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Deus ex machinaな未来(4)
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世間ではいろいろニュースがありますが,たいして面白くないし楽しくもないので,私の好奇心に従って記事にしたいと思います.
そんなわけで,
■Deus ex machinaな未来(1)
■Deus ex machinaな未来(2)
■Deus ex machinaな未来(3)
の続きです.
人類は将来,サイボーグ化することで高い知能と感情コントロールを身に着け,「神」を必要としなくなる時代が到来するのではないか?
ユヴァル・ノア・ハラリ氏は,これは人間が神になることと同義ではないかと考え,そうやってアップグレードされたホモ・サピエンスのことを「ホモ・デウス」と呼称しました.
その著書『ホモ・デウス』が話題となっています.
前回の記事では,仮に人類全てがホモ・デウスに進化する可能性があるとしても,その黎明期や過渡期においては,
「ホモ・デウス vs. ホモ・サピエンス」
という状況が現れることは必然であり,そこには差別問題や主従関係が発生するのではないかという話でした.
さながら,ホモ・デウスのペットとしてホモ・サピエンスが存在するような時代が到来するのかもしれないわけです.
しかし,ホモ・サピエンスがホモ・デウスにペットとして飼われたり,悪く言えば家畜化された状態になったとしても,それはホモ・サピエンス自身にとって不幸なことではないと思います.
そもそも,ホモ・サピエンスをペットや家畜だとする認識は,ホモ・デウス側の見方です.
今にしたって,ホモ・サピエンスはイヌをペットにしていますが,飼われているイヌは自分を「ホモ・サピエンスのペットだ」とは認識していないでしょう.
それなりに頼りがいのあるリーダーだとイヌ側は見ているはずです.
イヌにしてみれば,ホモ・サピエンスは姿形が自分(イヌ)とは違えど,いろいろ摩訶不思議な能力を発揮して食べ物や快楽を与えてくれる便利なリーダーだと捉えているかもしれません.
そして,おそらくはイヌはイヌなりに幸せな生活が送れて満足しているものと思います.
これには反論もあるでしょう.
ペット(家畜)になったイヌは,やはりイヌらしい生き方ができていないのだから,不満足で不幸な生き方をしているのだ,と.
その通りではあるのですが・・・.
しかし,これは壮大で盛大なブーメランなので,ちょっとずつ説明していきますね.
著者のハラリ氏はこの点について,本書内で「家畜」についても言及しています.
たしかに家畜は,野生にいた時よりも病気や害獣から襲われる心配もなく,食べ物の心配もしなくて済みます.
安定した繁殖も約束されており,種族としての平均的な価値観があるとすれば,彼らは快適に繁栄できているとも言えるのです.
しかし,人工的な品種改良を経たとしても,その種族が野生の頃に必要としていた能力や欲求を閉じ込めることはできません.
家畜として生きることは,元来想定されていないからです.
例えば,近年の研究ではブタは非常に知能が高い社会性豊かな動物であることが解明されてきました.
最近の実験では,ヒトやチンパンジーといった霊長類と同程度のコンピューターゲームができることも知られています.
しかし,現在のブタは人間の都合により,野生の頃とは明らかに異なる,狭い檻に密集した状態で生活し,妊娠と子育てをさせられています.
これによりブタは,ブタ本来の健康福祉を害し,欲求不満を募らせている状態にあるとされています.
そしてそれは,他の家畜たちにも同じことが言えるのではないかということで,前衛的な動物愛護団体は批判を高めている,というニュースをご存知の方も多いことでしょう.
ところが,それを言うなら我々ホモ・サピエンスも同様である,というのもハラリ氏の主張.
その内容は『ホモ・デウス』ではなく,前著である『サピエンス全史』にあります.
『サピエンス全史』の趣旨は,我々ホモ・サピエンスは,「認知革命」「農業革命」「科学革命」という三大改革により,人間らしい発展を遂げてきたというもの.
そして,そのうちの「農業革命」によって,ホモ・サピエンスには「人口増加」と「定住」による都市化が齎されたことが知られています.
しかしハラリ氏によれば,この「農業革命」はホモ・サピエンスにとって悲劇も生んでいるとします.
というか,ぶっちゃけ悲劇の方が大きい.
まず,一般によく知られたところでは,人類が農耕をするようになってから部族間で「戦争」が発生するようになりました.
元来,ホモ・サピエンスという種族は,本来は狩猟採集生活がおくれるように心身が最適化された動物です.
狩猟採集生活では,その土地に食料や資源がなくなれば移動すればいいですよね.
1万2千年前までの私たちは,そうやって生きていたんです.
こと日本人に至っては,農耕が始まったのが3千年〜6千年前くらいだと言われていますから,世界的にみれば狩猟採集生活が非常に長かった民族だということになります.
余談ですが,「農耕民族」「狩猟民族」の違いが論じられることがありますけど,人類学的にみれば,ホモ・サピエンスは全て狩猟民族です.
ところが,農耕では特定の土地に定住する生活になったわけですから,ホモ・サピエンスはこの頃から土地を移動しなくなりました.
それもこれも,農耕することによって麦や稲が大量に手に入るようになって嬉しかったからです.
しかし,実はここに大きな落とし穴があったのです.
もともと,農耕をするためには人手が必要です.
ですから,農耕を始めたホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも繁殖するようになりました.
人口を増やすことに価値を見出すようになったんです.
農耕を始めた民族の神話に,生殖器や生殖行為を強調するものが多いのはそのためだとされています.
こうして大人数により麦や稲といった穀物を栽培することで,食料がたくさん手に入るようになったかに思えましたが,その一方でホモ・サピエンスは,この頃から飢饉や人口密集生活による病気に悩まされるようになりました.
大人数での農耕中に飢饉にあったら深刻な食糧難になりますし,病気により人手が不足したら農耕ができなくなる.
で,結果として食料を奪いに戦争をふっかけたり,農地や奴隷を得るために戦争したりするようになりました.
そうです.
実は,農耕するようになったホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも一人当たりが獲得できる食料が減り,さらにその獲得確率も不安定になってしまったんですよ.
おまけに,その後は「人類の歴史は戦争の歴史」と言われるほど,自分たちで人口を増やしては大量死を引き起こすスパイラルに突入しました.
これが悲劇と言わずになんと言う.
ハラリ氏は,農業革命は人類史上最大の詐欺だとします.
だったら狩猟採集生活に戻ればいいのにと思うのですが,農耕生活の怖いところは,その依存性です.
豊作などで一発当てたら大きいので,どうしてもやめられません.
育て方を研究してみたら,それなりに結果も出るから面白い.
長期的なスパンで見たら損をしているのに,元の暮らしには戻れなくなったんです.
パチンコみたいなものですね.
じゃあ,この農耕によって得をした奴は誰なのか?
つまり,農業革命で詐欺を働いた奴は誰か? ということ.
既にお気づきの方もいるかと思いますが,ハラリ氏によれば農業革命の本質は,
「ホモ・サピエンスが麦や稲に家畜化された」
ことだと述べます.
詐欺師の正体は「麦」や「稲」といった穀物です.
実際,彼ら穀物は,農業革命以前は地球のごく一部に生息していた弱い種族でした.
ところが,ホモ・サピエンスをたぶらかしてからというもの,地球中にその生息範囲を広げることができたのです.
え? 奴らは人間に食べられているじゃないか,って?
これには様々な回答ができます.
まず,植物という種族は,私たち霊長類や哺乳類とは幸福観が異なると考えられます.
山火事にならないと発芽しない種子があったり,ミツバチや鳥に食べられることを前提として繁栄する植物がいるように,彼らは「より広範囲に広がり,気候や病気に負けないようになる」といったことを目指して生きている可能性が高い.
だとすると,これだけ繁殖させてもらった上に,品種改良もしてくれる「ホモ・サピエンス」という生物を利用できた麦や稲たちは,自然界の中では勝ち組と言っていいかもしれません.
次に,じゃあ人間は彼らの何を食べているのか? ということです.
別に植物としての息の根を止めているわけではなく,いわば,彼らが出した種の一部を食べさせてもらっているに過ぎません.
ご丁寧にも,繁殖に必要な種子は別にとっておくわけですから.
これを哺乳類で例えれば・・・,いえ,ちょっと気持ち悪いのでやめときましょう.
「ホモ・サピエンスは麦の家畜」
という表現には,語源的にも重要な示唆を含んでいます.
「家畜」の語源は「Livestock」,つまり「生かして蓄えておく」という意味です.
そして,もう一つの言葉が「Domestic animal」,つまり「家にいる動物」です.
故に,イヌやブタ,ニワトリといった動物は,ホモ・サピエンスにとっての家畜と言っていいでしょう.
イヌやブタが本来生息していたところから引っ張り出してきて,ヒトが住んでいる家に蓄えられた動物だからです.
では,ホモ・サピエンスにとっての本来の生息地はどこか?
狩猟採集生活をしていた時代のホモ・サピエンスは,「定住」していなかったんですよね.
ヒトは「家」を転々とする動物だったんです.
ところが,農業革命以後のヒトは,麦や稲という「定住」している生き物に合わせて生活するようになった.
つまり,麦や稲にとっての「家」に束縛され,できるだけ密集して生活し,麦や稲に都合がいいように繁殖するようになった動物なんです.
客観的にみれば,それが事実.
これってまさに家畜ですよね.
実際,ヒトの生活の全ては,麦や稲のために捧げられています.
麦や稲に直接手を出しているのは「農家」ですが,人間社会とは結局のところ「農家」の生産性を高め,効率的に麦や稲を繁殖させる手法を構築している存在に過ぎません.
一見,農業とは関係が無さそうな工業,金融業,サービス業,教育関係といったありとあらゆる業種は,よくよく考えてみれば麦・稲が地球上に広く繁栄するための「家畜」として働いているんです.
稲・麦にとっては,農家以外の仕事をしているホモ・サピエンスは,まさに「Livestock」であり,「Domestic animal」ということになります.
現代人が「自分の仕事の価値」とか「存在意義」に疑問を持つのも当たり前ですよ.
だって,ぶっちゃけ意義なんかないんだもん.
あなたは麦や稲の家畜として,ただ人口を増やしておくために存在してるんですから.
これに限らず,現代のホモ・サピエンスが抱えている様々な問題(心身の健康福祉,人間関係,政治経済など)は,ホモ・サピエンスの家畜であるブタが抱えている問題と同じ,つまり,その種族本来の生活パターンから引き離された「家畜特有の苦しみ」なのです.
言い換えれば,私たちがよく知る人間社会のルールとは,その源泉をたどれば,麦や稲を効率よく繁殖させるために作り出されたものと言えます.
逆に,麦や稲の家畜でなかったら,飢餓に喘いだり,肥満で悩む必要はないし,上司と部下,結婚や家族といった人間関係で苦しむ必要もありません.
実際,こうしたトラブルは狩猟採集生活をしているホモ・サピエンスには見られないそうです.
ホモ・サピエンスによる「国家」という集団は,約1万年前から現在までずっと変わらず,より人口を増やし,より多くの穀物を必要とする集団になることを目指してきました.
すなわち国家とは,麦や稲たちが用意した,家畜用の「檻」や「柵」のようなもの.
もっと言えば,国家という字の「家」とは,その国の主食・穀物を指していると言っても過言ではないでしょう.
そういう意味では,日本はたしかに「瑞穂の国」と言えるのです.
一方,我々ホモ・サピエンスの側からすれば「私たちは穀物の家畜だ」とか「僕は稲のペットだ」という認識はありませんし,それで差別意識を持つこともありません.
上述してきたように,そういう見方ができることを理解しても,それで麦や稲に恨みを持ったり嫉妬することはありません.
なぜなら,麦や稲には絶対に勝てないし,勝とうとする相手ではないからです.
話を「ホモ・デウス」に戻せば,もし仮に人間社会がホモ・デウスとホモ・サピエンスに分かれることがあったとしても,ホモ・サピエンスの側に差別意識が湧いてくることはないんじゃないかと思います.
ハラリ氏が述べているように,ホモ・デウスの誕生とは,初めてホモ・サピエンスがどうあがいても絶対に越えられない能力をもった存在と対峙することを意味します.
そしてそれは,ホモ・サピエンスが1万2千年前に「麦」と出逢った時と同じく,飼い慣らされていることにすら気づかない「2度目の家畜化」のスタートになるのかもしれません.
他の可能性も考えてみれば,ホモ・デウスとしての生き方に魅力や価値を感じない人々はいるはずなので,そういう人は同じ価値観を共有できる人達同士でコミュニティを作って生活するんじゃないですかね.
その時ホモ・デウスたちは,きっとホモ・サピエンスの生活と存在を許容するでしょうし,ホモ・サピエンスもホモ・デウスに干渉することもないと予想されます.
実際,ハラリ氏はSF映画にありそうな超人的な能力を持ったホモ・デウスが,突如として社会に現れて大混乱を引き起こすわけではないく,小さなアップグレードを長い年月をかけて積み重ねていくものだろうと予測しています.
もちろん,その小さなアップグレードのたびに,社会は小さな混乱を起こすでしょう.
人間にそんな能力が必要なのか? とか,人間性が失われるのではないか? とか,健康や安全面の保証ができないのではないか? といったものだと思われます.
そうやって徐々に知能や心身の機能アップを進めていったホモ・サピエンスは,ある時,かつてホモ・サピエンスが作り出してきた文学や遊戯に興味を持たなくなっていることに気づくだろうとハラリ氏は述べます.
こうした世界を小説作品を通して考えてみるには,森博嗣氏のSF小説がおすすめです.
■Wシリーズ(wikipedia)
■百年シリーズ(wikipedia)
このシリーズ内では,「ホモ・デウス」ほどではないアップグレードされた人類が主要登場人物になっていて,ホモ・サピエンスのままで生きる人や,まさに「ホモ・デウス」のような人物も登場します.
森氏の小説によれば,そうやってホモ・サピエンスがアップグレードされていった先にあるのは,
・人は子供を産まなくなる
・国家や共同体の規模が小さくなる
・内向的になる
といった人間社会が描かれています.
その世界観は,ハラリ氏が提唱する「ホモ・デウス」の世界と非常に類似しています.
以前もこのブログで紹介しましたが,「ホモ・デウス」の世界が到来した先にある人類の未来を示唆する,小説の一文がこちらです.
しかしそれは,悲しい最後ではなく,淡々とした流れの中で起きることなのでしょう.
関連記事
■Deus ex machinaな未来(1)
■Deus ex machinaな未来(2)
■Deus ex machinaな未来(3)
関連書籍
そんなわけで,
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人類は将来,サイボーグ化することで高い知能と感情コントロールを身に着け,「神」を必要としなくなる時代が到来するのではないか?
ユヴァル・ノア・ハラリ氏は,これは人間が神になることと同義ではないかと考え,そうやってアップグレードされたホモ・サピエンスのことを「ホモ・デウス」と呼称しました.
その著書『ホモ・デウス』が話題となっています.
前回の記事では,仮に人類全てがホモ・デウスに進化する可能性があるとしても,その黎明期や過渡期においては,
「ホモ・デウス vs. ホモ・サピエンス」
という状況が現れることは必然であり,そこには差別問題や主従関係が発生するのではないかという話でした.
さながら,ホモ・デウスのペットとしてホモ・サピエンスが存在するような時代が到来するのかもしれないわけです.
しかし,ホモ・サピエンスがホモ・デウスにペットとして飼われたり,悪く言えば家畜化された状態になったとしても,それはホモ・サピエンス自身にとって不幸なことではないと思います.
そもそも,ホモ・サピエンスをペットや家畜だとする認識は,ホモ・デウス側の見方です.
今にしたって,ホモ・サピエンスはイヌをペットにしていますが,飼われているイヌは自分を「ホモ・サピエンスのペットだ」とは認識していないでしょう.
それなりに頼りがいのあるリーダーだとイヌ側は見ているはずです.
イヌにしてみれば,ホモ・サピエンスは姿形が自分(イヌ)とは違えど,いろいろ摩訶不思議な能力を発揮して食べ物や快楽を与えてくれる便利なリーダーだと捉えているかもしれません.
そして,おそらくはイヌはイヌなりに幸せな生活が送れて満足しているものと思います.
これには反論もあるでしょう.
ペット(家畜)になったイヌは,やはりイヌらしい生き方ができていないのだから,不満足で不幸な生き方をしているのだ,と.
その通りではあるのですが・・・.
しかし,これは壮大で盛大なブーメランなので,ちょっとずつ説明していきますね.
著者のハラリ氏はこの点について,本書内で「家畜」についても言及しています.
たしかに家畜は,野生にいた時よりも病気や害獣から襲われる心配もなく,食べ物の心配もしなくて済みます.
安定した繁殖も約束されており,種族としての平均的な価値観があるとすれば,彼らは快適に繁栄できているとも言えるのです.
しかし,人工的な品種改良を経たとしても,その種族が野生の頃に必要としていた能力や欲求を閉じ込めることはできません.
家畜として生きることは,元来想定されていないからです.
例えば,近年の研究ではブタは非常に知能が高い社会性豊かな動物であることが解明されてきました.
最近の実験では,ヒトやチンパンジーといった霊長類と同程度のコンピューターゲームができることも知られています.
しかし,現在のブタは人間の都合により,野生の頃とは明らかに異なる,狭い檻に密集した状態で生活し,妊娠と子育てをさせられています.
これによりブタは,ブタ本来の健康福祉を害し,欲求不満を募らせている状態にあるとされています.
そしてそれは,他の家畜たちにも同じことが言えるのではないかということで,前衛的な動物愛護団体は批判を高めている,というニュースをご存知の方も多いことでしょう.
ところが,それを言うなら我々ホモ・サピエンスも同様である,というのもハラリ氏の主張.
その内容は『ホモ・デウス』ではなく,前著である『サピエンス全史』にあります.
『サピエンス全史』の趣旨は,我々ホモ・サピエンスは,「認知革命」「農業革命」「科学革命」という三大改革により,人間らしい発展を遂げてきたというもの.
そして,そのうちの「農業革命」によって,ホモ・サピエンスには「人口増加」と「定住」による都市化が齎されたことが知られています.
しかしハラリ氏によれば,この「農業革命」はホモ・サピエンスにとって悲劇も生んでいるとします.
というか,ぶっちゃけ悲劇の方が大きい.
まず,一般によく知られたところでは,人類が農耕をするようになってから部族間で「戦争」が発生するようになりました.
元来,ホモ・サピエンスという種族は,本来は狩猟採集生活がおくれるように心身が最適化された動物です.
狩猟採集生活では,その土地に食料や資源がなくなれば移動すればいいですよね.
1万2千年前までの私たちは,そうやって生きていたんです.
こと日本人に至っては,農耕が始まったのが3千年〜6千年前くらいだと言われていますから,世界的にみれば狩猟採集生活が非常に長かった民族だということになります.
余談ですが,「農耕民族」「狩猟民族」の違いが論じられることがありますけど,人類学的にみれば,ホモ・サピエンスは全て狩猟民族です.
ところが,農耕では特定の土地に定住する生活になったわけですから,ホモ・サピエンスはこの頃から土地を移動しなくなりました.
それもこれも,農耕することによって麦や稲が大量に手に入るようになって嬉しかったからです.
しかし,実はここに大きな落とし穴があったのです.
もともと,農耕をするためには人手が必要です.
ですから,農耕を始めたホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも繁殖するようになりました.
人口を増やすことに価値を見出すようになったんです.
農耕を始めた民族の神話に,生殖器や生殖行為を強調するものが多いのはそのためだとされています.
こうして大人数により麦や稲といった穀物を栽培することで,食料がたくさん手に入るようになったかに思えましたが,その一方でホモ・サピエンスは,この頃から飢饉や人口密集生活による病気に悩まされるようになりました.
大人数での農耕中に飢饉にあったら深刻な食糧難になりますし,病気により人手が不足したら農耕ができなくなる.
で,結果として食料を奪いに戦争をふっかけたり,農地や奴隷を得るために戦争したりするようになりました.
そうです.
実は,農耕するようになったホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも一人当たりが獲得できる食料が減り,さらにその獲得確率も不安定になってしまったんですよ.
おまけに,その後は「人類の歴史は戦争の歴史」と言われるほど,自分たちで人口を増やしては大量死を引き起こすスパイラルに突入しました.
これが悲劇と言わずになんと言う.
ハラリ氏は,農業革命は人類史上最大の詐欺だとします.
だったら狩猟採集生活に戻ればいいのにと思うのですが,農耕生活の怖いところは,その依存性です.
豊作などで一発当てたら大きいので,どうしてもやめられません.
育て方を研究してみたら,それなりに結果も出るから面白い.
長期的なスパンで見たら損をしているのに,元の暮らしには戻れなくなったんです.
パチンコみたいなものですね.
じゃあ,この農耕によって得をした奴は誰なのか?
つまり,農業革命で詐欺を働いた奴は誰か? ということ.
既にお気づきの方もいるかと思いますが,ハラリ氏によれば農業革命の本質は,
「ホモ・サピエンスが麦や稲に家畜化された」
ことだと述べます.
詐欺師の正体は「麦」や「稲」といった穀物です.
実際,彼ら穀物は,農業革命以前は地球のごく一部に生息していた弱い種族でした.
ところが,ホモ・サピエンスをたぶらかしてからというもの,地球中にその生息範囲を広げることができたのです.
え? 奴らは人間に食べられているじゃないか,って?
これには様々な回答ができます.
まず,植物という種族は,私たち霊長類や哺乳類とは幸福観が異なると考えられます.
山火事にならないと発芽しない種子があったり,ミツバチや鳥に食べられることを前提として繁栄する植物がいるように,彼らは「より広範囲に広がり,気候や病気に負けないようになる」といったことを目指して生きている可能性が高い.
だとすると,これだけ繁殖させてもらった上に,品種改良もしてくれる「ホモ・サピエンス」という生物を利用できた麦や稲たちは,自然界の中では勝ち組と言っていいかもしれません.
次に,じゃあ人間は彼らの何を食べているのか? ということです.
別に植物としての息の根を止めているわけではなく,いわば,彼らが出した種の一部を食べさせてもらっているに過ぎません.
ご丁寧にも,繁殖に必要な種子は別にとっておくわけですから.
これを哺乳類で例えれば・・・,いえ,ちょっと気持ち悪いのでやめときましょう.
「ホモ・サピエンスは麦の家畜」
という表現には,語源的にも重要な示唆を含んでいます.
「家畜」の語源は「Livestock」,つまり「生かして蓄えておく」という意味です.
そして,もう一つの言葉が「Domestic animal」,つまり「家にいる動物」です.
故に,イヌやブタ,ニワトリといった動物は,ホモ・サピエンスにとっての家畜と言っていいでしょう.
イヌやブタが本来生息していたところから引っ張り出してきて,ヒトが住んでいる家に蓄えられた動物だからです.
では,ホモ・サピエンスにとっての本来の生息地はどこか?
狩猟採集生活をしていた時代のホモ・サピエンスは,「定住」していなかったんですよね.
ヒトは「家」を転々とする動物だったんです.
ところが,農業革命以後のヒトは,麦や稲という「定住」している生き物に合わせて生活するようになった.
つまり,麦や稲にとっての「家」に束縛され,できるだけ密集して生活し,麦や稲に都合がいいように繁殖するようになった動物なんです.
客観的にみれば,それが事実.
これってまさに家畜ですよね.
実際,ヒトの生活の全ては,麦や稲のために捧げられています.
麦や稲に直接手を出しているのは「農家」ですが,人間社会とは結局のところ「農家」の生産性を高め,効率的に麦や稲を繁殖させる手法を構築している存在に過ぎません.
一見,農業とは関係が無さそうな工業,金融業,サービス業,教育関係といったありとあらゆる業種は,よくよく考えてみれば麦・稲が地球上に広く繁栄するための「家畜」として働いているんです.
稲・麦にとっては,農家以外の仕事をしているホモ・サピエンスは,まさに「Livestock」であり,「Domestic animal」ということになります.
現代人が「自分の仕事の価値」とか「存在意義」に疑問を持つのも当たり前ですよ.
だって,ぶっちゃけ意義なんかないんだもん.
あなたは麦や稲の家畜として,ただ人口を増やしておくために存在してるんですから.
これに限らず,現代のホモ・サピエンスが抱えている様々な問題(心身の健康福祉,人間関係,政治経済など)は,ホモ・サピエンスの家畜であるブタが抱えている問題と同じ,つまり,その種族本来の生活パターンから引き離された「家畜特有の苦しみ」なのです.
言い換えれば,私たちがよく知る人間社会のルールとは,その源泉をたどれば,麦や稲を効率よく繁殖させるために作り出されたものと言えます.
逆に,麦や稲の家畜でなかったら,飢餓に喘いだり,肥満で悩む必要はないし,上司と部下,結婚や家族といった人間関係で苦しむ必要もありません.
実際,こうしたトラブルは狩猟採集生活をしているホモ・サピエンスには見られないそうです.
ホモ・サピエンスによる「国家」という集団は,約1万年前から現在までずっと変わらず,より人口を増やし,より多くの穀物を必要とする集団になることを目指してきました.
すなわち国家とは,麦や稲たちが用意した,家畜用の「檻」や「柵」のようなもの.
もっと言えば,国家という字の「家」とは,その国の主食・穀物を指していると言っても過言ではないでしょう.
そういう意味では,日本はたしかに「瑞穂の国」と言えるのです.
一方,我々ホモ・サピエンスの側からすれば「私たちは穀物の家畜だ」とか「僕は稲のペットだ」という認識はありませんし,それで差別意識を持つこともありません.
上述してきたように,そういう見方ができることを理解しても,それで麦や稲に恨みを持ったり嫉妬することはありません.
なぜなら,麦や稲には絶対に勝てないし,勝とうとする相手ではないからです.
話を「ホモ・デウス」に戻せば,もし仮に人間社会がホモ・デウスとホモ・サピエンスに分かれることがあったとしても,ホモ・サピエンスの側に差別意識が湧いてくることはないんじゃないかと思います.
ハラリ氏が述べているように,ホモ・デウスの誕生とは,初めてホモ・サピエンスがどうあがいても絶対に越えられない能力をもった存在と対峙することを意味します.
そしてそれは,ホモ・サピエンスが1万2千年前に「麦」と出逢った時と同じく,飼い慣らされていることにすら気づかない「2度目の家畜化」のスタートになるのかもしれません.
他の可能性も考えてみれば,ホモ・デウスとしての生き方に魅力や価値を感じない人々はいるはずなので,そういう人は同じ価値観を共有できる人達同士でコミュニティを作って生活するんじゃないですかね.
その時ホモ・デウスたちは,きっとホモ・サピエンスの生活と存在を許容するでしょうし,ホモ・サピエンスもホモ・デウスに干渉することもないと予想されます.
実際,ハラリ氏はSF映画にありそうな超人的な能力を持ったホモ・デウスが,突如として社会に現れて大混乱を引き起こすわけではないく,小さなアップグレードを長い年月をかけて積み重ねていくものだろうと予測しています.
もちろん,その小さなアップグレードのたびに,社会は小さな混乱を起こすでしょう.
人間にそんな能力が必要なのか? とか,人間性が失われるのではないか? とか,健康や安全面の保証ができないのではないか? といったものだと思われます.
そうやって徐々に知能や心身の機能アップを進めていったホモ・サピエンスは,ある時,かつてホモ・サピエンスが作り出してきた文学や遊戯に興味を持たなくなっていることに気づくだろうとハラリ氏は述べます.
こうした世界を小説作品を通して考えてみるには,森博嗣氏のSF小説がおすすめです.
■Wシリーズ(wikipedia)
■百年シリーズ(wikipedia)
このシリーズ内では,「ホモ・デウス」ほどではないアップグレードされた人類が主要登場人物になっていて,ホモ・サピエンスのままで生きる人や,まさに「ホモ・デウス」のような人物も登場します.
森氏の小説によれば,そうやってホモ・サピエンスがアップグレードされていった先にあるのは,
・人は子供を産まなくなる
・国家や共同体の規模が小さくなる
・内向的になる
といった人間社会が描かれています.
その世界観は,ハラリ氏が提唱する「ホモ・デウス」の世界と非常に類似しています.
以前もこのブログで紹介しましたが,「ホモ・デウス」の世界が到来した先にある人類の未来を示唆する,小説の一文がこちらです.
「このままでは,人類は滅亡する.それさえも望んでいるのかもしれない.我々の子孫は,人工知能とウォーカロン(人造人間)だ.あとは,彼らに任せよう,といったところかな」森博嗣『ペガサスの解は虚栄か?』ホモ・デウスであることを選んだ人類は,ホモ・サピエンスであることを捨てるだけでなく,生物であることを捨てる日が来るのかもしれません.
しかしそれは,悲しい最後ではなく,淡々とした流れの中で起きることなのでしょう.
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