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専門職大学に思うところ(4)

これまでの,
専門職大学に思うところ(1)(2)(3)の続き,のつもりですが,ちょっと視点が変わるかもしれません.

約2年前になります.私のブログを見ていただいた新聞記者の方から取材を受けたことがあります.
「大学は社会から外れたところにあらねばならない,世論とは逆のことをする必要がある」そういう主張をする私に対し,記者さんからこんな問いかけを受けました.

「大学も社会の要望を受け入れなければいけない部分があるのではないか?」

税金を受け取って活動している手前,学費を受け取って経営している立場であれば,大学に通った・通わせたことによる成果を説明しなければいけない,そういう部分があって然りでしょう,と.
たしかにそうです.

そういう “部分” がある必要は認めます.
ですが,その場でも回答したのですが,そういう “部分” があることは認めますが,それを堂々とやってはいけない,私はそう考えています.

ここ数日の一連の記事で扱っている「専門職大学」というのは,まさにその社会的な要望を正面から正々堂々と受け入れたことの権化だと思います.
大学の存在価値は,まさに「そこ」なんでしょう? と.

誤解を恐れずに言えば,大学の存在価値を世間・社会から誤解されずに理解してもらうことは不可能ではないか,そうも思うんです.

これまた約2年前に書いた記事,■彼女に言ってやりたかったのはでも触れたことですが,大学の存在価値とは,今まさにそこに存在している段階,通学して学んでいる段階では理解してもらえないものです.それが理解できているのであれば,(本質的な意味において)大学に通う必要もないでしょう.
もっと言うなら,全ての人には大学の存在価値は理解されない.さらに言うなら,大学の存在価値を正当に理解してもらえる人は極少数にならざるを得ない.
そう感じます.

人は,どうしても支払ったものの対価を要求したくなるものです.
その対価は,できれば分かりやすい利益であることを望むものです.
その分かりやすい利益とは,つまり世の人々の多くが羨むものです.
具体的にいうなら,自身の社会的地位を高めるものであり,金銭で測れるものであり,金銭そのものと言えましょう.

ですが,大学が提供しているもの/できるものは,残念ながらそういうものではありません.
その人の人生そのものを裕福にするものであり,そこで言う「裕福」とはもしかすると,その人が所属する社会や国,大袈裟に言うなら人類そのものへの貢献を指しているのかもしれません.

だからこそ,多くの大学がかかげる「建学の理念」にはそのような文言が並んでいます.
これは建前であると同時に,本当にそういう側面が大学という存在にあるからでしょう.

全ての卒業生に伝播できなくても構わないのです.
だけど,願わくば少しでも多くの卒業生に社会的地位や権力,金銭では測れない「人としての尊い価値」が存在するということを,理想論やロマンチシズムではなく本気で考え,これを血肉としてもらうことが大学の使命の一つなのです.

そうした哲学や学術的思考力をもった人々が社会に一定数存在し続ければ,その社会の衰退と崩壊を免れることができるのではないか,そこに大学の存在価値があります.
(逆に言えば,「世の中銭や」とか「金のある奴強い奴」の思考がこの社会で固定化してしまった時が,その社会の黄昏と言えるでしょう)

それゆえ,大学は(だけでなく,教育機関全般は),その社会と世論が要望するところから無縁の世界にあらねばならないのであり,場合によってはこれに抵抗する必要もあるのです.

もちろん,この民主主義国家にあっては社会の多数派の要望が公的機関の方針や活動に影響を及ぼせるわけですから,上述したような考え方は達成しにくいと言えるでしょう.
その点を冒頭の新聞記者さんも指摘されていました.

ですが,かといってそれにホイホイと追従することは,大学の存在意義に関わります.
物事の正しさを民主主義することはできません.
多くの人々に納得してもらえたかどうかと,それが正しいことかどうかは別ですから.

「だからこうすれば良い」という策が私にあるわけではないのですが,地道に大学の存在意義を問い続けることが大事なんだと思います.


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