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いじめとは,自分の正義を相手に押し付けて楽しむこと

2012年の大津中学生いじめ自殺事件に端を発する「学校いじめ問題」は,世間の強い関心を維持したまま現在に至ります.

以外や以外,ここまで関心が高いまま7年が経過するとは思いませんでした.
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
いじめ問題は解決できるものではない

この間,「いじめ防止対策推進法」なる摩訶不思議な法律も誕生.

本ブログではその誕生当初より,「どうせこんな法律は機能しない」と述べていたところですが,その後の顛末をみてみましても,想定以上に機能しない法律であることが発覚したことは既にご案内のとおりです.
笑ってはいけない「いじめ防止対策推進法」


「いじめ」とは何か?
を考察せずに,闇雲に「いじめを防止しよう」と取り組むことは害悪でしかありません.
さすが,憲法9条を護持しながら集団的自衛権を行使しようとするお花畑な国の法律ですね.


そして今では,「学校の教師間でのいじめ」が世間を賑わせており,「いじめ問題」は活発な議論というよりも,むしろ,盛大な罵り合いになっています.


そんな中,こんなニュースがありました.
太田光、「いじめは楽しい」との発言に賛否 「お笑いと一緒」と持論も(ニコニコニュース 2019.10.20)

20日放送の『サンデージャポン』(TBS系)で、太田光がいじめについて独自の見解を示し、物議を醸している。
番組では兵庫県神戸市の小学校で、複数の教諭が1人をターゲットに陰湿ないじめを行っていたことを取り上げる。それについて主犯格の女性教諭が「かわいがっていた」と弁明している様子を紹介した。
これについて藤田ニコルやテリー伊藤が不快感を見せるなか、太田光は「意外と本音なんじゃないか。遊びという認識を持っていたのでは」と指摘。出演者から「イジリということですか?」と聞かれると
「イジリというか、いじめとイジリも何も一緒なんだよね。お笑いといじめも同じなんですよ実は。だけど、それを面白いと思うかどうか。相手がされてるほうが楽しんでるかどうかによって違うだけで、本質的には変わんないですから」
と指摘する。
さらに太田光は「楽しいんですよ、いじめって。それを自覚できるかどうか」と持論を展開。そのうえで、「逃げ回ってた人が、本当に苦しいのに楽しいふりをしていたということに気づけなかったっていうところが(ダメだと思う)」と話す。
西川史子は教師が「いじめが楽しい」という考えを学校に持ち込むのは不適切と話すが、太田は
「人間の本質的な部分だから。人が痛がったり、ズッコケたりするのは面白いって部分があるわけで、それをいじめじゃありませんって言う人は、自分の中にその意識がありませんって言ってる人だと思う」
と持論を展開。
そして「指導者だからこそ、嫌だと思っていることに気が付かなければダメ」と指摘する。

この意見に私は全面的に賛成します.
「いじめ=お笑い」というところも含めて.


いくつか私なりに補足しながら解説します.





>太田光がいじめについて独自の見解を示し、物議を醸している。

そのニュースサイトのコメント欄でも「物議を醸している」ようですね.
賛否両論になるということは,それだけいじめを「楽しいもの」「お笑いと一緒」と考えていない人がたくさんいるということでしょう.

私としては,「いじめは楽しい」だなんて常識的な話で,「物議を醸す」ような話ではないと思うのですが.



>主犯格の女性教諭が「かわいがっていた」と弁明している様子を紹介した。これについて藤田ニコルやテリー伊藤が不快感を見せるなか、太田光は「意外と本音なんじゃないか。遊びという認識を持っていたのでは」と指摘。

もっと言えば,加害者とされる人たちは,「楽しい遊び」だけじゃなくて,被害者のことを思い遣ってイジっていた(いじめていた)可能性が高いと思いますよ.

それについて,先日のダウンタウン・松本人志のコントを紹介しましたね.
【純粋無垢な人用】神戸教員いじめ問題をコントで理解しよう


人間というのは,その社会的枠内(例えば学校,職場など)において自分が優位的立場にあれば,弱い立場の他者を相手取って,
「自分の正義を発露させる」
という,非常に心地よい気分に浸れる,楽しい遊びを展開したがります.

これが相手に苦痛を与えれば,「いじめ」となります.


今回の加害教師たちの場合,自分たちが「優秀な教員」という派閥に属していたようですから,その立場を使って,凡庸で無能な教師を「私達が鍛え,育ててやっている」という気分になっていたのではないでしょうか?(もちろん,これは私の推測ですけど)

つまり,東須磨小学校という職場は,彼らにとって自分の正義を発散できる場だったということです.



>さらに太田光は「楽しいんですよ、いじめって。それを自覚できるかどうか」と持論を展開。そのうえで、「逃げ回ってた人が、本当に苦しいのに楽しいふりをしていたということに気づけなかったっていうところが(ダメだと思う)」と話す。

もし,加害教師たちが他の教師を「育ててやっている」という意図でいじめを展開していたのであれば,これが被害者側にも伝わっていますよね.
だから被害者は当初,
「(加害者たちには)いつもお世話になっている」
などと供述していたのかもしれません.

逃げ回っていた人(被害者)が,苦しいのに楽しいふりをしていたというのも,それが,
「教員として一人前になるためのトレーニング(というテイのいじめ)」
になっていた可能性は高いです.


ためしに,ちょっと見方を変えてみましょう.
いじめ加害者とされる教員たちが悪いのは当然のこととして,では,被害者とされる教員はどうなのか?

この被害者教師のことを,
「立派な教師」
として見做すでしょうか?

あんな陰湿な暴力・ハラスメント行為を受けていながら,毅然とした抗議や対応を見せない教師を,「様々な背景を抱えたたくさん生徒を預かる小学校教師」として評価できるのか? ということです.

誤解しないでください.
私は「被害者である教師にも落ち度があった」などと糾弾したいのではありません.

そうではなくて,威圧的な態度をとられたくらいでヘナヘナとなってしまう教師を前にした,優秀(とされる)教師であれば,

「こんな教師では生徒にナメられる」

「理不尽なトラブルを前にするとパニクる,情けない教師と思われる」

と考えるんじゃないのか,っていうことです.

そしてそれは,今回の事件のように「教員間いじめ」としてニュースにならなければ,一般の人たちだって,この被害者教師のことを「そう思う」人が多いんじゃないのか? ということ.

こういう教師には,材料強度試験のようにストレスをかけていくことが,あたかも「トレーニング」のようになってしまいます.
もしそれで被害者の心がポッキリ折れてしまい,
「私,教師(学校)を辞めます」
と言い出したとしても,
「この程度の威圧やストレスに対抗・対処できない奴には,教師をやっていける資格はない.辞めてくれた方が学校や生徒のためになる
という,一見もっともらしい暴論が待っているのです.

加害者教師たちにとっては,
「面白おかしく遊びながらも,未来の優秀な教師を育てることに貢献している」
という二重の楽しみがついてきます.
エスカレートしないわけがありません.


>西川史子は教師が「いじめが楽しい」という考えを学校に持ち込むのは不適切と話すが、太田は「人間の本質的な部分だから。人が痛がったり、ズッコケたりするのは面白いって部分があるわけで、それをいじめじゃありませんって言う人は、自分の中にその意識がありませんって言ってる人だと思う」と持論を展開。

「『いじめが楽しい』という考え方を学校に持ち込むのは不適切」
というのも,かなりいい加減な発想ですね.
なにがどう不適切なのか意味不明です.

それともなにか.
学校は「楽しいことは良いこと」と教える場だとでも言いたいのか?

むしろ,楽しくてもダメなことがあることを教えるのが,学校の役割ではないのか?


いじめが「人間の本質的な部分」というのは,私も過去記事で繰り返し書いていることです.
端的に言えば,自分の中にある「いじめる心」をいかにコントロールするかが,コミュニケーション能力として問われると言ってもいいでしょう.
「いじめ」が無ければ,教育が成り立たないという記事を書いたこともあります.

つまり,いじめ問題というのは,
「いじめはダメ」
「いじめてはいけない」
といった発想で処理できるものではないのです.

人間は誰しも,己が存在している限り,常に誰かを「いじめている」状態と言えます.
意識的にせよ無意識的にせよ,誰かをいじめることによって自分の存在を守っているとも解釈できます.

そうした人間に求められているのは,それが大きなトラブルとなる前に,適切に鎮火抑制させるスキルなのです.

「いじめを防止する」という目的で誕生した「いじめ防止対策推進法」が,実際には機能しないのはそのため.

教育現場に立っている学校の先生が欲しいのは,いじめを防止する方法ではなくて,必然的に発生する「いじめ」に対処するための,働きやすい職場です.

そういう意味では,今回の「神戸教員いじめ事件」というのは,そうした「職場」に危機が訪れていることを暗示する,象徴的な事件だったのかもしれません.



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