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地球側並行編1
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※AIに対し、読みやすくなるように、セリフの記述方法や改行を多用するよう指示しました。
第一章 工場の朝は、月より先に来る
月からの通信が入った翌朝も、竹守製作所の朝はいつもどおりに始まった。
始まった、というのは半分だけ本当だ。
戸は同じように開いた。 床も同じように冷えていた。 古い旋盤も、古いフライスも、油の匂いも、前の日と変わらずそこにあった。
けれど、それらを見ている人間のほうが、もう昨日までと同じではなかった。
啓介は工場の真ん中で、腕を組んだまま黙っていた。
作業台の上には、いくつもの紙が広がっている。 かぐやが残した数式。 月から届いた信号列の書き写し。 落下の夜に回収した銀白色の薄膜片。 そこへ、啓介の癖のある字で寸法と矢印がびっしり書き込まれていた。
澄江は、奥の流しで湯を沸かしながら、その背中を見ていた。
「啓介さん」
啓介は振り向かない。
「聞いてる」
「朝ごはん、食べた?」
「まだ」
「じゃあ、先に食べて」
「いま、ここを離れるとわからなくなる」
「離れなくても食べられるように、おにぎりにしたの」
澄江は、作業台の端へ皿を置いた。
啓介はようやく視線を落とし、少しだけ眉をゆるめた。 皿の上には、小さめの塩むすびが三つ並んでいた。
「三つある」
「帝人さんのぶんも」
「来るのか」
「来るでしょ。あの人、たぶん昨日から寝てないわよ」
啓介は鼻を鳴らした。
「金持ちは眠れなくなってからが仕事だな」
「意地の悪いこと言わないの」
そこへ、ちょうど表の引き戸が開いた。
「おはようございます」
帝人の声だった。
黒いコートの襟を立て、目の下にうっすら隈をつくっている。 いかにも眠っていない顔だが、それでも姿勢だけは崩れていないあたり、この男はそういうふうに育てられたのだろうと澄江は思う。
「おはよう」
澄江が言った。
「おにぎりあるわよ」
「ありがとうございます」
帝人は一礼してから、作業台の紙へ目を落とした。
「もう始めていたんですね」
啓介が答える。
「月は待たんからな」
「こちらも待ってくれません」
帝人は端末を置いた。
「夜明け前から二件、政府側の照会が来ています。ひとつは未確認高高度電磁撹乱について。もうひとつは、地方の民間施設から軌道由来の異常信号が出ていないかという問い合わせです」
啓介は顔をしかめた。
「来るのが早いな」
「父が動いた可能性があります」
澄江が、鍋の蓋を閉める手を止めた。
「お父さんって、あの会長さん?」
「ええ」
「息子の足を引っ張るの?」
帝人は少しだけ考えてから答えた。
「引っ張る、というより、こちらが何を掴んだか確認したいんだと思います」
「同じようなものでしょ」
澄江はあっさり言った。
帝人は否定しなかった。
啓介は紙束をめくり、銀白色の薄膜片を指でつまみ上げた。
「確認したいなら、好きにさせとけ」
「ずいぶん落ち着いていますね」
「慌てたって寸法は変わらん」
啓介は薄膜片を光に透かした。
「問題は、こいつが何の材料かじゃない」
「何ですか」
「どう削るかだ」
帝人は黙った。
啓介は薄膜片を作業台へ戻す。
「月へ行く準備ってのは、ロケットを作ることじゃない」
「では」
「向こうが寄越してきてるものを、こっちの手で扱える形にすることだ。信号も、材質も、図面も、全部そうだ」
澄江が言う。
「つまり、会話できる工場を作るのね」
啓介はうなずいた。
「そういうことだ」
帝人は、その言い方をしばらく胸の中で転がしていた。 会話できる工場。 企業ではない。 研究所でもない。 軍でもない。
壊れたものと話しながら直す場所。
かぐやが地球に落ちてきたのが、この工場でよかったのだと、帝人は改めて思った。
第二章 数字の部屋、沈黙の父
その日の昼、帝人は都心のアマギ本社へ戻った。
最上階の会議室は、いつ来ても空気が薄い。 気圧の話ではない。 ここでは、人が感情より先に損益を考えるから、呼吸の仕方が自然と浅くなる。
臨時の取締役会はすでに始まっていた。
壁面モニタには株価推移、政府照会、海外資本の動き、軌道監視ログの断片が並んでいる。 誰も月ということばを正面から口にしない。 だが、皆その話をしていた。
「地方工業施設の電力使用量が不自然です」
「関連通信の遮断を進めるべきです」
「専務が個人的に管理しているラインの存在が問題です」
「市場が先に嗅ぎつければ制御不能になります」
帝人は席につきながら、ひとしきりその声を聞いた。 それから、自分の前の端末だけを閉じた。
「父さん」
会議卓の正面に座る征堂が目を上げる。
「何だ」
「僕の管理ラインに手を入れましたね」
征堂は少しも表情を変えない。
「確認をかけただけだ」
「月からの信号を政府側へ流していないでしょうね」
「流して困るのはおまえか」
「困るのは地球です」
ひとりの重役が口をはさんだ。
「専務、その言い方は誇張が過ぎます」
帝人はその男を見もしなかった。
「誇張ではありません。今の地球に、月との再接続を国家間事案として受け止めるだけの器はない。政府は奪いに来る。企業は囲い込む。軍は理由を欲しがる。結果として起こるのは、探査ではなく再武装です」
別の取締役が言う。
「ならばこそ、先に我々が掌握する必要がある」
「“我々”って誰です」
帝人はようやくそちらを見た。
「地球全体を背負う気でいるんですか。それとも株主価値ですか」
室内が静まった。
征堂がゆっくり口を開く。
「帝人」
「何です」
「おまえは、議論を道徳の高さで終わらせすぎる」
「父さんは利益の低さで切り捨てすぎる」
「利益がなければ継続はない」
「継続のために人間を番号に戻すなら、その継続に意味はない」
征堂は、それを聞いても怒鳴らなかった。 昔からそうだった。 怒鳴るかわりに、相手の逃げ道をじわじわ削るように言葉を使う。
「おまえは、あの女に何を見た」
帝人は少しだけ息を止めた。
「月の鍵、ですか。技術の残骸ですか。あるいは、自分だけが理解したいと思えるほど美しい謎か」
「どれでもない」
「では何だ」
「壊れていない未来のふりをやめた人です」
その答えに、何人かが眉をひそめた。
征堂だけは、わずかに視線を落とした。 まるで、その答えが予想より少しだけ厄介だったとでも言うように。
「……会議はここまでだ」
征堂が言った。
「各自、政府側への開示線は凍結。外部資金の流入監視を強化。専務権限下の通信ラインには、当面、監査を入れる」
帝人は動かなかった。
「父さん」
「何だ」
「それでも僕は止めません」
「知っている」
「なら、なぜ止める真似をする」
征堂はそこで初めて、会議室の人間たちを見渡した。 その一瞥だけで、重役たちは立ち上がり、何も言わず退室していく。 最後に扉が閉まると、広い部屋には征堂と帝人だけが残った。
征堂はしばらく黙っていた。
「おまえの母は」
と、不意に言った。
帝人の指が止まる。
「技術は、人を楽にするためだけにあるんじゃないと言った」
「……」
「何を残して、何を捨てるかを決める時、人間の本性が出る、ともな」
帝人は父を見た。 征堂は、窓の外の空を見ていた。 そこには昼の薄い月が、ほとんど消えかけている。
「父さん」
「おまえを甘やかすつもりはない」
「そんなことは期待していません」
「だが、無駄死にはさせん」
征堂はそこでようやく帝人を見た。
「おまえの思想は甘い。危うい。損も多い。だが、あいつはたぶん、そういうものをおまえに残したかった」
帝人は返事ができなかった。
征堂は席を立つ。
「監査は入れる。表向きはな」
「……表向き」
「本流に気づかれずに動くには、追われているふりも要る」
その言い方は冷淡だった。 だが帝人は、父が何をしているのか理解していた。
完全に支えることはしない。 だが完全に切り捨てることもしない。
昔からずっと、そういう人だった。
第三章 真壁という人
会議室を出たあと、帝人は自室へ戻る前に、ひとつ下の秘書区画へ寄った。
真壁は、窓際で書類を整えていた。 年齢はかなり上だが、背筋はまっすぐで、動作に無駄がない。目立つ人ではない。派手なことも言わない。 それなのに、征堂でさえ真壁を前にすると、言葉の置き方を少しだけ慎重にする。
「会議は終わりましたか」
真壁が訊く。
「終わったというより、切り上げられました」
「それは良い兆候です」
帝人は苦笑した。
「どこが」
「本当に切るつもりなら、会長は会議を続けます」
真壁は書類束を揃えた。
「若いころからそういう方です」
「あなた、父のことを時々、妙に知ってますよね」
「長いですから」
その答え方は、いつも少しだけ足りない。
帝人は、幼いころ祖父から聞いた話を思い出していた。 真壁は、もともと家の者ではない。祖父に拾われ、才能を見出され、気がつけば天城家の誰より天城家を知るようになっていた。 経営者ではない。 血縁でもない。 なのに、家の深いところで一番倒れない柱みたいに立っている人だ。
「真壁」
「はい」
「あなた、どこまで手を回してるんです」
真壁は少しだけ考えたような顔をした。
「専務が今夜、竹守製作所へ戻るぶんには問題ない程度です」
「それ、普通にすごいこと言ってません?」
「そうでしょうか」
「監査、凍結、外部照会、父の表向きの統制。その全部を抜けて、ですか」
「抜ける必要はありません」
真壁は静かに言った。
「通るべきところを、通るべき順番で通しただけです」
「僕にはそれが一番難しいんですが」
「帝人さまは、まっすぐ進みすぎるのです」
「遠回りしろと?」
「必要な時だけは」
帝人は机の縁にもたれた。
「あなた、父にもああいう言い方をするでしょう」
「たまに」
「怖くないんですか」
真壁はそこで初めて、ごく薄く笑った。
「征堂さまは、怖い方です」
「でしょうね」
「ですが、本当に怖い方は、怖がらせ方が一定です」
「意味がわからない」
「慣れます」
帝人は思わず吹き出した。
真壁は続ける。
「奥さまが亡くなられたあと、征堂さまは“守る”という言葉をお嫌いになりました」
「……」
「守れなかった、と思っておられるからです」
帝人は何も言わなかった。
「だから代わりに、“管理する”“維持する”“手を打つ”という言い方をなさる」
真壁は書類を脇へ置いた。
「ですが、言葉が変わっても、していることまで別になるわけではありません」
「父が、僕を守ってると?」
「時々は」
「時々ですか」
「かなり不器用ですので」
帝人は、しばらく黙っていた。 それから低く言う。
「月へ行く準備を、本格的に始めます」
「承知しました」
「いまのアマギ本流は使えない」
「本流は、もともと大型案件向きです」
「なら」
「細い流れを集めましょう」
真壁は、すでに用意していたらしい端末を差し出した。
「旧軌道物流関連で、現在は遊休扱いの資材倉庫が三か所あります。ひとつは山間部、ひとつは沿岸、ひとつは閉鎖研究区画の名残です。表向きの名目は設備保全費で通せます」
帝人は端末を見た。 どの拠点も、彼が指示する前から整理されている。
「真壁」
「はい」
「あなた、ほんとに何者なんですか」
真壁は少しだけ首をかしげた。
「秘書ですが」
その答えが嘘ではないのが、かえって恐ろしかった。
第四章 工場の線、政治の線
その晩、帝人が竹守製作所へ戻ると、工場の空気は朝ともう変わっていた。
旋盤が起きている。 フライス盤の脇に、見慣れない治具が組まれている。 壁に貼られた信号列の横へ、啓介の字で新しい注記が増えていた。
澄江は部品箱をひっくり返す勢いで整理している。
「遅かったわね」
「すみません」
「謝るより手を動かして」
「はい」
帝人はコートを脱いだ。
「何からですか」
啓介が図面を指さす。
「月から来てる信号は、ただの通信じゃない」
「同期要求でした」
「そうだ。で、それに応えるには、こっちもただアンテナ立てりゃいいって話じゃない」
帝人はうなずいた。 啓介の説明は、いつも大雑把に聞こえて、肝心なところだけ妙に正確だ。
「月側が欲しがってるのは、位相だけじゃない」
啓介は銀白色の薄膜片を持ち上げる。
「向こうの材料と、こっちの現場加工を繋ぐ中間が要る」
「変換器、ですか」
「そんな大層なもんじゃない。噛み合わせだ」
澄江が横から言う。
「人間でいうと、方言の通訳みたいなものね」
「そういうことだ」
帝人は作業台へ身を乗り出した。
「じゃあ、僕のほうで必要なのは」
「物流」 と啓介。
「あと、古くて使われてない設備だ」 澄江が続ける。
「新品はいらないの。古くて、構造が見えるやつ」
帝人はすぐ端末を開いた。
「候補があります。旧航空機部品工場の加工ラインがひとつ。戦前の宇宙向け材料研究所の残設備がひとつ。あと、アマギに吸収された会社の遊休倉庫に、手動介入しやすい電源系がある」
「それ、持ち出せるの?」
「表からは難しいです」
「裏からは?」
澄江が訊く。 帝人は一瞬だけ口をつぐんだあと、答えた。
「可能です」
「いい返事」
啓介は、そこではじめて少しだけ笑った。
「やっぱり金持ちは運ぶ時だけ役に立つな」
帝人は肩をすくめる。
「輸送路を押さえるのは得意分野です」
「言い方が物騒」
澄江はそう言いながら、ノートを一冊開いた。
「こっちも役割分担しましょう。啓介さんは加工と材料。帝人さんは資材と外回り。私は信号の書き起こしと、かぐやちゃんのメモの整理」
啓介が言う。
「あと飯」
「それが一番大事なの」
澄江はきっぱり言った。
それから少し真顔になる。
「月へ行くってことはね、遠くへ行くってことじゃないの」
帝人が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「帰ってこられるように行くってこと」
澄江は、かぐやが使っていた机を見た。
「あの子、ちゃんと帰るって言ったでしょう」
啓介は、しばらく黙っていた。 それから低く言う。
「だから迎えに行く」
「うん」
「連れて帰る」
「うん」
「そのための工場だ」
帝人は、その言葉を聞いて、自分の中で何かの順番がきれいに入れ替わるのを感じた。
月へ行く準備。 企業としての探査ではない。 文明的な先行獲得でもない。 ひとりの人間を、名前のあるまま帰すための準備。
その目的があるだけで、技術の形まで変わって見えた。
第五章 征堂の夜
そのころ、天城征堂は自室にいた。
本社最上階のさらに奥、会長専用の私室は、必要なものしか置かれていない。広いのに、どこか狭い部屋だった。 窓辺の棚には、写真立てがひとつだけある。
若いころの征堂と、その隣に立つ女。 帝人の母だった。
征堂は机に座ったまま、長いあいだその写真を見ていた。 酒も飲まない。音楽もかけない。ただ、静かに見ている。
そこへ、ノックがした。
「入れ」
真壁が入ってきた。
「遅くに失礼します」
「構わん」
「専務は竹守製作所へ戻られました」
征堂は写真から目を離さない。
「知っている」
「止めませんでした」
「止めると行くだろう」
「はい」
「なら、通したほうが速い」
真壁は少しだけ間を置いた。
「昔から、そうなさいますね」
「何がだ」
「止めたい時ほど、止めないふりをする」
征堂は、そこでようやく真壁を見た。
「老いたな」
「お互いさまです」
真壁は平然としている。 昔からこの男はそうだった。誰に対しても必要以上にへりくだらず、かといって無礼でもない。線を知っているというより、線そのものを自分の歩幅で測っているようなところがある。
「征堂さま」
「何だ」
「帝人さまは、奥さまによく似ておられます」
征堂の目がわずかに動く。
「似ていない」
「そういう否定をなさる時ほど、似ております」
「真壁」
「はい」
「おまえは時々、過ぎる」
「承知しております」
それでも真壁は引かなかった。
「ですが、いま言うべきだと思いました」
征堂は、ゆっくり背にもたれた。
「……あいつは、理想を持ちすぎる」
「はい」
「損得を無視する」
「はい」
「人間を勘定に入れたまま、大きなことを動かそうとする。そんなものは、たいてい途中で潰れる」
「はい」
「だが」
征堂は、そこでことばを切った。 窓の向こうには、夜の空がある。月は見えていない。
「それをやらねば残らないものもある、と、あいつの母は言った」
真壁は黙っていた。
「私は、あれを守ると約束した」
征堂の声は、いつもの会議の時より少し低かった。
「だが、守るというのは難しい。囲えば腐る。放せば壊れる」
「ええ」
「だから、せめて死なせない程度に風を読んでやるしかない」
真壁は、ごく小さくうなずいた。
「それで十分かと」
「十分なものか」
「帝人さまにとっては、たぶん」
征堂は、真壁を見た。 真壁は少しも視線を逸らさない。
「おまえは、いつから私にそんな口をきくようになった」
「先代に拾われたころから、わりと」
征堂は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。 笑いと言うには短すぎたが、真壁はそれ以上何も言わなかった。
「行け」
「はい」
真壁は一礼して、扉の前で止まった。
「征堂さま」
「何だ」
「明日の午前、沿岸倉庫の監査予定がひとつ、偶然にも別件で延期になります」
征堂は眉ひとつ動かさずに答える。
「偶然か」
「そういうことにしておくのが、会社には便利です」
真壁は出ていった。
扉が閉まったあと、征堂は写真立てへ手を伸ばした。 若い妻の顔は、もう細部が思い出より古くなっている。 それでも、帝人が月へ向かうような顔をした時だけ、その面影は妙に近くなるのだった。
第六章 準備は、まだ始まりにすぎない
深夜、竹守製作所では機械が鳴り続けていた。
啓介は薄膜片を挟み込み、切削ではなく、まず撫でるように刃を当てていた。普通の材ではない。削るというより、機嫌を探る作業に近い。 帝人は倉庫目録と物流線の再編を並行し、使える設備を表向きとは別の名目で動かしている。 澄江は、かぐやの数式と月からの信号列を突き合わせ、その横に人間向けのことばを足していた。
《ここで脈がずれる》 《この波形、たぶん“通れるか?”って聞いてる》 《返事するには、同じ材料じゃなくて、同じ癖が必要》
澄江の書き込みは、技術文書ではなかった。 だが、啓介にも帝人にも、それがいちばんわかりやすかった。
「澄江」
啓介が言う。
「何」
「これ」
啓介が示したのは、かぐやのメモの端に走る小さな記号だった。
「前はただの癖かと思ってたが、違うな」
帝人も身を乗り出す。
「何ですか」
「繰り返し方が一定だ。たぶん、月側の手順記号だ」
澄江がページをめくる。
「じゃあ、こっちの数式の切れ目と対応してるかもしれない」
帝人はすぐ端末に入力した。 断片的だった信号列の並びが、そこで初めて一部だけ意味を持ちはじめる。
「……見えました」
啓介が訊く。
「何が」
「これは、ただの通信路じゃない」
帝人の声が低くなる。
「向こうは“来い”と言ってるんじゃない。“来られる形を組め”と言ってる」
啓介はうなずいた。
「やっぱりな」
「驚かないんですか」
「工場ってのは、だいたいそうだ。壊れた方が“直せ”じゃなくて、“直せるように考えろ”って言ってくる」
澄江が湯気の立つマグを三人の前へ置いた。
「じゃあ、考えましょう」
帝人はマグを受け取り、しばらく温度を確かめてから言った。
「明日までに、沿岸倉庫の設備を一部こちらへ回せます。表向きは災害用の予備電源移送です」
「そんなに簡単に?」
「簡単じゃありません」
帝人は少し笑った。
「でも、たぶん通るように、誰かが風向きを変えています」
澄江が、何となく納得したようにうなずく。
「真壁さんね」
「たぶん」
「すごい人なの?」
帝人は答えに少し困った顔をした。
「すごい、と言うと違う気もします」
「じゃあ、何」
「いないと困る人です」
啓介がぼそりと言う。
「そういうのが一番厄介だ」
「ええ」
帝人は、珍しく素直に同意した。
その時、工場の仮設受信機がまた低く鳴った。
前より深い。 前より長い。 ノイズではなく、向こう側の巨大な何かが、こちらの返事を待って呼吸を合わせてくるような音だった。
啓介がスイッチを切り替える。
帝人が波形を追う。
澄江がメモ帳を開く。
月の裏側では、おそらくかぐやが動いている。 阿弥が都市のどこかで踏みとどまっている。 執行官たちが、名と番号のあいだで揺れている。
地球側では、古い工場が起きている。 巨大企業の外れに細い輸送路が組まれている。 家でも国家でもない場所で、人間が三人、月へ届く機械を考えている。
まだ誰も月へは行っていない。 往還経路も完成していない。 政治も、技術も、感情も、どれひとつ片づいていない。
けれど、準備だけはもう、確かに始まっていた。
啓介は旋盤の主軸へ手を当てた。 金属の冷たさの向こうに、まだ遠い月の気配を探るみたいに。
「帝人」
「はい」
「おまえ、明日も来るな」
「来ます」
「聞いてない」
「でしょうね」
澄江が笑う。
「じゃあ、朝ごはん四人分にしないと」
啓介が言う。
「四人目は、まだ月だ」
澄江はうなずいた。
「だからよ。帰ってきた時のぶんも、今から慣らしておくの」
その言い方に、帝人は返事ができなかった。 啓介も何も言わなかった。
ただ工場の中で、 古い機械の音と、 新しい覚悟の気配と、 月からの細い呼び声だけが、 夜更けまで静かに重なっていた。
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