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Deus ex machinaな未来(3)

Deus ex machinaな未来(1)
Deus ex machinaな未来(2)
の続きです.

ユヴァル・ノア・ハラリ氏が,その著書『ホモ・デウス』が描いている,「このままの調子で行った先にある」我々人類の未来を紹介するシリーズです.

「このままの調子で行った先にある」と括弧付けをしたのは,ハラリ氏も本書で述べているように,我々人類がどこかで「いや,こういう未来はダメでしょ」と考えて,進路変更する可能性もあるということ.

前回記事で解説したような,「科学革命」を推し進めていった先にある「データ至上主義」では,どうやら人類にメリットがないぞ,幸せになれないかも,と踏んだら『ホモ・デウス』は誕生しないのです.

さて,今回の記事ではもっと具体的に,ハラリ氏が描くホモ・デウスが誕生した未来をイメージしてみます.


ざっとおさらいしておくと,ハラリ氏の言う「ホモ・デウス」とは,私たちホモ・サピエンスが科学技術を駆使し,データ処理能力や身体機能,精神・感情などを高度にコントロールできるよう “アップグレード” されたホモ・サピエンスのことを指します.
 さしずめ,SF作品に出てくる「強化人間」などのサイボーグみたいなものです.

まさに,Deus ex machina(機械仕掛けの神)なんですね.


最初のうちは,めっちゃ高性能なスマホとかグーグルグラスみたいなものから始まるでしょうが(というか,既に現在のスマホは「ホモ・デウス」へのスタートラインと言える),そのうちこういったガジェットを体内に埋め込んだり,神経に直接働きかけて認識させるようになると考えられています.

ここらへんは,ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」とか,士郎正宗の「攻殻機動隊」なんかでイメージしやすいかと思います.


ただ,ここで重要なのは,ハラリ氏がそれを「強化人間」や「超人」ではなく,「ホモ・デウス(人神)」と称するのは,高度なデータ処理と,感情や精神をコントロールできるようになったホモ・サピエンスは,「神」を必要としなくなるだろう.

そしてそれは,ホモ・サピエンスが「神」へとアップグレードされることを意味すると考えているからです.


しかしハラリ氏は,全てのホモ・サピエンスがホモ・デウスへとアップグレードするわけではないだろうと予想しています.

まず,いわゆる「宗教的な理由」とか「思想信条の理由」でホモ・デウスになることを拒否する人はいるでしょうし,他にも様々な理由で,最も単純なものとしては経済的な理由が考えられます.


ホモ・デウスへのアップグレードは,あくまでも人為的で任意的なものです.
ある時,ホモ・サピエンスが自然に進化するわけではありませんし,危機的状況で「その時ふしぎなことが起こった」とナレーションが入って進化するわけでもありません.

これはちょうど,自分の容姿に不満を持つ人が「美容整形手術」を受けたり,目の悪い人が「レーシック手術」を受けたりするのと同じです.
彼らは自分の容姿や視力をアップグレードしているわけですが,それを本人が拒否したり,いろんな理由で不可能な人がいるのと似ています.


もし「ホモ・デウス」へのアップグレードによって,期待通りに「安全」で「高機能化」を成し遂げられたとすると,そこには旧式のホモ・サピエンスと,上位種のホモ・デウスが同時に暮らす未来があります.
それはどういうものなのでしょうか.

すぐに思いつくのは,ホモ・サピエンスとホモ・デウスの間で差別感情が現れるのではないかというもの.
その時々の科学技術レベルによって,現れてくる能力格差に違いがあるでしょうが,ホモ・デウスにとってホモ・サピエンスは,今の私たち(ホモ・サピエンス)がチンパンジーと対峙しているようなものになるでしょう.

「私たちホモ・デウスと似たようなことはできるけど,認知能力や作業能力,記憶力や身体機能も劣っているし,ちょっとしたことで感情的になる」

と見るような時代がやってくることは時間の問題です.

そのうち,チンパンジーではなくイヌやネコ,ハムスターのように扱われる時代も来るかもしれません.
つまり,ホモ・デウスがホモ・サピエンスを奴隷として扱う危険性が考えられるわけです.

ただ,こうした事態を好意的に捉えてみると,それはホモ・サピエンスにとって不幸な状況なのか? という疑問が出てきます.

ホモ・デウスは,余程の技術革新(胎児状態からの改造手術)でもない限り,必ずホモ・サピエンスとしてこの世に生を受けるわけで,ホモ・サピエンスに対する愛着は,現行の愛玩動物である「ペット」以上の存在になることは予想できます.

おそらく,ホモ・デウスにとってホモ・サピエンスは,大人が子供を見るようなものではないでしょうか.


仮にホモ・サピエンスが,ホモ・デウスから「ペット」のような扱われ方になったとしても,そういう「ホモ・デウスが活躍する社会」においては,ホモ・サピエンスがどんな活躍ができるのか,それが現在の生き甲斐とか価値観と同じままなのか甚だ疑問です.

ホモ・デウスが活躍する社会では,ホモ・サピエンスは経済活動や政治に寄与していないかもしれませんよね.
馬鹿の考え休むに似たりと言いますが,そういう時代において人間社会は,ホモ・デウスとして経済・政治活動を担うことを希望する人々にそれらを委任し,それ以外の人々(ホモ・サピエンス)は,ホモ・デウスの脛をかじって悠々自適にニート生活をしているかもしれません.


経済政策のひとつに,「ベーシックインカム」という考え方があります.
これは,国が国民に最低限度の生活ができる環境を提供し,その中で稼ぎたい人は稼ぎ,自由気ままに暮らしたい人は自由にするというものです.

つまり,稼ぎたい人はホモ・デウスになって活躍し,気ままに暮らしたい人はホモ・サピエンスのままで暮らすということ.

ベーシックインカムには様々な批判がありますが,もし「ホモ・デウス」が誕生すれば,これが可能になるのではないでしょうか.


一方,ホモ・デウスはポジティブな話ばかりではありません.
ハラリ氏も本書で述べていることですが,ホモ・デウスへのアップグレードは際限がないことが予想されています.

今年買ったiPhoneも,来年のAndroidスマホより性能が落ちます.
再来年には次世代iPhoneが出てきて,以前の性能を明らかに凌駕するようになる.
そうこうするうち,スマートフォンとは異なる革新的な携帯端末が誕生して,それまでのものがガラクタのように見えてきちゃいますよね.

おそらくは,ホモ・デウスへのアップグレードも同じようなものになるでしょう.
ホモ・デウスたちは,自分がホモ・サピエンスより優れているからという理由で満足したり優越感に浸ることはありません.

ホモ・デウスの生き甲斐や存在意義は,飽くなき身体機能の向上です.
自分自身をより性能の高い存在にすることが得策であることは間違いなのですから,ホモ・デウスたちは,新しい機能の追加に余念がない人々となります.

ホモ・サピエンスは,ホモ・デウスとなった時点でホモ・デウスとして生きることになります.

これはちょうど,iPhoneを購入した人にとっては,その機能の比較対象は同じiPhoneシリーズやAndroidスマホであって,ガラケーではなくなるのと同じく,ホモ・デウスの競争相手はホモ・サピエンスではなく,同じホモ・デウスになるのです.

つまり,ホモ・デウスへと進化した人々は,彼らなりにさらなるテクノロジー競争,アップグレード競争に放り込まれる可能性があるとハラリ氏は述べます.


しかし,これはあくまでも我々ホモ・サピエンス視点からのネガティブ予想.
ホモ・デウスは,高い知能と感情コントロールができる存在と予想されているのですから,そういった際限のないアップグレード競争に「嫌気がさす」なんてことはないのかもしれませんし,知能や感情コントロールの性能がある一定水準以上になってくれば,アップグレード競争におけるネガティブな側面を解決する手段を見つけ出すかもしれません.

なんせ,ホモ・デウスは私たちホモ・サピエンスにとって神のような存在なのですから,どんなことを考えつくか分からないのです.

ところで,ホモ・デウスにアップグレードすることと,ホモ・サピエンスで居続けること,どちらかを選ぶとなったら,私はホモ・デウスを選ぶと思います.

そして,ホモ・デウスとなって政治経済を担い,ホモ・サピエンス達を養ってあげる,のではなく,田舎にでも帰って,世の移ろいを眺めながら隠遁・ニート生活をしてみたいんです.
そういう神様がいても悪くないと思います.


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参考書籍
以下が『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』です.