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教育改革は,善意や志ではなく「恨み」や「復讐」によって進行する

きっと多分そういうこと


前回の記事にコメントを入れてくれた方がおられます.
その記事はこちら.

上記のタイトルについて,その典型例を紹介してくれています.
曽野綾子氏の,
「学校を出てから、二次方程式の解の公式なんて一度も使う機会はなかった」
とか,橋下徹氏の,
「学校で英語を十年習って、喋れるのはグッドモーニングだけ」
というやつ.

「数学嫌いがよく学校の数学の授業に恨みを抱くかのようなことを口走りますね。 」
という指摘もしてくれましたが,これぞまさしく,といった感があります.

「自分が理解できなかったものは,間違っている」
「自分が必要性を感じなかったから,不要なもの」

さらには,
「教えてくれなかったから出来なかったのだ」
「今後の社会で必要なものを教えることが大事」

そんな調子で発展してきたのが日本の教育改革です.

つまり,前回の記事の最後にも述べたように,教育改革というのは「恨み」や「復讐」から生まれています.

大学改革もそうです.

「今の私を形作っているのは,学校や大学であり,その教員たちなのだ」
という認識.
その解釈の帰結として,
「今の私が思うような人生を歩んでいないのは,学校や大学,その教員たちのサービスが不十分だったからだ」
というものになります.


学生募集のための営業活動や,学生や保護者からのクレーム対応をしている教職員の方々からお話を伺うと,大学に対し,それはもう酷い訴えをしてくる人がいるようです.

就職支援や資格取得についての無理な要望.
授業の単位なんかお金で買えるだろうという認識.
授業が分からないのは教員が悪いから.
授業を受ける気になれないのも教員が悪いから.
果ては,大学に通う気になれないのは,大学に魅力がないから,なんてのもある.

もちろん,そういう部分をなるべくサポートしてあげたいと大学側も思っているし,それに対応しなきゃ学生募集と大学経営がままならなくなっちゃうという側面があるのも事実.
実際,大学に足を運ぶ気にさせるため,学内の魅力アップのために各種アメニティ(カフェとか)やイベント(コンサートとか)を充実させようという動きは活発ですし,終いには,「焼きたてのパン」を提供しようと考える大学もでてきています.


でもね,それらで大学教育の質が上がったりすることってないわけですよ.
それは,学術研究のレベル(行動遺伝学など)でも指摘されるようになってきました.
最近だと,一般向けの書籍でも紹介されています.

 

要するに,その人が勉強出来る人になれるかどうか,ちゃんと大学で学術的な思考力を鍛えられるかどうか,といったものは,その人が元々持っている遺伝的要因で7〜9割方決まっているっていう話.

昔から言われている,
「大学の授業はきっかけに過ぎない.そこから先は自分の選択と努力」
というのは,ほぼ当たっているんです.


もちろんこれは,
「学校や大学に通わなくても,その人の遺伝子によって能力が決まっている」
ということではありません.

教育というのは,才能を目覚めさせるトリガーであることにおいて,その重要性に変わりないのです.

ただし,教え方が上手い先生に習ったからとしても,その受講生たちが知識や技能を習得できる水準というのは,教え方が下手な先生に習った場合と変わらないということです.

短期的には,教え方が上手い先生に習った方が「楽しく」「快適に」「分かりやすく」勉強できるのですが,それが長期的な効果としてみると変わらない,っていうわけ.
言い換えれば,教え方が下手な先生に習ったとしても,その人がその受講内容に対して遺伝的に「適正」が高ければ,勝手にグングン習得していくってことです.
この現象について便利な言葉がありますよね,「反面教師」っていう.


よく言うじゃないですか,
「私がこの分野に興味を持ったのは,○○先生の授業を聞いて,それがとても魅力的で面白かったからです」
っていうやつ.

あれ,ほぼ完全に本人の思い込みってことです.
もともと,この人はその分野に興味を持つような遺伝的素質があったということ.
そして,そのトリガーを引いたのが,たまたまその先生だった,ってだけ.
人間というのは,自分の人生におけるターニングポイントを,劇的なものとして解釈したがる傾向がありますからね.

この人が受講していた授業のその他の受講生の様子を見てみればいい.
おそらく,寝てる奴やゲームやSNSして時間を潰してる奴がいますから.

つまり,その授業を魅力的で面白いと感じたのが,その人の適正だったのです.
もっと言えば,それもただの錯覚で,その後,途中で挫折したり投げ出したりすることもあるわけで.


繰り返しますが,勝手にグングン習得していくと言っても,そのきっかけ・トリガーが必要です.
それが教育の役割.

前回の記事にコメントを寄せてくれた方も大学教員のようですが,そのコメントにもこうあります.
確かに学校の授業・講義がつまらないことは多いのですが、それは担当者がカリキュラムに縛られているからであり、熱意がある人がその分野を熱く語れば、聞き手の目の輝きもまるで変わってきます。教育者の自由度を奪っている日本の教育の現状こそ問題でしょう。 また、評価が厳しい物理・統計などを「キツかった」「つまらなかった」と言ってくる学生も多いのですが、「習った経験があれば、今は不要な知識に感じても、将来必要になったときに自分で学ぶことができる。知らなければ、学ぼうとすることすらできない。若いうちにはいろんな経験をしておいた方がいいよ」などと言っています。

その分野や領域に触れる機会を提供すること.
それが教育の重要なポイントなのです.


そうなってくると,
「今の私を形作っているのは,学校や大学であり,その教員たちなのだ」
というのは,心情的には共感できるものの,教育活動とその政策を考える上では要注意な解釈ということになります.

結局のところ,多くの人たちが「教育」に対し過剰な期待と不安を持っているのです.
それが恨みや復讐心を抱かせます.

「今の私が思うような人生を歩んでいないのは,学校や大学,その教員たちのサービスが不十分だったからだ」
と考えたくなっちゃうから.

その結果,「あれをしてほしかった」「これはいらなかった」などという,個人的欲望からスタートした改革案が大手を振って歩きだします.

文部科学省では,現在の大学改革を,
予測困難な時代において 生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ(文部科学省HP)
として進めています.

そこでは,
予測困難な時代にあって生涯学び続け、主体的に考える力を持った人材は、受動的な学修経験では育成できない。
ということで,その対策として,
学生同士が切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する課題解決型の能動的学修(アクティブ・ラーニング)によって、学生の思考力や表現力を引き出し、その知性を鍛える双方向の講義、演習、実験、実習や実技等の授業を中心とした教育である。
という教育を推奨しています.

でもさ,これって改善策になってませんよね.
だって,アクティブ・ラーニングにしたところで,主体的に考えようとしない学生は,ただ参加するだけになりますからね.
それって普通の授業ですよね.

アクティブ・ラーニングにどんな教授学的な裏付けがあるか怪しいものですが,経験的に言っても,主体的に考えようとする学生の受講態度や学習の工夫が,「アクティブ・ラーニングになっている」というのが現実ではないでしょうかね.
つまり,相関関係を取り違えてるってこと.

で,やっぱり教員に求めるものがこちらになります.
教員が行う授業は、このような学修の過程全体を成り立たせる核であり、学生の興味を引き出し、事前の準備や事後の展開などが適切・有効に行われるように工夫することが必要。
私としては,学生の興味を引き出すことにエネルギーを割くよりも,なにかに興味を持った学生がトコトン取り組める学習環境を作ることの方がよっぽど大事だと考えますね.
その方が,近年の行動遺伝学や教育学の研究結果と合致しますし,どうせ出し渋ってる教育予算を,さほど圧迫せずに改善できる対策ではないかな,と.


「大学に入学してみたけど,なんにも興味を持てませんでした」
っていう人がいても良いと思うんです.
そういう人は,大学に来なくてよかった人なんです,残念ですが.

それに対し,
「大学に入学したからには,とりあえず4年間で付加価値をつけて卒業させなければいけない」
って考える方が,よっぽど不道徳で不埒だと思いますけどね.

頻繁に休学したり,また学びたくなったら簡単に再入学できるようにすればいいじゃないですか.
そのハードルを下げることの方が,生涯学習としての社会人学生の拡大にもつながります.

コメント

  1. 前回の記事にコメントを書いたものです。引用していただき、ありがとうございます。ただ、つい本名で投稿してしまいましたが、本名で検索をかけたら一発で個人情報がダダ漏れになってしまうので、名前を”じゅうべい”などに変更しておいて頂ければと思います。…Googleアカウントを持っていないので、お手数をおかけして申し訳ありません。

    社会に出て役に立つ技術と知識を習得させる、というのなら、その業種で早めに働き出すのが一番です。歌舞伎は幼少期からその分野にいないと端役も務まらないと聞きますし、音楽や絵画などの芸術もスポーツも幼少期から取り組んでいる人が選抜されて、さらに教育を受けつつ先達の技術を盗んで一流になっていきます。

    でも、それを一般業種でやったら子供を労働環境に駆り出すことになりますね。

    また、現時点の社会の、現場で使える技術や知識を学校で教えても、その生徒・学生が社会に出た時点では手遅れになることが多々あります。2000年に携帯電話(当時ならガラケー)の使い方を学校で教えていたとしても、今では使えません。かつては“一太郎検定”とかもありました。…もちろん、今でもガラケーも一太郎も一部で現役で使われているようですし、完全に無駄ではないかもしれませんが。

    現場での学びが強要されるような技術や知識は学校で教えなくて良いでしょう。どこで役に立つか分からない、でも本質的には面白いことをこそ、学校で学びの形で触れさせるべきだと思います。

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  2. いつもコメントありがとうございます.前回記事について,こちらで変更させていただきました.
    「社会に出て役立つ技術と知識」について,おっしゃる通りだと思います.
    今は,それを学校や大学で教えることの弊害やデメリットについて,あまりにも軽視されすぎです.

    返信削除
    返信
    1. じゅうべい2020年10月26日 8:04

      すぐに対応して頂きありがとうございます。お手数をおかけしました。

      いつも楽しみにしています。日本語・日本語教育の研究者ともよくこのサイトで取り上げられる話題で盛り上がっています。日本の状況は確かに末期的ですが、私たちがそのことについて話し合うのは決して無駄ではないと信じています。

      削除

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