い。今なら、まとめて崩せる。あいつの倉を焼いて、水を開ければ、元に戻る」

「ウズ」オトは、静かに言った。「焼いた瞬間、我々は、あの人と同じものになります」

 ウズは、火を睨んでいた。

「じゃあ、どうする」

「行かなければよいのです」

 ウズが、顔を上げた。

「我々の武器は、それだけです」オトは言った。「刀ではありません。行かないことです。……誰も寄らぬ湊は、枯れます。あの人が、それに気づくのが先か、北の国が来るのが先か」

 船団は、その島に寄らず、南へ下った。

 浦嶋は、遠ざかる島の壁を、いつまでも見ていた。

 粗く積まれた、人の背丈ほどの石。倉が二棟。番人が十人。

 それは、みすぼらしいものだった。

 だが彼は、それが何であるかを知っていた。

 ヤマトの都に、幾百の高倉が並び、幾万の民が戸に縛られ、幾千の兵がそれを守っているあの光景の、種である。

 この島々に、石を積んだ砦がいくつも築かれ、そこに座る者が王を名乗り、互いに攻め合うようになるのは、この夜から数えて、まだ数百年も先のことになる。

 だがその最初の一粒が、いま、彼の目の前で芽を出していた。

 オトは、それを見て、断ち切ることも、焼くこともせず、ただ通り過ぎた。

 浦嶋は、彼女がなぜそうしたのかを理解した。そして、彼女がその選択の結末を、おそらく正確に予期していることも。

十六

 琉球の弧に入ると、海の色が変わった。

 黒潮の深い藍から、瑠璃へ。瑠璃から、眩しい翠へ。

 浅くなったのだ。海底に、石の花のような岩礁が広がり、そのあいだを極彩の魚が舞っていた。

 沖合には、白い帯があった。外洋のうねりが、その帯に当たって砕け、絶えず白く泡立っている。帯の内側は、鏡のように凪いでいた。

 珊瑚が数万年かけて積み上げた、天然の防波堤である。

 ヤマトが濠を掘り土塁を築くのに費やす労を、ここでは海そのものが引き受けていた。

 オトの合図で、船団は帯の切れ目を正確に読み、次々にその内側へ滑りこんだ。

 揺れが、消えた。

 浦嶋は、板の上でよろけた。三月ぶりに、足の下が動かない。翠の水鏡の上に、海上の町がふたたび組み上がっていく。

 その礁湖で、一人の老人が死んだ。

 病でも怪我でもなく、ただ、朝に起きてこなかった。

 葬りは、その日の夕方に行われた。

 小さな舟に老人を乗せ、乾いた枝を敷き、油を注ぐ。子と孫が舟を押し、潮の流れる方へ送り出す。沖で火が点けられた。

 浦嶋は、板の縁に立って、それを見ていた。

 炎が水平線の方へ、ゆっくりと遠ざかっていく。

 泣いている者もいたが、多くはなかった。人々は火を見送りながら、静かに何かを唱えていた。

「何と言っている」浦嶋は訊いた。

「――行って、また来い、と」ハヤが言った。

 浦嶋は、屋久へ向かう船の上でウズが言ったことを思い出した。潮はいつか、必ず戻ってくる。だから、また会える。

 その晩、浦嶋はアヤが泣いているのを見た。

 彼は通路の隅で、木簡を膝に置いたまま、声を殺していた。

「どうした」

「……書けませぬ」アヤは言った。「あの方の名を、私は知りませぬ。誰も、教えてくれませぬ。訊いても、笑うだけで」

「名など」

「名がなければ、記録できませぬ」アヤは顔を上げた。「浦嶋様。あの方は、たった今、この世からいなくなりました。ですが、どこにも、何も残りませぬ。あの方が生きていたという証が、一つも。……それでよいのですか」

 浦嶋は、答えられなかった。

 礁湖に入って十日ほどして、南西の海から黒い渦が湧いた。

 オトの予測は正確だった。船団は礁湖の最奥へ退避し、双胴船を幾重にも結び合わせた。

 だが自然は、予測をわずかに超えた。

 三日三晩、山のような波が、天然の防波堤を越えて内側へ流れこんだ。

 四日目の朝、浦嶋が這い出すと、澄み渡った空とエメラルドの水面の上に、砕けた舟の残骸と、引き裂かれた帆と、失われた積荷の破片が漂っていた。

 船団の一割が損なわれていた。

「これほどの富が、一夜で」アヤが膝をついた。「ヤマトなら、高倉が一つ焼けたに等しい。……多くの民が飢え、首を括りましょう」

 浦嶋も、そう予測していた。

 これだけの喪失を前にすれば、残った物資を巡って奪い合いが始まる。飢えた者が、持っている者を襲う。それが人というものだ。

「浦嶋様」ハヤが言った。「あれを」

 舟を砕かれ、すべてを失った者たちのまわりに、無傷の舟から人が集まっていた。

 手に手に、干した魚を、真水の竹筒を、替えの帆材を、綱を。

 悲鳴も、怒号もなかった。普段と変わらぬ、穏やかなやり取りだけがあった。

「ウズ。なぜ、奪い合いが起きぬ」浦嶋は言った。「なぜ、無傷の者が、見ず知らずの相手に、己の食い物を無償で渡す」

「無償?」ウズは汗を拭った。「違うね」

「では、何だ」

「重さを、預けてんだよ」

 ウズは、砕けた舟の男を顎で示した。

「あいつは、運悪く裸になった。だが腕は確かだ。ここで飯と船材を渡しときゃ、必ず立ち直る。立ち直れば、俺の重さを持ったまま、あと三十年、海にいる」ウズは言った。「明日、俺の舟が沈んだら、今日助けたあいつが、俺を拾い上げる」

 アヤが、震える手で木簡に刻みながら、呟いた。

「――そうか」

「どうした」

「ヤマトの高倉は、堅牢です」アヤは言った。「ですが、一度火が放たれれば、すべてが灰になります。富を一所に集めるとは、実は、恐ろしく脆いことなのだ」

 彼は顔を上げた。

「この者たちは、逆をやっている。富を一つの舟に留めず、重さという形に変えて、他人の舟へ分けて置いている。……一艘が沈んでも、網の全体が、薄く広く損を吸うのです」

 浦嶋は、アヤを見た。

 この男は、いつのまにか、数えられぬものを理解しはじめていた。

 修理は、驚くべき速さで進んだ。鞭を振るう役人はいなかった。

 だが、その修理が半ばに差しかかったころ、船団に別の亀裂が入った。

 浦嶋が最初にそれに気づいたのは、ハヤの顔色によってだった。

「浦嶋様」ハヤは声を落とした。「……穏やかではありません」

「何がだ」

「あの、蓄えはじめた島の話が、広がっております」ハヤは言った。「そして――浦嶋様の申し出も」

 その夜、中央船に、亀甲を背負う年長の海人たちが集まった。

 浦嶋は、天幕の外からそれを聞いた。ハヤが横で、小声で訳した。

「――今年の嵐で、一割やられた」年老いた航海士の声だった。「去年は八分。その前は五分。年ごとに、荒れ方がきつくなっとる」

「気のせいだ」

「気のせいで、舟が砕けるか」

 しばらく、言い合いが続いた。

 やがて、別の声が言った。

「北の注文が、減っておる」

 浦嶋は、貝を並べていた老人の顔を思い出した。

「貝が売れん。あちらは石と銅で、真似たものを作りはじめた」老いた声は続けた。「鉄は要る。だが、渡すものが減っておる。……このままでは、我々は、渡せるものが何もなくなる」

「ヤマトの申し出に乗れ、と言うのか」若い声が跳ね上がった。

「乗るとは言うておらん。だが、話も聞かずに帰すのは――」

「首輪をつけて生き延びるのが、生き延びると言えるか」

「では、飢えて死ぬか」

 浦嶋は、天幕の外で立ち尽くしていた。

 彼が海へ投げこんだ小さな石が、静かな水面に、波紋を広げていた。彼は自分の言葉を売りに来た。だがいま、彼の存在そのものが、この海に「留まるか、流れつづけるか」という、誰もが避けてきた問いを突きつけていた。

 言い合いが途切れたとき、年老いた航海士が、低い声で言った。

「――そのオトが、いつまで居る」

 天幕の中が、凍った。

 浦嶋は、その沈黙の長さを、生涯忘れなかった。

 誰も口にせぬまま、全員が知っていることだった。

 この巨大な網は、あの女ひとりの頭の中にある。三代ぶんの縁を、幾千の名を、誰が誰に何を負っているかを、彼女は一人で覚えている。

 彼女に、後継はいない。

 その夜遅く、浦嶋は舳先でオトを見つけた。

 彼女は一人で座り、脚を海に垂らしていた。

「聞いておられましたね」オトは、振り向かずに言った。

「……すまぬ」

「謝ることはありません」オトは言った。「私は、余計なものを持ちこんでしまったようだ、と貴方が思っているなら、それは違います。あの問いは、貴方が来る前から、我々の底に沈んでいました。誰も、掬い上げる勇気がなかっただけです」

 浦嶋は、彼女の隣に腰を下ろした。

 しばらく、二人とも黙っていた。

「浦嶋殿。正直に申しましょう」オトが言った。「――私は、疲れているのです」

 浦嶋は、彼女を見た。

「幾千の言葉が、私の頭の中で、一日たりとも黙ってはくれません」オトは海を見たまま言った。「昨日、誰が誰に何を渡したか。三年前、あの島の長が何を約したか。あの家系の三代前は、どの島から来たか。……忘れれば、明日、誰かが水をもらえません。もっと忘れれば、誰かが海に呑まれます」

「眠れぬのか」

「眠ります。ですが、眠っているあいだに、誰かが名を唱えに来る」オトは、初めて自嘲した。「私は、この網の女王ではありません。囚われ人です」

 浦嶋は、しばらく言葉を探した。

「オトよ。……そなたの頭の中にあるものを、外に出すことはできぬのか」

「外に」

「そなた一人が抱えるのではなく、多くの者が分けて持てる形に」

 オトは、答えなかった。

 だが、その視線が、少し離れた場所へ動いた。

 通路の隅で、アヤがまだ木簡に小刀を走らせていた。もう少し先の焚火の輪では、ハヤが海人たちに囲まれて、何かを笑いながら聞き取っていた。

 オトは、その二人を、順に見た。

「……貴方の連れてこられた、あのお二人」オトは呟いた。「ひとりは、留めようとする人。ひとりは、繋ごうとする人」

 彼女はそこで、初めて浦嶋のほうを向いた。

「私が長いこと探しあぐねていた答えは、ヤマトの舟に乗って来たのかもしれません」

十七

 船団はさらに南下し、海の色はいよいよ濃くなった。

 そして、緑の密林に覆われた巨大な島が、水平線に現れた。

 回遊の、折り返し地点だという。

 浦嶋の肌は、海人と見分けがつかぬほど焼けていた。ヤマトの絹はとうに擦り切れ、島の民から贈られた樹皮の布をまとっている。顎には髭が伸び、掌は綱で硬くなっていた。

 彼は、この島で、生涯忘れられぬことを二つ経験した。

 一つ目は、浜での出来事である。

 水を汲みに上がった浦嶋たちを、島の者が取り囲んだ。敵意はなかった。珍しがっていた。彼らは、ウズたちの舟には慣れているようだったが、浦嶋の顔立ちと衣を、しきりに指さして笑った。

 ハヤが、通訳を試みた。何度か言い直し、通じる言葉を探し当てた。

 浦嶋は、そこで、名乗った。

「私は、ヤマトの者だ」

 ハヤが訳した。

 島の者は、きょとんとした。

「大王の治める国から来た」浦嶋は続けた。「東の海の彼方にある、大きな国だ」

 ハヤが訳した。

 島の者たちは、顔を見合わせた。それから、そのうちの一人が、ハヤに何かを訊いた。

 ハヤは、答えに詰まった。

「何と言っている」浦嶋は言った。

「……それは、どこだ、と」

「東の、遠くだと言え」

 ハヤが言った。島の者は頷き、そしてまた何か言った。

「――遠いのは分かった。どのくらいの島だ、と」

「島ではない。国だ。幾万の民がおり、幾千の田があり、大王がおられる」

 ハヤが訳した。

 島の者たちは、しばらく黙っていた。

 そして、笑った。悪意のない笑いだった。単に、話の面白さを楽しんでいる笑いだった。

 浦嶋は、その笑いを聞きながら、身体の芯が冷えていくのを感じた。

 彼らは、疑っているのではない。

 知らないのだ。

 ヤマトという名を、この島の誰も、一度も聞いたことがない。

 大王も、屯倉も、条里も、あの造営中の陵も、幾万の労役も、朝議も、亀卜も、彼が生涯を賭けて仕えてきたその一切が、ここでは、存在しない。

 ――中心は、動かぬのではなかった。

 浦嶋は、思った。

 中心は、そこから見ればそこにあるというだけのものだ。北の星と、同じだ。

 彼は浜にしゃがみこみ、しばらく立ち上がれなかった。

 二つ目は、その数日後に起きた。

 島の南の岬に、舟が流れ着いたという報せが来た。

 行ってみると、砕けかけた小さな舟に、三人が乗っていた。二人は生きており、一人は死んでいた。骨と皮ばかりに痩せ、唇が割れていた。

 海人たちは、すぐに水と粥を運んだ。

 生き残った男が、何かを言った。

 誰も、分からなかった。

 ハヤが試した。海の共通の言葉で。駄目だった。島の言葉で。駄目だった。彼が知っている、あらゆる訛りで試した。通じなかった。

 男は、繰り返し、同じ言葉を言った。

 ハヤが、身振りで水を差し出した。男は飲んだ。そしてまた、何かを言った。

 浦嶋は、ハヤの様子がおかしいことに気づいた。

 彼は、男の顔を凝視していた。

「ハヤ」

「……浦嶋様」ハヤの声が、掠れていた。「もう一度、言わせてください」

 彼は男に向かって、指を一本立てた。

 男は、その指を見て、何か言った。

 ハヤは、指を二本にした。男が言った。三本。四本。五本。

 男が五を言ったとき、ハヤの手が、震えはじめた。

 彼は舟へ走った。走って戻ってきたとき、両腕に木簡の束を抱えていた。

 彼は砂の上に、それを広げた。

 浦嶋が覗きこむと、そこには、びっしりと言葉が刻まれていた。この数年、彼が寄港した先々で拾い集めた語彙だった。屋久の言葉。トカラの言葉。礁湖の島々の言葉。さらに南の言葉。

 ハヤは、指で列を追った。

「……五」彼は呟いた。「五、五、五。……全部、根が同じだ」

「ハヤ」

「浦嶋様」ハヤは顔を上げた。目が赤かった。「この男の言葉は、私にはまるで分かりませぬ。一言も。ですが――数の言い方が、屋久の言葉に似ております。目を意味する言葉が、礁湖の島の言葉に似ております。手を意味する言葉が、ここの島と、ほとんど同じでございます」

「それは、この男が、この辺りの者だということでは」

「違います」ハヤは首を振った。「この男は、どこから流れてきたのか分かりませぬ。ですが、私が集めた言葉は、北は屋久から、南はこの島まで、幾百里にわたっております。その全部に、同じ根が入っている」

 彼は、砂に広げた木簡を、震える手で指した。

「浦嶋様。この海の島々の言葉は、みな、同じ一つのところから、枝分かれしたものです」

 浦嶋は、木簡の列を見下ろしていた。

「どこから」

「分かりませぬ」ハヤは言った。「ですが、南へ来るほど、根に近い形が残っております。……おそらく、この先の、さらに南のどこかです」

 浦嶋は、砂の上に座りこんだ。

 数千年か、あるいはもっと前に、この南の果てのどこかから、双胴の舟を操る人々が、星を読み、潮に乗って、北へ、東へ、際限なく広がっていった。

 武で他国を侵したのではない。ただ、風の吹くまま海を渡り、島を見つけては住み、また漕ぎ出した。

 征服のない拡大。

 定住農耕の歴史には、そんなものは一行も書かれていない。

 ヤマトの大王が武で版図を広げるはるか昔から、この人々は、この海を、一つの言葉の網で繋いでいたのだ。

「――バグではない」

 浦嶋は、口の中で呟いた。

「浦嶋様?」

「何でもない」

 彼は、立ち上がった。

 その夜、南の空に見たことのない星が並ぶ砂浜で、浦嶋はオトと二人になった。

 北の空を探したが、あの動かぬ星は、水平線すれすれにあった。あと少し南へ行けば、沈む。

「オトよ」浦嶋は言った。「私は、帰らねばならぬ」

 オトが、こちらを見た。

「密使としてではない」浦嶋は続けた。「この海を知った、唯一の橋として、だ」

「橋」

「ヤマトの強硬派は、そなたらを国も持たぬ化け物だと恐れ、武で潰そうとしている。だが、それは知らぬからだ」浦嶋の声には、久しく忘れていた熱があった。「私が持ち帰るこの記録と、私自身の言葉があれば、道は開ける。服従ではなく、対等の条を結べるはずだ」

 オトは、しばらく黙っていた。

 波が、砂に届いては引いた。

「……貴方のその誠実さが、ヤマトの硬い箱を打ち破ることを、祈りましょう」

 彼女は、そう言った。

 だが、その声は、祈りというより、悼むような響きをしていた。

「ただ、忘れないでください」オトは言った。「我々にとって、海はいつでも逃げ道です。嫌なら、帆を上げればよい。……ですが、陸に縛られた者にとって、変わるということは、己の足場が崩れることです」

「私は、足場を崩しに帰るのではない」

「そう思っておられるでしょう」オトは静かに言った。「ですが、貴方が持ち帰るものは、ヤマトの誰かにとっては、そう見えます」

 浦嶋は、その言葉を軽く受け流した。

 彼の胸には、久しぶりに、はっきりとした使命が灯っていた。三年か、四年か。海の暦のない歳月のあいだに、彼は世界の本当の広さを知った。それを、都へ持ち帰る。

 オトは、それ以上何も言わなかった。

「次に南の風が吹くとき、我々は黒潮に乗って北上します」彼女は立ち上がりながら言った。「あの礁湖を越え、トカラを抜け、屋久を過ぎて、波多の海へ」

 彼女は、一度だけ振り返った。

「――浦嶋殿。これが、我々の、最後の帰り道になります」

 浦嶋は、その一言を、旅の終わりを告げる言葉として聞いた。

 力強く頷き、南の星を仰いだ。

 熱帯の夜風が、彼の決意を祝福するように吹き抜けていった。

 彼らは、まだ知らなかった。

 海の時のなかで彼らが平和の理を探しているあいだに、陸の時が、どれほど残酷に、どれほど暴力的に、歴史の歯車を回してしまっていたのかを。

<br>

第四幕 陸の時間

十八

 帰りは、速かった。

 南の風が背を押し、黒潮が舟を運んだ。行きに幾月もかけて下った海を、船団は驚くほどの短さで遡っていった。

 浦嶋は、毎晩、板の上に座って北の空を測った。

 星が、上がってくる。

 指二本の高さだったものが、二本と半分になり、三本になり、やがて四本に近づいた。あの動かぬ星が、日ごとに、天へ登り返してくる。

 都にいたころ、彼はあの星が動かないと信じていた。いまは、それが自分の立っている場所の言い分にすぎないことを知っている。

 それでも、星が上がってくるのを見るのは、悪い気分ではなかった。

 礁湖を抜け、トカラを過ぎ、屋久の緑の壁が右手に流れ去った。

 浦嶋は、日を追うごとに落ち着かなくなった。

「アヤ。書けたか」

「まだ整えておりまする」

「整えるな。まず、順を決めよ」浦嶋は板の上を歩き回った。「朝議で説くには、順が肝要だ。……まず、鉄の道を武で断つのは不可能だと申す。これは大連も否とは言えぬ。次に、彼らが領土を持たぬこと、ゆえに焼く湊がないことを説く。ここまでは、誰にでも分かる」

「はい」

「そのあとだ」浦嶋は指を折った。「そのあとで、彼らが何を持っているかを説く。海の道、風の理、島々の繋がり。それらは、ヤマトが百年かけても作れぬものだ。……潰すより、通わせたほうが、遥かに利がある」

 彼は立ち止まった。

「その順なら、聞く者がある」

 アヤは、木簡を膝に置いたまま、主人の背を見ていた。

 ハヤは、少し離れた場所で綱を編みながら、何も言わなかった。

 ある晩、浦嶋はふと思い出して、アヤに訊いた。

「アヤ。何年になる」

「――四度、冬を越えましてございます」

 浦嶋は、聞き返した。

「四度か」

「はい」

「……三度ではないのか」

「四度でございます」アヤは言った。「南で冬を越すと、寒くないので、越えた気がいたしませぬ。ですが、越えております」

 浦嶋は、板の上に腰を下ろした。

 四年。

 彼は、二年ほどのつもりでいた。長く見ても三年。海の上には暦がなく、季節は風の匂いでしか分からず、同じ景色が二度と繰り返されない。日を数える理由が、どこにもなかった。

「よく、数えていたな」

「私が数えていなければ、分からなくなっておりました」アヤは静かに言った。「浦嶋様も、お分かりにならなかったでしょう」

 浦嶋は、頷いた。

 そして、妹の顔を思い出した。

 ――祝言には、間に合いますか。

 ――間に合わせる。

 浦嶋は、しばらく黙っていた。四年ならば、とうに嫁いでいるだろう。子がいるかもしれない。父は、まだ生きているだろうか。耳の遠い老人が、同じ話を繰り返している姿が浮かんだ。

「アヤ。都に着いたら、まず家へ寄る」

「はい」

「妹に、詫びねばならぬ」

 波多の海に入ったのは、それから六日後だった。

 陸の匂いが変わった。潮に、土と青葉の匂いが混じる。水の色が、熱帯の翠から、緑がかった藍へ戻っていく。

 浦嶋は舳先に立ち、霞む陸影を見つめた。

 鋸の歯のような入り江。急落する山。あの日、条里が引けぬと呟いた斜面。

 帰ってきた。

「浦嶋様!」

 アヤが叫んだ。

 浦嶋が振り返ると、アヤは前方を指していた。

 陸のほうから、細長い舟が一艘、猛烈な速さで近づいてくる。

 龍宮が海域間の伝令に使う伝馬船である。漕ぎ手が四人、揃った拍子で櫂を入れ、水を切って中央船へまっすぐ向かってくる。

「速いな」浦嶋は感心した。「報せか」

 ウズが、舳先で身を乗り出した。

 そして、動かなくなった。

「ウズ?」

「……あいつら」ウズの声が、低かった。「あんな漕ぎ方は、しねえ」

 伝馬船が横づけされ、四人が中央船へ転がりこんだ。

 浦嶋は、彼らを見て息を呑んだ。

 痩せこけていた。頬骨が浮き、肋が数えられた。肌には新しい傷と古い傷が重なっている。一人は片腕がなかった。

 彼らは、オトの姿を見た瞬間、崩れるように膝をついた。

 そして、叫んだ。

 浦嶋には分からなかった。だがハヤの顔から、血の気が引いていくのが見えた。

「ハヤ。何と言っている」

 ハヤは、答えなかった。

「ハヤ」

「……湊が」ハヤの唇が動いた。「スクモの湊が、落ちた、と」

「落ちた」浦嶋は眉を寄せた。「熊襲の残党でも流れてきたか」

「違います」

「では――」

「ヤマトの軍勢です」

 浦嶋は、聞き間違えたと思った。

「馬鹿な」彼は笑おうとした。「私は交渉のために出ておるのだぞ。正規の使節が交渉の途上にあるというのに、軍を動かすなど、あろうはずが――」

「浦嶋殿」

 オトの声だった。

 彼女は、伝馬船の男たちから何かを聞き取っていた。振り向いた顔から、いつもの静けさが消えていた。

「彼らの言葉の意味は、それだけではありません」

「……何が」

「ヤマトの軍がスクモを焼いたのは、今ではない」

 浦嶋は、オトを見た。

「我々が、南へ発った、その数月後です」

 海の音が、遠のいた。

「この人たちは」オトは続けた。「監視を逃れ、散り散りになりながら、我々が黒潮に乗って戻るこの日を、四年、沖の岩陰で待っていました」

 浦嶋は、動けなかった。

 四年。

 彼らには、報せを送る術がなかった。文字がない。早馬もない。船団がどの海にいるかも分からない。分かっていても、追いつけない。

 だから、待った。

 この網の最大の弱みが、目の前にあった。報せは、舟より速く進まない。

「……浦嶋様」アヤが、掠れた声で言った。「では、我らが波多を発ったとき、すでに」

 浦嶋の頭の中で、四年前の朝議が、順に並び直しはじめた。

 大連は、湊を焼けと言った。年老いた大夫が、兵を出せば来年の種籾に手をつけると反対した。議は膠着した。

 そこへ、自分が口を挟んだ。まず使いを出せ、と。

 ――大連は、反対しなかった。

 あのとき、彼は自分の顔をゆっくりと眺めた。値踏みするような、それでいてどこか満足げな眺め方で。

 浦嶋は、船縁を掴んだ。

「……兵は、三千と申していた」

「浦嶋様」

「三千の兵を、数月で集められるはずがない」浦嶋の声が震えた。「集めるには、諸国へ触れを出し、船を集め、糧を積まねばならぬ。半年はかかる。……我らが発った数月後に押し寄せたということは」

 彼は、そこで言葉を切った。

「――発つ前から、集めていた」

 誰も、何も言わなかった。

「交渉など、初めから誰も望んでおらなんだ」浦嶋の膝が折れた。「私は、時を稼ぐために出された。私が海に迷いこんでいるあいだに、湊を襲うために。……あの議は、そのための芝居だ。私は、そのために選ばれた」

 彼は、板に手をついた。

「私が、いちばん熱心に、平定を説いたからだ」

 沈黙が、長く続いた。

 それを破ったのは、ウズだった。

「風を読め!」ウズの怒号が飛んだ。「潮の目を変えるぞ! 奴らの軍船が沖へ出る前に、群れを散らす! 南の礁湖へ退く!」

 浦嶋は、顔を上げた。

 ウズの目は、赤かった。彼の同胞が、彼の相棒の島が、焼かれたのだ。それでも彼は、軍を組めとは言わなかった。

 逃げろ、と言った。

 それが、国家を持たぬ者の、唯一の防衛だった。

 船団に、報せが広がっていく。あちこちの舟から、悲鳴と怒号が上がり、そして急速に静まっていった。彼らは怒りを呑み、帆を張る支度を始めた。

 浦嶋のそばで、年老いた航海士が、板の上に座りこんでいた。

 礁湖で、ヤマトの申し出も話くらいは聞くべきだと言った、あの老人だった。

 彼は誰にともなく、呟いていた。

「……話を聞け、と言うたのは、わしじゃ」

十九

 その夜、船団は波多の沖に留まり、明け方に南へ発つことになった。

 オトが、浦嶋たち三人を呼んだ。

「我々はこれより、ヤマトの定規の届かぬ海へ去ります」彼女は静かに告げた。「もう、この海には戻りません。……どうされますか。あなたがたは」

 誰も、すぐには答えなかった。

 最初に膝を進めたのは、ハヤだった。

「浦嶋様。私は、海に残ります」

 彼は板に手をつき、深く頭を下げた。

「これは、裏切りではありませぬ」

「顔を上げよ」浦嶋は言った。「詫びる話ではない」

 ハヤは、顔を上げた。この四年で、彼の顔はすっかり海の男のそれになっていた。

「私は、ようやく分かったのです」ハヤは言った。「なぜ自分が、都の言葉を息苦しく思い、南の訛りに安らいでいたのか。……ここが、私の生まれた岸です。母が歌った唄の在り処です」

「母のことを、話したことがなかったな」

「話しても、詮無いことでしたので」ハヤは少し笑った。「都では、言わぬほうがよいことでした」

 浦嶋は、伊予の湯で「あちこちで覚えました」と笑った男を思い出した。

「それに、やるべきことがございます」ハヤは続けた。「オト殿の頭の中にあるものを、外に出す」

 オトが、彼を見た。

「あの日、礁湖で伺いました。オト殿は、眠っておられるあいだにも、名を唱えに来る者があると」ハヤは言った。「あれは、いけませぬ。網が、あの頭一つに懸かっている」

「私を継ぐ、と申されますか」オトが言った。

「継げませぬ」ハヤはあっさり答えた。「私には、あれだけの数は覚えられませぬ。四年見ておりましたが、真似ようとするたび、己の頭の悪さを知るばかりでした」

「では」

「継ぐのではなく、要らなくします」

 オトの目が、わずかに開いた。

「オト殿は、幾千の縁を丸ごと呑みこんでおられる。私にはできませぬ。ならば、削ります」ハヤは言った。「どの島でも通じる言い方だけを残し、覚え方の型を作る。誰が誰に何を負うているか、それを唱える決まった形を、誰でも覚えられる短さにする。……荒削りになります。オト殿の裁きには、遠く及びませぬ」

「ですが、渡せる」オトが言った。

「はい。次の者へ、渡せます」

 オトは、静かに目を閉じた。

 そして、頷いた。

「――待っていました。あなたのような人を」

 次に、アヤが進み出た。

 彼は、木簡の詰まった重い籠を、両腕で抱えていた。四年ぶんである。

「私は、都へ戻ります」

 場が、静まった。

「アヤ」浦嶋が制した。「戻れば、殺されるぞ。作戦を知らされていなかったとしても、通じたと見なされる」

「大王の御前へは出ませぬ」アヤは首を振った。「名を変え、素性を偽り、下級の史部として、ふたたび行政の末端に潜りこみます」

「何のためだ」

「これを、残すためです」

 アヤは籠を軽く叩いた。

「私はこの四年、彼らのすべてを記録してまいりました。ヤマトの文字で、この文字なき知を、木簡に縛りつけました。……武では、ヤマトの箱は壊せませぬ。ですが、この記述を、歴史の裏側に、長い時をかけて一滴ずつ染みこませることはできます」

 彼の声は、いつになく熱かった。

「いつの世か、これが誰かの目に触れ、海には国家を持たぬ民がいたという事実が、どこかで芽吹くように」

 浦嶋は、深く息を吐いた。

 この二人が、それぞれの道を選んだこと。それは、この四年で最も納得のいくことだった。

 だが。

「――待て」

 声を上げたのは、ハヤだった。

 浦嶋は、彼の顔を見て驚いた。

 険しかった。

「アヤ殿。その籠に、何が書いてある」

「何が、とは」

「島の場所が、書いてあるだろう」

 アヤの動きが、止まった。

「……書いてある」

「水の湧く島も」ハヤは一歩詰めた。「礁の切れ目も。潮の変わる時期も。歌の道筋も」

「書いてある」

「どの島の誰が、どの島の誰と繋がっているかも」

「……書いてある」

「それを」ハヤの声が低くなった。「都へ、持って帰る、と言うのか」

 板の上が、しんとした。

 浦嶋は、身体が冷たくなるのを感じた。

 ハヤの言っていることが、正しかったからだ。

「アヤ殿。あんたが四年かけて作ったのは、記録じゃない」ハヤは言った。「海図だ」

 アヤの顔が、白くなった。

「私は、そんなつもりでは」

「つもりの話をしてるんじゃない」ハヤは遮った。「あんたが何をしようが、その籠が都に着いた時点で、それは軍が欲しがるものになる。あんたが隠し通せると思ってるうちは、まだいい。だが、四十年隠せるか。五十年隠せるか。あんたが死んだあと、誰かがその籠を開けたら、どうなる」

 アヤは、答えられなかった。

「今度は、逃げる先まで書いてある」ハヤは言った。「四年前は、奴らはスクモしか知らなかった。だから焼けたのはスクモだけだ。……次は、全部だ」

「――ハヤ」浦嶋が声を出した。

「浦嶋様。私は、この方を疑ってはおりませぬ」ハヤは浦嶋を見た。目が赤かった。「この四年、隣で見ておりました。この方が誰よりも、あの人たちを消したくないと思っていることは、知っております。だからこそ、申しております」

 彼はアヤに向き直った。

「燃やせ」

 アヤの手が、籠を握りしめた。

「……燃やせ、と」

「燃やせ」

「燃やせば」アヤの声が震えた。「この人たちは、いなかったことになります」

「ならねえよ」

「なります!」

 アヤが、初めて声を荒らげた。

 板の上の全員が、彼を見た。

「ハヤ殿。あの礁湖で、老人が一人、亡くなりました」アヤは言った。「覚えておられますか。舟に乗せて、火を点けて、沖へ流した。皆で見送って、行ってまた来い、と唱えた」

「覚えている」

「私は、あの方の名を、書けませんでした」アヤの目から、涙がこぼれた。「訊いても、誰も教えてくれませんでした。笑うばかりで。……あの方は、どこにも、何も残っておりませぬ。孫の代までは覚えているでしょう。その次は、顔を知りませぬ。その次は、いたことも知りませぬ」

「……」

「三代です」アヤは言った。「三代で、人は、この世からいなかったことになるのです。私は、それが、どうしても」

 彼は、そこで言葉に詰まった。

 ハヤが、静かに言った。

「消えねえよ」

「消えます」

「重さは、残る」ハヤは言った。「あの爺さんが誰かに預けた重さは、その相手が覚えてる。相手が死んでも、その子が唱える。名前じゃない。誰が誰に何を負うたか、そっちが残るんだ。……名前より、そっちのほうが、よっぽど長く残る」

 アヤは、涙を拭った。

 そして、顔を上げて、言った。

「では、その重さは」

 彼は、まっすぐハヤを見た。

「誰が、覚えているのですか」

 ハヤの口が、止まった。

 浦嶋は、その瞬間、板の上の空気が変わったのを感じた。

 誰も、動かなかった。

「オト殿お一人が、覚えておいでです」アヤは静かに言った。「三代ぶんの縁を、幾千の名を。……あの方が、明日、斃れたら」

 ハヤは、答えなかった。

 オトも、答えなかった。

「私は、文字が優れているなどと申しません」アヤは言った。「歌のほうが、遥かに賢い。あの子が歌う道は、私には一行も書けませんでした。書いても、ウズ殿が読めば、行けぬと仰る。……私は、負けております。負けていることは、四年前から知っております」

 彼は、籠を膝の上に置いた。

「ですが、頭は、死にます」

 長い沈黙があった。

 やがて、ハヤが低く言った。

「――だから、俺は、覚え方を変える」

 彼は顔を上げた。

「一人が全部覚えるんじゃなく、十人が十ずつ覚える形にする。落としても、拾える形に」

「ならば」アヤが言った。「私は、覚えられぬものを書きます」

 二人は、しばらく睨み合っていた。

 やがて、アヤが立ち上がった。

「ハヤ殿。……手伝っていただけますか」

「何を」

「選びます」

 その夜、板の上に火が焚かれた。

 アヤは籠を開け、四年ぶんの木簡を、一つずつ取り出した。

 そして、読み上げた。

 彼が読み、ハヤが聞いた。ハヤが「それは要らぬ」と言えば、アヤは火にくべた。ハヤが「それは残せ」と言えば、脇に置いた。

 燃やされたのは、島の位置だった。礁の切れ目だった。水の湧く場所だった。潮の時期だった。歌の道筋だった。誰がどの島の誰と繋がっているかを記した、あの膨大な列だった。

 残されたのは、意味のほうだった。

 なぜ彼らが蓄えないのか。なぜ贈るのか。なぜ帳尻が合わないのか。なぜ嵐が来ると散るのか。なぜ王を置かないのか。

 どこにも行けない記録だけが、残った。

 浦嶋は、少し離れた場所からそれを見ていた。

 アヤは、一枚燃やすたびに、それを最後まで読み上げていた。ハヤに聞かせるためだった。

 文字にできぬものを歌で運ぶ男と、歌にできぬものを文字で残す男が、生涯にただ一度、同じ火を囲んでいた。

 火が細るころ、籠は、半分ほどの重さになっていた。

 アヤは、灰を見つめていた。

「アヤ」浦嶋が言った。「よく、決めたな」

「……浦嶋様」アヤは、掠れた声で言った。「私は今、四年を焼きました」

「知っている」

「ですが」アヤは灰から目を離さずに言った。「あの籠が誰かの手に渡って、島が焼かれたら、私は、あの人たちを二度殺すことになりまする」

 彼は、袖で顔を拭った。

「……焼くほうが、まだ、ましでございました」

二十

 明け方、オトが浦嶋を呼んだ。

「浦嶋殿。貴方は」

「私は、陸へ上がる」

 浦嶋は、迷いなく言った。

「都へ戻られるのですか」

「分からぬ」浦嶋は正直に答えた。「まず、何が起きたのかを知らねばならぬ。……それに、私はもう、そなたらの舟に乗る顔がない」

「顔」

「私が来なければ、スクモは焼かれなかった」

 オトは、しばらく黙っていた。

「それは、違います」やがて彼女は言った。「貴方が来ずとも、彼らは来ました。順が違っただけです」

「――慰めか」

「事実です」オトは言った。「ですが、貴方がそう思われることは、止められません」

 彼女は立ち上がり、天幕の奥から二つの品を持ってきた。

 一つ目は、黒漆の箱だった。

 浦嶋は、受け取って驚いた。重い。鉛のようだった。

 ヤマトの漆器である。水も空気も通さない。国が、富を永劫に保とうとして作った器だ。

「玉手箱、とでも呼びましょうか」オトは言った。「中には、我々の伝馬船が四年前にヤマトの陣から奪った書が、封じてあります。腐らぬよう、朱を詰めて、完全に閉じました」

「朱」

「はい」

 浦嶋は、箱を持つ手に、わずかに力を込めた。

「この中には、ヤマトの権力者が何を企み、貴方の一族をどう処分したか、そのすべてが記されています」

 浦嶋は、顔を上げた。

「――処分」

「はい」

「オト殿。そなたは、中を読んだのか」

「読みました」

「なぜ、言わぬ」

 オトは、答えなかった。

 やがて、こう言った。

「決して、開けてはなりません」

「……なぜだ」

「この箱を開けて、中のものを受け入れることは、貴方がヤマトにおいて、すでに死んだ人間であると、ご自分で認めることと同じだからです」オトは静かに言った。「箱を閉じたまま、知らぬ者として生きる道も、まだ残されています」

 浦嶋は、黒い蓋を見下ろした。

「そなたは、私に選ばせるのか」

「私が言葉で伝えれば、貴方に選ぶ余地はなくなります」オトは言った。「それは、少し、酷い気がしました」

 二つ目は、細長い布に包まれていた。

 解くと、柄の頭に、二匹の竜が一つの玉をくわえて透かし彫りにされた、環頭が現れた。刀身は、列島のいかなる鍛冶の手筋とも違う光を帯びていた。

「環頭大刀(かんとうのたち)……」

 背後で、アヤが息を呑んだ。双竜が玉を奉じるこの意匠は、大陸から半島、そして南の海を、幾人もの王侯の手を経て巡ってきた威信の証である。

「この剣は、南の海より我々の手に流れ着き、幾つもの島の長の手を渡ってきました」オトは、柄を浦嶋の手に握らせた。

 浦嶋は、掌に伝わる重さを感じた。

「柄の竜は、玉を握って離しませぬ」オトは言った。「ですが、この剣そのものは、決して一所に留まりませんでした。留めれば腐り、巡れば生きる」

「――なぜ、私に」

「貴方が、我々の相棒だからです」

 浦嶋は、彼女を見た。

「四年前、貴方はスクモの浜で、ウズに鉄を一本渡されました」オトは言った。「あれから、ずっとそのままです。貴方は我々に重さを預けたまま、四年、返してもらっていない」

「……あれは」

「これで、返します」オトは言った。「ただし、抱えこんではなりません。時が満ちれば、次の手へ渡しなさい。そうして初めて、この剣は生きつづけるのですから」

 浦嶋の目から、涙がこぼれた。

 何も所有せぬ者たちが、これほどの至宝を、しかも留めるなと言い添えて贈る。

 その無償の重さが、胸を打った。

 ウズが、板を踏んで近づいてきた。

 彼は何も言わず、浦嶋の前に立った。

 それから、腕を突き出して、浦嶋の肩を掴んだ。強い力だった。

「役人殿」

「ウズ」

「お前は、俺に重さを預けたままだ」ウズは言った。「返してもらってねえ」

「……返せぬ。私はもう、そなたらの海へは行けぬ」

「知ってる」ウズは言った。「だから、忘れねえ。それだけだ」

 彼は手を離し、背を向けて、行ってしまった。

 ハヤは、最後まで泣いていた。

「浦嶋様」

「泣くな」

「泣きまする」ハヤは袖で目を拭った。「私は、あなた様に拾われました。都の湊で、南の訛りが分かるというだけで、伊予の言葉も分からぬ小者を、通詞に取り立ててくださった」

「役に立ったからだ」

「あのとき、あなた様が私に何をお訊きになったか、覚えておられますか」

「覚えておらぬ」

「どこの生まれか、とはお訊きになりませんでした」

 浦嶋は、しばらく言葉が出なかった。

「……行け」彼は言った。「そなたの仕事は、私の仕事より、遥かに大きい」

 ハヤは、深く、長く、頭を下げた。

 最後に、オトが言った。

「浦嶋殿。一つだけ、伺ってよろしいですか」

「どうぞ」

「貴方は、我々を測りに来られました」オトは言った。「四年、測られて、どうでしたか」

 浦嶋は、少し考えた。

 そして、笑った。四年ぶりに、腹の底から笑った気がした。

「――目盛りが、足りなんだ」

 オトも、笑った。

 浦嶋とアヤは、玉手箱と環頭大刀を抱え、波多の岸へ向かう小舟に移った。

 背後で、数千の帆が一斉に南風を孕む音が響いた。

 振り返ると、広大な黒潮の上を、巨大な船団が、蜃気楼のように遠ざかっていくところだった。

 それは、人が別の歴史を歩めたかもしれぬという可能性の幻が、静かに姿を消していく光景だった。

 波多の断崖の下で、浦嶋とアヤは分かれた。

 アヤは、半分の重さになった籠を背負っていた。

「浦嶋様」

「アヤ」

「私は、あなた様に、一つ嘘をつきました」

 浦嶋は、彼を見た。

「四年前、朝議で、龍宮という字を当てたのは私でございます」アヤは言った。「あのとき私は、音が近く、意味も通ると申し上げました。……ですが、本当は、それだけではありませんでした」

「では、何だ」

「あの字なら、大連様が笑うと思ったのです」

 浦嶋は、目を見開いた。

「竜の宮などと書けば、童の話に見えます。童の話は、誰も本気にいたしませぬ」アヤは言った。「本気にされぬものは、焼かれませぬ」

 彼は、深く頭を下げた。

「私は、これから同じことを、生涯やります」

 そして、振り返らずに、王都へ続く険しい山道へ消えていった。

 浦嶋は、その背が見えなくなるまで、断崖に立っていた。

二十一

 断崖の中腹に、洞があった。

 浦嶋は、そこに荷を下ろした。

 日が落ちた。月が出た。

 彼は、黒漆の箱を膝の前に引き寄せた。

 ――開けてはならない。

 オトはそう言った。閉じたまま、知らぬ者として生きる道もある、と。

 浦嶋は、しばらく箱を見ていた。

 だが、海を知ってしまった彼にとって、知らぬまま生き永らえることは、耐えがたい欺瞞だった。

 彼は、麻紐を解いた。

 黒漆の蓋に手をかけ、持ち上げた。

 乾いた音がした。

 その瞬間、箱の中から、赤黒い微細な粉が、ふわりと舞い上がった。

 鼻腔を突く、鉱物の匂い。

 月光の下で、粉は毒々しい朱を放った。

 浦嶋は、それが何か知っていた。ヤマトの官人が知らぬはずはなかった。

 水銀朱。辰砂を砕いた顔料である。

 ヤマトは、これを前方後円墳の石室に、大量に敷く。王者の遺骸の腐敗を防ぎ、死の世界でも権力を保つための呪術であり、石室を暴く盗掘者を退けるための毒でもあった。

 この箱は、小さな古墳だった。

 舞い散る朱のなかに、書が二枚、横たわっていた。

 一枚目を取り上げた。

 それは、彼が予期していたものだった。

 ――浦嶋之徒、夷狄ト通ジ謀反企ツ。依テ一族悉ク誅伐ス。

 日付は、彼が意気揚々と大和を出立した、四月後のものだった。

 浦嶋は、その一枚を、長いこと見つめていた。

 やがて、二枚目を取り上げた。

 そして、息が止まった。

 それは、宣命ではなかった。

 行政の、末端の書だった。

 戸籍から名を削るときに、記録役が書く、ただの届けである。彼が生涯に何百と書き、後輩に書き方を教えた、あの決まった様式だった。

 名が、並んでいた。

 父の名。

 叔父の名。

 従兄弟の名。

 そして、妹の名。

 ヌカ。

 一つ一つの名の上に、削り取りの線が、定規で引いたようにまっすぐ、引かれていた。

 浦嶋は、その線を見ていた。

 この線の引き方を、彼は知っている。斜めに引くと後で読めてしまうから、まっすぐ引け。二度引くな。一度で引け。そう教わり、そう教えてきた。

 書いた者の筆の癖に、見覚えがあった。

 同じ役所にいた男だった。名も、顔も浮かんだ。よく笑う、几帳面な男だった。日付から見て、彼はこの届けを、いつもの朝、いつもの机で、いつもの手で書いたのだろう。

 浦嶋の口から、声にならない音が漏れた。

 彼は、書を膝に落とし、両手で顔を覆った。

 ――祝言には、間に合いますか。

 ――間に合わせる。

 妹は、嫁いでいなかった。

 彼が海の色に見とれ、星の高さを測り、贈与の意味に驚いていたころ、彼女の名は、この線の下にあった。

 四年。

 彼は、海の上で四年を過ごした。その四年に、陸では何も起きていないと思っていた。暦のない歳月を、彼は自分だけのものだと思っていた。

 だが、陸には陸の時が流れていて、それは彼を待たなかった。

 浦嶋は、長いこと、動かなかった。

 やがて、顔を上げた。

 朱の粉が、彼の顔と衣に降りかかっていた。

 ――復讐、か。

 一瞬、都へ乗りこみ、大連たちの寝首を掻く己の姿が浮かんだ。

 だが、彼はその衝動を、静かに打ち消した。

 復讐とは、相手と同じ土俵に上がることだ。血を血で洗い、権力を奪い合う遊戯に加わることだ。それは、あの海で見たものを、自分の手で汚す行為にほかならない。

 浦嶋は、荷を解いた。

 中から、一つの札を取り出した。

 使いの符である。二つに割られた木の札で、片方を朝廷が持ち、片方を使者が持つ。合わせれば、ぴたりと合う。それが、彼が大王の名を負う者である証だった。

 彼は、それを月にかざした。

 合わせるべきもう半分は、都にある。

 だがその都は、彼を四年前に殺している。この札は、二度と合わない。

 浦嶋は、洞を出た。

 断崖の縁に立ち、腕を振って、札を投げた。

 小さな音が、遠く、下から返ってきた。

 彼は、しばらくそこに立っていた。

 それから洞に戻り、籠の底から測量儀を取り出した。

 竹の竿。麻の糸。鉛の重り。

 彼はそれを、投げようとして――やめた。

 これは、もう、ヤマトの道具ではなかった。

 あの南の海で、彼はこれを北の星に向けた。田を割るためではなく、どこまで来たかを知るために。この竿と重りは、彼が信じた世界の骨組みを一つ外し、そのかわりに、世界が思っていたより遥かに広いことを教えた。

 浦嶋は、それを籠に戻した。

 最後に、環頭大刀を取り出した。

 鞘を払う。

 月光を吸った刀身に、柄頭の二匹の竜が、玉をくわえたまま浮かんだ。

 奪うためではなく、巡らせるために海を渡ってきた剣。

 浦嶋は、それを腰に帯びた。

 朱にまみれ、ヤマトの衣を脱ぎ捨てた彼は、もはや密使でも臣下でもなかった。

 ただ一人の、名もなき人間である。

 眼下のスクモでは、松明の火が、幾何学の網を張っていた。

 浦嶋は、その光の檻へ戻ろうとはしなかった。

 彼は環頭大刀の柄に手を添え、兵の監視の届かぬ、波多のさらに深い森の方角へ、背を向けた。

 みずからの社会的な死を受け入れ、歴史から退場すること。

 それは敗北ではなく、ヤマトという巨大な仕組みに対する、彼なりの、ただ一つの抗いであった。

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第五幕 その後 ―― 三つの海

二十二 ハヤ ―― 声の網

 南の風が黒潮を押し、船団は、ヤマトの定規の届かぬ海へ消えた。

 その船団のなかに、ハヤはいた。

 最初の数年、彼は途方に暮れていた。

 オトの傍らに座り、彼女の頭に流れこんでくるものを、同じように受け取ろうとした。幾千の名。三代ぶんの縁。どの島の誰が、どの島の誰に、いつ、何を負うているか。

 真似ようとするたびに、己の頭の悪さを知った。

 三年目のある日、彼は取り返しのつかない間違いをした。

 二つの島の系譜を、混ぜてしまったのだ。

 その結果、ある舟の一族が、寄港した島で水を断られた。彼らはハヤの唱えた名を信じて、その島へ向かったのである。三日、水なしで漂った。子供が一人、危うかった。

 ハヤは、オトの前に額をつけた。

 オトは、叱らなかった。

 彼女はただ、正しい系譜を、最初から唱え直した。

 それだけだった。

 叱られるより、ずっと応えた。

 その夜、ハヤは眠れなかった。

 舟の縁に座り、水面に映る星を見ながら、彼は同じことを何度も考えた。

 オトは、覚えている。自分は、覚えられない。

 ――ならば、覚えられるようにすればよいのではないか。

 彼は、身を起こした。

 真似ようとしたのが、そもそも間違いだったのだ。オトは、生まれ持った奇跡だった。奇跡は、真似られない。

 だが、奇跡でない者にも、扱える形はあるはずだ。

 彼は、削りはじめた。

 その日から、ハヤは島から島へ渡るたびに、耳だけで言葉を拾った。書き取らず、口で覚えた。そして拾ったもののなかから、どの島でも通じる最小の骨だけを選り分けていった。

 数の数え方。風の呼び名。潮の呼び名。星の呼び名。

 「これと、これを、換える」という型。

 「争うな」「分けあえ」「客人を匿え」という決まり文句。

 文法は要らない。美しさも要らない。通じるための、最も硬い芯だけを残す。

 そして彼は、最も難しいものに取りかかった。

 縁の唱え方である。

 オトのそれは、長かった。名を遡り、また下り、そのあいだに何が渡されたかを織りこんでいく。美しかった。だが、覚えられなかった。

 ハヤは、それを短く切った。

 誰が、誰に、何を、いつ。

 その四つだけを、決まった順で、決まった調子に乗せる。節をつけて、息の切れる長さで区切る。

 一つが、十を数えるほどの短さになった。

 そして、彼はこう考えた。

 ――一人が全部を覚える必要は、ない。

 一人が、自分に関わる十だけを覚える。その隣の者が、別の十を覚える。十人いれば百になる。百人いれば千になる。

 誰かが死んでも、その十だけが欠ける。網全体は、残る。

 ハヤが最初にこの形を持ちだしたとき、年長の航海士たちは、渋い顔をした。

「粗いな」

「はい」

「これでは、誰がどんな人であったかが、落ちておる」老いた航海士は言った。「わしの祖父が、なぜあの島の者に舟を貸したか。そこには理由があった。喧嘩をして、仲直りをして、それで貸した。……お前のそれには、貸したことしか残らん」

「残りませぬ」ハヤは認めた。

「では、死んだ者への礼を欠くとは思わんか」

 ハヤは、しばらく黙っていた。

「思います」

「ならば――」

「ですが」ハヤは顔を上げた。「あなた様が亡くなられたら、その祖父様の喧嘩と仲直りは、どこへ行きますか」

 老人は、口をつぐんだ。

「粗いのは、承知しております」ハヤは言った。「ですが、粗いから、渡せます」

 その形を最初に覚えたのは、子供たちだった。

 節がついていて、短くて、覚えやすかったからである。彼らは遊びのように唱え、間違えては笑い、また唱えた。

 十年が経つころには、それは船団のあちこちで、当たり前に使われるようになっていた。

 オトが、老いた。

 かつて幾千の縁を一日も休まず束ねた頭が、少しずつ、ほつれはじめた。

 だが、誰も慌てなかった。

 彼女が思い出せないとき、傍らの若者が、短い節で唱えた。それで足りた。

 ある晩、オトが夜どおし眠った。

 朝、目覚めた彼女は、しばらく呆然としていた。

 誰も、彼女を起こしに来なかったのだ。

「――ハヤ」

「はい」

「昨夜、三つの舟が寄ったはずです」

「寄りました」

「誰が」

「あちらの、若い者たちが」ハヤは言った。「二つは、そのまま済みました。一つだけ、揉めましたので、朝までかかって解きました」

 オトは、しばらく黙っていた。

 それから、笑った。

「あなたは、私を継がなかった」

「継げませんでした」

「――私を、要らなくしてくれた」

 オトが死んだのは、それから数年後のことである。

 南のどこかの島の沖で、彼女は静かに息を引き取った。

 舟に乗せられ、乾いた枝を敷かれ、油を注がれ、潮の流れる方へ送り出された。沖で火が点いた。

 人々は火を見送りながら、行って、また来い、と唱えた。

 この網は、あの女ひとりの頭に懸かっている。彼女が斃れれば、網は沈む。

 誰もが、そう恐れていた。

 網は、沈まなかった。

 ほつれた一点を、無数の細い糸が補いあった。

 オトが恐れつづけた「己の死後」を、彼女は生きているうちに越えていたのである。

 ハヤ自身は、ついに結節点にはならなかった。

 オトの後を継いだのは、一人の女だった。かつて甲板の隅で、大人たちの言葉を飽きずに聞いていた少女である。ハヤは彼女を、生涯、傍らで支えた。

 天才は継げない。だが、仕組みは継げる。

 老いてから、ハヤは一度だけ、遠い北の小さな島へ舟を出した。

 その島は、かつて名の連なりが切れた島だった。

 浜に降りると、白髪の老人が立っていた。あのとき槍を持っていた若者である。

 二人は、しばらく見つめ合った。

 老人は、腰から古い木の笛を外し、ハヤに差し出した。

「返す」

 ハヤは、それを受け取った。掌に馴染む重さだった。

「……ずいぶん、待たせた」

「四十年だ」老人は言った。「親父の名は、忘れなかったぞ」

 老人の後ろで、若い男が、続きの名を唱えた。よどみなかった。その傍らで、まだ幼い子が、真似をして節をつけていた。

 ハヤの短い形が、この島まで届いていた。

 ハヤは、笛をしばらく眺めた。

 そして、幼い子を手招きした。

 子が、恐る恐る近づいてきた。

 ハヤは、その手に笛を握らせた。

「――返してもらったばかりだが」ハヤは言った。「今度は、俺があんたに貸す」

 老人が、目を細めた。

「じいさん、そりゃずるいぞ」

「ずるいな」ハヤは笑った。「これで、また終わらん」

 ハヤは、その後も長く生きた。

 南の島々のどこかで諍いが起きると、老いた通詞が現れて、幾つもの言葉を操って血を鎮めた、という話が、あちこちに残った。

 彼が去ったあとの島々には、彼の削った芯の言葉が残った。数の数え方に、風の呼び名に、「分けあえ」という一言に。

 彼の名は、どこにも残らなかった。

 のちの世、南の島と本土のあいだで交わされる言葉のなかに、どこの言葉とも判じがたい、しかしどこでも通じる語がいくつも混じっていた。その源をたどる者は、いなかった。

 ずっと後の海人たちは、なぜ自分たちが遠い島の者とも話が通じるのか、その理由を問わぬまま、当たり前のように潮を渡っていった。

 ハヤの生きた証は、墓にも、記念の碑にもなかった。

 それは、彼が要らなくした自分自身のなかにこそ、あった。

 彼は、繋ぐ者だった。

 だから最後は、繋がれた網のなかに、跡形もなく溶けて消えた。

二十三 アヤ ―― 文字の毒

 都は、ハヤの海とは、何もかもが逆だった。

 アヤは名を変え、素性を偽り、下級の史部として、ふたたび行政の末端に潜りこんだ。

 彼が選んだのは、地方から上がってくる戸籍と税の帳簿を、都の書式に写し直す、日の当たらぬ役所だった。

 誰も、彼の顔を覚えていなかった。

 四年の空白を怪しむ者もいなかった。反逆者の一族はとうに処分され、忘れられていた。死んだ人間が生きた人間に紛れて働くのに、これほど都合のよい場所はなかった。

 仕事は、単調だった。

 地方の郡から届いた木簡を、都の様式に写す。人が生まれれば加え、死ねば削る。逃げた者は、逃げたと記す。

 削るとき、彼は線を引いた。

 斜めに引くと後で読めてしまうから、まっすぐ引く。二度引かず、一度で引く。

 その線を引くたびに、アヤは、朱にまみれた洞のなかで浦嶋が見たであろう二枚目の書を、思い浮かべた。

 彼が引く線の下にも、名がある。

 その名の一つ一つに、家があり、朝があり、汁の椀を運ぶ妹がいた。

 彼は、線を引きつづけた。

 引かねば、この席にいられない。この席にいなければ、何も残せない。

 一度だけ、試したことがある。

 同じ役所の、話の分かりそうな同輩に、雑談のふりをして話した。西の海の彼方に、王も倉も持たぬ民がいるという話を聞いたことがある、と。

 同輩は、しばらくきょとんとしていた。

 それから笑った。

「それは、面白い」

 アヤは、少し息を吸った。

 同輩は、続けた。

「だが、そのような話を、あまり口にせぬがよい」笑いながら、目は笑っていなかった。「王のない国があると申すのは、王が要らぬと申すのと、紙一重ゆえ」

 アヤは、笑って受け流した。

 その夜、彼は宿舎で、膝を抱えていた。

 書いても、無駄だった。

 真実の姿のまま出せば、狂人として斬られるか、反逆者として二度目の死を賜る。この国の正史とは、勝った者が、都合の悪いものを消すために編むものだ。

 海には国家を持たぬ自由な民がいた。彼らは高度な網を持っていた。

 そんな一行が、正史に載る日は、来ない。

 ――ならば。

 アヤは、顔を上げた。

 真実を、真実のまま残すことができないなら。

 神話の衣を着せてやればよい。

 彼は、四年前に、すでに一度それをやっていた。

 朝議の場で、りうきう、という耳慣れぬ音に、龍宮という字を当てた。竜の宮。海の彼方の、竜の住まう宮。

 大連は、鼻で笑った。童の話ではないか、と。

 まさに、それでよかったのだ。

 その日から、アヤの本当の仕事が始まった。

 写しの合間に、彼はもう一つの作業を進めた。

 地方から諸国の風土や地名の由来を集めた書が上がってくるたび、彼はその余白に、あるいは写しの本文に、そうと分からぬ形で、記憶を紛れこませていった。

 背に亀甲を負った海人の話は、亀に乗った者の伝えに。

 朱を詰めて封じた箱の真実は、開けてはならぬ玉手箱の禁忌に。

 暦のない海で過ぎた歳月は、帰ってみれば知る人もなく、たちまち老いたという、時の魔法に。

 王も倉も持たぬ海の彼方の国は、龍宮という、夢のような名に。

 彼は、真実を、おとぎ話に翻訳した。

 おとぎ話は、正史のように焼かれない。

 おとぎ話は、税を取らず、誰も脅かさず、無害な顔をしている。

 だからこそ、母から子へ、子から孫へ、千年でも語り継がれる。正史が幾度書き換えられ、王朝が幾度滅んでも、龍宮へ行った男の話だけは、なぜか消えずに残るように。

 彼はもう一つ、細い毒を仕込んだ。

 地方の飢饉の報せを写すたびに、彼は帳簿の余白に、慎ましやかな進言を書き添えた。

 ――富を一つの大倉に集めれば、一度の火で、一つの郡がすべてを失う。備えを幾つもの小さな倉に分け、村と村で融通しあわせてはどうか。一つが焼けても、隣が支えられるように。

 それは、あの礁湖の朝、砕けた舟の男に食い物を渡す者たちを見て、彼自身が木簡に刻んだことの、翻訳だった。

 彼一人の進言など、大連の目に留まりはしない。

 だが、余白に書かれた小さな案は、写しから写しへ、水が滲むように、地方の下級官人のあいだへ広がっていった。

 なぜこんな辺境の郡に、これほど早く、備えを分けて融通しあう仕組みが芽生えたのか。

 のちの世の者が首をひねる、小さな謎として。

 歳月が過ぎた。

 アヤは、老いた。

 彼の潜伏が露見することは、ついになかった。あまりに目立たなかったからである。

 ある年の春、彼は写字生たちの部屋で、一人の若い舎人が声をかけられているのを見た。

「そなた、どこの生まれか」

 若者は、はきはきと答えた。都の言葉である。訛りはなかった。

 だが、アヤの耳は、その答えの直前の、ほんの短い間を捉えた。

 言い直したのだ。

 一度、別の音で出かかったものを、飲みこんでから、都の言葉で答えた。

 アヤは、その日から、若者を目で追った。

 そして、彼は自分の職を、初めて自分のために使った。

 地方から届いた戸籍の写しを、彼は幾晩もかけて遡った。

 見つけたのは、四国南西の郡の、古い綴りだった。

 波多。

 その年の記録は、荒れていた。多くの名が削られ、多くの家が消えていた。そして数人の子が、都へ舎人として差し出された旨が、事務的に記されていた。

 その一人の名の下に、若者の名が、後の手で書き添えられていた。

 アヤは、木簡を膝に置いたまま、長いこと動かなかった。

 スクモが焼かれた、その年である。

 この若者は、あの日の、生き残りだった。

 ――私が、書いたものではないか。

 彼は、そう思った。

 彼と浦嶋が海の上で贈与の意味に驚いていたころ、この子は六つか七つで、燃える湊から連れ出され、山を越えて、都へ運ばれてきたのだ。

 アヤは、その夜、決めた。

 彼は、若者に文字を教えはじめた。

 最初は、ただの手習いだった。若者は筋がよく、覚えが早かった。丁寧すぎるほど丁寧で、誰にでも頭を下げた。誰にも隙を見せまいとする者の、疲れる作法だった。

 アヤは、何年もかけて、少しずつ教えた。

 そして、老いて、床から起きられなくなった冬に、初めて、正史には載らぬ話をした。

 幾晩もかかった。

 海の彼方に、王も倉も持たぬ民がいたこと。

 彼らが富を留めず、贈り合い、争いを避け、恐れなく生きていたこと。

 ヤマトが、その一切を武で踏みにじり、記録から消し去ったこと。

 若者は、黙って聞いていた。

「なぜ、その話を、私に」

 最後の晩、若者はそう訊いた。

 アヤは、しばらく天井を見ていた。

「いつか、そなたが、どこかを治める者になったとき」

 彼は言った。

「定規で線を引く前に、一度だけ、海の理を思い出してほしいのだ」

「海の理」

「――線の外にも、人が生きていることを」

 その若者が、のちにどの地へ赴任することになるのか。

 それを、アヤは知らずに死んだ。

 彼は名も無い写字生として老い、名も無いまま息を引き取った。

 彼の墓がどこにあるかを、知る者はいない。

二十四 ナギ

 六つの年の秋のことを、彼はほとんど覚えていない。

 覚えているのは、二つだけだった。

 一つは、煙の匂い。

 もう一つは、母の腕から引き剥がされたとき、母が自分の名を呼んだ、その呼び方である。

 ナギ、と。

 彼の父は、波多の在地の首長だった。ヤマトの軍が来たとき、父は戦わなかった。戦えば、村ごと消されると分かっていたからである。

 従う代わりに、子を差し出せと言われた。

 差し出された子は、舎人と呼ばれた。大王の側近くに仕える、名誉の職である。

 誰もが、それが人質の別の呼び方であることを知っていた。

 山を越える道は、長かった。

 彼は、大人たちに背負われて、四国の背骨を越えた。峠にはどこも、石が積んであった。同行の里の者が、そこへ来ると干した魚を置いて手を合わせた。境の神に断りを入れるのだと教わった。

 都に着いてから、彼は二度と、その作法をしなかった。

 都で、彼は新しい名をもらった。

 豊足(トヨタリ)。

 豊かに足りる、という字だという。よい名だと言われた。

 彼は礼を言って、それから、ナギという名を、口に出さなくなった。

 舎人の勤めは、辛くはなかった。

 むしろ、居心地が悪いほど丁重に扱われた。彼は蛮地の首長の子であり、同時に大王に仕える者だった。誰も彼を殴らなかったが、誰も彼を仲間に入れなかった。

 彼は、覚えるのが早かった。

 都の言葉を、二年で完全に身につけた。訛りを消すのに、三年かかった。作法を身につけ、字を習い、詩を諳んじた。

 十五の年の朝、彼は自分が夢を見ていたことに気づいた。

 夢の中で、彼は誰かと話していた。

 都の言葉で。

 彼は寝床の上に起き上がり、しばらく動けなかった。

 もう、故郷の言葉で夢を見ないのだ。

 その日、彼は初めて、自分が何を差し出したのかを理解した。

 文字を教えてくれたのは、年老いた写字生だった。

 名は、名乗らなかった。ただの下役だと言った。

 その老人は、豊足がどこの生まれかを、ついに一度も訊かなかった。

 豊足は、それが不思議で、そして有難かった。

 三十を過ぎた年、彼は幡多を治めるよう命じられた。

 その沙汰を聞いたとき、彼は自分の顔から血が引くのが分かった。

 差配した上官は、善意で言った。

「そなたなら、あの土地の者の心が分かろう」

 豊足は、平伏して受けた。

 任官の日、彼は大王より一振りの剣を賜った。

 鞘を払うと、白銀の刀身に、金と銅で象嵌された北斗七星の文様が浮かんだ。

 大陸の教えを引く、破邪の剣であるという。

 授ける役の者は、彼にこう説いた。

「北の空に、動かぬ一点がある。北斗はそれを指し示す。万物は動くが、中心のみは動かぬ。大王もまた、かくのごとし」

 豊足は、頭を垂れた。

「この剣をもって、中心に叛く者を斬れ」

 彼は、両手で受け取った。

 手が、震えていなかったことを、彼は後年まで誇りに思った。

 幡多に着いた日、浜に人が集まっていた。

 誰も、歓迎していなかった。

 彼らは黙って、都の絹をまとった新しい国造を見ていた。

 夜、宿舎で、都から連れてきた従者が言った。

「無礼な者どもにございます。国造様の御着任に、頭一つ下げぬとは」

「頭を下げる理由が、ないのだ」豊足は言った。

「――は」

「あの者らにとって、私は、あの日の続きだ」

 従者は、意味が分からぬという顔をした。

 豊足は、それ以上説明しなかった。

 赴任してひと月ほどのころ、彼は郡内の村を回った。

 ある村で、道端に座っていた老婆が、彼を見上げた。

 目が悪いらしく、しばらく顔を近づけて見ていた。

 そして、言った。

「……ナギ坊か」

 豊足は、動けなくなった。

 従者たちが、何ごとかと振り返った。

 老婆は、皺だらけの手を伸ばした。

「大きゅうなって。……よう、生きとった」

 豊足は、口を開いた。

 だが、声が出なかった。

 彼は結局、何も言わずに頭を下げ、その場を離れた。

 夜、彼は一人で宿舎の外に出て、海のほうを向いて立っていた。

 自分の名を呼ばれて、返事のしかたが分からなかった。

 豊足と名乗れば、あの老婆を否むことになる。ナギと答えれば、任官の場でその名を捨てた自分を否むことになる。

 彼は、どちらも選べなかった。

 その年の秋、稲の入りが悪かった。

 特に、山際の三つの村が、ひどかった。

 豊足は帳簿を睨み、それから、免除の裁定を書いた。

「なりませぬ」都からの従者が、青くなった。「定めの分は、必ず納めさせよとの御達しにございます」

「納められぬ」

「納められぬなら、人を出させ、あるいは子を――」

「それをやれば、村が減る」豊足は言った。「村が減れば、来年はもっと納められぬ。二年で三つの村が消える。私は、消えた村を数える役ではない」

「都へ、報せが参りますぞ」

「では、報せよ」

 従者は、何か言いかけて、やめた。

 その場に、地元から召し抱えた老いた下役がいた。

 豊足は、書き終えた木簡を、その男に渡した。

 そして、礼を言おうとした。

 都の言葉ではなく、この土地の言い方で。

 彼は、幼いころに聞いた言い回しを思い出しながら、口に出した。

 途中で、言葉が転んだ。

 語尾を、間違えたのである。

 従者たちが、気まずそうに目を伏せた。

 だが、老いた下役は、木簡を受け取ったまま、しばらく豊足の顔を見ていた。

 そして、初めて、笑った。

「……だいぶ、鈍っておられますな」

「鈍った」

「もう一度、言うてみなされ」

 豊足は、言い直した。

 やはり、少し違っていた。

 老人は、直してやった。豊足が繰り返した。老人が頷いた。

 その夜から、宿舎の空気が、わずかに変わった。

 冬になって、豊足は妙な噂を聞いた。

 郡の西の外れ、断崖と原生林の交わるあたりに、白髪の翁が一人で住んでいるという。

 海の幻を見つづける、頭のおかしな年寄りだと村人は言った。人に害はないが、王も倉もない国の話をしては、聞いた者を薄気味悪がらせるのだと。

 豊足は、湯呑みを置いた。

「――何と申した」

「へえ。王も、倉もない国が、海の向こうにあったと」

 豊足の背に、冷たいものが走った。

 彼は、その夜、眠れなかった。

 都で、床に伏せた老人が、幾晩もかけて語ったことを思い出していた。

 海の彼方に、王も倉も持たぬ民がいた。

「兵を出して、追い払わせましょう」翌朝、従者が言った。「化外の狂人が郡内におるなど、外聞が悪うございます」

 豊足は、立ち上がった。

「行く」

「――は」

「私が、行く」

「なりませぬ。あのような山道、輿も通りませぬ」

「歩く」

 従者は、絶句した。

「話を聞きに行くのに」豊足は言った。「なぜ、兵が要る」

二十五 沈黙の岸

 その森に、白髪の老人が住みついてから、どれほどの歳月が流れたか。

 大和では大王の代替わりが幾度かあり、戸籍はいよいよ精緻になり、条里の網は列島の隅々へ張りめぐらされていた。

 正史には、四国南西を平定し、南の夷狄との繋がりを断った輝かしい武功が記されていた。

 そのどこを探しても、浦嶋という官人の名はない。

 彼は公には、海人と通じた咎で一族もろとも誅された、忌むべき反逆者として、闇に葬られていた。

 浦嶋の住まいは、倒木と椰子の葉を組んだ簡素な小屋だった。

 高倉はない。壁もない。

 土は耕さなかった。森の果実を採り、凪いだ日には磯へ下りて小魚や貝を拾い、命を繋いだ。

 かつて測量儀を片時も手放さなかった若い官人の面影は、微塵も残っていなかった。深い皺、脱色した白髪と髭、獣皮と樹皮の衣。

 だが、その澄んだ瞳の奥には、狂気でも絶望でもなく、広大な海を知り尽くした者だけが持つ、静かな凪が広がっていた。

 彼の暮らしには、ヤマトの民が絶えず抱えているものが、なかった。

 恐れである。

 明日の五穀を蓄えていないのに、心は穏やかだった。蓄えねば、奪われる恐れはない。自然を支配せず、その一部として循環に組みこまれれば、森と海は必ず、必要な分だけを与えた。

 時おり、この森に迷いこむ者があった。

 重い年貢に耐えかねて逃げた部民や、薪を求めて深入りした村人である。

 彼らは口を揃えて言った。

「なぜ、こんなところにおる。里へ下りて、大王の田を耕せば、身分も得られ、飢えずに済むものを」

「私は、何も持たぬが、飢えてはおらぬ」浦嶋は穏やかに返した。「そなたは、田を耕し、倉を満たしているのに、なぜそのように怯えた目をしている」

 ある村人は、麻布を握りしめて言った。

「怯えもする。嵐で稲の入りが悪い年も、役人は決めた分を納めよと鞭を振るう。納められねば、妻子が連れて行かれる。……生きるとは、奪われる恐怖に耐えつづけることだ」

「奪われるものがあるから、恐怖が生まれるのだ」

 浦嶋は、夜空を見あげた。

「かつて私は、遥か南の果てまで、幾千の島を巡る海を旅した。そこには、王も領土も持たぬ民が、無数にいた。彼らは出会う者と富を分けあい、一つの場所に留めなかった。定規で線を引かず、網の目のように結びあう世界が、確かにあったのだ」

「王がいない? 富を分けあう?」村人は、ぽかんと口を開けた。「そんな国が成り立つはずがねえ。翁、あんた、長く一人でいすぎて、頭がおかしくなったんじゃないか」

「……そうかもしれんな」

 浦嶋は、自嘲するでもなく、静かに微笑んだ。

 やがて周辺の村々では、西の森の奥に、海の幻を見つづける頭のおかしな白髪の老人が住み着いている、という噂が囁かれるようになった。

 浦嶋は、狂人と呼ばれることを厭わなかった。

 むしろ、それは心地よい隠れ蓑だった。

 歴史から名を消され、狂人として切り捨てられることで、彼はヤマトという仕組みから、完全に透明な存在になれたのである。

 小屋の奥には、獣皮に何重にも包まれた細長い筒が、静かに安置されていた。

 環頭大刀。

 彼はそれを、決して抜こうとはしなかった。

 留めるな、回せ、と言われた剣を、こうして手元に置きつづけているのは、いつか託すべき相手が現れるまでの、仮の宿りのつもりだった。

 その相手が現れぬまま、歳月が過ぎていた。

 浦嶋は、時おり、そのことを思って落ち着かなくなった。

 自分がここで死ねば、この剣は、獣皮に包まれたまま朽ちる。それは、あの海の理に、最後に背くことになる。

 ――老年のある日。

 磯へ下りた浦嶋は、波打ち際に、見慣れぬ漂着物を見つけた。

 椰子の実だった。

 だが、ただの実ではない。硬い殻に、幾筋もの浅い刻みが、規則正しく彫りこまれていた。

 浦嶋の指が、震えた。

 彼は殻を撫で、刻みを追った。

 最初は、読めなかった。

 だが、しばらく撫でているうちに、指が思い出した。

 これは、あの短い形だ。

 誰が、誰に、何を、いつ。四つを、決まった順で、決まった調子に乗せる。あの節。

 ハヤが、削って、削って、誰にでも渡せるようにしたもの。

 浦嶋は、砂の上に膝をついた。

 ――網ハ、沈マズ。

 ――声ハ、繋ガレタ。

 ――南ノ海ヨリ。

 署名は、なかった。

 だが、この形で刻まれているということが、そのまま署名だった。

 この形が届いたということは、この形が、南の海に広まったということだ。

 声で網を編もうとした男は、その網を、沈めなかったのである。

 浦嶋は、その椰子の殻を胸に抱いて、しばらく波打ち際に座っていた。

 それから小屋へ戻り、環頭大刀の隣に、大切に置いた。

二十六 星を捧ぐ

 その年の春は、暖かかった。

 森の道を、一行が登ってきた。

 先頭を行くのは、絹の衣をまとった三十代半ばの男である。腰に、拵えの立派な太刀を佩いていた。

 後ろに従う者たちは、明らかに不満げだった。

「国造様。どうか、輿へお戻りを」

「輿が通らぬと申したのは、そなたであろう」

「なれば、せめて我らが先に――」

 男は、答えずに歩いた。

 道は悪かった。

 彼は、幾度か足を滑らせた。都の履物は、こういう土のために作られていない。

 三度目に膝をついたとき、地元から召し抱えた老いた下役が、無言で手を差し出した。

 男は、その手を取った。

 そして、この土地の言い方で、礼を言った。

 今度は、間違えなかった。

 老人が、少しだけ笑った。

 小屋の前に、白髪の老人が座っていた。

 膝の上で何かを削っていたが、人の気配に顔を上げた。

「そなたが、西の森に住まうという、古き翁か」

 浦嶋は、その若者を、静かに観察した。

 豪奢な絹。腰の太刀。従者。すべてが、都の官人のものである。

 だが、その顔には、他者を武でねじ伏せる傲慢がなかった。

 あるのは、重い務めを負った者の疲れと、そして、何かを渇望する目だった。

「私は、此度、大王より幡多の地を治めるよう命じられた、新しい国造である」若者は名乗った。「豊足と申す」

「そのお方が、なぜ、このような所へ」

「話を、聞きに参った」

 浦嶋は、しばらく黙っていた。

 それから、傍らの平たい石を指した。

「――では、座られよ」

 二人は、しばらく他愛のない話をした。

 豊足は、郡の実情を訊いた。どの谷に水が足りぬか。どの浜が痩せたか。浦嶋は、知る限りを答えた。

 やがて、豊足が言った。

「翁よ。そなたは、海の向こうに、王も倉も持たぬ国があったと申しているそうな」

「申しておる」

「それは」豊足の声が、わずかに掠れた。「まことか」

「まことだ」

 浦嶋は、南の海を指した。

「そなたは、あの海の向こうに、何があると思う」

「……夷狄の荒れ地か、あるいは何もない、死の世界か」

「違う」浦嶋は言った。「あそこには、道がある」

 豊足は、身じろぎもしなかった。

「土に線を引いて国を切り分けるヤマトの定規では、決して測れぬ道だ」浦嶋は続けた。「かつてあの波の上には、王を持たず、富を倉に蓄えず、互いの信のみで幾千の島を結ぶ、巨大な網の目があった。富を留めず、常に海を巡らせる。持たぬからこそ奪い合いが起きず、壁がないからこそ、すべての文化が交わりあう」

 豊足の指が、膝の上で震えていた。

 それは、狂人の世迷い言と聞き流すには、あまりに具体的だった。谷の名を知り、潮の名を知り、風の名を知る者の話し方だった。

「翁は」豊足は言った。「――行かれたのか」

「行った」

「どこまで」

「北の星が、沈むところまで」

 豊足の顔が、上がった。

「……何と、申された」

「北の星だ」浦嶋は言った。「南へ下るほど、低くなる。指四本の高さが、三本になり、二本になる。さらに下れば、水平線に触れる。その先へ行けば、沈む」

 豊足は、立ち上がりかけて、また座った。

 彼の手が、無意識のうちに、腰の太刀の柄を握っていた。

「……そのような、はずが」

「疑うか」

「疑うのではない」豊足は言った。「私は、そう教わらなかった」

「何と教わった」

 豊足は、しばらく答えなかった。

 やがて、彼は太刀を鞘ごと外し、両手で膝の上に置いた。

「この剣を、任官の日に賜りました」

 彼は、鞘を払った。

 春の陽が、白銀の刀身をはじいた。刃に、金と銅で象嵌された北斗の七つの星が、静かに浮かんだ。

 浦嶋は、それを見た。

 七星剣である。都の中枢でしか目にすることのない、破邪の宝剣。

「授ける役の者は、こう説きました」豊足は、刀身を見つめたまま言った。「北の空に、動かぬ一点がある。北斗はそれを指し示す。万物は動くが、中心のみは動かぬ。大王もまた、かくのごとし、と」

 彼は、顔を上げた。

「そして――この剣をもって、中心に叛く者を斬れ、と」

 浦嶋は、目を閉じた。

 しばらく、風の音だけがあった。

 やがて彼は立ち上がり、小屋の中へ入っていった。

 戻ってきた彼の手には、古びた竹の竿と、麻の糸と、鉛の重りがあった。

「何でございますか、それは」

「定規だ」浦嶋は言った。「土地を測り、田を割り、民を升目に配するために、私が使っていたものだ」

 彼は、竿を膝に置いた。

「これで、私は星を測った」

 豊足は、その粗末な道具を見つめた。

「四年、海にいた。南へ下るあいだ、毎晩、これで北の星の高さを測り、控えさせた」浦嶋は言った。「十日で分かった。減っておった。二十日で、疑いようがなくなった」

「……それは、測り違いでは」

「同じことを、そなたも申すか」浦嶋は、少し笑った。「私の書記も、そう言った」

 彼は、竿の先を、北の空の方角へ向けた。

「星は、動いておらぬ。動いているのは、こちらだ。南へ行くほど、あの一点は水平線に近づく。……都では、動かぬ。都では、な」

 豊足は、刀身の上の七つの星を見下ろしていた。

「では」彼の声は、ほとんど聞き取れなかった。「中心は」

「そこから見れば、そこにある」浦嶋は言った。「それだけのことだ」

 豊足は、長いこと、動かなかった。

 やがて、彼は妙なことを訊いた。

「翁よ。……海の者は、この星を、何と見ておりましたか」

「道しるべだ」

「道」

「指の幅で測る。四本なら祖父の島、二本半ならこの島、と」浦嶋は言った。「下がるから、どこまで来たか分かる。下がらなかったら、迷子になる」

 彼は、豊足を見た。

「同じ星を見上げて、都は玉座を見た。海は、道を見た」

 豊足の目から、涙が落ちた。

 彼は、それを拭おうともしなかった。

 やがて、彼は言った。

「翁よ。……奇妙なことを申しあげても、よろしいか」

「どうぞ」

「私は、都で、一人の老いた史部に育てられました」

 浦嶋の背が、わずかに動いた。

「名も無い、写字生でございました。文字を教えていただきました。……その者が、亡くなる間際に、私に語ったのです。海の彼方に、王も倉も持たぬ民がいた、と」

 浦嶋は、動かなかった。

「線を引く前に、一度だけ、海の理を思い出せ、と」豊足は続けた。「……線の外にも、人が生きている、と」

 浦嶋の目から、一筋の涙が、音もなく落ちた。

 アヤ。

 都の底で、文字の毒を、あるいは薬を、一滴ずつ染みこませつづけた男。

 その一滴は、長い時をかけて滲み、いま、この若い為政者の魂の芯にまで、確かに達していた。

「――その史部の名は」浦嶋は、震える声で問うた。

「申しませぬでした」豊足は首を振った。「ただ、こう仰いました。自分は、とうに死んだ人間だ、と」

 浦嶋は、天を仰いだ。

「……そうか」

 彼は、しばらくそのままでいた。

「そうか。あやつは、やり遂げたのだな」

 浦嶋は立ち上がり、小屋の奥から、獣皮に包まれた細長い筒を持ってきた。

「それは」

「私があの海を回遊した果てに、ただ一つ持ち帰ったものだ」

 豊足が獣皮を解くと、鞘を払った刀身が春の陽をはじき、柄頭で二匹の竜が、玉をくわえたまま身をよじった。

 双竜捧珠の環頭大刀であった。

「この剣には、人を斬った匂いがない」豊足は、震える手で刃を陽に透かした。「竜が、玉を握って離さぬ。……これほどの宝を持つ民が、決して奪うためには、それを使わなかったというのか」

「その剣は、南の海より、幾つもの手を渡って、私のところへ流れ着いた」浦嶋は言った。「だが、これはそなたに授けるのではない。託すのだ」

「託す」

「よいか、国造殿」浦嶋は、初めて強い声を出した。「この剣を、社の奥に封じてはならぬ。倉に鎖してもならぬ。竜は玉を握るが、剣そのものは、一所に留まらぬことで生きてきた。時が満ちれば、次の手へ渡せ。留めれば、それは海の理を裏切ることになる」

 豊足は、両手で剣を捧げ持ったまま、深く頭を下げた。

 そして、顔を上げると、こう言った。

「翁よ。里へ下りてくだされ」

「ならぬ」

「貴方ほどの見識を辺境に捨て置くなど、できませぬ。私が都へ上奏し、国師として――」

「ならぬ」浦嶋は、絶対の拒絶で首を振った。「私はとうの昔に、ヤマトの歴史で死んだ人間だ。戸籍を持たぬ者が、ふたたび箱の中へ戻ることはない」

 彼は、静かに続けた。

「誠実なる若者よ。どうか、この名も無い老人の残りの命を、この波音とともに、静かに終わらせてはくれまいか」

 豊足は、それ以上言わなかった。

 言うことが、この老人の抱える巨大なものを冒涜することだと、悟ったからである。

「……承知いたしました」

 彼は、環頭大刀を胸に抱いた。

「この剣は、封じませぬ。翁の言いつけどおり、時が満ちれば、次の手へ渡しましょう」

 立ち去りかけて、豊足は、足を止めた。

 彼は振り返り、しばらく浦嶋を見ていた。

 そして、言った。

「翁よ。……もう一つ、申しあげてもよろしいか」

「どうぞ」

「私は、豊足と申します」彼は言った。「都で頂いた名にございます」

「存じておる」

「――その前は」

 彼の喉が、動いた。

「ナギと、申しました」

 浦嶋は、その若者を見た。

 そして、深く頷いた。

「ナギ殿」

 豊足は、その場に膝をついた。

 肩が、震えていた。

 彼は、しばらく顔を上げられなかった。

 自分の名を呼ばれて、頷き返すことができたのは、実に三十年ぶりのことだった。

 その年の初夏に、浦嶋は死んだ。

 豊足がふたたび森を訪れたとき、老人は小屋の外の岩座に腰を下ろし、海のほうを向いたまま、動かなくなっていた。

 顔は、穏やかだった。

 傍らには、刻みの入った椰子の殻と、古びた竹の竿と、鉛の重りが置いてあった。

 豊足は、その場に長いことしゃがみこんでいた。

 彼はその夏、波を見下ろす高台に、小さな社を建てた。

 名も無い翁を祀るためである。

 誰にも、理由を説明しなかった。

 そして、御神体として捧げたのは、彼自身が任官の証として都より賜った、七星剣であった。

 翁は、星を頼りに夜の海を渡った人である。

 せめてその魂が、二度と迷わぬように、と。

 従者が、慌てて訊いた。

「国造様、あの御剣は」

「無くした」

「――は」

「海へ、落とした」豊足は言った。「探したが、見つからぬ」

 従者は、蒼白になった。大王より賜った剣を失うことが何を意味するか、彼にも分かっていた。

「なぜ、そのような」

「よいのだ」

 豊足は、それ以上何も言わなかった。

 彼は、生涯、その嘘を通した。

 子には、社を守れとだけ伝えた。理由は語らなかった。ただ、この社のことを都へ届け出てはならぬこと、御神体を人に見せてはならぬこと、そしてこの二つを、代々守り伝えることだけを、厳しく言い含めた。

 なぜなら、大王より賜った剣を、大王が反逆者として抹殺した男の霊に手向けたということが、もし知られたなら。

 それは、彼一人の首では済まなかったからである。

 だから、記録は、作られなかった。

 由緒を記した文書も、伝世の経緯を記した帳面も、この社には、初めから存在しなかった。

 ただ、剣だけが、残った。

 浦嶋が託した環頭大刀は、豊足の言いつけどおり、社に封じられることなく、手から手へと渡されつづけた。

 いつしか、誰の記録にも残らぬまま、それは歴史の潮の底へ消えていった。

 留めれば腐り、巡れば生きる。

 竜の剣は、最後まで海の理に従い、静かに姿を消したのである。

 海に、声の網を残した男がいた。

 都に、文字の毒を残した男がいた。

 そして、この岸に、沈黙を選んだ男がいた。

 三人は、二度と会うことはなかった。

 だが、三本の細い糸は、剣となり、物語となり、一人の若い為政者の魂となって、確かに、この列島のどこかで結ばれた。



終 ―― ふたたび、土佐

 私が郷土史の冊子と首っ引きで、あの一行の意味を追いはじめてから、半年が過ぎた。

 北斗七星の象嵌を持つ鉄剣が、なぜ土佐の最南端の社にあるのか。学界に問い合わせても、答えは返らなかった。

 伝世の経緯を記した文書は、ない。

 由緒書きも、寄進帳も、社伝の写しさえも。

 あれほどのものを伝えてきた社に、なぜ一枚の紙も残っていないのか。私は最初、失われたのだと考えていた。火事か、水害か、あるいは明治の混乱でか。

 だが、調べるほどに、その線は薄くなった。この社には、失われた痕跡すら、ない。

 初めから、作られなかったのではないか。

 そう考えはじめてから、私はこの謎の性質が変わったことに気づいた。

 文書がないことが、謎なのではない。

 文書を作れなかった事情があったとすれば、その事情こそが、答えなのだ。

 私は、この地の地名を、片端から洗ってみた。

 すると、奇妙なことに気づいた。

 この周辺には、海にまつわる古い地名が、不自然なほど濃く残っている。竜宮を思わせる小字。亀を祀る岬。開かずの箱の伝説を持つ入り江。そして黒潮が列島に最も近づくこの海は、いまも古い漁師のあいだで、ただの漁場ではない、何かべつの記憶を宿した海として語られていた。

 考古学は、モノを扱う学問だ。文字の残らなかった時代について、私たちが語れることには、厳しい限界がある。

 だが、断片は確かにある。

 黒潮に乗って、南方の海の民が列島へ北上したこと。台湾に発したという卓越した航海民が、片舷に浮きを張った舟で、途方もない広さの海を島づたいに渡っていったこと。古墳の石室に、辰砂から採った水銀朱が敷かれ、それが防腐と、魂を鎮めるための呪術であったこと。しかもその辰砂は、この四国の阿波の山中に、国内で唯一と言われる採掘の跡を残していること。半島の伽耶から、鉄の延べ板が海を渡って倭へ流れこんでいたこと。南の島の貝が、はるばる九州まで運ばれ、首長の腕輪になっていたこと。海の彼方に神の国を見る心が、常世となり、ニライカナイとなって、いまも南の島に息づいていること。

 どれも、それぞれに分かっている。

 だが、その断片を繋ぐ糸――そこに生きた人間の名も、声も、選択も、正史はついに記さなかった。

 そして、あの日高村の社に、掘り出されたのでもなく、ただ手渡されつづけてきた一口の宝剣が、現に伝世している。辺境が都の宝を密かに抱えつづけるということが、この土地では、確かに起こったのだ。

 ひとつ、忘れられない話がある。

 あの最南端の社の宮司が、別れ際に付け加えた、竜を彫った剣の伝承だ。翁が国造に遺したが、留めてはならぬと言い残したために、いつしか行方知れずになったという。年寄りの寝言、と老人は笑った。

 だが私は、それを聞いたとき、背筋が冷えた。

 日高村の御神体――金銅荘環頭大刀の柄には、二匹の竜が、玉をくわえて透かし彫りにされている。

 竜の、剣。

 留めることを拒み、手から手へ渡って消えたという剣。

 そして、掘り出されもせず、ただ社に伝えられてきた竜の剣。

 この二つが、まったくの無縁だと、誰が言い切れるだろう。

 もう一つ、私の頭を離れないものがある。

 あの宮司が漏らした、古い発音だ。

 リュウグウではなく、リュウキュウ。

 この谷の年寄りは、みなそう言った、と彼は言った。

 私は、それをずっと、方言の訛りだと思っていた。

 だが、順序が逆だとしたら、どうだろう。

 もし、リュウキュウという音のほうが先にあったのだとしたら。

 誰かがその音を聞き、書き留める必要に迫られて、音が近く、意味も通る二つの字を当てたのだとしたら。

 龍の、宮。

 そして後の世、その字を見た人々が、原義を知らぬまま、日本語として自然な読み方で読んだのだとしたら。

 神宮を、じんぐうと読むように。

 ――リュウキュウが、リュウグウになる。

 その瞬間、それは歴史であることをやめ、おとぎ話になる。

 海の彼方の実在の民の名が、竜の住まう夢の宮の名に変わる。

 私は、この思いつきを、学会で口にするつもりはない。証明する手立てが、何一つないからだ。

 ただ、一つだけ、私を捉えて離さない事実がある。

 大陸の史書に、流求という名が現れる。台湾を指すのか、沖縄を指すのか、あるいは両方を含む島々の総称なのか。千年以上、決着していない。時代によって、その名が指す場所が動いているようにさえ見える。

 地名が、動く。

 なぜか。

 ――もし、それが初めから地名ではなかったのだとしたら。

 台湾から沖縄までを季節ごとに巡る、移動する何かの名だったのだとしたら。

 大陸の記録者たちは、動くものを、地図の一点に釘で留めようとしたことになる。だから世紀によって、答えが違った。

 証明はできない。学者として、私はそれを認める。これはあくまで、一口の剣と、幾つかの地名と、一つの古い発音と、一つの昔話から、私が勝手に紡いだ物語にすぎない。

 だが、あの断崖に立ち、黒潮の渦巻く沖を見つめていると、私にはどうしても、こう思えてならないのだ。

 かつてこの海に、王も、倉も、境界も持たぬまま、それでも豊かに、恐れなく生きた者たちがいた。ヤマトはその知の一切を武で踏みにじり、記録から消し去った。

 だが、消されたものは、完全には消えなかった。

 それは、亀に、玉手箱に、龍宮に、そして老いる漁師の物語に、姿を変えて、いまも私たちの唇に残っている。

 浦島太郎とは、敗れた海の記憶が、私たちに送りつづけている、最後の便りなのかもしれない。

 ――網は、沈まなかった。

 春の風が、四万十の川口を渡っていく。

 私は社の石段を、ゆっくりと下りた。

(了)

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