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学校教育問題を語りたい人が知っておくべきこと

学校と教育を再考する


だいぶ前に,「パノプティコンと学校」について記事にしました.
パノプティコンの教室

ニュースサイトを賑わす「いじめ問題」について,その解決手段の一つが「パノプティコン」を学校で利用するというもの.

パノプティコンについては,ウィキペディアで調べると以下のような解説があります.
パノプティコン(Wikipedia)
パノプティコンは、円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。
この「刑務所」用に考案された思想を学校に応用できないか? というアイデアがあるんです.
つまり,学校敷地内のあらゆる場所に監視カメラを設置して死角を無くし,全生徒の動きを完全監視下におくことを目指すのがパノプティコン学校です.

これでいじめ問題を解決しよう,という思考実験をしてみたのが,飲茶 著『正義の教室』でした.


詳しくは前回と前々回の記事を御覧ください.
パノプティコンの教室
【大学教員になる方法】哲学の基本はおさえておきましょう






学校をパノプティコンにする


パノプティコンは刑務所の設計として著名なシステムです.
なので,「刑務所のシステムを学校に持ち込むのはちょっと・・・」と思うかもしれません.
ですが,パノプティコンの思想は刑務所に限らず,あらゆる職場や施設に利用することを前提として提案されたものです.

パノプティコンとは,
人間は,完全な監視下に置かれれば悪さをしなくなり,その社会が円滑に運営できるよう振る舞うようになるだろう.
という,ジェレミ・ベンサムの功利主義から誕生したもの.

実際,ベンサムがパノプティコンを考案したのは,厳格な管理システムを敷くことで収容者を威圧させることが目的ではありません.
こうした完全な監視下に人間を置けば,巡り巡ってみんなハッピーになるはずという善意から考案しています.

お気づきかと思いますが,後にこの思想が社会主義や共産主義へと発展します.
最近は話題にのぼらなくなってきた「マイナンバー制度」も,監視体制を強化することで悪巧みをする人が減ってみんなハッピーになれるはずという政策ですから,同じ思想から惹起されたものと言えます.


実際のところ,パノプティコンは現代社会において浸透してきていると思われます.
望むと望まざるとに拘らず,現代社会はパノプティコンを了解していくのではないか? というのが私の率直な予想です.
これからの学校がパノプティコンになることも,時間の問題でしょう.

その潮流を強力に牽引する理由は,
「パノプティコン(完全監視状態)に反対するような奴は,裏でコソコソ悪巧みをしているような奴じゃないのか?」
という,圧倒的多数の「自称・善良な市民」です.

学校のパノプティコン化にしても,
「もともと学校はプライベート空間ではない.そこでの行動・活動が完全オープン,完全監視下にあって何が悪いのか? むしろ,それによっていじめや暴力,違法行動が抑制できるようになるメリットの方が圧倒的に大きい.教師の不適切指導も摘発できるだろう」
というロジックが通ります.

最大多数の最大幸福を目指す功利主義から誕生したパノプティコンに抵抗できる理屈はなかなか無いでしょう.

それに加え,「学校には隠蔽体質がある」という世間の評価も,この変化を促進させる起爆剤になると思います.


近い将来,「学校のパノプティコン化」が本格的に議論されるはずです.
その時はきっと,「学校の隠蔽体質」だとか「いじめの摘発」だとか「教師の仕事ぶりの確認」だとかに焦点があたる一方で,肝心の「学校が存在する理由」を無視した議論になるでしょう.

私としては,学校をパノプティコンにするのは「有り」だと思っています.
むしろ,現在の学校を取り巻く諸問題に対処するには,パノプティコンを活用しないと追いつかないのではないか.
そんなふうに考えています.

その理由は,「学校」が誕生した理由と関係があります.
この点について解説してみます.





なぜ学校や義務教育があるのか?


この話題は,過去記事でも取り上げたことがあります.
「学校」が誕生した理由

近代の学校が誕生した理由とはなにか?
その記事から引用しました.
極端に言えば,私達が知っている学校というのは,「大人社会から子供を隔離するために存在する」のです.
逆に言えば,誰もが思いつく「社会人になるための知識や態度を身につける」というのは,そうした「大人たち」を納得させて,子供を学校に行かせる制度を作る上での建前でしかない.
(中略)
当然のことながら,これにはこんな反論もあるでしょう.
「今時,子供をビジネスのために搾取するなんてことは想像できないんだから,現代の学校は新たなステージに移行してはどうか?」と.
これはちょうど,自衛隊のことについて「今時,日本で戦争なんかあり得ないんだから,現実的な要望である『大災害救援隊』として編成すればいいのではないか」というのと似ています.
答えは「ダメ」です.
“それ” がどのような形で存在しているか,取り巻く事情や環境は多々あるでしょう.問題・課題をたくさん抱えている場合もある.
でも,“それ” が誕生するに至った理由,存在する理由を簡単に扱ってはいけません.

これについて,本ブログでもたびたび紹介している内田樹氏も,著書で同じように述べています.
内田樹 著『街場の教育論』


*義務教育は何のためのものか
「義務教育」という言葉があります.ほとんどの学生さんはこれを「子どもは学校に通う義務がある」というふうに考えていますが,もちろんそれは誤解です.義務を負っているのは親の方です.
日本国憲法二六条一項にはこうあります.
「すべての国民は,法律の定めるところにより,その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する」
同二項にはこうあります.
「すべての国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う.義務教育は,これを無償とする」
ご覧の通り,子どもには「教育を受ける権利」があるだけで,義務はありません.子どもを学校に通わせる義務を負っているのは親の方なのです.
どうして子どもに教育を受けさせる義務が発生したのか.これは教育史をひもとくとわかりますけれど,子どもたちを親による収奪から守るためです.
(中略)
ですから,日本国憲法でも「義務教育」を定めた第二六条のあとに,第二七条三項では「児童は,これを酷使してはならない」とあるのです.「義務教育」はつねに「児童労働の禁止」とワンセットになって存在する制度なのです.
(中略)
「義務教育」という理念はこのような「親による懲罰」と「親と雇用者による子どもの収奪」を公的機関が規制することを目的として生まれたものであるという教育史的事実をまず確認しておきたいと思います.学校の機能は何よりもまず「親から子供を守ること」にあったのです.

いずれにしても,学校とは,大人から子供を引き離し,子供だけで社会形成と運営をする状態を作ることにその目的があります.
教師や先生とは,本来はその監視係なのです.
ですから,優秀な教師たちが口走る「生徒と共に学ぶ」というのは,あれは嘘ではありません.

学校の教師の仕事は,授業という機会における知識の伝達を通して,生徒と共に学ぶことです.
大学であれば,「共に研究する」のが大学教員の仕事と言えます.
教育活動に対するこの解釈に,得心のいく先生方はきっと多いはずです.


逆に,学校を,「子供が社会人になるための知識や態度を身につけるための場所」だと勘違いすると,学校論の本質を見失います.
これは義務教育に限らず,高校や大学も同様です.

誤解してほしくないのは,学校や大学が「社会人になるための知識や態度を身につける場所にはならない」と言っているのではありません.
学校や大学は,そういう機能も有しています.
しかし,それが最優先ではないということ.


さきほどから,
「学校とは,大人から子供を引き離し,子供だけで社会形成と運営をする状態を作ること」
という話をしていますが,こんな理由を素直に聞き入れる大人や国民は少ないと思います.
なんだか上から目線のイラッとする理由ですよね.

実のところ,少なからずそういう感想を持つ人が出るのは当然なんです.
そもそも「学校」は,パノプティコンと同様,(前述の飲茶氏の著書によれば)エリート意識の強い功利主義から誕生した社会福祉機関だからです.

でも,こういう発想のアイデアだと,非エリートは粗野で思慮の浅い人が多いので,
「一体,何様のつもりなんだ」
と怒り出す人が多発してしまいます.


実際,学校を作った当初は,
「学校なんかに子供を預けるよりも,実際に働かせて社会勉強させた方がいい」
と考える人がたくさんいて,法律で義務化するまでは子供を通学させない親や雇用主が多かったのです.

例えば日本では,学校教育制度が始まったのが1872年でしたが,学校制度を無視して子供を働きに出す親や,それを雇って儲けようとする企業が多かったので,1911年に子供の就労を制限する「工場法」をつくり,日本社会として学校に行かせることを促しています.
これが「義務教育」の原型です.

「子供は親や雇用主のもとで管理し,家計を担う労働力にする」
それが当時の一般人の「常識」.
子供を何年も時間をかけて農作業や工場作業とは関係のない内容を教育するなど,とてもじゃないですが「エリートが考えそうな理想論」としか受け止められない時代がありました.

ですから当初の設置者は,将来設計や社会福祉を考えられない人たちを丸め込むため,言い訳を用意したのです.
つまりそれが,
「学校とは,社会人になるための知識や態度を身につける場所なんです」
という理屈.

ですが,これは「学校」が誕生した理由ではなく,子供を学校に行かせる制度を作る上での建前です.
注意しましょう.


なんにせよ,ここでのポイントは,「学校」の制度と,「パノプティコン」の着想は,根っこは同じものだということです.




大人の論理やルールを振り回すようになった学校と教師


私が学校をパノプティコンにすることに賛成する理由は,昨今の学校における「教師の役割」が強くなってきたからです.

本来の学校は,大人の論理やルールから外れたところで生活させ,より善く生きる人間を育てることが本業のはずでした.

しかし,最近の日本では,さまざまな不祥事や事件などを契機として,学校や教師に対し注文が増えてきましたよね.
これに対応しきれない学校組織が多く,教育現場はブラック化しているというニュースも知られるようになりました.

これらは,学校における「教師の役割」が強くなってきている証左です.
それに反比例して,教師の権限は弱くなっています.

本当ならば,学校本来の姿である,
「大人の論理やルールから外れたところで生活させ,より善く生きる人間を育てる」
ことをやらせたい.
でも,どうやらそんな学校教育を展開することは不可能になってきたのも事実です.

であれば,もうそこには「教師の介入」を減らす流れをつくるしかない.
不本意ながら,そのように私は考えます.

ここで言う「教師の介入」とは,その源流を辿っていくと「社会的要望」に行き着きます.
これが最も危険.

すなわち,現在の学校や教師は,大人の論理やルールを振り回すようになっていると言えます.
よしんばそんな自覚がなくとも,現在の教育業界を取り巻く空気には,巧妙に「学校や教師は,親や企業からの社会的要望を聞き入れろ」という毒ガスが混入されているのです.


上述してきたように,本来の学校や教育の目的は,親や企業などといった大人社会から子供を隔離して守ることにあります.
これを簡単に「時代が変わったから」などと言って廃棄するわけにはいきません.


できれば子供のプライバシーを守りながら,自治的な活動をさせてあげることが良いのでしょうが,世論の顔色をうかがう必要もあるのが民主主義社会.
その妥協案として,学校をパノプティコンにすることも致し方ない.
そんな気がしてくる今日このごろです.



詳しいことは,以下の本を御覧ください.