2018年12月8日土曜日

興味のある話題ってなんでしょうか

やばい.
ブログに全然手がつかなくなってきました.

「やらなきゃいけない事」があるのだから幸せという人もいましょうが,私はどっちかって言うとこれを幸せとは思いません.
のんびりボチボチ生きていくことが人生の目的です.
仕事を仕事と思わずに生きる.
それができなきゃその環境を離脱する,を生きる指針にしています.

ところで先日,非常勤講師として一緒に仕事している方々と食事会を開いたのですが,そこで言われたのが「○○(私)先生が興味のある話題が分からない」というもの.
これまでにも,気を遣って私の興味がありそうな話題を振ってくれていたのでしょうか?
いつも昼食を同じ「教員控室」で摂るものですから,そこでこの方々と雑談になるんですけど,いろいろ餌を変えて釣り糸を投げ込むも,ぜんぜん食いつかないから不安になっていたのですね.

たしかに,私は自分から話題を振らないし,そこで話されている話題に興味があっても「会話」するのが面倒だからスルーしていることもある.
でも,概ねそこで話されている話題に興味がないというのが実情です.

芸能関係,男女関係,政局,グルメトーク,ファッション,最近の若者(学生)論,組織論などが展開されることが多いのですけど,どれも正面から向き合うのがどっちかって言うと嫌いな話題ばかりです.
実際,好奇心と嗜好のベクトルが真逆に近いんだろうな.
具体的に言えば,この方々は「課長島耕作」っていうマンガを愛読されていて,それを人生の指針にしているし話題にすることも多いんですけど,上述しましたように,私は違うものを人生の指針にしています.
話題が合うほうが不思議ですよね.

芸能関係なんてのは,全くと言っていいほど不案内です.
どっかの誰かが不倫したとか,どこそこのお笑い芸人がケンカしてるとか,はっきり言ってどうでもいい.
芸能人というのはそういうことをネタにして生きている人たちです.
不倫もケンカも,それが仕事みたいなものでしょう.
そういうのに,いわゆる「マジレス」するのは野暮ってものでしょう.

政治や政局の話題なんて,何を根拠や哲学にして言ってるのかさっぱり分からないし,笑点の三遊亭円楽さんの如く,「庶民のことを考えてないのが日本の政治家」みたいな感じで雑にまとめようとする.
いえ,別に円楽さんを批判しているわけじゃありません.あれは円楽さんなりの持ちネタだから.
だいたい,この手の話題は私もブログで記事にしてますけど,雑談で喋るようなものではないですね.
正面切って話すと煙たがられること間違いないですから.

グルメトークは論外.
どうしてか? は私の過去記事をどうぞ.
じゃあ,どれが一番良いのか
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?


他にも,男女関係とかファッションとか最近の若者論にしたって,ちゃんと大学教員らしく考察してくれるんなら話題に入ってもいいんですよ.
何度かそうやって話したこともあります.
せっかく皆さんがスポーツの授業をやっているんだから,■井戸端スポーツ会議 part 42「スポーツウェアが次世代のファッションを決める」とか.
最近の若者はマナーが,っていうから■電車の中で化粧する女性についてとか.
学生の就活が話題になった時も■Deus ex machinaな未来(4)とか.
けど,リアクションがあくまで庶民目線で消費者思考なんですね.
だから口を閉ざすことにするんです.

ディスカッションにならないから.
これなら学生相手に授業してるほうが有意義です.


2018年11月21日水曜日

東京オリンピックのボランティアの件

ご無沙汰しております.お久しぶりです.
ここ1ヶ月ほど,仕事として別のウェブサイト制作・管理に時間を割いていまして,自分のブログまで気が回りませんでした.

これまでにもネタはいろいろあったのですけど放置.
またちょっとずつ書いていきたいと思います.

さて,本日はこんなニュースがありました.
五輪ボランティアに応募8万人超 44%が外国人(ライブドアニュース 2018.11.21)
2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会は21日、大会ボランティアの応募手続きを完了した人が20日午前9時時点で目標の8万人を超え、8万1035人となったと発表した。日本国籍以外の人の割合が44%に上った。インターネットでの受け付けは12月21日午後5時に締め切る。
組織委によると、過去大会では実際に採用されたボランティアのうち外国人は10%以下のことが多いという。武藤敏郎事務総長は「予想以上」とし「日本語が不自由だと、十分に活動できるかというのは現実問題としてあると思う」と述べ、活動分野などで配慮が必要との考えを示した。
日経新聞では,
東京五輪・パラの大会ボランティア、目標の8万人達成(日本経済新聞 2018.11.21)
2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は21日、国内外から募った大会ボランティアの応募者が20日午前9時時点で8万1035人に上り、目標の8万人を達成したと発表した。4割超が外国籍で、東京大会は支え手も国際色豊かになりそうだ。
と書いているわけですが,物は言いようです.
ということは,日本人ボランティアは4.5万人ということ?
やっぱり応募者は少なかったんですね.
12月21日まで延長するみたいです.

読売新聞にはもう少し詳しく書かれていました.
東京五輪ボランティア応募、目標の8万人を突破(読売新聞 2018.11.21)
一方、観光や交通案内を担う「都市ボランティア」を募集している東京都は、2万人の募集枠に対し、応募者が21日午前10時現在で1万5180人にとどまっていることを明らかにした。約4800人足りない状況で、都は12月5日としていた募集締め切りを同21日まで延長した。都は「説明会などを通じてPRをさらに強化したい」としている。
記事中には「2万人の募集枠」ということですが,もともと想定していた人数は3万人です.
東京2020大会ボランティア募集(東京都オリンピック・パラリンピック準備局)
つまり,まだ目標の半分しか集まっていないということ.

そんなわけで,東京都の「都市ボランティア」の方は,学生ボランティアを獲得するために,大学に来てそのPRのため説明会を開いてくれてたりします.
結構焦ってるんですかね.

まあ,今回のボランティアは当初から「ブラックボランティア」として名高く,とてもじゃないけど「オリンピック」のネームバリューだけで無償労働者がホイホイ集まるとは思えませんでした.
よっぽど応募者に参加によるメリットがないと,やろうと思えるようなものではありません.
その点を踏まえ,「応募者は少ないのではないか?」という懸念があったんです.

実際,目標の8万人が集まったとされる「大会ボランティア」の応募者は,日本人ボランティアの人数は4.5万人なわけですから,一般的な想定からすれば都市ボランティアと同様,まだ半分ということでヤバい人数とも言えます.

逆に言えば,44%という法外な数の外国人は,なぜ今回のボランティアに応募してきたのか?
そこが気になるところでもあります.
きっと募集終了して各種情報が開示される12月下旬から来年の頭にかけて,本件を考証するニュースが出てくると思うのですが,まだ事実確認ができない現段階ながらも予想してみたいと思います.

一番に考えられるのは,
「国外退去の回避」
です.

上述した日経新聞の記事を読むと,
組織委は国別の人数など詳細を公表していないが、16年リオデジャネイロ大会のあったブラジルをはじめ欧米、アジアなどの様々な国から応募があったという。
とあります.
どうして国別の人数の詳細を伏せるのか謎ですけど.
ともかく,もし「国外退去の回避」が目的ではないかという予想からすれば,今回応募してきた外国籍のボランティアには,中国や東南アジア諸国,南米諸国が多いのではないかと推測したくなるものです.

え? いくらなんでも邪推し過ぎじゃないかって?
でも,前述した「東京2020大会ボランティア募集」のページを御覧いただけると分かるのですが,その応募条件は「都市ボランティア」では,
・2002年4月1日以前に生まれた方
・日本国籍を有する方又は日本に居住する資格を有する方
・日本語による簡単な会話(意思疎通)ができる方
というものであるのに対し,「大会ボランティア」の方は,
・2002年4月1日以前に生まれた方
・日本国籍を有する方又は日本に滞在する資格を有する方
なんですね.
都市ボランティアは「居住資格」が求められているのに対し,大会ボランティアでは「滞在資格」であれば良いということ.

つまり,在留外国人からすれば,このオリンピック・ボランティアに応募して採用されれば,2020年まで国外退去処分にならなくて済むかもしれない,っていう期待を抱かせるものなんですよね.

この件,もしかしたら後々大問題に発展しそうなので,東京都にはぜひ慎重な対応をお願いしたいものです.
っていうか,現時点で私みたいな素人がそういうことを予想できるくらいなので,最初からその点が大丈夫であることを説明してほしかったのですけど.
蓋を開けてみたら,オリンピック開催時期までに出国命令を出さなければならない外国人ばかりで人数が足らなくなる,だけならまだしも,ボランティアに参加してもらうために国外退去処分を延期するなんてことにはならないようにしてほしいですね.



2018年10月25日木曜日

体育学的映画論「カメラを止めるな!」

ゾンビにまつわる映画が,ここ20年くらい世界中でブームになっています.
20年以上ともなると,もはや “ブーム” と言うより “ジャンル” です.
今となっては,「アクション」「ロマンス」「ホラー」「ミステリー」「コメディ」などというカテゴリの一つとして,「ゾンビ」が入っている状況です.

一方,日本では「ゾンビ」というモンスターに親しみがないからか,あまりゾンビ系の映像作品は製作されていません.
最近になって,本格(?)ゾンビ映画である「アイアムアヒーロー」が出てきたくらい.
タイトルに使わせてもらった「カメラを止めるな!」は,ゾンビ映画としては変化球.実際のところゾンビは出てこないので「ゾンビ映画」ではなく「コメディ映画」ですね.
でも,こっちの方が映画としての出来はいいと思います.今年の映画界最大のヒット映画と言えます.

対する「アイアムアヒーロー」は賛否両論のようですけど,私としては「?」ってなる作品でした.やや退屈かな.
漫画が原作だからかもしれませんが,行動や判断がいかにも「漫画」なんですよね.ここんとこは実写映画らしく,実写に耐える脚本や演出にしてほしかったところ.
それに,クライマックスでゾンビを倒し尽くした大泉洋が,後光が指すなかカッコよく立って,それに有村架純が「ヒーロー・・・」と呟くという,造り手としてはやりたくなるけど絶対にやってはいけない稚拙さ満載の致命的シーンが入っています.
面白い映画だとは思いますが,そのあたりが残念.

ただ,アイアムアヒーローは日本では唯一と言っていいゾンビ映画なだけに,その本質的な部分をシンプルに描いてくれています.
それは,「ヒトを躊躇なく撃ち殺せる」ことと,「ゾンビの正体」です.

近年のブームの発端は,ゾンビ映画の元祖「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1968年)」の監督であるジョージ・A・ロメロ氏が言うには「テレビゲームの影響」とのことです.
なぜゾンビはゲームで大流行してるの? ガチゲーマーの若手批評家がゾンビゲーム史と共に徹底解説(電ファミニコゲーマー  2017.10.2)
私たちが中学・高校の頃(90年代中頃)に登場したテレビゲームに,「バイオハザード」というのがあるんです.
シューティングゲーム界に一大ブームを巻き起こしたのも,今となっては懐かしいですね.ちなみに,私はもっぱらSFCのRPG派なので,そっちは未プレイですけど.
その後,バイオハザードは順調にシリーズ化し,2002年からはミラ・ジョヴォヴィッチ主演で映画「バイオハザード」シリーズとなります.
これが近年のゾンビ映画ブームの嚆矢とされているようです.

ゾンビと化した人間は救いようがありません.
なんせ,いかにも助かりそうにない見た目になるからです.
皮膚は溶け,血まみれでボロボロ.顔色も悪いです.
仮に「特効薬」があったとしても,元の姿に戻れる可能性は極めて低いし,戻ったとしても,それが女性ならこんな顔で生きるくらいなら死んだほうがマシとも言える.
しかも,理性を無くしてて言葉も通じず,一方的に襲ってくるので,こっちにとっては害があります.
だから躊躇せずにバンバン殺せるのです.ゲームとしても映画としても,こんなに便利な敵はいません.

と同時に,これがゾンビの正体でもあります.
言い換えれば,私たちが「殺意」を覚え,その気持ちをストレートにぶつけたくなる存在がゾンビなのです.
ゾンビ映画では,そうした存在を「ゾンビ」として描いています.
つまり,ゾンビとは「救いようのない人間」であり,どうやったところで「助かりそうにない人間」であり,こちらの「言葉が通じない」,私たちに「害がある人間」なのです.

こういう人間を,日本では「DQN(ドキュン)」と言ったりします.
ウィキペディアによれば,DQNとは,
日本語の文脈で使われるインターネットスラング・蔑称の一つである。軽率そうな者や実際にそうである者、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者かつ、非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いる。
とあります.
DQN(wikipedia)

さて,これは偶然でしょうか.
「アイアムアヒーロー」においてゾンビ化した人間のことを「ZQN(ゾキュン)」と呼ぶんです.
私としては,このZQNとは,DQNのゾンビ版(だからZ?)と解釈しています.

DQNは,言葉が通じず救いようのない害のある人間ですが,一応は人間ですから,殴ったり撃ち殺したりすると犯罪です.
これを躊躇なく処分できるのは,ロバート・マッコールさんくらいのものです.
でも,これがゾンビやZQNになれば,人間の形はしていますが,間違いなく言葉が通じず救いようのない害のある存在ですから,思いっきり殴ったり撃ち殺したりできます.
※逆に言えば,「イコライザー」のようなDQNを暴力的に処分する映画がヒットするのも,ゾンビ映画のバリエーションとも言えますね.

ゾンビ映画が流行するのは,その背景に社会的不安があるという分析もあるそうです.
たしかにそうかもしれません.
つまり,我々が住まうこの社会には,言葉が通じず,救いようのない,それでいて害のある,まるでゾンビのような人間がウヨウヨいるということ.そんな奴らが増えてきた.
たしかに,こういう連中はウヨにもサヨにもいますが,どちらかっていうとウヨにウヨウヨいます.

さらに恐ろしいのは,ゾンビに噛みつかれると「感染」してしまい,まともな人間に戻れなくなってしまうという設定.
その逆はないんですね.これの意味するところは興味深いです.

悪貨は良貨を駆逐するじゃないですけど,こういう「ネトウヨ」とか「大衆」といったメンタリティを持った人間は,徐々に増えていくことはあっても,減らすことは難しいということを暗示しているのかもしれません.
ちょうど,ゾンビ映画がブームになってきた頃というのは,インターネット,それもSNSの普及と相関しているようにも思えます.
一つの刺激的な言論が,インターネットとSNSを媒介として急激に感染していく.その刺激に感染した者達は,もはや他の言論を聴く姿勢は持たず,異なる意見に対しては脊髄反射のごとく噛みつくようになってしまう.そういう状況がゾンビ化と似ています.

私はずっと以前から,ゾンビ映画が氾濫する現状をみて,いつか「ゾンビに噛みつき返したら,そのゾンビが元の人間に戻れる」という設定の作品があれば見てみたい,と思っていました.
でもこれ,結構面白い設定だと思うので,誰か実現してくれませんかね.
やりようによっては,凄い絵が撮れると思うんですけど.

あっ,この記事のタイトルの話をするのを忘れていました.
そんなゾンビ映画がブームになっている現代にあって,「カメラを止めるな!」はどういう映画だったかと言うと,まさに「人間がゾンビに噛みつき返す」ような作品だと思うんですよ.
見終わったあとに,なんだかほっこりした気分になれるのも,ゾンビを本当の意味で退治するとはどういうことか,それを見ているからではないでしょうか.

2018年10月24日水曜日

体育学的映画論「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」

原題が『Darkest hour』ということで,おそらく「夜明け前が一番暗い(The darkest hour is just before the dawn)」を指しているのだと思われます.

ヒトラーに支配されてゆくヨーロッパにあって,その反撃の芽となるチャーチル首相就任にまつわる話.ヒトラーの脅威がヨーロッパ全土を覆っていた暗黒の時代を描いています.
ゆえに,「夜明け前」の時間である「Darkest hour」なのでしょう.

政局によってしかたなく首相に就任したチャーチルが,ヒトラーと対決姿勢を示すまでの話なので,“ヒトラーから世界を救うお話” ではありません.イギリス人以外の,それも日本人が観るには,かなり地味なものとなっています.
ただ,「ヒトラーから世界を救った男」が,どういう経緯で誕生したのか興味深く撮られています.私はこういう作品は嫌いじゃありません.

あと,主演がなんでも演じられるゲイリー・オールドマンなのですが,体型や容姿がぜんぜん違うチャーチルを演じるために特殊メイクをして出演しています.パッと見ではゲイリー・オールドマンには見えません.
この特殊メイクが非常にハイレベルで,この手の見せ方によくある違和感や無理矢理感が全く無いんです.辻一弘という日本人メイクアップアーティストが担当しており,メイクアップ&ヘアスタイリング部門でアカデミー賞も受賞しているとのことです.

今年の3月に日本公開された作品でした.興味はあったんですけど,足を運ぶのが面倒だったので映画館では見ず,さっき動画配信サイトで見ました.
最近はヒトラーとかナチスにまつわる映画やドラマが多いですね.
この現象を解説したサイトがいくつかあります.
ヒトラー&ナチス映画が最近増えているのはなぜ? 「欅坂46」も巻き込んだナチズムの危険な魅力(エキサイトニュース 2017.7.12)
1.ヒトラーやナチスを扱った映画はクオリティが高い(適当には作れないから)
2.歴史的に時間が経過したことから,突っ込んだテーマのものを作りやすくなった
3.単純に,観客が見込める
ということでしょうか.

特にこれらが象徴的なのは,ご当地ドイツで2015年に作られたコメディ映画,『帰ってきたヒトラー』ですかね.
コメディではありますが,「ヒトラーは民主的に選挙で選ばれた,当時のドイツ人が望んで現れた政治家」であること,そして「今まさに現代のドイツ人が心の奥底で望んでいる政治家が,ヒトラー的な政治家ではないのか?」という,かなり突っ込んだ内容の映画です.

「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」では,そんなヒトラーやナチスの危険性を予期し,ファシズムと独裁政治のイギリス侵入を断固として拒む政治家としてチャーチルは描かれます.
劇中にもあるように,軍事技術で圧倒されており,フランス・ダンケルクまで追い詰められたイギリスが,それでもドイツと和平交渉しないというのはかなり思い切った判断です.
つくづく,政治家は運と度胸,それに国の行く末を憂う信念が必要なのだと考えさせられます.

それはともかく,細かい歴史の描写は抜きにして,この映画の見所を一つ.
チャーチルと言えば「Vサイン」と,トレードマークの「タバコ」,それも太い葉巻を咥えた姿ですよね.
チャーチルのVサイン
葉巻を吸うチャーチル
映画には,チャーチルのVサインが登場したエピソードや,そこかしこで葉巻を吸うチャーチルの姿が見られます.
チャーチルは太い葉巻を好んだことから,現在ではこのサイズの葉巻を「チャーチル」と呼ぶようになったほどです.

映画レビューのサイトには,「昔はいろいろなところでタバコが吸えたんだな」「そこらじゅうで皆がタバコをふかしている」という,喫煙者に対して厳しい目が注がれる現代らしいコメントもあります.
たしかに,この映画は「タバコ」が一つの象徴的なアイテムとなっていますが,注目すべきところはそこではありません.

本作には,ベン・メンデルソーン演じる,イギリス国王ジョージ6世が登場します.現在のイギリス女王であるエリザベス2世のお父さんです.
ジョージ6世と言えば,最近の映画では『英国王のスピーチ』(2010年)で吃音症に悩まされるエピソードが有名ですが,このジョージ6世もたいへんな愛煙家だったようで,それが遠因となって病死したとも言われています.

太い葉巻を無骨に吸うゲイリー・オールドマンのチャーチルに対し,ベン・メンデルソーンのジョージ6世は一般的な細いタバコ,いわゆる紙巻きタバコをスマートに吸う姿が印象的です.
そのジョージ6世の喫煙シーンは,360度いかにも「英国紳士」と言える見事な姿.
推測ですが,泥臭く肝の座った政治家チャーチルとの対比として,ジョージ6世が置かれているのだと思います.演じたベン・メンデルソーンは,そのあたりをかなり意識して喫煙していたのではないかと.

ナチス・ドイツとの関わり方について,政界で孤立無援になってゆくチャーチルに手を差し伸べたジョージ6世は,当初はチャーチルを嫌っていました.
無骨に吸われる太いシガーと,スマートに吸われる細いシガレット.
その両者が手を取るところに,イギリスという国の豪快さと懐の深さを見ることができます.

2018年10月5日金曜日

体育学的映画論「イコライザー2」

デンゼル・ワシントンは私が好きな俳優の一人です.
彼の作品にハズレはありません.

前作『イコライザー』の続編である今作.
なんか嫌な予感がするけど,デンゼル・ワシントンが出る作品だから大丈夫だろうと期待して観てきました.

さて,その感想ですが,ハズレではないけど「“2”は期待を裏切ってくる」の法則が成り立っていたことはたしかです.
ちょっぴり残念.

【以下,映画の内容を類推することができるものになっているので,ご注意ください】

前作の「イコライザー」は,さしずめアメリカ版「必殺仕事人」.
アクションあり,人情ありの,スタイリッシュな勧善懲悪を気分良く見れる映画になっていました.
男たるもの,マッコールさんのように生きるべき.そう思わせてくれたものです.

極々普通に見えるホームセンターの店員が,実は凄腕の元CIAエージェント.
彼はそのスキルを活用して,一般人がやろうと思っても出来ない暴力的な人助けをする,というものでした.
今作も基本的にはこれを踏襲しています.

世の中は悪党がいっぱいのさばっている.
けど,それに対するカウンターも存在する.
ロバート・マッコールは,その悪党に対する「イコライザー(平衡装置)」なのです.

前作「イコライザー」では,そのイコライザーっぷりを存分に発揮したロバート・マッコールでしたが,今作ではイコライザーを通り過ぎて「アベンジャー」になっていました.
そういえば,アベンジャーって名前の集団が既に別の映画にいますよね.
つまり,この映画の魅力であるコンセプトや設定から外れてしまったパターンです.

これと同じパターンのシリーズ映画に,ブルース・ウィリス主演の『ダイ・ハード』があります.
「ダイ・ハード」は,決して凄腕ではないオッサン刑事が,たまたま居合わせたテロ事件に巻き込まれ,多勢に無勢の中で勝機を探るという状況を楽しむものです.
ところが,「2」以降になるとシュワちゃんやランボーに勝るとも劣らない派手な戦闘を展開してくれます.普通のオッサンがあんなことできんだろ.
「3」では,共演したサミュエル・L・ジャクソンがその「居合わせた普通のオッサンがテロ事件に巻き込まれる」という役回りを演じてくれましたが,「4」とか「5(ラスト・デイ)」ではダイ・ハードの名前を冠したワンマンアーミー映画になってしまいました.
こうなると,もはやダイ・ハード(なかなか死なない奴)ではありません.

「必殺仕事人」もそうなのですけど,「イコライザー」の魅力は,マッコールに対峙する “敵” が彼の正体を知らないところにあります.
夜な夜なダイナーで『老人と海』を読んでいるような普通のオッサンが,裏ではマフィアや暗殺者を葬っている,そういう男がこの街にいる,という設定が面白いんです.

今回の「イコライザー2」では,マッコールのことをよく知る人間が敵にまわっていました.
これじゃない感はここから来ているものと思われます.

あと,マッコールが取り扱う「トラブル」も,日常的に見聞きするものの方が絵になると思うんですよ.
前作では,一連の事件のきっかけは少女の「売春」でした.
それに対するマッコールの過剰とも思える暴力的解決が,悪徳組織からの暗殺者派遣を招き,その暗殺者を返り討ちにした返す刀で組織のボスまで抹殺する流れが気持ちいいんです.
私たちのすぐそばに存在しているリアルで小さな事件を,根こそぎ徹底的に叩き潰すスタイルと言えるでしょう.

その点,今回は私たちの身の回りに存在する事件ではありませんでした.
マッコールにとってかなり個人的な事件であると同時に,国際的な政治事件だったんです.
なので,ロバート・マッコールがどれだけ凄い人物なのか知ることはできても,街の片隅でイコライザーしてる人間には見えない.

前作があんな感じだったので,「2」はこうなるのは仕方がないのかもしれません.
いわゆる「主人公の過去」というやつ.
だからこそ,続編として「3」が出るのであれば,もう一度原点に戻って楽しませてもらいたいです.
悪党に「お前は何者なんだ!」と断末魔の叫びをあげさせるのがお約束になるシリーズになってほしいですね.


2018年9月30日日曜日

沖縄の米軍基地問題について2018

台風すごいですね.
台風と一緒にこのニュースが本土に届きました.

沖縄知事に玉城氏初当選 政権支援の候補破る(朝日新聞 2018.9.30)
沖縄県知事選が30日投開票され、前自由党衆院議員の玉城(たまき)デニー氏(58)が、前宜野湾市長の佐喜真(さきま)淳(あつし)氏(54)=自民、公明、維新、希望推薦=ら3氏を破り、初当選した。最大の争点だった米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画に、玉城氏は「反対」を主張してきた。県民は翁長雄志(たけし)知事が当選した前回知事選に続いて、辺野古移設にノーを突きつけた形となった。
過去記事でも米軍基地問題について取り上げたことがありますけど,なんか最近の一部の日本人には,
「沖縄は米軍基地のおかげで成り立っているのに,そんな立場で基地反対とは生意気な!」
といった雰囲気があるんですよね.

案の定,このニュースに対するネットの反応には「沖縄は終わった」「中国に侵略される」「沖縄県民は愚かな選択をした」といったものが見られます.
■ニコニコニュース:沖縄知事選:玉城デニー氏が初当選 辺野古反対派に追い風(2018.9.30)

ところがこういう意見,なぜか政治的に保守・右派の立場を標榜する人に多いし,しかも,それが結構大きな声になっていて.
さらには,この趣旨の意見が沖縄県民の中にも散見されるもんですから,余計に勢いづいてたりします.

いやね,以前にも書きましたが,「沖縄は米軍基地があるから経済発展している」っていう意見があってもいいんですけど,それをリベラル・左派とか反国家主義的な人が言うんだったら分かるんですよ.
他国の軍隊を自分とこの土地に闊歩させて,そこで犯罪が発生しても地位協定で警察が介入できなくても,それで安全が保たれてるならいいじゃないか,経済発展してるならいいじゃなかという主張.
これって完全に家畜・奴隷の発想じゃないですか.
ところが,自主独立とか民族自決を大事にしているであろうはずの,保守・右派を自称する人たちがこれを言ってるんですよ.
不思議ですね.

まあ,我々ホモ・サピエンスはそもそも「穀物の家畜」だという話を,前回までシリーズで書いていたので,それもありなのかもしれません.
けど,それは人類学的な話で,こういう政治的な話では別問題だと思います.

「経済発展している」という話にしても,結構な勢いでデタラメだったりします.
ご存知の方も多いでしょうが,沖縄県民の所得は全国最下位です.
その理由について「沖縄県民には向上心がない」「お金を欲しがらない」など様々な考察がありますが,そんなことはどうでもいいんです.
それだと「沖縄は米軍基地のおかけで経済発展している」という理屈が成り立たないじゃないかという話をしているんです.

「絶対的な所得の大きさが幸福に結びつくわけでない」という思想をとっている私ではありますが,相対的な所得の大きさが幸福の一要素であることは認めます.
そして,その所得の大きさで沖縄の米軍基地問題を論じようとしている人たちに多いのが,「沖縄は米軍基地があるから国から補助金をもらっている」.だから「沖縄は全国的にもお金に恵まれた地方だ」.故に「それでも不平不満を言ってくる沖縄にはタカリ根性がある」というロジックです.
で,そういうの,やっぱり保守系の人たちが好む評論家が言ってたりしますよね.
基地を利用した補助金「おねだり」は沖縄の地場産業:池田信夫(Newsweek 2015.4.2)

それも事実を確認すれば誤解であることが分かります.
沖縄が受け取っているお金は,全国的にも高額ではありません.
これについては私も,かなり以前に記事にしたことがあります.

こういうブログ記事を書いている人もいたので,リンクさせてもらいます.
沖縄振興予算は多いのか? むしろ沖縄県が貰うお金は少なすぎかも

きちんと整理して考察している学者の記事もありました.
「沖縄振興予算」という呼称が、誤解を招いている(Meiji-net 2017.3.15)

でもね,ここまでくると誤解というよりも確信犯,もしくは,いじめ根性があるからではないかと思ったりします.
「沖縄」という弱小集団を用意して,「俺たち偉大な日本国に逆らう田舎者」っていうメンタル.まさに,勝ち馬に乗るイジメっ子の心理です.

過去記事でも掲載した「沖縄県が受け取っている予算」の図を以下に示します.

小さいので見えにくいかもしれませんが,図の左側が「地方交付税(オレンジ色)」と「国庫支出金(青色)」の一人あたり予算の比較図で,沖縄県は全国第5位(平成26年度時点)であることが示されています.

上記のリンク先にも「沖縄復興予算という呼称が,誤解を招いている」というものがありましたが,まさにその通りで,この比較図を見てお気づきの方もいると思いますが,沖縄は「国庫支出金」が多く,その反対に地方交付税がとても少なく設定されています.
そして,実はこの国庫支出金が,「沖縄の米軍基地負担を軽減する」という名目で当てられている「沖縄復興予算」なんですよ.

そう・・・,ゲスい話なんです.
この日本という国は,「沖縄復興予算」と称して多額の予算を与えていると見せかけて,別の予算枠は削っているんです.
それで「沖縄には潤沢にお金が注がれている」って思わせてるわけでしょ?
これって恐ろしいことだと思うんですけど.

沖縄米軍基地問題の記事を書くたび繰り返し述べていることですが,今の沖縄は負担に見合った補助を受けていないし,地政学的リスクのある地域としての保護も受けていません.
沖縄は極東安全保障の要だ.
だから米軍基地を置いているんだ.
って言うんだったら,しかもそんな破廉恥な言葉を「日本人の口」から言うんだったら,沖縄県民には働かなくても生活していけるくらいの所得補償をして然りだと私は思います.
それはやり過ぎだとしても,もっと補助や保護をするべきです.

ネットのコメントにも「沖縄は独立して,中国の属国にでもなる気なのか?」というのを見ることがありますが,沖縄の人からすれば,お前らアメリカの奴隷に言われたくねぇよ,ってところじゃないですか.
それに,沖縄が独立して困るのは日本じゃないの?
地方が独立したくなるような国・中央政府って,どうなのよ?
なんか,こういう議論を見てると絶望的な気分になりますよね.

多分ですけど,「沖縄は勝手にすればいい」という趣旨の批判的意見を出す人って,無条件に「日本は日本である」と錯覚してるんじゃないですか?
同時に「天皇は日本国家統合の象徴です」とか言ってそう.

日本のやり方に不満があれば,離脱する共同体が出てきても不思議ではありません.
EUからイギリスが離脱するように,そしてイギリスからスコットランドが離脱したがるのと同じように.

先日まで書いていた「Deus ex machinaな未来」のシリーズ,その最後に小説家の森博嗣氏が描く未来社会を紹介しました.
森氏は小説・Wシリーズで,エネルギー問題が解決した人類は,国家や共同体を小さくしていくだろうと推測して,この作品の世界観を作っています.私もこの予想と同じ考えです.
国家は,エネルギー安全保障と食料安全保障が充実すれば,その権威や機能を小さくする方向に力が働くからです.なるべく「自分たち」の意識が強い人,価値観を共有する人同士で共同体を作りたいはずですからね.
軍事的な安全保障は,このエネルギー安全保障と食料安全保障を得るためのものでしかありません.言い換えれば,戦争とはエネルギー安全保障と食料安全保障のためのものですから.

『ホモ・デウス』のユヴァル・ノア・ハラリ氏も述べているように,既に人類は「戦争」では死ななくなりました.
飢餓や疾病や戦争よりも,食べ過ぎや運動不足による生活習慣病で死亡する人の方が多いんです.
日本では,中国が脅威だとか,北朝鮮がミサイル撃ってくるかもと騒いでいますが,そこでの武力衝突なんて極めて小さなもの.その一方で,飢餓も戦争もないし不衛生でもないのに,自殺で年間3万人近くが死んでいます.

ハラリ氏によれば,今後は,大きな国同士での戦争が発生する確率は限りなく小さいのです.
なぜなら,戦争をして奪い取る利益よりも,貿易や協力によって得られる利益の方が遥かに大きい社会になってしまったからです.
事実,科学競争もビジネス競争も,既に国際的にオープンな活動になっていて,その国際的な土俵での競争になっているので,特定の国家が専有できる性質のものではなくなっています.

不確実なことだから無責任に言えないだけで,中国が日本に攻めてきたり,北朝鮮がミサイルを撃ってくる可能性は,ほぼゼロと言っていい世界になっています.
そういう世界において「侵略」しようと考えれば,合法的に金銭トレードするか,「事実上の領土・領海」と認知させるしか手段がありません.
だから中国は尖閣諸島で漁業したり,ロシアは北方領土で経済活動を進めたりするんです.

遠い将来,いっそのこと沖縄は中国にすり寄る戦略をとってもいいと思いますよ.
独立し,中国と経済協力をして,日米に対峙する極東安全保障の要所としての地位を確立すれば,日本国に所属しているよりも幸せかもしれません.
もちろん,日本としてはそんなこと許さない “はず” なので,その時日本は,あらためて沖縄の重要性を再確認することでしょう.
というか,今回の沖縄知事選の結果にしたって,そういう主張の嚆矢だと捉えられるものです.

「地方の反対派が勝ったところで,国の方針が変わるわけではない.粛々と基地移転すればいい」というネットのコメントもありますが,こういうのが典型なように,最近は中央や中央に与する人達の態度が横暴になってきたと感じます.
まだこの時代に国家をやるつもりがあるのであれば,各地の声に耳を傾けて,慎重に配慮を重ねた政策を出していく必要があるはずです.


2018年9月20日木曜日

Deus ex machinaな未来(4)

世間ではいろいろニュースがありますが,たいして面白くないし楽しくもないので,私の好奇心に従って記事にしたいと思います.
そんなわけで,
Deus ex machinaな未来(1)
Deus ex machinaな未来(2)
Deus ex machinaな未来(3)
の続きです.

人類は将来,サイボーグ化することで高い知能と感情コントロールを身に着け,「神」を必要としなくなる時代が到来するのではないか?
ユヴァル・ノア・ハラリ氏は,これは人間が神になることと同義ではないかと考え,そうやってアップグレードされたホモ・サピエンスのことを「ホモ・デウス」と呼称しました.
その著書『ホモ・デウス』が話題となっています.
  

前回の記事では,仮に人類全てがホモ・デウスに進化する可能性があるとしても,その黎明期や過渡期においては「ホモ・デウス vs. ホモ・サピエンス」という状況が現れることは必然であり,そこには差別問題や主従関係が発生するのではないかという話でした.
さながら,ホモ・デウスのペットとしてホモ・サピエンスが存在するような時代が到来するのかもしれないわけです.

しかし,ホモ・サピエンスがホモ・デウスにペットとして飼われたり,悪く言えば家畜化された状態になったとしても,それはホモ・サピエンス自身にとって不幸なことではないと思います.
そもそも,ホモ・サピエンスをペットや家畜だとする認識は,ホモ・デウス側の見方です.

今にしたって,ホモ・サピエンスはイヌをペットにしていますが,飼われているイヌは自分を「ホモ・サピエンスのペットだ」とは認識していないでしょう.それなりに頼りがいのあるリーダーだとイヌ側は見ているはずです.
イヌにしてみれば,ホモ・サピエンスは姿形が自分(イヌ)とは違えど,いろいろ摩訶不思議な能力を発揮して食べ物や快楽を与えてくれる便利なリーダーだと捉えているかもしれません.そして,おそらくはイヌはイヌなりに幸せな生活が送れて満足しているものと思います.

これには反論もあるでしょう.ペット(家畜)になったイヌは,やはりイヌらしい生き方ができていないのだから,不満足で不幸な生き方をしているのだ,と.
その通りではあるのですが・・・.
しかし,これは壮大で盛大なブーメランなので,ちょっとずつ説明していきますね.

著者のハラリ氏はこの点について,本書内で「家畜」についても言及しています.
たしかに家畜は,野生にいた時よりも病気や害獣から襲われる心配もなく,食べ物の心配もしなくて済みます.安定した繁殖も約束されており,種族としての平均的な価値観があるとすれば,彼らは快適に繁栄できているとも言えるのです.
しかし,人工的な品種改良を経たとしても,その種族が野生の頃に必要としていた能力や欲求を閉じ込めることはできません.家畜として生きることは,元来想定されていないからです.

例えば,近年の研究ではブタは非常に知能が高い社会性豊かな動物であることが解明されてきました.最近の実験では,ヒトやチンパンジーといった霊長類と同程度のコンピューターゲームができることも知られています.
しかし,現在のブタは人間の都合により,野生の頃とは明らかに異なる,狭い檻に密集した状態で生活し,妊娠と子育てをさせられています.
これによりブタは,ブタ本来の健康福祉を害し,欲求不満を募らせている状態にあるとされています.そしてそれは,他の家畜たちにも同じことが言えるのではないかということで,前衛的な動物愛護団体は批判を高めている,というニュースをご存知の方も多いことでしょう.

ところが,それを言うなら我々ホモ・サピエンスも同様である,というのもハラリ氏の主張.その内容は『ホモ・デウス』ではなく,前著である『サピエンス全史』にあります.

『サピエンス全史』の趣旨は,我々ホモ・サピエンスは,「認知革命」「農業革命」「科学革命」という三大改革により,人間らしい発展を遂げてきたというもの.
そして,そのうちの「農業革命」によって,ホモ・サピエンスには「人口増加」と「定住」による都市化が齎されたことが知られています.

しかしハラリ氏によれば,この「農業革命」はホモ・サピエンスにとって悲劇も生んでいるとします.というか,ぶっちゃけ悲劇の方が大きい.
まず,一般によく知られたところでは,人類が農耕をするようになってから部族間で「戦争」が発生するようになりました.

ホモ・サピエンスという種族は,本来は狩猟採集生活がおくれるように心身が最適化された動物です.
狩猟採集生活では,その土地に食料や資源がなくなれば移動すればいいですよね.1万2千年前までの私たちは,そうやって生きていたんです.こと日本人に至っては,農耕が始まったのが3千年〜6千年前くらいだと言われていますから,世界的にみれば狩猟採集生活が非常に長かった民族だということになります.
余談ですが,「農耕民族」「狩猟民族」の違いが論じられることがありますけど,人類学的にみれば,ホモ・サピエンスは全て狩猟民族です.

ところが,農耕では特定の土地に定住する生活になったわけですから,ホモ・サピエンスはこの頃から土地を移動しなくなりました.
それもこれも,農耕することによって麦や稲が大量に手に入るようになって嬉しかったからです.
しかし,実はここに大きな落とし穴があったのです.

もともと,農耕をするためには人手が必要です.ですから,農耕を始めたホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも繁殖するようになりました.人口を増やすことに価値を見出すようになったんです.
農耕を始めた民族の神話に,生殖器や生殖行為を強調するものが多いのはそのためだとされています.

こうして大人数により麦や稲といった穀物を栽培することで,食料がたくさん手に入るようになったかに思えましたが,その一方でホモ・サピエンスは,この頃から飢饉や人口密集生活による病気に悩まされるようになりました.
大人数での農耕中に飢饉にあったら深刻な食糧難になりますし,病気により人手が不足したら農耕ができなくなる.
で,結果として食料を奪いに戦争をふっかけたり,農地や奴隷を得るために戦争したりするようになりました.

そうです.実は,農耕するようになったホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも一人当たりが獲得できる食料が減り,さらにその獲得確率も不安定になってしまったんですよ.
おまけに,その後は「人類の歴史は戦争の歴史」と言われるほど,自分たちで人口を増やしては大量死を引き起こすスパイラルに突入しました.これが悲劇と言わずになんと言う.
ハラリ氏は,農業革命は人類史上最大の詐欺だとします.

だったら狩猟採集生活に戻ればいいのにと思うのですが,農耕生活の怖いところは,その依存性です.
豊作などで一発当てたら大きいので,どうしてもやめられません.育て方を研究してみたら,それなりに結果も出るから面白い.
長期的なスパンで見たら損をしているのに,元の暮らしには戻れなくなったんです.
パチンコみたいなものですね.

じゃあ,この農耕によって得をした奴は誰なのか? つまり,農業革命で詐欺を働いた奴は誰か? ということ.
既にお気づきの方もいるかと思いますが,ハラリ氏によれば農業革命の本質は,「ホモ・サピエンスが麦や稲に家畜化された」ことだと述べます.
詐欺師の正体は「麦」や「稲」といった穀物です.

実際,彼ら穀物は,農業革命以前は地球のごく一部に生息していた弱い種族でした.
ところが,ホモ・サピエンスをたぶらかしてからというもの,地球中にその生息範囲を広げることができたのです.

え? 奴らは人間に食べられているじゃないか,って?
これには様々な回答ができます.
まず,植物という種族は,私たち霊長類や哺乳類とは幸福観が異なると考えられます.
山火事にならないと発芽しない種子があったり,ミツバチや鳥に食べられることを前提として繁栄する植物がいるように,彼らは「より広範囲に広がり,気候や病気に負けないようになる」といったことを目指して生きている可能性が高い.
だとすると,これだけ繁殖させてもらった上に,品種改良もしてくれる「ホモ・サピエンス」という生物を利用できた麦や稲たちは,自然界の中では勝ち組と言っていいかもしれません.

次に,じゃあ人間は彼らの何を食べているのか? ということです.
別に植物としての息の根を止めているわけではなく,いわば,彼らが出した種の一部を食べさせてもらっているに過ぎません.ご丁寧にも,繁殖に必要な種子は別にとっておくわけですから.
これを哺乳類で例えれば・・・,いえ,ちょっと気持ち悪いのでやめときましょう.

「ホモ・サピエンスは麦の家畜」という表現には,語源的にも重要な示唆を含んでいます.
「家畜」の語源は「Livestock」,つまり「生かして蓄えておく」という意味です.そして,もう一つの言葉が「Domestic animal」,つまり「家にいる動物」です.
故に,イヌやブタ,ニワトリといった動物は,ホモ・サピエンスにとっての家畜と言っていいでしょう.イヌやブタが本来生息していたところから引っ張り出してきて,ヒトが住んでいる家に蓄えられた動物だからです.

では,ホモ・サピエンスにとっての本来の生息地はどこか?
狩猟採集生活をしていた時代のホモ・サピエンスは,「定住」していなかったんですよね.ヒトは「家」を転々とする動物だったんです.
ところが,農業革命以後のヒトは,麦や稲という「定住」している生き物に合わせて生活するようになった.つまり,麦や稲にとっての「家」に束縛され,できるだけ密集して生活し,麦や稲に都合がいいように繁殖するようになった動物なんです.客観的にみれば,それが事実.
これってまさに家畜ですよね.

実際,ヒトの生活の全ては,麦や稲のために捧げられています.
麦や稲に直接手を出しているのは「農家」ですが,人間社会とは結局のところ「農家」の生産性を高め,効率的に麦や稲を繁殖させる手法を構築している存在に過ぎません.
一見,農業とは関係が無さそうな工業,金融業,サービス業,教育関係といったありとあらゆる業種は,よくよく考えてみれば麦・稲が地球上に広く繁栄するための「家畜」として働いているんです.
稲・麦にとっては,農家以外の仕事をしているホモ・サピエンスは,まさに「Livestock」であり,「Domestic animal」ということになります.

現代人が「自分の仕事の価値」とか「存在意義」に疑問を持つのも当たり前ですよ.
だって,ぶっちゃけ意義なんかないんだもん.あなたは麦や稲の家畜として,ただ人口を増やしておくために存在してるんですから.
これに限らず,現代のホモ・サピエンスが抱えている様々な問題(心身の健康福祉,人間関係,政治経済など)は,ホモ・サピエンスの家畜であるブタが抱えている問題と同じ,つまり,その種族本来の生活パターンから引き離された「家畜特有の苦しみ」なのです.
言い換えれば,私たちがよく知る人間社会のルールとは,その源泉をたどれば,麦や稲を効率よく繁殖させるために作り出されたものと言えます.

逆に,麦や稲の家畜でなかったら,飢餓に喘いだり,肥満で悩む必要はないし,上司と部下,結婚や家族といった人間関係で苦しむ必要もありません.実際,こうしたトラブルは狩猟採集生活をしているホモ・サピエンスには見られないそうです.

ホモ・サピエンスによる「国家」という集団は,約1万年前から現在までずっと変わらず,より人口を増やし,より多くの穀物を必要とする集団になることを目指してきました.すなわち国家とは,麦や稲たちが用意した,家畜用の「檻」や「柵」のようなもの.
もっと言えば,国家という字の「家」とは,その国の主食・穀物を指していると言っても過言ではないでしょう.
そういう意味では,日本はたしかに「瑞穂の国」と言えるのです.

一方,我々ホモ・サピエンスの側からすれば「私たちは穀物の家畜だ」とか「僕は稲のペットだ」という認識はありませんし,それで差別意識を持つこともありません.
上述してきたように,そういう見方ができることを理解しても,それで麦や稲に恨みを持ったり嫉妬することはありません.
なぜなら,麦や稲には絶対に勝てないし,勝とうとする相手ではないからです.

話を「ホモ・デウス」に戻せば,もし仮に人間社会がホモ・デウスとホモ・サピエンスに分かれることがあったとしても,ホモ・サピエンスの側に差別意識が湧いてくることはないんじゃないかと思います.
ハラリ氏が述べているように,ホモ・デウスの誕生とは,初めてホモ・サピエンスがどうあがいても絶対に越えられない能力をもった存在と対峙することを意味します.
そしてそれは,ホモ・サピエンスが1万2千年前に「麦」と出逢った時と同じく,飼い慣らされていることにすら気づかない「2度目の家畜化」のスタートになるのかもしれません.

他の可能性も考えてみれば,ホモ・デウスとしての生き方に魅力や価値を感じない人々はいるはずなので,そういう人は同じ価値観を共有できる人達同士でコミュニティを作って生活するんじゃないですかね.
その時ホモ・デウスたちは,きっとホモ・サピエンスの生活と存在を許容するでしょうし,ホモ・サピエンスもホモ・デウスに干渉することもないと予想されます.

実際,ハラリ氏はSF映画にありそうな超人的な能力を持ったホモ・デウスが,突如として社会に現れて大混乱を引き起こすわけではないく,小さなアップグレードを長い年月をかけて積み重ねていくものだろうと予測しています.
もちろん,その小さなアップグレードのたびに,社会は小さな混乱を起こすでしょう.
人間にそんな能力が必要なのか? とか,人間性が失われるのではないか? とか,健康や安全面の保証ができないのではないか? といったものだと思われます.
そうやって徐々に知能や心身の機能アップを進めていったホモ・サピエンスは,ある時,かつてホモ・サピエンスが作り出してきた文学や遊戯に興味を持たなくなっていることに気づくだろうとハラリ氏は述べます.

こうした世界を小説作品を通して考えてみるには,森博嗣氏のSF小説がおすすめです.
Wシリーズ(wikipedia)
百年シリーズ(wikipedia)

このシリーズ内では,「ホモ・デウス」ほどではないアップグレードされた人類が主要登場人物になっていて,ホモ・サピエンスのままで生きる人や,まさに「ホモ・デウス」のような人物も登場します.
森氏の小説によれば,そうやってホモ・サピエンスがアップグレードされていった先にあるのは,
・人は子供を産まなくなる
・国家や共同体の規模が小さくなる
・内向的になる
といった人間社会が描かれています.
その世界観は,ハラリ氏が提唱する「ホモ・デウス」の世界と非常に類似しています.

以前もこのブログで紹介しましたが,「ホモ・デウス」の世界が到来した先にある人類の未来を示唆する,小説の一文がこちらです.
「このままでは,人類は滅亡する.それさえも望んでいるのかもしれない.我々の子孫は,人工知能とウォーカロン(人造人間)だ.あとは,彼らに任せよう,といったところかな」森博嗣『ペガサスの解は虚栄か?』
ホモ・デウスであることを選んだ人類は,ホモ・サピエンスであることを捨てるだけでなく,生物であることを捨てる日が来るのかもしれません.
しかしそれは,悲しい最後ではなく,淡々とした流れの中で起きることなのでしょう.


関連書籍
  
 


2018年9月18日火曜日

Deus ex machinaな未来(3)

Deus ex machinaな未来(1)
Deus ex machinaな未来(2)
の続きです.

ユヴァル・ノア・ハラリ氏が,その著書『ホモ・デウス』が描いている,「このままの調子で行った先にある」我々人類の未来を紹介するシリーズです.
「このままの調子で行った先にある」と括弧付けをしたのは,ハラリ氏も本書で述べているように,我々人類がどこかで「いや,こういう未来はダメでしょ」と考えて,進路変更する可能性もあるということ.
前回記事で解説したような,「科学革命」を推し進めていった先にある「データ至上主義」では,どうやら人類にメリットがないぞ,幸せになれないかも,と踏んだら『ホモ・デウス』は誕生しないのです.

さて,今回の記事ではもっと具体的に,ハラリ氏が描くホモ・デウスが誕生した未来をイメージしてみます.

ざっとおさらいしておくと,ハラリ氏の言う「ホモ・デウス」とは,私たちホモ・サピエンスが科学技術を駆使し,データ処理能力や身体機能,精神・感情などを高度にコントロールできるよう “アップグレード” されたホモ・サピエンスのことを指します.
 さしずめ,SF作品に出てくる「強化人間」などのサイボーグみたいなものです.
まさに,Deus ex machina(機械仕掛けの神)なんですね.

最初のうちは,めっちゃ高性能なスマホとかグーグルグラスみたいなものから始まるでしょうが(というか,既に現在のスマホは「ホモ・デウス」へのスタートラインと言える),そのうちこういったガジェットを体内に埋め込んだり,神経に直接働きかけて認識させるようになると考えられています.
ここらへんは,ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」とか,士郎正宗の「攻殻機動隊」なんかでイメージしやすいかと思います.

ただ,ここで重要なのは,ハラリ氏がそれを「強化人間」や「超人」ではなく,「ホモ・デウス(人神)」と称するのは,高度なデータ処理と,感情や精神をコントロールできるようになったホモ・サピエンスは,「神」を必要としなくなるだろう.そしてそれは,ホモ・サピエンスが「神」へとアップグレードされることを意味すると考えているからです.

しかしハラリ氏は,全てのホモ・サピエンスがホモ・デウスへとアップグレードするわけではないだろうと予想しています.
まず,いわゆる「宗教的な理由」とか「思想信条の理由」でホモ・デウスになることを拒否する人はいるでしょうし,他にも様々な理由で,最も単純なものとしては経済的な理由が考えられます.

ホモ・デウスへのアップグレードは,あくまでも人為的で任意的なものです.ある時,ホモ・サピエンスが自然に進化するわけではありませんし,危機的状況で「その時ふしぎなことが起こった」とナレーションが入って進化するわけでもありません.
これはちょうど,自分の容姿に不満を持つ人が「美容整形手術」を受けたり,目の悪い人が「レーシック手術」を受けたりするのと同じです.彼らは自分の容姿や視力をアップグレードしているわけですが,それを本人が拒否したり,いろんな理由で不可能な人がいるのと似ています.

もし「ホモ・デウス」へのアップグレードによって,期待通りに「安全」で「高機能化」を成し遂げられたとすると,そこには旧式のホモ・サピエンスと,上位種のホモ・デウスが同時に暮らす未来があります.
それはどういうものなのでしょうか.

すぐに思いつくのは,ホモ・サピエンスとホモ・デウスの間で差別感情が現れるのではないかというもの.
その時々の科学技術レベルによって,現れてくる能力格差に違いがあるでしょうが,ホモ・デウスにとってホモ・サピエンスは,今の私たち(ホモ・サピエンス)がチンパンジーと対峙しているようなものになるでしょう.
「私たちホモ・デウスと似たようなことはできるけど,認知能力や作業能力,記憶力や身体機能も劣っているし,ちょっとしたことで感情的になる」と見るような時代がやってくることは時間の問題です.
そのうち,チンパンジーではなくイヌやネコ,ハムスターのように扱われる時代も来るかもしれません.
つまり,ホモ・デウスがホモ・サピエンスを奴隷として扱う危険性が考えられるわけです.

ただ,こうした事態を好意的に捉えてみると,それはホモ・サピエンスにとって不幸な状況なのか? という疑問が出てきます.
ホモ・デウスは,余程の技術革新(胎児状態からの改造手術)でもない限り,必ずホモ・サピエンスとしてこの世に生を受けるわけで,ホモ・サピエンスに対する愛着は,現行の愛玩動物である「ペット」以上の存在になることは予想できます.
おそらく,ホモ・デウスにとってホモ・サピエンスは,大人が子供を見るようなものではないでしょうか.

仮にホモ・サピエンスが,ホモ・デウスから「ペット」のような扱われ方になったとしても,そういう「ホモ・デウスが活躍する社会」においては,ホモ・サピエンスがどんな活躍ができるのか,それが現在の生き甲斐とか価値観と同じままなのか甚だ疑問です.
ホモ・デウスが活躍する社会では,ホモ・サピエンスは経済活動や政治に寄与していないかもしれませんよね.
馬鹿の考え休むに似たりと言いますが,そういう時代において人間社会は,ホモ・デウスとして経済・政治活動を担うことを希望する人々にそれらを委任し,それ以外の人々(ホモ・サピエンス)は,ホモ・デウスの脛をかじって悠々自適にニート生活をしているかもしれません.

経済政策のひとつに,「ベーシックインカム」という考え方があります.
これは,国が国民に最低限度の生活ができる環境を提供し,その中で稼ぎたい人は稼ぎ,自由気ままに暮らしたい人は自由にするというものです.
つまり,稼ぎたい人はホモ・デウスになって活躍し,気ままに暮らしたい人はホモ・サピエンスのままで暮らすということ.
ベーシックインカムには様々な批判がありますが,もし「ホモ・デウス」が誕生すれば,これが可能になるのではないでしょうか.

一方,ホモ・デウスはポジティブな話ばかりではありません.
ハラリ氏も本書で述べていることですが,ホモ・デウスへのアップグレードは際限がないことが予想されています.
今年買ったiPhoneも,来年のAndroidスマホより性能が落ちます.再来年には次世代iPhoneが出てきて,以前の性能を明らかに凌駕するようになる.そうこうするうち,スマートフォンとは異なる革新的な携帯端末が誕生して,それまでのものがガラクタのように見えてきちゃいますよね.

おそらくは,ホモ・デウスへのアップグレードも同じようなものになるでしょう.
ホモ・デウスたちは,自分がホモ・サピエンスより優れているからという理由で満足したり優越感に浸ることはありません.
ホモ・デウスの生き甲斐や存在意義は,飽くなき身体機能の向上です.自分自身をより性能の高い存在にすることが得策であることは間違いなのですから,ホモ・デウスたちは,新しい機能の追加に余念がない人々となります.
ホモ・サピエンスは,ホモ・デウスとなった時点でホモ・デウスとして生きることになります.
これはちょうど,iPhoneを購入した人にとっては,その機能の比較対象は同じiPhoneシリーズやAndroidスマホであって,ガラケーではなくなるのと同じく,ホモ・デウスの競争相手はホモ・サピエンスではなく,同じホモ・デウスになるのです.
つまり,ホモ・デウスへと進化した人々は,彼らなりにさらなるテクノロジー競争,アップグレード競争に放り込まれる可能性があるとハラリ氏は述べます.

しかし,これはあくまでも我々ホモ・サピエンス視点からのネガティブ予想.
ホモ・デウスは,高い知能と感情コントロールができる存在と予想されているのですから,そういった際限のないアップグレード競争に「嫌気がさす」なんてことはないのかもしれませんし,知能や感情コントロールの性能がある一定水準以上になってくれば,アップグレード競争におけるネガティブな側面を解決する手段を見つけ出すかもしれません.
なんせ,ホモ・デウスは私たちホモ・サピエンスにとって神のような存在なのですから,どんなことを考えつくか分からないのです.

ところで,ホモ・デウスにアップグレードすることと,ホモ・サピエンスで居続けること,どちらかを選ぶとなったら,私はホモ・デウスを選ぶと思います.
そして,ホモ・デウスとなって政治経済を担い,ホモ・サピエンス達を養ってあげる,のではなく,田舎にでも帰って,世の移ろいを眺めながら隠遁・ニート生活をしてみたいんです.
そういう神様がいても悪くないと思います.


参考書籍
以下が『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』です.

   

2018年9月16日日曜日

Deus ex machinaな未来(2)

Deus ex machinaな未来(1)
の続きです.

先日出版された『ホモ・デウス』がとても面白かったので,著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏の前著である『サピエンス全史』と一緒に紹介してみようという記事です.

『サピエンス全史』は,我々「ホモ・サピエンス(ホモ・サピエンス・サピエンス)」という何の取り柄もない人類の一種族が,その他の人類を滅ぼした上に,地球中に繁殖できた理由を最新人類学をもとに解説したものです.
まとめると,我々は3つの革命が起きたことにより現在に至っています.
20万年前に誕生したホモ・サピエンスは,7万年前に「認知革命」が,1万2千年前に「農業革命」が.そして500年前から「科学革命」が起こっている状態にあります.
特に,7万年前から始まった「認知革命」が,その他の人類を抑えてホモ・サピエンスだけが生き残り,これだけの文化と文明を築く礎になっています.

今回の『ホモ・デウス』では,絶賛進行中の「科学革命」を経たホモ・サピエンスが,未来においてどこに向かうのか解説しています.
結論から言えば,科学とテクノロジーが発達していった先にあるのは,人類がホモ・サピエンスであることを捨てて「ホモ・デウス(人神)」へとアップグレードする未来です.

ホモ・サピエンスは,人として生きていく上で必ず生まれる不安や苦しみ,不完全性を補うために「神」を置きましたが,近い将来,科学がその役割を担うようになるだろうという話.
ときどきSFもので目にする「強化人間」とか「超人」みたいなものですね.ですが,よくあるSFものの「強化人間」では,「現在の人間のライフスタイル」のままで特定の能力を発達させたものが多いのですが,実際の生命科学・人間科学を進めていった先にあるのは,(無宗教という意味ではなく,本当に)「神」を必要としない人が誕生するという将来像です.
つまり,その時人類は科学によって「神」そのものになる.故に「ホモ・デウス」なのです.

前回の記事では,そのひとつの例として,莫大な量のデータを瞬時に記録・分析できるようになることと,その記録・分析装置を体内に埋め込めるようになることで,現在のホモ・サピエンスでは成し得ないデータ処理と認知・判断能力を身につけられるようになることを紹介しました.
これについて,もう少し詳細に話してみたいと思います.

ハラリ氏によれば,500年前に発生した科学革命により,ホモ・サピエンスは「人間至上主義」になってきたとします.人間至上主義とは,農業革命までのホモ・サピエンスが崇めていた「神」とは異なり,人間を崇めることをその教義とするものです.

言い換えると,科学革命以前のホモ・サピエンスは,「神」を神として崇拝して物事や自然と向き合っていたのに対し,科学革命以後は,人間自らの行いによって自然をコントロールするようになってきたのです.つまり,そこには崇拝したり祈ったりする神はおらず,「人間の行い」こそが崇拝対象になるわけです.故に「人間至上主義」.
そして今から100年くらい前には,「神は死んだ」とまで言われました.

実際,ここ500年ほどの我々ホモ・サピエンスは,「幸福とは何か?」とか「人生とは何か?」とか,「神とは何か?」「人間とは何か?」「仕事とは何か?」といったことを科学的な視点から考察してきました.
私たち人間は,いつか自分自身のことを論理的・科学的に理解できるのではないかと構えているからです.

難しく考える必要はありません.例えば,医療事故とか原発事故っていうのがありますよね.人間至上主義以前の世界では,仮に医療事故によって死んだとしても,それは「天命だった」と言って医者や看護師が大きな責任を負うことは少なかったし,原発が吹っ飛んでも「天罰だった」とか言って納得できる人が結構いたでしょう.
しかし,人間の行いが崇拝される人間至上主義の現在ではそうはいきません.
人間は人の命を左右できる,原子力をコントロールできると構えるからです.

しかし,だからこそ人間至上主義は,まだ「神」を必要としているのです.
なぜなら,人間は完璧・完全ではないからです.それゆえに悩み,不安を抱く.
何かの判断をする際には,その不安や苦しみから逃れたくて,「神様助けてください」とか,「えぇい!一か八かだ!」などと天や神に祈ることもあるでしょう.

しかし,科学とテクノロジーが発達した先にあるのは,人間至上主義を捨てる未来だとハラリ氏は述べます.
人間至上主義に代わるのは,「データ至上主義」です.
人間の判断,人間の責任,人間の想いや感情よりも,「データ」を崇拝するのがデータ至上主義.この世界の森羅万象は全て「データ」として記録し,解釈することができると構える思想です.これをハラリ氏は「データ教」と呼んでいます.
そもそも,科学革命以後,現在主流となっている「科学」はデータ至上主義を目指していると言っていいでしょう.

もう既に,データ教はホモ・サピエンス界に浸透していると言っても過言ではありません.
天気予報なんかが典型で,これを頼りにイベントを組んだり,雨雲レーダーを頼りに外へ出たりしていますよね.

上述したように,これまでの人類は,何かを判断したり将来の予想をするにあたり,神に祈ったり自分の運命を信じたりして決めていました.
しかし,今後の科学・テクノロジーの発展によっては,ある人が判断や将来予測を必要とする場面に,高性能なデータ処理装置を持ち込める未来が描かれるのです.
少し長くなりますが,その点を『ホモ・デウス』から引用すると,
データ至上主義によると,ベートーヴェンの交響曲第五番と株価バブルとインフルエンザウイルスは三つとも,同じ基本概念とツールを使って分析できるデータフローのパターンにすぎないという.この考え方はきわめて魅力的だ.全ての科学者に共通の言語を与え,学問上の亀裂に橋を架け,学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める.音楽学者と経済学者と細胞生物学者が,ようやく理解し合えるのだ.
その過程で,データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す.これまでは,データは長い一連の知識的活動のほんの第一段階とみなされていた.人間はデータを洗練して情報にし,情報を洗練して知識に変え,知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた.ところがデータ至上主義者は,次のように見ている.もはや人間は厖大なデータの流れに対処できず,そのためデータを洗練して情報にすることができない.ましてや知識を知恵にすることなど望むべくもない.したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ.このアルゴリズムの処理能力は,人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから.つまり事実上,データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で,ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ.
ということだそうです.
その際の「データ処理装置」が,今の携帯電話やスマホ,腕時計のようなものになるであろうし,もっと先には,体内に埋め込んで視神経を介して情報を表示させる未来が待っていることでしょう.

人間至上主義における人は,人間のこと,そして自分自身のことが分かっていません.分かっていないから崇拝対象だったのです.
どうして本当は好きなのに嫌いと言っちゃったんだろう.
どうしてあの時私は欲しくもない健康器具を買っちゃったんだろう.
どうしてダメだと分かっててもお酒を飲んだあとにラーメンを食べちゃうんだろう.

ところが,データ至上主義とテクノロジーが結びついた未来においては,こうした人間らしい,もとい,ホモ・サピエンスらしい判断ミスは起こりません.
過去の自分自身の記録データを基にして,最適な判断を下せるようになるのです.
その時,それは「自分の判断」とは言えないかもしれません.あくまでデータ処理です.

脳を刺激することによって,気持ちよくなったり気持ち悪くなったり,特定の行動をとりたくなったり,その反対に嫌ったりすることが分かっています.
ラットの研究では,脳に刺激を与えることで,右に歩かせたり左に歩かせたり,ハシゴを登らせたりといった運動動作を,リアルタイムにリモートコントロールできることも分かっています.この時,ラットは自分の意思に反して無理やり動かされているわけではなく,脳(自分)が望んだ動きをやっている認識しかないでしょう.

これが人間に採用されれば,欲しくもない物を買ってしまったり,お酒を飲んだあとにラーメンを食べることもなくなります.
もっと言えば,集中してやりたいことがあれば,意図的にその行動を促進させる刺激を脳に与えて「途中で飽きる」「面倒臭がる」といった状態になることをなくせます.
飲み過ぎ食べ過ぎ,運動不足,だらけた生活習慣で悩むことはないのです.

良かったですね.これでニート問題も解決.
これがホモ・デウスにアップグレードしたホモ・サピエンスの未来です.

っていうか,そもそもホモ・デウスにアップグレードした社会において,人,もとい神はニートになりたがるんじゃないか? とも思ったりするんです.

だって,現在の人間たちが,こんなにもしゃかりきに仕事しているのは,将来への不安とか,ステータスとか,自己実現のためだったりするわけでしょ?
でも,「神」になった人間はそんなこと気にするのかな?
しないよね.

なんせ,「生存」のためのデータ処理の最適解は算出できちゃえるのです.だから,将来への不安なんてものはありません.不安に思ったとしても,それを抑え込むこともできるわけで.
しかも,ホモ・デウスは一人だけじゃないんですよね.
ホモ・デウスによる社会が誕生するわけですから.

そんな中にあって,どういう社会政策や政治が行われるのか.
それは未知数ですけど,きっとディストピアな状態になることはないだろう,っていうデータと根拠の薄いホモ・サピエンスらしい展望が私にはあるんです.


参考書籍
以下が『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』です.

   

2018年9月14日金曜日

Deus ex machinaな未来(1)

このブログのタイトルを冠した記事になりましたが,これは最近出版された書籍に啓発されたものです.
ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』がとても面白いのでオススメしておきます.
なお,この著者は2年前に世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』を出版したことで知られています.
   

その『サピエンス全史』が非常に面白かったので,昨年から私は,飲み会や授業,世間話の機会に『サピエンス全史』から引っ張ってきたネタを話していました.体育・スポーツ学という領域からしても,とても興味深い考察ができるからです.

『サピエンス全史』が世界的ベストセラーになったのは,著者のその興味深い考察もさることながら,最新の人類学と人間科学の研究結果を統合して紹介したことにあります.
分かりやすい例を挙げれば,皆さんも以下のような図を見たことがあるかと思いますが・・・,
図:教科書のウソ 人類の進化を表す“あの図”は間違いだったよりhttps://logmi.jp/152154
我々ホモ・サピエンスは,左から右へと徐々に進化して現在に至るという見慣れた図.
しかしこれは今の人類学では否定されており,例えばウィキペディアでは以下のように表現されています.
「人類の進化」wikipediaより
このように,ホモ・サピエンスは約20万年前からホモ・エレクトスから枝分かれした人類の一つであり,一時期(約3万年前まで)はネアンデルタール人やホモ・エレクトスが一緒に地球を闊歩していた時代があったと考えられています.
なお,上図にはありませんが,ネアンデルタール人やホモ・エレクトス以外にも多種多様な人類がいたことが分かっています.

ちなみに,これもウィキペディアに載っていますが,我々ホモ・サピエンスはネアンデルタール人の遺伝子を少し持っている(混血している)ことが分かっていますし,ジャワ原人や北京原人といった聞き覚えのある種族も,ホモ・エレクトスの一種として現在は分類されているんです.これはちょうど,我々ホモ・サピエンスの中にも白人,黒人,黄色人種といった違いがあることと同じと考えてもらえればいいでしょう.
こういう研究結果はここ20年くらいでバンバン出てきたので,一般にはまだ普及していないのです.
ホモ・エレクトス(wikipedia)
ネアンデルタール人(wikipedia)
ジャワ原人(wikipedia)
人類の進化(wikipedia)

また,人類の進化を語る上で,以前はミステリーとして注目されていた「ミッシング・リンク」も,そんなものは「無い」んです.
分かっていることは,それまでうだつの上がらない種の一つであったホモ・サピエンスが,ある時期から覚醒して今の「ヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)」となり,同時代に生きていた人類である,ネアンデルタール人,ホモ・エレクトス,ホモ・フローレシエンシスといった種を滅ぼして現在に至るとされます.

現在の我々サピエンスが,どうして地球中を覆うほど繁殖したのか? そして我々サピエンスはどこに向かっているのか? といったことが『サピエンス全史』で述べられています.
興味のある人は,ぜひこちらも御一読ください.

話を『ホモ・デウス』につなげると,『サピエンス全史』においてハラリ氏は,我々サピエンスがこんなにも躍進を遂げたのは,人類史において3つの革命があったからだとします.
「認知革命」「農業革命」「科学革命」です.
その中の最後の「科学革命」は,今から約500年前(西暦1500年頃)に起こったとされ,それまで別々のものであった「科学」と「テクノロジー」が結びつき,「科学が発展することで,テクノロジーが向上する」という,今の私たちが当然のものと捉えている知的活動が人類に齎されます.

こうして科学が発展してきた現在,私たちは科学によって鬱病を軽減できる薬を作り,セックス以外の手段で生殖できるようになり,莫大な量のデータを瞬時に分析できるようになりました.
これが意味することは,今後の人類にとって非常に重要だとハラリ氏は述べます.

気分や思考が外的刺激(薬や磁気刺激など)によってコントロールすることができるようになることは,これまで人間に幸福感や生きる価値を与えていた「宗教」からその役割を取り去る可能性があります.
これによって人間は,宗教ではなく,科学とテクノロジーによって苦痛から開放され,人生の意義を感じるのです.

また,インターネットやビッグデータ解析に代表されるような,莫大な量のデータを短時間で分析できるようになってきたことは,「自分の考え」よりもデータ分析結果を基に判断する未来が考えられます.
もし将来,自分の発言や行動と,その時の心拍数や発汗,ホルモン分泌などをウェアラブル装置で常時データを取得・記録できるようになったとしましょう.ハラリ氏によれば,このようなデータが入手できるようになると,その時人は,その判断を「自分の意志」ではなくデータを基にして決めるようになると述べます.
例えば選挙などの投票行為において,人はしばしば自分自身が置かれている社会的状況や考え方(本音)とは矛盾する判断をすることがあり,それは「昔からの支持政党だ」とか「なんとなく」で決めているものでした.
しかし,データ分析が容易になった世界においては,自分がどのような状況・環境に置かれるとストレスを感じたり幸福感を感じるのか解析できるようになります.そして,過去の自分の発言や行為の記録から,自分自身も認識できていない,自分にとって本当に最適な政策を打ち出している政党や政治家はどれかを選択できる可能性があるわけです.

最初はウェアラブル装置とタブレット端末から始まるでしょうが,そのうち身体に埋め込まれるようになるであろうことが推測できますよね.

『ホモ・デウス』では,科学革命を経た人類ホモ・サピエンスが,今後も現在と同様の価値観によって科学を突き進めていくことで,いつしかホモ・サピエンスであることを捨て,「ホモ・デウス(神)」へとアップグレードする時代の到来を予測しています.
こう聞くと,SFものでよくある「超人」とか「強化人間」と同じものですが,現在の科学研究結果から,十分にそれが可能である未来を描いていると言えるでしょう.

ハラリ氏が指摘するのは,それが単なる「強化人間」やサイボーグといったものではなく,これまで人類が多種多様な宗教によって作り出していた「神」という存在と機能を,人類自らがその身に取り込む未来です.

この『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』の話は面白いですから,このブログでもう少し続けてみたいと思います.

2018年9月3日月曜日

大阪府警察の皆さん,お疲れ様です

先日から世間を騒がせている大阪府富田林署の脱走事件.
ネットではなかなかの勢いで大阪府警察が叩かれまくっているので,ちょっとくらい擁護の声をかけてあげようかと思い筆を執っております.

実は私,大阪府警察には少し御縁がありまして.
過去記事にもしていますので,詳細はそちらをどうぞ.
警察をお世話する
警察のトレーニング

それらの記事では,「某地域の警察学校」ということで伏せていましたが,つまりここが大阪府警察学校のことでした.2008年のことです.
別に悪い事してたわけじゃないし,極秘活動じゃないし,隠しておいた方がいいことでもありませんので,この際,明かしておきます.

私達の研究室に依頼に来た方曰く,「大阪府では今年から警察への要望が厳しくなって,いろいろと改革や活動強化をしなければいけなくなった」ということでした.
その一環として,警察学校としては訓練プログラムの改善に着手しようと.そのために私達のところに依頼に来たということだったんです.
ちなみに,依頼に来たその方は,うちの先生とは高校自体の先輩後輩の関係でした.世間って狭いですね.

察しの良い方はもうお気づきかと思いますが.
そうです,2008年と言えば,例の橋下府知事による大阪府改革が始まった時期なんです.
この時期,大阪府・橋本府知事は府警に「アレやれコレやれ,でも予算出さない」という,結構けったいな要求をしています.
「とにかく現場の人間が努力せよ」
それが指示内容だったんです.

そんなわけで,数年前にもこんな事件が起きていました.
大阪府警、犯罪8万件を計上せず「ワースト返上」とウソ 橋下大阪市長が「おわび」(ハフポスト 2014.8.1)
大阪府警の全65署が、過去5年間の街頭犯罪などの認知件数計約8万1000件を計上せず、過少報告していた。府警が7月30日に発表した。かつて大阪府知事として「街頭犯罪ワースト1返上」を掲げていた橋下徹大阪市長は31日、定例会見で「当時の府のトップとして府民におわびしないといけない」と陳謝した。
(中略)
過少報告が始まったのは2008年。この年に府知事に就任した橋下氏がワースト1返上に言及したため、府警全体で街頭犯罪抑止が最重要課題になった。
(中略)
橋下市長は31日の会見で、「僕自身がプレッシャーをかけた。あれぐらい言わないと府警は動かない」と述べる一方で「警察が府民をだますのはあってはならず、組織管理をしてもらいたい」と注文を付けた。
画して,努力じゃ達成できない目標だから,現実の方を捻じ曲げてしまえと.そういう事態になったわけですね.
これは大阪府警察が悪いのは当然のこととして,それを統括している知事も現実的な要求をするべきです.

もともと,大阪府が全国比で検挙率がワーストだったのは,発生する犯罪に人員が追いついていなかった可能性もあります.
ヤクザ体質のオッサン,人情深い住民,過激なオカンの群れ.
そうした異質な地域で発生する犯罪に,とりあえず努力で対応せよというのは無茶ブリが過ぎます.
ワースト改善を掲げるなら,一緒に人員増や予算増をつけるのが筋ってものです.というか,まずは人員や予算の充実からスタートするのが常識でしょう.叱責やプレッシャーで組織が改善するもんなら,世の中こんなに大変じゃないよ.

さてその後,大阪府警察の人員や予算が改善されているかというと,実はそうではないようです.
慢性的な人員・予算不足に陥っているんです.
大阪府警を悩ます「ある事情」…最下位レベル「給与」落ち込む「応募」必死の人材確保(産経新聞 2015.6.9)
路上強盗やひったくりなどの街頭犯罪が全国ワーストで、猫の手も借りたいほど忙しいとされる大阪府警が人材確保に躍起になっている。バブル経済崩壊後の数年間は「買い手市場」だったが、景気回復で過去の話となり、橋下徹大阪府知事(現大阪市長)の財政再建策で、給料水準も警察の中で最下位レベルを推移し、府警の警察官を志す若者が減っているためだ。
(中略)
「決して給料だけで仕事しているわけではない。だが、生活もある。優秀な人材が他府県警に流れたのではないか」。ある府警幹部の率直な感想だ。
大幅な給料カットは26年3月まで続いた。26年度の平均給料月額は全国8位に浮上したが、6年間も低迷した給料水準の影響か、17年度に1万4012人いた採用応募者は20年度に7331人と半減。競争倍率も17年度の8・1倍から5・7倍に落ち込んだ。
まあ,一つ言えることは,橋下元府知事は,大阪を犯罪者の街にしたかったようです.
予算と人員を削って,高い目標を掲げる.明らかに公務員を舐めています.民間企業の論理は公務には通用しません.

例えば,一時流行ったドラッカーとか読んで調子に乗ったバカほど,公的機関に民間企業の論理を入れたがる.
過去記事にもしましたが,ドラッカー本人が「公的機関は民間企業とは違う」と述べているのに.

さらに言えば,大阪府は警察だけでなく,教育でも同じことをしています.
リンクさせたいニュース元がネット上で見つからなかったのですが,さまざまなブログ等に引用されて残っているので,興味のある方は検索してみてください.
「大阪の教員採用が悲惨なことになっている」というのは,教育界では有名な話で,先日も和田先生とこの話題をしたところでもあります.
学校教育対談(5回目)←記事中にその話はでてこないですけどね.
大阪の教員採用試験は倍率がどんどん下がっているし,もっとあからさまに問題なのは,合格しても辞退する人が多いんですよ.
よほどの人じゃないと,大阪府で教員をしたがらないってことです.

ネット上でもよく目にする,「公務員は給料カットして努力しろ」っていう意見,なんでまかり通るんでしょうかね.
どう考えても無理筋でしょう? 少し落ち着いて考えれば,公務員の給料をカットしてプレッシャーをかけたところで,事態は悪化するだけです.
どこの世界に,給料下げられた上に文句聞かされて公務を頑張る奴がいるのか.
だからドラッカーも「公的機関に対し,企業のマネジメントは通用しない」と言っているわけですけど,そのあたりの論理とメカニズムを理解できるのは,やっぱり一定以上の知能が必要なのかもしれません.
そして悲しいことに,一定以上の知能が必要なだけに,多分それは少数派になってしまう.

でも,人間は数学教育によって「かけ算・わり算」とか「一次方程式」なんかを誰でも解けるようになるし,それは少なくとも日本人の一般常識になっています.
けどこれは,その人の知能が高まったから「解ける」「できる」ようになったわけではありませんよね.
教えられたからできるようになったのです.教えられなかったら,ずっと知らないままです.

これと同様に,「給料下げられた上に文句聞かされながら,しかもその文句言ってくる奴のために頑張ろうとする奴なんざいねぇよ」という理屈を,一般常識レベルにまでしっかり浸透させることができれば,今より少しは公的機関の改善政策はマシになるのかもしれません.

話を大阪府警察の件に戻します.
今回,たしかに大阪府警察が悪いのは当然なんですけど,こうした事態を改善するためには,もうちょっと警察の仕事がしやすくなる環境づくりから取り掛かるのが実際的だと私は考えます.


2018年8月30日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 56「始まったスポーツ界の内部告発」

ようやくスポーツ界に蔓延るハラスメントが告発されるようになりました.
昨日も,体操競技でそれがありましたね.
宮川、協会からパワハラ受けた 18歳「勇気」の主張(毎日新聞 2018.8.31)
なにか一つの象徴的事件から,一気に火が回る人間社会の典型とも言えるでしょう.
これからこういう話はドンドン増えてくるので,その世界にいる私としても気を引き締めておかねばなりません.

これは「日本大学アメリカンフットボール事件」に端を発した感のある流れですが,それまでにも日本のスポーツ界は『燃焼剤』を溜め込んでいました.
ハラスメントに関する内部告発を促進した直接的な事件といえば,レスリングの伊調馨選手周辺で起きたトラブルでしょう.
その後も,選手がコーチを訴える流れは,同じく日本大学のチアリーディング部のトラブルで促進されました.

もともと,「日本のスポーツ界」が碌でもない環境であることは,日本人皆が薄々感じていたことです.
学校の部活動をはじめとし,プロ野球,Jリーグ,大相撲といった世界を少し覗いたことがある人からすれば,この世界には表向きの顔と裏の顔があること.さしずめ芸能界とかアイドルと似たような世界だということは気が付きます.

マラソンの代表選考がいい加減だったとか,大相撲で暴力事件が起きてもうやむやになるとか,柔道で日常的にセクハラ・強姦が起きていたとか,たくさんの野球選手がやりたい放題してたけど揉み消されていたなどなど.
他にも,結構な数の元有名スポーツ選手が落ちぶれたり,犯罪に手を染めていたというのも定期的に聞く話ですね.

もっと言えば,日本のスポーツ界が(おおむね)碌でもない人間の集まりだからこそ,人々は安心して彼らをヨイショして持ち上げることができていたのです.
サーカスを見るようなものですね.

いえ,これは別にサーカスやスポーツ,芸能界が下賤なものだと差別したいわけではありません.
人間とは,そうやって華々しく映る者の光と影,その盛衰を見て楽しむ文化があるからです.良い悪いの話ではない.
もしスポーツ界が碌でもない人間の集まりじゃなかったら,人々は安心して彼らをヨイショなど出来ません.だって,スポーツ界がまともだったら,それを見ている自分が惨めで仕方ないじゃないですか.
つまり,自分よりも劣っている(と見える)部分がある者達が輝いているからこそ,平時においては余裕を持って彼らを称賛することができる
でなければ,「穀潰し」「生産性がない」「金の無駄」などと激しく罵倒して,そもそもスポーツ活動などできないでしょう.芸能界とかも同じことです.

だから,こうしたスキャンダルやトラブルは,スポーツ界にとって起きてくれなければならないものと言えますし,そこで語られている事とは,その社会がこれから向かうであろう倫理・道徳観の展望であるとも捉えることができるのです.

そういえば最近,『グレイテスト・ショーマン』というサーカスをテーマとした映画がありましたね.
それこそ「サーカス」は障害者や異人種を見世物とするスポーツ・芸能だったわけですけど,むしろこのサーカスが,その社会における障害者理解や地位向上につながる歴史的使命を帯びていたことを物語っています.

こうした論点については今回は割愛しますが,少し触れた過去記事はこちらです↓
井戸端スポーツ会議 part 54「やっぱりスポーツは社会を投影する」
ただ,日本スポーツ界で問題視されてきたこととは,スポーツ界のハラスメント体質と組織防衛体質,そして異職種への転職が難しい状況であり,これはそっくりそのまま日本社会の縮図と言えるわけです.

さて,スポーツ界におけるハラスメントの内部告発が始まったことは,いわゆる「日本らしいスポーツ活動」を展開している指導者や組織からすれば戦々恐々ものです.
特に,競技成績と同時に「教育効果」を謳っている学校スポーツ・クラブ活動などの指導者は,今後は槍玉に挙げられることも多くなることでしょう.

しかし,この意識変化の中にあっては,たくさんの冤罪を生むことも忘れてはなりません.

日大チア部における,学生がコーチを訴える一件をみて,多くの関係者が口を揃えて言ったのは,
「あんなのは全国の学校・大学における競技スポーツ活動で一般的にみられるものであり,これが訴えられるようになったら何百何千件と出てくる」
というもの.

私に言わせれば,理不尽でハラスメントと捉えれられるような指導をしていること自体が問題だと思っているので,こうした「自浄作用」は必要だとは思います.
ですが,もう既に「学生がコーチを訴える」という潮流を嗅ぎつけた人たちはたくさんいて,その対応に右往左往,だけならまだしも,混乱に陥っているところはあるんです.

例えば,これは私の知り合いの大学教員から聞いた話で,しかもまだ決着がついていない話なので詳細は語れないのですが,学生がコーチを訴えることに敏感になった大学運営部が,コーチの指導方法に不満を持つ学生がいないか “能動的” に調査し,トラブルの芽を潰そうとする動きもあるようです.

大学側が能動的に調査する,っていうのは聞こえは良いですが,実はかなり問題を抱えています.
察しの良い方はお分かりかと思いますけど,これは大学側に気に入らない教員やコーチがいたら,それを「学生の声」を使って辞めさせようというもの.
調査用紙に「○○コーチに対する不満を書いて下さい」などとして,かなり強引にネガティブ要素を引き出し,それを理由に失脚させたり,辞職に追い込もうとするのだそうです.
他にもいろいろと問題行為はあるんですけど,まだ言えません.あと3年くらい経ったらお話しますね.

要するに,今は「学生からの訴え」がブームだから,その形で進めれば世論を味方につけることができて,強引な経営手法の隠れ蓑にできる,という寸法です.

今後は「学生がコーチを訴える」ことが増えてくるでしょう.
ですが,その訴えは真摯に受け止め,慎重に判断し,健全に進めていくことを忘れてはなりません.


2018年8月21日火曜日

老兵は死なず

いろいろバタバタしていて,ちょっと時期を逸しましたが「この季節」らしい話題を一つ.
お盆といえば「終戦の日」ですので,先の大戦の話です.
今回,お盆で里帰りしていた際に父から祖父のことで話題になったことがありました.

祖父は10年近く前に亡くなったのですけど,その亡くなる直前,病床に際して父を含む何人かにそれまで話していなかった戦争体験を口にする機会があったそうです.
それが「ノモンハン事件」.

今年の8月15日は,NHKのテレビ番組で「ノモンハン事件」について取り上げていました.
NHKドキュメンタリー「ノモンハン 責任なき戦い」(NHK)
そしたらそこに,私の叔父から父に電話がかかってきて,「親父が派兵されていた所の事をやっている」と言うのです.
父たちにとっては,やっぱり重大な関心事なのですね.

祖父は先の大戦では,陸軍の一兵士として中国大陸と東南アジア地域に派兵されていたそうです.
南方での戦闘については,私も直接祖父から生前にいろいろと聞かされていました.
戦車を潰すことにかけては自信があったそうで,これについては以前このブログで記事にしたこともあります.
しかし,北方であるノモンハンの話は初めて.

実際,父たちも祖父がノモンハンに派兵されていたことは,ずっと聞かされておらず,亡くなる直前にようやく聞かされたとのこと.
私も今回,初めて父からこの話をきかされました.

ノモンハン事件というのは,満州国とモンゴルの国境線をめぐって起きた,日本とソビエト連邦による軍事衝突です.
ノモンハン事件(wikipedia)
そして,日本軍が惨敗し,「北進」を諦めて「南進」へと舵を切り,太平洋戦争へとつながるきっかけとなった重要な出来事でもあります.

その戦場の真っ只中にいたのが祖父でした.
祖父がずっとノモンハンの話をしなかったのは,日本軍の戦い方があまりにも杜撰で,地獄としか言えない戦場だったからだそうです.
「とにかく無謀な戦いだった」というのが祖父の評価であり,ここでの戦いは自分の家族に話せるものではないとして,ずっと控えていたとのこと.

ノモンハン事件については,特にウヨク系の人たちから「実は,損害は日本軍よりもソ連軍の方が大きかった」という解釈があります.
実際,ウィキペディアにも両軍の死者数について,
日本軍=7696名
ソ連軍=9703名
とあります.

しかし,戦争は相手をできるだけ多く殺傷することが目的で行われるものではありません.
今回の場合であれば,国境を維持拡大することにあります.
それが達成できなければ,どれだけ被害が少なくても敗戦なのです.

そして何より,日本軍がこの戦いで「惨敗した」と評価されているのは,兵士の命を無駄に失ったことにあります.
日本軍の人命軽視という特徴は,既にここから始まっていました.

現場の兵士としては,確実に負ける戦闘に駆り出される状態でした.
全滅するか,奇跡的に助かることを願って突撃するような戦い方をして,それでいて戦略的には負ける戦闘行為を続けさせられる.
これで「相手より死傷者数が少なかった」と言うのは慰めになどなりません.

日本軍としては,この戦いは「国境を維持する」ことが目的だったはずです.
そのためにソ連軍を威嚇できれば良いはずだったのに,なぜか消耗戦に突入しています.
その上,負けが確定的になってもなお,玉砕覚悟の徹底抗戦を選ぶという始末.
これが「無謀だった」と言わずしてなんというのでしょう.

上述したテレビ番組でもテーマになっていましたが,結局のところ「責任なき戦い」だったわけです.
ウィキペディアの「ノモンハン事件」の開戦に至るまでの解説文がそれを象徴しています.
この辻を中心とした関東軍参謀らによる関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた。
つまり,(暴走したことで有名な)関東軍を統括する参謀本部が,作戦に反対しながらも「関東軍に任せる」と突っぱねた形で認めているのです.
その結果,参謀本部としては「私達は反対した」と言うし,関東軍としては「許可してもらった」と言い出すことになります.
実際,戦後は喧嘩両成敗的に参謀本部と関東軍の両者が処分を受けていますが,こういう事態になることそれ自体が,軍事組織として極めて危険な状態です.

ちょっとソ連を脅かしてやりたくて,つい手を出してしまったら,思わぬ猛反撃を食らってビビってしまった.
でも,ビビってると思われたくないし,まともな戦略がないまま手を出しちゃいましたなどと釈明したくないから,とりあえず攻撃は続ける.無情にも損害は増えるけど,ここで引いたら失敗だったことを認めることになるから,なんとなく続けとく.というのが実情だったのではないでしょうか.
言い換えれば,意地を張るための戦い.
とてもじゃないですが,日本は近代的な戦争ができるような民度ではなかったのでしょう.
父が言うには,祖父曰く「戦国大名気取りで軍隊を動かしていた」.

命令系統はコネや人付き合いでメチャクチャになるし,戦争目的は「相手に勝つ」などとクラブ活動のスローガンの如き曖昧なもので押し通せるほど杜撰.
どうやって戦争したらいいのか,あまり考えずにやっていたことは事実のようです.

祖父は,ほぼ全滅状態の日本軍における奇跡的な生き残り兵ということになります.
このノモンハンでの戦闘では,脇腹を2発の銃弾が掠めて,それが歳をとってもずっと残っていたそうです.
上述したように,損害は日本軍よりソ連軍の方が多いわけですけど,これは日本軍が全滅覚悟で徹底抗戦したらからであって,人命を尊重した戦法をとっていれば,日ソ両軍とも損害はもっと小さくなったはず.
絶望的だったのは,銃だけ持って戦車部隊に突撃をかけさせられた事だと話していたそうですよ.だって,何もできないですもんね.ここで死を覚悟したとのこと.

その後,祖父は南方の作戦に就くことになりますが,ここではそれなりに戦果を上げた戦闘に参加してます.
おそらく,ノモンハンでの「銃だけ持って戦車に突撃」への反動からでしょうか,祖父はそこで「戦車狩り」に勤しむことになります.
その話は過去記事の■即席対戦車爆弾をどうぞ.

けど,それでも戦況は悪化してゆき,この南方も激戦地になりますが,最終的にはそこでも生き残って戻ってきます.
祖父が生きていた頃も話題になっていましたが,たくさん戦死したところの生き残りだったことから,強運の持ち主だと言われたそうですけど,祖父としては生き残ったことが逆に罪悪感になったそうです.
周りには,戦地から息子が帰ってこなかった家がたくさんあったわけですからね.


さて,平成の御代も今年で最後となりますので,あの “先の大戦” も元号が2つ前の出来事になります.
戦争を生きた当事者も少なくなってきました.
だからこそ,もうそろそろ先の大戦の呪縛から離れて,次の戦争の危険性について足元を見る必要があると思います.

2018年8月8日水曜日

体育学的映画論「夢」

前回は現在上映中の『カメラを止めるな!』の感想を少しだけ述べましたが,詳しく論評するのはネタバレを含むことになるので,もっと後になってからとします.
ひとまず,「カメラを止めるな!」は,私は好きな映画です.三谷幸喜の「大空港2013」とか,「ラヂオの時間」みたいな作品は嫌いではありません.
漂う空気も,実写版パトレイバーである「THE NEXT GENERATION パトレイバー」と類似性があったりするので,こっちも好き.
いずれも追って論評したいと思います.

で,全然作風が違う映画ですが,さっき,黒澤明『夢』を見たんです.
私は今,猛烈に感動しています.
(wikipedia)

ネットのレビューでは,結構賛否両論なんですね.
たしかに,そんな感じの映画ではある.
つまらないっちゃ,つまらないもん.

映画って,ある程度のクオリティを超えてくると,あとは好みの問題になってくるように思います.
万人受けする作品,映画通に受ける作品,熱狂的ファンに受ける作品などなど.そこからさらに細分化した後は,個人的嗜好になっていくものです.

今,物凄い人気を博している「カメラを止めるな!」にしたって,たぶん映画通にしてみれば「過去にもこういう作品はあった」とか言うんだろうけど,その時代との融和っていう要素もあると思うんです.いろいろ書きたいことはありますが,これについては,また別の機会に.

さて,「夢」ですが,これはその時代の空気との融和とは無関係な作品です.
黒澤明の映画は概ねそういう作品が多いとは思いますけど,これは特にそう.

黒澤明本人が見たとされる夢を映画化したものとされていますが,その映像は鳥肌が立つほど綺麗で,まさに「夢の中の出来事を映像化したらこうなりました」というもの.
8つのエピソードから成るオムニバス形式の映画です.

特に少年時代のエピソードとして出てくる映像は,「小さい子供にとっての自然や伝統慣習の見え方」が見事に現れています.
たしかに,私も子供の頃にはこういう夢を見ていた覚えがあります.
例えば「日照り雨」のラストシーンである「花畑と山にかかる虹」の映像は,田舎育ちの私にとっては背筋が凍るような既視感.それは懐かしさと怖ろしさが同時に込み上げてくる複雑な感情.
雨上がりの土と花と緑の匂いも同時に想起され,思わず唸ってしまった.

次のエピソード「桃畑」も映像が凄くきれい.
桃の段々畑を雛壇に見立てて演舞するシーンは圧巻の一言.
望遠レンズの圧縮効果を使って,段々畑をシームレスな「1枚」の舞台として撮影したものですが,こういう見せ方もまさに「夢」のような映像です.
ちなみに,私にとっても段々畑は幼少期の琴線に触れるものなので,これにも猛烈に感動しました.
難しいこと考えなくても,色使いがヤバいのでそれを堪能するだけで十分です.

あと,印象に残ったエピソードは「鴉」と「トンネル」.
「鴉」はゴッホの絵の中に迷い込んだ夢です.
この夢の中ではゴッホとも出会うのですが,そこでゴッホは名言を口にします.
「絵になる風景を探すな.よく見るとどんな自然でも美しい.僕はその中で自分を意識しなくなる.すると自然は夢のように絵になってゆく.いや,僕は自然をむさぼり食べ,待っている.すると,絵は出来上がって現れてくる.それを捉えておくのが難しい」
黒澤監督も,この言葉にシンパシーを感じていたのでしょうか.
というか,このエピソードの映像自体がそれを体現しています.
実際,このエピソードはゴッホの絵の中が舞台となっているんですけど,特に最初の「アルルの跳ね橋」のシーンに驚きました.
ゴッホの絵のタッチと色使いを,現実世界に再現するという離れ業をやってるんです.
文章じゃ伝わらないので実際に映画を見てもらうしかないんですけど,黒澤明は絵になる風景を探さない代わりに,「絵を風景にした」んですね.
CGも使わず,さすが黒澤明,ここまでやるんだ.

「トンネル」のエピソードは,戦争で失った部下たちの亡霊と対峙するもの.
第二次大戦で徴兵されていない黒澤明が「戦地での部下の夢をみる」というのも変な話ですが,このエピソードは「出兵しなかった自分への負い目」と捉える向きがあるようです.
亡霊たちに「いつまでも彷徨っていないで,静かに眠ってくれ」と訴え,暗闇(トンネル)に向かって「前進」の号令をかけたのは,「戦争に出兵しなかった」ことがどれだけ黒澤自身にとって深い傷になっているかを告白したものと考えられます.
あと,このエピソードで登場する「吠えかかってくる犬」の解釈ですが,ネットでもいろいろな意見が飛び交っているようです.
私が直感したのは,これは当時の(もしかするとずっと最後まで)黒澤が「『戦争の犠牲』というコンプレックスを振り払ったものの,まだ私(黒澤)が知らないだけで,忘れられている『戦争の犠牲』があるのではないか」という不安感を象徴していると受け取りました.

この「吠えかかってくる犬」は,軍用犬です.
そして,犬の体に巻き付けられている物は手榴弾であることが分かります.
つまり,この犬は爆弾を抱いて相手に飛び込み,自爆攻撃をさせられていた犬なんですよ.
黒澤としては,先の大戦で犠牲となった者は,個人的に名前を知っているものを含めて「共に出兵したかもしれない『軍人』」のことには頭が回ります.しかし,共に従軍したかもしれない「その他」への想像がは働かない.
例えばそれは何かとなった時,映像化できるものとして「自爆攻撃犬」を登場させたのかもしれません.
もっと言えば,寺尾聰演じる黒澤は,亡霊たちに「君たちは犬死だった!」と嘆くのですが,この「犬死」と,吠えかかってくる「犬」とが関連していると考えてしまうのは私だけでしょうか.

他にも,原発やテクノロジー過多に警鐘を鳴らすエピソードが入っていますが,どれも映像がすこぶる良くて飽きません.
これを面白い映画と捉える人は少ないかもしれませんが,私にとっては定期的に見ておきたい映画の一つに加わりました.


2018年8月7日火曜日

学校教育対談(5回目)

和田慎市先生との学校教育対談の季節になりました.
昨日,都内某所で開催.
これで5年目となります.

過去の対談はこちら↓
学校教育対談(2回目)
学校教育対談(3回目)
学校教育対談(4回目)

和田先生は,学校教育現場について現場目線での情報発信をしている方です.
著書はこちら↓
  

ホームページも作成されていますので,こちらも御覧ください.
先生が元気になる部屋(和田慎市ホームページ)

あと,先日はiRONNAにも記事を掲載されていました.
「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?(iRONNA 2018.5.3)


この対談も5回目ですが,当初は和田先生との2人だけだったのが,次第に参加者も増えていきまして,さて今回はと言うと,なんと私のゼミ生までもが参加しました.
今年の教員採用試験を受けている学生で,一次試験を突破して次は二次という状況.
その学生も他大学の教採仲間を一人連れて来てくれたので,かなり広範囲の会となったわけです.

彼らとしては,教員採用試験の参考(特に面接など)になればという考えもあったのですが,教員の仕事を現場目線で,且つ,俯瞰的に捉えておきたいというのが参加を決めた動機.
楽しいことばかりではない職場だと分かってはいるものの,それをより詳しく聞いておきたいと考えたようです.
そんな彼らにとって,和田先生との対談はとても有意義な時間になったようです.

教員の仕事の大変さを知りたいということで,いろいろなトラブルや職場での「あるある」の話もしたのですが,そうはいってもこの仕事の魅力とは,そうしたネガティブな部分を含めたものと言えます.

「私はこの仕事を通して何をしたいのか?」
ということがしっかり見つめることが大事です.
それは他の仕事においても同じでしょうけど.

その時に和田先生もおっしゃっていましたが,トラブルを起こしたり反抗的な生徒は嫌いじゃない,ということ.私もこれには同感です.大学生にも同じことが言えます.
別にトラブルを起こしたり反抗的な態度をとる生徒こそが「良い生徒」だと言っているわけではありません.そのあたりを勘違いされることが多いので注意が必要です.

小説や映画,アニメなどでも「反抗的だけど,実は物事の本質的な部分を見ている人だった」とか,「トラブルメーカーだけど,実はそこに巣食う大問題を感じ取っている人だった」といったキャラクターは,古今東西,枚挙にいとまがありませんよね.典型例としては,黒澤明監督作品の『乱』における三男・三郎直虎がそれですし,最近のものでは庵野秀明作品の『シン・ゴジラ』における巨災対メンバーがそれです.

これは人間界における「あるある」なのですが,いかんせん現実の当事者にとってはただのトラブルメーカーであり,反抗的で嫌な奴として扱われます.
映画やドラマの世界では理解できても,実際に自分の身に降り掛かってくるとそうはいかないという人は多いものですよね.っていうか,そういう人が圧倒的多数だと思います.

こういう「トラブルメーカー」な人種は,学校現場においては「不良」「ヤンキー」「ませたガキ」というレッテルを貼られることになりますが,彼らを排除したり強制的に統率することでは,本質的な問題を改善したことにはなりません.

ではどうすればいいのか?
それは,葛藤することです.
葛藤していく中に人間としての成長があり,学校教育としての価値がある.
典型的な授業を受けて,典型的なクラブ活動をし,典型的な友人関係を築くことが最良の学校生活ではないのです.
それは大学においても同様で,分かりきっている知識や手順を学ぶことは大学教育ではありません.学友と,教員と,そして学界や自分自身と問答し,葛藤することに価値があるんです.
そして教員の役割とは,生徒や学生の「葛藤」をタイミングよく,適度に,そして安全に後押ししてやることに他なりません.

もちろんそれは難しい仕事です.
失敗すれば生徒や学生に大きな傷を負わせるかもしれません.落胆させたり,無気力になってしまうかもしれない.
しかし,それでも「葛藤させない」よりはマシです.
世の中は驚きに満ち溢れている.自分に都合よく出来てはいない.
そもそも,自分にとって「都合がいい」と今そこで考えていることは,本当に自分にとって都合がいいことなのか?
そうしたことを考える機会が,学校であり,大学です.


ところで,今回の和田先生を囲む会に行くまでの道すがら,時間があったので近くの映画館に寄り道してきました.
今,物凄い人気でニュースにもなっている,上田慎一郎 監督『カメラを止めるな!』を見てきましたよ.
あまりに「面白い!」との前評判のため,期待値とハードルが上がりまくっている作品ですが,その高いハードルをしっかり跳び越える面白い映画でした.

内容に少しでも触れただけでネタバレになってしまうので,現時点でこの作品の詳細は述べられませんが,「こういうのが人間として生きてて楽しいところだよね」ってことが詰まった良作です.
この作品では「映画」が舞台になっていますが,「学校」とか「教育」においても同じだなぁって思わされました.きっとどの職場にも通じると思う.

なお,本作は「ホラー映画」「ゾンビ映画」としてカテゴライズされていることが多いですが,これはコメディ映画です.ホラー映画が苦手だと思っている人はご安心ください.
三谷幸喜の『ラヂオの時間』に似ていますし,きっと元ネタはそれなんでしょうが,私としては「ラヂオの時間」よりも「カメラを止めるな!」の方が好きかな.泥臭さが魅力的です.
細かい事抜きにしても,『カメラを止めるな!』は見て損はありません.

2018年7月30日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 55「学徒動員」

スポーツの記事なのに「学徒動員」とはどういうことか?
2020年オリンピック東京大会のことなんです.

先日,学生の頃から仲が良かったとは言え,中年にもなった我々大学教員が,故あって合宿所で一泊することになり.
そこで研究とか教育の話をお酒を交えて(面白おかしく)議論する機会がありました.

その話題の中に「オリンピック東京大会における,学生ボランティアをどうするか」というのがあったんです.
ぶっちゃけ,結構困っています.

以前から「学生ボランティアを出せ」とか「海外チームの合宿地・練習地を用意しろ」といった類の要望はあったんですけど,このたび文部科学省・スポーツ庁より大学に以下のような要求が入りました.
東京五輪・パラ「授業避けて」国通知、ボランティア促す(毎日新聞 2018.7.27)
スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。
多くの大学は7~8月が試験期間となる。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。
当初の想定以上に学生ボランティアが集まっていないから,とのことです.
当たり前です.
文部科学省はこれまでに「大学は授業をシラバス通りしっかりやれ」「学生は授業に出席することが義務」「大学は学生が授業に出席しているかどうか管理しろ」といった圧力をかけてきました.
大学の授業なんてのは数回休むのは当たり前だと思っている30代以上の人たちには想像できないでしょうが,今の大学でその感覚は通用しません.

結果,現在の大学生は授業にちゃんと出席するようになり,授業に出席することが目的となっています.
その帰結として,大学も学生も,「授業出席」に支障をきたすようなシステムや行為を極力排除するようにりました.「部活の試合があるので休みます」とか「ゼミの活動で休みます」なんて理由は,授業を欠席できる理由になりません.これはボランティア活動も同じ.普通に「欠席」です.
一応,各大学独自の規定によって授業担当教員宛に「欠席理由書」「欠席への配慮のお願い」といったものがありますが,用意されない大学もあります.
原則は「欠席扱い」です.
私の授業でも,例えそういった書類を受け取ったとしても,いちいち理由を判断したり考慮するのが面倒なので,一律「欠席」にしています.こっちの理由は良いけど,こっちの理由はダメ,などと判断するのは公平性が保てないからです.欠席した分のマイナスは,出席態度と試験結果で取り戻せということにしています.

そんな中で,オリンピックごときのためにボランティア活動しようなんて思うわけがないでしょう.
それもこれも,元はと言えば文部科学省が仕向けたこと.
そのくせ,今になってオリンピックがあるからって「授業をしなくてもいい」とか「ボランティアを出せ」って,どうなのよ.
なので,これって「学徒動員ではないのか?」という話も出てきているわけです.

そもそも,なんで学生ボランティアを要求してくるのか?
スポーツ庁からの通達にはこうあります.
平成28年4月21日付け28ス庁59号で通知したとおり、学生が、オリンピック・パラリンピック競技大会等に参加することは、競技力の向上のみならず、責任感などの高い倫理性とともに、忍耐力、決断力、適応力、行動力、協調性などの涵養の観点からも意義があるものと考えられます。さらに、学生が、大学等での学修成果等を生かしたボランティア活動を行うことは、将来の社会の担い手となる学生の社会への円滑な移行促進の観点から意義があるものと考えられます。(30ス庁第236号より抜粋)
たったそれだけの理由です.
それだけの理由で,ボランティア活動できるように大学のスケジュールを変更しろと?
授業スケジュールや教務システムって,そんなにホイホイと簡単に変更できるものではないのです.

参加したい学生,参加できる学生だけボランティアすればいいのではないか.
いくらなんでも虫が良すぎます.
他の大学教員とも話していたのですが,「これも外国人留学生で対応できるよう規制緩和すればいいのではないか」と吐き捨てる人もいました.

繰り返しになりますが,オリパラでどうしてこんなにも学生ボランティアを要求してくるのでしょうか.
それは教育的価値があるからではありません.
大学の斡旋を通じて参加してくる学生ボランティアなら,ドタキャンが少ないからです.
上記の文言にしたって,これはあくまで建前です.本気にしてはいけません.

私も「神戸マラソン」を始めとして,関西地域のスポーツイベントのボランティア斡旋を担当していたことがあります.
そんな記事も書いたことがありました.

つまりこういうこと.
学生ボランティアと言っても2種類あるんです.
完全に自分の意思で参加するボランティアと,大学教員や部活指導者等の斡旋によって参加を促されたボランティアです.

前者には参加のモチベーションが高い人が多いのですが,反面,冷やかしに参加している人もいてドタキャンが怖い.しかもこのタイプは登録人数が少ないので,運営側としてはギャンブルな要素があるんです.

一方,後者は総じて参加モチベーションは高くないものの,斡旋した教員や部活指導者との人間関係を介して参加しているため,運営側の指示にも従順でドタキャンも少なく,必要人数が大量に確保できる上に,不必要とあらば簡単に切ることができます.端的に言えば,人数が読めて使い勝手がいいわけですよ.
全部が全部とは言いませんけど,大学でスポーツボランティアの斡旋業務をやっていた私としては,それが率直な意見です.

なにより悲しいのは,私も含め学生ボランティアを斡旋している人たちが,不本意ながらボランティア募集の時に使っていた「学生がスポーツボランティアに参加する意義」なる理由を,文部科学省・スポーツ庁が堂々と大学に向けて発していること.

責任感,倫理性,忍耐力,決断力,適応力,行動力,協調性の涵養.
授業で学んだことを生かす.
将来,社会に出た時に役立つ.

嘘じゃないけど,そんなに胸を張って言うことではありません.
っていうか,やっぱりこんなの嘘だし.ボランティアごときでそれらが身につくのなら,教育機関は指導に苦労していません.
これならまだ,「ボランティアスタッフの人数が確保できないから,オリンピックを無事に開催するためにも,大学と学生には人員確保の役割を担ってほしい」とお願いされた方が筋が通ります.

私もボランティアを広域に募集する際には「責任感がぁ〜」とか「キャンパス外での学びがぁ〜」とか「社会に出たときにぃ〜」などと歯の浮くような文言を使いますが,いざ集まった学生たちにこんな言葉はかけません.
必要とされているからやる.やりたいからやる.
ボランティアをすることによって自分自身が何かを得るのは結果であって,それを参加の理由にしてはならないのです.

ましてや大学の授業スケジュールを変更してまで取り組ませようとすること.
文部科学省とスポーツ庁は,まずは,そうまでしてオリンピックを開催しなければならない意義や魅力を,大学に示すことが礼儀ってものではないでしょうか.


2018年7月22日日曜日

やっぱり多くの国民に等しく大学教育が受けられる機会を与えることは重要だと思う

前回の記事では,昨今話題の女子大とトランスジェンダーの問題を取り上げましたが,もう一つ最近の話題である「大学教育無償化」について,それを推進する方向での意見を提示しておきます.

このブログでは,7年くらい前から「大学教育はチャラいことせずに硬派にいこう」と主張する一方で,「難関大学,高偏差値大学以外は役に立たないから潰せ」というのも間違いだと繰り返してきました.
で,そのこころは「大学教育をあまねく国民に享受させよう」というものです.

「無謀だ」「そんな予算がどこにある」「低偏差値の子供を大学に行かせてもお金の無駄」といったご意見もあるかと思いますが,これは次代を担う子供をどのように育てるのか? という日本人としての心意気の問題だと考えられます.
私としては,現状,国防費や福祉予算は据え置いても教育にかけた方が,皆さんが気にする「コスパ」は良いと思っています.

何年か前に,ある学会で研究のポスター発表をした際に,その場で安藤寿康先生という方とディスカッションする機会がありました.
我々の研究に興味を持ってもらえたようで,いろいろ興味深い質問をいただいたのですが,私はその時は安藤先生のことを,質問をしてきた研究者の一人として捉えていたのですけど,あとでこの学会に講演者として招かれた先生であることを知りまして.
その講演内容が非常に面白かったことと,私が常々考えていた体育・スポーツ論や教育論とも親和するものだったので,その後,著書も読ませていただきました.
例えば以下のようなものです.
 

一言で言えば,
「人間のパフォーマンスは,育った環境条件が同じであれば『遺伝』の影響が大きい」
というもの.
さらに言えば,
「教え上手な教師に習おうと,教え下手な教師に習おうと,その子供にとっての中長期的な教育効果に差は無くなる」
ということも,様々な研究データを根拠として主張されています.

これについては,御本人も講演や著書でも「安易に受け取られて誤解されることが多い」と困っているようですが,決して「遺伝で全てが決まる」わけでもないし,「教育を受ける意味がない」というわけでもないことが重要です.
つまり,教育においては「学校で教師から指導を受ける」という環境条件が同じであれば,あとはそこで子供がどのように育つのかは遺伝によるところが大きいということ.
逆に言えば,学校教育を受けた者と受けなかった者とであれば,そこには差が現れるわけです.

安藤先生の著書から引用すれば,例えば一卵性双生児の研究では,一方は優良大学を卒業,もう一方はFラン大学を卒業したとしても,一定期間が経って両者の社会的地位(所得・収入など)を比べると,そこに差はなくなっている場合が多いんだそうです.
たまたま通っていた高校レベルや入試対策の違いによって,入学・卒業した大学レベルが異なったとしても,そこから先の「社会人としての振る舞いやスキル」は遺伝によるところが大きいからです.だいたい7〜9割くらいが遺伝の影響だそうですよ.
ただし,ここで問題なのは「だから学校・大学教育なんて不要だ」というわけでないこと.
両者は,学校や大学の教育を受けるという「環境条件」が同一だからこのような結果になるんです.ここがこの現象を理解する上でのポイントになります.

別の観点からこの現象を見てみます.これは以前,私の後輩である東京都の高校教師から聞いた実話です.
あるクラスの担任を受け持っているその教師は,指導スキルに問題があることが校内でも危惧されていたそうです.社会人としても問題があるとされ,例えば会議でも不適切な言動をすることで有名.
実際,クラス運営もヤバいので生徒たちからも不安視されていました.
「生徒の名前を覚えていない」なんて当たり前で,「ホームルームや授業中に『先生』が寝る」,「学園祭の用意を生徒に丸投げ」,「進路指導を一切しない」等々,メチャクチャな先生だったそうです.
しかし,このクラスの生徒はなぜか「教育困難校」とされる当該高校の中でも不思議とトラブルや問題を起こさない.しかも,クラスの平均学力は学年トップ.
一生懸命親身になって生徒指導しても,トラブルが絶えず,勉強しないクラスがたくさんあるのに,どうしてコイツのクラスは安定しているんだ?
そんなわけで学校が調査してみると,どうやらこのクラスの生徒たちは「この担任に自分たちのことを任せると冗談抜きでヤバいことになる」ということで,自発的に勉強するようになり,生活態度も節制し,進路も自分で決めるようにしていることが分かりました.
絵に描いたような反面教師ですね.

もちろん,この教師は「現代日本社会」においては極めて問題のある教師です.
受け持った生徒やクラスが,たまたま重大事件を起こさなかったから,マスコミや保護者に糾弾されずに済んでいるとも言えます.
教師失格の烙印を押されても仕方無いでしょう.
しかし,ではこの教師が「生徒に悪影響を及ぼしているのか?」「悪い人間を育てているのか?」と問われれば,これは判断や評価は難しいことが分かってくれるかと思います.
と同時にこの事例が教えてくれるのは,人間とは,与えられた環境下で課題に取り組む中にあって,その最適解をひねり出すということ.そして,それこそが教育の本質なのではないか.

この問題教師は,たしかに一般的に認識されている「良い教育」はしていないかもしれません.
やっていることも極めて非常識.このクラスは当初,大混乱だったことは想像に難くありません.
ですが,彼なりに「高校教育(中等教育)」を生徒にしっかり授けているわけだし,それによる効果もタイムラグを置いて現れている言えます.

教育の語源である「エデュケーション(Education)」には,その人が持っている能力を「導き出す」という意味があります.
能力は植え付けるものではなく,引き出すもの.
まさにその通りだということです.

では,話を大学教育無償化につなげましょう.
現在,日本で取り沙汰されている大学教育無償化構想は,「無償化する代わりに,政府の要望を聞き入れさせる」こととの抱き合わせで進んでいます.
具体的には,「卒業に必要な単位の1割以上を企業の実務経験のある教員が担当する授業とすること」とか,「外部理事を複数任命すること」といったこと.
だからとても危険です.
大学無償化、支援対象に私立大学などから異論(大学ジャーナル 2018.5.28)
「大学を支援する政策なんだから,政府の要望を聞くのは交換条件として当たり前じゃないか」と思う人は結構多いと思いますが,それがダメな理由は過去記事でいっぱい書いていますし,ある意味このブログ全体の一貫したテーマなのでここでは割愛します.

大切なのは,大学で行われている高等教育を多くの国民が受けられる機会を,純粋に増やすことです.
何かにつけて今の政府は,大学を「就職予備校」とか「職能養成学校」にしたがりますが,重要なのは高等教育の普及です.
高等教育は役に立たないからと,社会や世間の要望を取り入れることではありません.大学は学術研究を追い求めて,そのエッセンスを学生に振り掛けていればいいのです.
それによって学生がどのように育つか,それは本人の資質(遺伝)にかけるしかありませんが,まっとうな高等教育を受ける機会が与えられることは,国や社会全体のことを考えれば決してマイナスにはならないことを意味します.

では「高等教育」とは何か?
それは「モノの考え方」を身につける機会です.
これは,昨今流行している「考える力」とは微妙に違います.
以下,昔の記事で書いたものをそのままコピペしたものですが,大事なので繰り返しておきます.

大学において学生が学んでいるのは,それぞれの教員が授業で扱うモノに対する「考え方」です.
例えば「経済学」であれば,その教員が「経済」や「経済学」というものをどのように捉えているのか,その「考え方」を学ぶのです.決して「正しい経済学」なんてものではないし,もともとそんなものは存在しない.

ときどき,「大学で学んだことは実社会では役に立たない」とか「5年もすれば価値は下がる」などと言われることもありますが,これこそ大学の授業を「何かに役立てるための “パッケージ” を手に入れる場」だと勘違いしている典型です.
大学は職能養成学校になってはいけないし,そもそも大学では職能養成できない理由がそこにあります.

大学教員が学生に受け取ってもらいたい事とは,この世界を見つめる上での羅針盤となる「モノの考え方」なのです.
具体的な例で言えば,学生が将来一人で,もしくは誰かと或る “それ” について議論しなければいけない際に,より正しい結論や答えを紡ぎだすための体力をつける時間が大学の授業と言えるでしょう.
それはどのような科目であれ関係ありませんし,何年経っても価値は下がるものではないのです.

誤解を恐れずに言えば大学の授業に「答え」はなく,「考え方」が問われているのであって,それゆえ「教師」ではなく「(答えを探し求めている者)研究者」が授業を行っています.

ところで,学校教育や高等教育をあまねく国民に享受させることは,決してバラ色の未来を約束するわけではありません.
冒頭にご紹介した安藤先生も解説していますが,教育が平等に普及すればするほど,『遺伝』による差が明瞭になっていくのです.
すなわち,どうしようもない格差,越えられない壁が明らかになってくることを意味します.

しかし,それがどうしたというのでしょう.
もともと,人間の才能には差があること,その能力の上限に差があることは本能的に知っていることではないか.
だからこそ,そうした差を認めた上で,お互いが与えられた役割をこなしつつ楽しむスキルを養う機会が必要になります.
それが如実に現れるのが身体能力であり,体育・スポーツの場ではないかと私は考えています.
教育において,わけても高等教育にこそ「スポーツ教育」が必要な理由がここにあります.
大学における体育授業の意義

そのへんも含めて,あとは以下の関連記事も読んでください.

関連記事
道徳教育は体育でやりましょう

2018年7月11日水曜日

続・女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

最近,こんなニュースが大学界を騒がせています.
「心は女性」の男性受け入れへ…お茶の水女子大(読売新聞 2018.7.3)
心と体の性不一致学生入学検討へ(NHK 2018.7.3)
いきなり出てきたものではなく,この話題はかなり以前から取り沙汰されていました.
私も1年くらい前に記事にしたことがありますし,仲間内でも「もしトランスジェンダーの学生が希望してきた,どうするんだろうね」などと話していたものです.
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?
今回の記事は,その続きとします.

なお,この話題は日本に限ったものではありません.
【スミス大学】アメリカの名門女子大、トランスジェンダーの入学が可能に(ハフポスト 2015.5.4)
アメリカ・マサチューセッツ州にある名門女子大「スミス大学」が5月2日、トランスジェンダーの学生の入学を2015年秋入学から許可すると発表した。男性に生まれたが、女性としてのアイデンティティを持つ学生は入学の対象となる。一方で、女性に生まれた後に男性のアイデンティティを持つ学生の入学は許可されない。
過去記事でも書いているように,私は「どっちでもいい」と思っていますし,結局のところ「大学次第」だと考えています.
大学の教育方針に沿うのであれば,生物学的性差も社会学的性差も「こうでなければならない」という判断基準はないと思いますよ.

「この際,女子大の存在意義を見直したほうがいいのでは?」などと言い出す人もいますが,事はそんなに大げさにする必要はありません.
女子学生だけの環境で学びたいという要望が存在しており,女子だけで学ばせたほうが学習が円滑に進むという教育者たちの経験則と現実があるのですから,この上なにを論じる必要がありましょうか.
同じことが「男子校」にも言えるわけですから.

もし「女子大」とか「女子校」の存在意義を論じるとすれば,少なくとも日本の女子大学が誕生した理由である「女性の高等教育機会の提供」は既に達成されているものと考えていいでしょう.
かつて,日本の高等教育(大学)には女子は遠ざけられていましたので,それを補うものとして女子大学が設置された経緯がありました.
しかし,その差は非常に小さくなってきており,2017年の内閣府調査によれば,大学進学率は男子:55.6%に対し,女子:48.2%です.
また,男女ともに入学希望者が多い難関大学とされるいくつかの共学大学においても,入学者の割合は女子のほうが高いところもあります.

あと,女子大にどんな恨みがあるのか知りませんが,なんだか執拗に文句つけてくる人もいるんです.
例えば,「どうせ社会に出たら異性との交流があるのだから,大学は共学にすべきではないか」といった,それこそ男性的発想.
どうやら世の中には「女子大=閉じられた秘密の花園」というエロ漫画的妄想を抱いている方々がいるんですけど,落ち着いて考えてもらえれば,そんなわけないことに気づいてもらえるはずです.
詳しくは過去記事に書いているので,そちらをどうぞ.
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

とは言え,ここで簡単に説明すれば,教壇に立つ教員は私みたいな男性教員の方が比較的多いし,事務職員だって男性の方が多い.トイレの清掃に入ってくる用務員さんも男性だし,学生も門を出れば普通の社会で生活する一般人.クラブ活動やサークルで他大学の男子学生と交流することも多く,男性社会から断絶された空間などではないのです.

ただ,私が今回のニュースで驚いたのは,「体は男性」の学生を,日本の女子大が受け入れることを検討していることです.意外と早いペースで価値観の変化が起きているんですね.
逆なら普通にあり得るかなって思っていたので.つまり,「体は女性で,心が男性」の方.
まあ,そういう人は既に以前から女子大に入学していたのでしょうけど.

ここで私が再度問題にしたいのは,「体は男性,心も本当は男性」という学生をどのように判別するのか?ということです.
繰り返しますが,私はその女子大学がどのような教育をしたいのか? が最も重要な判断基準だと考えていますので,あんまり外野から意見するとおせっかいな話になることを承知の上です.
でも,内面を重視して外面を脇に置くような姿勢には,ちょっと違和感があります.
実際,お茶の水女子大学の説明では以下のような状況.
「心は女性」の学生、事前申告で確認 お茶の水女子大(日経新聞 2018.7.10)
受験前にトランスジェンダーであるとの事前申告があれば、大学が確認して受験を認めるという。(中略)トランスジェンダーの場合は事前に申し出てもらい、大学が資格に該当するか確認する。具体的な確認方法については未定。
つまり,現時点では「体は男性,心も本当は男性」という学生をどのように判別するのか未定のようなんですね.

私は,女子大であればこそ「本人の心が女性」であれば入学OKという基準には疑問があります.
というのも,大学教育というのは,人と人との交流によって成り立っていくものであり,本人の主観だけでなく,他者からの評価も重要な教育資源になります.相手が女性か男性かの判断にしても,決して無視できない基準です.

そもそも,女子大学は「女性への高等教育機会の提供」をその目的の一つとして誕生しています.
そしてそれは,女性という「戸籍」上の性の問題であり,女性らしい「外見」という性の問題でもあります.
つまり女子大学というのは,他者から「女性」として扱われている人間のために用意された高等教育機関であり,他者から「女性」として扱われている人間が集う大学という性質が強いところです.

お互いを「女性」として認識し合えている環境下にあって,女子大らしい教育が成り立つと言えますし,実際,私も女子大での授業のオリジナリティはそこにあると実感しています.
よって,本人が「私は女性」という認識を持っているからと言って女子大学に入学するのは無理があるように思うんですよ.
言い換えれば,本人が自分のことをどう思っているか,ということよりも,周囲の人間がその人をどのように思っているのかが大事なんです.
別に外見差別や性差別をしているわけではなくて,大学教育や学友との学びにはそういう側面があるっていうことです.
(そもそも,どちらかって言うと私は,女子大学に歴史的意義はあっても「将来的に女子大学は不要」と考えているタイプですし)

もちろん私も,「本当に心が女性」かどうかを判別できるのであれば,そうした人を女子大学に入学させるのは歓迎します.
けど,現時点では時期尚早だと思います.判別基準も曖昧なんだし.

「女子大入学の条件は外面だ」なんて受け取られるような事を言うと,「性の多様性が・・・」といった文句が出てきそうですし,実際にお茶の水女子大学の説明会ではそのような言葉が出たようです.
お茶の水女子大「性には多様性がある」 トランスジェンダーの女性を受け入れる理由を説明(ハフポスト 2018.7.10)
本人の主観を重視するのであれば,共学に入学するのが正統でしょう.
わざわざ女子大に入学する理由がないじゃないですか.「学習の機会」という意味においては,上述したように既に女性であることによるハンディキャップは無くなっています.

だからこそ,現在の女子大の存在意義とは,お互いを「女性」として捉え合う環境での学びの空間の存在です.その学習環境の意義は認めます.
逆に言えば,そうした学習環境の提供に疑問があるのであれば,それこそ女子大学であることについて疑問を呈する時期だと思うんです.