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モラトリアム・プロトコル 序章・第一章
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序章 処理されない値
窓の外を、海が流れていた。
鉛色というのは比喩ではなかった。空も海も同じ色に濁って、水平線がどこにあるのか、目を凝らしてもわからない。時おり防雪林の切れ目から白い波頭がのぞき、すぐにまた杉の幹の連なりに隠れる。単線のディーゼルカーは、海と山に挟まれた細い帯の上を、継ぎ目のたびに軋みながら、北へ向かっていた。
雪が降っていた。
この土地の雪は、降るというより、積もるためにやってくる。窓ガラスに触れた粒はすぐ水になって斜めに流れ落ちるが、線路脇に残った古い雪は、もう白くない。重さで下から締まり、灰色になり、根元から順に氷へ変わっている。屋根という屋根が、その重さを黙って背負っていた。畑の隅の物置は、梁が途中で折れたまま、なお雪を載せていた。誰も下ろさなかったのだ。雪は、誰かが下ろすか、さもなければ春が来るまで、そこにあり続ける。それが物であることを、この土地の雪だけはよく知っている。
車内には、彼女のほかに誰もいなかった。
暖房が足もとで乾いた音を立て、油の匂いのする温い風を送っていた。二両編成の後ろの車両を、二駅前から彼女ひとりが占めている。車掌は検札に来なかった。この便に、検札するほどの客が乗っていないことを、車掌も知っているのだろう。列車は、乗せるべき人間がいてもいなくても、時刻表の通りに走る。走らせておくことにも、金がかかるはずだった。誰かがどこかで、その金を払い続けている。誰なのかは、乗っている彼女にはわからなかった。
駅がいくつも過ぎた。どの駅にも、待つ人はいなかった。ホームの屋根が雪の重みで片側に傾いだまま放られている駅があった。時刻表を収めた掲示板のガラスが割れ、中の紙が湿って波打っている駅もあった。列車が止まり、誰も乗らず、誰も降りず、扉が閉まり、また走り出す。それが何度も繰り返された。
線路から少し入った斜面に、潰れたビニールハウスが見えた。骨組みの鉄パイプが飴のように折れ曲がり、破れたビニールが雪の下から半分だけのぞいている。その隣の畑は、もう畑の形をしていなかった。畦がどこにあったのかもわからない一面の枯れ藪で、雪がその上に均等に積もり、白い蓋をしていた。人がいなくなると、まず藪が来る。藪が来ると、次に何が来るのかを、彼女は知らない。ただ、藪の向こうの山肌に、何本もの細い筋が走っているのが見えた。水が、決められた道を外れて、自分で流れた跡のようだった。
女は、膝の上の封筒を見ていた。
厚い封筒だった。角が丸くすり切れ、幾度も開かれた折り目が、紙というより布のように柔らかくなっている。輪ゴムが二重に掛けてあった。中身は書類の束だ。出頭のたびに一枚ずつ増え、あるいは古いものと差し替えられる書類。彼女の顔写真と、名前と、番号。指の腹を押しつけて取った、黒い渦。それから、いま住んでいる県の外へ出るための、一枚の許可証。
この移動は、認められていた。
認められた理由を、彼女は自分でも説明できなかった。就労は禁じられている。保険証は持っていない。決められた日に決められた窓口へ出頭し、体温のない声で名前を読み上げられ、次の出頭日を告げられる。ただそれだけの日々の中で、なぜ県境をひとつ越えることが許されたのか。窓口の職員も、たぶん深くは考えなかった。彼らは彼女を追い返すこともできず、迎え入れることもできない。ただ、書類の上で、彼女がいまどこにいるかを、月に一度、更新し続けている。
働いてはいけない、と国は言った。
それなら出て行け、とは、国は言えなかった。送り返す先が、どこにも確定しないからだ。彼女がかつて名乗っていた国籍は、彼女のものではなかった。ほんとうに生まれた場所の記録は、もう誰の手もとにも残っていない。消すこともできず、受け入れることもできない。国は彼女を、来月へ送った。来月から、再来月へ。決着はいつも、一か月だけ先にあった。いつ終わるのか、と尋ねられる相手は、どこにもいなかった。
窓口には、彼女のための欄がなかった。用紙のどの項目も、彼女のためには作られていなかった。職員は毎回、しばらく画面を見て、奥の席へ何かを尋ねに行き、戻ってきて、前と同じ日付を告げた。誰も彼女に冷たくはしなかった。冷たくする理由も、優しくする理由も、そこにはなかったからだ。彼女は怒られも、慰められもしない。ただ、次の欄へ送られていくだけの数字だった。悪意は、どこにもなかった。悪意がないから、誰も責任を負わなかった。
彼女は封筒を握り直し、それから自分の手を見た。
骨の目立つ手だった。指の関節が太く、爪は短く切りそろえてある。かつてこの手は、氷点下の床を素手で拭いていた。分厚い手袋は支給されなかったし、あってもはめれば作業が遅れた。冷たさは最初、痛みとして手のひらに来る。次に、その痛みが遠のく。遠のいたころには、指はもう自分の指ではなくなっていて、雑巾を握っているのか放しているのかも、目で確かめないとわからなかった。体温は、拭いている床のほうへ、一晩かけて静かに移っていく。明け方、床がわずかに温かくなっているような気がすることがあった。気のせいだった。床は何も憶えていない。翌日にはまた、前の晩と同じだけ冷えて、彼女を待っていた。
その仕事を、誰かが見ていたわけではない。床がきれいであるあいだ、そこを歩く人間は、床のことなど考えない。人が床に気づくのは、汚れているときだけだ。彼女の手が毎晩そこでしていたことは、うまくいっているかぎり、誰の目にも映らなかった。
今、その手は何もしていなかった。
拭く床はない。握る雑巾もない。荒れたままの手のひらは、何にも使われず、膝の上の封筒をただ温めていた。封筒は、温まらなかった。
海崎(うみさき)、という駅名を、彼女は許可証の目的地の欄に、自分の字で書いた。理由の欄は、空けたままにした。書ける理由がなかったからではない。書いたところで信じてはもらえまい、と思ったからだった。
在留の資格を持たない人間が、働くことを禁じられたまま、それでも生きていられる場所が、この国に一箇所だけあるらしい——彼女がそう聞いたのは、収容されていたころの、名前も知らない相手からだった。真偽を確かめる方法はなかった。確かめるより先に、彼女には行く先が要った。
ディーゼルカーが速度を落とした。短いトンネルを抜けると、雪はいっそう濃くなっていた。海はもう見えない。白いものが斜めに視界を流れ、その向こうに、灰色の街の輪郭が滲んでいた。低い屋根が幾つも連なり、そのどれもが、下ろされないままの雪を、幾重にも背負っている。あの重さは、いつか誰かが下ろすか、さもなければ、春になって自分で落ちる。落ちるときは、真下に誰がいても、かまわず落ちる。
終点、海崎。
放送が、そう告げた。
女は封筒を輪ゴムごと握って、立ち上がった。骨の目立つ手は、もう何も温めてはいなかった。開いたドアから、湿った雪の匂いと、この土地の冷たさが入ってきた。彼女はそれを、知っているもののように、静かに吸い込んだ。
第一章 デカップリング
1-1 決裁
スクリーンの中で、日本列島が二色に塗り分けられていた。
緑と、黒。
緑は、点だった。関東平野、濃尾、大阪から神戸にかけての帯、それに散らばるいくつかの平野部。輪郭は驚くほど滑らかで、まるで最初からそういう形をした国であったかのように見えた。残りはすべて黒だった。半島の先が黒く、島が黒く、山を背負った沿岸の集落が黒く、内陸へ入るほど黒は濃くなって、最後には国土の背骨をまるごと呑み込んでいた。面積でいえば、黒は緑の何倍もあった。人口でいえば、一割に届かない。
誰かがそれを、地図というより、検査画像のようだと言った。悪いところが黒く出ている、と。
会議室には二十人ほどがいた。空調が効きすぎていて、佐々木の手もとの資料は、指の脂で角が湿るほど冷たかった。プロジェクターの排熱ファンだけが、低く鳴り続けている。窓は開かない。この階の窓は、どれも開かないようにできている。
説明に立った若い補佐が、次の一枚を出した。
「国内の稲作経営体のうち、大規模層はわずか数パーセントです。しかし、その数パーセントが、国内の米のおよそ四割を生産しています」
部屋の空気が、わずかに変わった。数字が働いた、と佐々木は思った。
美しい数字だった。あまりにも美しかったので、誰もその意味を検算しようとしなかった。
数パーセントが四割を作っている。ならば残りの九割以上は、四割にも満たない量を、ひどく非効率に作っていることになる。そこに集中投資すれば化ける、という結論は、その一行から自動的に流れ出てくる。流れ出てきたものを、この部屋の全員が、疑わずに受け取った。佐々木もかつては受け取っていた。海崎へ行くまでは。
彼はいま、末席にいた。出向者の席である。名札の肩書きは農林水産省ではない。あの公開の場で泥に負けた男を、組織はどこにも置けず、国土政策の側へ流した。その流れた先で、彼はひとつのことを覚えた。
地面は、資料より重い。
出向するまで、彼は自分の靴を汚したことがほとんどなかった。いまは車の荷台に長靴を積んでいる。冬の斜面に入れば、一歩ごとに靴底へ泥が乗り、乗ったぶんだけ足が重くなる。落とそうとして縁石で叩くと、泥は塊のまま落ちて、あとには薄い層だけが残る。その残りは、どれだけ叩いても落ちない。歩き続けるうちにまた乗る。そういう性質のものが、この国の面積の大半を覆っている。会議室のスクリーンには、その重さは映らない。映るのは色だけだった。
鞄の中には、北関東のモデル地区の三年分が入っている。全国の水田をまとめて一ヘクタール以上の大区画にした場合の試算。四十兆から五十兆円。二百年前後。予算を三倍積んでも期間はほとんど縮まらない。年に一万ヘクタール前後という進み方を決めているのは金ではなく、測量士と、法面を仕上げられるオペレーターの頭数だからである。地方の土地改良の施工業者は、この二十年で三分の一になった。
同じ鞄に、もうひとつの試算も入っていた。区画を広げるのはやめ、畦畔を抜き、暗渠で水を抜くだけに絞った場合。二兆円前後。二十年前後。十アールあたりで比べれば、十分の一以下になる。全国に配れる規模だった。
もうひとつ、佐々木が資料の隅にだけ書いて、本文には入れなかった数字がある。
圃場の整備が進む速さは、年に一万ヘクタール前後。一方で、主食用の米の需要が減っていく速さは、年に十万トン前後である。十アールあたりの収量をおよそ五百三十キロとして割り戻せば、面積にして年に一万九千ヘクタール前後。整備が一歩進むあいだに、市場は二歩後ろへ下がっている。
つまり、消えていく市場に向かって、百年か二百年かけて工場を建てようとしている。
その一枚を会議に出すことは、ついにできなかった。出せば、法案そのものの前提が崩れる。崩れたところで、代わりの絵を出せる者はどこにもいなかった。加えて、米の自給率はもともと百に近い。押し下げているのは小麦であり、大豆であり、油脂であり、飼料の穀物である。米をどれだけ効率よく作っても、この国の食えるカロリーの土台は、一ミリも厚くならない。それも書かなかった。
その案は、去年の秋に消えた。
消えた理由を、佐々木は正確に知っている。財政ではなかった。会議のあと、廊下で局長に言われた。絵にならんのだ、と。記者会見の背景に、暗渠排水管の断面図を映すわけにはいかない。求められているのは、十ヘクタールの圃場を自動運転のトラクターが無人で走っていく映像である。あれなら、夕方のニュースが三十秒使ってくれる。
そして、法案の中で最後まで残っていた一行——撤退エリア内における水利施設および道路の、当面の維持管理に関する経費——は、年明けの調整で、全額が削られた。こちらの理由は世論だった。人がほとんど住んでいない山にコンクリートを注ぎ続けるのか、という声が、都市部から圧倒的な量で来た。国会でも問われた。答弁する側は、削る以外の答えを持たなかった。
佐々木は、その調整の議事メモを自分で書いた。書きながら考えていたのは、一行を削っても、土は一立方メートルも動かない、ということだった。予算書の上でその行が消えたところで、山の斜面に溜まっている水は、消えた行のことなど知らない。
説明が終わった。質疑は五分もなかった。区分の基準についての確認が二件、施行日についての確認が一件。撤退エリアで、これから誰がどの施設を止めるのかを訊いた者は、いなかった。訊かれれば答えるつもりで、佐々木は資料を膝に載せていた。訊かれなかった。
決裁は、音を立てなかった。
判子はどこにも押されなかった。端末の画面の中で承認の欄が順に埋まり、最後の一つが埋まると、通知が小さく点灯して、消えた。それだけだった。国土の七割の面倒を国が見ないと決めるのに、紙は一枚も鳴らなかった。
人が出ていき、部屋が空いた。プロジェクターは切られないまま、まだ列島を映していた。ファンの音だけが残っている。
佐々木は席を立たずに、黒い部分を見ていた。
日本海側の、湾がひとつ小さく食い込んだあたりに、目が止まった。海崎。声に出さずに読んだだけで、口の中が乾いた。あの街の名前を、彼はもう中立には読めない。
黒は、空白ではなかった。
あそこには擁壁がある。水路がある。ため池がある。橋がある。それらは、色を塗り替えられたからといって、何も変わらない。これから先も、雪が降るたびに重さを増し、春が来るたびに水を含み、含んだぶんだけ、下へ向かおうとする。落ちてくるものは、地図の色分けを知らない。
空調が、切れた。ファンの音だけが、しばらく鳴っていた。
1-2 モデル地区
北関東の冬は、乾いていた。
海崎の雪を知ったあとでは、同じ国とは思えなかった。空は高く晴れ、風だけが刃物のように吹き抜けていく。朝の畦には霜柱が立ち、長靴で踏むと、ざく、と乾いた音がして崩れた。麦の芽が浅い緑の筋を引いている。用水は落とされ、コンクリートの水路の底に、去年の泥と枯れた藻が薄く残っていた。
佐々木が出向先で最初に与えられたのは、この一帯だった。
平野の縁に沿って、四つの集落。水田は合わせておよそ百二十ヘクタール。圃場は八百枚を超えていた。三十アール区画への整備は昭和の終わりに一度済んでおり、あとはこれを一ヘクタール以上に束ね、暗渠を入れて畑にも使えるようにする——机の上では、それだけの話だった。
彼はこの地区を「証明」にするつもりだった。数パーセントが四割を作る。その数パーセントを人工的に作り出せば、あとは全国で同じことを繰り返せばいい。彼は本気でそう考えていた。ここへ来るまでは。
最初の説明会は、公民館の板張りの部屋で開かれた。
佐々木は工程を説明した。調査と計画に三年。工事に六年。事業の完了までおよそ十年。すべて順調に運んだ場合の数字である。
説明が終わったとき、前から三列目の男が、手を挙げずに言った。
「十年後、おれは八十四だ」
誰も笑わなかった。部屋の中の何人かが、指を折るような、ごく短い沈黙があった。それが、その日いちばん正確な計算だったと、佐々木はあとで思うことになる。
次に躓いたのは、換地だった。
区画をまとめれば、田の位置は動く。動かすからには、面積を等価にする。それが原則であり、法もそのように書かれている。だが等価になるのは面積だけだった。
日当たりは等価にならない。山際の田は午後に影が入る。水利の上下流も等価にならない。上の田は先に水を入れられ、下の田は上が終わるのを待つ。旱の年には、その順番が収量を決める。地力も等価にならない。三十年、堆肥を入れ続けた田と、化学肥料だけで回してきた田は、書類の上では同じ一反である。
そして、家からの距離も等価にならない。
その一点で、話は一年止まった。軽トラで五分の田を三枚持っていた男に、三キロ離れた区画が割り当てられた。面積は増えていた。増えていたが、彼は毎朝の見回りができなくなる。水を見に行けなくなる、と彼は言った。田は水を見に行かない者の顔を覚える、とも言った。佐々木にはその表現の意味が、しばらく分からなかった。
三つ目の壁は、紙の中にあった。
登記が、三代前で止まっていた。
県の担当職員が四人がかりで、一年半かけて追った。ある一枚の田——十八アールに満たない——の相続人は、延べで三百二十名になった。うち十四名が国外にいた。二十六名は、どの住所にも住んでおらず、行方が分からなかった。分かっている者のうち相当数は、自分がその田の共有者であることを知らなかった。手紙を出せば、なぜ勝手に戸籍を調べたのかと怒る者がいた。返事を書かない者はもっと多かった。
佐々木の机には、その戸籍謄本の束が積み上がっていた。厚さで三十センチほどあった。彼はある夜、それを持ち上げて、重さを量ってみたことがある。四キロ近くあった。田一枚ぶんの紙が、である。
四つ目は、最後まで彼の想定になかった。
人が、いなかった。
工事をする側の人間である。地元で土地改良の工事を請けられる業者は、この二十年で三分の一に減っていた。測量士が足りない。法面をきれいに仕上げられる重機のオペレーターは、県内に何人いるかを数えられるほどしかいなかった。入札は不調が続いた。予算は確保されていた。確保されたまま、年度末に、使われずに戻っていった。
金があり、法があり、計画があり、地図があった。動かす手だけが、どこにもなかった。
夜、宿の机で、佐々木は何度も同じ割り算をした。
大区画にして排水も直せば、十アールあたり二百万円から三百万円かかる。仮に二百万で済んだとして、四十年で償却すれば、年に五万円である。一方、米の十アールあたりの粗収益は、十二万から十三万円というあたりに落ちる。そこから生産費を引くと、残るものはほとんどない。年に五万円の追加負担を、米だけで返せる計算にはどうしてもならなかった。
電卓を叩き直すたびに、答えは同じ場所に着いた。この事業は、農家が儲かるから成立するのではない。国が九割方を出すから成立する。つまり最初から、返せない前提で作られている。
二年が過ぎて、この地区で工事に着手できた工区は、ひとつもなかった。同意率が九割を超えた工区がひとつだけあり、残りの一割の中に、行方の分からない二十六名が含まれていた。
二年目の秋、佐々木は一軒の農家の縁側に座っていた。
日向は暖かかった。飼い猫が彼の靴の匂いを嗅ぎに来て、すぐ興味を失って行った。家の主は七十九歳で、この地区で一番多くの田を持っている男だった。同意が取れるかどうかは、この男の一言で決まると言われていた。
佐々木は、いつもより丁寧に説明した。工期のこと、補助率のこと、事業が終われば作業効率が上がり、次の世代が受け取りやすい形になること。
老人は湯呑みを両手で持って、最後まで黙って聞いていた。それから、庭のほうを見たまま言った。
「判こは押すよ」
佐々木は顔を上げた。
「押すけんど」と老人は続けた。「押したあとで、その草は誰が刈るんだい」
庭の向こうに、畦が見えた。刈られた草が、根元のところで冬枯れて、白っぽい層になっていた。老人は一年に三度、そこを刈る。息子は東京にいて、盆に帰る。孫は帰らない。
「あんたらが持ってくるのは、田んぼの形を変える金だべ。形はいくらでも変わる。でも、形を変えたあとの田んぼの草も、やっぱり生えるんだ。生えたら誰かが刈らなきゃなんね。その誰かの話を、あんたらは一遍もしねえ」
佐々木は、その場で答えを持たなかった。
補助事業のメニューには、草を刈るための欄がなかったからである。作ることに金は付く。直すことにも、条件を満たせば付く。だが、生えたものを毎年刈り続けることには、どこにも欄がなかった。欄がないから、積算もされていない。積算されていないから、誰も、その量を知らなかった。
この地区の畦を全部つないだら、何キロになるのか。それを一年に三度刈るのに、何人日が要るのか。その人数は、いま集落に何人残っているのか。佐々木はその晩、宿の机で計算しようとして、二つ目の数字で手が止まった。畦の総延長は、どの資料にも載っていなかった。作るときには測る。測って、図面に落とす。だが、できあがったものの長さを、その後ずっと刈り続けなければならない量として持っている台帳は、どこにもなかった。
彼はまだ、それがこの国全体の形だとは思っていなかった。この地区がたまたま条件の悪い場所なのだと、半分は思っていた。そう思えたのは、彼がまだ、黒く塗られる前の地図しか見ていなかったからである。
帰りの車で、彼は靴底の泥を落とすのを忘れた。マットに乾いた土が落ち、それは霞が関の庁舎まで、そのまま彼について行った。
1-3 削られた案
佐々木の案には、名前がなかった。
正確には、名前を付けようとして、付けられなかった。畦畔を抜き、暗渠を入れ、水を抜けるようにする。それだけの事業である。三十アール区画のまま、二枚を一枚にする。大型の機械は入らないが、いま集落に残っている機械なら入る。十アールあたりの単価は、大区画化のおよそ十分の一。全国に配れる。
部会に出した資料の表紙に、彼は「農地の排水基盤の再整備」と書いた。書きながら、これでは通らないと分かっていた。
「それで、何が新しいんですか」
与党の部会で、若い議員がそう訊いた。悪意はなかった。純粋な質問だった。
佐々木は正直に答えた。新しくはありません。三十年前からある技術です。ただ、いま最も効くのがこれです。
部屋の空気が緩んだ。緩んだきり、戻らなかった。
その日の午後、別の資料が回覧された。区画を十ヘクタール単位に束ね、衛星測位で自動走行する機械を入れ、生産データを一元管理する。表紙には英字混じりの事業名があり、四色のロゴがあり、完成予想図があった。畦のない、地平線まで真っ直ぐな圃場。青空。走っていく無人のトラクター。
佐々木の資料には、暗渠排水管の断面図が載っていた。灰色の円が、土の中に埋まっている図である。
勝負は、その一枚で決まった。
政治の場で流通している通貨は、論理ではない。写真である。テープカットのできる場所、視察の入れる場所、記者が三十秒使ってくれる映像。暗渠は地面の下にあるので、完成しても何も見えない。見えないものに予算を付けた議員は、次の選挙で、何を見せればいいのか。
佐々木にはその答えがなかった。答えを用意するのが自分の仕事だと分かっていたが、地面の下にあるものを地上に出す方法を、彼は最後まで思いつけなかった。
制度のほうも、同じ向きに傾いていた。
新しく作るための金は、政策的経費として立てられる。年ごとに旗が要り、名前が要り、そのぶん通りやすい。一方、既にあるものを直し、維持するための金は、経常的な経費として扱われる。既定の枠の中で、毎年少しずつ削られていく側にある。同じ一億円でも、作るための一億円のほうが、直すための一億円より、はるかに取りやすい。
この国は、作ることには金を出せる。維持することには、出す仕組みそのものを持っていない。
佐々木がそれをはっきり言葉にできたのは、法案の作業が最終盤に入ってからだった。
撤退エリア内の水利施設および道路について、当面の維持管理に要する経費——法案に残っていた最後の一行である。額は大きくない。全体から見れば端数のような数字だった。
その一行が消えたきっかけは、国会でも、財務当局でもなかった。
一枚の写真だった。
秋の終わりに、ある投稿が広がった。山の中の、細い舗装路にかかった短い橋の写真である。周囲に家は数軒しか写っていない。投稿には、この橋の架け替えに要する費用と、その集落の住民数が並べて書かれていた。割り算をした数字が、太字で添えられていた。
数字は正確だった。少なくとも、公表された資料から計算する限りは。
投稿は数日で桁違いに広がった。同じ形式の投稿が次々に作られた。この道路に何億、この水路に何億、住民は何人。割り算の答えが並んだ。
そのうちのいくつかについて、佐々木は反論の材料を持っていた。
例に挙げられた橋のひとつは、上流の治水ダムの管理用道路を兼ねていた。別の一本は、送電線の巡視路として電力会社が使っていた。ある水路は、下流の市街地——人口四万人が住む——の排水を受けており、止めれば大雨のたびに市街の低いところが浸かることになっていた。数軒のためだけの施設ではない。上と下がつながっているから、そう見えるだけである。
彼はその説明を、一枚の紙にまとめた。図を入れ、断面を描き、水の流れる向きを矢印で示した。
その紙が、百四十字に勝つことはなかった。
割り算はひと目で分かる。上下流のつながりを理解するには、少なくとも三分かかる。三分もらえる場所は、どこにもなかった。
そして、佐々木には、もうひとつ黙っていたことがあった。
割り算そのものは、間違っていない。
彼はそれを、誰よりもよく知っていた。数軒のために年間いくら、という計算を、彼自身が何十回もやってきたからである。都市部の一世帯が負担している額と、山あいの一世帯に投じられている額を並べれば、比は二桁になることがある。それを不公平だと感じる人間を、彼は責められなかった。責める資格がなかった。
問題は、その割り算の答えを受けて、次に何をするかだった。
止める、という選択肢はある。ただし止めるにも工事が要り、金が要り、順番が要る。水路は、蛇口のように閉められるものではない。だが世論が求めていたのは順番の話ではなく、支出を止めるという一語だった。一語で済ませられたところから、順に消えていった。
年が明けて、国会で問われた。人がほとんど住んでいない場所に、いつまでコンクリートを注ぎ続けるのか。答弁に立った側は、削る以外の答えを持っていなかった。
調整は、年明けの一週間で終わった。
佐々木は、その調整の議事メモを自分で書いた。書きながら、削られる一行が実際に何を指しているのかを、一度だけ数えようとした。
撤退エリアに指定される見込みの区域に、どれだけの水路があり、何本の橋があり、いくつのため池があるのか。台帳は、ばらばらだった。農道は市町村、水路は土地改良区、ため池は所有者不明のものが多く、県の把握しているものと市町村の把握しているものが一致しない。合計は、出なかった。
分からないものを、国は削った。
削ったその日、佐々木は庁舎を出て、地下鉄には乗らずに歩いた。冬の夜で、風がビルの角から吹き下ろしてきた。歩道の縁石が街灯に照らされて、白く見えた。彼はそのコンクリートの縁を、しばらく眺めていた。
削ったのは、紙の上の一行である。
コンクリートは、予算を削ったからといって、勝手に空へ消えて無くなったりはしない。
水路はそこにあり続ける。橋も、ため池も、擁壁も、そこにあり続ける。金の裏付けを失っても、質量は一グラムも減らない。減らないまま、劣化だけが続く。人が使わなくなった構造物は、使われている構造物よりも早く傷む。詰まった水路は、詰まったまま次の大雨を受ける。
国が手を引いたあと、それらの物体は、いなくなるのではない。誰の持ち物でもなくなるだけである。
誰の持ち物でもない数万トンのコンクリートが、山の斜面に、これから何十年も置かれる。そこに人が数百人住んでいる。
その意味を、あの日の会議室で誰かが訊いてくれていたら、と佐々木は思った。
訊かれなかった。
プロジェクターのファンが、まだ鳴っていた。
空になった会議室で、佐々木はようやく席を立った。スクリーンの中の列島は、変わらず緑と黒に塗り分けられている。彼は電源を落とし、部屋を暗くしてから、資料の束を抱えて廊下へ出た。
鞄の底で、乾いた土が、また少し崩れた音がした。
1-4 狩り場
海から風が来ていた。
旧農協の廃工場は、湾に面した埋立地の端にある。冬の日本海から吹き上げてくる風は、湿った雪の粒を含んでいて、トタンの継ぎ目を鳴らし、剥き出しの鉄骨に細かい氷を張りつけていった。
工場の中では、V8のディーゼルが二基、暖気のために回っていた。排気と機械油と泥の匂いが充満し、その中で数十人の男たちが、冬の間の解体現場へ出る支度をしている。怒号がいくつか飛び、ベトナム語と日本語と、どちらでもない言葉が混じった。
その最奥のプレハブ——帳場の中だけが、静かだった。
桐島は、いつものパイプ椅子に浅く腰掛けて、冷めかけたコーヒーの紙コップを持っていた。壁の大型モニターには、昨日の午後に官報へ載ったばかりの、日本列島の色分け図が映っている。
緑と、黒。
「面白い地図だね」
キーボードの前でリクが言った。三つのモニターに、それぞれ違う資料が展開されている。
「これ、政府が親切に作ってくれた資産目録だよ。黒く塗った場所については、国はもう金を出さない。出さないと官報で宣言した。……つまり、あの黒い部分にある土地と施設は、明日から誰も維持費を払わない資産になる」
「値が付かなくなる、ということか」
「逆だよ、桐島。値が『下がる』んじゃない。『付けられなくなる』んだ」
リクは指を止め、椅子を回した。
「価格って、買い手が二人以上いて初めて成立する。黒いエリアの農地は、これから買い手がゼロになる。JAも撤退する、外資も来ない、若い後継者もいない。売り手だけが何万人もいる市場だ。……そういう市場では、値段は下がるんじゃなくて、消える。ゼロ円でも引き取り手が現れない土地が、これから全国に何十万ヘクタール出てくる」
「引き取るには、金が要るからだな」
「そう。草を刈らなきゃならない。水路を浚わなきゃならない。持っているだけで毎年出ていく。だから所有権そのものが負債になる」
桐島は、モニターの黒い部分を見ていた。
「もうひとつ、面白い数字がある」
リクは別のモニターを叩いた。表が現れた。
「政府が本気で緑の側に集約するとしたら、どれくらいかかるか、逆算してみたんだ。平野部だけに絞って、全部一ヘクタール以上の区画に直す。事業費は二十八兆円くらい。期間は……百四十年」
健太が、工具箱を担いだまま入り口で足を止めた。
「百四十年? 桁を間違えてんじゃねえのか」
「間違えてない。しかも、これは金の話じゃないんだよ、健太」
リクは楽しげでもなんでもない声で続けた。
「予算を三倍積んでも、期間はほとんど縮まらない。土地改良の工事が進む速さは、年に一万ヘクタール前後で頭打ちになってる。理由は金じゃなくて、人だ。測量する人間がいない。法面をきれいに仕上げられるオペレーターがいない。地方の施工業者は、この二十年で三分の一に減ってる。……予算をつけても、工事をする手がないから、金が余って年度末に返っていく」
沈黙が落ちた。
トアンが、腕を組んだまま口を開いた。
「じゃあ、あの緑のほうも、できないってことか」
「できない。少なくとも、僕らが生きてるうちには」
桐島は、紙コップをドラム缶の上に置いた。
乾いた音がした。
「つまり、こういうことだ」
彼はゆっくり立ち上がり、モニターの前に立った。黒い部分に、影が落ちた。
「国は、黒からは手を引くと決めた。そして緑については、やると決めたが、実行する手を持っていない。……どちらの側にも、これから百年、空白ができる」
「空白?」健太が眉を寄せた。
「誰も手を出さない土地と、誰も手を出せない土地だ。その両方が、同時に空く」
桐島の声には熱がなかった。だからこそ、言われた内容だけが、部屋に重く残った。
「海崎で二年やってきたことを、今度は全国でやる。荒れ地を押さえ、人を入れ、カロリーを出す。これまでは市長との取引の範囲でしか動けなかったが、これからは違う。国が自分の手で、狩り場に線を引いてくれた」
「……いいじゃねえか」
健太が、工具箱を床に下ろした。
「うちの若いのが冬に食えてるのは、解体の仕事があるからだ。だが解体は、いつか壊す建物が尽きる。土地が広がるなら、来年の米が増える。米が増えりゃ、人を増やせる」
「俺の下の人間も、増える」
トアンが低く言った。
「今週も三人、入った。前の職場でビザが切れた。ここは、切れても飯は出る。……だから来る」
桐島は頷いた。二人の言っていることは、彼の計算と一致していた。
「玲。東京はどうだ」
部屋の隅のデスクで、モニターに向かっていた神崎玲が、振り返らずに答えた。
「法案の最終段階で、一行だけ削られています。撤退エリア内の水利施設と道路の、当面の維持管理経費。全額」
「削った理由は」
「世論です。人の住んでいない山にコンクリートを注ぎ続けるのか、と。国会でも問われて、答弁する側は削る以外の答えを持っていなかった」
玲は椅子を回し、青白い画面の光を横顔に受けたまま、桐島を見た。
「もうひとつ。その調整の議事メモを書いたのは、農水省から国土政策の側へ出向している職員です。……名前は、佐々木」
部屋の空気が、わずかに変わった。
健太が短く息を吐いた。トアンの眉が動いた。二年前、泥に沈む革靴で境界線まで来て、機動隊の突入を白紙にした男の名である。
桐島の表情だけは、動かなかった。
「あの男が書いたのか」
「ええ。……削ることを止められなかった側として」
「なるほどな」
桐島は、それきり何も言わなかった。
彼が考えていたのは、佐々木のことではなかった。地図の黒い部分の面積と、そこにある耕作可能な土地の推定と、来年の春までに動かせる人間の数と、種籾の確保量である。頭の中で、いくつもの数字が組み替えられていく。
この六年、彼は一度も止まらなかった。止まれば死ぬ。第一に土地を押さえ、第二に人を入れ、第三にカロリーを出す。その順番でしか、この共同体は生き延びてこられなかった。国家権力を境界線まで引きずり出したのも、その論理の延長にすぎない。
だから、彼はこう結論した。
「拡げるぞ」
誰も反対しなかった。健太もトアンもリクも、それぞれの理由で頷いた。玲は何も言わず、モニターに向き直った。
ただ一人、辰造だけが、腕を組んだまま何も言わなかった。
桐島はそれに気づいていた。気づいたうえで、訊かなかった。これまで、辰造が異を唱えたのは肥料の設計についてだけで、それ以外の場面では黙って手を動かす男だったからである。今日の沈黙も、その類だろうと判断した。
判断は、間違っていた。だがそれが分かるのは、もう少し先である。
押さえた土地の草を、来年、誰が刈るのか。
その問いは、その日、帳場の誰の口からも出なかった。桐島の頭の中の数字にも、その欄はなかった。二十代のときに彼が書いた論文にも、その章はなかった。
外では、風がまだトタンを鳴らしていた。
工場の前庭に積もり始めた雪を、誰も掻いていなかった。
1-5 死亡診断書
辰造は、帳場を出てから一度も口をきかなかった。
工場の裏手、風の当たらない鉄骨の陰にドラム缶がひとつ置いてある。彼はいつもそこに座る。ポケットからワンカップの焼酎を出し、蓋を回して、半分ほどを一息に流し込んだ。冷えた喉が焼けて、少ししてから腹が温くなる。
目の前では、巳之吉が油まみれの手でショベルカーの油圧ホースを締め直していた。
「親方、さっきから機嫌が悪いな」
巳之吉が手を止めずに言った。
「土地が広がりゃ、来年の米は増えるんだろ。あんたの仕事が増えるってことじゃねえのか」
「増えるな」
辰造は、ワンカップを膝に置いた。
「増えるから言うとる」
巳之吉が顔を上げた。
辰造は、遠くを見ていた。工場の屋根の向こう、雪雲の下に、うっすらと山の稜線が見えている。海崎市の北の、中山間だ。
「巳之吉。おまえ、中山間の直接支払いっちゅうのを知っとるか」
「聞いたことはあるが、詳しくは知らねえ」
「そうじゃろな。誰も知らん」
辰造は、指で膝を二度叩いた。
「山あいの田んぼは、平地より条件が悪い。傾いとるし、狭いし、機械も入りにくい。そのぶんの不利を埋めるために、国が金を出す制度がある。集落でひとつ協定を作って、五年間、農地をちゃんと維持すると約束する。約束を守れば、面積に応じて交付金が下りる」
「へえ。まともな話に聞こえるが」
「まともじゃ。……わしは、その協定の代表を十五年やった」
巳之吉の手が、完全に止まった。
辰造がその話をするのは、初めてだった。この男の前史を、コモンズの誰も知らない。桐島でさえ、多収穫米を設計できる腕のことしか知らないはずだった。
「金は下りよった。毎年、きっちりとな」
辰造は、ワンカップの残りを見た。
「役場は仕事が丁寧じゃった。書類も期日どおりに来た。監査も通った。文句のつけようがない。……問題は、金は下りるが、人は下りてこんことだ」
「人が……?」
「協定を作った年は、二十人おった」
辰造は、指を立てて数え始めた。
「五年たって、十五人になった。次の五年で、十人。田んぼの面積は、一枚も減っとらん。減ったのは人だけじゃ。ということはな、巳之吉。一人あたりの草刈りと泥上げの量が、毎年増えていったっちゅうことじゃ」
「……ああ」
「畦の草は、人が減っても、減ってはくれん」
巳之吉は、その言い方に覚えがあった。
ずっと前、水産加工の工場にいたころ、明け方の床のことを考えたことがある。あの床は、掃除をする人間が何人いようが、同じ面積だけ汚れた。人が半分になっても、床が半分になるわけではない。だから残った人間が、二倍の速さで拭くことになる。そのころ工場にいたある女は、誰よりも速く、音を立てずに拭いていた。速いということの意味を、当時の巳之吉は考えたことがなかった。
辰造は、指を折り畳んだ。
「最後の年は、三人じゃった。わしと、七十八のジイさんと、盆にだけ帰ってくる甥っ子。この三人で、二十人ぶんの畦を刈ることになった。刈れんかった」
巳之吉は、ウエスを握ったまま黙っていた。
「業者に頼めばええ、と役場の若いのが言うた。この辺で草刈りを請け負う業者は、二十年前に潰れとる。町に電話したら、順番は再来年になる言われた」
辰造は短く笑った。笑いというより、息を吐いただけの音だった。
「四年前じゃ。要件を満たせんようになって、協定は廃止になった」
「廃止したら、どうなるんだ」
「返せ、と言われる」
辰造は、ワンカップを一気に空けた。
「維持すると約束して受け取った金じゃからな。維持できんかったなら、遡って返せ、というのが筋になる。役場と半年揉めた。役場も悪気はない。悪気がないから、誰も止められん。……最後は、ジイさんの年金から出た」
風が、鉄骨の隙間を鳴らして通り抜けた。
「巳之吉。おまえ、さっき帳場で桐島が何と言うたか、覚えとるか」
「……国が線を引いてくれた、と」
「そうじゃ。あの新しい法律を、みんな、今日始まった何かのように話しとる」
辰造は、空になったワンカップの縁を親指でなぞった。
「デカップリング法は死亡診断書じゃ。……わしの集落は、その八年前に、とっくに死んどった」
巳之吉は、何も言えなかった。
辰造の集落が死んだのは、法律が通ったからではない。金が止まったからでもない。金は下りていた。毎年、きっちりと。それでも人は減り、面積は減らず、草は生え続け、ある年、刈れなくなった。それだけのことだった。
「腹が立つのは、金が下りんかったことじゃない」
辰造の声が、初めてわずかに濁った。
「死亡診断書を今日書いて、それを改革と呼んどることだ」
彼は立ち上がり、ワンカップの空き瓶を、鉄骨の根元に置いた。同じ場所に、同じ瓶が何本か並んでいる。
「わしはな、巳之吉。腹が立って、ここに来たんじゃ」
辰造は、ようやく巳之吉のほうを見た。
「桐島の言うことは正しい。土地は空く。押さえられる。米も増やせる。……じゃが、あいつは、押さえた田んぼの畦の長さを一遍も数えたことがない」
「畦の……長さ」
「一ヘクタールの田んぼの畦は、だいたい四百メートル。年に三回刈る。一人が一日に刈れるのは、条件がよくて三百メートルから五百メートルというところじゃ。これに水路の泥上げが乗る。ため池の点検が乗る。獣の柵の見回りが乗る」
辰造は、指を一本ずつ立てながら言った。それは、十五年間、彼が毎年やらされてきた計算だった。
「面積を倍にするというのはな、収穫を倍にすることじゃない。刈らんならん草を倍にすることじゃ。それを、あいつらは誰も勘定に入れとらん。……わしが十五年かけて負けたのは、そこじゃ」
巳之吉は、ゆっくりとウエスで手を拭いた。
「親方。それ、桐島に言ったか」
「言うたら、どうなる」
「……どうなる」
「面積を増やせ、と言われる」
辰造には、その答えが見えていた。
拡げることでしか回らない仕組みを、この六年で桐島は作り上げた。人を集め、集めた人間に飯を食わせるために土地を押さえ、押さえた土地を回すためにまた人を集める。回転が速いあいだは、誰も飢えない。回転が落ちた瞬間に、いちばん下から順に飢える。だから止まれない。
辰造の集落も、規模こそ違え、同じ形をしていた。二十人で回していたものを、十五人で回し、十人で回した。回せなくなるまで、誰も回すのをやめようとは言わなかった。やめると言った者が、集落を殺した人間になるからである。
辰造は背を向け、工場のほうへ歩き出した。
「あいつは止まれん男じゃ。止まれんかったから、ここまで来た。ここまで来られたのは、あいつのおかげじゃ。それは認める」
数歩進んで、辰造は立ち止まった。
「わしも、止まれんかった。……だから土を殺しよる」
その声は小さくて、機械音に紛れた。巳之吉が聞き返す前に、辰造はもう工場の扉をくぐっていた。
鉄骨の根元では、並んだ空き瓶の上に、細かい雪が積もり始めていた。
1-6 署名
市長室の窓は、北を向いている。
巽冴子は、そのことを就任した年に知った。海崎市庁舎の三階、市長室の大きな窓は、市街地ではなく北の山側を向いている。設計した当時の誰かに、この街の背骨は北の谷筋にあるという考えがあったのだろう。四十年前の話である。
いま、その窓の外は白かった。
雪が斜めに降っている。手前に低い屋根が連なり、その多くが、下ろされないままの雪を載せていた。シャッターの下りた商店が三軒続き、そのうちの一軒は、去年から屋根の一部が抜けている。抜けたまま、また雪が積もっている。所有者は市外に住んでいて、連絡は取れる。取れるが、動かない。
その向こうに、谷が三本入り込んでいる。北から順に、神谷、上寒河、大越。
巽は五十代後半で、細い三白眼をしている。市議のころから、笑わない人だと言われてきた。実際、笑う理由がほとんどなかった。
机の上に、書類が一枚あった。
都道府県知事を経由して国へ提出する、撤退エリア指定に関する同意書である。市長の署名と、公印。それだけの紙だった。
同意しなければどうなるか、という問いは、成立しない。指定しなければ、市は指定した自治体向けの財政措置の対象から外れる。外れれば、いま国の補助でかろうじて回している市道の橋梁点検も、上水道の更新も止まる。指定しないという選択は、書式の上には存在しても、予算の上には存在しなかった。
巽は、書類を読み直した。二度目である。
条文は丁寧に書かれていた。撤退エリア内において、国は新たな整備投資を行わない。既存施設の維持管理に関する国の関与は段階的に縮小する。当該区域における農業生産活動に対する各種交付金は、経過措置を経て終了する。
どこにも、止めろとは書いていなかった。
国は、止めるとは言わない。金を出さない、としか言わない。止めるという動詞は、この紙のどこにも出てこない。
誰かが止めなければならない。その誰かが誰なのかも、書いていない。
巽は、その空白の意味を、たぶんこの県内で最も早く理解した部類に入った。
水路は、放っておけば自然に止まるわけではない。落ち葉と土砂で詰まり、詰まったところから溢れて、道路の路肩を削る。ため池は、堤体を見る者がいなくなれば、いつか漏れる。漏れて、ある雨の日に抜ける。抜けたときに下に何があるかは、地図を見れば分かる。
だから、止めるには工事が要る。堰を落とし、水を抜き、堤を切り、道を封鎖する。金がかかる。人手がかかる。順番を決めなければならない。
どの谷から先に止めるか。
国は決めない。県も決めない。書式の上では、それは「地域の実情に応じて」という言葉に置き換えられている。
巽は、その言葉を三十年見てきた。地域の実情に応じて、というのは、決めるのはあなたです、という意味である。そして決めた者だけが、恨まれる。
窓の外の、いちばん奥の谷を見た。
神谷。彼女が生まれた集落である。
高校まで、そこから通った。当時は三十戸ほどあった。いまは六戸である。区長は岡崎という七十九歳の男で、彼女の遠い親類にあたる。子供のころ、彼の家の柿を盗んで叱られたことがある。叱り方が優しかったので、かえって長く覚えている。
その谷に入る市道は一本しかない。途中に短い橋が二つある。上流にため池がひとつあり、堤の下に、四戸が並んでいる。
順番を決めるということは、いつか、その谷の名前を紙に書くということだった。
巽は目を伏せ、書類に戻った。
彼女が市長として二期のあいだにやってきたことは、突き詰めれば一つである。この市が実際にはもう維持できないものを、維持できているように見せること。
市の予算書には、農道の草刈りや水路の泥上げに対応する費目が、ほとんど存在しない。存在するのは、「シルバー人材センター委託料」と「地域ボランティア活動支援補助金」の二つで、実際にその現場に立っているのが誰なのかは、書かれていない。書かれていないものは、監査でも問われない。
実際に立っているのは、旧農協の廃工場にいる連中である。
巽はそのことを知っている。知っていて、書かせていない。書かせなければ、市は何も委託していないことになる。委託していないのだから、事故があっても市の責任は問われない。彼らも、書かれることを望んでいない。利害は完全に一致していた。
あの男は、それを取引と呼んでいる。
巽自身は、取引だと思ったことは一度もない。彼女にとってあれは、支払いだった。市が払えなくなった維持労働の分を、法の外にいる人間に、法の外の通貨で払っている。ただそれだけのことである。
そして、いま机の上にある紙は、その支払いの規模を、これまでの何倍かに拡げようとしていた。
巽は、引き出しから印鑑を出した。
朱肉の蓋を開ける。乾きかけていた。指の腹で少し押して、印面を当て、二度、三度と回す。
書類の欄に、位置を合わせる。
押した。
乾いた音がした。紙と机のあいだの空気が抜けるような、短くて、それきりの音である。三十年、彼女は何万回もこの音を聞いてきた。今日の音も、まったく同じだった。
巽は、印鑑を戻し、書類を裏返した。
そのまま数秒、動かなかった。
自分が何に同意したのかは、条文の範囲では分かっている。分かっていないのは、その先である。数か月後、あるいは一年後、誰かが市長室に来て、こう訊くはずだった。
どの水路から止めますか。
そのときに、自分がどう答えるのか。彼女にはまだ、まったく見当がつかなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
その問いに、市長として答えてはならない。答えた瞬間に、答えは選挙の争点になり、争点になった瞬間に、順番は決まらなくなる。決まらないまま、次の春が来て、その次の春が来る。決まらないうちに、どこかの堤が抜ける。
誰かが、市の外で、市の名前を使わずに決めなければならない。
巽は立ち上がり、窓に近づいた。
雪はまだ降っている。北の谷筋は、もう白くて見えなかった。屋根の抜けた商店の上に、雪が音もなく積もっていく。
彼女は、少しのあいだ、その一軒を見ていた。
あの屋根がいつ抜けるかは、誰にも分からない。ただ、抜ける前に一度だけ、市に通報が来ていたはずだった。危ないのではないか、という電話である。担当が現地を見に行き、私有地であることを確認し、所有者に文書を送り、返事が来ず、それで終わっている。手続きに落ち度はない。落ち度がないまま、屋根は抜けた。
これから起きることも、たぶん同じ形をしている。誰も間違えないまま、順に抜けていく。
違うのは、下に人がいることだけだった。
巽は内線を取り、農林水産課の高津を呼んだ。
撤退エリアの中に、市が把握している農地がどれだけあり、そのうち所有者が確定しているものがどれだけあるのか。まずそれを知らなければ、順番の話はできない。訊けば、あの生真面目な係長は数日でまとめてくるだろう。まとめた紙が何を意味するかまでは、まだ本人も分かっていないはずだった。
受話器の向こうで、呼び出し音が二度鳴った。
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