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真説・吉備津戦記 〜赫き鉄の王と桃の旗印〜

【第一章 桃の軍旗と鉄の王】
第一節 纏向の呪術と西の赫き風


三輪山(みわやま)の稜線から、白み始めた陽光が這い出ようとしていた。

三世紀末、大和国の中枢たる「纏向(まきむく)」。列島最大級の規模を誇るこの都市は、朝靄の中で巨大な獣のように息づいていた。網の目のように張り巡らされた運河には小舟が行き交い、整然と区画された土水路のそばには、高床式の豪壮な神殿や宮の建築群が立ち並んでいる。

広場を埋め尽くすのは、およそ三千の大和軍であった。

大半は諸国から徴用された農民兵である。彼らの装備は、獣皮をなめして作った簡素な鎧に、木製の盾、そして先端を焼き固めただけの木槍や、石を研ぎ澄ませた石戈(せっか)が大半を占めていた。一部の指揮官クラスのみが、太陽の光を浴びて黄金色に鈍く輝く「青銅の剣」を佩き、短甲(たんこう)と呼ばれる革と板を綴り合わせた防具を身につけている。


その軍勢の最前列、ひときわ高い土壇の上に立つ若き将軍がいた。

五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)――大和王権の最高司令官の一人であり、大王の血を引く若き軍略家である。

彼の顔には、出陣の高揚よりも、冷徹な計算と僅かな憂鬱が張り付いていた。五十狭芹彦の視線の先では、大和の神官たちが大仰な身振りで出陣の祈祷を行っている。神官たちの足元には、巨大な素焼きの土坑(どこう)が掘られ、そこに何千もの「桃の種」が次々と投げ込まれていた。

桃。

大陸より伝わったこの果実は、大和において単なる食糧ではない。邪気を払い、悪鬼を退ける極めて強力な「呪術の兵器」であった。纏向の祭祀場からは、常に膨大な量の桃の種が出土する。大和の政(まつりごと)とは、すなわち呪術(きどう)による民の支配と同義であった。


「芹彦様。御祈祷が終わりました。大王様より、これを」

傍らに控える年老いた副将が、恭しく一本の旗印を差し出した。それは、上質な麻布に、呪力を持つとされる「朱(水銀朱)」で巨大な桃の文様が描かれた軍旗であった。旗竿の先端には、青々とした本物の桃の枝が括り付けられている。

五十狭芹彦は、無言でそれを受け取った。

(……呪術で戦に勝てれば、世話はない)

五十狭芹彦の内心は冷めきっていた。桃が邪気を払うなどという迷信を、彼自身は微塵も信じていない。しかし、背後に並ぶ三千の農民兵たちにとって、この旗は絶対的な意味を持つ。

「見よ!」

五十狭芹彦が桃の軍旗を高く掲げると、三千の兵から地鳴りのような歓声が上がった。

「我らは大和の神の御子なり! 西の地より這い寄る『化け物』どもを、この神聖なる桃の力をもって打ち払わん!」

兵たちは熱狂し、槍の石突で大地をドンドンと叩いた。彼らは恐怖を塗り潰すために、大義名分を必要としていた。西の国「吉備(きび)」には、人を食らい、血を啜る恐ろしい「鬼」が棲んでいる。我々は略奪に行くのではない、鬼退治に行くのだと。


だが、五十狭芹彦と大和の中枢の者たちは、吉備の真の姿を知っていた。

吉備は、化け物の住処などではない。それどころか、大和を凌ぐほどの富と、最新の軍事技術を誇る強大な独立国家であった。

彼らの富の源泉。それは「鉄」である。

当時の日本列島において、鉄は砂金よりも貴重なものであった。大和の主力武器は依然として青銅器や石器であったが、青銅は祭祀用の宝器としては美しくとも、実戦ではすぐに曲がり、刃こぼれを起こす。

対して吉備は、海路を通じて大陸(朝鮮半島の百済や伽耶)と深く結びつき、「たたら吹き」と呼ばれる高度な製鉄技術をいち早く取り入れていた。吉備の兵は、硬く鋭い鉄の剣を持ち、鉄の小札(こざね)を編み込んだ強靭な鎧を着ているという。

大和が真に欲しているのは、鬼の首ではない。吉備が独占する鉄の流通経路と、その製造技術であった。吉備を平定しなければ、大和の列島統一は永遠に成し得ない。五十狭芹彦に課せられたのは、その泥臭い侵略戦争の遂行であった。


「出陣!」

ほら貝の音が響き渡り、大和軍は西へと歩みを進めた。

当時の軍道は、けもの道を毛の生えた程度に広げたような険しい山道や、泥濘む湿地帯が続く。兵たちの足元は藁で編んだ草鞋(わらじ)であり、数日歩けば擦り切れ、血が滲む。

行軍の間の食事は質素なものだった。兵たちは腰に下げた袋から「糒(ほしい)」と呼ばれる、米を蒸して乾燥させた保存食を取り出し、歩きながら唾液でふやかして飲み込む。夜になれば、乾燥させた海藻や、僅かな塩漬けの魚を齧り、川の水をすする。火を起こせば敵の斥候に位置を知らせることになるため、温かい食事など望むべくもなかった。

それでも、兵たちの士気は高かった。列の先頭には常に「桃の軍旗」が風に翻り、自分たちが神仏に加護されているという盲信が、彼らの脚を動かしていた。


大和を出立して十数日。

鬱蒼とした原生林を抜け、播磨(現在の兵庫県)の国境を越えた時、空気が劇的に変わったのを五十狭芹彦は感じ取った。

風に、微かな硫黄の匂いと、木々が大量に燃えるような焦げ臭さが混じっている。

「将軍、あれを」

斥候として先行していた身軽な兵が、息を切らせて駆け戻ってきた。彼が指差す先、木々の切れ間から眼下に広がっていたのは、五十狭芹彦が見慣れた大和の長閑な稲作地帯ではなかった。

吉備の地。

そこには、奇妙な光景が広がっていた。山々の斜面は不自然なほどに木々が伐採され、はげ山となっている。木炭を大量に消費する製鉄の代償であった。

そして何より五十狭芹彦の目を引いたのは、平野部を流れる川の色である。

「川が……赤い」

傍らの副将が、思わず震える声で呟いた。

眼下を流れる大河――後に「血吸川(ちすいがわ)」と呼ばれることになるその川は、澄んだ青色ではなく、どす黒い赤褐色に染まってうねっていた。川辺のあちこちからは、いくつもの巨大な黒煙が天に向かって立ち昇り、空を淀ませている。


「これが、鬼の国の景色か……」

兵たちが恐怖にざわめく中、五十狭芹彦の目は冷徹に事象を分析していた。

川が赤いのは、鬼の血が流れているからではない。上流にある製鉄炉から、鉄の酸化物(金気)や不純物が大量に排出されている証拠である。あの無数の黒煙こそが、吉備の国力を支える「たたら炉」の炎の影に他ならない。

「畏れるな。あれは化け物の業ではない。人の手によるものだ」

五十狭芹彦は兵たちを一喝した。人が作ったものであるならば、戦術で打ち破ることができる。

しかし、谷を吹き抜ける熱を帯びた風が、これから始まる戦いの苛烈さを予感させていた。彼らが相対するのは、呪術や祈りなど通じない、圧倒的な物理の力を持った「赫(あか)き鉄の国家」である。


若き将軍は、桃の軍旗の柄を強く握りしめた。

大和の呪術(プロパガンダ)と、吉備の科学(テクノロジー)が、いよいよ激突しようとしていた。


第二節 鉄の洗礼と青銅の悲鳴


血吸川の赤い水面を挟んで、二つの軍勢が対峙していた。

南側の平野に陣取ったのは、大和王権が誇る三千の討伐軍である。彼らは木製の盾を土に突き立て、簡素な槍を天に向けて林立させていた。銅鑼(どら)と法螺貝の音が絶え間なく鳴り響き、神官たちが狂乱したように声を張り上げて「桃の加護」を説いている。

兵たちは己を鼓舞するように足踏みをし、雄叫びを上げていた。それは、未開の部族が狩りの前に行う呪術的な威嚇そのものであった。数の上では大和が圧倒している。彼らの目には、対岸に現れた吉備の軍勢は、せいぜい千にも満たない小規模な集団にしか見えなかった。


だが、丘の上で全軍を指揮する五十狭芹彦(いさせりびこ)の目は、敵軍の異様さに釘付けになっていた。

吉備の軍勢は、全く音を立てていなかった。

雄叫びも、太鼓の音もない。ただ、統制の取れた足音と、金属同士が擦れ合う「ガシャン、ガシャン」という冷たく無機質な音だけが、不気味なほど規則正しく大地を揺らしていた。

「……なんだ、あの装甲は」

五十狭芹彦の傍らで、大和の将校が息を呑んだ。

吉備の最前列に並ぶ重装歩兵たち。彼らが身に纏っているのは、大和の将校が着るような一枚革や木板の鎧ではない。黒光りする無数の「鉄の小札(こざね)」を革紐で隙間なく編み上げた、高度な甲冑であった。陽光を反射してギラギラと輝くその列は、まるで巨大な一匹の鋼の竜がとぐろを巻いているかのように見えた。

彼らが構えているのは、人の背丈ほどもある長大な長方形の盾と、鋭利な鉄の刃を持つ長矛(ながほこ)である。盾を隙間なく並べ、その間から矛先を突き出す陣形――大陸の軍事技術を取り入れた、鉄壁のファランクス(密集陣形)であった。


「怯むな! 相手は数で劣る! 一気に押し潰せ!」

大和の前線指揮官が青銅の剣を振り下ろし、突撃の号令をかけた。

「おおおおおっ!」という咆哮とともに、大和の農民兵たちが川の浅瀬を蹴立てて対岸へと殺到する。桃の軍旗が風に舞い、彼らは自分が無敵であると信じ込んでいた。鬼の肉を断ち切り、その首を大和へ持ち帰るのだと。

吉備の歩兵陣は、突進してくる大和の波に対して微動だにせず、ただ盾の壁を低く構えた。

そして、最初の激突が起きた。


ガギィィィンッ!


戦場に響き渡ったのは、肉が裂ける音ではなく、金属が悲鳴を上げる凄惨な破砕音だった。

「なっ……!?」

最前列に突っ込んだ大和の兵が、驚愕に見開いた目を自身の手に向けた。

大和の誇る青銅の剣が、吉備の鉄盾に叩きつけられた瞬間、根元からぐにゃりと曲がってしまったのである。石を研いだ石戈(せっか)に至っては、鉄の装甲に当たっただけで粉々に砕け散った。

青銅は美しいが、柔らかい。祭祀の道具としては優れていても、実戦における「鉄と青銅の衝突」は、大人と赤子の力比べにも等しかった。

「なんだこれは!? 斬れない! 槍が通らな……ぐああっ!」

混乱する大和兵の腹を、盾の隙間から繰り出された吉備の鉄矛が容易く貫いた。獣皮の鎧など、分厚い布切れと同じだった。鉄の矛先は一切の抵抗を許さず、肉を裂き、内臓を蹂躙した。

吉備の軍勢は、無言のまま一歩、また一歩と前進する。

盾で押し込み、突き刺し、踏み越える。その動きはまるで冷徹な巨大な機械のようであった。大和の兵たちは、武器が通じないという絶対的な物理の壁を前に、次第にパニックに陥っていった。呪術も、祈りも、桃の加護も、鉄の刃の前には何の意味も持たなかった。


「退け! 一旦距離を取れ!」

指揮官の怒号も虚しく、前線は崩壊を始めていた。その時である。

統制の取れていた吉備の盾壁が、中央からモーゼの海のごとく左右に割れた。

そこから歩み出てきた一つの巨影に、大和の兵たちは文字通り凍りついた。


常人よりも頭二つは巨大な体躯。

分厚い鉄の札を幾重にも重ねた特注の重装甲を纏い、頭部には、左右に鋭く伸びた「二本の角」をあしらった威圧的な兜を被っている。角はただの装飾ではなく、敵の刃を受け流し、時にはそのまま頭突きで致命傷を与えるための実戦的な武具であった。

しかし、大和の兵たちの目には、それが兜の装飾だとは映らなかった。

「お、鬼だ……! 本当に、角が生えた悪鬼が……!」

彼の手には、大和の兵士であれば両手で抱えるのが精一杯であろう、長大で分厚い「鉄の環頭大刀(かんとうたち)」が片手で軽々と握られていた。


彼こそが、吉備の国主。

朝鮮半島より渡来し、この地に最先端の製鉄技術と富をもたらした「鉄の王」、温羅(うら)であった。

「大和の童(わらべ)どもよ。人の庭を荒らすには、いささか刃の硬さが足りぬのではないか?」

温羅の野太い声が、戦場を圧するように響いた。それは決して野蛮な獣の咆哮ではなく、理知と王の威厳に満ちた響きであった。

温羅が一歩踏み込む。

その巨体が信じられないほどの敏捷さで躍動した。風を裂く凄まじい音と共に、巨大な鉄の直刀が横薙ぎに一閃される。

「ひっ……!」

大和の前線指揮官が反射的に青銅の剣と木盾を交差させて防ごうとした。だが、無駄だった。

ごしゃり、という不快な破砕音。

温羅の剛剣は、青銅の剣ごと木盾を粉砕し、指揮官の上半身を分厚い革鎧ごと両断していた。鮮血が血吸川の赤い水面に降り注ぎ、どす黒い染みを作って流れていく。

たった一振り。その圧倒的な破壊力を前に、大和の軍勢の士気は完全に折れた。

「化け物だ! 逃げろ、喰われるぞ!」

「桃の呪いが効かない! 神はお見捨てになったのだ!」

狂乱状態に陥った農民兵たちは、我先にと背を向けて逃げ出した。指揮官たちの制止も聞かず、武器を放り出し、泥にまみれながら丘へと這い上がろうとする。陣形は見る影もなく崩壊し、単なる烏合の衆と化した。

吉備の軍勢は深追いをしなかった。温羅が軽く手を挙げると、冷徹な機械のようにピタリと進軍を止め、再び盾の壁を構築した。それは「これ以上進むなら、皆殺しにする」という強烈な無言の圧力であった。


丘の上から、その一方的な蹂躙劇を見下ろしていた五十狭芹彦は、奥歯をギリリと噛み締めた。

(これが……吉備の真の力。鉄の威力か)

五十狭芹彦の目は、恐怖ではなく、冷徹な分析の光を宿していた。

負けた理由は明確である。呪いが足りなかったわけでも、兵が臆病だったわけでもない。技術(テクノロジー)の差だ。

大和の貧しい農村からかき集められ、ろくな食事も与えられていない兵たち。対する吉備の兵たちは、鉄の交易で得た富によって豊かな食料を享受し、骨格からして一回りも二回りも屈強であった。それに加えて、あの鉄の装甲と陣形である。正面からぶつかれば、一万の兵を投入しようが死体の山が築かれるだけだ。

「芹彦様! このままでは全滅します! 退却の許可を!」

血相を変えて懇願する副将に対し、五十狭芹彦は静かに頷いた。

「銅鑼を鳴らせ。全軍、播磨の国境まで後退だ。……無駄死にはさせん」


退却の銅鑼が虚しく響き渡る中、五十狭芹彦は血に染まった平野と、悠然と立ち尽くす温羅の巨影を網膜に焼き付けた。

「温羅、とやら。武力ではお前たちの圧勝だ。だが、戦争は武具の殴り合いだけで決まるものではない」

若き将軍は、泥にまみれて倒れ伏した「桃の軍旗」を一瞥もせずに背を向けた。

大和の呪術は敗れた。これより先は、人間の業――分断と、調略と、裏切りの戦いを始めねばならない。あの強固な鉄の盾を内側から崩すための「毒」が必要であった。

西の風が、焦げた鉄の匂いを運んでくる。大和軍の最初の侵攻は、歴史に残る凄惨な大敗北をもって幕を閉じた。


第三節 軍議と三つの牙


播磨国の西端、吉備との国境に連なる山々の一角。

急造された大和軍の野営地には、重苦しい空気が澱のように沈殿していた。あちこちから、傷を負った兵たちのうめき声と、呪いを祓う神官たちの空虚な祝詞(のりと)が響いている。

かがり火の爆ぜる音が、夜の静寂を不規則に破っていた。兵たちの表情は暗く、疲労と恐怖が色濃く刻まれている。出陣の際に彼らを熱狂させた「桃の軍旗」は、いまや陣の片隅で泥に汚れ、誰も見向きもしない無力な布切れと化していた。


陣の中央に設けられた天幕の中で、大和軍の首脳陣による軍議が開かれていた。

獣皮の敷物の上に、吉備の地形を記した粗末な布絵が広げられている。その周りを囲む将校たちの顔は、一様に蒼白であった。

「まさか、あれほどの武具を揃えているとは……」

副将のひとりが、震える声で沈黙を破った。

「青銅の剣が、まるで枯れ枝のように折れましたぞ。奴らの着ていた装甲も、我々の矢をことごとく弾き返した。あれは本当に人間の軍勢なのか。やはり、吉備には呪われた悪鬼が棲んでいるのでは……」

「馬鹿なことを言うな」

五十狭芹彦(いさせりびこ)の冷ややかな一言が、幕内の空気を凍らせた。

上座に座る若き将軍の眼光は、敗戦の直後であるにもかかわらず、全く濁っていなかった。恐怖に呑まれることも、神仏にすがることもなく、ただ純粋な計算機のように戦況を分析している。

「あれは呪いでも妖術でもない。『鉄』だ。大陸から持ち込まれた、圧倒的に優位な素材と製錬技術。そしてそれらを束ねる高度な軍事教練の賜物だ。神頼みで勝てる相手ではない」

「で、では、いかがなさるおつもりで!? 大和本国からの増援を待ちますか。あるいは、さらに強力な祈祷を……」

「大和からこれ以上の兵站(へいたん)は望めない」

五十狭芹彦は布絵を指差した。

「ここまで三千の兵を動かすだけで、近隣の村々の米倉は底を突きかけている。我々の軍は、農民を駆り集めた寄り合い所帯だ。秋の収穫期まで戦を長引かせれば、大和本国で飢饉と反乱が起きる。長期の対陣はこちらの首を絞めるだけだ」


当時の大和王権は、いまだ列島を完全に掌握した絶対的な中央集権国家ではなかった。各地方の豪族たちを連合させた盟主という立場に過ぎず、軍事行動は常に脆弱な兵站と国内の不満というリスクと隣り合わせであった。

「ならば、力攻めもできず、持久戦も不可。撤退するしかありませんぞ!」

「撤退すれば、大王の権威は失墜する。吉備の『鉄』を奪わねば、大和に未来はない」

五十狭芹彦は、立ち上がり、天幕の入り口から吉備の夜空を見上げた。遠くの山影が、製鉄炉(たたら)の炎で赤く染まっているのが見える。

「奴らの強さの源泉は、あの『温羅(うら)』という王にある。彼は海を渡ってきた異邦人――渡来人だ。彼が持つ最新の製鉄技術が、吉備という国を急速に富ませ、強大化させた」

五十狭芹彦は振り返り、将校たちを見据えた。

「だが、それが奴の唯一の弱点でもある。吉備は、一枚岩ではないのだ」


五十狭芹彦は、数日前に放っていた密偵(斥候)からの報告を元に、吉備の内部構造を紐解き始めた。

「温羅は確かに絶大な力を持つ王だが、彼の力はあくまで『鉄の生産と交易』に根ざしている。吉備の広大な土地を実際に管理し、民を束ねているのは、古くからこの地に根を張る『在地豪族』たちだ」

布絵の上に、三つの小石が置かれた。

「温羅の軍事力を支えているのは、大きく分けて三つの部族だ。第一に、平野部を支配し、勇猛な歩兵と軍犬を操る『犬飼(いぬかい)族』。第二に、険しい山岳地帯を縄張りとし、ゲリラ戦と情報収集に長けた『楽々森(ささもり)族』。そして第三に……吉備の河川と瀬戸内海を掌握し、強力な弓兵と水軍を擁する『留玉(とめたま)族』だ」

五十狭芹彦は、三つの小石を温羅を象徴する大きな石の周りに配置した。

「今日の野戦において、奴らは姿を見せなかった。温羅の直属部隊だけで我々を押し返せるという自信の表れだろうが、裏を返せば、この三部族が本気で温羅に殉じる覚悟があるかは怪しいということだ」


「つまり、その三部族を大和の側に引き入れると……?」

副将が目を見開いた。

「そうだ」五十狭芹彦は冷酷な笑みを浮かべた。「どれほど強固な鉄の盾であろうと、内側から刺されれば防ぎようがない。温羅という外来の王に、在地豪族たちが絶対の忠誠を誓っているはずがないのだ。彼らとて、大和との全面戦争で自らの領地が荒れ果てることは望んでいまい」

「しかし芹彦様。我々には、彼らに与える『鉄』がありません。大和が吉備の豪族に何を提示できるというのですか?」

「武具や富では勝てない。ならば、『権威』と『未来の保証』を与える」

五十狭芹彦は、傍らに置かれていた漆塗りの箱を開けた。

中に入っていたのは、大和の神聖な宝器である美しい翡翠の「勾玉(まがたま)」と、太陽の光を集める「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」。そして、大王の押印がなされた数枚の「木簡(もっかん)」であった。


「これが、奴らを食い破る毒となる」

五十狭芹彦は木簡を手に取った。

「大和王権の絶対的な承認だ。温羅を裏切り、大和の傘下に入るならば、戦後、彼らの現在の領地を永久に安堵し、さらに大和における高い地位と特権を約束する。大和の神の権威によって、彼らを吉備の『真の支配者』として認めるという密約だ」

当時の在地豪族にとって、大和という中央政府から「正統な支配者」としてのお墨付きを得ることは、一族の存亡に関わる最大の誘惑であった。いくら温羅が鉄をもたらそうと、大和の巨大な権威という後ろ盾があれば、他の部族に対して決定的な優位に立つことができる。


「吉備を平定するための甘い毒団子、というわけですな」

将校のひとりが、感嘆と恐れが入り混じった声を漏らした。

「その通りだ。鉄の王を孤立させるために、吉備の三つの牙を根元からへし折り、大和の番犬へと作り変える。明日より、私はわずかな供だけを連れて陣を出る」

「芹彦様自らが!? 危険すぎます。もし罠であれば……」

「温羅の密偵の目を欺き、各部族の長と直接交渉するには、総大将である私が動くしかない。これは武力による戦争ではない。情報を巡る謀略戦なのだ」


五十狭芹彦の決意に満ちた声に、幕内は静まり返った。

血なまぐさい死地において、この若き将軍だけが、戦の真の本質を見抜いていた。剣と盾のぶつかり合いは、政治という巨大な盤面の一局面に過ぎない。

大和の軍勢が傷を癒やす間、五十狭芹彦は静かに、そして周到に罠を張り巡らせていく。目指すは、吉備の心臓部を三方向から守る、犬・猿・雉の長たちの元である。

桃の軍旗は地に堕ちた。だが、五十狭芹彦が放つ目に見えない謀略の糸は、確実に吉備の強固な鉄壁の隙間へと忍び込もうとしていた。

血塗られた神話の第二幕――「調略」が、いま静かに幕を開けた。


第四節 闇を裂く密使と赫き空


深夜。播磨と吉備の国境に聳える険しい山道に、音もなく滑るように進む四つの影があった。

先頭を歩くのは、大和の若き将軍・五十狭芹彦(いさせりびこ)である。昼間に身につけていた威圧的な青銅の装具や、将軍であることを示す煌びやかな装飾はすべて脱ぎ捨てられていた。現在の彼は、麻を藍で深く染め抜いた簡素な衣に身を包み、足元も動きやすい革製の短靴(沓)に履き替えている。

背後には、大和軍の中でも特に隠密行動と斥候に長けた三人の舎人(とねり)だけが従っていた。三千の軍勢を率いていた総大将の姿としては、あまりにも心許ない。だが、五十狭芹彦の足取りに迷いはなかった。


「芹彦様、足元にご注意を。この先は吉備の領内、いつ敵の斥候が現れてもおかしくありません」

背後の舎人が、かすれ声で忠告した。

「わかっている。火は絶対に使うな。月明かりだけを頼りに進む」

五十狭芹彦は短く応じ、胸元にしっかりと抱え込んだ漆塗りの木箱の感触を確かめた。この箱の中に収められた数枚の「木簡(もっかん)」と「勾玉(まがたま)」こそが、強大な鉄の王国を内部から崩壊させるための猛毒――のちに神話において「きびだんご」として語り継がれることになる、大和王権からの密約の証であった。

当時の日本列島において、「文字」というものは大陸から持ち込まれたばかりの極めて稀少な呪術的記号であった。大和の中枢は、いち早く渡来人から文字の読み書きを習い覚え、それを「国家の記録と支配の道具」として用いていた。吉備の豪族たちにとっても、大王の印が押された墨書(ぼくしょ)の木簡は、単なる木の札ではない。それは大和という列島最大の権威が、自らの地位と領土を永代にわたって保証してくれるという「絶対的な神の契約」を意味していた。

これさえあれば、彼らを温羅(うら)から引き剥がすことができる。五十狭芹彦は、その確信とともに冷たい夜風を肺に吸い込んだ。


獣道を抜け、視界が開けた尾根に辿り着いた時、五十狭芹彦の足が止まった。

「……これが、夜の吉備か」

同行していた舎人たちが、思わず畏怖の溜息を漏らした。

眼下に広がる吉備の平野部は、深い闇に包まれているはずであった。だが、彼らの目に映ったのは、まるで地上のあちこちに星が墜ちたかのような、無数の赤光の群れであった。

それは、夜通し燃え続ける製鉄炉の炎であった。

温羅がもたらした「たたら」の炉は、一度火を入れたら最後、数日間にわたって昼夜を問わず砂鉄と木炭を燃やし続けなければならない。巨大な炉に空気を送り込むため、何十人もの工人が交代でフイゴを踏み続ける。その過程で吹き上がる炎が、吉備の夜空を不気味な赤紫色に染め上げていた。

遠くからでも、地鳴りのようなフイゴの音と、鉄を打つ重低音が響いてくる。それはまるで、吉備という巨大な生き物の心臓の鼓動のようであった。


「あの炎の数だけ、鉄の矛と盾が生み出されているということか。大和の青銅では、何度ぶつかっても勝ち目はないわけだ」

五十狭芹彦は、悔しさを通り越して、温羅という男の規格外の国力に奇妙な感嘆すら覚えていた。

大和は農耕を重んじ、米の力で国を束ねてきた。しかし、温羅は「鉄」という全く新しい価値観で、この辺境の地を列島最強の軍事国家へと作り変えてしまった。大和が古い呪術と神の権威にすがりついている間に、彼らは大陸の最新科学を貪欲に吸収し、実践している。

(温羅よ。お前は確かに偉大な王だ。だが、その強すぎる光は、必ず足元に濃い影を落とす)

五十狭芹彦は目を細めた。

これほどの製鉄を行うためには、莫大な量の木材が必要となる。現に、炎の周囲の山々は無残に伐採され、はげ山と化していた。環境の破壊は、古くからその土地の自然と共に生きてきた在地豪族たちとの間に、必ず軋轢を生んでいるはずである。さらに、力を持つ外来の王に対する土着の民の警戒心や嫉妬。それらの不満の種は、吉備の内部で静かに発芽の時を待っているに違いない。


「……伏せろ!」

突然、五十狭芹彦が鋭く囁き、自らも深い草むらへと身を隠した。三人の舎人も一瞬遅れて大地に這いつくばる。

尾根の下方を這うように伸びる細い山道から、規則正しい足音と、金属の触れ合う微かな音が近づいてきていた。

吉備の夜間哨戒部隊であった。

五十狭芹彦は息を殺し、草の隙間からその姿を観察した。現れたのは十名ほどの歩兵の小隊である。彼らは松明を持たず、月明かりだけを頼りに進んでいる。驚くべきは、兵士の先頭を歩く二頭の「獣」の姿であった。

「犬……いや、狼か?」

舎人のひとりが声にならない声で呟いた。

大和で見かけるような痩せた野犬ではない。筋骨隆々とし、闇夜に目を光らせる獰猛な軍用犬であった。首には革の太い首輪が巻かれ、兵士の持つ引き綱によって完全に制御されている。犬たちは時折立ち止まり、鋭い嗅覚で周囲の空気を探っていた。

兵士たち自身の出で立ちも、昼間に平野でぶつかった温羅の重装歩兵とは異なっていた。彼らは鉄の重装甲ではなく、機動力を重視した身軽な革鎧を着ており、手には短い鉄の剣と、狩猟用の投げ槍を握っている。


(あれが、吉備の第一の牙……『犬飼(いぬかい)族』か)

五十狭芹彦は脳裏に吉備の勢力図を思い浮かべた。

犬飼族。平野部と山裾の境界を領地とし、犬を操る独自の戦術と、圧倒的な機動力を誇る戦闘集団。昼間の会戦に彼らの姿がなかったのは、こうして国境の裏道の封鎖や、遊撃戦の任務に就いていたからだろう。

哨戒部隊の犬が、ふいに立ち止まり、五十狭芹彦たちが潜む尾根の方角に向かって低い唸り声を上げた。

舎人たちが極度の緊張に体を強張らせ、隠し持った短刀の柄に手をかける。

しかし、犬を引いていた小隊長らしき男が、綱を軽く引いて犬をなだめた。

「どうした、風の匂いが変わったか。……まあよい、こんな夜更けに山を越える大和の愚か者はおるまい。行くぞ」

小隊長は尾根を一瞥しただけで、部隊を率いて山道の奥へと去っていった。足音と犬の気配が完全に消えるまで、五十狭芹彦たちはじっと息を潜めていた。


「危ないところでした。あの犬の鼻、あわや嗅ぎつけられるかと」

「見事な統率だ。犬を単なる獣としてではなく、戦の道具として完全に使いこなしている」

五十狭芹彦は草むらから身を起こし、犬飼族の兵士たちが消えていった方角を見つめた。

彼らが国境の警備を任されているということは、この先の領地を治めているのは犬飼族の長ということになる。

「まずは『犬』からだ」

五十狭芹彦は漆塗りの箱を背にくくり直した。

「犬飼族の長、犬飼健(いぬかいたける)。武勇に優れ、それゆえに大和の青銅兵を侮っているだろう。だが、武人であるならば、大和の『数』と『権威』が持つ真の恐ろしさも理解できるはずだ」


東の空が、夜明けに向けてわずかに白み始めていた。しかし、眼下に広がる吉備の地は、いまだ製鉄炉の赫き炎に支配されている。

圧倒的な武力と技術で大和を退けた鉄の王、温羅。

大義名分という呪術を捨て、自らの手で盤面をひっくり返そうとする若き将軍、五十狭芹彦。

二人の英傑の運命は、まだ交わってはいない。しかし、大和の密使が吉備の地を密かに踏み締めたこの夜を境に、歴史の歯車は血塗られた謀略の軌道へと確かに歩を進め始めたのである。


神話において「桃太郎」と呼ばれる男の、真の戦いが今、始まろうとしていた。


【第二章 三つの牙と密約の団子】
第一節 猛犬の主と大和の毒


夜が明け、朝霧が吉備の山裾を白く染め上げる頃。

五十狭芹彦(いさせりびこ)と三人の舎人(とねり)は、鬱蒼とした森の中で足を止めていた。彼らの周囲は、いつの間にか異様な熱気と獣の臭いに包まれていた。

木々の陰、岩の裏、そして頭上の枝。あらゆる死角から、低く唸るような声が響いている。

「……囲まれましたな」

舎人の一人が、背中合わせになりながら小声で言った。その手にはすでに短刀が握られているが、五十狭芹彦は静かにそれを制した。

「刃を収めろ。我々は客として来たのだ」

五十狭芹彦が言い放つと同時に、茂みを掻き分けて数頭の巨大な獣が姿を現した。昨夜見た軍用犬である。太い首回りには鉄の鋲を打った革帯が巻かれ、鋭い牙の間からは白い唾液が滴っている。今にも飛びかからんとする犬たちを制するように、武装した男たちが音もなく現れ、五十狭芹彦たちを幾重にも包囲した。

彼らこそ、吉備の第一の牙「犬飼(いぬかい)族」の戦士たちであった。

「丸腰の人間が四人。迷い込んだ狩人かと思えば、随分と上等な衣を着ているではないか」

犬を引く男の一人が、警戒心を露わにして五十狭芹彦を睨みつけた。

「大和から参った。総大将である五十狭芹彦だ。お前たちの長(おさ)である、犬飼健(いぬかいたける)殿に目通りを願いたい」

名乗った瞬間、戦士たちの間にどよめきが走った。無理もない。昨日、彼らが散々に打ち破り、尻尾を巻いて逃げ帰らせた敵の総大将が、護衛もつけずに堂々と自陣の懐に歩いてきたのだから。

「大和の将軍だと? 狂ったか。ここでお前を犬の餌にすれば、戦は終わりだぞ」

「構わん。だが、長に『吉備の平野を差し上げに来た』とだけ伝えよ」


半刻後。

五十狭芹彦たちは、武器を取り上げられた上で、犬飼族の集落の奥深くにある豪壮な高床式の館へと案内された。

集落には無数の犬の檻が並び、調教のための怒号と鞭の音が響いている。女や子供たちでさえ、大和の農民に比べて体格が良く、その顔には独立した武装部族としての誇りが満ちていた。

館の広間に通されると、最奥には巨大な猪の毛皮が敷かれ、そこに一人の男が胡座をかいていた。

犬飼族の長、犬飼健である。

顔の半分を覆うような深い傷跡。鋼のように鍛え上げられた分厚い胸板。傍らには、彼の片腕とも言える漆黒の猛犬が侍っている。温羅(うら)が巨大な城壁であるならば、この犬飼健はさしずめ、その門前に繋がれた凶暴な番犬であった。


「大和の将軍が、わざわざ犬の巣穴まで首を差し出しに来るとはな。お前たちの臆病な青銅の剣よりは、いくらか肝が据わっているらしい」

健は、五十狭芹彦の質素な出で立ちを鼻で笑いながら言った。

「温羅の鉄は確かに硬かった。だが、その盾の裏で、お前たち在地豪族がどれほどの血を流しているのかを確かめに来たのだ」

五十狭芹彦は、健の威圧感に一歩も引かず、静かな声で応じた。

「血を流すのは武人の誉れよ。我ら犬飼は、温羅王の先陣として敵を噛み砕くのみ。お前たちのように、神の御加護などという妄言で兵を騙す真似はせん」

「誉れ、か。だが健殿、武人の誉れで腹は膨れるのか?」

五十狭芹彦の鋭い問いに、健の眉がピクリと動いた。

「吉備の山々を見てきた。温羅の『たたら炉』を燃やすため、森は伐採され、獣は消え、川は赤く汚れ切っている。お前たち犬飼族が猟場としてきた豊かな山野は、今や鉄を生み出すための巨大な焦土だ。外から来た温羅という王は、吉備を富ませたかもしれないが、その代償を支払わされているのは、古くからこの地に生きるお前たちではないのか?」

健の目が、微かに険しさを増した。五十狭芹彦の言葉は、吉備の在地豪族たちが密かに抱えていた鬱屈を正確に突いていたのだ。


「……大和の小童が、吉備の事情を知った風な口を利くな。我らは温羅王の鉄によって、最強の武具を得た。それだけで十分だ」

「最強の武具があろうと、戦には勝てない」

五十狭芹彦は冷酷に言い放った。

「我々大和は、今回の敗戦で吉備の強さを学んだ。次は三千ではない。一万、いや三万の兵を動員し、四方から吉備の国境を封鎖する。五年、十年と持久戦になればどうなるか。大和は豊かな稲作地帯を無数に抱えているが、吉備の民は鉄を食っては生きられまい。大陸からの兵糧輸送路を断てば、いずれ吉備は飢える。その時、真っ先に飢え死にするのは温羅の親衛隊か? いや、平野部で防衛線を張らされるお前たち犬飼の一族だ」

健の傍らにいた漆黒の犬が、主人の怒りを感じ取ったのか、グルルと低い唸り声を上げた。五十狭芹彦は犬を無視し、懐から一つの漆塗りの箱を取り出した。

「大和は、吉備を滅ぼしたいわけではない。我々が欲しているのは『鉄の流通』と『大和への恭順』だ。温羅を排除し、大和の秩序の下で吉備を治める。そのための新たな『王』が必要なのだ」

箱の蓋が開けられた。

中に入っていたのは、見事な翡翠の勾玉と、一本の墨書された木簡であった。木簡には、大和の大王の朱印が鮮やかに押されている。


「これは、大和の中枢が認めた『領地安堵と守護の約定』だ」

五十狭芹彦は、その木簡を健の足元へと滑らせた。

「温羅から離反し、我々大和の軍門に降れ。そうすれば、戦の後、お前たち犬飼族の領地は永遠に大和が保証する。さらには、温羅が占有していた製鉄炉の管理権の一部を、お前に委ねよう。お前はただの番犬から、名実ともに吉備の平野を支配する『王』となるのだ」

健は木簡を見下ろした。

文字を読むことはできないが、そこに押された大和王権の朱印が放つ、抗いがたい権威の力は理解できた。吉備の豪族にとって、大和からの承認は喉から手が出るほど欲しいものであった。温羅は確かに強いが、所詮はよそ者である。彼に従い続けて大和との総力戦で一族をすり減らすか、それとも大和の傘下に入り、新たな支配者として君臨するか。

「……我らに、温羅王の背中を撃てと言うか。武人の誇りを捨て、裏切り者になれと」

健の声には、隠しきれない葛藤が滲んでいた。

「誇りで一族は守れない。健殿、お前は武人である前に、一族の命を預かる長であろう。大和の『毒』を食らうか、それとも温羅と共に飢えて死ぬか。選ぶがいい」


静寂が広間を支配した。

遠くで、製鉄炉のフイゴの音が微かに地鳴りのように響いている。

健はゆっくりと手を伸ばし、足元の木簡を拾い上げた。その分厚い掌の中で、大和の朱印が鈍い赤光を放つ。

「……温羅王には、恩がある」

健は絞り出すように言った。

「だが、俺の牙は、犬飼の民を守るためにある。大和の将軍よ、この約定、違えることは許さんぞ」

「大和の神々に誓って」

五十狭芹彦は深く頭を下げた。しかし、その表情は冷たく、一切の感情を排した政治家のそれであった。


こうして、吉備の第一の牙は抜かれた。

物理的な武器の打ち合いではなく、権威と未来の保証という甘く恐ろしい「毒団子」によって、犬飼族は大和の陣営へと寝返ったのである。

五十狭芹彦は館を後にしながら、密かに息を吐いた。残るは二つ。山岳地帯を支配する猿と、水軍を率いる雉。彼らを落とさねば、温羅の首には届かない。

大和の密使は、休む間もなく次の標的――情報工作の暗部「楽々森(ささもり)族」の縄張りへと足を踏み入れていった。


第二節 老猿の嗤いと見えざる森


犬飼族の集落を後にした五十狭芹彦(いさせりびこ)たちは、吉備のさらに奥深く、昼なお暗い険しい山岳地帯へと足を踏み入れていた。

吉備の北部に連なる山々は、大和のなだらかな青垣とは異なり、切り立った岩肌と深い谷が連続する天然の要害である。鬱蒼と茂る照葉樹林は視界を遮り、方向感覚を容易く狂わせる。

「芹彦様、この先は危険です。獣道すら途絶えています」

先頭を歩いていた舎人(とねり)が、息を切らしながら立ち止まった。彼らの足元には、鋭く削られた竹槍が隠された落とし穴や、微かな振動で作動する鳴子の罠が無数に張り巡らされていた。

ここが、吉備の第二の牙――「楽々森(ささもり)族」の縄張りであった。

彼らは平野部の犬飼族とは違い、正面切っての武力衝突を好まない。山と森に同化し、気配を殺し、毒矢と罠で敵を確実に削り取るゲリラ戦の達人たちである。また、彼らの持つ独自の連絡網は、吉備全土の情報を瞬時に収集する「耳と目」の役割を果たしていた。


「構わん、進め。向こうはとうに我々の存在に気付いている」

五十狭芹彦が言い放った直後、頭上の木々の葉が一斉に「ざわざわ」と不自然な音を立てて揺れた。風はない。葉の擦れ合う音が、まるで何十人もの人間が嘲笑うかのような不気味な響きとなって谷底にこだました。

『――大和の若造が、よくもまあ図々しく我らの庭へ入ってきたものよな』

声は四方八方から聞こえた。木霊を利用した特殊な発声法である。舎人たちが慌てて背中合わせになり、短刀を構えるが、敵の姿はどこにもない。

「姿を見せよ、楽々森彦(ささもりひこ)殿。犬の次は猿との知恵比べか」

五十狭芹彦が虚空に向かって呼びかけると、ふいに彼の頭上の太い枝から、ボロ布を纏った小柄な影が音もなく音もなくぶら下がった。

顔中に深い皺を刻み、獣の毛皮を無造作に羽織った老人が、逆さまの状態で五十狭芹彦を見下ろしていた。老人の目は、まるですべてを見透かすかのように鋭く、深い知性を湛えている。

彼こそが、吉備の情報網を支配する山岳ゲリラの長、楽々森彦であった。


「知恵比べなどと大層なものではないさ。犬飼の健(たける)が、お主の持ってきた『木札』に飛びついたのはとうに知っておる。あ奴は鼻は利くが、頭は筋肉でできているからな」

楽々森彦は枝からひらりと飛び降り、五十狭芹彦の目の前に音もなく着地した。その身のこなしは、とうてい老人のものとは思えなかった。

「話が早くて助かる」五十狭芹彦は顔色一つ変えずに言った。「ならば、お前が欲する条件を聞こう。犬飼族には吉備の平野を約束した。お前たち楽々森族には何を約束すれば、温羅(うら)を裏切る?」

「裏切る、だと?」

楽々森彦はカッカッカッと乾いた声で笑った。

「我ら山の民は、初めからあの『鉄の化け物』に忠誠など誓っておらん。温羅が海を渡ってきてからというもの、この吉備の山々は泣いておるのだ」

老人の目が、ふと険しい怒りを帯びた。

「大和の坊主、お主も見てきただろう。温羅の『たたら炉』を一つ燃やすのに、どれほどの木が切り倒されているかを。一振りの鉄剣を作るために、山ひとつが丸裸にされる。木が消えれば獣が消え、土が死に、川が濁る。温羅の鉄は、我ら山の民から狩り場と命を奪い続けているのだ」


古代の製鉄、特に砂鉄と木炭を用いた「たたら吹き」は、甚大な環境破壊を伴う産業であった。大量の木炭を確保するために森林は伐採し尽くされ、はげ山から流れ出る土砂は川を埋める。

温羅の強大な軍事力を支える鉄。その代償を最も重く支払わされていたのが、山を信仰し、森と共に生きてきた楽々森族だったのである。

「ならば、我ら大和と手を結べ。大和の政(まつりごと)は農耕が基盤だ。山を焼き尽くすような真似はさせん」

「甘い言葉よな」

楽々森彦は鼻で嗤った。

「大和が山を焼かないのは、山を削って田畑を開くためだろう。大和の支配に入れば、我らは山の神を捨て、お前たちの太陽の神に平伏し、到底払えぬほどの『米(年貢)』を要求される。温羅に森を食われるか、大和に首輪を繋がれるか。どちらを選んでも、我ら猿の行き着く先は破滅よ」

老獪な猿は、五十狭芹彦の思惑などとうに見抜いていた。彼らは武力では温羅にも大和にも劣るが、こと「状況の俯瞰」においては誰よりも冷徹であった。大和が差し出す領地安堵の約定など、長期的には一族を緩やかに縛る鎖に過ぎないことを理解しているのだ。


「……なるほど。お前は犬飼健のように、見栄や領地欲では動かないということか」

五十狭芹彦は、ゆっくりと懐から二つ目の「漆塗りの箱」を取り出した。

「では、契約の形を変えよう。私が楽々森族に提示するのは、領地の安堵ではない。『大和からの完全な不可侵』だ」

「不可侵、だと?」

「大和は、お前たちから米を徴収しない。法も押し付けない。お前たちは今まで通り、山の民として自由に生きればいい」

五十狭芹彦は箱を開け、大王の朱印が押された木簡を取り出した。

「その代わり、お前たちは大和の『目』と『耳』になれ。吉備のみならず、さらに西の国々――出雲や筑紫の動向を探り、密かに大和へ情報を流すのだ。吉備の山々を、大和直属の情報機関として自治することを許す。これが、私からの提案だ」


楽々森彦の目が、初めてわずかに見開かれた。

それは、大和の中央集権体制の枠組みから外れた、特例中の特例である。税を免除される代わりに、暗闘と諜報の任務を請け負う。それは山の民にとって、最も得意とする分野であり、かつ一族のアイデンティティを保ったまま生き残れる唯一の道であった。

「……ほう。口約束では何とでも言えるがな」

「この木簡が証だ。大王の印が押されている以上、後から来る大和の役人もお前たちの山には手出しできない」

五十狭芹彦は木簡を老人の足元に投げた。

「その木簡を食らうなら、まずは仕事をしてもらうぞ。温羅の拠点である『鬼ノ城(きのじょう)』。あの鉄壁の要塞を、内側から崩すための策がお前たちにはあるはずだ」


鬼ノ城は、吉備の山頂に築かれた難攻不落の巨大山城である。大和の農民兵がどれだけ取り囲もうと、版築(はんちく)で作られた分厚い城壁を破ることは不可能に近い。

しかし、山を知り尽くした楽々森族であれば、話は別だ。

「……クックック。大和の若造、なかなかどうして、温羅王よりも恐ろしい毒を隠し持っておるわ」

楽々森彦は、地面に落ちた木簡を拾い上げ、愛おしそうに撫でた。

「鬼ノ城は確かに堅牢だ。だが、あれだけの兵とたたら炉を山頂に維持するためには、莫大な『水』がいる。城の裏手、絶対に人が登れぬとされる断崖絶壁に、水門へ通じる秘密の岩穴がある。猿の身軽さならば、夜闇に紛れてそこへ潜入し、水源を断つことも造作はない」

「見事だ。攻城戦の折には、お前たちの一族に城の命脈を絶たせよう」

「承知した。ただし、我らは戦の矢面には立たんぞ。血を流すのは大和の兵と、頭の悪い犬飼の連中だけで十分だ」

老人はニヤリと笑い、木簡を懐に深く仕舞い込んだ。


「これで、第二の牙も大和のものとなったわけだな。五十狭芹彦よ」

楽々森彦の周囲から、気配がすっと薄れていく。いつの間にか、彼を護衛していた森の民たちの気配も消え去っていた。

「だが、気をつけろ。最後の三つ目の牙……『雉(きじ)』は、一筋縄ではいかんぞ。留玉(とめたま)族は、温羅の経済の心臓を握っている。そして何より、あの娘は吉備の誰よりも強固な『誇り』を持っているからな」

「娘、だと?」

「留玉臣(とめたまおみ)。吉備最強の水軍を束ねる、若き女族長よ。彼女を落とさねば、お前の描いた絵図は水泡に帰すぞ」

声だけを残し、楽々森彦の姿は朝霧の中へと完全に溶けて消えた。


静寂を取り戻した森の中で、五十狭芹彦は深く息を吐いた。

平野の「犬」を権力で釣り、山の「猿」を自治で絡め取った。残るは、吉備の海と川を支配する「雉」のみ。

大和と吉備の運命を決定づける最後の調略に向けて、五十狭芹彦は再び歩みを進めた。朝靄の向こうで、製鉄炉の黒煙が吉備の空を覆い隠そうとしていた。


第三節 水面の弓弦と若き女族長


深い山岳地帯を抜け、南へ下ること丸二日。

吉備の南部、のちに児島(こじま)湾と呼ばれることになる広大な内海に辿り着いた時、五十狭芹彦(いさせりびこ)たちを潮の香りと眩い水面の反射が包み込んだ。

当時の児島は陸続きではなく、独立した大きな島であった。本州との間には波の穏やかな海峡が広がり、そこは天然の良港として吉備の物流の心臓部を成していた。

五十狭芹彦は、海岸線の高台から眼下の光景を見下ろし、感嘆の息を漏らした。

海峡には、巨大な丸木舟の船団が所狭しとひしめき合っている。大和の河川を浮かぶような小舟ではない。一本の巨木を刳り貫き、舷側に波除けの板を継ぎ足した、外洋航海にすら耐えうる大型の軍船・交易船である。船からは次々と、大陸から運ばれてきた砂鉄や鉄鉱石、そして未知の工芸品が陸揚げされ、内陸の製鉄炉へと運ばれていく。

吉備の富を支える巨大な兵站線。それを一手に担っているのが、吉備の第三の牙――「留玉(とめたま)族」であった。


「あの船団が牙を剥けば、我々の補給線など瞬く間に海の藻屑だな」

五十狭芹彦が呟いた直後だった。

ヒュンッ!

鋭い風切り音が鳴ったかと思うと、五十狭芹彦の足元の土に、深く一本の矢が突き刺さった。矢羽には、鮮やかな雉の羽が使われている。

舎人(とねり)たちが慌てて五十狭芹彦を庇おうとするが、遅かった。周囲の岩陰、木々の梢、そして海上の小舟から、無数の弓兵が静かに立ち上がり、一斉に彼らに狙いを定めていたのだ。

犬飼族の獣のような威圧感とも、楽々森族の不気味な気配とも違う。極めて統制の取れた、氷のように冷徹な殺気が五十狭芹彦たちを射抜いていた。

「動くな、大和の将軍。次の一歩を踏み出せば、その首に雉の嘴(くちばし)が突き刺さるぞ」

凛とした、しかし冷ややかな声音が海風に乗って響いた。

弓兵たちが道を開け、一人の人物が進み出てくる。

それは、驚くほど若い女であった。

潮風に焼かれた浅黒い肌。動きやすい短い麻の衣を纏い、首には吉備の海で採れた真珠と翡翠の首飾りを下げている。手には、彼女自身の背丈ほどもある長大な漆塗りの強弓が握られていた。その瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、一切の妥協を許さない強い意志の光を宿している。


彼女こそが、吉備最大の水軍と弓兵を束ねる留玉族の長、留玉臣(とめたまおみ)であった。

当時、女性が部族の長を務めること自体は珍しくなかったが、これほどの軍事力と経済力を誇る集団を、うら若き彼女が統率しているという事実は、その並外れた器量を示していた。

「歓迎の挨拶が矢とは、随分と物騒な海だな。留玉臣殿」

五十狭芹彦は、足元に刺さった矢を一瞥もせずに静かに言った。

「招かれざる客には、これでも手ぬるいほどだ」留玉臣は弓を下ろさず、矢を番えたまま五十狭芹彦を睨みつけた。「我らが誇る『雉の目(狙撃手)』は、百歩離れた距離からでもお前の眉間を正確に射抜ける。大和の総大将が、何の用だ。犬と猿が尻尾を振ったからといって、この海まで大和の思い通りになると思うな」

彼女の情報網はすでに、五十狭芹彦が犬飼と楽々森を調略したことを察知していた。雉の異名は、空高く飛び立ち、遠くを見通す「鳥の目」――すなわち広範囲の監視と通信能力を持つことに由来する。彼女の部下たちは、特殊な音を鳴らす鏑矢(かぶらや)を用いて、広大な吉備の全域に瞬時に情報を伝達する術を持っていた。


「ならば話は早い。温羅(うら)の孤立は決定的だ。留玉族よ、お前たちも大和の傘下に入れ。温羅への大陸からの物資搬入を、その水軍で完全に封鎖するのだ」

五十狭芹彦の言葉に、留玉臣は鼻で嗤った。

「断る。我ら留玉の民は、義を重んじる。温羅王の鉄が吉備を豊かにしたのは事実だ。大和の青銅兵どもが束になったところで、王の牙城である『鬼ノ城(きのじょう)』は決して落とせまい。犬と猿が裏切ろうと、我々が海から兵站を維持し続ける限り、温羅王は負けない」

「……本当にそう思っているのか?」

五十狭芹彦は、一歩前へ踏み出した。周囲の弓兵たちの弦がギリッと引き絞られる音がしたが、彼は意に介さない。

「温羅は渡来の王だ。彼は吉備を強国にしたが、その富の恩恵を受けているのは彼の中枢の人間だけだ。お前たち留玉族は、常に危険な海を渡り、鉄鉱石を運ばされる『運び屋』に成り下がっている。しかも、温羅が大和との全面戦争に入れば、戦場に駆り出され、真っ先に矢面に立つのはお前たちの同胞ではないのか?」


留玉臣の弓を持つ手に、微かな力がこもった。

「大和の理屈を我らに押し付けるな。大和に従えば、今度は大和の奴隷になるだけだ。お前たちのように、力のある者を『化け物』や『鬼』と呼んでプロパガンダに利用するような卑怯な国に、誰が従うものか!」

彼女の叫びには、吉備の民としての強い誇りと、大和のやり方に対する激しい嫌悪が込められていた。

「その通りだ。大和のやり方は卑劣だ。私もそう思う」

五十狭芹彦の意外な肯定に、留玉臣は一瞬虚を突かれた。

「だが、それが『国家』という巨大な暴力の現実だ。留玉臣殿、お前は優秀な長だ。だからこそ、すでに気付いているはずだ。大和は吉備を潰すためなら、手段を選ばないということに」


五十狭芹彦は冷酷な事実を突きつけた。

「温羅の戦術は確かに優れているが、吉備には『時間』がない。大和はすでに、紀伊(きい)と淡路(あわじ)の強力な水軍を動員し、東から瀬戸内の海上封鎖に向かわせている。お前たちがいくら強くとも、四方から海を塞がれ、大和全土の物量で圧殺されれば、いずれ留玉の船団は壊滅する。女子供に至るまでな」

「……脅しか」

「現実の地政学だ。お前は、自らの『義』と『誇り』のために、一族の民を海の底へ沈めるのか?」

五十狭芹彦の声は、刃のように鋭く留玉臣の胸を抉った。

長としての責任。彼女の背後には、海と共に生きる数千の同胞の命がかかっている。温羅への恩義を貫くことは、一族の死を意味する。その残酷な天秤の前で、彼女の毅然とした態度は初めて揺らいだ。


「……大和は、我々に何をくれるというのだ」

長い沈黙の後、留玉臣は唇を噛み締めながら問うた。その声には、屈辱の響きが混じっていた。

「大和は山や土のことは分かっても、海のことは何も分からない」

五十狭芹彦は、懐から最後の「漆塗りの箱」を取り出した。

「温羅を討ち果たした暁には、吉備の海運、および大陸との交易の全権を、留玉族の独占特権として大和が保証する。お前たちは運び屋ではなく、瀬戸内を支配する『海の大名』として君臨するのだ。大和の干渉は一切受けず、自由に海を駆ける権利を与えよう」

箱が開かれ、中から大王の朱印が押された木簡――三つ目の「きびだんご」が姿を現した。


留玉臣は、ゆっくりと弓を下ろした。

彼女の瞳の奥で、激しい葛藤の嵐が吹き荒れていた。温羅への裏切り。同胞である吉備の民に弓を引くという大罪。しかし、それを甘受しなければ、一族は滅びる。長である彼女は、自らの誇りを殺してでも、民の未来を選ばねばならなかった。

「……卑劣な男だ。大和の将軍よ」

留玉臣は、震える手で木簡を受け取った。その目から、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。それは、若き女族長が長としての重責と引き換えに流した、血よりも重い涙であった。

「恨んでくれて構わない。だが、お前の一族は私が必ず守り抜く」

五十狭芹彦は、彼女の悲痛な決断に対し、深く頭を下げた。


こうして、吉備の三つの牙――犬飼の機動力、楽々森の諜報網、そして留玉の兵站と遠距離火力は、すべて大和の若き将軍の手中に落ちた。

「温羅王を、ただの力攻めでは殺させない」留玉臣は涙を拭い、射抜くような眼差しで五十狭芹彦を睨んだ。「戦場では我々が動く。だが、王の最期はお前自身の刃で決着をつけろ。それが、裏切りを強いた大和の将軍としての、せめてもの責任だ」

「約束しよう」

五十狭芹彦は静かに頷いた。

すべての準備は整った。圧倒的な強さを誇る鉄の要塞は、いまやその土台となる三つの柱を失い、空中に孤立している。

盤面は完全に裏返った。大和軍による、血を血で洗う吉備への再侵攻が、いよいよ始まろうとしていた。血吸川の水が、再び凄惨な赤に染まる時が迫っていた。


第四節 三つの密約と鉄王の覚悟


大和の陣が敷かれた播磨の国境。五十狭芹彦(いさせりびこ)が数日ぶりに野営地へ帰還した時、陣幕の中は飢えと疲労、そしていつ夜襲を受けるかという極度の緊張から、今にも暴動が起きかねない一触即発の空気に包まれていた。

秋の冷たい雨が降りしきり、兵たちの士気は泥に塗れていた。彼らがすがるはずの「桃の軍旗」は、雨水を吸って重く垂れ下がり、もはやいかなる呪術的威光も放ってはいない。

しかし、天幕に足を踏み入れた五十狭芹彦の顔には、疲労の色こそあれ、敗北者の悲壮感は微塵もなかった。


「芹彦様! ご無事で何よりです。しかし、兵糧はすでに底を突きかけております。これ以上の滞陣は……」

副将が血相を変えてすがり寄るのを、五十狭芹彦は片手で制した。

「陣払いだ。全軍に通達せよ。これより我が軍は、吉備の心臓部たる血吸川(ちすいがわ)へ向けて再び進軍を開始する」

「なっ……! 正気でございますか! あの鉄の陣形に、また丸腰同然の農民兵を突っ込ませるおつもりか!」

「大和の兵は、もう前線で血を流す必要はない。我々はただ、後方から堂々と歩いていればよいのだ」

五十狭芹彦は、濡れた麻の衣を脱ぎ捨てながら、静かに、だが確かな勝者の響きを帯びた声で言った。

「吉備の『三つの牙』は、すべて大和の軍門に降った」

その言葉に、天幕にいたすべての将校が息を呑み、絶句した。

「犬飼の軍犬と突撃部隊が我々の先陣を切り、温羅(うら)の鉄壁を食い破る。楽々森のゲリラが敵の伝令を絶ち、情報網を麻痺させる。そして留玉の水軍が、温羅の海上補給路を完全に封鎖し、後方から矢の雨を降らせる」

五十狭芹彦は、冷徹な目で布絵の地図を見下ろした。

「物理的な武具の硬さなど、もはや問題ではない。温羅は今、自らの手足であったはずの軍勢から刃を突きつけられている。これより始まるのは、大和と吉備の戦いではない。吉備の在地豪族たちによる、外来の王の『討伐戦』だ」


将校たちの顔に、驚愕から次第に歓喜の色が広がっていく。

血を流さずして、最強の敵の戦力を内側から削ぎ落とし、自らの駒として寝返らせた。大王の印が押されたたった三枚の木簡――「きびだんご」という名の政治的毒薬が、鉄の王国を内部から食い破ったのである。

「五十狭芹彦様……あなたという御方は、本当に恐ろしいお方だ」

「なんとでも言え。戦は勝たねば意味がない」

五十狭芹彦は、従者に青銅の装具を運ばせ、再び「大和の将軍」としての威厳を纏い始めた。

「軍議を開く。三部族との連携手順を確認せよ。合図は留玉族の放つ鏑矢(かぶらや)だ。明日の夜明けと共に、全軍前進。一気に血吸川の平野部を押さえるぞ」


 *


同じ頃。吉備の山頂にそびえる巨大要塞「鬼ノ城(きのじょう)」。

版築(はんちく)で突き固められた分厚く白い城壁の内側は、異常な熱気と黒煙に包まれていた。城の中枢には巨大な「たたら炉」がいくつも鎮座し、半裸の工人が汗だくになってフイゴを踏み続けている。

その灼熱の炉の前に、ひときわ巨大な影が立っていた。

吉備の王、温羅である。

彼は王でありながら、自らもまた優れた鍛冶職人であった。彼が海を渡ってこの地にもたらした技術は、単なる武器の製造に留まらない。鉄の鍬(くわ)や鋤(すき)を作り出し、固い土を耕すことで吉備の農業生産力を飛躍的に向上させた。彼にとって鉄とは、人を殺す道具である前に、民を豊かにするための「命の結晶」であった。

温羅は、赤熱した鉄の塊を金床に置き、自らの背丈ほどもある大鎚を振り下ろしていた。重低音が城内に響き渡る。


「……王よ。申し上げ儀がございます」

火の粉が舞う中、温羅の直属の副官が沈痛な面持ちで近づいてきた。

「どうした。大陸からの鉄鉱石を積んだ船は、まだ港に着かぬのか」

温羅は鎚を止めず、背中を向けたまま問うた。

「それが……留玉(とめたま)の水軍が、突如として海峡を封鎖いたしました。我が軍の輸送船はすべて拿捕され、海に近づく者は味方であっても射殺されます」

ガァン、と。温羅の鎚が、金床を叩いた。

「……雉(きじ)が、飛ぶのをやめたか」

「それだけではありません。北の山道も完全に遮断されました。楽々森(ささもり)の姿は見えず、伝令に出した兵は誰一人として帰ってきません。さらに……平野部を固めていた犬飼(いぬかい)の軍勢が、我々の陣を放棄し、大和の軍勢と共にこちらへ向かって進軍を開始したとの報せが……っ」

副官は、言葉を絞り出すように報告を終えると、その場に膝をついた。

吉備の三つの牙が、すべて大和に寝返った。それは、温羅の軍事力の過半数が失われたことを意味すると同時に、吉備の民そのものが温羅という「外から来た王」を拒絶したという、決定的な事実であった。


炉の炎が、轟々と音を立てて燃えている。

温羅はゆっくりと大鎚を下ろし、赤熱する鉄を見つめた。その巨躯から、怒りや狂乱の様子は一切感じられなかった。ただ、深い深い、底なしの孤独が滲み出ていた。

「……大和の将軍。名は何と言ったか」

「はっ。五十狭芹彦……と」

「五十狭芹彦。見事な男だ」

温羅は、低く、腹の底に響く声で呟いた。

「大和は呪術と神にすがる遅れた国だと思っていた。だが、あの若造は違った。鉄の硬さを物理で破れぬと悟るや、直ちに『人の心』の弱さを突いてきよった。領土、権威、あるいは恐怖。大和の放った甘い毒が、我らの牙を見事に腐らせたというわけだ」

「王よ! お命じください! すぐに裏切り者の犬飼どもを討伐し……」

「やめよ」

温羅は静かに首を振った。

「犬飼の健も、留玉の娘も、我を憎んで裏切ったわけではあるまい。彼らには彼らの守るべき一族があり、そのために血の涙を流して大和の毒を飲んだのだ。彼らを責めることはできん。……いや、責めてはならんのだ」


温羅は、渡来人としての自らの限界を悟っていた。

どれほど優れた技術で富をもたらそうと、土着の民からすれば、彼は永遠に「異邦人」である。平時であればその圧倒的な力で束ねることもできたが、大和という列島最大の権威が「公的な承認」をちらつかせて迫ってきた時、在地豪族たちがどちらを選ぶかは明白であった。

温羅は、静かに傍らに立てかけてあった長大な「鉄の環頭大刀(かんとうたち)」を手に取った。

「大和の童(わらべ)は、これで我が心折れ、この鬼ノ城に閉じこもると思ったであろうな。……甘いわ」

王の目に、猛烈な闘志の炎が宿った。

「鉄の真価は、決して折れぬことだ。我が身ひとつとなろうとも、吉備の王として、侵略者どもに一歩も退く気はない」

「王……!」

「直属の重装歩兵三千を動かせ。血吸川の平野に陣を張る。城にこもっての籠城戦などせぬ。我々から打って出て、大和の青銅兵もろとも、裏切りの牙どもを真正面から粉砕してやる」

温羅の命令に、副官は涙を堪えながら力強く頷き、走り去っていった。

温羅は独り、燃え盛るたたら炉を見上げた。彼が吉備にもたらしたこの炎が、大和の手に落ちれば、列島はさらに血みどろの戦乱に巻き込まれるだろう。それだけは防がねばならない。たとえ自らが「悪鬼」として歴史に名を残すことになろうとも。


 *


翌朝。

雨は上がり、雲の切れ間から秋の冷たい陽光が吉備の地を照らし出していた。

播磨の国境を越え、再び大和の軍勢が進発する。しかし、その陣容は先日の侵攻時とは全く異なっていた。

先陣を行くのは、大和の農民兵ではない。獰猛な軍用犬を伴い、機動力に優れた「犬飼族」の戦士たちである。彼らの顔には、かつての主君に刃を向ける苦渋と、一族の未来を背負った覚悟が入り混じっていた。

中軍には、青銅の装具で身を固めた五十狭芹彦が、堂々と馬に跨っている。その頭上には、再び「桃の軍旗」が高々と掲げられていた。

兵たちは、桃の旗印を見て歓喜の声を上げていた。彼らは、将軍の呪術が吉備の豪族たちを味方につけたのだと信じ込んでいる。五十狭芹彦は、その狂信的な熱気を否定せず、ただ冷徹に戦局の行方を見据えていた。

「聞こえるか、温羅よ」

五十狭芹彦の耳に、遥か前方から、地鳴りのような鉄の足音が響いてくるのが感じられた。

「お前が誇る鉄の盾は、お前自身が育てた吉備の牙によって打ち砕かれる。それが、政治(まつりごと)という名の、最も残酷な武具だ」


西の風が、再び焦げた鉄の匂いを運んでくる。

大和と吉備。呪術と科学。政治と誇り。

両者のすべてが激突する決戦の地、赫(あか)き血吸川の平野へ向けて、巨大な歴史のうねりが今、音を立てて雪崩れ込もうとしていた。


【第三章 赫き血吸川】
第一節 赤き水面の対陣と放たれた猟犬


吉備の平野部を東西に分断するように流れる大河。

普段であれば、豊かな水量で周囲の田畑を潤す命の川であるはずのその水面は、異様な赤褐色に染まり、重く淀んで流れていた。

上流に位置する温羅(うら)の「たたら炉」から排出される、鉄の酸化物(金気)や鉱滓(こうさい)が溶け込んでいるためである。まだ一滴の血も流れていないというのに、その川はすでに何万もの兵が虐殺された後のような凄惨な色を呈していた。のちに「血吸川(ちすいがわ)」と忌み名される所以である。


この赤き大河を挟んで、二つの巨大な軍勢が対峙していた。

南岸に陣を張るのは、大和の若き将軍・五十狭芹彦(いさせりびこ)が率いる討伐軍。しかし、その陣容は数日前の「第一次侵攻」の時とは劇的に変貌していた。

大和の農民兵たちは後方に下げられ、代わって最前列の浅瀬に並び立っているのは、吉備の平野部を支配する「犬飼(いぬかい)族」の精鋭たちであった。彼らは身軽な革鎧を纏い、片手には短い鉄剣や投げ槍を、もう片方の手には太い革紐を握りしめている。革紐の先では、筋骨隆々とした漆黒の軍用犬たちが、対岸の敵に向けて獰猛な牙を剥き出しにし、低く唸り声を上げていた。

さらに、川の下流方面――児島(こじま)湾へと続く河口付近には、無数の丸木舟の船団が川面を埋め尽くすように展開している。吉備の第三の牙「留玉(とめたま)族」の水軍である。船上には、長弓を構えた弓兵たちがずらりと並び、静かに弦を引く時を待っていた。


丘の上から戦場を見下ろす五十狭芹彦の頭上には、再び「桃の軍旗」が風に翻っている。

だが、今の彼にとって桃の呪術などどうでもよかった。彼の眼下には、自らの謀略によって組み上げた、完璧な「対・鉄装甲用」の包囲陣が完成していたからである。

「芹彦様。犬飼、留玉の両軍、配置につきました。背後の山道には楽々森(ささもり)族が伏せており、敵の伝令は一匹の鼠たりとも通しません」

副将の報告に、五十狭芹彦は小さく頷いた。

「見事だ。温羅は今、完全に視覚と聴覚を奪われた孤島にいる。あとはあの重厚な鉄の甲冑を、吉備の在地豪族たちの手で一枚ずつ剥がしていくだけだ」

五十狭芹彦の視線の先、血吸川の北岸には、微動だにしない巨大な鉄の壁がそびえ立っていた。


温羅の直属部隊、三千の重装歩兵である。

大和の調略によって吉備の兵力の大半が削ぎ落とされたというのに、彼らの陣形には一切の乱れがなかった。分厚い鉄の小札(こざね)を編み込んだ鎧、巨大な木製の盾、そして鋭い鉄の長矛。彼らは沈黙したまま、ただ冷徹に、裏切り者となったかつての同胞たちを見据えていた。

その鉄壁の陣形の中央に、ひときわ巨大な影があった。

二本の角をあしらった威圧的な兜。常人の倍はあろうかという巨躯。彼が持つ長大な鉄の環頭大刀(かんとうたち)が、朝の陽光を反射してギラリと鈍い光を放った。

鉄の王、温羅である。

彼は裏切った三部族に対して、恨み言も怒号も発しなかった。ただ、吉備の真の王としての威厳をもって、静かに矛を突きつけるのみであった。それが逆に、大和側に寝返った犬飼族の兵たちに、目に見えない強烈な重圧としてのしかかっていた。


「……手が、震えるか」

最前列で軍犬の綱を握る犬飼族の長、犬飼健(いぬかいたける)は、隣に立つ若い兵士の様子を見て低く問うた。

「長……。俺たちは本当に、温羅王に刃を向けるのですね。王の鉄がなければ、俺たちの村は今も貧しいままだったのに……」

若い兵の顔は蒼白だった。彼らにとって温羅は、畏怖の対象であると同時に、豊かな生活をもたらしてくれた恩人でもあったのだ。大和の「きびだんご(領地安堵の約定)」を食らったのは長である健だけであり、末端の兵たちの中には、いまだ激しい葛藤が渦巻いている。

「迷うな!」

健は一喝し、自らの頬にある深い傷跡を撫でた。

「温羅王への恩義は、俺とて忘れてはおらん。だが、我々は犬飼の民だ。王の武を讃えて共に大和に踏み潰されるより、泥を啜ってでも一族の血を未来へ繋ぐ。それが、長である俺が選んだ『誇り』だ。すべての罪は俺が被る。お前たちはただ、目の前の敵の喉笛を食い破ることだけを考えろ!」

健の咆哮に、犬飼の戦士たちが「おおおっ!」と悲壮な雄叫びを上げた。主人の決意を感じ取った軍用犬たちも、いっせいに狂乱したように吠え猛る。

恩義と裏切り。誇りと生存。古代の戦場は、決して白黒のつく単純なものではなかった。在地豪族たちの血の涙が、赤い川面をさらに重く濁らせていくようであった。


対岸で、温羅の大太刀がゆっくりと天高く掲げられた。

それを合図に、三千の重装歩兵が一斉に盾を構え、地響きを立てて前進を開始した。

「ガシャン、ガシャン」という無機質な金属音が、一定のリズムで血吸川の平野に響き渡る。彼らは川の浅瀬に足を踏み入れ、水飛沫を上げながら、容赦なく大和・犬飼連合軍へと迫り来る。

その威圧感は、先日大和の農民兵をパニックに陥れた時と全く変わらない。いや、温羅自らが陣頭に立っている分、殺気はさらに増していた。


「来るぞ……。盾の隙間を狙え! 犬を放つ準備をしろ!」

健が剣を抜き放ち、前線に指示を飛ばした。

その時である。

川の下流、留玉族の水軍の船上から、天を引き裂くような甲高い音が鳴り響いた。

ヒュルルルルゥゥゥゥッ!

それは、矢の先端に穴の開いた木の実(蕪)を取り付けた特殊な矢――「鏑矢(かぶらや)」が空を切る音であった。吉備の山々にこだまするその音は、まるで巨大な雉(きじ)が戦場の空を舞いながら鳴き声を上げているかのようであった。

留玉臣(とめたまおみ)からの「開戦」の合図である。


「放てェッ!」

健の怒号と共に、数百頭の軍用犬の首輪が 一斉に解かれた。

黒い疾風となった猟犬たちが、浅瀬の水を蹴立てながら、恐るべき速度で温羅の重装歩兵陣へと殺到していく。

温羅の兵たちは、慌てて長矛の穂先を下げ、盾を寄せ合って防壁を作った。人間相手ならば、これで完全に攻撃を弾き返せる。

しかし、彼らが相対したのは人間ではない。地を這う獣であった。

軍用犬たちは、矛先の隙間を縫うようにして盾の足元へ潜り込んだ。分厚い鉄の盾も、地面との間にはわずかな隙間が生じる。犬たちはそこへ頭を突っ込み、兵士たちの鉄で覆われていない足首や脛に、強靭な牙を突き立てたのだ。


「ぐああっ!」

「足元だ! 獣を叩き斬れ!」

激痛に耐えかねた温羅の兵士たちが、盾をずらし、下を向いて矛を突き刺そうとする。

その一瞬。鉄壁のファランクスに、致命的な「淀み」と「隙間」が生まれた。

犬飼健はその機を逃さなかった。

「突っ込め! 盾の裏に回り、喉と脇の下を狙え!」

健を先頭とする犬飼族の軽装歩兵たちが、犬の開けた穴へと濁流のように雪崩れ込んだ。彼らは大和の長い青銅剣とは違い、乱戦に特化した短い鉄の剣を持っている。盾の隙間に滑り込み、重い装甲で動きの鈍った温羅の兵士の死角から、刃を正確に急所へと突き立てていく。


血吸川の中央で、鉄と鉄、そして肉と肉が激突する凄惨な乱戦が始まった。

大和の青銅兵では手も足も出なかった温羅の鉄の陣形が、軍犬による足元への強襲と、機動力を活かした近接戦闘によって、見る見るうちに崩されていく。

丘の上からその光景を見下ろしていた五十狭芹彦は、冷たい笑みを浮かべた。

「所詮、重装歩兵の密集陣形は、正面からの力押しに特化したもの。足元を乱され、陣形が瓦解すれば、その重い装甲はかえって自らの動きを縛る枷となる」

犬を「物理的な兵器」として運用する犬飼族の戦術は、五十狭芹彦の想定以上の戦果を挙げていた。

しかし、温羅の直属部隊も、ただ崩されるだけではなかった。

陣形の瓦解を悟った温羅の将校たちは、すぐさま密集陣形を解き、数人一組の小隊に分かれての散兵戦へと移行したのである。彼らは互いの背中を守り合いながら、大太刀や鉄矛を振り回し、犬飼の兵と猟犬を次々と血祭りに上げていく。


川面は、文字通り敵味方の血で真っ赤に染め上げられ、飛沫が霧のように舞い上がった。

「芹彦様! 温羅の陣が崩れました! 今こそ我ら大和の本軍も突撃し、一気に勝負を決するべきかと!」

血気にはやる大和の副将が進言するが、五十狭芹彦は手を上げてそれを制止した。

「まだだ。温羅王の姿を見てみろ。あの大男は、まだ焦りなど微塵も感じていない」

乱戦の最奥。

温羅は、自軍の兵が次々と倒れていく中でも、ただ静かに戦場を見渡していた。彼の大太刀はまだ振るわれていない。

五十狭芹彦の背筋に、冷たい悪寒が走った。

温羅は、ただの武辺者ではない。大陸の最新の軍事技術を知り尽くした「王」である。大和が犬飼の機動力を使って陣形を崩してくることなど、百も承知だったはずだ。

ならば、なぜ彼は平野部での野戦に応じたのか?


その答えは、次の瞬間、戦場の空気を切り裂くような異様な地鳴りとなって現れた。

「なっ……! 芹彦様、あれを!」

温羅の陣の最後尾。そこには、数頭の牛に引かれた巨大な木製の「櫓(やぐら)」のようなものが、泥濘む大地を押しつぶしながら姿を現していた。

太い丸太を組み上げ、巨大な革の網を取り付けた、見慣れぬ巨大な攻城兵器。

当時の日本列島にはまだ存在しなかった、大陸由来の最新テクノロジー。

「投石器(カタパルト)……だと!?」

五十狭芹彦の顔から、初めて余裕の笑みが消え去った。

鉄の王が放つ真の「力」が、いま吉備の赤い空へと解き放たれようとしていた。


第二節 飛来する岩と矢の防壁


血吸川の北岸、温羅(うら)の陣の最後尾に姿を現した異形の巨大兵器。

それは、太い丸太を櫓(やぐら)のように組み上げ、長い投擲アームの先端に革製の投石袋を取り付けたものだった。当時の中国大陸で用いられていた「牽引式投石機(砲)」である。数十人の強靭な兵士たちがアームの反対側に結ばれた何本もの綱を握り、掛け声とともに一気に引き下ろすことで、てこの原理を利用して巨大な質量を遠方へと弾き飛ばす。

日本列島の戦いにおいて、個人の腕力を超えた「攻城兵器」が野戦に投入されるなど、前代未聞のことであった。


「装填せよ!」

温羅の副官の号令のもと、大人の胴体ほどもある巨大な自然石が革袋にセットされた。

ギギギギィッ、と太い丸太がたわむ不気味な音が戦場に響く。

「……何だ、あれは。何を撃つつもりだ?」

川の中央で乱戦を繰り広げていた犬飼健(いぬかいたける)が、血まみれの顔を上げて対岸を凝視した。その疑問に対する答えは、空を切り裂く轟音とともに叩きつけられた。


「放てェッ!」

数十人の工人が一斉に綱を引き下ろした。

ドゴォォォンッ! という破裂音に似た衝撃音が鳴り、巨大な岩石が空高く放物線を描いて打ち上げられた。陽光を遮り、不気味な影を戦場に落としながら、岩は恐るべき速度で大和・犬飼連合軍の密集地帯へと落下してくる。

「散れ! 頭上だァッ!」

健の絶叫も虚しく、落下してきた岩石は、犬飼族の歩兵たちと大和の前衛部隊が入り乱れる浅瀬のど真ん中に直撃した。

ズッシャァァァァンッ!!

人間が虫けらのように吹き飛んだ。

巨大な質量がもたらす運動エネルギーは、鉄の鎧だろうが獣の肉体だろうが、一切の区別なく均等に粉砕した。岩の直撃を受けた者は原形をとどめずひしゃげ、跳ね上がった水柱と無数の泥の塊が、周囲にいた数十人の兵士たちをなぎ倒す。さらに、川底の石が砕けて散弾のように飛び散り、二次的な被害をもたらした。

「ひっ……! 神よ、空から山が落ちてきた!」

大和の農民兵たちは恐慌状態に陥り、頭を抱えて泥の中に這いつくばった。青銅の剣で人間を斬ることしか想定していない彼らにとって、空から降ってくる巨大な岩石は、まさに天変地異そのものであった。


「次弾、装填!」

対岸では、温羅の工兵たちが無慈悲に二発目、三発目の投石機を稼働させていた。

連続して放たれた岩石が、次々と血吸川を抉る。水面は激しく波立ち、赤褐色の飛沫が血の雨となって戦場に降り注いだ。犬飼族の誇る軍犬たちも、轟音と地響きに完全にパニックを起こし、主人の命令も聞かずに逃げ惑い始めた。

温羅は、初めからこの兵器を使うために平野部に陣を敷き、大和軍を射程距離内に誘い込んだのだ。乱戦によって大和側の足が止まった瞬間を見計らい、自軍の被害も厭わずに広範囲の面制圧を行う。圧倒的な質量兵器の前では、いかなる小細工も通用しない。


丘の上で戦局を見下ろす五十狭芹彦(いさせりびこ)の周囲でも、将校たちが悲鳴に似た声を上げていた。

「芹彦様! 陣を退きましょう! あんな化け物じみた兵器、人力で防げるはずがありません!」

だが、五十狭芹彦の目は、恐怖に囚われることなく、飛来する岩の軌道を冷静に計算していた。

「退けば、背中から岩に潰されるだけだ。温羅め、大陸の最新技術を隠し持っていたか。だが……遠当ての技ならば、大和も無策ではない」

五十狭芹彦は、傍らに控えていた特殊な部隊に振り返った。

「『弩(いしゆみ)』を構えよ。狙うは岩ではなく、対岸の投石機を操る工兵どもだ」

大和軍の陣の奥から進み出てきたのは、分厚い木の板で作られた見慣れぬ形状の弓を持つ一団であった。

弩(ど)――クロスボウである。

当時の日本列島、弥生時代末期の遺跡からは、精巧な青銅製の「弩機(引き金部分のからくり)」が出土している。大和の中枢は、大陸から伝来したこの機械式弓の技術を祭祀の宝物として秘匿するだけでなく、実戦用の狙撃兵器として一部の精鋭に装備させていたのだ。

通常の弓とは異なり、足で踏みつけて強力な弦を引き絞り、からくりで固定する弩は、連射こそできないものの、常人の腕力を遥かに超える張力と、恐るべき貫通力を誇る。

「放て!」

五十狭芹彦の号令とともに、乾いた発射音が響き、短く重い徹甲矢が川を越えて対岸へと殺到した。

矢は温羅の歩兵が構える木盾を容易く貫通し、投石機の綱を引いていた工兵たちの胸板に深々と突き刺さった。バタバタと人が倒れ、投石機の照準が狂う。


しかし、弩の数は少なく、次弾の装填には時間がかかる。これだけでは温羅の投石を完全に止めることはできない。

その時、下流の河口を埋め尽くしていた留玉(とめたま)族の船団から、天を裂くような巨大な銅鑼(どら)の音が響き渡った。

船の舳先(へさき)に立つ若き女族長、留玉臣(とめたまおみ)である。

彼女は、自らの背丈ほどもある漆塗りの強弓を引き絞りながら、海風に負けぬ澄んだ声で全軍に号令をかけた。

「留玉の誇り高き雉(きじ)たちよ! 弦を鳴らせ! 空を飛ぶ岩など、我らの矢の雨で地に叩き落としてみせよ!」

水上という不安定な足場でありながら、留玉族の弓兵たちの体幹は微動だにしない。彼らは一斉に天に向けて長弓を構えた。

「射ェェェッ!」


何千という矢が、一斉に空へと放たれた。

それは、文字通り空を黒く塗りつぶす「矢の雲」であった。

留玉族の長弓は、大和の弩のような貫通力はないが、圧倒的な手数と射程距離を誇る。放たれた矢の群れは、温羅の陣営から飛来した巨大な岩石と、血吸川の真上の空域で正面から激突した。

のちに「桃太郎と鬼の戦いにおいて、空中で矢と岩がぶつかり合った」と伝説に語り継がれる、歴史的スペクタクルである。

ガキンッ! バキィィッ! という硬質な音が上空で連続して響き渡る。

もちろん、木の矢で巨大な岩を粉砕することなど不可能だ。しかし、無数の矢が岩石の表面に次々と衝突することで、その運動エネルギーと飛行軌道をわずかに狂わせたのである。勢いを削がれた岩石は、大和の本陣に届く前に失速し、重力に引かれて川の深みへとドボンドボンと水柱を上げて落下していった。

「見事だ、留玉の娘よ!」

五十狭芹彦は、空中で弾け飛ぶ矢羽の雨を見上げながら快哉を叫んだ。

岩をすり抜けた無数の矢は、そのまま温羅の陣営へと降り注いだ。重装歩兵の鎧は矢を弾くが、上を向いて投石機を操作していた無防備な工兵たちは、たまらず頭を抱えて逃げ惑う。温羅の誇る最新兵器の稼働が、ついに完全に沈黙した。


「……大和の将軍め。在地豪族どもの使い方が、随分と板についてきたではないか」

対岸でその光景を見ていた温羅は、兜の下で忌々しげに舌打ちをした。

自らがもたらした最新の投石機が、かつて自らの目と耳であった留玉族の弓術によって無力化される。この戦場は、温羅にとって「自らの半身」を相手に戦わされているような、極めて不利な盤面であった。

さらに、温羅の視線の先、河口付近の海には、留玉族の軍船が隙間なく並び、大陸からの鉄鉱石を積んだ味方の輸送船を完全に拿捕しているのが見えた。

「兵站が、完全に絶たれたか」

温羅の決断は早かった。

投石機による制圧が防がれ、水軍による補給路も断たれた現在、この平野部で野戦を継続することは無意味な消耗戦を強いるだけである。いかに鉄の鎧が強固であろうと、兵たちの体力には限界があり、数で勝る大和と在地豪族の連合軍に囲まれれば、いずれは削り殺される。


「全軍、陣を引け!」

温羅の野太い声が、乱戦の喧騒を貫いて響き渡った。

「これ以上の野戦は無用だ。傷ついた者を中央に入れ、盾の壁を再構築せよ! 我らはこれより、鬼ノ城へと撤退する!」

王の命令を受け、散兵戦を行っていた温羅の兵士たちは、驚異的な規律で再び密集陣形を組み直した。彼らは決して背を向けて逃げることはない。大和軍に向かって盾を向けたまま、じりじりと、しかし確実な足取りで、背後の険しい山間部へと退却を始めたのである。

その殿(しんがり)には、巨大な鉄の環頭大刀を構えた温羅自らが立っていた。彼に近づこうとする大和の兵は、その圧倒的な威圧感と、大太刀のひと振りが生み出す風圧だけで足がすくみ、手出しをすることができなかった。


「深追いはするな!」

五十狭芹彦もまた、即座に全軍に停止を命じた。

「温羅の陣形は崩れていない。下手に追撃すれば、しんがりの反撃でこちらが手痛い被害を受ける。今日のところは、敵を平野から追い落としただけで十分だ」

徐々に遠ざかっていく温羅の鉄壁の陣列を見送る五十狭芹彦の表情は、決して明るくはなかった。

眼下の血吸川は、無数の死体と沈んだ岩石で流れが堰き止められ、どす黒い赤色をした血の池と化している。犬飼の兵も、大和の兵も、そして温羅の兵も、平等に泥にまみれて屍を晒していた。

これほどの犠牲を払ってもなお、温羅の首にはかすり傷一つつけられていない。

「……化け物め。あれが人の王の姿か」

五十狭芹彦は、血塗られた「桃の軍旗」を見上げた。

歴史には、桃太郎が犬・猿・雉を従えて鬼をあっさりと退治したと記されるだろう。だが現実の戦争は、そんな綺麗事ではない。泥と血と裏切りに塗れた、吐き気がするほどの消耗戦だ。


温羅は山頂の巨大要塞「鬼ノ城(きのじょう)」へと籠もった。

そこは、大和の青銅兵が何万人いようと、絶対に力攻めでは落とせない版築(はんちく)の絶対防衛線である。

盤面は、平野の野戦から、極限の心理戦を強いる「攻城戦」へと移行した。

赫き血吸川の戦いは、両軍に甚大な被害をもたらしたまま、勝者なき引き分けとして幕を閉じたのである。しかし、本当の地獄はこれから始まるということを、五十狭芹彦も、温羅も、そして三部族の長たちも、深く理解していた。


第三節 版築の巨城と渇きの包囲網


血吸川(ちすいがわ)の激戦から数日後。

吉備の平野を制圧した大和・犬飼連合軍は、温羅(うら)が逃げ込んだ山頂の要塞を目指して進軍を続けていた。

吉備平野の北西にそびえる、標高四百メートルほどの険しい山、鬼城山(きのじょうざん)。その山裾に辿り着いた大和の農民兵たちは、鬱蒼とした木々の合間から見上げた異様な光景に、思わず槍を取り落としそうになった。


「……なんという巨大な城壁だ。あれが、人の手で作れるものなのか」

五十狭芹彦(いさせりびこ)の傍らで、大和の副将が呆然と呟いた。

彼らの眼前に広がっていたのは、大和の常識を根底から覆す、規格外の巨大建造物であった。山の稜線をぐるりと囲むように、全長三キロメートルにも及ぶ城壁が延々と連なっている。大和の集落を守るような丸太の柵や、浅い環濠(かんごう)などとは次元が違う。

それは、白く輝く「土の壁」であった。

「『版築(はんちく)』か」

五十狭芹彦は、馬上から目を細めてその壁を観察した。

大陸由来の高度な土木技術である。木の板で型枠を作り、その中に土と砂、そして少量の粘土や石灰を混ぜ合わせたものを入れ、杵で幾重にも突き固めていく。これを繰り返すことで、岩の如き硬度を持つ分厚い城壁が築かれるのだ。当時の日本列島においては、この鬼ノ城(きのじょう)にしか存在しない、神の御業にも等しい最新技術であった。

高くそびえる城門には、巨大な礎石が据えられ、分厚い木の扉が固く閉ざされている。さらに、城の内部からは、昼夜を問わず製鉄炉(たたら)の黒煙が立ち昇り、空を不気味に淀ませていた。


大和の兵たちにとって、その城は文字通り「悪鬼の棲む異界(鬼ヶ島)」に見えた。

「芹彦様。あの白壁を登るのは不可能です。叩いても突いても、我々の青銅の剣では壁に傷一つ付きませんぞ」

「わかっている。温羅の奴め、この山頂の盆地全体を一つの巨大な要塞に改造しおったか」

五十狭芹彦は、冷徹に城の構造を分析した。

古代の山城(のちに神籠石系山城と呼ばれるもの)の最大の弱点は「水」である。しかし、鬼ノ城はすり鉢状の地形の山頂に築かれており、降った雨が自然と城内の谷間に集まり、巨大な貯水池を形成するように設計されていた。

兵たちの飲料水はもちろん、たたら製鉄において炉を冷やし、鉄を鍛えるためには莫大な量の水が必要となる。温羅は、その生命線である水源を城壁の内部に完全に抱え込んでいるのだ。


「力攻めは愚の骨頂だ。大和の農民兵を一万張り付かせようと、上から熱湯と石を落とされれば全滅する。我々は、この山を完全に『包囲』する」

五十狭芹彦の命令により、大和の軍勢は山の四方に陣を張り、完全な封鎖網を敷いた。

南の平野と山道は、犬飼健(いぬかいたける)が率いる犬飼族の歩兵と軍犬が隙間なく警戒に当たっている。そして、遥か南方の児島湾から続く河川の補給路は、留玉臣(とめたまおみ)の水軍によって一隻の船の通行も許さぬほどに封鎖されていた。

鉄鉱石も、食糧も、城には一粒も入らない。

「あとは、城内の『水』さえ枯らせば、あの鉄の要塞はただの巨大な棺桶となる」

五十狭芹彦が陣幕の中でそう呟いた時、彼の頭上の太い梁から、カッカッカッという乾いた笑い声が降ってきた。

「相変わらず、えげつない絵図を描く大和の坊主よ」


音もなく梁から飛び降りてきたのは、吉備の第二の牙、楽々森族の長・楽々森彦(ささもりひこ)であった。

「猿の翁か。城の裏手の探索はどうなった」

「お主の睨んだ通りよ。温羅の城は完璧に見えるが、唯一の綻びがある。城内に溜まった泥水や、多すぎる雨水を外へ逃がすための『水門』だ。温羅の兵どもは、あの水門のある北の裏崖は、人間には絶対に登れぬ垂直の絶壁だと高を括っておる」

楽々森彦は、ニヤリと黄ばんだ歯を見せて笑った。

「だが、我ら山の民(猿)にとっては、蔦(つた)と岩の割れ目さえあれば、平地を歩くのと何ら変わりはない」

「見事だ。では、今夜決行する」

五十狭芹彦は、卓の上の布絵を指差した。

「少数の工作部隊を率いて裏崖を登れ。目的は二つ。一つは、城の水門を破壊し、貯水池の水をすべて山肌へ流出させること。もう一つは、城内にこれを持たせた矢を射ち込むことだ」


五十狭芹彦が差し出したのは、文字の書かれた大量の「木札」であった。

「これは……大和の『木簡』か?」

「大王の印はない、ただの宣伝文句(プロパガンダ)だ。大和は温羅の首のみを求めている。降伏し、城の門を開く者には、命と家族の安全を保証する……と書かれている」

楽々森彦は呆れたように五十狭芹彦を見た。

「城内の兵士や工人に文字など読めるわけがなかろう」

「読めずとも構わん。大和の軍勢が、夜闇に乗じて城内に『何か』をバラ撒いたという事実だけでいい。得体の知れない木札は、兵たちの疑心暗鬼を必ず煽る。水と食糧が減りゆく極限状態において、その不安は致死の毒となるのだ」

「……クックック。大和の呪術とは、かくも陰湿で恐ろしいものか。承知した、大和の将軍よ。猿の夜這い、とくとご覧あれ」

楽々森彦の姿は、陽炎のように陣幕の中からかき消えた。


 *


その夜、鬼ノ城は不気味な静寂に包まれていた。

城内の中央にある巨大なたたら炉だけが、真っ赤な炎を上げ、黒煙を吐き出している。温羅は城壁の四方を厳重に固めさせていたが、山頂の空気は張り詰め、将兵たちの間には言い知れぬ疲労が蓄積していた。

裏崖に面した北の石垣。眼下には底なしの暗い谷が口を開けており、警備の兵も数人しか配置されていない。

その垂直の絶壁を、数十の黒い影が、まるで重力を無視した虫のように這い上がっていた。


楽々森族の特殊部隊である。

彼らは手足に鋭い鉄の爪を括り付け、岩のわずかな凹凸や、崖にへばりつく木の根に指をかけ、音もなく登攀(とうはん)していく。彼らの背中には、油を染み込ませた布と、大和の木札が結びつけられた短い矢が束ねられていた。

先頭を登る楽々森彦が、崖の縁からそっと顔を出した。

すぐ目の前に、見事な石組みで作られた巨大な「水門(暗渠)」がある。城内に蓄えられた水を制御し、外へと排出するための重要な設備だ。温羅の工兵たちが計算し尽くして築き上げた、古代のオーパーツとも言える精緻な石積みの排水溝。

楽々森彦は、部下たちに顎で合図を送った。

猿の戦士たちは崖から滑り込み、水門の可動部である巨大な木製の堰(せき)に、大量の油布を巻き付けた。さらに、堰を支える重要な木の杭にノコギリで静かに切れ目を入れ、水圧に耐えられないように細工を施していく。


「仕上げだ。城内に『毒』を降らせよ」

楽々森彦の指示に従い、戦士たちは崖の陰から短い弓を構えた。

ヒュンッ、ヒュンッ、という微かな風切り音とともに、大和の木札を結びつけられた無数の矢が、放物線を描いて鬼ノ城の内部へと射ち込まれていく。城内の兵舎の屋根に、広場に、そして貯水池のほとりに、パラパラと不気味な音が鳴って木札が降り注いだ。

警備の兵がその音に気付き、松明を掲げて走り寄ってきた。

「なんだ!? 矢が……矢が降ってきたぞ! 敵襲か!」

「待て、矢の先に何か木札のようなものが……」

兵士たちが混乱し始めたその瞬間。


メキッ……バキィィィィンッ!!

城の北側から、凄まじい破砕音が響き渡った。

楽々森族によって細工された木堰が、貯水池の膨大な水圧に耐えきれずに崩壊したのである。

堰を失った水門から、城の生命線である大量の真水が、轟音とともに暗い谷底へと吐き出されていく。まるで山そのものが血を流しているかのような、凄まじい水音だった。

「水門が破られた! 水が……我らの水が抜けていくぞ!!」

温羅の兵士たちの絶叫が、夜の鬼ノ城に谺(こだま)した。

兵たちが慌てて水門に駆けつけるが、すでに土台の石組みごと水流にえぐられ、修復は不可能な状態となっていた。激流はあっという間に城内の貯水池を干上がらせ、泥の底を露出させてしまった。


麓の陣からその音を聞いていた五十狭芹彦は、冷たい夜風を浴びながら目を細めた。

「これで、温羅のたたら炉は死んだ。剣を打ち直すことも、喉の渇きを癒やすこともできまい」

水源の喪失。そして城内にばら撒かれた正体不明の降伏勧告の木札。

翌朝、枯れ果てた貯水池と、奇妙な呪いの札(プロパガンダ)を目にした温羅の将兵たちは、大和軍の目に見えない恐るべき浸透力に、底知れぬ絶望を味わうことになる。

難攻不落を誇った鉄の要塞は、大和の武力ではなく、吉備の在地豪族(猿)の暗躍によって、内側から完全にその機能を停止させられたのである。


残された時間は少ない。飢えと渇きが狂気を生み出す前に、温羅は王としての最後の決断を下さねばならなかった。


第四節 消えた炎と鉄王の決意


翌朝。鬼城山(きのじょうざん)の山頂は、開戦以来初めての、そして極めて不気味な「静寂」に包まれていた。

吉備の繁栄の象徴であり、兵たちの無尽蔵の武具を生み出していた巨大な「たたら炉」。その火が、完全に消え失せていたのである。

炉を維持するためには、砂鉄や木炭だけでなく、想像を絶する量の「水」が必要不可欠であった。熱せられた炉の温度を制御し、打ち鍛えられた鉄を急速冷却(焼き入れ)して硬度を増すための命の水。

しかし、昨夜の楽々森(ささもり)族の工作によって水門が破壊され、貯水池はひび割れた泥の底を無惨に晒していた。水のないたたら炉は、ただの巨大な土の塊に過ぎない。

フイゴを踏む重低音も、鎚を打つ金属音も消えた城内。そこにあるのは、ただ秋の乾いた風が白壁(版築)を撫でる音だけであった。


「……火が、死んだ」

煤にまみれた工人のひとりが、冷たくなった炉の前にへたり込み、虚ろな声で呟いた。

その絶望は、瞬く間に城内の全将兵へと伝染していった。温羅(うら)の圧倒的な武力の源泉が絶たれたという事実は、兵たちの心から「勝利」の二文字を完全に消し去ったのである。

そして、大和の将軍・五十狭芹彦(いさせりびこ)が放ったもう一つの「毒」が、渇き始めた城内に静かに、しかし確実に回っていた。


「おい、見たか。昨夜降ってきたあの不気味な木札を」

城壁の陰で、若い歩兵が声を潜めて仲間に囁きかけていた。

「文字が書かれているらしい。降伏すれば、大和は命と家族を助ける……と。山を降りた犬飼(いぬかい)の奴らからの文だという噂だ」

「馬鹿な、大和の罠に決まっている! だが……このまま城にいても、いずれ水が尽きて干からびるだけだ。犬飼も留玉(とめたま)も裏切った。温羅王の鉄だけでは、もう大和の物量には勝てないんじゃないのか……?」

疑心暗鬼。

大和の木札は、ただの木片でありながら、確実に吉備の兵たちの団結に亀裂を入れていた。誰もが口には出さないが、「誰かが裏切って門を開けるのではないか」「自分だけが最後まで温羅王に付き従って無駄死にするのではないか」という恐怖が、互いの視線を険しいものに変えていく。

物理的な渇きよりも先に、心の渇きが城を内側から崩壊させようとしていた。五十狭芹彦の狙いは、まさにそこにあった。


「……見事な手際だ」

本陣の天幕から出て、異様に静まり返った広場を見渡した温羅は、兜の下で低く唸った。

血気盛んな将校たちは「今すぐ裏切り者を炙り出して処刑すべきだ」と息巻いていたが、温羅はそれを厳しく制した。

「無用だ。兵が動揺するのは、ひとえに王たる我が至らぬゆえ。恐怖に駆られた者を斬ったところで、渇きは癒えぬし、大和の思う壺よ」

温羅は、巨体を揺らして兵たちの間を歩いた。

兵たちは王の姿を見ると慌てて姿勢を正したが、その目には隠しきれない不安が揺れている。温羅は彼らを咎めることなく、ただ静かに頷き返し、干上がった貯水池の泥の縁に立った。


「……副官を呼べ」

背後に付き従っていた側近に命じると、ほどなくして、温羅の右腕である歴戦の将が駆けつけてきた。彼の顔にも、深い疲労の影が落ちている。

「王よ。城内の井戸をすべて浚(さら)いましたが、湧き水はごくわずか。三千の兵と、数百の工人たちの喉を潤すには到底足りません。持って二日……いや、明日にはまともに剣を振れる者もいなくなるでしょう」

「わかっている」

温羅は、眼下に広がる吉備の平野を見下ろした。

山麓には、大和と犬飼族の連合軍が蟻の群れのように城を取り囲んでいる。さらに南の児島湾には留玉族の船団が海を塞いでいる。完全な死地であった。

「王。……もはや、決断の時かと存じます」

副官は、悲痛な声で言った。

「大和の狙いは王の首。ならば、我々親衛隊が血路を開きます。王だけでも、裏の山道から変装して脱出し、大陸へとお逃げください。吉備のことは、残された我々で……」

「馬鹿を言え」

温羅の静かだが重みのある声が、副官の言葉を遮った。

「民を捨てて逃げる王が、どこにいる」


温羅は振り返り、城の奥に身を寄せている非戦闘員たち――製鉄の技術者(工人)や、その家族たちを見つめた。

「大和の将軍、五十狭芹彦。あの男は、ただの狂王の犬ではない。吉備の『鉄』の真の価値を理解している。奴が欲しているのは我が首だけでなく、我らが大陸から持ち込み、この地で育て上げた『たたら製鉄』の技術そのものだ。だが……大和の中央政権の手にこの技術が渡れば、鉄は永遠に『人を殺す武器』として独占され、吉備の民は未来永劫、大和に搾取される奴隷となる」

温羅は、傍らに突き立ててあった自らの鉄の環頭大刀を力強く握りしめた。

「鉄は、土を耕し、豊穣をもたらすためにある。吉備のたたらの炎を、大和の欲に食わせてはならんのだ」

「では、いかがなさるおつもりですか! このままでは全滅です!」


「副官よ。裏崖の水門は破壊されたが、そのさらに奥、旧い鍾乳洞へと続く『隠し通路』が残されていよう」

温羅の言葉に、副官はハッとした。

それは、城を築く前に温羅が自ら調査し、いざという時のために土で塞いで隠しておいた天然の地下洞穴であった。人間が一人、這って通るのがやっとの狭い穴だが、吉備の北部の深い山林へと繋がっている。

「今夜、日が落ちると同時に、すべての工人とその家族、そして若き兵たちをその穴から逃がせ。我らが作り上げた鉄の製法を記した木簡と、種火となる石炭を持たせてな」

「逃がす……? し、しかし、数千の人間が動けば、必ず山麓の大和軍や猿(楽々森族)に気づかれます! たちまち狩り尽くされてしまうでしょう!」

「だからこそ、我が囮(おとり)となるのだ」


温羅の決意の言葉が、秋の冷たい風に乗って響いた。

「我はこれより、残存する最も屈強な五百の親衛隊のみを率い、城の正門を開いて討って出る」

「討って出る!? 正気ですか! 平野には数万の敵が……」

「大和の将軍の首だけを狙い、真っ直ぐに本陣を叩き割る『夜討ち』だ」

温羅の眼の奥で、決して消えることのない猛烈な炎が燃え上がっていた。

「五十狭芹彦めは、我らが飢えと渇きに苦しみ、内輪揉めを起こして自壊するのを待っている。まさか水が尽きたこの期に及んで、城を捨て、総大将の首一つを狙って決死の突撃をかけてくるとは夢にも思うまいて。我が大暴れし、大和と犬飼の目を南の平野へ釘付けにしている隙に、お前たちは北の地下道から吉備の深山へと落ち延びよ」


「王……! それでは、あなたは……!」

副官の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。五百の兵で数万の軍勢の中へ突撃する。それは、生還を一切度外視した、完全なる「捨て石」としての自刃戦に他ならなかった。

「泣くな。我は吉備の王ぞ。民の血肉を喰らって生き延びる悪鬼ではない。我が屍を盾として、吉備の『鉄の種』を未来へ残せ。それこそが、この地へ渡ってきた我の、最後の誇りだ」

温羅は豪快に笑い、副官の肩を力強く叩いた。


その日の午後、鬼ノ城は静かな、しかし異様な熱気に包まれていた。

逃げ延びる者と、死に赴く者。

温羅の決意を知った兵たちは、大和の木札への疑心暗鬼を捨て去った。王が自らの命を捨てて自分たちを逃がそうとしているのだ。その深き恩義に報いるため、残る五百の親衛隊は一切の未練を断ち切り、黙々と武具の点検を始めた。

彼らは最後のわずかな水を分かち合い、鈍く光る鉄の装甲を身に纏う。

温羅もまた、二本の角を持つ兜を被り、分厚い鉄札の鎧を身につけた。その手には、自らが鍛え上げた最高傑作である大太刀が握られている。


夕闇が迫り、西の空が血吸川のごとく赤く染まり始めていた。

城の正門前には、死を覚悟した五百の鉄の戦士たちが、一言も発することなく整列している。その後方では、暗闇に紛れて地下道へと降りていく民たちが、涙を堪えながら王の背中に向かって深く、深く平伏していた。

「……時が来た」

温羅は、兜の奥で鋭く目を光らせ、山麓の遥か向こう――泥濘む血吸川のほとりに陣を構える、五十狭芹彦の本陣を睨み据えた。

大和の呪術と謀略がどれほど優れていようと、この一撃だけは絶対に防げない。すべてを捨てた武人の、純度百パーセントの「殺意の塊」である。


「開門ッ!!」

温羅の咆哮とともに、鬼ノ城の巨大な城門が重々しい音を立てて開け放たれた。

それは、大和の若き将軍と、吉備の鉄の王による、命と国家の存亡を賭けた「最後の一騎討ち」の始まりを告げる音であった。


【第四章 双矢と桃木】
第一節 狂鬼の夜這いと泥濘の罠


新月の夜。吉備の空には星一つなく、底知れぬ闇が大地を覆い尽くしていた。

鬼城山(きのじょうざん)の麓を幾重にも取り囲む大和と犬飼(いぬかい)の連合軍の陣営には、無数のかがり火が焚かれ、冷たい秋の夜気をわずかに和らげていた。

兵たちの間に、かつてのような極度の緊張感はなかった。山頂の要塞は水を絶たれ、たたら炉の炎も消えた。あとは放っておいても、飢えと渇きに耐えかねた敵が内輪揉めを起こし、自壊していくのを待つだけである。勝利はすでに大和の手の中にあると、誰もが信じて疑わなかった。


「……ん? おい、何か聞こえなかったか?」

最前線で歩哨に立っていた犬飼族の若い兵が、不意に暗い山肌へ向けて耳を澄ませた。

「風の音だろう。あるいは、喉の渇きに狂った鬼どもの泣き声か」

仲間の兵が鼻で笑いながらあくびをした、その瞬間である。


ドォォォォンッ!!


突如として、大地を揺るがすような轟音が闇を引き裂いた。

それは風の音などではない。何百という重い鉄の塊が一斉に山を駆け下りてくる、絶望的な足音の連なりであった。

「な、なんだ!? 敵襲……敵襲ゥゥッ!」

歩哨が声を振り絞って銅鑼(どら)を鳴らそうとしたが、その手は空を切った。闇の中から飛来した太い鉄の投げ槍が、彼の胸板を貫き、背後の丸太の柵ごと串刺しにしたからだ。

「ひっ……!」

仲間の兵が腰を抜かして後ずさる目の前に、漆黒の巨大な影が音もなく躍り出た。

二本の角を持つ兜。分厚い鉄の装甲。そして、夜気すらも斬り裂くような長大な環頭大刀(かんとうたち)。

温羅(うら)である。

彼は一切の雄叫びを上げず、ただ無言で大太刀を真横に一閃した。それだけで、腰を抜かしていた兵士の上半身が、革鎧ごと綺麗に両断され、血の雨となって陣地を汚した。


「突き進め。狙うは大和の総大将、ただ一人の首ぞ!」

温羅の低く、地獄の底から響くような号令とともに、背後の闇から五百の重装歩兵たちが雪崩れ込んできた。

それは、通常の軍隊の動きではなかった。彼らは生還を一切放棄した「死兵」である。背後の同胞を逃がすための囮(おとり)であり、自らの命と引き換えに大和の将軍を道連れにするためだけに放たれた、純粋な殺意の塊であった。

大和と犬飼の前衛陣地は、文字通り「一瞬」にして粉砕された。

急な夜襲に寝込みを襲われた農民兵たちは、武器を手に取る暇もなく、次々と鉄の矛で串刺しにされていく。かがり火が蹴り倒され、天幕が燃え上がり、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開された。

「陣形を組め! 怯むな、相手はわずかな手勢だ! 犬を放て!」

犬飼健(いぬかいたける)が血相を変えて陣頭指揮を執るが、自慢の軍用犬たちは、死兵と化した温羅軍の異様な殺気に完全に萎縮し、尻尾を巻いて主人の背後に隠れようとした。獣の生存本能が「あれに立ち向かえば確実に死ぬ」と告げていたのだ。


「退け! 退けェッ! まともにぶつかるな!」

健の怒号も虚しく、五百の鉄の塊は、肉を挽く巨大な刃となって大和の中軍を強行突破していく。

彼らは左右からの攻撃には一切目もくれなかった。味方が槍に貫かれようが、矢を射掛けられようが、倒れた者の死体を踏み越え、ただ一直線に――陣の最奥、五十狭芹彦(いさせりびこ)の「桃の軍旗」が掲げられている本陣を目指して、狂気の行軍を続けていた。

「止めろ! 芹彦様の本陣へ通すなッ!」

大和の将校たちが必死に青銅の剣を振るうが、温羅の五百の親衛隊は、まるで巨大な一匹の鉄のムカデのように連結し、すべての障害を蹂躙していく。先頭を走る温羅の剛剣は、立ち塞がる大和の兵を盾ごと叩き割り、血路を文字通り「血の道」として切り開いていた。

その凄まじい突破力に、数万を誇る大和軍は完全に分断され、大混乱に陥った。たった五百の兵が、数万の軍勢を恐怖で支配したのである。


 *


血まみれの狂宴が繰り広げられる戦場からわずかに後方。

五十狭芹彦の本陣は、異常なほどの静けさを保っていた。

桃の軍旗の下、床几(しょうぎ)に腰掛ける若き将軍の顔には、焦りも恐怖もなかった。それどころか、彼は将軍としての重厚な青銅の鎧を脱ぎ捨てており、軽装の革鎧に身を包んでいた。その手には、妖しい艶を放つ漆塗りの「木刀」が握られている。

纏向(まきむく)の霊山で数百年を生きた桃の霊木から削り出された、呪術の太刀「桃木の太刀(とうぼくのたち)」である。

「芹彦様! 敵の夜襲です! 前線が突破されました、このままでは本陣が……どうかお逃げを!」

血まみれになった伝令が転がり込んできたが、五十狭芹彦はゆっくりと立ち上がり、闇の向こうから迫り来る怒号と金属音に耳を傾けた。

「逃げる必要はない。来たか、温羅よ。やはりお前は、干からびて死ぬのを待つような男ではなかったな」

「芹彦様!?」

「慌てるな。これは計算通りだ」

五十狭芹彦は、冷徹な声で言い放った。

「王が自ら、わずかな手勢で決死の夜討ちをかけてくる。それは、背後で『何か』を逃がしているという証拠だ。温羅め、あの要塞から通じる秘密の抜け道を持っていたか」

大和の将校たちは顔を見合わせた。

「ならば、すぐに山を捜索させますか!?」

「放っておけ。技術者や女子供をいくら殺そうと、大和の益にはならん。我々が欲しているのは、温羅の首と、彼がその身に刻み込んだ『王の権威』だけだ」

五十狭芹彦は、桃木の太刀を肩に担ぎ、天幕の外へ出た。

「全軍に退避を命じよ。温羅の部隊を、本陣の目前まで『通して』やれ」


本陣の前面。そこは、血吸川の河原に近い、草木も生えない荒涼とした空き地であった。

だが、ただの空き地ではない。そこは吉備のたたら炉から長年にわたって廃棄された「金くそ(鉄滓)」と呼ばれる不純物と、川の粘土質の泥が深く混ざり合った、特殊な「泥濘地(でいねいち)」であった。一見すると平らな地面に見えるが、踏み込めば底なし沼のように足を吸い込む、最悪の地形である。

五十狭芹彦は、初めからこの特異な地質を見抜き、温羅の夜討ちを想定して、意図的にこの場所に本陣(囮)を敷いていたのである。


やがて、闇を裂いて温羅の巨体が姿を現した。

全身に味方の血を浴び、二本の角の兜から猛烈な白い息を吐き出すその姿は、まさに冥府から蘇った悪鬼そのものであった。

「大和の将軍ッ!! どこにいる!!」

温羅の咆哮が響く。彼に続く五百の親衛隊は、桃の軍旗を見つけるや否や、最後の力を振り絞って猛然と突撃を開始した。

彼らは疑うことなく、本陣の前面に広がる平地へと足を踏み入れた。


ズブゥッ……!!

「なっ……!?」

先頭を走っていた温羅の兵たちの足が、不自然に止まった。

足首まで、いや、膝の近くまでが、一瞬にして赤黒い泥に飲み込まれたのである。鉄の小札を重ねた重装甲は、平地での乱戦や矢を防ぐには最強の盾であったが、この底なしの泥濘地においては、己の身体を地獄へと引きずり込む「重り」でしかなかった。

「足が……抜けない!」

「泥がまとわりつく……! まさか、たたら泥か!?」

温羅の兵たちが焦って足を抜こうと暴れれば暴れるほど、鉄滓混じりの粘土はさらに深く彼らを絡め取っていく。

無敵の快進撃を続けていた五百の鉄のムカデが、文字通り泥沼に縫い付けられ、完全にその機動力を失った。


「かかったな。鉄の重さに溺れるがいい」

五十狭芹彦は、冷酷な笑みを浮かべて右手を高く挙げた。

それと同時に、本陣の周囲の闇の中から、一斉にかがり火が焚き上げられた。明るく照らし出された泥濘地の周囲には、いつの間にか大和の精鋭弓兵部隊が、泥に足を取られた温羅軍を完全に包囲する形で展開していた。

そして、弓兵たちの背後には、大和の神官たちが数人がかりで抱え持つ、巨大な青銅の鐘――「銅鐸(どうたく)」がいくつも吊り下げられていた。

「鳴らせッ!!」

五十狭芹彦の号令が下った。


ゴォォォォォォンッ……!!


撞木(しゅもく)で激しく打ち鳴らされた銅鐸の音が、夜の戦場に響き渡った。

それは単なる鐘の音ではない。複数の巨大な銅鐸が同時に鳴らされることで生じる、複雑な共鳴(うねり)を持った異様な音響であった。古代の人々が神を降ろすために用いたその重低音は、人間の平衡感覚を狂わせ、内臓の底から恐怖を呼び起こす「音の兵器」であった。

「ぐああっ! 耳が……頭が割れる!」

泥に足を取られ、身動きが取れなくなった温羅の兵たちは、四方八方から押し寄せる銅鐸の共鳴音に完全に方向感覚を喪失した。聴覚を奪われ、闇の中で仲間同士の連携も取れず、ただ泥の中でもがくことしかできない。

五十狭芹彦の敷いた陣は、物理的な泥濘と、呪術的音響を組み合わせた、完璧なる「重装歩兵殺し」の罠であった。のちに温羅の首から響いたとされる「鳴釜神事(なるかましんじ)」の不気味な音の正体は、この凄惨な夜討ちで響き渡った、大和の銅鐸の共鳴音の記憶に他ならなかった。


「射て!!」

容赦のない矢の雨が、泥に足を取られた温羅軍へと降り注ぐ。

身動きの取れない兵たちは、盾を掲げることもできず、装甲の隙間を次々と射抜かれて泥の中に沈んでいった。先ほどまでの猛烈な夜襲の勢いは完全に消え去り、そこにあるのは、ただ一方的な処刑の光景であった。

「おのれ……大和の小賢しい真似をォォォッ!!」

次々と倒れていく同胞の姿に、温羅は血を吐くような咆哮を上げた。

彼は泥に膝まで浸かりながらも、その規格外の膂力(りょりょく)で強引に足を泥から引き抜き、一歩、また一歩と、凄まじい執念で五十狭芹彦の本陣へと迫ってくる。彼だけは、どれほど矢を受けようと、どれほど足を取られようと、決して止まらなかった。兜には数本の矢が刺さり、肩の装甲からは鮮血が噴き出しているにもかかわらず。


「……さすがは鉄の王だ。だが、これで最後だ」

五十狭芹彦は、傍らに控えていた従者から、彼自身の身の丈ほどもある大和の強弓を受け取った。

弦を引き絞る。

番えられたのは、一本の矢ではない。形状の異なる「二本の矢」が、同時に弦にセットされていた。

泥の中で咆哮を上げながら大太刀を振りかぶる温羅と、静寂の中で弓を構える大和の将軍。

燃え盛るかがり火と、狂気のように鳴り響く銅鐸の音響の中、歴史の分水嶺となる運命の「双矢(ふたつのや)」が、いま解き放たれようとしていた。


第二節 神話の双矢と左目の凶星


泥濘(でいねい)に足を取られ、無数の矢を浴びながらも、鉄の王・温羅(うら)の歩みは止まらなかった。

狂気のように鳴り響く銅鐸の音響空間の中にあって、彼だけは完全に正気を保ち、ただ一点――大和の総大将である五十狭芹彦(いさせりびこ)の首だけを見据えていた。

ズブッ、ズブッ……と、血吸川の泥が不気味な音を立てて温羅の足を吸い込む。常人であれば一歩踏み出すことすら不可能な粘土質の泥沼を、温羅は規格外の膂力(りょりょく)で強引に引き剥がし、前進を続ける。その巨体から発せられる熱気と殺気は、周囲の冷たい夜気を沸騰させるほどであった。


「……恐ろしい男だ。あれが、死地に立つ王の執念か」

五十狭芹彦は、五十歩の距離まで迫ってきた温羅の巨影を見据えながら、静かに息を吐いた。

大和の兵たちは、泥に沈んでいく温羅の親衛隊を次々と射殺していたが、大将である温羅にだけは容易に矢を当てられずにいた。分厚い鉄札の鎧と、二本の角を持つ特注の兜が急所を完全に保護しており、さらに彼が振り回す長大な鉄の環頭大刀(かんとうたち)が、飛来する矢を凄まじい風圧で叩き落としていたからだ。

五十狭芹彦は、傍らの従者から大和の至宝とも言える「強弓」を受け取った。木と獣の角、そして魚の膠(にかわ)を重ね合わせて作られた複合弓である。常人の腕力では弦を張ることすら難しい代物だ。


五十狭芹彦は、左手に弓を握り、右手で二本の矢を同時に番えた。

のちの桃太郎伝説において、「鬼が投げた岩に矢が弾かれたため、桃太郎は二本の矢を同時に射た」と語り継がれることになる、伝説の「双矢(ふたつのや)」の構えである。

しかし、それは決して神がかり的な奇跡などではない。五十狭芹彦が緻密に計算し尽くした、対重装甲用の「時間差と心理の死角」を突く狙撃術であった。

彼が番えた二本の矢は、まったく形状が異なっていた。

上側に番えられたのは、先端に穴の開いた巨大な木の実(蕪)を取り付けた重い「鏑矢(かぶらや)」。

下側に番えられたのは、極限まで細く削られた漆黒の矢柄に、針のように細く鋭い徹甲用の鉄鏃(てつやじり)を取り付けた「暗殺矢」。


「……死ね、温羅」

五十狭芹彦は、泥の中でもがきながら大太刀を振りかぶる温羅の兜の奥――その左目に狙いを定め、静かに弦から指を離した。


ビィンッ……!!


強弓から解き放たれた二本の矢が、夜の闇を一直線に切り裂いた。

ヒュルルルルゥゥゥゥッ!!

まず戦場を圧したのは、上側の「鏑矢」が放つ、鼓膜を劈(つんざ)くような甲高い風切り音であった。巨大な質量を持った鏑矢は、銅鐸の重低音さえもかき消すほどのすさまじい轟音を立てて、温羅の顔面へと迫る。

温羅は、暗闇の中でもその「音」と「迫り来る質量」に即座に反応した。

彼は泥に足を取られながらも、咄嗟に巨大な大太刀を盾の代わりに横に振り抜き、飛来する鏑矢を空中で叩き落とした。

ガキンッ!!

刃と巨大な矢が衝突し、暗闇に火花が散る。伝承にいう「岩と矢の空中衝突」の正体は、温羅の持つ巨大な鉄剣(岩のように重い刃)による迎撃であった。


「弾いたぞ! 温羅王が矢を叩き落とした!」

背後で泥に沈みかけていた温羅の兵たちが歓声を上げた。温羅自身も、大和の将軍の放った矢を見事に防ぎ切ったと確信し、再び前傾姿勢をとって突進を再開しようとした。

だが。

鏑矢の轟音と、それを迎撃した火花の残像。その「派手な陽動」の直後に生じた、ほんの一瞬の意識の空白。

そこへ、まったく音を立てず、空気の抵抗すらも切り裂いて飛来した「二本目の暗殺矢」が滑り込んできた。

無音の徹甲矢は、温羅が大太刀を振って兜の防御を解いたそのコンマ数秒の隙を、寸分の狂いもなく射抜いたのである。


「――ッ!?」

グチャッ、という生々しい水音が、温羅の兜の奥で鳴った。

温羅の巨体が、雷に打たれたようにビクンと跳ね上がった。

鉄の針のように鋭い鏃(やじり)が、兜の隙間から彼の「左目」に深々と突き刺さったのだ。眼球を貫き、脳髄の薄皮一枚にまで達する致命的な一撃。

「ガ、アアアァァァァァァァァッ!!」

温羅の喉から、言語を絶する絶叫が爆発した。それはもはや人間の声ではなく、手負いの巨大な獣が断末魔に上げる咆哮そのものであった。

凄まじい激痛と、突如として半分失われた視界。平衡感覚を完全に破壊された温羅は、ついにその巨体を支えきれず、血吸川の泥濘の中にドシャァッ!と両膝をついた。


「やった! 温羅を射抜いたぞ!」

「鬼が倒れた! 我らの勝利だ!」

周囲を取り囲んでいた大和の弓兵たちが、歓喜の声を上げて一斉に立ち上がった。銅鐸の音が止み、代わりに「桃太郎、万歳!」という熱狂的な叫びが夜空に木霊(こだま)する。

だが、弓を下ろした五十狭芹彦の顔に、喜びの色はなかった。彼の眼光は、泥に沈んだ巨影から片時も離れていない。

「……喚くな。まだ死んでおらん」

五十狭芹彦の冷ややかな声が、周囲の歓声を凍りつかせた。


泥濘の中心。

片膝をつき、うなだれていた温羅の巨体が、震えながら再びゆっくりと動き始めたのである。

「……おお……おおお……!」

温羅は、左目から夥しい血を噴き出しながら、自らの顔面に刺さった矢柄を太い指で掴んだ。そして、一切の躊躇なく、ブチィッ!と肉を裂く音とともにそれを引き抜いたのである。

眼球の破片と鮮血が泥に撒き散らされる。常人であればショック死してもおかしくない激痛。しかし、鉄の王は死ななかった。

温羅は血に染まった隻眼(せきがん)で、真っ直ぐに五十狭芹彦を睨み据えた。その瞳の奥には、裏の地下道から逃げていく民たちの未来を守るという、狂気じみた「王の執念」だけが燃えたぎっていた。


「見事だ……大和の将軍よォォォッ!!」

温羅は泥だらけの両足で大地を踏みしめ、再び立ち上がった。

そして次の瞬間、彼は大和の兵たちが信じられない行動に出た。身を守っていた分厚い鉄の装甲の革紐を引きちぎり、二本の角を持つ兜を自ら脱ぎ捨てたのである。

ガシャンッ、と何十キロもある鉄の武具が泥の中に落ちた。

防御を完全に捨て去り、軽装となった温羅は、泥の吸着力から解放された。片目から血を流す半裸の巨人が、右手に握った巨大な大太刀だけを引きずりながら、猛然と五十狭芹彦の本陣へと最後の突進を開始したのである。


「弓を引け! 撃てェッ!」

大和の将校が慌てて命令を下し、無数の矢が放たれる。

しかし、軽装となって驚異的な敏捷性を取り戻した温羅は、大太刀のひと振りで矢の雨を薙ぎ払い、防ぎきれなかった矢が肩や腹に突き刺さろうとも、歩みを一歩も緩めなかった。彼はすでに、自らの命をこの泥濘に置いていく覚悟を決めていた。痛みなど、もはや彼の進軍を止める理由にはならない。

瞬く間に、温羅は五十狭芹彦の眼前、わずか十歩の距離まで肉薄した。

「おのれ悪鬼め、芹彦様に近づけるか!」

近衛の兵たちが青銅の剣を構えて立ち塞がるが、温羅が横薙ぎに大太刀を振るうと、青銅の剣ごと三人の兵士の胴体が真っ二つに切断され、血の華が咲き乱れた。

いかなる陣形も、いかなる謀略も、この最後の一瞬においては無意味であった。すべてを削ぎ落とした「純粋な武」の結晶が、大和の若き将軍の首へ向けて振り下ろされようとしていた。


「下がれ。お前たちでは犬死にだ」

五十狭芹彦は、慌てふためく部下たちを背後へ退かせ、自らゆっくりと一歩前に出た。

「芹彦様! 危険です! どうかお下がりを!」

「相手はすべてを捨ててここまで来たのだ。大和の将として、それに正面から応えねば、吉備の統治などできまい」

五十狭芹彦は、弓を足元に捨て、腰に帯びていた一本の「太刀」に静かに手をかけた。

抜かれたそれは、青銅でもなく、鉄でもなかった。

夜闇よりも深く黒い艶を放つ、漆塗りの「木刀」であった。

纏向(まきむく)の霊山で切り出された桃の霊木。それを幾重にも削り出し、生漆(きうるし)を何十層にも塗り重ねて極限まで硬化させた、大和特製の「桃木の太刀(とうぼくのたち)」である。

金属同士の打ち合いに木の棒で挑むなど、狂気の沙汰にしか見えない。

だが、五十狭芹彦の目は、冷徹な物理法則を計算し尽くした科学者のそれであった。


(温羅よ。お前の鉄の剣は確かに強力だ。だが、弱点がないわけではない)

当時の初期の製鉄技術で作られた鉄器は、現代の鋼(はがね)のような柔軟性(粘り)を持っていなかった。炭素量の調整が不完全な古代の鉄は、極めて硬いが、同時にガラスのように「脆い」という致命的な欠陥を抱えていたのである。

温羅の大太刀は、連日の激戦で無数の青銅器や岩を叩き割り、すでに刃こぼれと目に見えない亀裂(金属疲労)を無数に抱え込んでいた。さらにこの冷え込んだ秋の夜の気温が、鉄の靭性(じんせい)を奪い、より折れやすい状態へと変質させている。

剛には剛ではなく、「柔」をぶつける。

桃の木の特有の「しなり」と、漆の滑らかな表面を利用して、温羅の剛剣を真正面から受けず、力を流して金属疲労を臨界点に達させる。それが、五十狭芹彦が編み出した、鉄の王を葬るための最後の切り札であった。


「大和の童ァァァッ!!」

左目から血の涙を流す温羅が、天地を割るような気迫とともに空中に跳躍した。

その巨躯から生み出される落下のエネルギーと、大太刀の重さが乗った、回避不能の渾身の一撃。まともに受ければ、青銅の盾はおろか、巨岩でさえも両断されるであろう必殺の振り下ろし。

五十狭芹彦は、逃げなかった。

彼は深く腰を落とし、桃木の太刀を両手で握り締め、夜空から迫り来る鉄の刃に向かって、真っ向から斬り上げた。

吉備の科学の結晶たる「鉄」と、大和の呪術の象徴たる「桃」。

歴史の裏側に隠された、真なる鬼退治の決着が、いま血塗られた泥濘の上で交差しようとしていた。


第三節 砕け散る剛剣と柔の太刀


天から地へと叩きつけられる、圧倒的な質量の暴力。

温羅(うら)の巨躯から生み出される鉄の環頭大刀(かんとうたち)の振り下ろしは、空気を圧縮し、凄まじい風切り音となって五十狭芹彦(いさせりびこ)の頭上へ迫った。まともに受ければ、人体など泥ごと真っ二つに両断される絶死の一撃である。

しかし、五十狭芹彦の目は完全にその太刀筋を見切っていた。

彼は決して、剛に対して剛で応えようとはしなかった。深く沈み込んだ体勢から、漆塗りの「桃木の太刀」を斜め上へと突き出すように構える。

激突。

ガギィィィンッ!!

金属同士の衝突とは異なる、異様に甲高い音が夜の戦場に響き渡った。

大和の兵たちが、彼らの将軍が肉塊に変わることを予感して悲鳴を上げた瞬間、信じられない光景が繰り広げられた。

桃の木刀は、折れなかった。

温羅の剛剣が叩きつけられた瞬間、霊木から削り出された太刀は、まるで生き物のようにぐにゃりと「しなった」のである。物理的な衝撃エネルギーが、木材特有の柔軟性によって吸収されていく。

さらに、太刀の表面に何十層にも塗り重ねられた「生漆(きうるし)」の極めて硬く滑らかな皮膜が、決定的な役割を果たした。温羅の鉄剣は、漆の表面で「滑った」のだ。

力任せに振り下ろされたエネルギーは、桃の太刀の斜めの角度と漆の滑りによって軌道を逸らされ、五十狭芹彦の横の泥濘(でいねい)へとドゴォッ!と虚しく叩きつけられた。


「……な、に!?」

温羅の左目(隻眼)が、驚愕に見開かれた。己の全力の一撃が、ただの木の棒に受け流されたという事実が、歴戦の王の理解を超えていた。

「これが、大和の『桃』だ」

五十狭芹彦は、衝撃で痺れる両腕の痛みを顔に出すことなく、冷徹に言い放った。

泥にめり込んだ大太刀を温羅が引き抜こうとする一瞬の隙。しなりきっていた桃木の太刀が、反発力とともに元の形状へと跳ね返る。その勢いを利用して、五十狭芹彦は太刀を翻し、温羅の無防備な胸板へと鋭い刺突を放った。

ドスッ!

鈍い音が鳴り、温羅の巨体がわずかに後ずさった。防具を捨てたその分厚い胸の筋肉に、木刀の先端が浅く突き刺さり、一筋の血が流れる。

「おおおおおッ!!」

だが、温羅は怯まなかった。むしろ己の死期を悟った獣のように、さらなる猛攻へと転じた。

泥を蹴り上げ、薙ぎ払い、突き、唐竹割り。一撃必殺の鉄の嵐が、五十狭芹彦を幾重にも包み込む。

しかし、五十狭芹彦はそのすべてを、最小限の動きで回避し、あるいは桃木の太刀で「滑らせて」受け流し続けた。


この泥濘地(でいねいち)こそが、五十狭芹彦の最大の味方であった。

装甲を捨てたとはいえ、温羅の巨体と筋力は、柔らかい泥の反発を吸収してしまい、足の踏み込みがわずかに遅れる。対する五十狭芹彦は軽装であり、泥の上を滑るような特殊な足運び(大和の舞の歩法)によって、温羅の死角へと常に回り込んでいた。

キンッ! ガァンッ!

打ち合うたびに、温羅の鉄剣から不気味な高音が発せられる。

(……聞こえるぞ。鉄の悲鳴が)

五十狭芹彦は、激しい攻防の中で冷徹に「音」を分析していた。

温羅のもたらした初期のたたら製鉄は、大陸の最新技術とはいえ、現代の鋼(はがね)のような洗練された品質には至っていない。炭素の含有量が不均一な古代の鉄は、驚異的な「硬度」を持つ反面、衝撃を逃がす「靭性(粘り)」に欠けていた。

青銅の剣を砕き、岩を切り裂いてきたこれまでの連戦。さらに、この秋の夜の急激な冷え込み。それらが温羅の大太刀に、目に見えない無数の「亀裂(金属疲労)」を蓄積させていたのだ。

五十狭芹彦が桃木の太刀で狙っていたのは、温羅の肉体ではない。大太刀の刀身の腹(平)の部分であった。まともに刃を打ち合わせるのではなく、側面から叩くことで、鉄に不自然な振動を与え、内部の亀裂を致命的なものへと拡大させていく。


「逃げるなァッ! 大和の将軍ッ!!」

温羅の咆哮が響く。彼の左目から流れる血はすでに顔半分をどす黒く染め上げ、失血による限界が刻一刻と近づいているのは明白だった。

それでも彼の剣撃の威力が落ちないのは、ひとえに「背後の民を逃がすための時間を稼ぐ」という、王の強烈な執念があるからだ。

「温羅。お前は強い。だが、その強すぎる『剛』ゆえに、自ら砕ける運命なのだ」

五十狭芹彦は、あえて一歩前に出た。

温羅の隻眼に、一瞬の歓喜が宿った。「勝負に出たか」と。

温羅は、残された全生命力を両腕に込め、大太刀を真横に構えた。泥を蹴り、体を大きく捻り、必殺の水平斬りを放つ。空気を両断する凄まじい轟音が響き、不可避の鉄の刃が五十狭芹彦の胴体を薙ぎ払おうと迫る。


だが、五十狭芹彦は退かなかった。

彼は桃木の太刀を縦に構え、自ら温羅の大太刀の「側面」に向かって、渾身の力で打ち込んだ。

一点集中。

極限まで金属疲労を起こし、振動の限界点に達していた古代鉄の刀身。そこへ、硬化した漆と霊木の弾力を持った太刀が、完璧な角度で叩きつけられた。


パァァァァァァァンッッ!!!


戦場にいるすべての者の動きを止めるほど、甲高く、そして美しい破砕音が夜空に響き渡った。

温羅の手元から、凄まじい衝撃が弾けた。

無敵を誇った吉備の鉄剣が、真っ二つに折れ、砕け散ったのである。

刃の破片が星屑のように闇夜に散る。大和の青銅を嘲笑い、圧倒的な武威を示してきた剛剣は、木の棒が持つ「柔の理」の前に、ついにその命脈を絶たれた。


「――っ!?」

武器を失い、完全に体勢が崩れた温羅。その巨躯が、無防備なまま泥の上に投げ出される。

五十狭芹彦は、大太刀をへし折った桃木の太刀をそのまま引き戻さず、弾力による「跳ね返り(リバウンド)」の力を利用して、手首を鋭く返した。

太刀の切っ先が、闇を穿つ。

それは、大和の若き将軍が下した、吉備の戦乱の終止符であった。


ドスッ。

鈍く、しかし確かな肉を貫く音が響いた。

桃木の太刀の先端は、温羅の分厚い大胸筋を突き破り、その心臓の直上――肺の奥深くへと深々と突き刺さっていた。

漆でコーティングされた木刀は、鉄の刃のように滑らかに肉を滑り、王の巨体を泥濘へと縫い止めた。


「…………ガ……ァ……」

温羅の口から、大量の鮮血が吐き出された。

折れた鉄剣の柄を握りしめたまま、彼はゆっくりと、信じられないものを見るような目で、自らの胸に突き刺さった黒い木刀を見下ろした。

神仏の呪いでもなく。

圧倒的な武力でもなく。

大和という国が、自らの弱さを知り尽くし、知略と科学で練り上げた「一振りの木」。それが、吉備の鉄の王を打ち倒したのだ。


周囲で息を呑んで見守っていた大和の兵たちも、温羅の親衛隊も、完全に動きを止めていた。

血吸川の泥濘は静まり返り、風の音だけが虚しく吹き抜けていく。

五十狭芹彦は、太刀を握る手に力を込めたまま、至近距離で温羅の隻眼を見つめ返した。その目には、勝利の歓喜も、敵への憎しみもなかった。ただ、一人の偉大な英傑の最期を看取る、静謐(せいひつ)な覚悟だけが宿っていた。


「勝負は、ついたぞ。吉備の王よ」

五十狭芹彦の静かな声が、夜気に溶け込むように響いた。

膝から崩れ落ち、泥の中に沈んでいく温羅。しかし、その顔に浮かんでいたのは、無念の表情ではなかった。

彼は、自らの命が尽きるまでのこの短い時間が、背後の同胞たちをどれだけ遠くへ逃がせたかを計算しているようであった。

赫き血吸川での死闘は、ついにその決着の時を迎えた。残されたのは、敗れ去る者と、それを討ち果たした者が交わす、歴史の表舞台には決して語られることのない「最後の言葉」だけであった。


第四節 泥の中の誓いと王の最期


血吸川(ちすいがわ)の泥濘(でいねい)に、深く、重々しい音が響いた。

胸を貫かれた温羅(うら)の巨体が、ついにその重みを支えきれず、ゆっくりと膝をついた音であった。大太刀を失い、兜を脱ぎ捨て、半裸となった鉄の王は、自らの血で赤黒く染まった泥の中に力なく両腕を垂らした。

狂乱の只中にあった戦場に、嘘のような静寂が訪れていた。

大和の兵も、犬飼(いぬかい)の戦士たちも、そして生き残ったわずかな温羅の親衛隊も、誰も声を発することができなかった。ただ、夜風が吹き抜ける音と、温羅の胸の傷口から血が滴る水音だけが、耳痛いほどに響き渡っている。


五十狭芹彦(いさせりびこ)は、温羅の胸から静かに桃木の太刀(とうぼくのたち)を引き抜いた。

太刀の先端からどす黒い血が滴り落ちる。五十狭芹彦は油断なく間合いを保っていたが、もはや再び刃を交える必要がないことは、彼の冷徹な目が一番よく理解していた。温羅の心臓の鼓動はすでに乱れ、肺は自らの血で満たされつつある。生命の灯火が消え去るのは、時間の問題であった。

「……見事だ……大和の若き鷹よ……」

温羅の口から、血の泡とともに掠れた声が漏れた。

それは、恨み言でも、敗者の命乞いでもなかった。すべてを出し尽くし、ただひとつの執念を果たし終えた者の、どこか晴れ晴れとした響きさえ帯びていた。

温羅は、矢に貫かれた左目から夥しい血を流しながら、残された右目で五十狭芹彦を真っ直ぐに見上げた。


「お前の目には……俺が、人を食らう『悪鬼』に見えるか?」

自嘲気味に口の端を歪める温羅。大和の神官たちが流布したプロパガンダ、そして、五十狭芹彦自身が兵を扇動するために利用してきた「鬼退治」の大義名分。

五十狭芹彦は、漆黒の太刀を下ろし、ゆっくりと首を振った。

「いや。お前は悪鬼などではない」

五十狭芹彦の顔から、大和の将軍としての冷徹な仮面が剥がれ落ちていた。そこにあるのは、ひとりの人間として、目の前の偉大な英傑に最大の敬意を払う若者の素顔であった。

「お前は民を愛し、不毛の泥から鉄を育て、この吉備の地を列島随一の豊かな国へと作り上げた。大和の王たちなど足元にも及ばぬ、真に偉大なる王だ」

その言葉を聞いた瞬間、温羅の険しい顔からスッと力が抜け、初めて穏やかな笑みが浮かんだ。

巨体が、前へと傾く。泥の中に倒れ伏そうとするその身体を、五十狭芹彦は一歩前に踏み出し、自らの身を挺して抱き止めた。

血まみれの巨躯は恐ろしく重かった。その重さこそが、温羅が吉備という国を背負ってきた責任の重さそのものに思えた。五十狭芹彦の革鎧が、敵将の温かい血で濡れていく。大和の総大将が敵の王を抱きかかえるという異常な光景に、周囲の兵たちは息を呑んだが、五十狭芹彦は誰の視線も意に介さなかった。


「……ならば、頼む……」

温羅は、五十狭芹彦の腕の中で、最後の力を振り絞って語りかけた。その手から滴る血が、五十狭芹彦の腕に熱く絡みつく。

「この吉備の地を……我が民を……お前が守ってくれ……」

「温羅……」

「大和の王どもは……『鉄』を、人を殺し、他国を侵略するための武具としか思わぬ。だが、違うのだ。鉄の真の姿は……剣や矛ではない」

温羅の脳裏には、彼が海を渡ってこの地にやってきた日の光景が浮かんでいた。痩せた土地に苦しむ民たちに、初めて鉄の鍬(くわ)を与えた時の、彼らの歓喜の顔。木を切り倒し、荒れ地を開墾し、豊かな稲穂が風に揺れた秋の景色。

「鉄の真の姿は、硬い土を耕すための鍬だ。民の飢えをなくし、国を富ませるための……命の道具なのだ。大和の欲望のままに、吉備の『たたらの火』を……殺戮の炎に変えないでくれ……」


それは、外来の王としての限界を悟りながらも、愛する民の未来を託す、血を吐くような懇願であった。自らを滅ぼした敵に対して、最も大切なものを委ねる。それは五十狭芹彦という男の器を、死闘の中で誰よりも深く理解した温羅だからこそできる決断であった。

五十狭芹彦は、温羅の重みをその腕にしっかりと受け止めながら、決して目を逸らすことなく力強く頷いた。

「大和の神ではなく、私の名において誓おう」

若き将軍の声は、夜の闇に静かに、しかし絶対の確信を持って響いた。

「吉備の鉄の火は、決して絶やさない。お前の築いた国と民は、この五十狭芹彦が、命に代えても守り抜く。大和の中央政権を欺いてでも、必ずだ」


「……ふっ……。見事な……反逆者よ……」

温羅は満足げに喉の奥で笑った。

「ならば……俺の首を、持っていけ……。大和の愚かな王どもに、『恐ろしい悪鬼を討ち取った』と……誇らしげに示してやれ……」

温羅は、自らの死さえも、吉備を守るための政治的道具(プロパガンダ)として利用しろと言っているのだ。彼が吉備から姿を消すことで、大和の中央政府は溜飲を下げ、吉備への執着を解く。

「俺の屍を……お前が吉備を守るための……強固な『盾』にしろ……。頼んだぞ、桃の……童……」

それが、温羅の最期の言葉であった。

大きく開かれていた隻眼がゆっくりと閉じられ、肺を満たしていた最後の息が、深い安堵のため息となって夜風に溶けていった。

五十狭芹彦の腕の中で、温羅の巨躯から完全に力が抜け、ただの重い肉の塊となった。吉備に比類なき繁栄をもたらした渡来の英傑、鉄の王・温羅は、ここにその数奇で壮絶な生涯を閉じたのである。


五十狭芹彦は、温羅の亡骸を泥の上に静かに横たわらせた。

そして、傍らに落ちていた「桃の軍旗」を拾い上げると、無言のまま、王の顔を覆うようにそっと被せた。それは、悪鬼として歴史に葬られる男への、五十狭芹彦なりの最大の弔意であった。

立ち上がった五十狭芹彦を、数万の視線が取り囲んでいた。

五十狭芹彦は、自らの血塗られた太刀を鞘に納め、戦場全体を見渡すように声を張り上げた。

「戦は終わった!!」

その一声が、銅鑼の音よりも鋭く夜空を引き裂いた。

「吉備の王・温羅は、この五十狭芹彦が討ち取った! すでに勝敗は決した! これ以上の無益な血を流すことは、大和の将として断じて許さん!!」


五十狭芹彦の宣言を聞き、泥の中で身構えていた温羅の親衛隊たちは、次々とその手に持っていた武器を泥の中に投げ捨てた。彼らは王の死を悼み、その場に膝をついて静かに涙を流し始めた。彼らもまた、温羅が自らの命を捨てて何を守ろうとしたのかを、痛いほどに理解していたのである。

犬飼族の長、犬飼健もまた、血塗られた剣を収め、温羅の亡骸に向かって深く、深く頭を下げた。彼ら在地豪族にとって、大和に寝返ったとはいえ、温羅はかつての主君であり、恩人であることに変わりはなかった。

狂乱の殺し合いは終わり、戦場には生き残った者たちの安堵と、失われた命への哀悼の静寂だけが残された。


五十狭芹彦は、歓声を上げる大和の兵たちに背を向け、一人、北の夜空を見つめていた。

鬼城山(きのじょうざん)のさらに奥、深い森が続く吉備の北部の山々。

五十狭芹彦の脳裏には、暗闇の地下道を抜け、必死に山中へと逃げ延びていく数千の工人とその家族たちの姿が、はっきりと浮かんでいた。

(行け。吉備の民よ)

彼は心の中で静かに語りかけた。

温羅の「最後の夜討ち」の真の目的――それは大和の目を引きつけ、彼らを逃がすための陽動であった。五十狭芹彦はそれに気づきながらも、一切の追手を放たなかった。大和の将軍としての任務には背く行為である。中央に知られれば、彼自身の首が飛びかねない重大な反逆(あるいはサボタージュ)であった。

だが、五十狭芹彦にはもう迷いはなかった。

大和の武威を示すための戦争は終わった。ここから先は、吉備の豊かな技術と民を守り抜きながら、大和の中枢をいかに欺き続けるかという、五十狭芹彦自身の「孤独な政治戦」が始まるのである。温羅と交わした泥の中の誓いが、彼の生涯を決定づける重い呪縛であり、そして誇りとなった。


東の空が、わずかに白み始めていた。

長かった血の夜が明けようとしている。三輪山(みわやま)の背後から昇る太陽の光が、赤黒く染まった血吸川の水面を照らし出し、吉備の平野を包み込んでいく。

のちに「桃太郎」として神話にその名を刻まれる若き将軍は、冷たい朝風に吹かれながら、歴史の転換点に一人立ち尽くしていた。

武力と技術が激突した苛烈な戦記は幕を下ろす。しかし、真の闘いはこれから始まる「戦後処理」と「歴史の改竄(かいざん)」の闇の中にこそ存在していた。


【第五章 鳴釜の神話】

第一節 偽りの戦勝報告と新たな密約


赫(あか)き血吸川(ちすいがわ)での凄惨な死闘から、十日の月日が流れた。

吉備の空は、開戦前には想像もできなかったほどの抜けるような青空を取り戻していた。昼夜を問わず山頂から吐き出されていた「たたら炉」の黒煙が完全に消え去ったためである。秋の澄んだ空気が平野を包み、川の水も赤褐色の濁りをわずかに薄めつつあった。

大和の陣営は、連日連夜の戦勝の宴に沸き返っていた。

「化け物を討ち取ったぞ!」「我ら大和の勝利だ!」

農民兵たちは、恩賞として配られたわずかな酒を酌み交わし、泥と血に塗れた恐怖の記憶を、狂騒によって上書きしようとしていた。彼らの目には、大将である五十狭芹彦(いさせりびこ)が掲げた「桃の軍旗」こそが、真に悪鬼を退けた神聖なる力として映っていた。


しかし、その熱狂の中心にあるべき若き将軍の陣幕は、冷え切った静寂に包まれていた。

五十狭芹彦は、陣幕の奥に設えた簡素な文机(ふづくえ)に向かい、筆を手にしていた。硯(すずり)の墨をたっぷりと含ませ、真新しい木簡(もっかん)に文字を書き連ねていく。

それは、大和の中枢・纏向(まきむく)の朝廷へ送るための「公式な戦勝報告書」であった。


『――吉備に巣食う温羅(うら)という賊は、身の丈一丈(約三メートル)を超え、頭には牛のごとき二本の角を生やし、口から炎を吐いて人を食らう悪鬼であった。大和の軍勢は苦戦を強いられたが、神聖なる桃の加護と大王の御威光により、この五十狭芹彦が激戦の末に首を討ち取った……』


筆を滑らせながら、五十狭芹彦の胸中には苦い嘲笑が渦巻いていた。

誇張と虚偽にまみれた、あまりにも露骨な作り話である。

温羅は人を食う化け物などではない。誰よりも民を愛し、鉄という理(ことわり)で国を豊かにした偉大な王であった。しかし、五十狭芹彦はあえて温羅を「人智を超えた凶悪な化け物」として描写した。

大和の朝廷は、異民族やまつろわぬ者たちを討伐する際、常に彼らを「鬼」や「土蜘蛛(つちぐも)」といった異形の存在としてプロパガンダする。正義の中央政府が、野蛮で邪悪な化け物を退治したという分かりやすい構図(神話)こそが、民を統治するための最も強力な呪術だからだ。


『――また、朝廷より命じられていた「鉄の製法」および、それに携わる渡来の工人たちについて報告す。悪鬼・温羅は死の直前、自らの居城である鬼ノ城(きのじょう)に火を放った。数千の工人たちは大和への服従を拒み、たたら炉の技術を記した木簡もろとも、炎の中に身を投じて自害した。よって、大和が吉備の製鉄技術を接収することは不可能となった……』


そこで筆を止め、五十狭芹彦は木簡に息を吹きかけて墨を乾かした。

これが、五十狭芹彦が大和の中枢に対して仕掛けた最大の「反逆」であった。

温羅が命を賭して逃がした数千の技術者と民たちは、今頃、楽々森(ささもり)族の案内によって吉備北部の深い山岳地帯にある秘密の鍾乳洞や、谷間の隠れ里へと身を潜めているはずである。五十狭芹彦は、彼らが「全員死んだ」ことにして籍を抹消し、大和の捜索の手から完全に匿(かくま)う決断を下したのだ。


「……ずいぶんと、大胆な嘘を書き連ねたものだな。大和の将軍よ」

ふいに、陣幕の入り口から声がした。

見れば、吉備の「三つの牙」――犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、そして留玉臣(とめたまおみ)の三人が、人払いされた天幕の中へと足を踏み入れてくるところであった。

三部族の長たちは、もはや敵に対する警戒心を解いていた。しかし、大和への絶対的な服従を示すような卑屈さもない。彼らの目にあるのは、共にひとつの「途方もない秘密」を共有した共犯者としての、奇妙な連帯感であった。


「大和の朝廷は、この童話のような報告書を信じるのか?」

留玉臣が、文机の上の木簡を一瞥して冷ややかに問うた。

「信じるさ。いや、信じるしかないのだ」

五十狭芹彦は木簡を漆塗りの箱に収めながら答えた。

「大和は『事実』など求めてはいない。大王の権威が高まり、厄介な反乱分子が消滅したという『結果』だけがあればいい。悪鬼が強大であればあるほど、それを討った大和の力もまた強大であると民に示せる。朝廷の連中は、喜んでこの『桃太郎の鬼退治』の神話を列島中に広めるだろう」

「クックック。なるほど、死人に口なし、歴史は勝者の都合の良いように書き換えられるというわけか」

楽々森彦が、深い皺に囲まれた目を細めて笑った。

「だが、鉄の工人どもが全滅したという嘘は、いずれ必ず綻びが出るぞ。吉備から鉄の献上がなくなれば、大和の役人どもが不審に思い、必ず査察官を送り込んでくる」

「そのために、お前たちを呼んだのだ」


五十狭芹彦は立ち上がり、三人の豪族の長を真っ直ぐに見据えた。

「これより、我々は吉備を大和の搾取から守るための『偽装の統治』を開始する。お前たち三部族には、大和の忠臣として振る舞いながら、吉備の裏側で温羅の遺した『鉄の種』を育て、守り抜いてもらう」

五十狭芹彦は、懐から三つの真新しい「木簡」を取り出し、それぞれの長に手渡した。

「これが、我ら四人の間で結ぶ、真の密約だ」


「犬飼健」

「……応」

「お前は平野部の治安維持を担え。大和から派遣される査察官や役人を接待し、同時に強固な軍備で彼らを威嚇しろ。『山にはまだ鬼の残党(化け物)が潜んでおり、危険で立ち入れない』という口実を作り、大和の目を北の深山から完全に逸らすのだ。お前の猛犬ならば、余計な詮索をする者の足止めなど容易かろう」

健は、手渡された木簡を力強く握りしめた。

「承知した。俺が吉備の表の門番となろう。大和の狐狸(こり)どもに、吉備の土は一歩も踏ませぬ」


「楽々森彦」

「猿の役目は、地下の炉の管理だな?」

「その通りだ。お前の一族の縄張りである深山に、逃げ延びた工人たちの集落を作れ。大和の監視を逃れ、煙の出ない小さな『たたら炉』を分散して築き、密かに鉄の生産を再開させるのだ。同時に、吉備全土の情報網を張り巡らせ、大和の不穏な動きがあれば即座に私へ知らせよ」

「造作もないことよ。山の闇は、大和の太陽の神とて見通せはせん」

老獪な猿は、ニヤリと笑って木簡を懐に滑り込ませた。


「そして、留玉臣」

五十狭芹彦は、最後に若き女族長へ向き直った。

「お前の水軍が、この計画の要となる。楽々森族が山で打った鉄を、お前の船団で秘密裏に瀬戸内海へ運び出せ。大和には隠したまま、西の出雲(いずも)や筑紫(つくし)の国々と独自の交易網を築き、吉備を経済的に自立させるのだ。大和の経済封鎖を無力化し、吉備の民を二度と飢えさせないための、裏の血脈となれ」

留玉臣は、渡された木簡を見つめたまま、しばらく沈黙していた。

やがて、彼女は顔を上げ、射抜くような眼差しを五十狭芹彦に向けた。

「……なぜだ」

「なぜ、とは?」

「お前は、大和の将軍だろう。大王の血を引く貴族だろう。なぜ、敵であった温羅の遺志を継ぎ、自国の朝廷を裏切ってまで、我々吉備の民を守ろうとする? 万が一この密約が露見すれば、お前は一族もろとも処刑されるのだぞ」


陣幕の空気が張り詰めた。犬飼健も楽々森彦も、その答えを待つように五十狭芹彦を見つめている。

五十狭芹彦は、陣幕の隙間から見える吉備の青空へと視線を向けた。

「……血吸川の泥の中で、温羅が最後に私に何を言ったか、お前たちは知っているか」

静かな声だった。

「彼は『鉄は人を殺す武器ではない、土を耕し民を養うための命の道具だ』と言った。そして、自らの死を盾にして、私に吉備の未来を託して逝ったのだ」

五十狭芹彦は、腰に帯びた黒い「桃木の太刀」の柄を撫でた。

「私は、武力では温羅に勝てなかった。大和の呪術と謀略を尽くして、ようやく彼を殺すことができた。だが、王としての『器』と『誇り』においては、私はあの男に完敗したのだ。……この国は、彼が命を賭して守り抜いた国だ。大和の腐りきった権力闘争の犠牲にしていい土地ではない」

若き将軍の目には、かつての冷徹な策士の面影はなく、ひとりの為政者としての強靭な覚悟が宿っていた。

「私は大和の将軍としての名誉などいらん。歴史には、化け物を退治した空虚な英雄として名が残ればそれでいい。だが、私の命は、今日より吉備のためにある」


その言葉に、留玉臣の瞳がわずかに潤んだ。彼女は深く息を吸い込み、毅然とした態度で頭を下げた。

「……承知した。留玉の水軍は、吉備の海を死守しよう。我が命に代えても」

犬飼健と楽々森彦もまた、無言のまま五十狭芹彦に向かって深々と平伏した。


ここに、真の「吉備の盟約」が結ばれた。

大和という強大な支配者に表向きは恭順しながら、裏では独立した技術と経済を維持し続ける「見えざる鉄の王国」。

彼らは決して歴史の表舞台に出ることはない。大和の歴史書(記紀)には、五十狭芹彦が「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」として赴任し、温羅という鬼を平定したという輝かしい武勲のみが記されることになるだろう。

しかし、吉備の民たちの間では、密かに、そして大切に語り継がれていくはずであった。真に国を愛した「赫き鉄の王」の存在と、彼を看取り、吉備の土となった大和の若き反逆者の物語を。


すべてが片付き、三部族の長たちが天幕を辞した後。

五十狭芹彦は一人、陣幕の外へと歩み出た。

西の風が、秋の匂いを運んでくる。かつて焦げた鉄と血の匂いが充満していたその風は、いまや新しい季節の訪れを告げる清冽なものであった。

五十狭芹彦は、吉備の山々に向かって静かに目を閉じた。

彼の戦いは、剣から政(まつりごと)へと形を変え、生涯続くことになる。

歴史の闇に葬られた「桃太郎の鬼退治」――その戦後処理の幕開けであった。


第二節 大地を揺らす怨嗟の音


赫(あか)き血吸川(ちすいがわ)の死闘から、三年という歳月が流れた。

吉備の地は、表面上は大和王権の完全な支配下に入った。五十狭芹彦(いさせりびこ)は、大王より新たに「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」という名を与えられ、この広大な西国の統治権を正式に認められた。

彼が吉備平野の要衝に築いた巨大な居館は、のちに吉備津神社と呼ばれることになる壮麗な建築物であった。その庭の片隅には、厳重な注連縄(しめなわ)で封印された小高い塚がある。大和への報告によれば、そこに「悪鬼・温羅(うら)の首」が深く埋められているとされていた。


秋の深まりを感じさせるある日、大和の中枢・纏向(まきむく)から、一人の特使が吉備津彦の居館を訪れていた。

大和の有力な氏族から遣わされた査察官(目付)である。彼は豪奢な青銅の装身具をじゃらじゃらと鳴らしながら、上座に座る吉備津彦に対して傲慢な態度で言い放った。

「吉備津彦命よ。大王様は、この吉備の復興がいささか遅すぎるのではないかと案じておられる。温羅という化け物を平定して三年。いまだに大和への『鉄』の献上が、かつての十分の一にも満たないとはどういうことか」

「申し訳ないことだ。だが、特使殿も吉備の山々を見られたであろう。温羅の乱によって山は焼け、たたら炉の技術を持つ者たちは悉く炎に巻かれて死に絶えた。残されたわずかな工人をかき集め、細々と農具を打たせるのが精一杯なのだ」

吉備津彦は、冷たい茶をすすりながら平然と嘘をついた。


「ふん。大和の朝廷では、吉備の在地豪族どもが鉄を隠し持っているのではないかと噂されているぞ。特に、あの犬飼(いぬかい)とかいう野蛮な部族だ」

特使が不満げに鼻を鳴らしたその時である。

「――誰が野蛮だと言うのかな、大和の狐殿」

広間の襖(ふすま)が乱暴に開け放たれ、巨犬を引き連れた犬飼健(いぬかいたける)がのっそりと姿を現した。その顔の深い傷跡と、血の匂いを染み込ませたような凄まじい威圧感に、特使は思わず青ざめて後ずさった。

「犬飼健。特使殿に対して無礼であろう」

吉備津彦が形式的に窘(たしな)めるが、健は悪びれる様子もなく特使の前にどかと胡座(あぐら)をかいた。

「俺は大和の命令通り、この吉備の平野を命懸けで守っている。特使殿、吉備の山を甘く見るな。温羅は死んだが、北の深山にはまだ鬼の瘴気(しょうき)と、毒を持った残党どもがウヨウヨと這いずり回っているのだ。鉄が欲しければ、あんたが自分で山に入って探してみるか? 俺の犬の餌が一つ増えるだけだがな」

「ひっ……! な、なんと野蛮な!」


特使は震え上がり、吉備津彦に助けを求めるように視線を向けた。

「健の言う通りなのだ、特使殿。吉備の深山はまだ大和の神の御威光が届いておらず、極めて危険だ。貴殿のような高貴な御方を、死地に赴かせるわけにはいかない」

「わ、わかった! 今日のところは館に下がる! だが、明日には必ず採掘所跡を案内してもらうからな!」

特使は逃げるように広間から立ち去った。

その背中が見えなくなると、犬飼健は大きく息を吐き、傍らの犬の首を撫でた。

「……やれやれ。大和の役人というのは、青銅の剣よりも肝が脆い。あんな輩が定期的にやってくるのでは、気が休まらんぞ、吉備津彦よ」

「苦労をかけるな、健。だが、ああして山への恐怖を植え付けておけば、連中が自ら北の深山へ足を踏み入れることは決してない」

吉備津彦の言葉通り、大和の査察官を威嚇し、山間部から遠ざけることこそが、犬飼族に課せられた「表の防波堤」としての役割であった。


その夜。

吉備津彦の居館の離れに滞在していた特使は、寝酒を煽りながら大和への報告書をどう書き立ててやろうかと苛立っていた。

(ええい、忌々しい。吉備津彦の奴め、あの野蛮な犬飼族を飼い慣らすどころか、言いなりになっているではないか。やはり吉備は呪われた地だ……)

夜も更け、特使が眠りにつこうとしたその時である。


ゴォォォォォォォ……。


不意に、地の底から湧き上がるような、低く不気味な音が夜空に響き始めた。

「な、なんだ……!?」

特使は跳ね起きた。地震かと思ったが、建物は揺れていない。

しかし、床下から、あるいは大地そのものから、重々しい唸り声のような震動が伝わってくるのだ。

ブォォォォン……ゴォォォォォン……。

それは巨大な釜で湯が沸き立つ音にも似ており、あるいは巨大な獣――例えば、首だけになった悪鬼が、泥の底で血を吐きながら怨嗟(えんさ)の咆哮を上げているかのようであった。

「まさか……昼間、犬飼の男が言っていた『鬼の瘴気』か!? 温羅の首が……化け物の首が、大和を恨んで鳴いているのかッ!」

当時の大和の貴族たちは、呪術や怨霊というものを物理的な脅威と同等、あるいはそれ以上に恐れていた。特使は恐怖に顔を引き攣らせ、毛布を被ってガタガタと震え続けた。

翌朝、特使は血走った目で吉備津彦の前に現れるや否や、「吉備は未だ悪鬼の呪いに満ちた不浄の地である」と叫び、護衛の兵を連れて逃げるように大和へと帰っていった。


 *


「――帰りましたな。尻尾を巻いて」

特使の行列が東の山道へと消えていくのを見届けながら、居館の屋根の上に音もなく姿を現した楽々森彦(ささもりひこ)が、カッカッカッと笑い声を上げた。

「ああ。これで大和の中枢には『吉備には温羅の怨念が渦巻いており、大和の貴族が長居すれば呪い殺される』という噂が広まるだろう。彼らが直接吉備を統治しようという野心を削ぐには、最高の宣伝(プロパガンダ)だ」

吉備津彦は、庭の片隅にある「温羅の首塚」を見つめながら静かに言った。

大和の特使を震え上がらせた、大地から響く不気味な唸り声。のちに吉備津神社の「鳴釜神事(なるかましんじ)」として伝説に残るその音の正体は、もちろん悪鬼の呪いなどではない。


「猿の翁よ。今夜の『火加減』は、ずいぶんと激しかったのではないか?」

「クックック。大和の狐を脅かしてやろうと、工人どもがいつもより余計にフイゴを踏みおったのよ」

吉備津彦と楽々森彦は、顔を見合わせて微かに笑った。

吉備の北部は、太古の昔から石灰岩が侵食されてできたカルスト台地であり、地中には網の目のように複雑な「鍾乳洞」が広がっている。

楽々森族の誘導によって逃げ延びた数千の工人たちは、この広大な地下洞窟の奥深くに新たな集落を形成していた。彼らは地上の煙を隠すため、洞窟内の特殊な気流を利用した「地下たたら炉」を開発し、夜な夜な秘密裏に鉄を打ち続けているのである。

巨大なフイゴを踏む重低音と、鉄を鍛える鎚の音が、鍾乳洞の空洞で複雑に反響・増幅し、何里も離れた吉備津彦の居館の地下水脈にまで伝わって、あの「大地が唸るような音」を生み出していたのだ。


「温羅の首が鳴っている、か。滑稽な神話よな」

楽々森彦が鼻で嗤う。

「だが、その神話こそが、吉備の民を守る最も強固な防壁だ」

吉備津彦は、大和の将軍としての威厳ある衣を脱ぎ捨て、黒い麻の単衣に着替えた。

「行くぞ、翁。大和の目がない今のうちに、我らが守るべき『真の吉備』の様子を見に行こう」


 *


その日の夜半。

吉備津彦は楽々森彦の案内に従い、北部の深山にある名もなき滝の裏側から、地下洞窟へと足を踏み入れた。

松明の光を頼りに、ひんやりとした鍾乳洞をしばらく進むと、突如として視界が開け、むせ返るような熱気が彼らを包み込んだ。

「おお……」

吉備津彦は思わず感嘆の声を漏らした。

巨大な地底湖を囲むように、いくつもの小さな「たたら炉」が赤々と炎を上げている。かつての鬼ノ城にあったような、山を丸裸にするほどの巨大な炉ではない。木炭の消費を抑え、少人数で効率よく高温を生み出すように改良された、新しい形の製鉄炉である。

半裸の工人たちが、汗だくになりながら一定のリズムで板を踏み、炉に空気を送り込んでいる。その「ギィッ、バタン。ギィッ、バタン」という力強い踏み板の音が、洞窟に反響し、あの特使を恐怖させた「鳴釜の音」となっていたのだ。


「吉備津彦様! よくぞお越しくださいました!」

吉備津彦の姿を認めるや否や、炉の責任者である初老の技術者が駆け寄ってきて、その場に深く平伏した。他の工人たちや、その家族である女子供たちも、次々と吉備津彦の周りに集まり、感謝と敬意の眼差しを向ける。

彼らの目には、大和の将軍に対する恐れは微塵もなかった。

吉備津彦は、大和を欺いて彼らの命を救った恩人であり、温羅の遺志を継いで吉備の鉄を守り抜く「新たな王」として、深く慕われていたのである。

「顔を上げてくれ。火の具合はどうだ」

吉備津彦が優しく声をかけると、技術者は誇らしげに立ち上がった。

「順調でございます。木炭の質を変えたことで、以前よりも粘りのある、良い鉄が打てるようになりました。すでに百振りの剣と、千の農具が完成しております」

「素晴らしい。出来上がった品は、明日の夜明け前に留玉(とめたま)の水軍に引き渡せ。彼女の船団が、大和の監視を抜けて西の国々へ売り払い、代わりに越冬のための食糧と布を運んできてくれる手はずになっている」


大和の中央集権的な経済網から完全に独立した、吉備の地下交易網。

犬飼族が陸の番犬となり、楽々森族が地下で鉄を生産し、留玉族が海流に乗って富に換える。三つの牙は互いに連携し、吉備津彦という扇の要(かなめ)によって、見事な自立国家を形成していたのである。

吉備津彦は、赤熱する鉄の塊が金床の上に引き出されるのを見つめた。

かつて温羅が大鎚を振るっていた光景が、痛いほど鮮明に脳裏に蘇る。

(見ているか、温羅よ。お前が遺した『炎』は、地の底でこうして力強く燃え続けているぞ)

吉備津彦は、工人から手渡された打ち立ての鉄の鍬(くわ)の感触を確かめながら、その温かさに微かに目を細めた。それは人を傷つける冷たい武器ではなく、凍える冬を越し、春の土を耕すための、命の熱を帯びていた。


大和の歴史書が何と記そうと構わない。

自分は「化け物を退治した英雄・桃太郎」として、永遠に虚飾の神話の中で生き続けるだろう。しかし、この地下の炎の温もりと、吉備の民たちの笑顔だけは、誰にも奪わせない確かな「真実」であった。

地下のたたら炉から響く重低音は、大和の者にとっては悪鬼の呪い(鳴釜)に聞こえるかもしれない。

だが、吉備津彦にとって、そして吉備の民たちにとって、その音は、温羅という偉大な王の心臓の鼓動であり、彼らが力強く生き延びていることを証明する「生命の歌」に他ならなかった。


第三節 夜の海峡と雉の交易網


吉備の南部、児島(こじま)湾に面した秘密の入り江。

新月の夜闇の中、波の音だけが静かに打ち寄せる浜辺に、幾艘もの巨大な黒い影が音もなく滑り込んできた。

それは、一本の巨木を刳り貫いて作られた大型の丸木舟の船団であった。松明の光すら掲げず、月明かりと星の配置、そして潮の満ち引きの感覚だけで暗夜の海を渡るという、神業のような航海術。

吉備の第三の牙――留玉(とめたま)族の水軍である。

船の舳先が砂浜に乗り上げると、身軽な水夫たちが次々と海に飛び込み、慣れた手つきで積荷の陸揚げを始めた。


「見事な操船だ。大和の未熟な水軍では、この夜の海峡を抜けることなど逆立ちしてもできまい」

浜辺の岩陰でその様子を見守っていた吉備津彦(きびつひこ)――かつての五十狭芹彦(いさせりびこ)が、感嘆の声を漏らした。

「おだてても安くはしないぞ、大和の将軍。我ら留玉の民は、命懸けで波を越えているのだからな」

船の上から、凛とした声が降ってきた。

軽やかに砂浜へ飛び降りたのは、留玉族の若き女族長、留玉臣(とめたまおみ)であった。血吸川の激戦から三年、潮風に鍛えられた彼女の顔つきは、かつての張り詰めた少女のそれから、数千の民を束ねる海の覇者としての、しなやかで力強い美しさを備えるようになっていた。


「出雲(いずも)と筑紫(つくし)への航海、ご苦労だった。首尾はどうだ?」

吉備津彦の問いに、留玉臣は誇らしげに顎で積荷をしゃくった。

「上々だ。楽々森(ささもり)の爺が地下で打たせた鉄の鍬(くわ)と鎌は、西の国々で飛ぶように売れた。大和の朝廷は鉄の流通を厳しく統制しているからな。独自の鉄器ルートを渇望していた出雲の族長などは、我々の鉄を見るなり、米や塩、さらには大陸から渡ってきた真新しい麻布や薬種まで、言い値で交換してくれたよ」

水夫たちが運んでいく麻袋の中には、越冬のための豊かな食糧と、吉備の生活を潤す品々がぎっしりと詰まっていた。


これこそが、吉備津彦が三部族の長たちと結んだ「裏の国家運営」の中核であった。

大和の中央政権には「吉備は温羅の乱の傷跡が深く、鉄を産出する余力はない」と偽り、極端に少ない貢ぎ物しか送らない。その一方で、楽々森族が地下の鍾乳洞で秘密裏に生産した鉄器を、留玉臣の水軍を使って瀬戸内海から他国へ密輸し、莫大な富と物資に換える。

得られた物資は、表向きは困窮しているように装っている吉備の民たちへ、在地豪族の手を通じて密かに分配されていた。

大和という巨大な国家の監視の目を掻き潜り、吉備は今や、温羅(うら)が統治していた時代と同等、いやそれ以上に豊かな、完全に自立した地下経済圏を確立していたのである。


「素晴らしい。これだけの鍬があれば、来年の春には吉備の荒れ地をさらに開墾できる。米の収穫量も飛躍的に跳ね上がるだろう」

吉備津彦は、陸揚げされた物資の横に置かれた、地下で打たれたばかりの鉄の農具を手に取った。

温羅の技術を受け継いだ工人たちが鍛え上げた鉄器は、青銅のように曲がることもなく、石器のように割れることもない。深く、鋭く土に食い込み、不毛の地を豊穣の田畑へと変える「魔法の道具」であった。

「……温羅が残した鉄は、こうして確かに吉備の土を耕している。彼が望んだ通りにな」

吉備津彦が静かに呟くと、留玉臣もまた、月明かりに照らされた鉄の鍬を見つめ、静かに目を伏せた。


「なぁ、吉備津彦よ」

留玉臣は、波音に紛れるような小さな声で問いかけた。

「あの血吸川の戦いの前……お前は私に、大和の『領地安堵の木簡』を差し出し、裏切りを強要した。私は一族を守るためとはいえ、温羅王を裏切った大罪人として、一生お前と大和を恨んで生きていくのだと思っていた」

「……」

「だが、お前は約束を守った。大和の搾取から吉備の海を守り、こうして民が飢えぬよう裏で血を流し続けている。お前は、大和の将軍としての栄達を捨ててまで、なぜここまで吉備に尽くすのだ?」

吉備津彦は、遠く広がる夜の海を見渡した。

「私は、何も捨ててはいないさ。ただ、守るべき『国』の形が変わっただけだ」

彼はゆっくりと振り返り、留玉臣の真っ直ぐな瞳を見返した。

「私はかつて、呪術と謀略で列島を統一することこそが、大和の正義だと信じていた。だが、温羅と剣を交え、彼がもたらした鉄の真の力――民を豊かにする科学と技術の力を知った時、大和のやり方がいかに空虚であるかを悟ったのだ。神の威光で民を脅し、重税で縛り付ける国に、未来はない」


当時の大和王権は、巨大な古墳の造営や、終わりのない権力闘争に莫大な労働力と資源を浪費していた。それに引き換え、温羅が目指した吉備は、技術によって自然を開拓し、民の生活水準そのものを底上げする「実利の国」であった。

「私は、温羅の遺したこの吉備を、大和の愚かな政(まつりごと)から隔離された『理想の苗代』にしたいのだ。いつか大和が自らの呪術政治に行き詰まり、列島が真の技術と法を求める日が来るまで、この吉備の地で鉄の炎と豊かな民を育て続ける。それが、温羅を謀略で殺した私の、生涯をかけた贖罪だ」


吉備津彦の静かだが熱を帯びた言葉に、留玉臣は小さく息を吐き、そしてふっと頬を緩めた。

「……馬鹿な男だ。お前はすでに、大和の将軍などではない。温羅王と同じ、吉備の民に縛られた『吉備の王』だよ」

「王などではない。私はただの盾だ」

吉備津彦は苦笑した。

「それに、大和の都では、私はすでに人間ですらないらしいぞ」

「ん? どういう意味だ?」

「昨日、纏向(まきむく)から来た密偵の報告によれば、朝廷の神官たちが新しい神話を語り始めているらしい。『五十狭芹彦は、犬、猿、雉という三匹の獣を従え、吉備の鬼ヶ島に棲む悪鬼を退治した神の御子である』とな」


その言葉を聞いた瞬間、留玉臣は目を丸くし、次いで腹を抱えて笑い出した。

「あはははっ! 獣だって!? 犬飼の健が『犬』で、楽々森の爺が『猿』なのはまだ分かる。だが、この私まで『雉』という鳥畜生にされているのか!」

「笑い事ではないぞ。大和の民はそれを本気で信じ熱狂している。お前たちは、私が腰につけた黍(きび)の団子一つで餌付けされ、命懸けで鬼に飛びかかっていった哀れな獣の従者として、歴史に永遠に名を残すのだ」

「最高じゃないか」

留玉臣は笑い涙を拭いながら、胸を張った。

「大和の愚か者どもが、我々をただの獣だと思って見くびってくれるなら、好都合だ。我々は獣のふりをしながら、大和の威光の裏で吉備の海と空を自由に飛び回ってやる。鳥の目(雉)を欺ける大和の役人など、一人もいないからな」


二人の間に、戦場での血生臭い因縁を越えた、確かな信頼の絆が結ばれていた。

それは、大和と吉備という国家の枠組みを超えた、一つの壮大な「歴史の偽装工作」を共に遂行する共犯者としての絆であった。

「留玉臣。これからも吉備の海を頼む」

「ああ。吉備の『桃太郎』よ。お前の背中は、この雉が上空からしっかりと守ってやるさ」

留玉臣は悪戯っぽくウインクを投げると、身を翻して丸木舟へと戻っていった。水夫たちが静かに櫂を漕ぎ出し、留玉族の船団は再び夜の海峡へと滑り出ていく。


吉備津彦は、月明かりの下で遠ざかる船影をいつまでも見送っていた。

犬飼が陸を封鎖し、楽々森が地下で鉄を打ち、留玉が海から富を運ぶ。そして自分が、大和の目を欺く巨大な盾となる。

この完璧な防衛体制は、その後何十年にもわたって機能し続けることになる。吉備の地は、大和の歴史書において「完全に平定された従順な国」として記されながらも、実際には独自の強大な経済力と技術力を秘めた、列島随一の繁栄を謳歌することになるのである。


足元の砂浜に、波が静かに寄せては返していく。

吉備津彦は、腰に佩いた黒い「桃木の太刀」の柄をそっと撫でた。

温羅の心臓を貫いたあの日から、彼は一度もこの太刀を抜いていない。彼が戦うべき相手は、もはや剣で斬れるような肉体を持った敵ではなかったからだ。歴史という巨大なうねり、そして大和の朝廷という目に見えない権力機構そのものが、彼が生涯をかけて対峙し続ける「真の敵」であった。


「……長い戦いになるな、温羅」

吉備津彦の呟きは、潮騒に溶けて夜空へと消えていった。

地下のたたら炉から伝わる微かな地鳴り(鳴釜の音)が、彼の足元から確かに響き続けている。それは、吉備の地が生きている証であり、鉄の王と大和の反逆者が交わした誓いが、今も脈々とこの大地に根付いていることの証明であった。


第四節 神話の果て、土に眠る鉄(エピローグ)


吉備の平野を赫(あか)く染め上げた凄惨な戦いから、数十年。

吉備津彦命(きびつひこのみこと)――かつて大和の若き将軍・五十狭芹彦(いさせりびこ)と呼ばれた男は、吉備の地で静かにその生涯を閉じようとしていた。

彼は大和の中枢からの度重なる帰還命令を退け続け、生涯を吉備の統治に捧げた。晩年の彼の居室からは、美しく開墾された広大な吉備の平野が見渡せた。かつて製鉄の廃液でどす黒く濁っていた血吸川(ちすいがわ)は、いまや澄んだ水面を取り戻し、秋になれば見渡す限りの黄金色の稲穂が波打つ、列島屈指の豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げていた。


彼の死の床には、大和から派遣された役人たちの姿はなかった。

代わりに彼の手を握り、声殺して涙を流していたのは、吉備の「三つの牙」の長たち――すっかり白髪になった犬飼健(いぬかいたける)、先代の跡を継いだ楽々森(ささもり)族の若き長、そして、海鳥のような鋭い美しさを老いてなお保ち続ける留玉臣(とめたまおみ)であった。

「泣くことはない。私は、私の生きたいように生きた」

吉備津彦は、皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべ、薄れゆく意識の中で、地下深くから響いてくる微かな振動に耳を澄ませていた。

ゴォォォォ……という、たたら炉のフイゴの音。

大和の目を欺き、吉備の地下で密かに守り育てられた「温羅(うら)の炎」は、数十年経った今もなお、吉備の血脈として力強く脈打っている。その鉄は、吉備の土を耕し、民の腹を満たし、この地を大和の搾取から守り抜く強固な盾となった。

「温羅よ……。約束は、果たしたぞ……」

吉備津彦は、枕元に置かれた古い漆塗りの木刀――大太刀を砕き、王の心臓を貫いた「桃木の太刀」にそっと触れながら、静かに息を引き取った。

大和の反逆者であり、吉備の真の守護者であった英傑の、安らかな最期であった。


 *


それからさらに、数百年という途方もない歳月が流れた。

列島は完全に大和朝廷(ヤマト王権)によって統一され、「日本」という中央集権国家が誕生した。国家を統治する権力者たちは、自らの支配の正当性を証明するために、過去の歴史を編纂し始めた。『古事記』や『日本書紀』といった歴史書の誕生である。


勝者が歴史を創る。その冷酷な法則のもとで、吉備と大和の戦いは、為政者にとって最も「都合の良い形」へと書き換えられていった。

大和を大いに苦しめた強大な独立国家・吉備の存在と、彼らが有していた高度なテクノロジー(製鉄技術)の事実は、歴史の表舞台から完全に抹消された。代わりに記されたのは、神の血を引く大和の皇子(吉備津彦)が、辺境に巣食う邪悪な異民族を神罰によって平定したという、単純明快な「正義の武勇伝」であった。

朝鮮半島から渡来し、民を豊かにした偉大な王・温羅は、角を生やし、人を食らい、血を啜る恐ろしい「悪鬼」へと姿を変えられた。

大和に寝返り、吉備の自立のために裏で戦い続けた誇り高き三つの在地豪族は、人間の尊厳すら奪われた。「犬飼」は犬に、「楽々森」は猿に、「留玉」は雉(きじ)に。彼らは、吉備津彦が腰に下げていた大和の権威(きびだんご)によって餌付けされ、主人の命令のままに鬼に噛みつく「三匹の獣」へと貶められたのである。

大和の呪術的プロパガンダは、数百年の時を経て、完全なる「神話」として定着した。


やがてその神話は、長い年月の中で民衆の口から口へと語り継がれるうちに、政治的な色合いすらも抜け落ちていった。

「桃から生まれた桃太郎が、お婆さんの作ったきびだんごを持ち、犬、猿、雉を連れて鬼ヶ島へ鬼退治に行く」

それは、囲炉裏の端で子供たちに語って聞かせる、無邪気で残酷な、ただのお伽噺へと変貌を遂げたのである。

赫き血吸川の泥濘(でいねい)で流されたおびただしい血も、武人と武人が命を賭して交わした気高き誓いも、国家の存亡を賭けた血の滲むような謀略も、すべては甘い団子と桃の果実の意匠の中に塗り込められ、歴史の闇へと消え去った。


だが。

文字や言葉がどれほど嘘をつこうとも、「大地」だけは決して真実を忘れない。


吉備の地――現在の岡山県には、今もなお彼らの生きた証が、無言のまま土の中に眠っている。

鬼城山(きのじょうざん)の山頂には、大和の青銅兵を絶望させた版築(はんちく)の巨大な城壁跡が、千数百年を経た今も崩れることなくそびえ立ち、古代のオーパーツとしての威容を誇っている。

血吸川と呼ばれる小さな川は、今もその流域に赤みを帯びた土を堆積させており、かつてそこで莫大な量の鉄が精錬され、そして多くの命が泥に沈んだ記憶を密かに語り継いでいる。

そして、吉備平野の中心に鎮座する吉備津神社。

その本殿の傍らには、大和の特使を震え上がらせ、吉備の地下経済を隠し通した「鳴釜神事(なるかましんじ)」が、現代に至るまで脈々と受け継がれている。

神官が火を焚き、釜の上に蒸籠(せいろ)を置くと、ゴォォォォ……という不気味で重厚な音が鳴り響く。吉兆を占うその音は、悪鬼・温羅の首が発する怨嗟の唸り声だと言い伝えられている。


しかし、あの泥濘の夜の真実を知る者ならば、その音の本当の意味を理解するだろう。

それは怨霊の唸り声などではない。

吉備の民を飢えから救うため、自らの命を盾として討ち死にした偉大な王の、高らかな笑い声である。

そして、その王の遺志を継ぎ、生涯をかけて吉備の「たたらの炎」を守り抜いた大和の反逆者との、永遠に消えることのない友情の共鳴なのだ。


秋の風が、吉備の平野を吹き抜ける。

かつて桃の軍旗が翻り、鉄の矛が激突した古戦場は、いまは穏やかな田園風景に包まれている。

農夫が鉄の鍬で土を返し、豊かな実りを喜び合う。その平和な営みの下には、神話という分厚いヴェールに覆い隠された、強烈に泥臭く、血生臭く、そして人間臭い、もう一つの「歴史」が確実に存在していた。


英雄は鬼を退治などしていない。

鬼もまた、ただの化け物ではなかった。

彼らはただ、それぞれの守るべき民と、愛する国の未来のために、持てるすべての知略と武力を尽くしてぶつかり合った二人の人間に過ぎない。

歴史の真実は土の底に眠り、ただ「鳴釜の音」だけが、遠い古代の記憶を現代の空へと静かに響かせ続けている。


【真説・吉備津戦記 〜赫き鉄の王と桃の旗印〜 完】

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