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モラトリアム・プロトコル 第二章

 

第二章 判子と泥

2-1 四十七人

 高津の机の上には、戸籍謄本の束が三つ積んであった。

 海崎市役所の農林水産課は、庁舎の二階の北側にある。窓際の暖房が弱く、朝のうちは指がかじかむ。彼はコートを着たまま椅子に座り、いちばん手前の束から一枚を取り上げた。

 明治二十九年生まれ。除籍。

 この人物が、一枚の田の名義人である。

 田は、市の北部、上寒河の入り口にある。面積は十八アール。台帳の地目は田だが、航空写真ではもう十年以上、稲の色をしていない。畦の形だけが辛うじて残っていて、あとは薮である。

 高津は、その一筆の相続人を追っていた。

 三か月前、県から通知が来た。デカップリング法の施行に伴い、撤退エリアの指定にあたって、区域内の農地について所有者の把握状況を報告せよ、という内容である。把握できていないものは、可能な限り追跡すること。追跡に要する費用の補助については、記載がなかった。

 追跡の手順は決まっている。名義人の除籍謄本を取り、そこから子を拾い、子の戸籍を取り、その子を拾う。それを現存する人間に届くまで繰り返す。本籍が他県へ移っていれば、その市区町村へ郵送で請求する。一通四百五十円。除籍と改製原戸籍は七百五十円。

 この一筆で、これまでに取り寄せた戸籍は、八十七通になっていた。

 古いものは、手書きである。明治の戸籍は毛筆で、旧字体で書かれている。名前の漢字が現在の字と違い、同一人物かどうかの判断に迷うことがある。「サキ」なのか「サヰ」なのか、判読できない一文字のために、別の市へもう一通請求したこともあった。役所の中に、それを読める人間はいない。高津は、五年目にしてようやく、崩し字の一覧表を自分の机に貼るようになった。

 名義人には、子が六人いた。うち四人が既に死亡している。四人にそれぞれ子がいて、その子の何人かもまた死亡している。世代は三つ下まで伸びた。

 最終的に、権利を持つ可能性のある人間は、四十七名になった。

 高津は、その四十七名の一覧を印刷し、住所の判明した者から順に、通知を郵送した。共有農地の管理に関するお願い、という表題の文書である。文面は、県から示された例文をほぼそのまま使った。

 返ってきたものを、彼は三つに分けている。

 ひとつ目の山は、宛先不明で戻ってきた封筒である。十四通あった。転居先不明の付箋が貼られ、封は切られていない。住民票の除票は保存期間を過ぎているものが多く、そこから先は追えない。

 ふたつ目は、届いたはずだが、返信のないものである。二十通を超えた。督促の規定はない。届いた通知を無視することについて、罰則もない。

 三つ目が、返信のあったものだった。八通。

 高津は、その八通を読み返した。

 最初の一通は、七十代の女性からだった。丁寧な字で、こう書いてあった。祖父の田のことなど、聞いたこともありません。父からも何も聞いていません。私にできることは何もないと思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 謝る必要は、どこにもなかった。

 次の一通は、四十代の男性からで、電話番号が書かれていた。かけると、開口一番、なぜ勝手に人の戸籍を調べたのかと言われた。

 高津は説明した。市町村が農地法や関係法令に基づいて所有者を調査する場合、職務上請求という形で戸籍を取得できること。目的外には使わないこと。

 説明は、火に油を注いだ。

 あんたらは俺の親父が死んだことも、俺がどこに住んでるかも把握してるわけだ。それで、要らない土地の押し付けだけは正確に届くんだな。相続放棄は三か月以内だと言うが、俺は親父が山の田んぼを持っていたことを今日初めて知った。今から放棄はできるのか。

 できません、と高津は答えた。

 電話は、それきり切れた。

 残りの六通のうち、二通は「関わりたくない」という趣旨で、三通は権利を放棄したい旨が書かれていたが、放棄の方法を尋ねる内容だった。共有持分だけを放棄する簡便な方法は、実務上、存在しない。他の共有者全員の協力が要る。全員というのは、四十七名のことである。

 最後の一通には、住所と名前だけが書かれ、本文が白紙だった。

 高津は八通を封筒に戻し、束の上に置いた。

 この一筆の固定資産税は、免税点を下回っていて、課税されていない。市に入る金はゼロである。

 一方、この三か月でかかった戸籍の請求手数料と郵送費は、六万円を超えた。高津の人件費は算入していない。算入すれば、二桁変わる。十八アールの薮のために、である。

 そして、市内には、同じような筆が何千とある。

 相続登記は、数年前から義務になった。相続を知った日から三年以内に登記をしなければ、過料の対象になる。制度ができたとき、庁内では、これで少しは動くだろうという声があった。

 動かなかった。

 過料を科すには、義務を負っている人間を特定しなければならない。特定できないからこの問題が起きている。特定できた者に十万円以下の過料を科したところで、その者は、価値のない山の田を登記して、以後の固定資産税と管理責任を引き受けることになる。過料を払って放置するほうが、はるかに安い。

 義務化されたのは、登記をすることであって、土地を引き受けることではなかった。誰も引き受けたくないものについて、名前を書けとだけ命じた制度である。

 昨年度、この課で所有者の追跡を完了させた筆は、十一筆だった。職員は係長の高津を含めて四人で、そのうち二人は他の業務と兼務している。

 完了した十一筆のうち、実際に何らかの利用に結びついたものは、ゼロである。

 高津は、そのことを誰にも報告していない。報告する欄がないからである。県への報告様式には、「調査を実施した筆数」と「所有者が判明した筆数」の欄はあるが、「判明したあとどうなったか」の欄はなかった。

 彼は、四十七名の一覧をもう一度開いた。

 名前が縦に並んでいる。ほとんどが、会ったことのない人間である。生きているのか死んでいるのかも分からない者が二十六名いる。

 その一覧の、下から数えて何番目かに、自分と同じ姓が並んでいた。

 高津は、そこで手を止めた。

 同姓は珍しくない。この地方には多い姓である。彼はそう思って、一覧を閉じた。

 閉じてから、もう一度開いた。

 一覧には、判明している範囲で、本籍地が併記されている。その行の欄には、市内の地名が入っていた。

 神谷。

 高津は、その二文字をしばらく見ていた。

 開いたところで、電話が鳴った。市長室からの内線だった。

 午前中に東信夫のところへ行く予定が入っていることを、高津は思い出した。彼は一覧を伏せ、受話器を取った。


2-2 東信夫

 東信夫の作業場は、旧県道から一本入った、風の抜ける平地にあった。

 鉄骨の大きな倉庫が二棟。片方に乾燥機が六基並んでいて、いまは止まっている。冬の乾燥機は、ただの巨大な金属の箱である。もう一棟には、コンバインが二台とトラクターが四台、田植機が三台、それぞれ整備の途中の姿で置かれていた。

 東は六十二歳で、法人の代表をしている。作業着の上に厚いジャンパーを着て、コンバインの下から出てきた。

「市役所さんか。悪いな、汚いところで」

 彼が経営する農地は、市内でいちばん広い。百八十ヘクタール。

 全国で見れば大規模層に入る。県の資料では、地域の担い手の代表例として、何度も写真が使われていた。

「例の、撤退エリアの話だろ」

 東は先に言った。手はウエスで拭きながら、目は高津を見ている。

「上寒河と神谷が入るという話は、もう回ってきとる。あそこの田も、うちが三十枚ばかり預かっとった」

「そのことで、ご意見を伺いに来ました」

「意見な」

 東は、コンバインの脱穀部を軽く叩いた。

「意見はひとつしかない。集めただけでは、効率は上がらんということだ」

 高津は手帳を開いた。

「百八十ヘクタールというと、聞こえはええ。じゃが、圃場の枚数は七十枚ある。いちばん近い田といちばん遠い田で、半径にして四キロ離れとる」

 東は、指で倉庫の外を差した。

「田植えの時期になったら、機械を積んで、その四キロを毎日行ったり来たりする。一枚終わったら積む。降ろす。また積む。田植機の実際に植えとる時間より、道を走っとる時間と、積み降ろしの時間のほうが長い日がある」

「区画は、整備されていないのですか」

「されとるよ。三十アールのやつがな」

 東は短く笑った。

「三十アールの田が七十枚あるのと、二十一ヘクタールの田が一枚あるのとでは、全然ちがう。同じ面積でも、後者は畦がない。畦がないということは、旋回がない、積み降ろしがない、草刈りがない。……集約というのは本来、そっちの話だ。うちがやってきたのは集積だ。ばらばらの田を、名義だけ一か所に集めただけよ」

 高津は書き取った。

「第二工区は、大区画になっとる」

 東は続けた。

「二年前に整備が終わった。あれはありがたかった。ありがたかったが、水が抜けん」

「排水が」

「稲は作れる。麦が作れん。米だけ作っとっても、これから値が付かんのは分かっとるから、裏で麦か大豆をやりたい。それには田んぼの水位を下げないかん。暗渠を入れてくれ、と県に言うた」

「回答は」

「予算がない、と」

 東は、ウエスを機械の上に置いた。

「大区画にする金はあった。暗渠を入れる金はない。……順番が逆だろうが」

 高津は、その言葉をそのまま書いた。書きながら、二年前の要望書が課の書庫にあることを思い出していた。回答文を起案したのは、当時の担当だった若い職員である。予算の制約により対応困難、と書いてあったはずだった。

「収量のほうは、どうなんですか」

「増えたよ」

 東は乾燥機の並ぶほうへ顎をしゃくった。

「面積が増えたんだから、当たり前だ。……ところが、乾燥機が追いつかん」

 六基の金属の箱が、天井近くまで伸びている。

「刈った籾は、その日のうちに乾燥機に入れんと悪くなる。うちの容量は、一日にだいたい三十トンぶんだ。刈り取りのピークには、それを超える。超えたら、コンバインを止めるしかない。天気がええのに、機械があるのに、乾燥が空くのを待って止めとるわけだ」

「増設は」

「一基で数千万する。補助のメニューはある。あるが、面積要件と、事業計画と、それから、五年間の売上目標がついてくる。米の値が来年どうなるかも分からんのに、五年の目標を書けと言われてもな」

 東は倉庫の柱に背を預けた。

「国は田んぼを広げてはくれた。じゃが、乾燥機は建ててくれんかったのよ」

 高津は、ペンを止めた。

「結局のところ、うちの面積を決めとるのは、土地でも金でもない」

 東は指を二本立てた。

「田植えの二週間と、稲刈りの二週間だ。その二週間に動ける人間が何人おるか。それだけで、受けられる面積が決まる。今は正社員が四人、季節に来てくれるのが六人。……六人のうち四人が七十を超えとる」

 高津は、その数字も書いた。

「息子さんは」

「東京だ。戻らん」

 東は即答した。恨みのある言い方ではなかった。

「戻れとも言わん。うちの決算を見せたことがある。売上は二億を超えとる。数字だけ見れば立派なもんだ。……そのうち、補助金と交付金が何割を占めとるかは、あんたのところが処理しとるんだから分かるだろう」

 高津は知っていた。書類を起案しているのは、彼自身である。

「機械の更新に借りた金が、まだ残っとる。コンバイン一台で千数百万だ。それを七、八年で入れ替えていく。米の値は、上がる年もあるが、均せば下がっとる。……この商売は、面積を増やさんと回らんように出来とるんだ。増やせば機械が要る。機械が要れば借りる。借りたら、また増やさんといかん」

 東は、コンバインの車体を軽く叩いた。

「わしは、それを三十年やってきた。やってきて、いま七十枚だ」

「だから、これ以上は受けられん」

 東は、初めて声を低くした。

「上寒河の三十枚は、来年から返す。神谷の分も同じだ。遠いし、水の管理に人手が要る。うちが潰れたら、平野の百五十ヘクタールごと止まる。……そっちを守るために、山のほうを切る。それが経営としての正解だ」

 高津は頷いた。頷くしかなかった。

「わしは、この判断が間違っとるとは思っとらん」

 東は、まっすぐ高津を見た。

「じゃが、市役所さんにひとつだけ訊きたい」

 乾燥機の並ぶ倉庫の中は、静かだった。外の風の音だけが、鉄板を伝って入ってくる。

「わしが引き受けられんかった田んぼは、誰が引き受けるんだ」

 高津は、答えを持っていなかった。

 市には、農地の受け手を用意する権限も予算もない。農地バンクには登録できる。登録したところで、借り手がつかない土地は、登録簿の上で年を越すだけである。上寒河と神谷の三十枚は、来年の春には、借り手のいない農地になる。

「……検討します」

 高津は、そう言った。

 言った瞬間に、自分がその言葉を今年何度使ったかを考えた。数えていなかった。数えていないのは、たぶん、数えたくなかったからだった。

 東は、それ以上何も言わなかった。ウエスを取り、またコンバインの下へ潜っていった。

 倉庫を出ると、雪が本降りになっていた。

 高津は公用車のドアを開け、シートに座って、しばらくエンジンをかけずにいた。フロントガラスに雪が積もり、外の景色が少しずつ白く塗り潰されていく。

 東は、市がこれまで最も期待をかけてきた農家である。彼が受けられる面積の上限は、土地でも資本でもなく、二週間に動ける人間の頭数で決まっていた。その頭数は、これから減ることはあっても増えない。

 つまり、市内の農地の面積は変わらないまま、受け皿の側だけが毎年小さくなっていく。

 その差の分を、誰かがどこかで引き受けなければ、田は薮になる。薮になると、獣が下りる。獣が下りると、隣の田も作れなくなる。

 高津の手元の資料には、その連鎖を止めるための事業名が、いくつも並んでいた。並んでいるだけである。

 午後は、神谷だった。


2-3 神谷集落

 神谷へ入る市道は、一本しかない。

 谷の入り口で川を渡り、そこから沢に沿って登っていく。途中に短い橋が二つある。二つ目の橋の欄干は、片側だけが新しい。何年か前に車が当たって、そこだけ交換したのだと、高津は知っていた。

 道の両側は薮だった。

 冬なので葉は落ちているが、落ちているぶん、薮の骨格がよく見える。細い木と蔓が絡み合い、その根元に枯れた笹が厚く積もっている。かつてそこが田だったことは、時おり現れる石積みで分かった。段になった石積みが、薮の中に何段も隠れている。

 公民館の前に、軽トラックが三台停まっていた。

 中は、石油ストーブの匂いがした。長机がひとつ出ていて、四人の男が座っている。全員が七十を超えていた。

「ご苦労さんです」

 区長の岡崎が、立ち上がって頭を下げた。七十九歳になる。背が高く、痩せていて、声だけがよく通る。

 高津は書類を出した。中山間地域等直接支払制度の集落協定について、廃止に係る手続きの説明である。

「もう、決まっとることだからな」

 岡崎が言った。

「今の協定は、来年の三月で切れる。次の五年をやるには、うちには人が足りん」

 協定には、農用地の維持について集落として取り組むことが要件になっている。要件を満たせない場合、協定は結べない。

「戸数は、いま」

「六戸だ」

 岡崎は指を折った。

「そのうち、実際に田を作っとるのは二戸。うち一戸は、わしだ。もう一戸は、下の息子が土日に帰ってきて回しとる」

 高津は、あらかじめ用意していた図面を広げた。集落の農地と、水路と、市道と、ため池の位置が入っている。

「順番に確認させてください」

 岡崎の隣に座っていた男が、湯呑みを両手で包みながら口を開いた。

「順番なら、こっちが先に教えてやるよ」

「といいますと」

「集落が終わっていく順番だ」

 男は、窓の外を指した。

「最初に来るのは、獣だ」

 高津は、ペンを構えた。

「人が減ると、まず端の田から作らんようになる。作らんようになった田は、二年で薮になる。薮は集落の際まで来る。……薮が来ると、次にイノシシが来る。シカが来る。獣ってのは、人がおらんようになった順に下りてくる」

「電気柵は」

「張っとるよ。張っとるが、柵ってのは張ったら終わりじゃない。下草を刈らんと漏電する。年に何遍も見回らんといかん。その見回りをする人間が、いま六人しかおらん」

 男は湯呑みを置いた。

「柵の維持ができんようになると、内側の田もやられる。やられると、作る気がなくなる。作らんようになると、また薮が広がる。……そうやって、外から順に食われていく」

「次に来るのは、水だ」

 岡崎が引き取った。

「水路が詰まる」

 彼は図面の一本の線を指でなぞった。

「谷の水は、この水路で受けて、下の川に落としとる。落ち葉と土砂で毎年詰まる。昔は春と秋に総出で泥上げした。三十戸あったからな。今は六戸で、そのうち登れるのは三人だ」

「詰まると、どうなりますか」

「水が溢れる。溢れた水は、いちばん低いところを探して流れる。たいていは道だ。道の路肩を削って、削れたところに次の年また水が来る」

 岡崎は、図面の別の場所を叩いた。

「厄介なのは、こっちだ。法面の裏だな」

「裏、といいますと」

「表から見えとるコンクリートは、擁壁だ。あれは土を押さえとる。押さえとるが、裏に水が溜まると、その水が壁を押す。水抜きの穴が詰まっとると、押す力がどんどん強くなる」

 高津は、その説明を書き取った。書きながら、これは土木課の領域だと考え、次の瞬間、土木課の職員が最後に神谷へ来たのはいつだったかを考えた。

「壁は、割れる前は何ともないように見える」

 岡崎は言った。

「割れてからでは、遅い」

 長机の端に座っていた三人目が、黙って高津の前の図面を指した。ため池の記号である。

「これも、いずれ話が来るじゃろ」

「ため池は、防災重点農業用ため池に指定されています。今後、堤体の点検を……」

「改修せえと言われて、見積もりを取ったのは五年前だ」

 岡崎が遮った。

「一億を超えた。うちの集落が使っとる水は、田んぼ二枚ぶんだ。そんな金は出ん。県の担当も、それは分かっとる。それで、この前来たときに、こう言われた。改修より、廃止のほうが安いですよ、と」

 部屋が、少し静かになった。

「廃止というのは、水を抜いて、堤を切ることだ」

 岡崎の声が、初めて硬くなった。

「わしの親父の代に、ここの者が総出で造った池だ。造るときは、みんなで土を担いだと聞いとる。それを今度は、金を出して埋めるんだと」

 彼は、湯呑みを持ち上げ、口をつけずに置いた。

「作ったもんを、また金を出して埋めるんかい」

 高津は、何も言えなかった。

 長机の端の男が、ぼそりと言った。

「除雪も、そのうち来んようになるじゃろな」

 高津は顔を上げた。

「除雪は、市の委託でやっています。路線は……」

「知っとるよ。委託先の建設会社が、去年一社減った。残りは二社だ。うちの谷は、いちばん最後に回ってくる。朝の七時に出たいのに、上がってくるのが十時だ」

 男は湯呑みを回した。

「六戸のために、あの道を朝いちばんに開けろとは、わしらも言わん。言わんが、救急車は、除雪が済むまでは上がってこられん」

 誰も、その先を続けなかった。

 高津には、言えることがあった。ため池の堤体の下流に四戸あること。決壊した場合の浸水想定が図面に落ちていること。廃止のほうが人命に対して安全であること。すべて正しい。正しいことを、この部屋で口に出すには、彼はまだ若すぎた。

「……手続きを、進めます」

 高津は、協定廃止の書類を岡崎の前に置いた。

 岡崎は、老眼鏡をかけ、一枚ずつ丁寧に読んだ。読み終わると、上着の内ポケットから印鑑を出した。布の小袋に入った、古い実印だった。

 朱肉に当て、位置を合わせ、押した。

 乾いた音がした。

 石油ストーブの上で、やかんが小さく鳴っていた。

「これで、うちは制度から外れるわけだ」

 岡崎は印鑑を袋に戻しながら言った。

「べつに、外れて何か変わるわけでもない。金が来んようになるだけだ。……草は、来年も生える」

 高津は書類を鞄にしまい、頭を下げた。

 外へ出ると、雪はまだ降っていた。軽トラックのフロントガラスに、もう一センチほど積もっている。

 岡崎が見送りに出てきて、谷の奥を指した。

「市長には、よろしく言うといてくれ」

 高津は頷いた。岡崎が巽市長の遠い親類であることは、庁内では誰もが知っている。

「あの人も、ここの生まれだ」

 岡崎はそれだけ言って、引き返していった。

 高津は、公用車に乗る前に、一度だけ谷の奥を見た。

 薮の中に、石積みの段が続いている。あれを積んだ人間は、もう誰も生きていない。積むには何年もかかったはずだった。壊すのにも、たぶん同じくらいかかる。

 放っておけば、勝手には無くならない。ただ、少しずつ形を失って、いつか一度に落ちる。

 彼は車に乗り、暖房を最大にした。窓の内側が曇り、指で拭くと、その向こうに白い谷があった。


2-4 共有者の一人

 帰りの車の中で、高津はずっと、朝の一覧のことを考えていた。

 谷を下り、川を渡り、旧県道に出る。ワイパーが雪を左右に払い、払ったそばからまた白くなる。対向車は一台も来なかった。

 同じ姓。

 この地方に多い姓である。市内の電話帳にも、同じ字が何十とある。それは事実だった。

 だが、彼が引っかかっていたのは姓ではなかった。あの行の本籍の欄に入っていた地名である。

 神谷。

 高津の父の実家が、神谷である。

 彼自身は平野で生まれ、平野で育った。祖父が戦後に山を出て、市街地の近くに家を建てた。父は市内の運送会社に勤め、四年前に死んだ。神谷の家は、高津が子供のころに一度だけ行ったきりで、屋根の形すら覚えていない。

 祖父が山を出たとき、家と田は、そのままにされた。

 売れなかったからである。当時、山あいの田を買う人間はいなかった。誰も住まなくなった家と、耕す者のいない田だけが残り、名義は祖父の父——高津から見て曾祖父——のままになった。

 曾祖父は、昭和のはじめに死んでいる。

 相続の登記は、その時にもされなかった。当時はそれで支障がなかった。田は近所の誰かが作り、収穫の一部が届いた。そういうやり方が成立していたあいだは、紙の上の名前が誰であろうと、実際には困らなかった。

 困りはじめたのは、田を作る人間がいなくなってからである。

 名義は、死んだ人間に紐づいたまま、七十年動かなかった。動かないあいだに、相続人は世代ごとに枝分かれし、増えた。

 増えた枝の先のひとつが、高津本人だった。

 四年前、父が死んだとき、相続の手続きは高津がやった。

 平野の家と、わずかな預金と、軽自動車。それだけの遺産分割協議書を作り、母と妹と三人で押印した。司法書士に頼まずに済ませたのは、費用を惜しんだからではない。分ける必要のあるものが、ほとんどなかったからである。

 そのとき、神谷の土地の話は一度も出なかった。

 母は知らなかった。妹も知らなかった。高津自身、父からその名義について聞いたことはない。相続の対象になるのは、父が持っていたものである。父は持っていなかった。名義は曾祖父のままで、父はただ、その膨大な相続人の一人だったにすぎない。

 協議書には、書きようがなかった。書きようがないものは、書かれない。書かれなかったものは、次の代へそのまま渡る。

 彼は、旧県道の路肩に車を寄せ、エンジンをかけたまま止めた。

 自分が三か月かけて追跡していた四十七名。その名簿の作成者であり、その名簿に載っている人間でもある。

 通知を出した側であり、出された側でもある。

 高津は、この三か月に何度も、自分の名前をシステム上で処理していたことになる。戸籍を取り、続柄を確認し、住所を照合し、封筒に宛名を印字した。四十七通のうち一通は、この市役所の職員宛てだった。届いていないはずがない。

 届いていた。

 彼は思い出した。十月の終わりに、自分の家のポストに、自分の課の封筒が入っていたことを。庁内の様式で印字された宛名を見て、何かの誤送だと思い、開封もせずに机の引き出しに入れた。そのまま忘れていた。

 自分が出した通知を、自分で無視していた。

 高津は、ハンドルに額をつけた。

 怒りは湧かなかった。恥ずかしさも、それほどではなかった。湧いてきたのは、もっと薄くて広い、疲労に近い感情だった。

 この仕事は、誰も悪意を持っていない。県は法令に基づいて調査を求めた。彼は職務上請求を適正に行った。相手方は、知らない土地の話に困惑しただけである。全員が、それぞれの持ち場で正しく振る舞っている。

 それでも、十八アールの薮は、誰のものにもならない。

 彼は顔を上げ、車を出した。

 その日の夜、高津は庁舎に戻った。

 二階の農林水産課には、彼のほかに誰もいなかった。暖房は六時で切れている。彼はコートを着たまま、パソコンを立ち上げた。

 机の縁に、付箋が一枚貼ってあった。日中、誰かが受けた電話の内容を書き写したものである。

 山間部・旧県道沿いで深夜に不審な大型ダンプ。悪臭。通報三件。

 高津は、その付箋を剥がして手に持った。

 旧県道沿い。上寒河の手前の分岐から入る、林道に近い区間だろう。あのあたりには、廃業した砕石場の跡地がある。所有者は、五年前に倒産した建設会社である。会社は清算されておらず、代表者と連絡が取れない。

 悪臭というのが何を指すのかは、書いていない。

 高津は、報告書のファイルを開き、この件の項目を作った。日時、場所、通報件数、通報者の匿名希望。現地確認は未実施。

 彼は、末尾に一行を書いた。

 書きながら、この一行を書くのは今年三度目だと気づいた。

 市にパトロールを行う予算と人員はありません。

 保存し、ファイルを閉じた。

 県警には、通報の内容をそのまま伝えてある。県警も動かないだろう。深夜のダンプは、それ自体は違法ではない。悪臭は、発生源を特定しなければ何の法にも当たらない。特定するには、誰かが夜中にそこへ行かなければならない。

 行く人間が、市にはいない。

 高津は、地図の該当箇所を画面に出した。

 砕石場の跡地は、市道から百五十メートルほど入ったところにある。入り口にゲートはない。あった時期もあったが、いつの間にかなくなった。撤去したのが誰かは分からない。土地は会社の名義のままで、その会社は登記簿上まだ存在している。存在しているが、本店所在地には別のテナントが入っており、代表者の住所は十年前のものである。

 誰の土地でもない、とは言えない。誰の土地でもあるとも言えない。

 そういう場所が、市内の地図の上に、いくつある。高津はそれを数えたことがない。数えろと言われたことも、ない。

 高津は、机の引き出しを開けた。

 十月の封筒が、下敷きになったまま残っている。彼はそれを取り出し、封を切った。

 中身は、彼自身が起案した文書だった。共有農地の管理に関するお願い。文中の「貴殿」という語が、いま自分に向けられている。

 文書の下のほうに、返信用の欄がある。共有持分の管理について、意向を記入してください、という趣旨の欄だった。

 高津は、ペンを取った。

 そして、そこで手が止まった。

 自分が何を書けるのか、分からなかった。管理する、と書けば、その十八アールの薮を、誰が刈るのかという話になる。しない、と書いても、持分は消えない。放棄したい、と書いても、受け皿はない。

 彼はペンを置き、文書を封筒に戻した。

 戻した封筒を、引き出しではなく、鞄に入れた。

 庁舎を出ると、雪はやんでいた。空が晴れて、冷え込みが強くなっている。駐車場のアスファルトに残った轍が、白く凍り始めていた。

 北の谷筋のほうは、黒かった。灯りが、いくつも見えなかった。


2-5 処分手数料

 その事務所は、県庁所在地の駅から歩いて十分ほどの、古い雑居ビルの四階にあった。

 看板は出ていない。エレベーターを降りて左手の、すりガラスの入った扉に、小さく「梶原」とだけ書いてある。

 三沢は、その前で一度、息を整えた。

 六十六歳になる。三年前まで、県内で二番目に大きい建設会社の社長だった。二番目、というのは自分でそう言っていただけで、実際には四番目か五番目だったかもしれない。いずれにせよ、会社はもうない。

 扉を開けると、想像していたよりも狭かった。

 書棚が二面、天井まで法令集と登記の実務書で埋まっている。窓際に事務机がひとつ。応接用のソファはなく、机の前に折り畳みのパイプ椅子が一脚置いてあるだけだった。

「三沢さんですね。かけてください」

 机の向こうの男が、顔を上げずに言った。

 梶原という男は、六十前後に見えた。灰色のセーターの上に事務服のような上着を羽織り、痩せていて、姿勢がいい。声には抑揚がなかった。役所の窓口で、番号を呼ぶときのような声である。

 三沢は、抱えてきた紙袋から書類を出した。

「電話でお話しした、山林と、工場の跡です」

「拝見します」

 梶原は書類を受け取り、一枚ずつ、めくった。速かった。三沢が説明しようとするたびに、手のひらを小さく上げて制した。

 十分ほど、紙をめくる音だけがした。

 山林は三十ヘクタールある。会社の資材置き場として使っていた土地の裏山で、社の名義のまま、清算の過程でどうしても引き取り手がつかなかった。工場の跡は、それとは別の場所にある。染色をやっていた会社から、二十年前に安く買ったものである。

 安かった理由は、あとで分かった。

「工場跡の土壌調査は」

 梶原が、初めて顔を上げた。

「……六年前に、一度」

「結果は」

「基準値を、その、超えていまして」

「何が」

「六価クロムと、フッ素です」

 梶原は頷いた。驚いた様子はなかった。

「面積は」

「二千二百平方メートルほどです」

「掘削除去なら、二億から三億でしょう。封じ込めでも、一億は下りません」

 三沢は、うつむいた。

 その数字は、六年前に業者から聞いた金額とほぼ同じだった。当時は払えると思っていた。三年前に払えなくなった。

「山林のほうを伺います。境界は」

「……確定していません。四方とも」

「隣接地の所有者は」

「一方は市有林です。あとの三方は、その、分かりません。地番は分かるんですが、名義が古くて」

「登記簿上の名義人は、故人ですね」

「はい」

「山林の中に、構造物は」

 三沢は、口ごもった。

「昔の作業道が入っていて、途中に……擁壁が」

 梶原の手が、そこで止まった。

「擁壁」

「はい。コンクリートのやつが、二十メートルほど」

「施工はいつですか」

「私が買う前です。昭和の……たぶん、四十年代かと」

「水抜きの穴は」

「そこまでは、見ていません」

「擁壁の下は、何がありますか」

 三沢は、その質問の意味が分からなかった。

「下、というのは」

「斜面の下です。道路か、家屋か、水路か。何がありますか」

 梶原の声は、それまでと同じ調子だった。だが、質問の速さだけが、わずかに変わっていた。

「……林道が一本、下を通っています。市道ではないと思います。あとは、その先に、沢が」

「人家は」

「沢を下ったところに、二軒ほど」

 梶原は、机の引き出しから白紙を一枚出し、簡単な図を描いた。斜面、擁壁、林道、沢、家。それだけの図である。

「現地を見ます」

 彼は言った。

「見た上で、擁壁の背面に水が回っている形跡があれば、こちらで先に処置します。費用は見積もりに乗せます」

 三沢は、思わず訊いた。

「あの……そんなところまで、やるんですか」

「やります」

 梶原は、それ以上の説明をしなかった。図を書類の間に挟み、姿勢を戻した。

「金額を申し上げます」

「はい」

「五千万円です。お支払いいただくのは、三沢さんです」

 三沢は、顔を上げた。

 意味は分かっていた。分かっていて来た。それでも、口に出されると、体が固くなった。

「私が、あなたに、五千万円を払う」

「そうです」

「それで、あの土地は」

「私が引き取ります。正確には、私が用意した法人が引き取ります。以後、三沢さんは所有者ではなくなります。固定資産税の通知は来なくなります。土地に起因する損害賠償を請求されることも、なくなります」

 梶原は、初めて三沢の目を見た。

「私が引き取っているのは、土地ではありません。責任です」

 三沢は、膝の上で手を握った。

 五千万円は、自宅を売った金の、ほとんど全部である。娘には、老後の資金だと説明してある。

「……あなたは、その土地をどうするんですか」

「処理します」

「処理」

「まず、法人が取得します。その後、法人の持分を分割し、複数の法人と個人に移します。移した先は、それぞれ別の名義になります。一部は国外の法人です」

 梶原は、白紙にもう一枚、線を引いた。今度は樹形の図だった。ひとつの箱から線が伸び、いくつもの箱に分かれ、そのそれぞれからまた線が伸びていく。

「五年で、この土地の権利関係は、追跡に数年と数千万円を要する状態になります。誰かがそこまでしてこの土地を追う理由は、ありません。追った先にあるのは、汚染された二千二百平方メートルと、崩れかけの山ですから」

「……それは、合法なんですか」

「一つひとつは合法です」

 梶原は、白紙を裏返した。

「持分の譲渡は自由です。法人の設立も自由です。海外法人が国内の土地を保有することも、現行法では制限されていません。私がやっているのは、その全部を、極めて丁寧に、大量に行うことだけです」

 三沢は、しばらく黙っていた。

 窓の外で、雪が降り始めていた。

「……私は、悪いことをしているんでしょうか」

 自分でも、なぜそんなことを訊いたのか分からなかった。相手は、こういう相談に答える種類の人間ではない。

 梶原は、少しのあいだ、何も言わなかった。

「三沢さん。あなたは十五年前、その工場跡地を持っていたことで、何か利益を得ましたか」

「……いえ。使っていませんでした」

「では、これから先、持ち続けることで、誰かが得をしますか」

「……しません」

「そうです」

 梶原は、契約書の綴りを机の上に置いた。

「誰も得をしていないものが、あなたのところにだけ残っている。それを外す作業です。良し悪しの話は、私はしません」

 三沢は、ペンを取った。

 署名する手が、少し震えた。梶原は、それを見ても何も言わなかった。急かしもしなかった。ただ、書き終わるまで、まっすぐに待っていた。

 署名を終えると、梶原は綴りを引き寄せ、確認し、頷いた。

「三日以内に現地を見ます。擁壁の件は、こちらで進めます」

 三沢は立ち上がり、頭を下げた。扉を閉める間際、振り返った。

 梶原はもう、次の書類を開いていた。

 机の上には、先ほど描いた斜面の図だけが、まだ一枚、伏せずに置かれていた。

 ビルを出ると、雪が本降りになっていた。

 三沢は、駅までの道を歩きながら、何度か振り返った。四階の窓に、明かりがついている。

 自分が今日、何を手放したのかは、はっきりしていた。五千万円と、三十ヘクタールの山と、汚れた二千二百平方メートル。

 分からないのは、あの男が最後に描いた図のことだった。

 金額の話をしているあいだ、相手はまったく表情を変えなかった。汚染の数字を聞いても、境界が四方とも未確定だと聞いても、同じ声で頷いただけである。

 声の調子が変わったのは、一度きりだった。

 擁壁の下に何がありますか、と訊いたときである。

 三沢は、その質問を、これから何年も思い出すことになる。


第三章


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