2018年8月8日水曜日

体育学的映画論「夢」

前回は現在上映中の『カメラを止めるな!』の感想を少しだけ述べましたが,詳しく論評するのはネタバレを含むことになるので,もっと後になってからとします.
ひとまず,「カメラを止めるな!」は,私は好きな映画です.三谷幸喜の「大空港2013」とか,「ラヂオの時間」みたいな作品は嫌いではありません.
漂う空気も,実写版パトレイバーである「THE NEXT GENERATION パトレイバー」と類似性があったりするので,こっちも好き.
いずれも追って論評したいと思います.

で,全然作風が違う映画ですが,さっき,黒澤明『夢』を見たんです.
私は今,猛烈に感動しています.
(wikipedia)

ネットのレビューでは,結構賛否両論なんですね.
たしかに,そんな感じの映画ではある.
つまらないっちゃ,つまらないもん.

映画って,ある程度のクオリティを超えてくると,あとは好みの問題になってくるように思います.
万人受けする作品,映画通に受ける作品,熱狂的ファンに受ける作品などなど.そこからさらに細分化した後は,個人的嗜好になっていくものです.

今,物凄い人気を博している「カメラを止めるな!」にしたって,たぶん映画通にしてみれば「過去にもこういう作品はあった」とか言うんだろうけど,その時代との融和っていう要素もあると思うんです.いろいろ書きたいことはありますが,これについては,また別の機会に.

さて,「夢」ですが,これはその時代の空気との融和とは無関係な作品です.
黒澤明の映画は概ねそういう作品が多いとは思いますけど,これは特にそう.

黒澤明本人が見たとされる夢を映画化したものとされていますが,その映像は鳥肌が立つほど綺麗で,まさに「夢の中の出来事を映像化したらこうなりました」というもの.
8つのエピソードから成るオムニバス形式の映画です.

特に少年時代のエピソードとして出てくる映像は,「小さい子供にとっての自然や伝統慣習の見え方」が見事に現れています.
たしかに,私も子供の頃にはこういう夢を見ていた覚えがあります.
例えば「日照り雨」のラストシーンである「花畑と山にかかる虹」の映像は,田舎育ちの私にとっては背筋が凍るような既視感.それは懐かしさと怖ろしさが同時に込み上げてくる複雑な感情.
雨上がりの土と花と緑の匂いも同時に想起され,思わず唸ってしまった.

次のエピソード「桃畑」も映像が凄くきれい.
桃の段々畑を雛壇に見立てて演舞するシーンは圧巻の一言.
望遠レンズの圧縮効果を使って,段々畑をシームレスな「1枚」の舞台として撮影したものですが,こういう見せ方もまさに「夢」のような映像です.
ちなみに,私にとっても段々畑は幼少期の琴線に触れるものなので,これにも猛烈に感動しました.
難しいこと考えなくても,色使いがヤバいのでそれを堪能するだけで十分です.

あと,印象に残ったエピソードは「鴉」と「トンネル」.
「鴉」はゴッホの絵の中に迷い込んだ夢です.
この夢の中ではゴッホとも出会うのですが,そこでゴッホは名言を口にします.
「絵になる風景を探すな.よく見るとどんな自然でも美しい.僕はその中で自分を意識しなくなる.すると自然は夢のように絵になってゆく.いや,僕は自然をむさぼり食べ,待っている.すると,絵は出来上がって現れてくる.それを捉えておくのが難しい」
黒澤監督も,この言葉にシンパシーを感じていたのでしょうか.
というか,このエピソードの映像自体がそれを体現しています.
実際,このエピソードはゴッホの絵の中が舞台となっているんですけど,特に最初の「アルルの跳ね橋」のシーンに驚きました.
ゴッホの絵のタッチと色使いを,現実世界に再現するという離れ業をやってるんです.
文章じゃ伝わらないので実際に映画を見てもらうしかないんですけど,黒澤明は絵になる風景を探さない代わりに,「絵を風景にした」んですね.
CGも使わず,さすが黒澤明,ここまでやるんだ.

「トンネル」のエピソードは,戦争で失った部下たちの亡霊と対峙するもの.
第二次大戦で徴兵されていない黒澤明が「戦地での部下の夢をみる」というのも変な話ですが,このエピソードは「出兵しなかった自分への負い目」と捉える向きがあるようです.
亡霊たちに「いつまでも彷徨っていないで,静かに眠ってくれ」と訴え,暗闇(トンネル)に向かって「前進」の号令をかけたのは,「戦争に出兵しなかった」ことがどれだけ黒澤自身にとって深い傷になっているかを告白したものと考えられます.
あと,このエピソードで登場する「吠えかかってくる犬」の解釈ですが,ネットでもいろいろな意見が飛び交っているようです.
私が直感したのは,これは当時の(もしかするとずっと最後まで)黒澤が「『戦争の犠牲』というコンプレックスを振り払ったものの,まだ私(黒澤)が知らないだけで,忘れられている『戦争の犠牲』があるのではないか」という不安感を象徴していると受け取りました.

この「吠えかかってくる犬」は,軍用犬です.
そして,犬の体に巻き付けられている物は手榴弾であることが分かります.
つまり,この犬は爆弾を抱いて相手に飛び込み,自爆攻撃をさせられていた犬なんですよ.
黒澤としては,先の大戦で犠牲となった者は,個人的に名前を知っているものを含めて「共に出兵したかもしれない『軍人』」のことには頭が回ります.しかし,共に従軍したかもしれない「その他」への想像がは働かない.
例えばそれは何かとなった時,映像化できるものとして「自爆攻撃犬」を登場させたのかもしれません.
もっと言えば,寺尾聰演じる黒澤は,亡霊たちに「君たちは犬死だった!」と嘆くのですが,この「犬死」と,吠えかかってくる「犬」とが関連していると考えてしまうのは私だけでしょうか.

他にも,原発やテクノロジー過多に警鐘を鳴らすエピソードが入っていますが,どれも映像がすこぶる良くて飽きません.
これを面白い映画と捉える人は少ないかもしれませんが,私にとっては定期的に見ておきたい映画の一つに加わりました.


2018年8月7日火曜日

学校教育対談(5回目)

和田慎市先生との学校教育対談の季節になりました.
昨日,都内某所で開催.
これで5年目となります.

過去の対談はこちら↓
学校教育対談(2回目)
学校教育対談(3回目)
学校教育対談(4回目)

和田先生は,学校教育現場について現場目線での情報発信をしている方です.
著書はこちら↓
  

ホームページも作成されていますので,こちらも御覧ください.
先生が元気になる部屋(和田慎市ホームページ)

あと,先日はiRONNAにも記事を掲載されていました.
「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?(iRONNA 2018.5.3)


この対談も5回目ですが,当初は和田先生との2人だけだったのが,次第に参加者も増えていきまして,さて今回はと言うと,なんと私のゼミ生までもが参加しました.
今年の教員採用試験を受けている学生で,一次試験を突破して次は二次という状況.
その学生も他大学の教採仲間を一人連れて来てくれたので,かなり広範囲の会となったわけです.

彼らとしては,教員採用試験の参考(特に面接など)になればという考えもあったのですが,教員の仕事を現場目線で,且つ,俯瞰的に捉えておきたいというのが参加を決めた動機.
楽しいことばかりではない職場だと分かってはいるものの,それをより詳しく聞いておきたいと考えたようです.
そんな彼らにとって,和田先生との対談はとても有意義な時間になったようです.

教員の仕事の大変さを知りたいということで,いろいろなトラブルや職場での「あるある」の話もしたのですが,そうはいってもこの仕事の魅力とは,そうしたネガティブな部分を含めたものと言えます.

「私はこの仕事を通して何をしたいのか?」
ということがしっかり見つめることが大事です.
それは他の仕事においても同じでしょうけど.

その時に和田先生もおっしゃっていましたが,トラブルを起こしたり反抗的な生徒は嫌いじゃない,ということ.私もこれには同感です.大学生にも同じことが言えます.
別にトラブルを起こしたり反抗的な態度をとる生徒こそが「良い生徒」だと言っているわけではありません.そのあたりを勘違いされることが多いので注意が必要です.

小説や映画,アニメなどでも「反抗的だけど,実は物事の本質的な部分を見ている人だった」とか,「トラブルメーカーだけど,実はそこに巣食う大問題を感じ取っている人だった」といったキャラクターは,古今東西,枚挙にいとまがありませんよね.典型例としては,黒澤明監督作品の『乱』における三男・三郎直虎がそれですし,最近のものでは庵野秀明作品の『シン・ゴジラ』における巨災対メンバーがそれです.

これは人間界における「あるある」なのですが,いかんせん現実の当事者にとってはただのトラブルメーカーであり,反抗的で嫌な奴として扱われます.
映画やドラマの世界では理解できても,実際に自分の身に降り掛かってくるとそうはいかないという人は多いものですよね.っていうか,そういう人が圧倒的多数だと思います.

こういう「トラブルメーカー」な人種は,学校現場においては「不良」「ヤンキー」「ませたガキ」というレッテルを貼られることになりますが,彼らを排除したり強制的に統率することでは,本質的な問題を改善したことにはなりません.

ではどうすればいいのか?
それは,葛藤することです.
葛藤していく中に人間としての成長があり,学校教育としての価値がある.
典型的な授業を受けて,典型的なクラブ活動をし,典型的な友人関係を築くことが最良の学校生活ではないのです.
それは大学においても同様で,分かりきっている知識や手順を学ぶことは大学教育ではありません.学友と,教員と,そして学界や自分自身と問答し,葛藤することに価値があるんです.
そして教員の役割とは,生徒や学生の「葛藤」をタイミングよく,適度に,そして安全に後押ししてやることに他なりません.

もちろんそれは難しい仕事です.
失敗すれば生徒や学生に大きな傷を負わせるかもしれません.落胆させたり,無気力になってしまうかもしれない.
しかし,それでも「葛藤させない」よりはマシです.
世の中は驚きに満ち溢れている.自分に都合よく出来てはいない.
そもそも,自分にとって「都合がいい」と今そこで考えていることは,本当に自分にとって都合がいいことなのか?
そうしたことを考える機会が,学校であり,大学です.


ところで,今回の和田先生を囲む会に行くまでの道すがら,時間があったので近くの映画館に寄り道してきました.
今,物凄い人気でニュースにもなっている,上田慎一郎 監督『カメラを止めるな!』を見てきましたよ.
あまりに「面白い!」との前評判のため,期待値とハードルが上がりまくっている作品ですが,その高いハードルをしっかり跳び越える面白い映画でした.

内容に少しでも触れただけでネタバレになってしまうので,現時点でこの作品の詳細は述べられませんが,「こういうのが人間として生きてて楽しいところだよね」ってことが詰まった良作です.
この作品では「映画」が舞台になっていますが,「学校」とか「教育」においても同じだなぁって思わされました.きっとどの職場にも通じると思う.

なお,本作は「ホラー映画」「ゾンビ映画」としてカテゴライズされていることが多いですが,これはコメディ映画です.ホラー映画が苦手だと思っている人はご安心ください.
三谷幸喜の『ラヂオの時間』に似ていますし,きっと元ネタはそれなんでしょうが,私としては「ラヂオの時間」よりも「カメラを止めるな!」の方が好きかな.泥臭さが魅力的です.
細かい事抜きにしても,『カメラを止めるな!』は見て損はありません.

2018年7月30日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 55「学徒動員」

スポーツの記事なのに「学徒動員」とはどういうことか?
2020年オリンピック東京大会のことなんです.

先日,学生の頃から仲が良かったとは言え,中年にもなった我々大学教員が,故あって合宿所で一泊することになり.
そこで研究とか教育の話をお酒を交えて(面白おかしく)議論する機会がありました.

その話題の中に「オリンピック東京大会における,学生ボランティアをどうするか」というのがあったんです.
ぶっちゃけ,結構困っています.

以前から「学生ボランティアを出せ」とか「海外チームの合宿地・練習地を用意しろ」といった類の要望はあったんですけど,このたび文部科学省・スポーツ庁より大学に以下のような要求が入りました.
東京五輪・パラ「授業避けて」国通知、ボランティア促す(毎日新聞 2018.7.27)
スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。
多くの大学は7~8月が試験期間となる。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。
当初の想定以上に学生ボランティアが集まっていないから,とのことです.
当たり前です.
文部科学省はこれまでに「大学は授業をシラバス通りしっかりやれ」「学生は授業に出席することが義務」「大学は学生が授業に出席しているかどうか管理しろ」といった圧力をかけてきました.
大学の授業なんてのは数回休むのは当たり前だと思っている30代以上の人たちには想像できないでしょうが,今の大学でその感覚は通用しません.

結果,現在の大学生は授業にちゃんと出席するようになり,授業に出席することが目的となっています.
その帰結として,大学も学生も,「授業出席」に支障をきたすようなシステムや行為を極力排除するようにりました.「部活の試合があるので休みます」とか「ゼミの活動で休みます」なんて理由は,授業を欠席できる理由になりません.これはボランティア活動も同じ.普通に「欠席」です.
一応,各大学独自の規定によって授業担当教員宛に「欠席理由書」「欠席への配慮のお願い」といったものがありますが,用意されない大学もあります.
原則は「欠席扱い」です.
私の授業でも,例えそういった書類を受け取ったとしても,いちいち理由を判断したり考慮するのが面倒なので,一律「欠席」にしています.こっちの理由は良いけど,こっちの理由はダメ,などと判断するのは公平性が保てないからです.欠席した分のマイナスは,出席態度と試験結果で取り戻せということにしています.

そんな中で,オリンピックごときのためにボランティア活動しようなんて思うわけがないでしょう.
それもこれも,元はと言えば文部科学省が仕向けたこと.
そのくせ,今になってオリンピックがあるからって「授業をしなくてもいい」とか「ボランティアを出せ」って,どうなのよ.
なので,これって「学徒動員ではないのか?」という話も出てきているわけです.

そもそも,なんで学生ボランティアを要求してくるのか?
スポーツ庁からの通達にはこうあります.
平成28年4月21日付け28ス庁59号で通知したとおり、学生が、オリンピック・パラリンピック競技大会等に参加することは、競技力の向上のみならず、責任感などの高い倫理性とともに、忍耐力、決断力、適応力、行動力、協調性などの涵養の観点からも意義があるものと考えられます。さらに、学生が、大学等での学修成果等を生かしたボランティア活動を行うことは、将来の社会の担い手となる学生の社会への円滑な移行促進の観点から意義があるものと考えられます。(30ス庁第236号より抜粋)
たったそれだけの理由です.
それだけの理由で,ボランティア活動できるように大学のスケジュールを変更しろと?
授業スケジュールや教務システムって,そんなにホイホイと簡単に変更できるものではないのです.

参加したい学生,参加できる学生だけボランティアすればいいのではないか.
いくらなんでも虫が良すぎます.
他の大学教員とも話していたのですが,「これも外国人留学生で対応できるよう規制緩和すればいいのではないか」と吐き捨てる人もいました.

繰り返しになりますが,オリパラでどうしてこんなにも学生ボランティアを要求してくるのでしょうか.
それは教育的価値があるからではありません.
大学の斡旋を通じて参加してくる学生ボランティアなら,ドタキャンが少ないからです.
上記の文言にしたって,これはあくまで建前です.本気にしてはいけません.

私も「神戸マラソン」を始めとして,関西地域のスポーツイベントのボランティア斡旋を担当していたことがあります.
そんな記事も書いたことがありました.

つまりこういうこと.
学生ボランティアと言っても2種類あるんです.
完全に自分の意思で参加するボランティアと,大学教員や部活指導者等の斡旋によって参加を促されたボランティアです.

前者には参加のモチベーションが高い人が多いのですが,反面,冷やかしに参加している人もいてドタキャンが怖い.しかもこのタイプは登録人数が少ないので,運営側としてはギャンブルな要素があるんです.

一方,後者は総じて参加モチベーションは高くないものの,斡旋した教員や部活指導者との人間関係を介して参加しているため,運営側の指示にも従順でドタキャンも少なく,必要人数が大量に確保できる上に,不必要とあらば簡単に切ることができます.端的に言えば,人数が読めて使い勝手がいいわけですよ.
全部が全部とは言いませんけど,大学でスポーツボランティアの斡旋業務をやっていた私としては,それが率直な意見です.

なにより悲しいのは,私も含め学生ボランティアを斡旋している人たちが,不本意ながらボランティア募集の時に使っていた「学生がスポーツボランティアに参加する意義」なる理由を,文部科学省・スポーツ庁が堂々と大学に向けて発していること.

責任感,倫理性,忍耐力,決断力,適応力,行動力,協調性の涵養.
授業で学んだことを生かす.
将来,社会に出た時に役立つ.

嘘じゃないけど,そんなに胸を張って言うことではありません.
っていうか,やっぱりこんなの嘘だし.ボランティアごときでそれらが身につくのなら,教育機関は指導に苦労していません.
これならまだ,「ボランティアスタッフの人数が確保できないから,オリンピックを無事に開催するためにも,大学と学生には人員確保の役割を担ってほしい」とお願いされた方が筋が通ります.

私もボランティアを広域に募集する際には「責任感がぁ〜」とか「キャンパス外での学びがぁ〜」とか「社会に出たときにぃ〜」などと歯の浮くような文言を使いますが,いざ集まった学生たちにこんな言葉はかけません.
必要とされているからやる.やりたいからやる.
ボランティアをすることによって自分自身が何かを得るのは結果であって,それを参加の理由にしてはならないのです.

ましてや大学の授業スケジュールを変更してまで取り組ませようとすること.
文部科学省とスポーツ庁は,まずは,そうまでしてオリンピックを開催しなければならない意義や魅力を,大学に示すことが礼儀ってものではないでしょうか.


2018年7月22日日曜日

やっぱり多くの国民に等しく大学教育が受けられる機会を与えることは重要だと思う

前回の記事では,昨今話題の女子大とトランスジェンダーの問題を取り上げましたが,もう一つ最近の話題である「大学教育無償化」について,それを推進する方向での意見を提示しておきます.

このブログでは,7年くらい前から「大学教育はチャラいことせずに硬派にいこう」と主張する一方で,「難関大学,高偏差値大学以外は役に立たないから潰せ」というのも間違いだと繰り返してきました.
で,そのこころは「大学教育をあまねく国民に享受させよう」というものです.

「無謀だ」「そんな予算がどこにある」「低偏差値の子供を大学に行かせてもお金の無駄」といったご意見もあるかと思いますが,これは次代を担う子供をどのように育てるのか? という日本人としての心意気の問題だと考えられます.
私としては,現状,国防費や福祉予算は据え置いても教育にかけた方が,皆さんが気にする「コスパ」は良いと思っています.

何年か前に,ある学会で研究のポスター発表をした際に,その場で安藤寿康先生という方とディスカッションする機会がありました.
我々の研究に興味を持ってもらえたようで,いろいろ興味深い質問をいただいたのですが,私はその時は安藤先生のことを,質問をしてきた研究者の一人として捉えていたのですけど,あとでこの学会に講演者として招かれた先生であることを知りまして.
その講演内容が非常に面白かったことと,私が常々考えていた体育・スポーツ論や教育論とも親和するものだったので,その後,著書も読ませていただきました.
例えば以下のようなものです.
 

一言で言えば,
「人間のパフォーマンスは,育った環境条件が同じであれば『遺伝』の影響が大きい」
というもの.
さらに言えば,
「教え上手な教師に習おうと,教え下手な教師に習おうと,その子供にとっての中長期的な教育効果に差は無くなる」
ということも,様々な研究データを根拠として主張されています.

これについては,御本人も講演や著書でも「安易に受け取られて誤解されることが多い」と困っているようですが,決して「遺伝で全てが決まる」わけでもないし,「教育を受ける意味がない」というわけでもないことが重要です.
つまり,教育においては「学校で教師から指導を受ける」という環境条件が同じであれば,あとはそこで子供がどのように育つのかは遺伝によるところが大きいということ.
逆に言えば,学校教育を受けた者と受けなかった者とであれば,そこには差が現れるわけです.

安藤先生の著書から引用すれば,例えば一卵性双生児の研究では,一方は優良大学を卒業,もう一方はFラン大学を卒業したとしても,一定期間が経って両者の社会的地位(所得・収入など)を比べると,そこに差はなくなっている場合が多いんだそうです.
たまたま通っていた高校レベルや入試対策の違いによって,入学・卒業した大学レベルが異なったとしても,そこから先の「社会人としての振る舞いやスキル」は遺伝によるところが大きいからです.だいたい7〜9割くらいが遺伝の影響だそうですよ.
ただし,ここで問題なのは「だから学校・大学教育なんて不要だ」というわけでないこと.
両者は,学校や大学の教育を受けるという「環境条件」が同一だからこのような結果になるんです.ここがこの現象を理解する上でのポイントになります.

別の観点からこの現象を見てみます.これは以前,私の後輩である東京都の高校教師から聞いた実話です.
あるクラスの担任を受け持っているその教師は,指導スキルに問題があることが校内でも危惧されていたそうです.社会人としても問題があるとされ,例えば会議でも不適切な言動をすることで有名.
実際,クラス運営もヤバいので生徒たちからも不安視されていました.
「生徒の名前を覚えていない」なんて当たり前で,「ホームルームや授業中に『先生』が寝る」,「学園祭の用意を生徒に丸投げ」,「進路指導を一切しない」等々,メチャクチャな先生だったそうです.
しかし,このクラスの生徒はなぜか「教育困難校」とされる当該高校の中でも不思議とトラブルや問題を起こさない.しかも,クラスの平均学力は学年トップ.
一生懸命親身になって生徒指導しても,トラブルが絶えず,勉強しないクラスがたくさんあるのに,どうしてコイツのクラスは安定しているんだ?
そんなわけで学校が調査してみると,どうやらこのクラスの生徒たちは「この担任に自分たちのことを任せると冗談抜きでヤバいことになる」ということで,自発的に勉強するようになり,生活態度も節制し,進路も自分で決めるようにしていることが分かりました.
絵に描いたような反面教師ですね.

もちろん,この教師は「現代日本社会」においては極めて問題のある教師です.
受け持った生徒やクラスが,たまたま重大事件を起こさなかったから,マスコミや保護者に糾弾されずに済んでいるとも言えます.
教師失格の烙印を押されても仕方無いでしょう.
しかし,ではこの教師が「生徒に悪影響を及ぼしているのか?」「悪い人間を育てているのか?」と問われれば,これは判断や評価は難しいことが分かってくれるかと思います.
と同時にこの事例が教えてくれるのは,人間とは,与えられた環境下で課題に取り組む中にあって,その最適解をひねり出すということ.そして,それこそが教育の本質なのではないか.

この問題教師は,たしかに一般的に認識されている「良い教育」はしていないかもしれません.
やっていることも極めて非常識.このクラスは当初,大混乱だったことは想像に難くありません.
ですが,彼なりに「高校教育(中等教育)」を生徒にしっかり授けているわけだし,それによる効果もタイムラグを置いて現れている言えます.

教育の語源である「エデュケーション(Education)」には,その人が持っている能力を「導き出す」という意味があります.
能力は植え付けるものではなく,引き出すもの.
まさにその通りだということです.

では,話を大学教育無償化につなげましょう.
現在,日本で取り沙汰されている大学教育無償化構想は,「無償化する代わりに,政府の要望を聞き入れさせる」こととの抱き合わせで進んでいます.
具体的には,「卒業に必要な単位の1割以上を企業の実務経験のある教員が担当する授業とすること」とか,「外部理事を複数任命すること」といったこと.
だからとても危険です.
大学無償化、支援対象に私立大学などから異論(大学ジャーナル 2018.5.28)
「大学を支援する政策なんだから,政府の要望を聞くのは交換条件として当たり前じゃないか」と思う人は結構多いと思いますが,それがダメな理由は過去記事でいっぱい書いていますし,ある意味このブログ全体の一貫したテーマなのでここでは割愛します.

大切なのは,大学で行われている高等教育を多くの国民が受けられる機会を,純粋に増やすことです.
何かにつけて今の政府は,大学を「就職予備校」とか「職能養成学校」にしたがりますが,重要なのは高等教育の普及です.
高等教育は役に立たないからと,社会や世間の要望を取り入れることではありません.大学は学術研究を追い求めて,そのエッセンスを学生に振り掛けていればいいのです.
それによって学生がどのように育つか,それは本人の資質(遺伝)にかけるしかありませんが,まっとうな高等教育を受ける機会が与えられることは,国や社会全体のことを考えれば決してマイナスにはならないことを意味します.

では「高等教育」とは何か?
それは「モノの考え方」を身につける機会です.
これは,昨今流行している「考える力」とは微妙に違います.
以下,昔の記事で書いたものをそのままコピペしたものですが,大事なので繰り返しておきます.

大学において学生が学んでいるのは,それぞれの教員が授業で扱うモノに対する「考え方」です.
例えば「経済学」であれば,その教員が「経済」や「経済学」というものをどのように捉えているのか,その「考え方」を学ぶのです.決して「正しい経済学」なんてものではないし,もともとそんなものは存在しない.

ときどき,「大学で学んだことは実社会では役に立たない」とか「5年もすれば価値は下がる」などと言われることもありますが,これこそ大学の授業を「何かに役立てるための “パッケージ” を手に入れる場」だと勘違いしている典型です.
大学は職能養成学校になってはいけないし,そもそも大学では職能養成できない理由がそこにあります.

大学教員が学生に受け取ってもらいたい事とは,この世界を見つめる上での羅針盤となる「モノの考え方」なのです.
具体的な例で言えば,学生が将来一人で,もしくは誰かと或る “それ” について議論しなければいけない際に,より正しい結論や答えを紡ぎだすための体力をつける時間が大学の授業と言えるでしょう.
それはどのような科目であれ関係ありませんし,何年経っても価値は下がるものではないのです.

誤解を恐れずに言えば大学の授業に「答え」はなく,「考え方」が問われているのであって,それゆえ「教師」ではなく「(答えを探し求めている者)研究者」が授業を行っています.

ところで,学校教育や高等教育をあまねく国民に享受させることは,決してバラ色の未来を約束するわけではありません.
冒頭にご紹介した安藤先生も解説していますが,教育が平等に普及すればするほど,『遺伝』による差が明瞭になっていくのです.
すなわち,どうしようもない格差,越えられない壁が明らかになってくることを意味します.

しかし,それがどうしたというのでしょう.
もともと,人間の才能には差があること,その能力の上限に差があることは本能的に知っていることではないか.
だからこそ,そうした差を認めた上で,お互いが与えられた役割をこなしつつ楽しむスキルを養う機会が必要になります.
それが如実に現れるのが身体能力であり,体育・スポーツの場ではないかと私は考えています.
教育において,わけても高等教育にこそ「スポーツ教育」が必要な理由がここにあります.
大学における体育授業の意義

そのへんも含めて,あとは以下の関連記事も読んでください.

関連記事
道徳教育は体育でやりましょう

2018年7月11日水曜日

続・女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

最近,こんなニュースが大学界を騒がせています.
「心は女性」の男性受け入れへ…お茶の水女子大(読売新聞 2018.7.3)
心と体の性不一致学生入学検討へ(NHK 2018.7.3)
いきなり出てきたものではなく,この話題はかなり以前から取り沙汰されていました.
私も1年くらい前に記事にしたことがありますし,仲間内でも「もしトランスジェンダーの学生が希望してきた,どうするんだろうね」などと話していたものです.
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?
今回の記事は,その続きとします.

なお,この話題は日本に限ったものではありません.
【スミス大学】アメリカの名門女子大、トランスジェンダーの入学が可能に(ハフポスト 2015.5.4)
アメリカ・マサチューセッツ州にある名門女子大「スミス大学」が5月2日、トランスジェンダーの学生の入学を2015年秋入学から許可すると発表した。男性に生まれたが、女性としてのアイデンティティを持つ学生は入学の対象となる。一方で、女性に生まれた後に男性のアイデンティティを持つ学生の入学は許可されない。
過去記事でも書いているように,私は「どっちでもいい」と思っていますし,結局のところ「大学次第」だと考えています.
大学の教育方針に沿うのであれば,生物学的性差も社会学的性差も「こうでなければならない」という判断基準はないと思いますよ.

「この際,女子大の存在意義を見直したほうがいいのでは?」などと言い出す人もいますが,事はそんなに大げさにする必要はありません.
女子学生だけの環境で学びたいという要望が存在しており,女子だけで学ばせたほうが学習が円滑に進むという教育者たちの経験則と現実があるのですから,この上なにを論じる必要がありましょうか.
同じことが「男子校」にも言えるわけですから.

もし「女子大」とか「女子校」の存在意義を論じるとすれば,少なくとも日本の女子大学が誕生した理由である「女性の高等教育機会の提供」は既に達成されているものと考えていいでしょう.
かつて,日本の高等教育(大学)には女子は遠ざけられていましたので,それを補うものとして女子大学が設置された経緯がありました.
しかし,その差は非常に小さくなってきており,2017年の内閣府調査によれば,大学進学率は男子:55.6%に対し,女子:48.2%です.
また,男女ともに入学希望者が多い難関大学とされるいくつかの共学大学においても,入学者の割合は女子のほうが高いところもあります.

あと,女子大にどんな恨みがあるのか知りませんが,なんだか執拗に文句つけてくる人もいるんです.
例えば,「どうせ社会に出たら異性との交流があるのだから,大学は共学にすべきではないか」といった,それこそ男性的発想.
どうやら世の中には「女子大=閉じられた秘密の花園」というエロ漫画的妄想を抱いている方々がいるんですけど,落ち着いて考えてもらえれば,そんなわけないことに気づいてもらえるはずです.
詳しくは過去記事に書いているので,そちらをどうぞ.
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

とは言え,ここで簡単に説明すれば,教壇に立つ教員は私みたいな男性教員の方が比較的多いし,事務職員だって男性の方が多い.トイレの清掃に入ってくる用務員さんも男性だし,学生も門を出れば普通の社会で生活する一般人.クラブ活動やサークルで他大学の男子学生と交流することも多く,男性社会から断絶された空間などではないのです.

ただ,私が今回のニュースで驚いたのは,「体は男性」の学生を,日本の女子大が受け入れることを検討していることです.意外と早いペースで価値観の変化が起きているんですね.
逆なら普通にあり得るかなって思っていたので.つまり,「体は女性で,心が男性」の方.
まあ,そういう人は既に以前から女子大に入学していたのでしょうけど.

ここで私が再度問題にしたいのは,「体は男性,心も本当は男性」という学生をどのように判別するのか?ということです.
繰り返しますが,私はその女子大学がどのような教育をしたいのか? が最も重要な判断基準だと考えていますので,あんまり外野から意見するとおせっかいな話になることを承知の上です.
でも,内面を重視して外面を脇に置くような姿勢には,ちょっと違和感があります.
実際,お茶の水女子大学の説明では以下のような状況.
「心は女性」の学生、事前申告で確認 お茶の水女子大(日経新聞 2018.7.10)
受験前にトランスジェンダーであるとの事前申告があれば、大学が確認して受験を認めるという。(中略)トランスジェンダーの場合は事前に申し出てもらい、大学が資格に該当するか確認する。具体的な確認方法については未定。
つまり,現時点では「体は男性,心も本当は男性」という学生をどのように判別するのか未定のようなんですね.

私は,女子大であればこそ「本人の心が女性」であれば入学OKという基準には疑問があります.
というのも,大学教育というのは,人と人との交流によって成り立っていくものであり,本人の主観だけでなく,他者からの評価も重要な教育資源になります.相手が女性か男性かの判断にしても,決して無視できない基準です.

そもそも,女子大学は「女性への高等教育機会の提供」をその目的の一つとして誕生しています.
そしてそれは,女性という「戸籍」上の性の問題であり,女性らしい「外見」という性の問題でもあります.
つまり女子大学というのは,他者から「女性」として扱われている人間のために用意された高等教育機関であり,他者から「女性」として扱われている人間が集う大学という性質が強いところです.

お互いを「女性」として認識し合えている環境下にあって,女子大らしい教育が成り立つと言えますし,実際,私も女子大での授業のオリジナリティはそこにあると実感しています.
よって,本人が「私は女性」という認識を持っているからと言って女子大学に入学するのは無理があるように思うんですよ.
言い換えれば,本人が自分のことをどう思っているか,ということよりも,周囲の人間がその人をどのように思っているのかが大事なんです.
別に外見差別や性差別をしているわけではなくて,大学教育や学友との学びにはそういう側面があるっていうことです.
(そもそも,どちらかって言うと私は,女子大学に歴史的意義はあっても「将来的に女子大学は不要」と考えているタイプですし)

もちろん私も,「本当に心が女性」かどうかを判別できるのであれば,そうした人を女子大学に入学させるのは歓迎します.
けど,現時点では時期尚早だと思います.判別基準も曖昧なんだし.

「女子大入学の条件は外面だ」なんて受け取られるような事を言うと,「性の多様性が・・・」といった文句が出てきそうですし,実際にお茶の水女子大学の説明会ではそのような言葉が出たようです.
お茶の水女子大「性には多様性がある」 トランスジェンダーの女性を受け入れる理由を説明(ハフポスト 2018.7.10)
本人の主観を重視するのであれば,共学に入学するのが正統でしょう.
わざわざ女子大に入学する理由がないじゃないですか.「学習の機会」という意味においては,上述したように既に女性であることによるハンディキャップは無くなっています.

だからこそ,現在の女子大の存在意義とは,お互いを「女性」として捉え合う環境での学びの空間の存在です.その学習環境の意義は認めます.
逆に言えば,そうした学習環境の提供に疑問があるのであれば,それこそ女子大学であることについて疑問を呈する時期だと思うんです.

2018年7月9日月曜日

田舎暮らしへの失望に失望

昨日,こんなニュースを見ました.
昨日に限らず,この手のニュースはしょっちゅう目にします.
田舎育ちの都会生活中の私ですから,この手のニュースには感慨深いのでコメントしておこうと思いました.
以下,お暇だったら読んでください.

恐怖の実話!悪夢と化した「夢の田舎暮らし」(Yahoo!ニュース 2018.7.7)
子どもが産まれたら、人も土地も開放的なところで育てたい──。
東京生まれの東京育ちだった石沢友美さん(仮名)は、子どもを身籠もったと同時に、東京・吉祥寺から山梨県峡北地域のある集落に移住を決めた。3年前、32歳のことだった。
(中略)
だが住み始めてほどなく、最初の“事件”に直面する。ゴミが出せないのだ。
移住に当たっては役所の窓口にも何度か足を運び、生活の仕方などをいろいろと聞いたつもりだった。だが、ゴミが出せない、というのはまさかの展開だった。
「高さは人の背丈ほどもあって、幅はそれこそプレハブ小屋並みの長さの立派なゴミ集積所があるのは知っていたんです。市の有料のゴミ袋を買ってそこに出せばいいものと、頭から考えてしまっていて……」
移住して間もなく、ゴミ出しに出向いたとき、目の合った人から「あんた、名前は?」と訊かれ、丁重にあいさつを返した。
するとほどなく、自宅に地元集落の役員だという初老の男性が現れたのだ。
「あれ(ゴミ集積所)は組(集落)のもんだから、組に入っておらんもんはあそこには出せん」
友美さんはこう応じた。
「では、ちゃんと会費をお支払いして組に参加させていただけませんか」
だが、組長(町内会長)と相談してきたという男性が再び自宅を訪れ、こう告げた。
「悪いけんど、組長がうちの組にはよそから来たもんは入れんっちゅうとるから」
「じゃあ、ゴミを出せないの?  そんなバカなことって……」
バカはお前だ.と言いたい.
都会だって,ゴミ集積所は指定の場所にしか出せないでしょう?
お金を払ったからって,誰でも捨てられるゴミ捨場なんて怪しい要求が成り立つわけがない.都市部でもゴミの集積・処分問題は深刻な課題だというのに.
それと一緒だということが分からないのですね.
(こういう「社会的課題」に対する無頓着が「都会VS田舎」問題の本質にあるのですが,それは後述します)

生粋の田舎育ちである私には,そこに書かれている内容が手に取るようイメージできます.どういう「ゴミ集積所」なのかも明瞭に察しがつく.
鮮明にイメージできるからこそ,この「石沢友美さん(仮名)」のやっていることがどれだけ非常識なのかも分かります.
まあ,都会育ちの人たちの多くにはチンプンカンプンなのでしょうけど.

上記記事のリンク先に行って読んでもらうといいのですが,他の事でもあたかも「田舎の慣習に振り回されて困っている」ような書きぶりになっていますが,それってのは,人と人とが作り出す「社会」を構成・運営していく上で当然のことを要求されているだけのこと.
都会ではそれらが公営サービスとしてオートマチック化されていて,この都会育ちの人間たちには見えていなかった,それだけのことです.

細かいこと抜きにして,結論から言いますよ.
結局のところ,移住してきた都会育ちの人が田舎の人に嫌われるパターンとは,自分自身がその社会を構成する一部になろうとせず,なんでも「金」で解決しようとするからです.
言い換えるならば,それまでその地域の人々が長い年月をかけて培ってきた「関係性」によるバランスを,金銭という虚構の価値によってイコライズできると考えている.
そのくせ,「田舎は排他的」だとか言い出す.
本当に排他的なのは自分自身であることに気づきもしない.
社会的サービスを享受するためには,その地域社会への貢献が必要なのに,その貢献を金銭的なもので済ませられると考えているんです.
(これは「ふるさと納税」がうまくいかない理由の一端ではありますが,今回は割愛します)

そのゴミ集積所だって公営のものではなく私的な場所なのだから,普段から管理やメンテナンスをしてくれている人がいるわけです.
つまり,ここはあくまで私有地を使って,その地区の知り合い同士で私的に共有している「ゴミ箱」なんですよ.
さらに言えば,これは記事中には書かれていないので推察するしかないことですけど,そこに捨てられたゴミの中でも,公共のゴミ回収車が持っていかないゴミを処分場に運搬しているのは,その地区の誰かが担当している可能性大ですね.たいてい,大型トラックを持っている若手のオッチャンがやっているものです.私がもし地元・実家で生活していたら,その担当は私だと思います.

ようするに,このゴミ集積所というのは都市部のように回収ルールが決まっているところではなく,ゴミ処分場に自分たちで持っていくために用意しているスペースであると考えられます.
公共サービスが行き届かない地域の場合,そういうスペースがよくあります.
そんなところを,どこの馬の骨とも知らない人に使わせるわけないでしょう.勝手に出してる輩がいたらキレるわ.

さらには「お金を払うからゴミを出させてくれ」って,人を舐めてんでしょうか.
これはちょうど,宅配ボックスが無いマンションで「アマゾンとかの荷物を受け取りたいけどいつも部屋にいないから,お金を払うので貴方の部屋で受け取ってくれ」って見知らぬ部屋の住人から言われているようなもの.
それってお金の問題じゃないし,お金もらってもやりたくない.っていうかお前,誰? ってなるでしょ.

都会人が田舎に移り住んできて言う「排他的」とか「古臭い慣習に縛られている」というお定まりの文句は,たいてい,一歩引いて考えてみたら理不尽でぶっ飛んだ文句である可能性が極めて高い.
(ちなみに,田舎の宅配便は,不在の場合には隣の家が受け取ります.宅配業者もそのあたりの事情は知ってる場合が多いですから)

実際,それを匂わすように,上記記事の続きにはこうあります.
地域に住んでいる者が、有料のゴミ袋を購入しながら、ゴミ収集のサービスを受けられない。この状況に異議を唱えた友美さんに、役所の言い分はこうだった。
「集落のゴミ集積所は集落の私有地にある私有財産で、公共財ではないのでどうしようもできません。もし、移住の方が何世帯か集まって新たにゴミ集積所を作ってもらえれば、そこに回収には行きます。新たにゴミ集積所を作るに当たっては補助金も出しています」
「移住者こいこい、と謳う一方で地元でゴミひとつ出せない状況を変えられないのは役所の怠慢、不作為ではないのか。この時代に『あそこの組長は頑固だから……』で行政指導ひとつできない場所が、日本の移住人気ナンバーワンだなんてふざけたことを謳わないで欲しい」
ふざけてんのはどちらでしょうか.
基本的なところに立ち戻りましょう.ゴミは,自分で処分するものです.
いくら都会人であっても,これは子供の頃に教えられたはず.

だから田舎では自動車が必須と言われます.
その足が無いお年寄りは,隣近所の人が対応します.どうしても無理な場合は役所が対応する.
で,その人的資源が足りていないから困っている,っていうのが昨今ニュースなっているわけですね.

さんざん文句つけて,結局この記事の人は別の場所へと移り住んで落ち着きます.
集落で数々の恐怖体験をした末に、友美さんはやはり移住者夫婦の紹介で、わずかな距離にある、移住者が多い別荘地域に転住したのだ。そこには大阪や東京から来て子育て、田舎暮らしを満喫する多くの移住者が集まって住んでいる。
ゴミ出しはもちろん大丈夫だし、なにより「もの申す」などと称して人気の少ない神社の境内や公園に呼び出されることもなく、「厄介者」などという時代錯誤の暗い表現などとも無縁の新天地だ。
最初からそうすれば良かったのです.
公共サービスが行き届くような人口密度があって,伝統文化や慣習がなく,新しく開発している地域の方が移住者にとって心的ストレスが低いことは常識的に考えて分かるはず.
むしろ,どうして最初に伝統集落に住むことを選んだのか?

記事にあるこの人は実在する個人なのかどうか不明ですが,破天荒なキャラクタであることが察せられます.きっと周囲からは「周りの人のこと考えないよね」って言われてるんじゃないかな.
記事を読む限りでも,最初の移住理由が「土地や人が開放的」ということで,展望の良いところを選んでるわけです.そこには「社会」に対する考慮がないんですね.
「土地や人が開放的」っていう理由も,都会での人間関係が嫌になって,田舎であればそれが開放されるとでも考えていたんじゃないか?
つまり,この人にとっては田舎の「土地」も「人」も,自身の生活を満足させるための備品や風景でしかなかったんですよ.

長期の観光旅行みたいなもの.
「ホームステイで現地の生活を満喫する」って勢いよくやってきたものの,やっぱり辛くなったのでホテルで滞在することにしました.ここなら周囲の人たちも皆「観光客」だから気楽だね,って.
それと同じことを言っているわけですから.

もっと言えば,記事中の人が落ち着いたという地域にしたって,あと30年くらいすれば立派な「新規入居者に厳しい田舎の集落」になるであろうことは容易に想像できます.
こういう人間模様を描いた文学作品やSF小説などは山ほどあるのでイメージしやすいでしょう.

もちろんこれは,「空き家バンク」なる制度でこの人にこの家を紹介した役所の責任とも言えます.ちゃんと移住理由を確認しておくべきでした.
超ド田舎育ちの私からすれば,田舎の伝統集落になんの縁も知人もなく移住するなんて自殺行為だと考えます.
こういうところは,都会人でも分かるようにマンションで例えれば「ルームシェアリング」しているようなものです.まして,伝統的な所であれば,新規入居者は「居候」のような立場と思ったほうがいい.っていうか,それくらい想像できなくて人間は務まらんだろ.

人間は古来,土地を拓いてきたし,そのために他者と関係性を結んできました.
生活空間だけがぽっかりと断絶された状態で存在することなどないのです.
しかし,都市部ではそうした「土地」や「人」への意識が極めて希薄になります.
それは,超ド田舎育ちの私が,大学生時代から都市部で生活するようになって身に沁みて感じていることでもあります.
なかなか言語化できないものですけど,自分が社会に対し何も関与しなくても,その生活空間が成り立ってしまう空虚さであり,言い換えれば「気楽さ」です.

そもそも,当たり前ですが田舎の人たちにしたって「新規入居者に厳しくしたい」と思っているわけではありません.
その土地の生活に馴染んでもらって,同じ土地の同居人として助け合って暮らしていきたいと考えています.
だって,「移住者VS田舎人」のトラブルとは,どれも「その地域にとってのトラブル」を回避するために起きていることだからです.

もっと言えば,メディアで「移住者VS田舎人」という構図でのトラブルが取り沙汰されることが多いだけで,もともと田舎ではこうした人間関係のトラブルは発生しており,別に移住してきた人だけを目の敵にしているわけではないんです.
複数の人間が集まって定住するためには,社会を形成する必要があります.そのためには「排他的な人間関係」を築いていては成り立ちません.だから田舎では積極的にコミュニケーションが図られるし,要望や要求がストレートです.
それに対し「田舎は排他的」だと感じている人が多いのは,自分の生活空間や生活パターンを侵されたくないという思いが強すぎる,すなわち,「本当に排他的なのは自分自身」であり,「他者に無頓着で無関心」であることに気づいていないのですよ.

画して,都市部では「排他的な個人」と「他者への無関心」がミックスされて,社会は田舎よりも混沌としてきます.
その例は数多.
小池百合子とか橋下徹みたいな人間がトップに座ったり,そうかと思えば蓮舫とか辻元清美みたいな人間が支持を集める.
これが都市部の怖いところです.あんなキチ○イじみた政治家は田舎では当選できません.

例えば,このブログでも結構取り上げていた「築地市場・豊洲移転問題」なんかが典型です.
騙された? いえ,判断力の問題でしょ
築地市場土壌汚染問題今更何故報道
あんなの,当事者(漁業,小売店)の人たちに判断を任せればいいじゃないか.と田舎の人間は考えますが,なぜかそれがニュースになる.しかも全国ニュースにもなる.

え? それは一つの問題について社会全体で捉えようとしているから,都市部が「排他的」「無関心」ではないことを意味しているのではないか,って?
違いますよ.排他的で無関心だから,あんなバカバカしいことに大騒ぎできるんです.

当事者の方々のことを思えば,こんな話は「市場の皆さんで落とし所をつくってください.私達は美味しいお魚が食べられればOKですので」となる.
より新鮮で安全な魚を扱いたいと考えるのが市場の関係者というものです.それが仕事ですから.だったら,そうした彼らの要望や利益を考えるのが大事でしょう.
ところが,そうした当事者の方々のことなんか考えもせず,「自分自身」に降り掛かってくる可能性があるとなったら,言いたい放題になるのが都市部の政治です.
事情を無視して専門的知識もないのに「安全ではあるが安心ではない」などと言い出したり,そういう煽り立てることが上手い政治家が当選しちゃったりする.
田舎なら「あいつは口先だけで周りの人間のことを考えないから,投票しないように」などと口コミが広がって嫌われます.
それもこれも,田舎において人間関係のトラブルが多いことと,都市部においては他者に無関心で排他的であることの裏返しです.

「田舎を飛び出す」という表現がありますね.
独創的なアイデアを受け入れてくれない,凝り固まった慣習に縛られた田舎を見限る若者を示唆する言葉です.
たしかに,田舎にはそのような部分があることは否めません.
一方,都市部では独創的な人間を受け入れるキャパシティもありますが,そのトレードオフとして「バカが許される」という部分があることも否めません.

都市部では,手に負えないバカがいても警察が逮捕してくれるし,大人しいバカは施設で対応してくれます.
田舎ではそうはいきませんので,皆でバカがのさばらないようお互いを注視しています.
田舎に移住してきた人が言う,「新参者は監視される」というのはそのためです.総人口が圧倒的に少ないのですから,一人のバカが現れるとその地域を破壊することにつながります.

危険なのは,都市部は人口密度が高いから,バカが少々いても埋没することです.
ちょっとバカな奴がいても,それを上回る大バカが近所に住んでたりする.
その大バカも周囲に似たようなバカが(絶対数として)たくさんいるから,「実は俺はたいしたバカではないのかもしれない」などと考え出す.
問題なのは,そうしたバカの自覚がない人間が繁殖していくことで,少しのバカはご愛嬌となっていくことです.
こうして「ただのバカ」だったはずのバカは,「愛嬌のあるバカ」とか「馬鹿にできないバカ」という評価を得て,社会のいたる所に蔓延します.

このような独創的なアイデアを持ったバカが蔓延した社会では,
安全な魚市場を安心ではないと煽ったり,
自国民にカジノをやらせようとしたり,
18歳のガキに媚を売ったり,
TPPに加入して自国の農業を破壊しようとしたり,
謎の伝統エチケットを流布したり,
電車に整列乗車したり,
ラーメン屋に行列をつくったり,
安倍晋三を国のトップに据えたままにします.

関連記事はこちら↓
築地市場土壌汚染問題今更何故報道
カジノの使い道
東京終了のお知らせ
もうちょっと本気で農業のこと(農家が農業をしないわけ)
恐怖!TOKYO GOOD MUSEUMとかいう謎のプロジェクト
整列乗車はマナーではない
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

というわけで,ここまで読んでくれた方は,その上で他の「田舎暮らしに失望した」系統のネット記事も読んでみてください.
その著者たちの,傲慢で無知蒙昧な傍若無人ぶりが手に取るように分かるでしょう.
耐えられない! 田舎は排他的だと実感したエピソード3つ(タイケン団 2017.8.17)
田舎に住みたくない理由8つ(今より少し良い生活 )
田舎が廃れていく理由は田舎者の陰湿さが原因(The Gizmosquito 2017.6.18)
お前バカか? って言いたくなるような理由やエピソードばかりです.


2018年7月5日木曜日

大学が置かれた現状を再確認

大学教育に関するニュースがたくさん出てきた今日このごろ.
実は切実な問題である・・,
の話でもしてみようかと,女子大での仕事経験のある私は考えていたのですけど,もうちょっと「世間の賑わし度」の高い方から取り上げます.

昨日からのニュースで出てきたコレ↓
東京医大理事長が便宜依頼、学長と息子合格指示(読売新聞 2018.7.5)
文部科学省の私立大学支援事業を巡る汚職事件で、受託収賄容疑で逮捕された同省前科学技術・学術政策局長の佐野太容疑者(58)(4日付で大臣官房付に異動)に対し、東京医科大学(東京)の理事長が支援対象の選定で同大に便宜を図ってもらえるよう依頼していたことが関係者の話でわかった。その見返りとして、理事長と同大の学長は、佐野容疑者の息子を同大に合格させるよう学内に指示していた。
各業界には,これといった証拠がないことや,それを公に晒すと自分の身も危ないから口にされていないだけで,よくある悪巧みというものが存在します.
今回の話もそれです.

当然ながら,そんな話題ですからその他の大学さんたちは以下のような反応になる↓
他大学「ありえない」選定の名誉欲しさに焦り?(読売新聞 2018.7.5)
私立大学の支援事業を巡る受託収賄事件で、問題となった事業の対象に選ばれた他の大学からは「あり得ない事件だ」と驚きの声が上がった。東京医科大は2016年度に落選しており、翌17年に選定された際には大学のホームページでPRしていた。専門家は「『選ばれた大学』という名誉欲しさに、焦りがあったのでは」と指摘している。
絵に描いたようなカマトトですね.
何度も例に出している,「高校野球の特待生は違反です,に対する反応」と同じ類のもの.
プロ入り前の選手に対する,スカウトからの「食事代(という名の賄賂)」なんかもその一種です.

あのさぁ,それが横行していることなんて,最初から知ってたでしょ? ってことなんですよ.
実際,このニュースが出てきた時,私はこんな大騒ぎになるとは思いませんでした.
やっぱり,その時々の世間の関心や嗜好が大きく影響するんでしょうね.
たしかに,よくよく聞けば大問題だし,それでいてしょうもない話なのが印象的な事件ですけど.

最近話題になっている学校・大学スポーツの「危険なラフプレー」についてもそうです.
あんなの,競技スポーツ経験者からすれば,そこら中で発生していることなんて知っています.
課題としなければいけないのは,頻発しないようにするためのシステム作りや工夫,発生した際の当事者に対する対応方法や処分の手続きについてでしょう.
カマトトぶってセンセーショナルに報道するのはやめてほしいですね.

今回の事件ですが,当然ながら,多くの大学が同じような不正をしているわけではありません.
こういう悪巧みをするのは,一部の大学経営陣や官僚だけであろうことは申し添えておきます.

それに,大学にはこの手の話題が好きな人がいるんです.
「選考に有利になる方法がある」とか,「あの人は文部科学省のお偉いさんと仲がいいから,助成金とか支援金の選定で鉛筆を舐めてくれる」とか.
政治的に動くことを得意とする教員や職員が,これぞ私が生きる道とばかりに目を輝かせる話題.
彼らにとっては,そうした政治的駆け引きやパイプの太さ,コネクションへの造詣の深さがステータスなんです.

別に,政治的に動く教職員を悪く言うつもりはありません.彼らの多くは,節度と法律を守って仕事しているのだろうし,そうやって政治的に活躍してくれる教職員がいないと組織というのは機能しませんから.

上記の新聞記事では,「専門家は『選ばれた大学』という名誉欲しさに、焦りがあったのではと指摘している。」とありますが,私見としては,「焦り」ではなく「政治的な活躍をこじらせた」可能性も高いと思うんですよ.
というのも,私はこういう類の大学トラブルは「大学としての名誉」よりも,「個人的なプライド」によって発生することをよく見てきたからです.

多くの教職員は,むしろ焦ってなどおらず,「いかにのんびり過ごすか」「いかに研究に打ち込めるか」「いかに学生を成長させるか」を重要視しています.
ところが,そうした「のんびり」とか「研究」とか「教育」に自分の存在意義や役割を見出だせず,政治的な活躍によって大学内での地位を確立している教職員がいて,そんな彼らが輝ける機会というのが今回のような場面だったわけです.
そういう意味では「焦り」もあったのでしょうけど.いずれにせよ個人的なものです.

問題なのは,こういう個人的なプライドや存在価値の発露が,大学運営に対し強力に影響している現状です.
もちろん,こうした人間関係と政治的な力学が大学運営において働いていることは以前からありましたが,その影響力が年々増加していることを肌で感じます.
どんどんヤバくなっていきますね.もう手がつけられないほどに.

※なお,こうした事態に対し,私はもう諦観しかしていません.
「もはやこれまで」とはこのことです.


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2018年7月3日火曜日

桂歌丸さん逝く

サッカー日本代表が,ベルギー代表に惜敗したことで持ちきりです.
今日も学生や教員の話題はその話題一色でした.
私としては,「案の定」な展開と結果だったこともあり,そんなに興味はありません.
とは言え,ベルギーを焦らせて本気出させたところは評価できます.
言い換えれば,それだけの実力差があったということですけど.

多分,良い意味でも悪い意味でも,これからサッカー日本代表は受難の時代がくると思います.例の「負けてるのにパス回し」の事件も含めて.
どういう事かというと,サッカー日本代表に対する評価がそれなりに高まったことから,マークされる存在にはなったこと.
これにより,これまでと違って勝ちにくくなるだろうし,特にワールドカップ予選リーグで勝ち上がることは難しくなるでしょう.
ちょうど,現在のイランとか韓国の立場みたいなものですね.
安定して勝てるようになるには,今後,もう一つブレイクスルーが必要になるかと思います.

いえ,そんなことより重大ニュースは桂歌丸さんが逝去されたことです.
昨日は私にとって休日でもあったので,朝からずっとHuluやニコ動で「笑点・大喜利」を見ていたんです.
「いやー,やっぱり歌丸さんは別格だなぁ・・」って見ていたところだったし,円楽(楽太郎)さんとの「やるかジジイ!」と「歌丸死亡ネタ」に安定感を感じていたところに飛び込んできたニュース.
あぁ,この日が来ちゃったかぁ・・,と.
私にとっては格別の思い入れがある方だったので,かなりショックです.

よく,歌丸さん司会時代を懐かしむ声がありますが,私は5代目円楽師匠が司会で,歌丸さんが回答者だった時代が笑点・黄金期だったと思っています.
木久蔵さんと楽太郎さんの間に入って,歌丸さんが両者に絶妙なツッコミと返しで,しかもわざとらしくなくコントロールする姿は,まさに神業でした.私も子供ながらに「この人はヤバい」と尊敬の念を抱いたものです.
まさに「歌丸半端ないって」

それより何より,歌丸さんの良さを引き出していたのが円楽さんの司会です.
youtubeとかニコ動に過去の大喜利がありますので,ぜひ見てみてください.すごいですから.

今の大喜利がどうのこうのというわけじゃないんです.今も面白いことは認めます.十分に楽しませてもらっているから.
ただ,歌丸さん回答者時代は6人のキャラクタに無駄がなかったですよね.
木久蔵,歌丸,楽太郎のトリオを中心に,小遊三,好楽,こん平が独自の笑いをとってくる.まさにスキがない.
小遊三さんの回答の安定感は凄い,外すことはほぼないでしょ.
好楽さんを悪く言う人もいるけど,あの人はハマったら一番面白いですから.
こん平さんは形式美ですね.存在してくれるだけで面白い.

大げさかもしれませんが,私にとっての「共同体」とか「組織」の在り方に関する基盤は,あの時代の笑点・大喜利メンバーが基になっているような気がします.
ああいうメンバーと,そのやり取りで仕事ができたら,一番充実した時間を過ごせるんだろうなぁって.

それぞれの個性を生かして潰さず,そして馴れ合うわけでもなく,互いを「了解」したなかで「在る」こと.
最高のパフォーマンスを発揮できる組織や集団の,見本のようなものだったと思います.

その中でも,歌丸さんの役割は大きかったですね.
司会時代だけでなく回答者時代から,木久蔵さんや楽太郎さんを活かそうと一生懸命に振る舞っていたのはひしひしと伝わってきましたし.

私も仕事や各状況においては,歌丸さんのような振る舞いをしていきたい.おこがましい話かもしれませんが,それが私の昔からの目標でもあるんです.

2018年6月30日土曜日

井戸端スポーツ会議 part 54「やっぱりスポーツは社会を投影する」

何度か「井戸端スポーツ会議」と称して書いてきたテーマに「その社会の有り様はスポーツに表出する.または,スポーツへの取り組み態度が社会に影響する」というものがあります.
例えば,以下の記事でそんなようなことを書いてきました.
井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」
井戸端スポーツ会議 part 44「スポーツの精神が大切なわけ」

サッカー・ワールドカップに湧いている日本.
そこで,やっぱり日本の現状を象徴するかのような一幕がありました.
もともとサッカー・ワールドカップは,その国民性が現れると言われることもあり,今回の一件はとても興味深いものです.
その出来事とは以下のようなもの.
日本の“時間稼ぎ” 「フェアプレーに反する」 ポーランドで批判相次ぐ(産経新聞 2018.6.29)
サッカー日本代表が28日のワールドカップ(W杯)ロシア大会ポーランド戦終盤で時間稼ぎに終始したことに対し、ポーランドのサッカー界からは試合後に「フェアプレーに反する」などと批判が相次いだ。
主に1970年代に活躍した元代表選手のルバンスキさんはテレビで「最後の10分間はひどかった」と日本代表を酷評。決勝トーナメント進出のためにボール回しを続けた日本代表からボールを奪おうとしなかったポーランド代表にも「がっかりした」と語った。
また、同国サッカー協会のボニエク会長も同じテレビで「リードされている日本代表が自ら負けを選んだ。こんな試合は初めてだ」と指摘。「試合とは呼べない内容だった」と批判した。
どうしてそんな事態になったのかというと・・・,
日本が決勝T進出 警告の差でセネガル上回る(毎日新聞 2018.6.29)
同組のもう1試合でコロンビアがセネガルを1-0で降した結果、日本はセネガルと得失点差、総得点で並び、直接対決も引き分けだったが、警告数の差で上回って2位となり、2010年南アフリカ大会以来、2大会ぶり3度目の1次リーグ突破が決まった。
つまり,同時刻に行われていた試合「セネガル vs. コロンビア」において,セネガルはコロンビアに負けるだろうと予測し,危険なプレーに出される「警告」の数で勝負しようと考えたからです.

これが「フェアプレーポイント」と呼ばれるシステムです.詳細は以下の通り.
フェアプレーポイント、W杯で初適用 日本とセネガル(朝日新聞 2018.6.29)
28日に日本がポーランドに0―1で敗れ、セネガルもコロンビアに0―1で敗れた結果、日本とセネガルは勝ち点4、得失点差0、総得点4で全て並んだ。大会の規定では、次に順位決定の基準になるのは直接対決の結果だが、日本とセネガルは第2戦で2―2で引き分け。その次の基準となるフェアプレーポイント(FPP)が初適用された。
FPPは①イエローカード(警告)がマイナス1点②警告2回によるレッドカード(退場)がマイナス3点③一発退場がマイナス4点④警告を受けた上で一発退場がマイナス5点、と定められている。1次リーグ3試合での日本は警告4、セネガルが警告6で、減点が2点少ない日本が2位に入った。
「フェアプレーに徹しなかったチームが『フェアプレーポイント』によって予選突破するとは,これいかに?」
という想いがサッカーファンにはあるのでしょうね.
いえ,私もそう思います.

はっきり言って,今回の日本代表チームがとった戦略は誉められたものではありません.
スポーツの勝負としては最悪の判断です.

もちろん,これには擁護したり称賛する意見もあるわけでして.
今回の采配はルール違反ではないとか,これが問題なら,こういうルールになっていることを批判するべきだとか.
勝つことに徹するのが,最高峰の舞台であるワールドカップであり,プロスポーツ選手・監督の在るべき姿だろうという声は多いものです.
っていうか,日本国内のネットニュースの論調を見る限りでは,これがかなり多いんです.

ただ,それを言い出したらスポーツの魅力はなくなっていくんですよね.
「ルールに反していないからOK」というのは,まともな人間の考え方ではないし,それがスポーツでまかり通るようになったらお終いです.

これを本記事のタイトルに重ねて言い換えるならば,現在のサッカー日本代表,そして日本社会も「ルールに反しない中で,強欲な手法により利益を得ようとする」状況にあることを示唆しています.

「どうしても本戦に進みたかった」という気持ちは痛いほどわかるし,言い訳としても成り立ちますが,そうやって得た勝利は,今後の日本のサッカー・レベルを衰退させる転機になった可能性があります.
なぜなら今回の一件は,日本のサッカー少年たちの心に「勝ち上がるための方略」のお手本として,しっかり刻まれたであろうからです.

常々,学校教育における「部活動」の勝利至上主義が批判されています.
勝つためには下劣な作戦や戦略もいとわず,選手の安全や人権を損なう行為・判断がなされる場面が多いからです.
その最たる例が,あの「高校野球・甲子園大会:松井秀喜選手全打席敬遠問題」だったりするのでしょう.

日本のスポーツ界全般で言われているのが「ジュニア時代には高いパフォーマンスを発揮するが,それ以降が衰退する」というものです.
諸外国と比べて,各スポーツ種目の競技人口はとても多いのに,そこからトップレベルの選手が現れる数はとても少ないんです.
しかも,トップレベルの選手が出てきたとしても,得てしてそういう選手は,海外留学によって芽が出ていたりする.

あと,審判やレフェリーに対する態度もいただけないですね.
昔から日本のスポーツ界の課題として言われていることですが,この点はまだまだ後進国です.
ヨーロッパ出身の人からもお聞きしたところ,日本のスポーツ現場で驚くのは,審判やレフェリーに対し文句を言う選手や指導者が多いことです.
間違ってほしくないのは,「文句,罵倒」と「抗議,異議申し立て」は違うということ.
そして,文句言うにしても節度と程度があることです.
「文句言うくらいなら,抗議すればいいのに」というのがその人の話でしたが,日本の指導者や選手に,この違いが理解できているかどうかが極めて怪しい.

審判に対する暴行も横行していますし,そもそも,プロ野球ではそういった風景が「珍プレー」としてテレビで笑いをとっていた時代もありました.
指導者が審判やレフェリーを尊重する態度をとっていないから,ベンチで「あの審判はバカだ」などと生徒・選手の前で口走っているのかもしれない.
それだけならまだ良いのですが,試合中にも面と向かってクレームや文句を言い出す指導者もいます.
その結果,生徒・選手も審判やレフェリーを尊重しなくなり,文句言ったり暴行する生徒・選手も出てくるのは当然のこと.
それもこれも,勝利に対する手段を選ばない態度と,それを是認する社会的風潮が生んでいます.

自戒の念も込めて言えば,端的に言って,現代日本のスポーツの戦い方は「せこい」んですよ.
姑息で付け焼き刃な戦略を立てて,勝つためのその場しのぎのプレーに終始.
結局,その試合では勝つけど,成長が頭打ちになってしまう.
そのスポーツ種目の醍醐味を味わうことや,より高いパフォーマンス・ステージへの展望は二の次になり,逆に,「勝つことがスポーツの醍醐味」とか「競技力を高めればスポーツが楽しくなる」などと言ったりする.

私が思うに,今回のワールドカップでの日本のパス回し戦略を擁護する声が少なくない現状は,「勝つためにどうすればいいのか?」をスポーツ教育で徹底してしまう癖がついてしまった,日本社会の成れの果てだろうということ.

つまり,なんだか「パフォーマンス・アップ」を簡単に捉えているようなんだけど,その視野は狭く,スパンも短い.
しかもその狭い領域での短いスパンで,スコア(お金とかステータスとか)を稼ぐことに躍起になっている.
まさに現代日本でしょう.

しかもその戦略の何が哀しいって,「他人の能力や判断に依存して利益を得る」というものだからです.
そしてこれも,現在の,それもかなり以前からの日本の国際的立場と同じではありませんか.
「良い子」を演じていれば,ご褒美が得られるだろうというメンタリティ.それが性根まで染み付いた.

いえ,昔はそれをそれとして受け取られないよう隠してやっていました.
でも,現在は堂々と「仕方ないじゃん」ということにしている.
どっちが良い悪いの話で言えば,どっちも悪いんですけど,強いて言えば後者には意気地がない.
最近はどっかの国の大統領に,自国の拉致被害者奪還のお膳立てをお願いしてましたね.

だいたい,今回話題になっているプレーは,下劣以外の何物でもありません.
なぜって,もしセネガルがコロンビアから1点取って追いついたら,日本のグループリーグ敗退が確定するわけですよね.同時刻に行われていた試合なので,既に確定した試合結果を元にした戦略ではないのです.
つまり,あの場面での「時間稼ぎのパス回し」というプレー選択とは,「セネガルはコロンビアに勝てない」ことを表明・宣言したことと同義ということになります.こんな無礼なことがあっていいわけがない.
完全に「スポーツへの侮辱」であり,サッカーをバカにした行為なのです.

ほら,そこにはサッカーの醍醐味とか,より質の高いプレーを発揮したいという情動がないでしょう?
そういう戦略を是認する社会に,将来はないと言っても過言ではありません.
これはサッカー日本代表の選手・監督ではなく,その代表チームを作り育て,送り出している我々の問題です.

サッカー日本代表には,決勝トーナメントで良い結果を出してくれることを期待したいのは山々なのですが,戦績よりも前に,あの「時間稼ぎのパス回し」を払拭するような姿を見せてほしいものです.

2018年6月17日日曜日

歴史的ということらしい米朝首脳会談(の補足)

歴史的ということらしい米朝首脳会談から一週間が経とうとしています.
会談のすぐ後に書いた記事が以下でした↓
歴史的ということらしい米朝首脳会談
その後,いろいろと続報が入ってきたので,これを交えて会談を再検証してみたいと思います.

上記の記事の趣旨としては,その冒頭に書いたとおり・・,
(今回の会談について)我々としては,アメリカと北朝鮮の間で交わされる話に一々反応していてもしょうがない.両者はお互いにとって都合がいいことを話し合うわけですから,その他の国々の将来について考慮するわけがありません.
肝心なのは,この会談が日本にどのように影響するのか? ということ.そこだけ考えてればいいんです.
ということで,その上で今回の会談については,
今後,日本にとって本当に危険なのはアメリカからの要求だと私は思います.
そりゃもちろん,アメリカは今までも危険な国でしたが,今後の北朝鮮問題では,明確に日本と韓国を「囮」もしくは「餌」として使ってくることは目に見えています.
(中略)
「北朝鮮の暴走」をロシア,中国,そして北朝鮮自身が押さえ込み,逆にアメリカはそれを望むという構造が始まった.
実際,今までもそうだったわけですけど,これまでと違うのは,アメリカがそこで日韓をこれまで以上に「餌」として利用するようになったことにあります.
もちろん絶対的な自信があるわけじゃないですが,子供の頃から見聞きしてきた国際政治に関するニュースのパターンから察するに,上記みたいなことになるのだろうと私なりに心構えをしているところです.

政治的駆け引きの当事者(国家元首とか官僚とか)ではないので,私達としては裏事情のみならず,表事情すら分かりません.
ですから,物事の評価は私達の身に降り掛かってくるものやリスクからでしか判断できない.
であれば,今回の会談の結果は日本や日本人にとって非常にヤバいものではないかと捉えたくなるわけです.

過去記事にもしましたが,「この話の裏には日本が大逆転するシナリオがある」とか「今回の合意は罠を仕掛けたようなもの」,もしくは「ジャブを打っただけ」などといった,自分の世界観に沿ったような希望的観測はしないほうがいいでしょう.
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚
まだ言ってる「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」
我々一般人は一般人らしく,そのまま受け取ればいいんです.
あっち(政治家)だって,そのまま受け取られることを前提で話してんだから.余計な詮索するだけバカバカしいと思いますよ.

逆に,これまでの国際政治において,報道されていることとは異なる流れになったものなどあったのでしょうか? マスメディアによって「情報」や「雰囲気」は捻じ曲げられることはあっても,「事実」は変えようがない.
例えば,日本は戦中に朝日新聞(笑)などが「情報」を捻じ曲げて報道したとされていますが,玉砕(全滅)や転進(撤退)といった「事実」の報道はされていたわけで,それによって「日本は追い込まれているな」と読み取った人もたくさんいたんですよ.
いわゆる「大本営発表」とその報道によって,日本は世論誘導されたと言われていますが,いくらなんでも全てのジャーナリストを統制できるわけじゃないし,国民皆が騙されるわけじゃないから,多くの人が「報道されている情報は嘘だ」と気づいていたわけで.
大本営発表(wikipedia)
報道されている情報の枝葉を取り払って「幹」を眺めてみれば,多分それが最も客観性のあるものですよ.

さて,今回の米朝首脳会談にまつわるニュースがこの週末にも出てきました.
前回記事で述べたことを補間するようなものだと思いますので,いくつか紹介します.
例えばこちら.
トランプ氏、安倍首相に「日本に2500万人のメキシコ移民送れば君は退陣」(AFP通信 2018.6.16)
欧州連合(EU)の職員によれば、トランプ大統領は欧州にとって深刻な問題となっている移民問題に言及した際、安倍首相に対し「晋三、君はこの問題を抱えていないが、私なら日本に2500万人のメキシコ人を送り出すことができる。そうすれば君はあっという間に退陣することになる」と語った。
恫喝ですか? そうですか.
G7サミットは米朝首脳会談の前,6月8日9日に行われていました.
で,恫喝した結果,こうなったんですかね?
“非核化”費用は日韓で支援を~トランプ氏(Yahooニュース:NNN 2018.6.12)
初の米朝首脳会談を終えたトランプ大統領が会見し、北朝鮮の非核化にかかる費用はアメリカではなく韓国と日本が支援すべきとの考えを示した。
そして,我が国の首相はこんな事を言い出しました.
北非核化で首相「日本が費用負担するのは当然」(読売新聞 2018.6.16)
首相は「核の脅威がなくなることによって平和の恩恵を被る日本などが、費用を負担するのは当然」と語った。「拉致問題が解決されなければ経済援助は行わない」とも述べ、経済援助と非核化費用の負担は区別して考える意向も示した。その上で拉致問題の解決に向け、「最終的に私自身が北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長と日朝首脳会談を行わないといけない」との決意を改めて表明した。
恫喝されたから「費用負担するのは当然」などと言い出したんじゃないか? などと解釈したいわけでないのです.

事実1:アメリカのトランプ大統領は,日本を意のままにできると恫喝した
事実2:アメリカは北朝鮮の非核化を日韓にやらせるつもり
事実3:北朝鮮の非核化費用は,日本も出すべきと安倍首相は考えている
という,ただそれだけのこと.
それ以上のことを推察しても,本当のところは知りようがないですから.

我々一般人は,それをそのまま受け取ればいいと思います.
つまり,別に「アメリカに恫喝されたから,日本は非核化の費用負担をさせられる」わけでも,「もともと日本は,北朝鮮にとって財布のような存在である」というわけでもない.
「北朝鮮の非核化費用は,日本も出すべきと安倍首相は考えている」ということを,どのように捉えるのか? ということです.

ところで,安倍首相が「費用負担は当然」だと考えていることは別に自由だとしても,それだと困った点が一つあります.
安倍首相は2018年1月にこんなことを言っている.
対話のための対話は意味がない 安倍晋三首相が強調(産経新聞 2018.1.26)
安倍晋三首相は26日午前の参院本会議での代表質問で、朝鮮半島情勢をめぐり「(韓国)平昌五輪の成功に向けて最近、南北間で対話が行われていることは評価するが、その間も北朝鮮は核・ミサイル開発を継続している」と述べた、その上で「北朝鮮が非核化の約束をほごにして、核・ミサイル開発を進めてきた経緯を踏まえれば、対話のための対話では意味がない」と強調した。
ということは,日本の安倍首相は,日朝間における非核化交渉を進める以前に,さらには今回の米朝会談より以前に,もともと非核化の費用負担は日本がすべきだと考えていたことになります.
ってことは,つまり「日本が費用を出してあげるから,非核化してくれ」という日朝会談をするつもりだったってことでしょ? 対話のための対話ではなく,お金を出すための対話がしたかったということ.それってどうなのよ?
もちろん,これは「安倍首相がトランプ大統領に恫喝された結果」ではない場合の推測ですけど.

米朝会談はアメリカと北朝鮮だけでなく,その周辺諸国の思惑が交錯するところでもあります.
中国もその一つです.
前回記事でも述べましたが,北朝鮮問題については,中国とロシアが猛烈に関与してくることは間違いありません.それも,どっちかって言うと支援側で.
実際,そんなタッグを組んでいる様子がわかるニュースがありました.
米韓軍事演習中止の要求、習氏が正恩氏に促す 5月上旬(朝日新聞 2018.6.17)
中国・大連で5月上旬に開かれた中朝首脳会談で、中国の習近平(シーチンピン)国家主席が北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長に対し、米韓合同軍事演習の中止を米国側に求めるよう促していたことが分かった。中国外交筋が明らかにした。今月12日の米朝首脳会談の場で、トランプ米大統領は正恩氏の要求に理解を示したとされ、中国の思惑が反映された形だ。
これについては,私の推察では,アメリカ側にも「北朝鮮を対象とした軍事演習」を続ける理由が薄れてきたというのが実際のところだと捉えています.
むしろ,軍事演習を辞めたほうが,北朝鮮が韓国と軍事衝突してくれるかもしれない,といったところでしょうか.先に南北で紛争を起こしてくれた方が,アメリカが介入しやすいですから.

だとすると,中国がこのタイミングで「タネ明かし」をしたのも,北朝鮮と通通の関係を公表するためのものでしょう.
仮にそうじゃなくても,そうであることが分かる公表です.
北朝鮮側としても,それを明かされたところで困らないのでしょうし,中国としても今はアメリカと経済戦争の真っ最中ですから,アメリカに中指立てる目的で公表した可能性もある.

なお,ロシアはすぐに動いていました.
ロシアのプーチン大統領は14日、北朝鮮序列2位の金永南最高人民会議常任委員長とモスクワで会談し、9月に極東ウラジオストクで開く「東方経済フォーラム」に金正恩朝鮮労働党委員長を招待した。
これからしばらくは,ロシアと中国が北朝鮮を支援して,南北軍事衝突を回避する入れ知恵をし,且つ,アメリカが簡単に介入してこないように威嚇する状態が続くものと思います.

最後に,冒頭でも示しましたように,前回記事では「今後,北朝鮮は日韓に対し優しくなるだろう」という話をしましたが,それを示す可能性のあるニュースが入ってきたので紹介しておきます.
北朝鮮最前線の長距離砲撤去問題 南北が協議開始(聯合ニュース 2018.6.17)
韓国と北朝鮮の軍事当局が、軍事境界線(MDL)付近に配備された北朝鮮の長距離砲の撤去問題について協議を始めたことが17日、分かった。複数の政府筋が明らかにした。
(中略)
北朝鮮側は韓国側が提示した案に対する立場を表明したとされる。「相互主義」を掲げ、韓国軍と在韓米軍も同一の措置を取るべきだとしながらも韓国側の提案に拒否感を示さなかったという。
ほらね.やっぱりこういう流れになる.
前回記事で述べましたが,これは北朝鮮がアメリカに恫喝されたわけでも,融和されたわけでもないと思います.
南北の軍事衝突の危険性を低下させて,アメリカが軍事介入してくる口実を減らしているものと推察されます.もちろん,そこは私の個人的な推論ですけど.

そう考えると,近い将来行われるであろう日朝首脳会談も,少しは日本側に花を持たせてくれる可能性も高いですね.
首相、総裁選への意思表明は「セミの声がにぎやかな頃」(朝日新聞 2018.6.16)

ただ,一方の北朝鮮メディアはかなり批判的なようでして.
北朝鮮「拉致問題すでに解決」 国営ラジオで日本を批判(朝日新聞 2018.6.16)

とは言え,実際に会談したらどうなるか分かりませんから.
日本にとって北朝鮮問題について「進展があった」と解釈されるものを提供してくれる可能性はあると私は予想しています.

逆に,全く日本にとって実りのない会談だとすると,それはそれで厳しい現実を突きつけられるものになるでしょう.
ちなみに,そっちの可能性のほうが私は高いとみていますけどね.

だって,「南北軍事衝突からのアメリカ介入」の可能性は結構高いけど,日朝軍事衝突の可能性は極めて低い.っていうか,ほぼゼロでしょ?
北朝鮮としては,日本は放置プレイしとけば問題ないと考えるのが普通でしょうから.
あり得るとすれば,日本に対する工作活動が沈静化する可能性はあります.
下手に手を出して,余計なトラブルを起こさない方が良いと考えるのが自然というものです.

2018年6月14日木曜日

歴史的ということらしい米朝首脳会談

最近のニュースがこれ一色です.
なので本ブログでも取り上げてみることにしました.

歴史的とされる今回の米朝首脳会談ですが,誰にとって「歴史的」なのか,そこが私には興味深いところです.
ちなみに,この米朝会談は「北朝鮮にとって有利な内容で合意した」などと評価されるのを目にしますが,そんなことはこの際どうでもいいのではないかと思います.
なぜなら,アメリカにしたって自分たちに都合のいい条件で合意したに決まっています.

我々としては,アメリカと北朝鮮の間で交わされる話に一々反応していてもしょうがない.両者はお互いにとって都合がいいことを話し合うわけですから,その他の国々の将来について考慮するわけがありません.
肝心なのは,この会談が日本にどのように影響するのか? ということ.そこだけ考えてればいいんです.

会談直後のニュースがこちら.
北朝鮮有利で合意したという解釈は,以下のような点から導かれています.
北朝鮮、非核化を約束 声明に具体策盛らず(毎日新聞2018.6.12)
両首脳は米国が北朝鮮に「安全の保証を提供」し、北朝鮮は「朝鮮半島の完全な非核化に対する揺るぎない約束を再確認」する共同声明に署名した。しかし、日米韓が求める北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」は言及されず、非核化協議のスタート地点に立ったとの位置付けにとどまった。
あれだけ「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」に拘っていたのに.
あっさり抜け落としたんですね.

「完全な非核化」と表現されていますが,でもこれは例の「CVID」ではなく,「CVIDになることを目指す(ただし,時期については今後検討)」という,極めて曖昧で適当な内容なのです.
その一方で,「CVIDになることを目指す」ことに合意する代わりに,北朝鮮は「安全の保証」を受け取ったわけでして.
つまり,北朝鮮としては「非核化に向けたポーズ」さえしていれば,アメリカからの軍事行動を回避できることを意味します.故に北朝鮮大勝利ということ.

上記のニュース記事にはこうもあります.
会談後の記者会見でトランプ氏は「完全非核化には技術的に長い時間がかかる」と述べた。両国は今後も合意の履行のための協議を継続することになっており、来週にもポンペオ国務長官やボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)が非核化の詳細について、北朝鮮側と協議するという。
(中略)
トランプ氏は記者会見で、非核化に向けた具体的なスケジュールや方策が定められなかったことについて「時間がなかった」と述べた。ただ、金委員長が会談で、ミサイルエンジンの実験場を破壊すると約束したと説明。「これは大きなことだ」と指摘した。
結局のところ,トランプ大統領は中間選挙に向けた「外交成果」が欲しかったということでしょうか.その見方をしている人は結構多い.
中にはトランプがノーベル平和賞を狙っていると邪推する向きもあります.

もちろん北朝鮮は非核化なんかしないわけで.
今後は隠蔽と時間稼ぎの手段を考えることに全力を注ぐだけ.
「非核化するのに予算が足りない」「作業するための人員が割けない」などと言い訳することは容易に想像できます.
(もちろん,そうやって非核化するために何かしらに取り組んでいることをもって,北朝鮮の安全は保証される)

そもそも,アメリカは朝鮮半島を非核化させたい差し迫った理由はありません.
あくまで,アメリカ本土に到達できる弾道ミサイルが問題になっているわけです.
だからトランプは記者会見で「ミサイルエンジンの実験場の破壊」という点をアメリカ国民向けに強調したのだと思います.

案の定,アメリカは半島の「非核化」に積極的ではないようで.
“非核化”費用は日韓で支援を~トランプ氏(Yahooニュース:NNN 2018.6.12)
初の米朝首脳会談を終えたトランプ大統領が会見し、北朝鮮の非核化にかかる費用はアメリカではなく韓国と日本が支援すべきとの考えを示した。
―Q.非核化への費用は誰が支援する?
トランプ大統領「韓国と日本が支援するだろう。彼らは支援しなければならないと分かっている。アメリカが支援する必要はない」
トランプ大統領はこのように述べ、北朝鮮の非核化には韓国と日本の積極的な関与が必要との考えを示し、アメリカはその費用を支援しないと述べた。
たぶんこれは,北朝鮮が「是々云々の理由で,非核化できない」と言い出してきた時に,その理由を日本と韓国の支援が適切ではないからだと言い訳したいためでしょう.
っていうか,繰り返しますがアメリカは朝鮮半島を非核化する差し迫った理由がないですからね.
「韓国と日本に対処させる」というのが最も妥当・正当な判断でしょう.
そこで軍事衝突を発生させれば,その時にアメリカは遠慮なく韓国と日本の支援を口実とした軍事行動が起こせますから.

なお,アメリカが北朝鮮に軍事攻撃を加える可能性は非常に低いと私はみています.
そして今回の米朝会談によって,その可能性は極めてゼロに近くなった.
金正恩の暗殺を狙った「斬首作戦」もできないでしょうね.国交正常化に向けて握手した国家元首を暗殺するというのは,さすがに現代では難しいミッションです.

そもそも,アメリカが北朝鮮を軍事攻撃することによって,韓国と日本の都市が大ダメージを喰らうことは容易に想定されていました.
世界的な経済都市を抱えていて,さらに種々の文化遺跡を擁する日本と韓国に甚大な被害を出しながら,それでも北朝鮮を攻撃する理由がアメリカには無いのです.それに,日本と韓国にはアメリカ人をはじめ,たくさんの国の人達がビジネスや観光客として在留しています.
そこが中東とは大きく違う点です.

ちなみに,北朝鮮としては,可能であれば韓国を併合させたいと考えているでしょうから,壊滅的被害を与える最優先ターゲットは日本の都市に決まってます.
北朝鮮が相手(つまり,アメリカ軍)を打ち負かせることができない自覚は当然あるでしょうから,となると相手に攻撃を思い留まらせる課題を与えればいいわけです.それが「日本の都市を破壊する」というもの.これは現時点の北朝鮮の軍事力でも十分に可能と考えられています.

よく,ウヨク系の人たちから「北朝鮮なんて日本の自衛隊でも十分に勝てる.ましてやアメリカ軍なら1日で戦闘は終結する」といった評価がされますが,ターン制ゲームのチェスや将棋じゃあるまいし,こっちが攻撃したと同時に相手も反撃できる条件にあるのだから,こちらの被害も予定しておかなきゃいけません.
そりゃあ軍事的な戦闘に「勝利」はできるのでしょうけど,無傷じゃない.その被害範囲に耐えられるだけの覚悟が日本にあるのか,ということ.
無いでしょう?

北朝鮮問題における最大の難点は,その周囲に日本と韓国という軍事的に脆弱な経済都市があるということです.
アメリカには,現在の日本と韓国の経済的役割を犠牲にしてでも得たい「極東の安定」なんぞありはしない.
日本と韓国が発展途上国であれば,簡単に攻撃の決断をするかもしれませんけどね.

逆に言えば,日本と韓国に経済的役割(ようするにATMとしての機能)がなくなれば,アメリカや反北朝鮮勢力としては北朝鮮を潰しにかかるチャンスということになります.
だからトランプ大統領は「北朝鮮の非核化にかかる費用は日本と韓国が出せ」と言っている.

私の予想としては,今後,アメリカは日本と韓国に北朝鮮問題に関する無理難題を強烈に押し付けてくると思います.
そして,何かの拍子に軍事衝突を起こすよう仕向けるはずです.私がアメリカ側ならそうするから.
きっと今後は,北朝鮮の軍が「勝手に暴走した」というトラブルや事件が頻発するでしょう.
トランプ大統領が発言した「在韓米軍の撤退」や,今日の「米韓軍事演習の中止」っていうのも,そのスケジュールの一環ではないでしょうか.これで北朝鮮の軍が暴走しやすくなりますからね.

つまり,今回の米朝首脳会談とは,北朝鮮としてはアメリカの軍事的圧力を回避して,金正恩体制の維持を得て合意.
一方のアメリカは,北朝鮮に軍事的圧力をかけない代わりに,アメリカ向けの弾道ミサイル配備を頓挫させることで合意.今後は北朝鮮のことは日本と韓国に対処させて,そこで軍事衝突が起きたら介入してやろうという算段かもしれない.
逆に北朝鮮としては,日本と韓国との関係をうまくやることによってアメリカの介入の口実を作らせないことが方略となります.具体的には,日韓に向けた軍の暴走だけはなんとしても防がにゃならん.

もっと端的な話として言い換えれば,アメリカは日韓と北朝鮮の間で軍事衝突が発生するよう裏工作し,北朝鮮はその挑発に乗らないように日韓との友好ムードを見せる努力をするはず.
だから,今後,北朝鮮は日本と韓国に対し「とても優しくなる」し,一方のアメリカは日本と韓国に「とても厳しくなる」というのが私の見立てです.

冒頭,「肝心なのは,この会談が日本にどのように影響するのか考えること」と述べましたが,今後,日本にとって本当に危険なのはアメリカからの要求だと私は思います.
そりゃもちろん,アメリカは今までも危険な国でしたが,今後の北朝鮮問題では,明確に日本と韓国を「囮」もしくは「餌」として使ってくることは目に見えています.

最後にロシアや中国についてですが,彼らも非常に難しい局面になっていると思います.
というのも,彼らにとって北朝鮮とは,西側勢力と対峙するための緩衝地帯として位置づけているわけですから,アメリカに制圧されることがあってはならないわけです.
つまり,アメリカが軍事介入して当然だと受け取られるような事態は避けたい.
なので当然,今後は北朝鮮への支援は強化されるわけですけど,それによって北朝鮮に「日韓に向けて高圧的態度がとれる」と思わせてはいけないわけで.

となると,ロシアや中国としては「平和的支援」と銘打って,北朝鮮の経済面を改善することを狙うと思います.
実際,今さっき入ってきたニュースがこちらです↓
9月の正恩氏訪ロ招請=プーチン氏、北朝鮮序列2位に(時事通信 2018.6.14)
プーチン露大統領に金正恩氏の親書 露国連大使「制裁緩和は当然」(産経新聞 2018.6.14)

「北朝鮮の暴走」をロシア,中国,そして北朝鮮自身が押さえ込み,逆にアメリカはそれを望むという構造が始まった.
実際,今までもそうだったわけですけど,これまでと違うのは,アメリカがそこで日韓をこれまで以上に「餌」として利用するようになったことにあります.

2018年6月9日土曜日

井戸端スポーツ会議 part 53「サッカー日本代表2」

「2」というくらいですから,「1」もありました.
もう4年前なんですね.
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
前回大会の時に書いた記事でした.2014年になります.

サッカー日本代表に関する話題がないものだから,すっかり今年がワールドカップの年であることを忘れていた今日このごろ.
ところでどこで開催するんだっけ? あぁロシアか.

そんな感じだったところに,代表監督であるハリルホジッチの解任劇によって,一気にサッカー日本代表のニュースが増加.
関心が高まって良かったですね.
むしろ,日本サッカー協会としてはサッカー・ワールドカップの話題作りのためにワザと燃料投下したのではないかと思うくらいです.だとすれば非常に高度なテクニックですね.

サッカー日本代表が普段どんな評価を得ていたのか知らないんですけど,ここ最近の体たらくぶりにサッカー・ファンが怒り心頭であることが窺われます.
直近の話題としては,5月31日のガーナ戦で惨敗し,昨日(6月9日)のスイス戦でも完敗だったとのことで.
ワールドカップ直前のこの状況で,ワールドカップに出場できなかったガーナに手も足も出なかったことから,日本代表を見限るコメントに溢れかえっている状態です.

まあまあ,皆さん落ち着きましょう.
過去記事でも書いたことを繰り返すことになりますが,あれからたった4年しか経っていないし,メンバーや新戦力も大きく変わっているわけじゃないので,同じことが言えると思います.
そんなわけで,詳細は■井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」を読んどいてください.

まず,「日本代表はアジア枠だからワールドカップに出場できているだけで,世界にはもっと強いチームがいる」というのはその通りです.実際,ガーナの方が日本代表より強いのでしょう.もしかするとスイスより強いかもしれない.
でも,そんなことを言い出したらキリがありません.サッカー・ワールドカップのルールに則って出場できているのだし,これはチャンスなのでそれを活かすことを考えればいいだけのこと.

しかもサッカーは,他のスポーツ種目と比べて大番狂わせが起きやすいとされています.
逆に,テニスやラグビー,バスケットボール,あとは格闘技なんかが番狂わせが起きにくいですね.
一般的に,「ミス」をしないことが競技の前提となるスポーツ種目では,選手の実力差・技量差が表出するので番狂わせが起きにくいのです.
例えばテニスでは,得点することに有利なサーブ側がゲームを取るのが普通で,それを崩せばブレークと呼ばれる状況になります.選手の能力が拮抗している場合,このブレークはサーブ側のミスやアクシデントによって起こることが多いのです.バレーボールでもそうですよね.こちらはサーブ側が不利になるので,それをひっくり返した方が勝利することを意味します.

一方のサッカーでは.ボールキープにしてもトラップにしても,パスもシュートもミスすることが普通です.だから,自分の能力を出し続ける中で,相手のミス待ちをするスポーツではないんですね.お互い,常にミスをしているのですから.
言い換えれば,サッカーではミスをできるだけ減らすことよりも,ミスすることを恐れずに,ゴールの確率が高いと考えられる「最適解」のプレーを繰り返す,いわば「パチンコ」みたいなプレースタイルが求められるんです.

お互い得点できる確率が低い中で,その最適解だと考えられるプレー(つまり,ゴールマウスまでのボール運び)を何度も展開できたかどうかで点差と勝敗が決まります.
故に,実力が高いとされるチームであっても,たまたまミスが続いてしまうと前評判とは違う結果が現れてしまうこともあるわけで.
ましてや代表選手が集まるような国際試合では戦力差に大きな偏りがなくなりますから,大番狂わせが発生するというわけです.

なので,サッカー・ワールドカップは日本代表がどれほど弱かろうと,優勝できてしまうかもしれないスポーツなのです.
もちろん代表選手は頑張ってプレーしないといけないことに違いはありませんが,もしかすると優勝できるかもしれないのですから,温かく見守っていこうではありませんか.

世界トップレベルで活躍する代表チームはまだまだ先のこと.
地道に気長にいきましょう.

なお,サッカー日本代表チームにおける根本的な戦力向上については,過去記事に書いているのでそっちを読んでください.
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」

ところで,私もそれらの記事を読み返してみたんですけど,なんだか現在のサッカー日本代表を取り巻く状況は,そこで述べていたことから遠退いているように思えます.
むしろ,日本人は日本代表チームを貶めているのではないか,そんな気分にさせられるんですよ.

そういう意味では,やっぱりサッカー日本代表はマズイ状態なのかもしれませんね.
だけどそれは,彼らサッカー選手がというよりも,我々日本人が,という意味で.
スポーツは,その国の今を映し出します.
サッカーも例外ではありませんから.


関連記事
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」
井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」
井戸端スポーツ会議 part 44「スポーツの精神が大切なわけ」

2018年6月8日金曜日

体育学的映画論「万引き家族」

例のパルム・ドール受賞作.

今日が公開初日.
ちょうど都内で仕事があったので,その帰りにレイトショーで観てきました.

ネットでは,本作の監督をした是枝裕和氏がウヨクから嫌われていることもあって,「きっと反日サヨク映画に違いない」と,公開前からネガキャン三昧だったことでも有名な作品です.

実際に観た感想としては,全くもって反日でもサヨクでもない映画です.
ウヨクの皆さんも,安心してご覧頂けることと思います.

【以降,ネタバレと思われる内容を含みますので,ご注意ください】
とは言うものの,私としては本作の予告映像以上の「ネタ」は無かったと捉えていますので,以下を読んでから本作本編を観てもらっても大丈夫だと思いますが.
(だって,予告で物語の全容は全て開示されてますから)

さすがパルム・ドール.丁寧な作りです.
どうしてそんな展開になるんだ.
そうじゃないだろ.
なぜこんな行動をとる?
・・といったツッコミ所が見当たらず,日本における貧困層の暮らしを舞台とした家族ドラマを描いています.

公開前は「貧乏生活のために万引きをすることを肯定しているのではないか」という(映画を見もしないで)批判がありましたが,本作ではそんなことを描いているわけじゃありません.
むしろ逆で,万引きを肯定してはいけないことに目覚めていく少年・祥太の姿を撮っているんです.
さらに言えば,そのための押し付けがましい演出がないのも素晴らしい.

それだけに展開が単調に映るので,レイトショーということもあってか,私の周囲の観客数名はいびきを掻いて寝落ちしていました.
さすがパルム・ドール.一般大衆にはハードルが高い.

唯一の「押し付けがましい演出」は,柄本明さんが演じた売店のジジイが少年に対してとった言動ですが.
それ以外の部分が徹底して抑制されているので,売店のジジイがとった「万引き少年に対するさりげない行動」がとても際立つんですね.

少年・祥太役の子役も良かったですが,なんと言っても安藤サクラさんの怪演でしょう.
池脇千鶴演じる取調官との対話が特にすごい.取調官の言っていることが事実なだけに,その事実を突きつけられて苦しむ「母親になりたかったわけではないが,本当はなりたかった女」の姿を見事に表しています.
あの取調官との対話で,彼女がそれまでに劇中で見せてきた少年・少女との関わりが一気に思い起こされ,観ているこちらは胸をえぐられる.

人の心はシンプルじゃないんです.それをシンプルに描いています.

少年はダメな大人である「オジサン」のところに顔を出す.オジサンと他人になることを望み,毅然として乗り込んだはずのバスの窓から「お父さん」を見るため後ろを振り返りたくなる.
女の子の方は,あの家族と過ごした時に教えてもらった数の数え方を口ずさみながら,彼らに拾ってくれたアパートの玄関前で一人遊んでいる.
そんな子供たちの姿をみせて終劇.

本作では終始,大人は目に見えるモノ・耳に聞こえるモノを求めたがり,子供はそれを見せないし言わない.
安っぽい作品では,登場人物に「本当に大事なものは,目には見えないんだ」などとセリフを吐かせたがりますが,さすがパルム・ドール.それを全て映像で語る.

最近,児童虐待のニュースが世間を騒がせていますね.
死亡の5歳、ノートに「おねがいゆるして」両親虐待容疑(朝日新聞2018.6.6)
日本の格差社会問題だけでなく,そういう点でもタイムリーな映画になりました.
私も以前,近所で途方に暮れる少女と関わったことがあるし.
幼女に興味はないですよ
なんだか親近感の湧く映画です.

印象的だったシーンは,夜,家族が団欒しながら隅田川の花火を音だけ鑑賞するために夜空を見上げるところ.
あそこに日本の貧困層の孤立と疎外感が強く表現されています.
彼らも自分たちが社会的に落ちぶれていることを知っている.それを知っているだけに,表に出てきて花火を見ようという気分にならない.理由は,「一度見に行ったことがあるけど,大雨が降って大変な目にあったから」とお婆さんは言いますが,それは己の過去への暗喩であろうと解釈できます.
昔は華やかな表舞台で楽しんでみたけど,痛い目を見て今に至っている,ということ.
私達は花火大会を「音」だけ聞いて楽しむ身分です,という卑屈と自虐.
これは同時に,表に出てきて花火大会を楽しんでいる人たちには彼らの姿が見えないことをも意味します.

本作はまさに,こうした「世間から見えにくい家族」にスポットライトを当てたものであり,このシーンで上空から家屋を映しているショットは,本作のテーマそのものを表現しているように思えます.


ところで,先日,大学の体育・スポーツ実技系授業で久しぶりに学生を叱りつけました.
普段から「注意」とか「指摘」する程度のことは頻繁にあるのですが,時間をとって学生を集合させて叱るのは何年かに1度あるかないかです.
クラスをチーム分けして,バスケットボールの試合をやっていたんですけど,そのうちの1つのチームの雰囲気が悪いったりゃありゃしない.バスケ経験者でこの授業を「優越感にひたりたくて履修してきた奴」と,それとは対象的な「運動音痴」が混在するチームです.

普通なら,バスケ経験者が運動音痴の学生にいろいろ指示を出したりサポートに回って,むしろそうしたサポート・プレーに全力を注いだり,相手チームを含めた総体における楽しさや面白さを見出そうとするのが体育の教育意義だったりするのですが,そうはならないタイプの人間がやっぱりいる.
自身が得意な活躍できるスポーツ種目で,周囲に対し優越感を得るためにプレーするタイプの人間.それでも黙ってプレーしてればいいのですが,運動音痴や未経験者を露骨に見下しながらゲームをする輩は,「スポーツする」という人間性が低いと言っていい.

で,件の叱りつけた学生たちは,まさにそれをやっていたんですね.
一見,運動音痴の学生のためを想って出しているパスに見えるんだけど,その出し方や態度がそうでないことは明らか.
点差が開いてきても「こっちには未経験者がいるから」と言いながら,自分が点を取りに行こうとはしない.あくまで「俺は後方でサポートしているんだよ」という見せ方をする.わかりますよ,自分が全力で点を取りに行ったとして,そこでミスしたり実力の程が知れるのを恐れているんです.全力プレーした結果,負けることを怖がっている.
だんだん相手チームも面白くなくなってきて,こういうチームによる試合はお通夜のようになっていきます.
「面白くないのは他人のせいじゃない.自分から面白くないゲームにしているんだ」ということを分かってもらうのが体育の意義だと思います.
そういう意味では,今回の一件は履修学生にそれを再確認する場になったかもしれないし,そうであることを願いたいところです.

人間の社会活動とは,過去記事でも述べたように「スポーツ」そのものなのです.
人間はスポーツする存在である
「お金稼ぎ」や「ビジネス」といったことも,お金・所得というスコアを獲得するために,皆がゲームしていることと言えます.

スポーツにおいて「初心者」や,どうししても上手くなれない「運動音痴」がいるのと同様,所得獲得ゲームにおいてもそうした人々がいます.
逆に言えば,初心者や運動音痴がいるからこそ,そこそこ上手い人や平均人,運動センスの良い人が存在し得るとも言えます.
その上で,ゲームを楽しむためのコツとは,あらゆる人が楽しくゲームに関与できる配慮や仕組みをつくることです.そうでなければ,結局そのゲームそのものが楽しくなくなっていきます.参加することが苦痛になっていくのです.

話が逸れてきましたが,そんなことを「万引き家族」を見ていて考えさせられました.
少なくとも,楽しくないゲームをしている人に対しては,柄本明が演じた「売店のジジイ」のような存在が不可欠です.そこに人間社会というスポーツ・ゲームを楽しくするエッセンスがあるはずです.

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海軍の学校での体育
体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」

2018年5月28日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 52「最近あった大学アメフトの事件のこと」

時間がとれなくて記事が滞っておりました.
その間,いろんなことがありましたね.

大学アメリカンフットボールの事件もその一つです.
日大アメフト、危険なタックル問題:まとめ読み「ニュース通」(読売新聞 2018.5.28)
アメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学の定期戦で、日大の選手が関学大のクオーターバック(QB)に危険なタックルをして、負傷させた問題が波紋を広げています。タックルをした選手が日大の本部より先に会見を開き、内田正人前監督らに危険なプレーを指示されていたと証言する異例の事態となり、対応が後手に回った日大側に批判が集まっています。
今回はその件について,大学の,しかもスポーツ現場にいる者として記事にしておきます.

先日,高校の同級生の結婚&懐妊祝がありまして,そのBBQパーティーに行ってたのですけど,そこで「大学人」という立場上,いろいろ聞かれました.
まあ,今回当事者となってる大学の者じゃないから推測するしかないんですが,こういう「危険なタックル」「悪質なタックル」はしょっちゅうと言うほどでもないけど散見されるものですよ.

ただ,今回のタックルはあまりに露骨だったし,上述した読売新聞の記事中にもあるように,昔とは違いSNSを通じて一般の目に触れるところへ拡散したのが特徴的です.
サッカーでもわざと突き飛ばしたり,審判が観てないところで殴ったりすることがありますよね.あれみたいなものです.

以下の記事にもあるように,本場アメリカのNFLでも試合の要であるクオーターバック選手への悪質なタックルは以前から問題視されていました.
アメフト悪質タックル事件を、アメリカから考えると
もう既にクオーターバックが投球動作の週末局面になっていて,タックルしてもボールの投射を防げるタイミングではないのに,わざと「勢い余って止まれなかったふり」をして突進するのが一般的でしょうか.
もちろん違反した選手には大きなペナルティが課せられますが,その記事にあるように,ペナルティを背負っても相手のクオーターバック選手を負傷させることができた選手は,チームから裏の報奨金,つまり「ボーナス」を得ていたのが,かつてのNFLだったようです.

あと,日大や内田監督を擁護するつもりはありませんが,彼らの主張もおそらくは真実なのでしょう.
いわゆる,「たしかに『潰せ』とは言ったが,ケガをさせたかったわけではない」というやつ.
そんな話,下品な奴らが牛耳っているスポーツ現場では頻繁に出てくるワードです.
それこそ,コンタクトの機会が多いスポーツであるサッカーやバスケットボール,ハンドボールなどで,「削れ」とか「ぶっ殺せ」とか言ってる指導者や選手は,少ないながらもいるんじゃないでしょうか.

もちろん,そう言われたからってんで本当に相手をケガさせたり殺害する選手はいないんですけど,今回はその他の状況も「相手を本当にケガさせることができたら評価してくれる」というものになっていた.
それが指導者サイドとして意図的だったのか否かはわかりませんが,選手はそのように受け止めて実行するに至る土壌があったわけです.

だからといって日大や内田監督に責任がないと言っているわけではありません.むしろ,指導者として,そして責任者としてしっかり責任をとらなければいけません.
ところが,彼らは「言い逃れ」を図ってしまいました.
たぶん,「行き過ぎた表現はあったかもしれないが,それは選手との受け止め方の齟齬として言い逃れできる」と踏んでいたのかもしれません.
なお,この際,日本大学に危機管理学部なるものがあることは脇に置きます.それは本件を語る上で些末な話だからです.

BBQパーティーではこれと関連して,日本スポーツ界が膿を出す転機になっているのではないか? という話もしました.
まあ,「膿を出す」という表現が適切ではないかもしれません.
どっちかというと,「どんどん膿が発生している」といった方が適切でしょうか.

「女子レスリングのパワハラ問題」とか「相撲界の暴力事件」とか,「サッカー日本代表監督交代劇」といった一連のスポーツ界のトラブルは,この日本社会の在り方と相互関連しているという話です.
ずっと以前から,このブログでは「その国の在り方は,その国のスポーツをみればわかる」と述べてきました.
関連しそうな記事は以下のようなものです.
井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」
井戸端スポーツ会議 part 44「スポーツの精神が大切なわけ」
井戸端スポーツ会議 part 47「森友・加計学園問題と野球特待生」

実際,スポーツ界で発生しているトラブルは,日本の政界で発生しているトラブルと見事に符合します.最近では,政府のモリカケニッポー問題とか.
以前までなら揉み消せていたトラブルが表沙汰になったり,コミュニケーション不足(悪く言えば口裏合わせ不足,良く言えば共通認識不足)によるトラブルなど.
当事者たちからしたら,「我々の業界ではよくあること」という認識で,その気になれば言い逃れできるものだと思っているのもよく似ている.

とりわけ日大アメフト部の問題は,「財務省セクハラ問題」とよく似ています.
「選手がそんな受け取り方をするとは思わなかった」とか,「記者によるハニートラップではないか」などという言い逃れが通用するわけないでしょう.
選手が予想外の行動をとったのは指導力の欠如だし,ハニートラップにかかったのも公職者としての資質の欠如です.
つまり,両者とも言い訳が言い訳になっていないんですね.

だから言い逃れることはできないのですが,この「言い訳」の質の低さには目を見張るものがあります.
むしろ,自身の無能さを公開,乃至,上塗りすることになっている.おそらくそれは,ある種の「甘え」から来ているのかもしれません.
「私はこんな基本的なことすら分からないバカですけど,『バカ』だけに無垢にやってきたんつもりです」という倒錯.
そう言えば以前,この「甘え」を地で行った政治家が兵庫県西宮市の市議会議員にいました.

安易に「勝利至上主義の弊害」という表現でまとめたくないのですが,結局のところ,我が国では「パフォーマンス(競技力)」を構成するものが何なのか混乱している状態で,それでなお「戦績」を求めていると言えます.
スポーツ選手のパフォーマンスとはなにか? その指導者のパフォーマンスとはなにか?
そして,財務次官や政治家のパフォーマンスとはなにか?
そもそも,どういう戦績を残したいのか定められずに,漠然とパフォーマンスだけを求めている.
そういったことに無頓着でやってきた結果,こんな自体になってしまった.そんなところでしょう.

2018年5月8日火曜日

ハラスメントといじめ

このブログでも度々取り上げることのあった和田慎市先生が,オピニオンサイトのiRONNAに記事を寄稿されています.
「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?(iRONNA 2018.5.3)
私も全く賛同するところですので,ぜひリンク先の記事を閲覧ください.

ちょっと前まで一連の記事にしていた「セクハラ問題」において,セクハラはいじめ問題と類似していると述べました.
なので,ここでその関連をお話ししてみます.

実のところ,「いじめ」と「ハラスメント」は,「嫌がらせ」という意味において同義です.
嫌がらせ(wikipedia)
ハラスメント(コトバンク)
ですから,いじめであろうとセクシャルハラスメントであろうと,捉え方やその対処は同じものと考えられます.

セクシャル(性的)ないじめがセクシャルハラスメントであり,権力・上下関係を使ったいじめがパワーハラスメントであり,妊婦に対するいじめがマタニティハラスメント,師弟関係でのいじめがアカデミックハラスメントというわけ.
ようするに,相手が嫌がることをしたら,それはいじめでありハラスメントなんです.

和田先生は上記記事中の結論でこのように述べています.
 学校現場の人間として声を大にして言いたいことは、真にいじめを克服するためには、杓子(しゃくし)定規な定義や報告など形式にこだわるのではなく、まず根絶できない現実を受け止めるべきです。そのうえで、いじめの発生しにくい環境づくりをするとともに、重大な事態に陥らないように早期発見と迅速な対処を心掛け、当事者の人間関係修復と被害者の立ち直りをサポートしていくことです。さらに、有効な未然防止策は、いじめを能動的に克服し乗り越える力、いじめをやめさせる力を子供たちに地道に身につけさせていく教育しかないと思います。
至極当然な意見のように思えますが,そのようにならないのが一般社会の受け取り方というもの.
「いじめ」という状況そのものの発生を根絶したがるんですね.
いじめは悪.いじめの加害者に制裁を.いじめが発生する学校は碌でもないところだ,と声高に叫ぶ人達が後を絶ちません.

これは昨今話題になったセクハラに代表されるハラスメントにおいても同じことが言えます.
よく,セクハラ問題で「セクハラは根絶されなければならない」と吠えだす過激な思想を持った人がいますが,そりゃ無理ってものです.

勘違いしないでください.
先日までの記事でも分かるように,私はセクハラを「仕方ないもの」とか「発生しても放置してよい」と言っているわけでもありません.
むしろ,セクハラにせよ,いじめにせよ,私はその問題改善に積極的なほうだと自認しています.

ただ,いじめやハラスメントというのは,「法律」によって定義付けて根絶を目指すようなものではないと言いたいのです.
これはちょうど,憲法で「戦争をしない」と明記すれば,戦争が根絶できると言っているようなもの.
いじめやハラスメントというのは,戦争と同様にその発生を根絶することはできませんし,発生に至る背景や事情が複雑極まりないことや,当事者のどちらに「正義」や「もっともな言い分があるのか」といった点が不明瞭であるところも類似しています.

そんな不明瞭なものを法律で定義付けて,発生をコントロールするのは至難の業です,って言うか無理です.
いじめもハラスメントも戦争も,人間社会が存在する限り永遠に発生するもの.
課題となるのは,発生しにくい環境づくりと,例え発生したとしても重大な事態になることを回避する能力を養うことでしょう.

ところが,「いじめ防止対策推進法」や「男女雇用機会均等法」に代表される「嫌がらせ」への対処を謳う法律は,その法律の趣旨に問題があることに加え,「何をもって嫌がらせなのか?」を具体的に規定したがる姿勢を生み,それは同時に「何であれば嫌がらせにあたらないのか?」を引き出そうとする態度を惹起させます.
私がより問題と考えるのは後者のほうです.

つまり,「何をもって嫌がらせなのか?」については,いじめであれセクハラであれ,「被害者が心身の苦痛を受けたと感じた場合」となるわけですけど,これに対して「じゃあ,どこまでだったらいじめやセクハラにはならないのか?」という文句が出てくるんです.
賢い人であれば「“どこまでだったら” という表現が意味をなさない」ということにお気づきになるかと思いますが,世の中そんな人たちばかりではありません.
ネットにも世間話にも「どこまでだったら」と同じような文句を言う方々がいっぱいいます.「同じ行為をしても,訴えられる人と大丈夫な人がいるのはおかしい」とか言い出す輩ですね.

「何であれば嫌がらせにあたらないのか?」って聞かれたら,そりゃ「相手が心身の苦痛を受けたと感じないこと」というのが模範解答なのでしょう.
でも,明確なマニュアルを求めてしまうのが人間ですから,「◯◯はOK.△△はNG」というリストを欲しがります.
これが最大の問題点です.

和田先生が上記リンク先の記事で指摘しているのはまさにこの点で,「◯◯をしていたから,これはいじめだったのではないか」とか,「△△程度であれば,いじめではない」などといった個別具体的な行為や現象を指して「いじめか否か」を論じたがる人が多いわけです.
その結果,いじめ調査を担当する人としても,「◯◯はいじめと言えるのか?」とか,「△△はじゃれあいなのか?」といった議論をするハメになり,結局のところ世間が納得しそうな結論を導くことになる.
過去記事でも書いたことですが,「いじめ防止対策推進法は機能しない」というのは,そういう側面もあるからです.
いじめ防止対策推進法のこと
笑ってはいけない「いじめ防止対策推進法」
つまり,学校教育の場が,生徒間におけるコミュニケーションスキルや人間関係構築の涵養ではなく,生徒達の言動の正否を評定する場になってしまう恐れがあるのです.
(それが「良い」ことだという人がいれば,それはそれで別に議論する必要があります)

人間のコミュニケーションに,「◯◯はOK.△△はNG」なんてありゃしません.
そんなことしてたらまともな社会生活にならないのは,極一般的な社会生活を営んでいる方々はご案内の通りかと思います.

であるからこそ,学校教育においては「いじめ」「ハラスメント」が否応なしに発生する人間社会の虚しさと複雑さを見据えた上で,それへの対処と乗り越える力の育成に焦点を当てるべきではないかと思います.
それが,少なくとも日本社会におけるハラスメント行為の抑制につながるものと考えられます.


和田先生の著書にはこのようなものがあります↓
  



2018年5月1日火曜日

体育学的映画論「レディ・プレイヤー1」

うわ! やっちまった映画だろコレ!
って思ったんですが,意外とヒットしている次第です.

なので,ヒットしてる割には感想・レビューが悪いのでは?
って思ったんですけど,これまた意外と好評価みたいですね.

前回の「ペンタゴン・ペーパーズ」に引き続き,スティーヴン・スピルバーグ監督作品の「レディ・プレイヤー1」です.
レディ・プレイヤー1(wikipedia)
スピルバーグは仕事早いですね.脱帽します.

ただ,この「レディ・プレイヤー1」の出来は良くありません.
私と同じ感想を持ってるネットの「低評価レビュワー」はいるのかな?って思って探してみたんですけど,ザッと眺めた限りでは見つからなかったのでココに書きたいと思います.

低評価しているレビュワーの多くが,「話の流れが分からない」「オタク向けで私には合わなかった」「出演キャラに魅力がない」といったもののようですが,私の感想は「SF映画作品として,解釈できるテーマが余りにも薄っぺら過ぎだろう」といったところ.「ペンタゴン・ペーパーズ」と同じ監督の作品とは思えません.

「やっぱ,現実での人間関係が大事だし,現実ではお金持ちになったら権力を行使できるんだよね」
っていう,旧世代のサクセス・パターンが展開されていて,いかにも俗物なオッサンやオバサンたちが喜びそうな道徳的で下衆な映画になっております.

途中で眠くなったこと数回.
そしてクライマックスまで我慢したけど,その終わり方が酷くて退席したくなるも,両サイドに観客が並んでて出るに出れず.まあ,エンドクレジットになって無理やり出たけど.

映像が派手なので,それを見に行くくらいでしょうか.3Dとかでもやってるようなので,きっとそっちがオススメ.
時間つぶしに,コーラ飲んでポップコーン食べながら,トイレに立つのも気にせずのんびり見るタイプの映画です.

では・・,
【以下,ネタバレを含みつつ書いていきます】
ネタバレが気になる人は,映画を観てから読んで下さい.


80年代以降の映画やポップカルチャー,サブカルチャーへのオマージュが満載で,そうした「オマージュの渦」に巻き込まれたいオタクな人にとっては楽しい時間になると思います.
でも,私はそういう「ウォーリーを探せ」みたいなところに喜びを見出すタイプではないので,どうしても低評価になってしまうんです.

他にも,クライマックスでは日本のサブカルチャーであるメカゴジラとガンダムが登場し,両者が戦うシーンがあることが話題ですが,私は全然ワクワクしませんでした.
別に思い入れもないし,唐突だし,シーンとしての出来栄えもそんなに良くない.
どうしてここでこの両者なの?って疑問に思い,その疑問も疑問のまま.

SF映画としては,「VR方式のゲームが発展した末に,学校や仕事,ショッピングやカフェの時間といったことも仮想現実の中で済ませられる時代になった」ということを,もっと強調してほしかった.

なぜかって?
だって,この映画のストーリーだと,わざわざ仮想現実を舞台にする必要がないからです.
どっかの巨大複合企業の社長さんが死んだところ,遺言でその会社の経営権を「謎解き」できた人に譲るってことになって,その莫大な資産を目指して民間人やブラック企業が奪い合う.結果として,悪そうなブラック企業ではなく,無垢な少年少女たちが莫大な資産を手に入れましたとさ.
という「グーニーズ」タイプの物語.
眠たいでしょ?

せっかくVRゲームと仮想現実に浸った人間社会を題材にするのですから,以下の2点を深掘りしてほしかった.

1)主人公の男女のルックスや正体
VRゲームですから,ユーザーはゲーム内ではアバター(仮の姿)を使って自分の姿格好を表示させています.
途中,「オフライン(現実)で直接会ってみたい」という話になるのですが,そこで「アバターとは全く違う顔や体だったらどうする?」「若い女だと思っていたら,実は中年の男かも」という話題が出てくるんです.
ところが,どのキャラも想定通りなんですよ.
せめて主演の男か女のどちらかが,物凄いブサイクだったら物語に深みが出たというものです.

だってこの映画,現実でもアバターでもイケメンと美女の組み合わせで,結局,大金をせしめてラブラブのハッピーエンドという都合のいい話なのです.
そんなベタな展開,それこそ80年代の映画で腐るほど観てきました.

お互いの顔や正体が分からない中で,どのように信頼関係を築けるか.
「現実のルックスや正体」とは異なる,VRを舞台とした人間模様を描ける余地はあったと思うんです.
・・って考えながらウィキペディアを漁っていたら.
なんと! 本作の原作小説である「ゲームウォーズ」では,主人公の男女は肥満のブサイクという設定のようです.
ゲームウォーズ(wikipedia)
ほれみろ! こっちのほうが断然テーマとして深かったはず.
そのために仮想現実を舞台にしているはずなんだから.

2)仮想現実の可能性
VRゲームで教育や就職もできちゃうという時代背景は面白いので,もっとこの点を掘り下げてほしかったですね.
前述した,「お互いの顔や正体が分からない中で,どのように信頼関係を築けるか」ということと関連するテーマです.

実際,主人公の男女が肥満のブサイクだったというのが原作ですが,であるならば,これだけ仮想現実が人間社会へ密接に入り込んでいるわけですから,「仮想現実の中だけで築く恋愛や友人の可能性」を模索しても良かったのではないでしょうか.
もちろん,それでもやっぱり現実の姿を愛することが大事という結論にしたっていい.でも,私としては「仮想現実における人間関係の可能性」を模索してほしかった.

実のところ,スピルバーグ監督としては「仮想現実の可能性」は断ちたかったものと考えられます.
それは本作のラストシーンが物語っています.
経営権を手に入れた主人公の男女は,イチャつきながら「VRゲーム『オアシス』を,週に何日間かはログイン不可に設定した.なぜなら,みんなも僕たちみたいに現実の人間関係を大事にしてほしいからさ」とリア充満載のコメントを吐き捨てて,エンディングを迎えます.
全然おもしろくない.

こいつらは美男美女のカップルです.しかも莫大な資産を手に入れた超セレブ.そんな2人がオフィスチェアで抱き合って乳繰り合いながら「現実の世界を大事にしろ」と訴えるのは,もはや犯罪行為ではないか.
だってコイツらは,これからはもう仮想現実に入らなくても裕福で気楽な生活を謳歌できる身分になったからです.

仮想現実のなかで生きていたい人達もいるだろう.
仮想現実のなかでなら輝く人達もいるだろう.
この世に化粧やエステ,美容整形がなくならないのは,そうした身体的な「美」に対するコンプレックスや絶望感を持っている人が必ずいるからです.
ところが,そんな人々の仮想現実に託す希望と夢を,主人公の2人は「ログイン不可」という措置を講じることで打ち砕いてエンディング.

すなわち,現実であっても仮想現実であっても,人は「自分にとって都合のいい世界」を押し付けたがるものだという話になっている.
主人公の男女は,自分たちが「現実」の世界で恵まれたのを良いことに,ルックスや才能,経済的ステータスに恵まれていない人達が拠り所としている「仮想現実」を取り去って満足しているわけです.

いえ,別にそれでもいいんですけど.
であれば,SF映画としては,仮想現実のなかで生きていくよりも大事なものを提示すべきだし,仮想現実のなかで生きることの危険性や絶望を描くべきでした.
でも,そんなものは本作では一切出てきません.
(「旨い食い物は現実でしか味わえない」という気の利いたメッセージもありましたけど,実際はこれこそ仮想現実でなんとでもなります)

「仮想現実に閉じ籠もるって,なんだかイケてないよね」っていう偏見からスタートしたストーリーのような気がしてならないのが残念です.


2018年4月30日月曜日

「崖っぷちの大学が生き残る茨の道」の追記

動画配信 Huluで「崖っぷちホテル!」っていうドラマをみかけたので,現時点までの3話分を見てみたんです.
主演の一人である戸田恵梨香さんは,以前から良い女優だなぁと思っていたので,それに惹かれたのもあります.

あと,「崖っぷち」と言えば,だいぶ以前に書いた記事に,
崖っぷちの大学が生き残る茨の道
というのがありまして,きっと境遇が現在の少なくない大学と似てるんじゃないかと思ったのも理由の一つです.

ドラマですが,3話で見るの終わっときます.
これ以上見なくてもいいかなって.
どうしても批判的になってしまうのですが,もうちょっと作り込んでほしいところです.

役者さんの演技に不満があるわけじゃありません.
戸田さんもそうですけど,渡辺いっけいさんとか鈴木浩介さんといった個性的な役者さんを使っているし(この3人の組み合わせって「LIAR GAME」ですね),厨房の2人(中村倫也さんと浜辺美波さん)もなかなか良かった.特に浜辺さんは強烈なキャラの役ですけど,「こういう本当に無垢な娘,実際いるよね」っていう不自然な自然さが出ているのは素晴らしい.今後に期待.
それだけに,どうしてもドラマ自体の作り込みの粗さを感じてしまいます.

内容が気に入らないってわけでもないんです.
崖っぷちの経営組織が,再起を目指して奮闘するっていうのには魅力を感じます.
現代の大学って,どこもまさにそういう状態ですので,シンパシーもある.まぁ,こっちの方は峠を越えたと思ったら滑って転んで谷に落ちてる状態で,もう再起不能ですけどね.

崖っぷちに立たされた経営組織が復活しようとする時,そこで大事にすべきことは「我々の仕事は何なのか?」という点であることも普遍性があって良い.いつぞやブームになったピーター・ドラッカーのマネジメント論で最も重要なところでもあります.
もっとも,少なくない大学経営陣はドラッカーのマネジメント論を誤読しました.
それについても昔記事にしてます.■教育現場,結局,ドラッカーはどうなった?

昔,「王様のレストラン」というドラマがありましたが,「崖っぷちホテル!」はそれと雰囲気や出演キャラがよく似ています.「王様のレストラン」を見たことがない若者たちには見る価値はあるかもしれません.
逆に言えば,王様のレストランを見たことがある者としては,もう一捻りしてほしいのが実際のところ.

でも,それだけじゃない.
今回の「崖っぷちホテル」の何が気に入らないのかっていうと,役者さんが自分の行動理由や思考をいちいちセリフで喋るんですよ.
いえ,これはこのドラマだけに限ったことではありません.たいてい,出来の良くない映画やドラマはそういうことをします.

例えば第3話では,戸田さん演じるホテル支配人は,視聴者向けにこんな独り言を言います.「役職をかけて競争っておかしいだろ!」って.
それはセリフでいうことじゃありません.そこに不満を持つ支配人の状況を映せば済む話だし,それが読み取れるようなシーンを撮れば済む.それに,あのタイミングでの発言もおかしい.くどさが出ます.

最近,「ルパン三世」も新シリーズが出ていますが,こちらも同じことをしています.
第2話にて,暗殺者に追われるルパンと連れの女がこんな会話をするんです.
「ルパンは私を守っている.なぜ?」
「そういうのは言わぬが花ってやつなんだよ」
それに対し,「ルパンは私とエッチがしたいの?」と女は問い続けますが,ルパンはあぁだこうだと否定します.
で,さっき「言わぬが花」と言ってたくせに,ルパンは第2話の決めゼリフとしてこう言い放つんです.
「だけど感謝することはないぜ.俺がお前を守るのは,そういう俺が好きだからさ」

ルパン三世がそういう美意識の持ち主であることは,ルパンファンなら百も承知です.
それに,ご本人も言うように,そういうのはセリフで説明してはいけないのです.だから「言わぬが花」なんですから.
ルパンの行動や判断を粛々と描けば,ルパンが一見女好きなように見えて,実はどういう思考パターンをしているのか感じ取れるものです.

だけど,こういうセリフを吐かせてしまう.
こういうのって視聴者への配慮とは違うと思うんですよね.むしろ視聴者はバカにされているのかもしれない.ルパンがどういう奴なのか知らない人のために,第2話あたりで解説しておこう,ってな感じで.
こういうので一気に冷めてしまいます.

大学教育においても,「分かりやすい」が正義のような風潮があります.
「考えぬく力」を育む上でのわかり易さならまだしも,物事の正否を前提として教えるわかり易さが求められるんです.その正否に至る思考プロセスこそが大事なのに.
それと類似していて興味深いのですが,映画やドラマもそういう圧力と力学が働いているのかもしれない.そんなことを考えさせられました.
つまり,先に伝えたいメッセージがあって,そのメッセージを正確に伝えるために分かりやすく仕立てられた映像と音声が求められているんじゃないかと.

作品をどのように解釈するのかは受け取る側に委ねられているはずで,作者が意図しない解釈も当然あり得るんです.
もちろん,作者や演者に「こういうふうに解釈してもらいたい」という意図はあるのでしょうが,それをダイレクトに見せるのは野暮というもの.

ところで,「良いホテルとは何か」を考えていたら,高校時代を思い出させられました.
今から20年近く前の話です.
学校が休みの時に友達と徒歩旅行をしたことがありまして,愛知県新城市の山間部を歩いていて夜が更けてきた時のこと.
寒い季節だったし,天候も怪しいのに野宿できるような場所がないと焦っておりましたら,道に「民宿」の看板が.
「民宿だったら安く泊まれるんじゃないか」と,その夜は安全策をとることにしたんです.
それに,その日が旅程としては最後の一泊だろうと思っていたので,少しくらいお金使ってもいいかなって.

玄関にお邪魔して,予約していないけど泊まれるか? お値段はいくらなのか? を聞いてみたんです.
そしたら,着物を着た女将さんみたいな人が現れ,今日はお客さんはいないし,1泊5000円くらいで大丈夫とのお返事をいただきました.ただ,予約していないから食事が満足に出せないことと,お風呂は今から準備するので直ぐには入れないとのこと.
こちらとしては「野宿するかどうか」で迷っていたわけですから,「屋根があればOKです」と言ったのを覚えています.5000円ならギリギリ財布にあったし.

ところが,高校生の僕らとしても,ここが安い民宿ではないことを少しずつ感じ取ります.
まず,建物は民宿なだけに大きくないですけど,手入れと掃除が行き届いていて,趣がある.これは僕たちみたいなアホな高校生でも分かります.
次に,「食事が満足に出せない」とか完全に嘘.鴨鍋を中心とした豪華な夕食が出てきたんです.並べられていくお皿を前に,僕たちは目を見合わせました.「これヤバくね?」って.
鴨鍋は部屋まで女将さんが出てきて作ってくれたのですけど,いやいや,僕たちそんなサービス受けた経験ないし.こんなの出世してからの話だと思ってたから.
そして,お風呂は広くはないけどきれい.
一日歩いた疲れがとれます.

寝る前に,天井見上げながら「なあ,ここって本当に5000円なんかなぁ.絶対高級旅館だよなぁ.明日とてつもない値段請求されたらどうしよう.足りなかったら皿洗いとか風呂掃除しようか」って不安を抱えながら,それでも疲れ切ってたので直ぐに就寝.

で,次の日の朝.
これまた美味しい朝食もしっかりいただき,料金を支払おうとしたら,女将さんが「お代は結構です」って.
大変な徒歩旅行をしているんだから・・,などと言ってましたが,それにしても,こっちは美味いもの食って飲んでして,別に世界を救う旅をしているわけでもないのに,タダはないだろうと.
それでもお代は受け取らないということで,おまけに丁寧に見送っていただけました.

宿を出た後,歩きながら話したんです.
社会人になったら,またここに泊まりに来ようって.
その時,ちゃんと5000円を返そうって.

現代はインターネットが普及し,宿泊についても「楽天トラベル」が便利ですよね.
なので,その民宿がまだあるのか.どういう民宿なのか調べてみました.
そしたら案の定,その民宿の評価はすこぶる高い.めっちゃ高い.
だからでしょう,楽天トラベルでも賞を受賞しているし.しかも,ほらみろ,夕食込みだと結構高いじゃないか!
そんなお宿が「浮浪してる高校生をタダで泊めた」なんて話が広まるとマズいので,とりあえず名前は伏せときます.調べりゃ直ぐにわかるけど.

高校生から宿泊代をとらなかったから「良い宿泊所」だと言いたいわけじゃないんです.
でも,その時に受けたサービスは「大人になった時にまた来よう」って高校生ツーリストに思わせる気の利いたおもてなしであり,僕たちの青春時代の思い出になっているんですよ.

2018年4月29日日曜日

初めてのオーダーメイド・スーツ(4)

今回は(4)ですので,それ以前に(1)から(3)まであります.
初めてのオーダーメイド・スーツ(1)
初めてのオーダーメイド・スーツ(2)
初めてのオーダーメイド・スーツ(3)

もう既に「初めてのオーダー」ではないですし,スーツではなくシャツの話になってたりするんですけど,そのへんはご了承ください.

前回は,量販店であるAOKIでもパターンオーダーによるシャツが作れるということで,それを人気テーラー店のものと比較してみようと注文してみた,という話でした.
その後,オーダーしたシャツを受け取ったので,その感想です.

比較するにあたっての条件ですが,以前作った人気テーラー店のものと同価格帯(約1万円)で,類似した生地とデザインを注文しています.

AOKIでは既製服をベースとしてサイズ変更&デザイン設定するため,左右の袖の長さを変えるとか,袖や袖口の太さを変えるといった細かい変更はできません.そのため,既製服と同様に袖のボタンは「2つ」になります.
それ以外は,よほどこだわったデザインにしなければ,テーラー店と同じようなオーダーができます.私は凝ったデザインにしたいわけではないので気になりません.
実際,出来上がったシャツを着比べてみましたが,着心地に大きな違いはありませんでした.

今回,私は先にテーラー店でシャツを作っていましたので,AOKIで採寸・注文する時にサイズ感に対する経験が活きています.しかし,全くゼロの状態からオーダーするのはハードルが高いかもしれません.基準がなければ,どこまで広くしたり細くしたりして良いのか迷うものです.
その場合,対応してくれたAOKIの店員さんが,シャツのサイズ調整に詳しい人であることを祈りましょう.

これまでAOKIでは,肩と袖丈の関係からMサイズを購入していたんですけど,今回はSサイズをベースにして肩幅を広く,腹囲を小さく,裄丈を長めに変更して注文しています.それで丁度良いサイズでした.
でも,だとすると普段のMサイズシャツよりも腹囲が10cmも細くなっている計算です.
事実,以前まで着ていた既成シャツは腹回りがダボダボのブカブカで,腰や脇腹あたりがもっこり膨らみます.鏡に映るシルエットは全くの別物.
どれだけ既製服が「多くの人が着れる」という点を重視しているかが分かります.

ところで,これを読んでくれている皆さんへのアドバイスとしては,AOKIのオーダー・シャツを利用するコツは「袖の太さに合わせる」ということでしょうか(よほど歪な体型の人は別ですが).
AOKIのオーダー・シャツは袖(手首)の太さが設定できません(2018年4月現在).しかし,首周り,肩幅,胸周り,腹囲の太さ,そして裄丈は変更できます.
なので,袖(手首)の太さがぴったりのベースサイズを選んでおいて,そこから他のところを調節すればいいんです.
と言っても,試着するベースサイズのシャツの着心地だけから,それら全てを推測するのは難しいので,ちょっとずつ試していくしかないんでしょうけど.

結論として,私の体型であればAOKIのパーソナル・オーダーというシステムで購入してもいいかなって思います.デメリットがないですから.
そこまでするならテーラー店でもいいじゃないかとも思われるでしょうが,まあ,たしかにね.AOKIであるアドバンテージはないかも.
テーラー店の方がより細かいサイズ調整ができますし,店員からのアドバイスもありますので.

ただ,AOKIはどこにでもあるお店ですが,テーラー店はそんなにありゃしない.
環境条件に合わせて使い分けるといいでしょう.

今回分かったことは,AOKIでもテーラー店と同じようなシャツを手に入れることができるということ.
質を高望みすればキリがありませんが,なんだかんだでワイシャツって消耗品ですからね.結局のところ,安い生地をリピートすることになるわけですから.

2018年4月25日水曜日

大学におけるハニートラップの話を交えて

財務次官のセクハラ疑惑が,彼を標的としたハニートラップ疑惑として話題になっています.
世も末ですね.

セクハラ事件については,一連の記事にしています.
一般的なセクハラ問題を論じる

昨日もこんなニュースがありました.
セクハラ疑惑 麻生財務相「はめられたとの意見ある」(毎日新聞 2018.4.24)
麻生太郎副総理兼財務相は24日の閣議後記者会見で、財務省の福田淳一事務次官の辞任承認を公表した際、セクハラ疑惑について「はめられて訴えられているんじゃないかとか、世の中にご意見ある」と語った。被害を受けたとされる女性の訴えを軽視するかのような発言に野党から批判の声が上がっている。
疑惑の段階ですから何を言っても自由とは思いますけど,政治家なのですから,その言葉によって招く結果には責任をとってもらいたいですね.
過去記事でも書いていますが,どうして現在の自民党・安倍政権は,こういった後々ダメージが蓄積してしまう軽はずみな言動をするのか理解に苦しみます.
断末魔でしょうか?

ネットのコメントには「ハニートラップであるとの声は実際にあるのだから,本当の事を言ったまでだろ」と擁護するものもありますが,それを言い出したら,私のように「ハニートラップに自分からはまりにいった助兵衛を,財務次官に任命したお前が責任をとれ」という声もあるのですから,これらを公平に取り上げて頂きたいものです.

なぜ麻生大臣や政府は,「一部に,女性記者を貶めるような報道やご意見がありますが,彼女の名誉のためにも,そして事務次官のためにも,早計な憶測での報道はつつしんでもらいたい」などと言えないのか.
なぜに,「むしろ,ハニートラップの疑いがある」などと,セクハラ対応における最低最悪のコメントを出すのか不思議でなりません.
そんなこと言ったって,自分たちの置かれてる状況が好転するわけじゃないんだし.

十年くらい前に,子供が行方不明になった事件がありましたが,その時にその父親の人相が悪いことや言動の怪しさを理由に,「この父親が犯人じゃないのか?」などと世間は騒ぎましたよね.
それをブログで主張した女性タレントが非難されていましたが,これと同じものだと思います.
世間が「これはハニートラップだ」とか「父親が犯人だ」などと言っているからって,それを公式の場で述べて良いことにはならない.
この常識感覚が,今の政府には無いんですよ.

今,財務省と政府がやらなければいけないのは本事件の事実確認を急ぐことであって,「もしかしたら被害者にも落ち度があったのではないか」という推理・推測を披露することではありません.

例えば,「いじめ事件」を隠蔽していると生徒からリークがあった学校が,記者会見で「いじめを訴えてきた生徒は問題児で,嘘をついているのではないかという意見もある」などと言っているようなもの.
あのさぁ・・・,って呆れるでしょ.
そういう疑惑があるのは本当かもしれないし,実際にそういう見方もできるのかもしれない.
けど,あんたらが現在課せられているのは「いじめ」の事実確認だろと.生徒や被害者を疑うことじゃねえだろと.
それと一緒です.
日本の行政はOKで,学校はダメというのはダブルスタンダードです.

さらに,毎日新聞の関連記事としてこんなニュースもありました.
セクハラ疑惑 「ある意味犯罪」自民・下村氏が発言謝罪(毎日新聞 2018.4.23)
下村氏はコメントで「女性がはなから週刊誌に提供する意図で隠し録音していたのではないかという疑念が生じた。このような懸念を伝えたかった」と発言の意図を説明。その上で「『ある意味犯罪』と述べたのは表現が不適切だった。率直に撤回するとともに謝罪する」としている。
被害者がハラスメント被害を訴えるために,隠し撮りすることは普通に行われていることです.
我々大学教員も,FD(ファカルティ・ディベロップメント)とかでハラスメント対策の説明を受けることがありますが,セクハラやパワハラの被害者は,隠し撮りなどをして証拠を残すことが推奨されています.

下村氏は「女性がはなから週刊誌に提供する意図で隠し録音していたのではないかという疑念が生じた」などと言ってますが,彼女が週刊誌に提供する意図があったかどうかは分かりませんけど,はなから次官のセクハラを立証するために隠し撮りしていたことは間違いないし,その行為自体も間違っていません.

ハラスメントしてくる奴には隠し撮り.これ基本です.それが普通の世の中になることの方がなんぼか健全です.
政府や政治家はそんなことも知らなかったのでしょうか? 今時,常識ですよ.
てか,あなた方が「ハラスメント対策」として我々に周知してたことですけどね.

本件から得られた教訓は,今後,どのような相手であっても無礼な態度を取らないようにしましょう.貴方のその言動は記録されているかもしれませんよ.という,極めて理性的で倫理的なものなはずです.
それともなんですか.メディアの記者相手なら,セクハラや嫌がらせできるのが官僚の特権とでも言いたいのでしょうか.

繰り返しますが,本件で財務省や政府が取り組まなければいけないのは,あくまでも福田財務次官がセクハラをしていたのか否かです.これがハニートラップだったのかどうかは二次的なこと.
更に言えば,これがハニートラップだったのであれば,ハニートラップに引っかかるような人物を,あろうことか,我が国の財務事務次官として任用した責任は誰がとるのか? ということであり,今後このような事態が起こらないようにするにはどうすればいいか対策を打ち出すことです.

よく,本件を「ハニートラップ」として論じたがる人は「西山事件」を引きますよね.
西山事件(wikipedia)
しかし,両者は性質や幼稚性が全く異なる事件であり,ハニートラップとは言え公務員がそれにに引っかかったことも悪いという事例なんです.
西山事件は,「男女関係を脅迫材料として,官僚から機密資料を得る」という取材方法が問題視されていましたが,今回の事件は全く性質が違います.
取材相手が女性で魅力的だったのでセクハラ発言をしちゃいました.っていうのが録音されて公表されただけのこと.
「音声を公表していいのか!」っていう指摘は当然のこと,この女性記者や週刊新潮の判断には議論の余地がありますが,公表されちゃったものは仕方ない.
セクハラ行為が本当にあったのか否かの確認は,それとは関係なく粛々とされるべきです.

ってことで,前置きが長くなりました.タイトルの話をします.
もうかなり年月が経ったのでお話ししてもいいかなと思うんですけど,私が某大学に勤めていた頃にあった,ある男性教員がハニートラップに引っかかった例です.
今回の財務次官セクハラ問題が,もし仮に「ハニートラップ」だったとすると,それと非常によく似た状況ではないかと思います.
「ハニートラップ」というと,私はすぐにこの事件を思い出します.今回のセクハラ騒動でも,やっぱりこれを懐かしく思いました.

ターゲットになった男性教員は,もともとセクハラ癖のある教員として知られていました.
そんな教員ですから,やっぱり他の部分もネジが外れ気味だったようで,周囲から嫌われていたんですね.
私としては,その先生は大学教員らしい奇人ぷりだったので面白かったのですけど,このキャラクタが大学運営陣としては気に入らなかったらしく.

で,運営陣から女子学生による「くノ一」が送り込まれたそうなんですね.この教員からセクハラの不祥事を意図的に引き出そうという計画です.
え? 学生をくノ一に使うなんて言語道断だ! って? まあ,ブラックな大学ではよくあることなので,そこまで目くじらを立てないでください.
ブラック大学の詳細はこちら→■「教職員用」危ない大学とはこういうところだ
なお,「くノ一」と言っても,実はくノ一を任ぜられた彼女らにくノ一としての自覚があったかは不明ですが.

では,どういうハニートラップだったのか?
教員と学生とが同じバスに載って移動する日帰り出張があったんですが,そこにこの男性教員とくノ一学生数名が同乗するよう画策されたのです.
もちろん,当日,くノ一学生たちは肌の露出が激しい派手な服装で登場.
セクハラ癖のある当該教員としては,いやがうえにもテンションが上がります(あくまで推測だけど).

結果,やっぱりセクハラしちゃったんです.
くノ一学生に対する服装への言及(たぶん,「オッ◯イ見えそうだね」とか,「太腿がきれいだね」とか言ったと思われ)と,極めつけはボディタッチ.
はい,アウト.
同乗していた別の大学職員や学生からも裏付けがとれてしまい,逃げ道はなし.
結局,この男性教員はさんざん糾弾され,その年度で退職に追い込まれました.

見事なハニートラップですね.
まさに,「計画通り」.
夜神月もびっくりの結末です.
と同時に,やっぱりセクハラ癖のある人は,その衝動を抑えられないんでしょうなぁ.
憐れ.

もちろん,このハニートラップには問題点がたくさんありますよ.
セクシーな学生を,わざとセクハラを受けさせるために送り込むなんて,教育現場にあるまじき行為と言えます.
それでも,やっぱりセクハラ行為をしたことに違いはないのだから,この男性教員が擁護される筋もありません.
だって,私ならその女子学生相手に卑猥な言葉はかけないし,お触りもしない.そもそも,露出が激しい女だったらセクハラしていいという理屈は成り立たない.

「男は皆オオカミだ」などと不思議な言い訳を目にすることもありますが,いえ,違います.我々は人類です.
例えば,それがオオカミでなく犬だったとしても,警察犬や盲導犬の前に,美味しそうな肉を放り込んだからって,それに元気良くかぶりついていたら警察犬や盲導犬としては失格です.
「肉を放り込んだことが悪い」とか,「美味しそうなお肉だったんだから仕方がない」なんて言い訳は通用しません.
彼らは警察犬であり,盲導犬として仕事してもらわないといけない存在なのですから.
それと一緒です.

もちろん,教育現場においても卑劣なハニートラップがあるのはたしかです.
女子学生から「自殺してやる!」と連絡が入った男性教員が現場に急行.そこで女子学生が男性教員に抱きついたところが隠し撮りされてて,ネットで拡散.生徒やその保護者からクレームが殺到したんだけど,実はそれはトラップだった,なんてのも聞いたことがあります.

たしかに悪質なハニートラップですが,こういうのは管理職や教育委員会が対処すれば直ぐに名誉回復できる話だし,セクハラとか不適切な関係とは言えない事案です.あくまで「スキャンダルの捏造」というレベルの話.

警察犬や盲導犬の例えで言えば,「よし!」と言われたのでお肉にかぶりついたら,実はその肉はニセモノだったというのと一緒.別にそのワンちゃんに「ニセモノを見分けられずにかぶりついた罪」なんてものはありません.
翻って今回の財務事務次官ハニトラ疑惑では,美味しそうなお肉が放り込まれたので,それにかぶりついちゃったという話でしょ.
性質が全然ちがうんですよ.


2018年4月23日月曜日

一般的なセクハラ問題を論じる

先日まで財務次官セクハラ問題に触れてきたわけですが,
そろそろ飽きてきたので,一般的な話もしてみましょう.

海軍だった祖父から存命中に聞いた話ですが,旧日本軍の理不尽さを象徴するものとしてメディアでよく見聞きする「上官からの鉄拳制裁」は,そのほとんどが理不尽なものではなかったと言っていました.
そりゃもちろん,「理不尽な状況」での鉄拳制裁は理不尽だと感じるんですけど,現在伝えられている「旧日本軍の鉄拳制裁」は誇張が過ぎるということです.
「殴られた奴は,殴られるような奴だった」というのが祖父の印象.
殴られる奴は,それなりに理由があって殴られていたとのことです.

もちろん,だからと言って上官が部下に暴力を奮って良いということではありません.
何かにつけて暴力で指揮系統を保とうとする組織が,まともに機能するわけがない.
例えば同時期のアメリカ軍では,かの名将ジョージ・パットンが,負傷した部下を「臆病者」と罵り殴ったことで,指揮官をクビにされるという重い処罰を受けています.
ジョージ・パットン(wikipedia)
名将であろうと,軍事組織であろうと,暴力を使って運営することは許さない,というのが,大きな成果を得る上でも理性的な判断なのです.

旧日本軍による部下への鉄拳制裁は,負けが込んできた中にあって苛烈になっていったとされますから,追い詰められて正気を保てなくなった上官ほど部下に八つ当たりしたという側面もあるでしょう.
そういう意味でも,日本はアメリカに勝てっこなかったわけです.

さて,これをセクハラ問題と強引に結びつけようと思うわけですが,私の経験上は,「セクハラで訴えられる奴は,セクハラで訴えられるようなことをしている奴だ」ですね.

セクハラを訴える方にしたって,好きで訴えたいわけじゃない.
できれば穏便にしていきたいのが一般的な感覚です.ましてや日本人ならそう考える傾向が強いでしょう.
昨今のセクハラ報道のたびに,「こんな調子だと,なんでもセクハラで訴えられるようになる」などと煽り立てる人がいますが,そんなものは杞憂です.
そいつ,どんだけセクハラで訴えられるのが怖いんだか.

訴える方だってリスク背負ってるんです.それで人間関係が崩れるのが嫌だろうし,反撃されるのだって怖い.できるだけ訴えずに済ませたいのが本音でしょう.
その高いハードルを乗り越えてでも訴えようというわけですから,よっぽどそいつを「セクハラで訴えたい!」という強い意志がなければ,セクハラ問題なんてのは滅多に発生しないことは容易に想像できます.

私自身はこれまでにセクハラ騒動に巻き込まれたことはありませんし,自分で言うのも恥ずかしいですが,仕事を共にした女性達からも紳士として評判もいいんです(笑).
どうすればセクハラで訴えられるような状態に持っていけるのか,逆にその行動原理を聞いてみたいくらいです.
だからでしょうけど,女性からセクハラ相談を受けたことが何度かあります.ちなみに,それらは主に教育現場での学生,職員,教員からです.

そこから言えるのは,上述したように「セクハラで訴えられてもおかしくない奴」が加害者として上がってくるんですよ.
はっきり言って,「まさかあの人が!?」なんてケースに出会ったことはありません.
全て「あぁ,やっぱりね」です.
ようするに,普段から私の基準・感覚からして強いセクハラ行為をしている奴です.

もっと言えば,「セクシャル・ハラスメント」だけではなく,ハラスメント行為全般が危険水位だったりする.
つまり,セクハラで訴えられる人ってのは,その人自身「ハラスメント行為」に対する認識が弱く,常時周囲にハラスメント被害を撒き散らしているわけで,その被害から逃れたい人が,たまたま理由に持ち出してきたのが「セクシャル」なハラスメントだったというケースがほとんどだと思うんですね.

ですから,「セクハラ行為と,そうじゃない行為の違いが分からない」とか,「同じ行為をしても,OKな人とNGな人がいるのはおかしい」などという主張はナンセンスです.
「セクハラ」というのは,そいつのハラスメント行為全体を総合評価した上で,たまたまセクシャルな部分が酷かった場合に選択される,ハラスメント被害の「理由」の一つでしかありません.

もっと簡単に言えば,セクハラで訴えられるような奴は,他のハラスメント領域でもアウトな行為をしているんですよ.「もうコイツ,ホントいい加減にしてほしい」って.だから訴えられた.
なので,上述したように「セクハラで訴えられる奴は,セクハラで訴えられるようなことをしている奴だ」ということ.

中には「セクハラさえなければ,それ以外は物凄く良い人なんだけどねぇ」っていう稀有な人もいるでしょう.
けど,そういう人はセクハラで訴えられるようなレベルまでいきませんよ.たいていは「物腰が柔らかくて謙虚なんだけど,下品なイタい奴」で済まされます.
それに,「物腰が柔らかくて謙虚」なので,もともとハラスメントに対する配慮ができる人なんですから,周囲の誰かが「お前ちょっとやり過ぎだぞ」と言えば抑えが効きます.

難しい話ではありません.
相手を不快にさせないコミュニケーションを心がけさえすれば,セクハラなんて気にしなくて済むんです.
もっと言えば,別に「不快にさせない」ことを目指さなくてもいいでしょう.怒らせなければいいのだし,無礼なことをしないという,極めて簡単な話です.
そしてそれは,「これはOKで,これはNG」などという線引きやカテゴライズができるものではなく,相手との動的関係の中で作り出されるものです.

言い換えれば,セクハラで訴えられることにビビっている人ってのは,どうすれば相手を怒らせずに済むのか分からない,もしくは人類に普遍的な礼儀を知らないということです.
これは別に煽っているわけじゃなくて,そういう不安も分からないではないんです.
だからマニュアルを求めてしまう.
「セクハラで訴えられないようにするには,どうすればいいの?」って,そんなバカバカしい問いがあるかって私は思っちゃいますけど,ある意味では難しい話なのかもしれません.

似たような話として「マナー」を取り上げたこともありますので,その記事も読んでみてください.

ハラスメントの話って,いじめ問題とかマナー問題と非常に強い関係があると思うのですが,かなり込み入った話をしなければいけないので,これについては機会を別にして論じてみたいと思います.