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教育問題に責任者はいない

私が日本の教育をメチャメチャにした責任者でございます


などと言ってくれる人はいません.
それが日本の教育問題です.

これは教育に限った話ではありません.
たぶん,財務的にも国防的にも,そして皇室問題についても同じようなことが言えるでしょう.


なかでも「教育」というのは,その業界組織である学校や大学が「社会的要望」に対し非常に弱いという特徴があります.
つまり,国民の意向がかなり強く反映される領域なのです.

これは私が言っているのではなく,既に定年退職されているような年配の先生方が口々に仰られていました.
社会に対し,より高度な人的資源を送り出す使命を有している側なのに,その社会の側からの要望に弱いという関係性をシニカルに語ってくれたこともあります.


すなわち,教育問題とは,国民の意向を携えて当選した政治家が,その国民の意向を実現すべく働きかけることによって,文部科学省の官僚が動いてくれた結果の産物です.

教育問題は「国民の意向」に振り回されやすく,しかもその要望を出した国民は忘れやすく,すっとぼけて新しい要求を提示します.
教育問題とか国防,皇室問題などに共通するのは,さまざまな人が好き放題に「要求」を出すけど,それに対し当事者は「仰る通りでございます」としか言えず,有効な抵抗を示すことが困難という点です.

結果として,出された要求をすべて丸呑みにした形で実現しようとする.


目の敵にされた「ゆとり教育」も,落ち着いて思い出してもらえれば,
「今のような詰め込み教育では,次代を担う優秀な人間は育たない!」
という国民の強い意向がありました.

実際,詰め込み教育によって学校環境は疲弊し,そうした管理型の色が強い教育現場に対し,不信感を募らせる国民もいたのです.

だから「ゆとり教育」が必要だという流れでした.
政治家と官僚は,そうした動きに対応したまでです.


現在,目の敵にされている「大学入試改革(いわゆる,新センター試験構想)」についても,落ち着いて思い出してもらえれば,
「今のようなマークシート方式中心のテストでは,次代を担う優秀な人間は評価できない!」
という国民の強い意向がありました.

私も2000年頃から大学に関わり出しましたけど,当時は中高の「教員」を目指していた手前,そういうニュースに関心があったので覚えています.

「単純なペーパーテストだけでは,人間の本当の能力は評価できない」
という主張は,テレビや新聞などでしょっちゅう流れていたのを覚えている人も多いでしょう.

実際,2014年に始まった「新センター試験構想」の答申では,そうした経緯が述べられています.
新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申)(中教審第177号)(文部科学省 2014.12.22)

これを読むと,センター試験を改革する理由が以下のように書かれています.
しかしながら、我が国が成熟社会を迎え、知識量のみを問う「従来型の学力」や、主体的な思考力を伴わない協調性はますます通用性に乏しくなる中、現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがちで、思考力・判断力・表現力や、主体性を持って多様な人々と協働する態度など、真の「学力」が十分に育成・評価されていない。
(中略)
こうした状況では、それぞれの夢を育み、その中で自らを鍛えるとともに、秘められた才能などを伸ばすことはできず、未来のエジソンやアインシュタインとなる道や、世界を舞台に活躍する潜在力、地方創生の鍵となる問題の発見や解決を生み出す可能性の芽なども摘まれてしまう。

思い出しましたか? 懐かしい表現がいっぱいですね.
もう5年以上前のことなので忘れていた人も多いでしょうけど,当時は上記のような言葉が飛び交い,
「今の大学入試はクソだ」
と言わんばかりの雰囲気がありました.

だから政治家も官僚も頑張って改革したわけですよ.


しかし,あらゆる要望を短期間に聞き入れることができるほど,教育現場は柔軟ではありませんし,余裕もない.

上記の文科の答申を元にした,2014年当時の記事,
でも書いていますが,私は新しいセンター試験の考え方それ自体を批判しているわけではありません.

あくまでも,
「そんなものを客観性高くテストすることはできない」
というテクニカルな話です.

むしろ私は,「大学に入試なんていらないんじゃないか?」
そして将来的には,「卒業する必要はないんじゃないか?」
という考え方の持ち主ですので.
詳しくは以下の記事を読んでください.




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