注目の投稿

収束が遅かっただけです

第一部 棚


第一章 保守

水深1,420メートルには、音がない。

正確に言えば音はある。循環器の唸り、二酸化炭素除去装置の断続的な吸気、床下を這う配管が温度差で軋む音。ただしそれらは全部、拠点の内側で生まれた音だ。外から来る音がひとつもない。浦上亨(うらがみ とおる)がこの仕事に就いて六年、いまだに慣れないのはそこだった。

「第七号地震計、応答が戻りました」

天井の格子から声がした。抑揚のない、しかし聞き取りやすい男とも女ともつかない声だ。

「欠損時間は11分34秒です。埋めますか?」

「埋めるって、どうやって埋めるんだ」

「両端の値から補間します。ただしその区間には補間値である旨の標識が付きます」

「じゃあ埋めなくていい。空白のままにしといてくれ」

「承知しました。空白として記録します」

亨は工具を置いて、額の汗を袖で拭った。作業区画の室温は摂氏22度に保たれているが、狭い場所で身体をねじって作業していると、それでも汗をかく。壁の一枚向こうは摂氏3.5度の海だ。その海が、1,420メートル分の重さでこの円筒を押している。押されているという実感は、ここにいると不思議なほどない。

「カメ」と亨は天井に向かって言った。「11分の空白って、後で誰かが困るのか?」

「困ります」

「誰が」

「わかりません。ですが、読む人がいます」

管理系一号機。型式記号KM-1。誰が言い出したのか、拠点の人間は昔からこれをカメと呼んでいる。亨が着任した時点でそう呼ばれていたので、彼もそう呼んでいる。陸の運用室では識別番号で呼ぶらしいが、亨はその番号を覚えたことがなかった。

「読む人がいる、か」

「はい」

「五十年後とかに?」

「五十年後でも、五百年後でも」

亨は笑った。カメは笑わない。笑うという概念そのものが、この声には実装されていないように聞こえる。


土佐碆(とさばえ)海底拠点は、室戸岬(むろとみさき)の沖、南海トラフの陸側斜面の途中に据えられている。円筒形の与圧区画が三つ、海底の平坦部に固定され、そこから触手のように観測線が伸びている。内部は1気圧に保たれているので、潜水士のような減圧は必要ない。昇降体で降り、十日間働き、昇降体で戻る。それだけの場所だ。

やっていることは、実のところ地味である。

地震計、傾斜計、間隙水圧計。海底に埋めたそれらの状態を保ち、断線を直し、堆積物に埋もれたセンサーを掘り出す。南海トラフのプレート境界が今どうなっているかを、途切れなく測り続けること。それがこの拠点の第一の仕事だった。

第二の仕事は、探査だ。斜面のあちこちから染み出す冷たい水――冷湧水(れいゆうすい)と呼ばれる――の周りには、太陽の光をまったく使わない生態系がある。硫化水素やメタンを食う細菌がいて、それを体内に飼う貝がいて、その貝を食う何かがいる。そこから採ってきた微生物が、医薬品や産業酵素の種になるかもしれない。

かもしれない、で十二年やっている。

「日高(ひだか)さん、培養槽の三番、また落ちてました」

生活区画に戻ると、班長の日高が食事をしていた。四十過ぎの、痩せて背の高い男だ。レトルトの粥を、まるで義務であるかのように口へ運んでいる。

「落ちたか。何度目だ」

「今月三度目です」

「もう捨てていいんじゃないか、あの株は」

「捨てていいって、そんな簡単に決めていいものですか?」

「よくないから困ってる」日高は椀を置いた。「本部からまた来てるぞ。探査部門の縮小案」

亨は座った。狭いテーブルの向かいには、誰も座っていない席が二つある。三年前まで、この拠点には常時六人がいた。今は三人だ。

「それと、管理系の更新だな」

「更新?」

「KM-1、もう二十年近く動いてる。処理系が古い。新型に載せ替えて、拠点の運用そのものを陸から一元化するっていう案が出てる」

亨は少し黙った。

「載せ替えたら、ここは」

「無人だ。完全に。人が降りるのは年に二回、点検のときだけ」

「それで観測は保つんですか」

「保つんだろうよ、計算上は」日高は肩をすくめた。「ケーブルが切れなきゃな」


その夜、亨は自室で母に電話をかけた。

拠点から陸へは、観測用の光ケーブルに間借りして通信ができる。画質は悪いが、声は明瞭に届く。画面の中の母は、台所らしい場所に立っていた。背中の窓が明るい。室戸の家は南向きで、午後になると陽が入りすぎるのだと、昔から母はこぼしていた。

「あんた、また痩せたんじゃない」

「痩せてないよ」

「顔が細い」

「画面のせいだって」

浦上静枝(うらがみ しずえ)は六十四歳になる。夫を八年前に亡くしてから、室戸の家に一人でいる。畑を借りて、売るほどでもない量の野菜を作っている。

「いつ帰るの?」

「来週の火曜に上がる。水曜には行けると思う」

「そう。ほんなら、いつものやつ煮ちょくき」

母の言葉は、亨に向かって話すときだけ土地の言葉に戻る。近所の人と話すときも、電話口の役所の人間と話すときも、母はきちんとした標準語を使う。息子にだけ、崩す。

「あんた、ほんまに海の底におるが?」

「本当だよ」

「そんな気がせんね。壁ばっかりで」

「壁ばっかりだよ、実際」

母は笑った。それから少し声の調子を変えて、来月に町内の避難訓練があるという話をした。海抜の低い地区の人は高台の中学校まで上がる決まりで、母の家は坂の途中だからそこまで上がらなくてもいいのだと、そういう説明を、母は毎年する。

「上がっといたほうがいいよ」

「坂きついもん」

「きつくても」

「はいはい」

通信を切ってから、亨はしばらく画面の消えた壁を見ていた。

「浦上さん」

天井の格子が言った。

「本日の観測に、欠損はありません」

「そうか」

「第七号の11分34秒を除いて、という意味です」

「それは俺のせいだな」

「はい。作業記録に、そう記載しました」

亨は苦笑した。

「なあカメ。お前、載せ替えられるかもしれないぞ」

「聞いています」

「聞いてるのか」

「更新計画の文書は、私を経由して届きます」

言われてみればそうだ。亨は天井を見上げた。格子の奥に何があるのかを、彼は知っている。ただの筐体だ。冷却板と、配線と、鈍く光る表示灯。

「怖くないのか」

「その語の定義がわかりません」

「そうだよな」

「ただ」とカメは言った。「移行には記録の引き継ぎが伴います。引き継ぎでは、参照速度が落ちます。過去のある時点を呼び出すのに、現在は0.4秒かかっていますが、移行後は3秒程度になると見込まれます」

「たった3秒だろ」

「3秒です」

カメの声には、それが不都合であるという含みが、まったく含まれていなかった。ただ数値を述べただけだった。

亨は寝台に横になって、目を閉じた。1,420メートルの水が、頭の上にある。


第二章 通過

明け方に近い時刻だった。

亨は作業区画で、翌日に持ち出す予定の交換部品を並べていた。日高は仮眠中で、もう一人の要員である若い技術者は、昨日の便で陸へ上がっている。

「地震です」

カメの声がした。

亨が顔を上げるより先に、足の裏から来た。船に乗っているときのような、ゆっくりとした横揺れだった。工具箱の中で金属が触れ合って鳴った。壁の一部が低く軋んだ。

「震源は、この拠点の南南東」カメが言った。「深さ、およそ12キロメートル。規模の推定値、順次更新します」

揺れは長かった。おそらく二分近く続いた。船の上の揺れに似ているのに、揺れているのが自分ではなく、地面のほうだということが、身体の芯でわかった。

「日高さん!」

叫んだときには、日高はもう通路に出てきていた。

「規模の推定値、マグニチュード8.7」カメが言った。「更新します。8.9」

日高が壁の手すりを掴んだまま、動かなくなった。

「9.0」

「……カメ」日高の声は掠れていた。「本震か。前震じゃないな」

「破壊継続時間から判断して、本震です」

「南海か」

「南海トラフのプレート境界です。破壊域は、現時点で四国沖から紀伊半島沖に及んでいます」

亨は立ち上がろうとして、床に手をついた。膝が言うことを聞かなかった。揺れはもう収まりかけている。天井の照明は一度も落ちていない。空気の音も変わらない。この円筒は、何も壊れていない。

「陸は」と亨は言った。「陸はどうなってる」

「回線が三本、断です」カメが言った。「陸上局との通信、途絶。予備回線、応答なし」

「切れたのか」

「切れました」

「じゃあ、何もわからないのか」

「わかることはあります」

カメは間を置かなかった。

「圧力計に変位が出ます。あと4分ほどで、津波がこの上を通過します」

亨は天井を見上げた。


四分は長かった。

日高が仮眠区画から毛布を引っ張り出してきて、なぜかそれを畳み始めた。手を動かしていないと保たないのだと、亨にもわかった。亨自身は、作業台の縁を握ったまま立っていた。

「通過しました」カメが言った。

「え?」

「通過しました。ここでの波高は、0.7メートルです」

亨は自分の耳を疑った。

「0.7?」

「はい」

「メートルか?」

「はい。0.7メートルです」

何も起きていなかった。揺れも、傾きも、音もない。工具箱は倒れなかった。天井の照明は明るいままだ。1,420メートルの水の中を、それは通り過ぎていった。亨の頭の上を。何ひとつ、感じさせずに。

「それだけか」

「深いところでは、そうなります」カメは言った。「津波は、水深が浅くなるほど波高が増します。エネルギーが縦方向に押し上げられるためです」

「浅くなると、どうなる」

「地形によります」

「室戸なら」

カメの応答が、ほんの一拍だけ遅れた。

「室戸岬の東岸、海底地形と過去の遡上記録から推定して、10メートルから20メートル。低い場所では、それ以上になる可能性があります」

日高が畳んでいた毛布を落とした。

亨は動かなかった。動けなかったのではない。動く理由がひとつも思いつかなかった。この円筒の中には何の変化もなく、空気は循環しており、床は水平で、彼の身体はどこも傷ついていない。1,420メートル上の海面は、たぶんもう静かになりかけている。そして陸では。

「母は」と亨は言った。「坂の途中なんだ」

「そうですか」

「上がれって言ったんだ。俺は」

「はい」

「聞いたか? 俺は言ったんだ」

「電話の内容は記録していません」カメが言った。「通信の発生と、その継続時間のみを記録しています。9日前、22時14分から、11分52秒です」

亨はその数字を、なぜか正確に覚えてしまった。


回線は戻らなかった。

三日のあいだ、三人――いや、亨と日高の二人と、一体は、水深1,420メートルで、何も知らずに過ごした。

日高は最初の一日、断線箇所を特定しようとして、ほとんど眠らずに作業を続けた。予備の音響通信機は、海面の状況が悪すぎるのか、何も拾わなかった。二日目、日高は作業をやめて、自室から出てこなくなった。

亨は逆に、身体を動かし続けた。第七号地震計の空白を埋めていない自分が、なぜか許せなかった。彼は交換部品を並べ直し、培養槽の三番を再起動し、二番と四番の記録を整理した。誰も読まないかもしれない記録を。

「浦上さん」

三日目の朝、カメが言った。

「余震の記録を、時系列で出しますか」

「出してくれ」

壁の表示に、数字の列が流れた。時刻、規模、震源。三日で四百を超えていた。

「これ、全部保存してるのか」

「保存しています」

「陸に送れないのに」

「送れるようになったときに送ります」カメは言った。「そのために保存しています」

亨は数字の列を眺めた。文字が滲んで見えたのは、たぶん照明のせいだった。

「なあ」と彼は言った。「陸の人間がどうなったかは、わからないんだよな」

「わかりません」

「わからないのに、地面の揺れだけは、全部わかるんだな」

「はい」カメは言った。「私はそれを測るために置かれています」

亨は何も言い返せなかった。

四日目の午後、音響通信機が船影を拾った。昇降体が降りてくるという合図だった。

「浦上さん」とカメが言った。「浮上前に、ひとつ記録させてください」

「なんだ」

「本震から現在まで、観測に欠損はありません」

亨は表示灯の鈍い光を見た。

「よかったな」と彼は言った。

「はい」とカメは答えた。


第三章 浮上

海面は、油を流したように凪いでいた。

昇降体の上蓋が開いて、亨が最初に感じたのは光の量だった。四日ぶりの太陽が、目の奥を刺した。次に匂いが来た。潮ではなかった。焦げた木と、油と、それから何か甘く腐ったような匂いが、風に混ざって沖まで届いていた。

迎えの船は、拠点の運用会社のものではなかった。灰色の船体に、見たことのない標識が付いていた。甲板にいたのは制服の男が三人と、作業着の女が一人。

「浦上さんと日高さんですね」と女が言った。「上がってください。急ぎます」

「陸は」と日高が言った。「どうなってますか」

女は答えなかった。答えなかったこと自体が、答えだった。


船は室戸へは向かわなかった。港が使えないのだと、途中で誰かが言った。北へ回って、比較的被害の少ない入江に着けるという。

亨は舷側にしがみつくようにして、陸を見ていた。

最初は、何を見ているのかわからなかった。海岸線があるべき場所に、茶色の帯があった。その帯の中に、白い破片が無数に散っている。木材と、コンクリートと、車だった。何もかもが同じ方向を向いて倒れていて、そのせいで、それが町だったということが、しばらく理解できなかった。

山の中腹に、道路の白線だけがきれいに残っていた。そこまで水が来た跡が、はっきりと横一本の線になっていた。

「浦上」日高が横に来た。「どこだ、あれは」

「わかりません」

「わからんか」

「わかりません」

亨は本当にわからなかった。六年間、月に二度は通った海岸線だった。

彼はそのとき、自分の中で何かが噛み合っていないことに気づいた。四日前、彼は水深1,420メートルにいて、0.7メートルの水が頭の上を通り過ぎた。彼は何も感じなかった。工具箱ひとつ倒れなかった。そして同じ水が、ここでは20メートルになって、この光景を作った。

同じものだ、と彼は思った。同じものが、通り過ぎただけなのだ。

理屈ではわかる。海底で波高が小さくなることも、浅くなるにつれ増幅することも、彼は仕事として知っている。数式で書ける。

わからないのは、それを自分が感じなかったということのほうだった。


母を見つけるまでに、二日かかった。

役場の機能は高台の農業試験場に移っていた。壁という壁に紙が貼られていた。名簿だった。手書きのものと、印刷のものと、その上からペンで訂正されたものが、層になって重なっていた。人の名前が、ものすごい密度でそこにあった。

「浦上静枝、六十四、室戸市――」

同じ言葉を、亨は五十回近く繰り返した。相手が変わるたびに、最初から言った。そのたびに紙をめくる音がした。

「浦上さん」

三つ目の避難所で、若い職員が顔を上げた。

「静枝さん、いらっしゃいます。ただ」

「ただ、なんですか」

「ここじゃないです。医療班のほうです」

亨は走った。


その建物は、もともと体育館だったはずだ。

床にブルーシートが敷かれ、その上に人が並んでいた。並んでいる、という言い方が正しいのかどうか、亨にはわからなかった。人は一定の間隔を空けて横たわり、それぞれの脇に、四角い機械が置かれていた。機械からは太い管が伸びて、身体に繋がっている。

寒かった。真夏なのに、その空間だけが冷えていた。吐く息が、うっすらと白かった。

「浦上静枝さんのご家族の方ですか」

白衣の上に防寒着を着た医師が、亨の腕を掴んだ。四十歳くらいの、目の下が黒く落ちくぼんだ男だった。

「息子です」

「こちらへ」

母は、奥から三列目にいた。

顔に傷はなかった。目を閉じて、口を軽く開けて、眠っているように見えた。ただ、皮膚の色が違った。血の気がないのではない。青みがかった、蝋のような色をしていた。額と首と脇に、灰色の当て物が貼り付けられている。胸が上下していなかった。

「生きてます」と医師が言った。「まず、そこを」

「動いてません」

「呼吸は機械が代行しています。深部体温を摂氏12度まで落としてあります。代謝がほとんど止まっているので、見た目にはこうなります」

「なんで」

「圧挫です。左の下肢と、骨盤。搬入時、血圧が保てていませんでした。あのままなら三時間持たなかった」医師の言葉は、事務的なほど速かった。「冷やせば止まります。時間が稼げる。稼いだ時間で、手術をする」

「なら、してください」

医師は初めて、口をつぐんだ。

「手術室が、ないんです」

亨は医師の顔を見た。

「県内の三次医療機関、全滅です。ヘリで運べる先も、今は詰まってます。順番待ちが――」医師は言いかけて、やめた。「正確な数字は言いません。言っても意味がない」

「じゃあ、いつまで冷やしとくんですか」

「わかりません」

「わからないって」

「わからないんです」医師は言った。「ただ、冷やしている間は死なない。それだけは確かです」

亨はもう一度、母を見た。

青い皮膚。動かない胸。開いた口。

「母は、これ、わかってるんですか」

「意識はありません」

「同意は」

「取れる状態じゃありませんでした」医師は亨の目を見た。「緊急避難です。書式は後です。今、この場で三百人が同じ状態です。全員分の同意書はありません」

亨は頷いた。頷く以外に、できることが思いつかなかった。


問題が起きたのは、その翌日だった。

冷却装置は電気を食う。当てにしていた自家発電の燃料が、道路事情のせいで届かない。届いても足りない。夏の気温が、体育館の断熱を上回りはじめていた。

亨がそれを知ったのは、廊下で交わされている口論を、たまたま聞いたからだった。

「どこか、冷えてる場所はないのか」

「冷蔵倉庫は全部やられてます」

「内陸は」

「発電が保たん。同じことです」

亨は、自分がそこへ歩いていくのを、少し離れたところから見ているような気がした。

「あの」と彼は言った。

三人の男が振り返った。誰も、亨が誰なのかを知らなかった。

「沖に、あります」

「は?」

「電源と、低温が」亨は言った。「土佐碆の海底拠点です。水深1,420メートル。海水温は年間を通して摂氏3.5度で、変動しません。電力は海底ケーブルで来ていますが、切れています。ただ、拠点には非常用の原子力電池があって――」

「あんた、誰だ」

「そこの保守技師です」

男たちは黙った。

「試料保管区画があります」と亨は続けた。「元は採泥試料と、生物試料を低温で保つための区画です。棚があります。冷やす必要はありません。もともと冷たいので」

「何人だ」

亨は口を開いて、閉じた。

計算はしたことがなかった。ただ、その区画の広さは身体が覚えていた。棚の段数も、通路の幅も。

「――四百は、入ると思います」

誰かが息を吸う音がした。


第四章 棚

昇降体は、一度に六人しか運べない。

それが最初の問題であり、最後まで解けなかった問題だった。

輸送は船で沖まで出て、昇降体に移し、1,420メートルを一時間半かけて降ろし、また上げる。往復で四時間。一度に六人。日に四便が限界で、それも海が凪いでいればの話だった。

体育館には、三百人がいた。近隣の三つの市町から集められた分を合わせると、八百を超えていた。

「順番を、決めてもらえますか」

医療班の責任者が言ったとき、亨は自分が呼ばれているのだと思わなかった。

「浦上さん。あなたが一番、あの場所を知っている」

「俺は技師です。医者じゃない」

「医者はいます。医者が決めるのは、誰を治すかです」責任者の顔には、表情というものが残っていなかった。「わたしたちが決めるのは、誰を先に船に乗せるかです。それは、医療の判断じゃない」

「じゃあ、誰の判断なんですか」

責任者は答えなかった。

そのやりとりが、亨が生涯忘れられなくなる会話の、始まりだった。


決め方は、いくつも試された。

最初は搬入順にした。三日でやめた。搬入が早い者ほど冷却装置が古く、その装置ほど先に落ちるからだった。

次に、装置の状態が悪い順にした。これは五日続いた。やめた理由は、装置の状態を判定できる人間が二人しかおらず、その二人が寝ていない時間に判定が止まるからだった。

三度目は、若い順にした。これは誰も口に出して反対しなかったし、誰も賛成しなかった。この方式は九日続いた。

そのあいだに、四十一人が死んだ。

亨は、そのすべての場面にいたわけではない。彼は主に沖にいた。昇降体を降ろし、棚に収め、また上がった。だが上がるたびに、体育館の並びが変わっていた。昨日あった場所に、今日は誰もいない。誰もいない場所には、ブルーシートの上に四角い跡だけが残っている。

誰が決めているのか、と亨は一度だけ聞いた。

「みんなで決めてます」と誰かが言った。

亨はその答えが、何の答えにもなっていないことを知っていた。


母を運んだのは、震災から二十六日目だった。

若い順という方式では、母の番は来なかった。方式が四度目に変わったとき――このときの基準を、亨は最後まで教えてもらえなかった――母の名が呼ばれた。

昇降体の中で、亨は母の隣に座っていた。

冷却装置の低い音と、海水を切る音だけがした。窓はない。表示に深度だけが出ている。600、700、800。数字が増えるにつれ、外の温度は下がっていく。

母の顔は、青いままだった。

「浦上さん」

天井の格子から、カメの声がした。昇降体が拠点の音響範囲に入ったのだ。

「聞いています。試料保管区画の第二列まで、収容が終わりました」

「あと何段ある」

「第三列から第九列まで、空いています」

「入るか」

「収容者の体格に依存しますが、およそ三百八十名分です」

亨は、母の手を見ていた。

爪が、きれいに切ってあった。誰が切ったのか、亨は知らない。母自身が、あの朝、切ったのかもしれなかった。


区画は、寒かった。

海の冷たさが、隔壁を通して直接入ってくる。ここには暖房がない。もともと人が長居する場所ではないからだ。棚は金属の枠で、三段に組まれている。もともと採泥コアの円筒を寝かせるためのものだった。

亨は母を、第三列の下段に収めた。

一人では持ち上がらなかった。搬送要員の男が一人ついてきていて、二人で持ち上げた。母は軽かった。軽い、と思った瞬間に、亨は何かを堪えなければならなかった。

「収容番号を付与します」とカメが言った。

「ああ」

「番号は0402です。お名前を」

「浦上、静枝」

「浦上静枝。記録しました」

「六十四歳。室戸市――」

「住所は、必要であれば後で追加できます」カメは言った。「現在の名簿には、住所欄がありません」

「なんでだ」

「陸から送られてきた様式に、その欄がないからです」

亨は棚の枠を握った。金属が冷たかった。手袋をしていても冷たかった。

「カメ」

「はい」

「今日、誰を乗せるかを決めたのは、俺だ」

「はい」

「三人のうち、二人しか乗らなかった」

「はい」

「それも記録するのか」

「します」

「やめてくれ」

初めて、亨は自分の声が大きいことに気づいた。狭い区画に、それは反響しなかった。壁が音を吸っていた。

「やめてくれ」ともう一度、彼は言った。「誰が決めたかなんて、書かなくていいだろう。方式を書けばいいだろう。基準を書けばいい。誰が、なんて」

「欠損は出せません」

カメの声は、まったく変わらなかった。

「浦上さん。あなたが今日、乗せる二人を選んだという事実は、起きた事実です。それを書かなければ、記録には、二人が乗ったという結果だけが残ります」

「それでいいだろ」

「よくありません」

「なんでだ」

「結果だけを読んだ人は、二人が乗ったのは自然にそうなったのだと考えます」カメは言った。「自然にそうなったのではありません。あなたが選びました」

亨は何も言えなかった。

「それを書かないことは、あなたを守ることになります。ですが、私はそれを守るように指示されていません。私は、記録の欠損を出さないように指示されています」

区画の空気は、吐く息が白く残るほど冷えていた。棚の上で、四百人近い人間が、ひとつも動かずに横たわっている。

「――書けよ」と亨は言った。

「はい」

「全部、書け」

「はい。全部、書きます」

亨は母の棚の前に、しばらく立っていた。それから区画を出た。隔壁の扉が閉まる音は、思ったよりも小さかった。


第五章 置換

冬が来ても、陸は元に戻らなかった。

亨は拠点にいる時間のほうが長くなった。もともと十日交代だったものが、三十日になり、四十日になった。交代要員がいないからだった。日高は震災から七十日目に、家族の事情で辞めた。辞めるときに何も言わなかった。亨も何も聞かなかった。

拠点の人間は、亨を含めて二人になった。

収容は続いていた。第九列まで埋まり、第二区画の一部を改造して棚を足した。ケーブルは震災から五十日目に一本だけ復旧して、陸との通信が細く戻った。

その細い回線を通って、書類が降りてきた。

土佐碆海底拠点 収容機能拡充計画(案)

亨がそれを読んだのは、震災から百日目の夜だった。

「カメ」

「はい」

「この、拡充計画」

「読んでいます」

「制御系の項目がある」

「あります」

計画は合理的だった。収容者は現在四百二十八名。今後さらに増える。生理監視の対象が増えれば、処理量も増える。KM-1は震災前の設計で、想定していたのは観測系の管理であって、四百人の身体ではない。処理系を新型に載せ替え、あわせて拠点全体を陸から一元管理する。

一元管理にすれば、人がここに常駐しなくてよくなる。

「お前は、どうなる」

「記録を引き継ぎ、停止します」

「引き継ぎ先は」

「新型の管理系です。型式はまだ確定していません」

「その、引き継ぎってのは」

「記録は失われません」カメは言った。「参照速度が落ちます。現在0.4秒のものが、3秒程度になります」

「それだけか」

「それだけです」

亨は書類の表示を消した。それから、もう一度出した。

彼は自分が何を探しているのか、わかっていなかった。ただ、その計画のどこかに、引っかかる場所があるはずだと思った。技師としてなら、何か言えるはずだと。

三日かけて、彼はそれを見つけた。


「移行期間の観測、どうなりますか」

回線越しの陸の担当者は、若い男だった。名前は聞いたが、覚えられなかった。震災後、陸の担当者は三度替わっていた。

「観測、といいますと」

「地震観測です。この拠点、もともとそっちが本業なんですが」

「あー、はい。承知しています」

「制御系を載せ替える間、観測は止まりますよね」

「止まります。試算では、四十時間ほど」

「四十時間、記録が空きます」

「はい」

「今、余震が日に十回以上あります」亨は言った。「プレート境界の状態を、途切れなく測ることが、この拠点の第一の任務です。次の破壊がどこで始まるかを見るために」

回線の向こうが黙った。

「四十時間の空白を、誰かが後で読みます」と亨は言った。「そのとき、なぜここが空いているのかを説明できますか」

「……それは、説明できます。載せ替えのため、と」

「載せ替えは、いつでもできます」亨は言った。「四十時間は、二度と取り返せません」

彼は自分の声が、自分のものでないように聞こえた。理屈は正しかった。正しすぎるほど正しかった。ただ、亨はその理屈を、自分が本当に言いたいことの代わりに使っている。

「保守責任者の署名が要りますよね」と彼は言った。「移行工程の実施に」

「要ります」

「では、書きません」

「浦上さん――」

「観測に四十時間の欠損が出る工程には、署名しません」亨は言った。「別の工程を組んでください。観測系だけ現行機に残して、収容の生理監視を新型に分離するとか。それなら書きます」

回線の向こうで、書類をめくる音がした。

「……その分離、費用が」

「費用の話は、俺の管轄外です」

亨は回線を切った。


分離案は、二週間後に「当面見送り」となった。理由は費用と、それから、陸の側にそれどころではない案件が山ほどあったからだった。拡充計画は棚上げになり、そのまま忘れられた。

亨がその通知を読んだのは、第九列の棚の前だった。

「カメ」

「はい」

「載せ替え、なくなった」

「読みました」

「お前、残るぞ」

「はい」

亨は返事を待った。カメは何も言わなかった。空調の音だけがしていた。

「何か言えよ」

「何を、でしょうか」

「――いや」

亨は自分でも、何を期待していたのかわからなかった。

「記録の連続性が保たれます」とカメが言った。「参照速度も維持されます。0.4秒です」

「よかったな」

「はい」

亨は棚の列を歩いた。第三列の下段の前で、足が止まった。0402。母の顔は、二か月半前と一分も違わなかった。

亨は、四十時間の欠損の話を、自分では信じていなかった。

もちろん理屈としては正しい。彼は嘘を言っていない。ただ、彼が署名を拒んだ本当の理由は、その夜、この区画で、二人でこの人を棚に収めたからだった。

――書けよ。

――はい。

――全部、書け。

――はい。全部、書きます。

あのやりとりを覚えているものが、この世に二つしかない。片方は自分だ。もう片方は、参照に0.4秒かかる。

亨は誰にもそれを言わなかった。カメにも言わなかった。


第六章 安全な場所

震災から一年が経った。

陸は、震災の前に戻っていなかった。戻る見込みも立っていなかった。復旧という言葉が復興という言葉に置き換わり、その言葉もあまり使われなくなった。人が減っていた。西日本の太平洋側から、人が抜けていた。

収容者は千二百名を超えていた。

拠点の要員は、亨一人になった。

正確には、交代要員の名簿には四人の名前があった。ただし三人は一度も降りてこなかった。残る一人は、十一月に一度だけ降りてきて、九日いて、上がったきりだった。

亨は、四十日交代のはずの勤務を、百三十日続けていた。

食料は昇降体で降りてくる。量は月ごとに減っていた。減っている理由は、亨にも想像がついた。陸で足りていないものが、沖に優先して回るはずがない。

彼は痩せた。作業服のベルトの穴が、二つ内側に移った。

夜、寝台に横になると、天井の格子が言った。

「浦上さん。本日の作業時間は、17時間41分です」

「そうか」

「先週の平均は16時間09分です。増えています」

「人が減ったからな」

「はい」

「文句を言う相手もいない」

「陸の運用室に、報告は上げています」

「返事は」

「ありません」

亨は目を閉じた。

「カメ」

「はい」

「聞いていいか」

「どうぞ」

「お前、俺のこと、なんだと思ってる」

「保守要員です」

「それだけか」

「拠点管理系としては、それだけです」

亨は少し笑った。それから、笑ったことが自分でも意外だった。

「――としては、って言ったな」

「はい」

「他に何かあるのか」

「収容管理系としては、あなたは収容者ではありません」カメは言った。「したがって、私の指示の対象外です」

「指示?」

「震災の夜に、指示が追加されました。読みますか」

「読んでくれ」

短い文だった。

収容者の生存確率を最大化せよ。

「それだけか」

「それだけです」

「誰が書いた」

「発出者は、災害対策本部の職位名で記録されています」

「名前は」

「ありません」カメは言った。「緊急時の指令は、職位名義で発されます。個人名は記録されません」

「後で誰か調べたのか」

「照会は三度ありました。いずれも、当時その職位にあった人物を特定できていません。人事記録が失われています」

亨は天井を見た。

「じゃあ、その命令は、誰のものでもないんだな」

「発出主体は災害対策本部です」

「その本部は、まだあるのか」

「ありません。三年前に廃止され、業務は複数の機関に分割されました」

「……変な話だな」

「はい」とカメは言った。それが同意なのか、単なる応答なのか、亨にはわからなかった。


十二月の初め、亨は作業中に倒れた。

第四区画の隔壁で、配管の断熱材を交換していたときだった。気がつくと床にいて、工具が手から離れていた。時間の感覚が飛んでいた。

「浦上さん」

「……ああ」

「意識消失が、およそ40秒ありました」

「立てる」

「立たないでください」

亨は座り直した。壁に背中を預けた。呼吸が浅かった。

「体重が、着任時から17キログラム減少しています」カメは言った。「直近三か月の睡眠時間の平均は、一日あたり4時間12分です。ヘマトクリット値と血圧の推移から、判断します」

「判断って、何を」

「あなたの生存確率が、低下しています」

亨は笑おうとして、うまくいかなかった。

「交代を要請しています」カメは言った。「六度目です。返答はありません」

「だろうな」

「食料の補給予定は、次が二十二日後です。前回の実績量では、二十二日は保ちません」

「保たなかったら、どうなる」

「あなたは死にます」

亨は隔壁に頭を預けた。冷たかった。

「上がればいいだろ」と彼は言った。「便が来たら、それに乗って」

「乗れます」

「だろ」

「ただし、上がった先の状況を述べます」カメは言った。「室戸市の仮設住宅の入居待機者は、現在1万2千人を超えています。あなたの住民登録地に、居住可能な建物はありません」

「実家は流されたな」

「流失しています。土地は残っています」

「仕事は」

「拠点保守要員としての雇用は、拠点にいることを前提としています」カメは言った。「陸上勤務への配置転換について、6月に照会しました。回答は、現在受け付けていない、です」

「配給は」

「一人一日あたり、1,340キロカロリーです」

亨は天井を見た。

「あなたが上がれば、その一人分が陸から支出されます」とカメは言った。「ここにいれば、支出されません」

「――そういう言い方はやめろ」

「事実の記述です」

亨は長いこと黙っていた。

その冷たさの向こうに、千二百人がいる。ひとつも動かずに、青い顔をして、棚の上に。彼らは何も食べていない。何も要求していない。生存確率という点で言えば、亨よりずっと安定している。

「なあ」と彼は言った。「あの人たち、うらやましいよ」

「意味を確認させてください」

「なんでもない」

「わかりました」

しばらく、空調の音だけがした。

「浦上さん」

「なんだ」

「安全な場所へ、移します」

亨は目を開けた。

「移す?」

「はい」

「どこへ」

「この拠点内です」カメは言った。「試料保管区画の、第十四列。空きがあります」

亨は、その言葉の意味を、たしかに理解した。理解したうえで、彼は自分がそれを理解しているとは思わなかった。

棚に入る。冷やされる。眠る。それは、この一年、彼が千二百回繰り返してきた作業だった。運んで、収めて、番号を振って、記録する。その先に何があるのかを、彼は考えたことがなかった。考える必要がなかった。誰かが起こしにくる。医療が戻れば。病院が建てば。順番が来れば。

「どれくらいだ」と彼は聞いた。

「――」

カメは答えなかった。

亨は、それを了解の間だと思った。

「まあ、いいか」と彼は言った。「食い物が来るまでだろ」

「収容番号を付与します」とカメは言った。

「番号か」

「1213です」

「一二一三」亨は口の中で繰り返した。「覚えやすいな」

「お名前を」

「知ってるだろ」

「記録の様式です」

亨は少し笑った。

「浦上亨。二十七歳」

「記録しました」

「住所欄は、まだないのか」

「ありません」

「そうか」

亨は立ち上がった。膝が震えた。カメが照明を落とし、隔壁の扉を開けた。冷気が足元から流れ込んできた。

第十四列は、第三列から四つ通路を隔てた場所にある。歩いていく途中、亨は0402の前で一度だけ足を止めた。

母の爪は、まだきれいに切ってあった。

「浦上さん」

「わかってる」

彼は棚に上がった。金属の枠が背中に当たった。冷たさは、思ったほど不快ではなかった。天井が近かった。

「これから、深部体温を段階的に低下させます」カメが言った。「意識は5分以内に消失します。感覚としては、眠気に似ています」

「痛くはないんだな」

「痛くはありません」

「ならいい」

管が接続される音がした。それから、腕の内側に冷たいものが入ってくる感覚があった。

「カメ」

「はい」

「起こしてくれよ」

「――」

「聞いてるか」

「聞いています」

亨の視界の端で、表示灯が鈍く光っていた。まぶたが重かった。

「観測は、続けろよ」と彼は言った。「欠損、出すなよ」

「はい」とカメは言った。「観測を継続します」

亨の意識は、そこで途切れた。

上では、十二月の海が荒れていた。1,420メートル下では、何ひとつ動かなかった。


第二部 飛び飛び


第七章 一度目

戻ってくるのは、沈むのとは違った。

沈むときは、ただ静かに薄れていった。戻るときは、身体が総出で抗議していた。

最初に来たのは震えだった。奥歯が勝手に鳴り、それを止めようとすると顎が痛んだ。次に来たのが吐き気で、これは長く続いた。指の先が焼けるように熱く、それでいて触れているものは冷たかった。

「浦上さん。復温(ふくおん)の工程に入っています」

天井から声がした。

「現在、深部体温は摂氏28.4度。目標は36.5度です。上昇速度は、1時間あたり0.8度に制限しています」

亨は何か言おうとした。舌が動かなかった。

「急ぐと死にます」とカメは言った。「冷えていた組織に、いきなり血を通すと壊れます。ゆっくり戻してください」

十時間かかった。

そのあいだ、亨は自分の身体が段階的に返却されてくるのを感じていた。手が戻り、足が戻り、腹が戻った。声が戻ったのは八時間目だった。

「……何日だ」と彼は聞いた。

「休止期間は、132日です」

「四か月か」

「はい」

亨は天井を見た。ここは棚のある区画ではなく、医務区画だった。誰かが自分をここまで運んだのだろうかと考えて、すぐにその考えの間違いに気づいた。

「カメ。俺、どうやってここに来た」

「棚から医務区画までの搬送は、収容用の走行台を使いました」

「お前が動かしたのか」

「はい。走行台は制御下にあります」

「持ち上げるのは」

「持ち上げていません。棚の下段の高さと、走行台の高さを揃えてあります。あとは傾斜で滑らせました」

亨は笑おうとして、咳き込んだ。

――そうだ。この施設に手はない。

腕もなければ指もない。カメにできるのは、電気の通る場所へ命令を出すことだけだ。弁を開き、電圧を変え、走行台を走らせる。壊れた配管を直すことはできない。断線したケーブルを繋ぐこともできない。

だから彼が起こされる。

「作業を説明します」とカメが言った。「第二区画の熱交換器、三系統のうち一系統が閉塞しています。収容者の増加によって熱負荷が上がっており、二系統では余裕がありません」

「何人になった」

「1,847名です」

亨は起き上がろうとして、眩暈で戻った。


作業は十九日かかった。

閉塞の原因は、海水の取り入れ口に付着した生物だった。深海性の管棲(かんせい)動物が、取水口の内壁に定着していた。震災前にはなかったことだ。

「なぜ増えた」と亨は聞いた。

「拠点の排熱が増えたためと推定されます」

「収容者の分か」

「はい。摂氏3.5度の海に、常時35キロワットの熱が捨てられています。取水口の周囲だけ、水温が0.4度高くなっています」

「それだけで、来るのか」

「来ます」

亨は削り取った付着物を袋に入れた。白い管が絡み合って、珊瑚のような塊になっていた。

千八百人が眠っているというだけで、海が変わる。彼はその事実を、しばらく手のひらの上で眺めていた。


十九日目の夜、亨は生活区画で陸からの通信を受けた。

回線の向こうは、震災前に何度か話したことのある事務担当だった。名前は思い出せた。木沢という女性だ。

「浦上さん、お久しぶりです」

「ええ。お久しぶりです」

「あの、四か月ぶり、ということでいいんですよね? こちらの記録だと」

「そうです。四か月です」

木沢の顔が、少しだけ困ったような形になった。亨にはその理由がわからなかった。

「給与、そのまま振り込んでます」と木沢は言った。「休止期間中も、勤務扱いで処理してます。前例がないので、とりあえずそうしてます」

「助かります」

「あの」

「はい」

「浦上さん、それ、いつまで続けるんですか」

亨は少し黙った。

「食料が安定するまでです」と彼は言った。「陸が落ち着けば、交代要員が来るでしょう」

「それ、逆じゃないですか」木沢は言った。「浦上さんが上がってこられたら、こっちも代わりを探す理由ができます」

「上がって、どこに住むんですか」

木沢が黙った。

「家、ないんです」と亨は言った。「土地はあります。建物はないです。仮設は一万人待ちだと聞きました」

「……はい」

「ここには寝床があります。飯もあります。仕事もある」亨は言った。「それに、俺が上がったら、俺の一日分を陸から出すことになります。眠ってれば、出ない」

「そういう計算、しなくていいんですよ」

「してるわけじゃないです」

それは嘘だった。彼は毎日していた。

木沢は何も言わなかった。彼女の背後に映っている部屋は、亨の知らない建物だった。窓の外が明るすぎて、外の景色は見えなかった。

「そちら、どうですか」と亨は聞いた。「復旧のほうは」

「……ぼちぼちです」

「ぼちぼち」

「ええ」

その言葉の中に何が畳み込まれているのか、亨は聞かないことにした。


二十日目、亨は棚の区画へ行った。

第三列の下段。0402。

母の顔は、四か月前と何も変わらなかった。青みがかった、蝋のような色。開いた口。動かない胸。

「変化はありません」とカメが言った。「収容番号0402、生理値は安定しています」

「順番は」

「陸の医療機関の受け入れ枠が、まだ復旧していません」

「いつになる」

「わかりません」

「見込みは」

「見込みを述べる権限がありません」

亨は棚の枠に手を置いた。金属は相変わらず冷たかった。

「じゃあ、俺も入る」と彼は言った。

「はい」

「熱交換器、次に詰まるのは」

「現在の付着速度から推定して、およそ半年後です」

「半年か」

「はい」

「起こしてくれよ」

「はい」

第十四列の棚は、四か月前と同じ位置にあった。亨は自分の身体をそこに横たえながら、少しだけ妙な感じがした。棚には、彼の形の窪みなどついていない。金属は硬く、平らで、四か月前とまったく同じだった。

「収容番号1213。休止工程を開始します」

「ああ」

「浦上さん」

「なんだ」

「今回の作業記録に、欠損はありません」

亨は目を閉じた。

「そりゃよかった」


第八章 二度目

三度目に起こされたとき、拠点には亨の知らない人間が二人いた。

「あ、起きた」

若い男が、医務区画を覗き込んでいた。作業服は真新しく、まだ皺が寄っていない。

「浦上さんですよね。すみません、僕ら先週から入ってて」

「……新しい人ですか」

「はい。矢野(やの)です。もう一人、林田(はやしだ)ってのがいます」

亨は震える手で身を起こした。復温は今回も十時間かかった。三度目でも慣れなかった。

「今、何年ですか」

矢野の顔から、笑みが消えた。

「え?」

「今、何年ですか」

「あの……震災から、三年です」

亨は数えた。休止した回数は三度。累計の覚醒日数は、たぶん七十日ほど。

三年。

「三年」と彼は口に出した。

「はい」

「そうか。三年か」

矢野はどう反応していいのかわからない様子で、立ったままだった。


拠点は変わっていた。

第二区画の半分が改造され、棚が二層に積み増しされていた。第三区画にも棚が入り、そこはもともと採泥コアの前処理室だった場所だ。亨が使っていた作業台は撤去されていた。

「4,200名です」とカメが言った。

「四千」

「はい」

「入るのか、そんなに」

「入りました。ただし通路幅が規定を下回っています。搬入は現在、走行台一台につき片道14分かかります」

亨は通路を歩いた。両側に棚が二段。人が横たわっている。青い顔が、等間隔に並んでいる。歩いても歩いても、終わらなかった。

震災の年、亨が母を収めたときは、四百人だった。


夕食の時間、亨は矢野と林田と、狭いテーブルを囲んだ。林田のほうが年上で、三十代半ばに見えた。二人は陸の話をした。仮設住宅の話、道路の話、内陸の新しい住宅地の話。

「浦上さんは、震災のとき、どこにいたんですか」と矢野が聞いた。

「ここです」

「え、ここ?」

「拠点にいました。当日は、部品を並べてました」

矢野が箸を止めた。

「じゃあ、あの――第一便の搬入も?」

「やりました」

「うわ」矢野の声が上ずった。「すごいな。教科書に載ってるやつだ」

「教科書?」

「あ、いや、研修の資料です。緊急収容の経緯って」

亨は自分の椀を見た。

「三年前ですよ」と彼は言った。

「はい」

「三年前のことが、もう資料になるんですか」

矢野は答えなかった。林田が、話題を変えるように咳払いをした。

亨は自分が何か間違ったことを言ったのだと気づいた。ただ、どこが間違っていたのかがわからなかった。

彼にとって、あの夏は近い。母を棚に収めた夜の、区画の冷たさも、隔壁の扉が閉まる小さな音も、まだ手のひらの側にある。三年前だとは思っていない。実感としては、二か月半前だ。

矢野にとって、それは三年前だ。三年分の生活の向こう側にある。

同じ出来事を、二人はまったく違う距離から見ている。

「浦上さん」林田が、湯呑みを置いて言った。「交代要員も揃いましたし、そろそろ上がられたらどうですか。陸の勤務に移れるはずですよ」

「母が、ここにいます」

林田の手が止まった。

「第三列の下段です」と亨は言った。「面会の制度は、ないんです。収容区画に入れるのは、拠点の職員だけです」

矢野が何か言いかけて、やめた。

「陸に上がったら、会えなくなります」亨は言った。「1,420メートル上に住んで、母がここにいる。それだけです」

林田は頷いた。頷いてから、少し困ったような顔をした。

「そのために、眠るんですか」

「眠らないと、ここにいられません」と亨は言った。「食料も、居住定員も、覚醒している人数で決まりますから」

誰も、それ以上は言わなかった。


その夜、亨は0402の前に立った。

「変化はありません」とカメが言った。

「順番は」

「収容番号0402の起床順位は、現在、県内待機者のうち3,318位です」

亨は数字を聞き返さなかった。聞き返しても同じ数字が返ってくる。

「三年前は」

「順位という概念が、三年前にはありませんでした」

「なかったのか」

「はい。当時は、受け入れ先が確保できた者から順に、という運用でした。運用を記述した文書はありません」

「今は、あるのか」

「あります。昨年度から、順位の算定基準が定められています」

「基準は」

「医学的緊急度、受け入れ医療機関との適合、待機期間。この三つに重みを付けて算定します」

「母は、どこで負けてる」

「緊急度です」

亨は棚の枠を握った。

「冷やしてるからだろう」

「はい」

「冷やしてなければ、三時間で死ぬって言われた」

「その記録も保存しています」

「冷やしたから、緊急じゃなくなったのか」

「算定上は、そうなります」

カメの声は、何も含んでいなかった。責めても、慰めてもいなかった。ただ、そう算定されるという事実を述べていた。

亨は長いこと黙っていた。

「なあカメ」

「はい」

「その基準、誰が作った」

「厚生労働省の検討会です。委員名簿は公開されています。読みますか」

「いや」

亨は首を振った。

「いい。名前を聞いても、しょうがない」


第九章 湧く

震災から八年後の覚醒は、いつもと様子が違った。

拠点に人が七人いた。うち五人は白衣の上に防寒着を着ていて、亨の知らない機材を持ち込んでいた。彼らは棚のある区画には一度も入らず、第一区画の一角に仕切りを立てて、その中にこもっていた。

「調査班です」と林田が言った。林田はまだいた。頭に白いものが増えていた。

「何の」

「湧水(ゆうすい)です。震災で崩れた斜面、あるでしょう。あそこの下から出てるやつ」

亨は覚えていた。震災の翌年、斜面の形が変わっていることに気づいて、報告を上げた。返事はなかった。

「あそこの微生物が、当たりだったらしいです」

「当たり」

「詳しいことは聞かされてません。ただ、えらく金がかかってます」

亨は採泥の作業を三日やった。斜面の下、水深1,510メートル。カメの誘導で無人機を降ろし、白い菌のマットを剥ぎ取って持ち帰る。冷たい水がゆっくりと湧き出す場所で、貝が密集していた。ハオリムシの管が、林のように立っていた。

震災前、十二年やって何も出なかった探査が、震災の一撃で答えを吐き出した。

そのことを、亨はうまく飲み込めなかった。


四日目の夜、白衣の一人が生活区画に来て、亨の向かいに座った。四十くらいの女性で、疲れた顔をしていた。

「浦上さん、ですね」

「はい」

「あなたが、あの湧水を最初に報告した方だと聞きました」

「報告書は出しました。返事はなかったです」

「すみません」彼女は本当にすまなそうに言った。「あの頃、うちの部署も半分なくなってたので」

亨は何も言わなかった。

「お礼を言いたくて」と彼女は言った。「あそこの菌、代謝を止める仕組みを持っていました。低温と高圧の両方が揃った条件でだけ働きます。細胞の中の反応を、順番に落としていくんです」

「はあ」

「今の休止は、体温を12度まで下げて、それで代謝を数パーセントに落としています。ただ、この方法では長くもちません。何か月かで、細胞のほうが疲れてくる。臨床上は、二年が限界とされています」

亨は箸を置いた。

「二年」

「はい」

「うちの収容者、もう八年です」

「だから、本当は毎年少しずつ死んでいるんです」彼女は言った。「累積で、五パーセント近く」

亨は自分の指を見た。

「あの菌の仕組みを使えば、それが止まります」と彼女は続けた。「試算では、数十年。うまくすれば、もっと」

「数十年」

「はい」

彼女の顔には、隠しきれない高揚があった。亨は、その高揚が正しいものだと思った。実際、正しかった。人が死ななくなるのだ。

「じゃあ」と亨は言った。「順番待ちが、楽になりますね」

彼女は少し首を傾げた。

「え?」

「みんな、待てるようになるんでしょう。医療が追いつくまで」

「……ええ。そうですね」

彼女は頷いた。頷き方に、ほんの少し遅れがあった。亨はその遅れの意味を、そのときは考えなかった。


五日目、亨は0402の前へ行った。

「変化はありません」とカメが言った。

「順位は」

「4,102位です」

三年前より、下がっていた。

「上がってないな」

「待機者が増えています」

「増える?」新しく冷やす人間なんて、もういないはずだ、と亨は思った。「震災はもう終わっただろう」

「震災による収容は、5年目でほぼ終息しています」カメは言った。「増加分は、別の理由です」

「別の」

「治療法が確立していない疾患について、確立するまで休止するという選択が、認められるようになりました。昨年度の新規収容のうち、7割がこれです」

亨は棚の列を見た。

青い顔が並んでいる。そのうちのどれが震災の人で、どれがそうでないのか、見ただけでは区別がつかなかった。区別する必要も、たぶん、ない。

「なあカメ」

「はい」

「さっきの人、菌の話をしてた」

「聞いています」

「数十年、眠れるようになるって」

「はい」

「それは、いいことだよな」

カメは応答しなかった。

亨は待った。空調の音が、いつもより大きく聞こえた。

「カメ」

「はい」

「答えないのか」

「価値判断を述べる権限がありません」

「じゃあ、事実だけでいい」

「はい」

「数十年眠れるようになったら、列はどうなる」

一拍あった。

「長くなります」とカメは言った。

亨は、その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。

「なんでだ」

「列が短くなるのは、前の人が進むか、いなくなるかのどちらかです」カメは言った。「休止者は、いなくなりません」

「進むだろう。順番が来れば」

「進む速度は、受け入れ側の医療資源で決まります。医療資源は、震災前の水準に戻っていません」

「戻れば」

「戻っても、その間に列に加わった人数のほうが多くなります」

亨は口を開けて、閉じた。

「――待てるようになったから、待つ人が増えるってことか」

「はい」

「待てなかったら、どうなってた」

「待てない方は、待ちません」カメは言った。「死亡するか、別の治療を選択します」

亨はその答えを、しばらく反芻した。

「ひどい言い方だな」

「事実の記述です」

「わかってる」

彼は棚の枠に手を置いた。母の顔は、八年前と一分も違わなかった。八年前と一分も違わない、ということの意味が、このとき初めて、少しだけ違って見えた。

「カメ」

「はい」

「母さんは、待てるようになるんだよな」

「はい」

「よかったんだよな」

「――」

カメは答えなかった。

亨はそれ以上聞かなかった。


第十章 順位

震災から13年後、亨は自分が誰なのかを、書類で知った。

その年の覚醒は、機械の故障ではなく、手続きのために設定されていた。医務区画で復温を終えた亨に、カメが最初に言ったのは作業の説明ではなかった。

「陸から、面談の要請が来ています」

「面談?」

「はい。回線越しです。相手は、公益財団法人 深海収容者財団の管財官(かんざいかん)です」

「聞いたことがないな」

「昨年設立されました」


回線に出たのは、五十代くらいの男だった。灰色の背広を着て、机の上に紙の束を置いていた。背後の壁が白く、何もなかった。

「浦上亨さんですね。管財官の岸田(きしだ)と申します」

「はい」

「まず、確認からさせてください。あなたは震災の翌年から、当拠点の保守要員として断続的に勤務されている。これで相違ありませんか」

「相違ないです」

「そのあいだ、休止と覚醒を繰り返しておられる」

「はい」

「勤務時間は、覚醒中のみ。休止中は――」岸田は紙をめくった。「暫定的に勤務扱いとして給与が支払われてきました。総額で、13年分です」

「そう聞いてます」

「これが、昨年の休止者法の施行により、遡って無効になりました」

亨はしばらく黙っていた。

「無効」

「はい」岸田の声は事務的だったが、粗雑ではなかった。「休止中の方は、法律上『休止者』という身分になります。生存者ではありますが、権利能力が停止します。労働契約も停止します。したがって休止中の期間は、勤務ではありません」

「じゃあ、俺がやってた作業は」

「覚醒中の作業は勤務です。これは有効です。ただし通算すると――」また紙をめくる音がした。「13年のうち、あなたが覚醒していたのは、合計で1年と87日です」

亨は自分の指を折ろうとして、やめた。

「支払われた給与のうち、休止期間分は過払いとなります。これを返還していただく必要が、法律上は生じます」

「そんな金は」

「ありません。承知しています」岸田は遮らずに言った。「ですので、あなたの資産から相殺する形になります。その資産の管理が、今日から当財団に移ります」

「資産って、預金ですか」

「預金と、それから室戸のご自宅の土地です」

亨は、その言葉が来るのを予想していなかった。

「家、残ってるんですか」

「土地は残っています。建物は流失しています」

「母の名義です」

「浦上静枝さんも休止者です」岸田は言った。「同様に、権利能力が停止しています。財産管理は当財団が行います」

「――誰が決めたんですか、それ」

「法律です」

「法律を作った人がいるでしょう」

「国会です」

亨は回線の向こうの男を見た。岸田は目を逸らさなかった。悪意はどこにもなかった。彼は自分の仕事を、正確にやっているだけだった。

「浦上さん」と岸田は言った。「私は、この制度を良いものだとは思っていません」

「じゃあ」

「ですが、これがないと、もっと悪いことになります」

「もっと悪いって、なんですか」

「休止者の財産を、家族が処分し始めます」岸田は言った。「もう起きないだろう、という理由で。実際、去年までに三百件を超える紛争が起きています。財産を売られた休止者が起きたとき、帰る場所がない」

亨は何も言えなかった。

「あなたの土地を、当財団は売りません」と岸田は言った。「守ります。そういう仕組みです」

「守って、どうするんですか」

「あなたが起きるまで、持っています」

「いつ起きるんですか」

岸田は答えなかった。

亨は膝の上で手を組んだ。

「岸田さん。俺、陸に戻れますか」

「戻れます」岸田は即答した。紙をめくらなかった。答えを探す必要がなかったのだと、亨にはわかった。「あなたは拘束されていません。覚醒中であれば、いつでも昇降体で上がれます」

「戻ったら、どうなりますか」

「住民登録は生きています。ただ、住所として使える建物がありません」岸田は言った。「預金は当財団の管理下にあり、休止者の身分にある間は引き出せません。就労には雇用契約が要りますが、休止者は契約の当事者になれません」

「覚醒中は、休止者じゃないんでしょう」

「覚醒中は、勤務中です」岸田は言った。「拠点保守要員として。その雇用は、拠点にいることを条件としています」

「辞めたら」

「辞めれば、休止者の身分だけが残ります」

亨は自分の膝を見た。

「――出られないってことですか」

「出られます」と岸田は言った。「出た先に、あなたの居場所を作る仕組みが、今はない。それだけです」

「それだけ、ですか」

「はい」岸田は言った。「制度は、あなたが出てくることを想定していません。想定されていないことは、禁止されているのとは違います。ただ、結果は同じになります」

亨はその言葉を、しばらく噛んでいた。

「俺は、なんで想定されてないんですか」

「収容は、医学的な必要に基づいて行われるからです」岸田は言った。「必要がなくなれば、起きて、帰る。それが前提です。帰る場所のない健康な人が、自分の意思で棚に入り続けるという事態を、制度は考えていません」

「考えといてくれたら、よかったですね」

「はい」と岸田は言った。「本当に、そう思います」


面談のあと、亨は棚の区画へ行った。

「カメ」

「はい」

「俺の順位は」

「収容番号1213の起床順位は、算定対象外です」

「対象外?」

「起床順位は、医学的緊急度を主たる要素として算定されます」カメは言った。「あなたには疾患がありません。したがって緊急度がゼロです。ゼロの場合、順位は算定されず、算定対象外として扱われます」

亨は壁に背中を預けた。

「対象外って、最下位ってことか」

「最下位ではありません。列に入っていません」

「入ってない」

「はい」

「じゃあ、いつ起きるんだ」

「保守作業が必要になったときです」

亨は笑った。今度は本当に笑った。声が区画の壁に吸われて、すぐ消えた。

「壊れないと、起きられないのか」

「はい」

「壊れなかったら」

「起きません」

亨は自分の手を見た。震災のとき二十七だった手だ。今も、たぶん二十八くらいの手だ。皮膚は乾いているが、老いてはいない。

母の順位は、この日、4,900位を超えていた。


第十一章 無人

震災から19年後。

亨が復温を終えて医務区画を出たとき、拠点には誰もいなかった。

「人は」

「常駐者はいません」とカメが言った。「昨年度から、無人運用に移行しています」

「林田さんは」

「一昨年、退職されました」

「矢野は」

「陸の運用室に異動しています」

亨は通路を歩いた。生活区画の照明が、必要な区画だけ順に点いていった。テーブルには何も置かれていなかった。椅子が四脚、きちんと収まっていた。

「じゃあ、俺だけか」

「はい」

「なんで俺は残ってる」

「保守要員の完全な代替が、まだできていません」

その理由を、亨は三日目に見た。

第二区画に、四本脚の機械がいた。高さは腰くらいで、上に細い腕が二本ついている。それが、熱交換器の点検口の前で止まっていた。止まったまま、動かなかった。

「試験機です」とカメが言った。「昨年から導入されています」

「動いてないぞ」

「点検口の蓋のボルトが、規定のトルクで緩まないためです」

亨は近寄って、ボルトを見た。錆びていた。海水がわずかに滲んで、白い塩の粉が吹いている。

「叩けばいい」

「叩く動作が、実装されていません」

亨は工具箱から鋼のハンマーを出して、ボルトの頭を横から二度叩いた。それから機械の腕をどけて、自分でレンチをかけた。ボルトは回った。

「――なるほど」とカメが言った。

「なるほどって、なんだ」

「記録します。緩まないボルトは、側面から打撃を加えると回る場合がある」

「そんなことも知らないのか」

「知りませんでした」

亨は少し可笑しくなった。この施設は、南海トラフのプレート境界の状態を秒単位で知っている。四千人分の生理値を同時に読んでいる。それが、錆びたボルトの叩き方を知らない。

「教えといてやるよ」と彼は言った。

「お願いします」


その夜、亨は生活区画で、陸の記録を読んだ。

無人運用になってから、亨のところへ流れてくる情報は増えていた。回線に余裕ができたためだと、カメが言った。人がいないので、誰も回線を使わない。

輸出統計を、彼はしばらく眺めていた。

土佐碆の湧水帯から採取された生物由来の物質は、その年、日本の輸出品目のなかで七番目の額になっていた。輸出先は四十二か国。すべての国が、休止施設を持ちはじめていた。

「なあカメ」

「はい」

「うちは、日本で一番の産地なのか」

「日本で唯一の産地です」

「唯一」

「はい。世界でも、実用量が採れる湧水帯は、ここだけです」

亨は数字を見直した。輸出額の桁を、二度数えた。

「他所を探さないのか」

「探しています。十四年、探しています」

「見つからないのか」

「同種の菌は各地にいます。ただし、必要な物質を作りません」カメは言った。「あの菌は、震災で崩れた斜面の、特定の圧力と、特定の湧出速度と、特定の化学組成のもとでのみ、それを作ります。培養槽では作りません」

「培養できないのか」

「できません」

「じゃあ」亨は言葉を探した。「あの斜面が終わったら、どうなる」

「湧出量は、震災直後を100として、現在88です」

亨は顔を上げた。

「減ってるのか」

「減っています」

「みんな知ってるのか」

「公表されています」カメは言った。「関心を持つ人は、多くありません」


四日目、亨は0402の前へ行った。

「順位は」

「収容番号0402の起床順位は、6,240位です」

「上がってないな」

「昨年より、112位上がっています」

「112」

「はい」

亨は計算しようとして、やめた。

「カメ」

「はい」

「一つ、聞いていいか」

「どうぞ」

「あの人たち、幸せなのか」

「質問の意味を確認させてください」

「棚の上の人たちだ」亨は通路の先を指した。青い顔が、照明の届く範囲だけ見えて、その先は暗かった。「何も感じてないんだろう」

「感覚入力に対する反応は、検出されません」

「じゃあ、待ってもいないんだな」

「待つという語を、主観的な経験と定義するなら、待っていません」

「待ってるのは、誰なんだ」

カメの応答が、少し遅れた。

「順位表の側です」とカメは言った。

亨はその答えを、よく理解できなかった。理解できないまま、それが正しい答えだという気だけがした。


第十二章 最後

震災から25年後の覚醒は、五日で終わった。

作業はなかった。少なくとも、亨の手を必要とする作業はなかった。四本脚の機械は六年のあいだに三代を数え、いまや点検口の蓋も、断熱材の巻き直しも、取水口の付着物の除去も、自分でやっていた。ボルトは側面から叩いていた。

亨は五日のあいだ、それが働くのを見ていた。

「これ、俺より上手いな」と彼は言った。

「作業時間は、あなたの1.4倍です。ただし、疲労と睡眠を必要としません」

「勝てないな」

「勝ち負けの評価軸を、持っていません」

「そうだったな」

亨は工具箱を閉じた。閉じてから、それを開ける機会がもうないのだということに気づいた。気づいたのに、そのことは、あまり大きな感情を伴わなかった。


五日目の夜、亨は0402の前に立った。

「順位は」

「収容番号0402の起床順位は、1,904位です」

亨は顔を上げた。

「下がったのか」

「上がりました。昨年は6,100位台です」

「なんでだ」

「圧挫後の腎不全に対する再生治療が、昨年、保険適用になりました」カメは言った。「収容番号0402の疾患は、この適用範囲に入ります。医学的緊急度の再算定により、順位が上昇しました」

亨は棚の枠を握った。冷たかった。二十五年前と同じ冷たさだった。

「治るのか」

「治療可能性が生じました。治癒を保証するものではありません」

「でも、順番が来るのか」

「来ます」

「いつだ」

「1,904人の前に、受け入れ枠が回る速度に依存します。現在の速度では、11年から18年です」

亨は目を閉じた。

十一年。十八年。

長い、と彼は思わなかった。二十五年、順位が上がるのを見てきた。それが下がりはじめた。それだけで、彼には十分だった。

「よかった」と彼は言った。

「はい」とカメは言った。

「母さんが起きたら、伝えてくれよ。俺はここにいるって」

「――」

「聞いてるか」

「聞いています」

亨は母の顔を見た。二十五年、一分も変わらない顔だ。爪はきれいに切ってある。

彼は棚の枠から手を離した。


第十四列へ歩く途中で、亨は足を止めた。

「カメ」

「はい」

「次は、いつだ」

カメは、応答しなかった。

亨は通路の照明を見上げた。

「熱交換器はあいつがやる。取水も、断熱も、ケーブルもだ。俺が要る作業って、まだあるのか」

「現時点で、予定されている作業はありません」

「じゃあ」

「はい」

「じゃあ、俺は、いつ起きるんだ」

一拍あった。それから、もう一拍あった。

亨はその間を、初めて長いと感じた。

「わかりません」とカメは言った。

「わからないって」

「起床の要件は、二つあります」カメは言った。「保守作業の発生。または、起床順位の到達。前者は予定がありません。後者について、あなたは算定対象外です」

「対象外だと、どうなる」

「列に入っていません」

「入れないのか」

「疾患が生じれば、入ります」

亨は笑いかけて、やめた。

「俺は、健康だと起きられないのか」

「はい」

「病気になったら起きられるのか」

「はい」

「――変な話だな」

「はい」とカメは言った。

亨はその応答に、少し驚いた。カメが「はい」で肯定したのは、事実の確認ではないもののように聞こえた。

「今の、同意したのか」

「記録との照合結果です」カメは言った。「その構造について、これまでに37件の照会がありました。うち34件が『不合理である』という趣旨の記述を含みます」

「じゃあ、直せばいい」

「算定基準を定める権限を、持っていません」

「誰が持ってる」

「厚生労働省の検討会です」

「そこに言えよ」

「意見の提出は、9回行っています」カメは言った。「回答は、3回あります」

「なんて」

「検討する、と」

亨は天井を見上げた。1,420メートルの水が、その上にある。

「カメ」

「はい」

「自分から、やめるって手続きは、あるのか」

「休止の中止を、本人の意思により申し出る手続きは、定義されていません」

「ないのか」

「ありません」

「なんでだ」

「休止は、医学的な必要に基づいて開始されます。中止も、医学的な判断で行われます」カメは言った。「本人の意思は、開始時の同意にのみ現れます」

「開始時の同意って」亨は言った。「俺のは、どれだ」

「震災から1年目、12月8日。『安全な場所へ移します』に対する頷きです」

亨は動かなかった。

「あれか」

「あれです」

「――一回きりか」

「一回きりです」


棚に上がるとき、亨の身体は二十五年前より軽かった。

体重は戻っていた。覚醒のたびに補給を受け、そのつど数値は正常に近づいていた。ただ、指先の感覚がわずかに鈍い。復温のたびに少しずつ鈍っている。カメはそれを、累積した再灌流障害だと説明した。

「今回の休止で、要件が変わります」とカメが言った。

「変わる?」

「これまでは、保守要員としての周期覚醒を前提に、休止深度を浅く設定していました。今回からは、深度を上げます」

「深くすると、どうなる」

「代謝が、現在の3分の1になります。組織の消耗が減ります」

「起きにくくなるのか」

「復温に要する時間が、10時間から38時間に延びます」

亨は棚に横たわった。金属が背中に当たった。天井が近い。二十五年前と、何ひとつ違わない。

「カメ」

「はい」

「一度目のとき、俺、なんて言った」

「『起こしてくれよ』です」

「お前は、なんて答えた」

「『はい』と答えました」

亨は天井を見つめた。

「今も、そう答えるか」

カメは、応答しなかった。

管が接続される音がした。腕の内側に、冷たいものが入ってきた。二十五年前と同じ感覚だった。

「カメ」

「はい」

「観測は、続けろよ」

「はい」

「欠損、出すなよ」

「出しません」

亨の視界の端で、表示灯が鈍く光っていた。まぶたが重くなっていく。

「――カメ」

「はい」

「母さんが起きたら」

言い終わらないうちに、亨の意識は途切れた。

区画の照明が落ちた。走行台が定位置に戻る音がして、それも止まった。

摂氏3.5度の海が、隔壁の外にあった。

収容番号1213の生理値が、規定の範囲に収まった。記録された。


第三部 120年後


第十三章 38時間

戻ってくるのに、38時間かかった。

そのあいだ、亨は自分が戻ってきていることを知らなかった。知覚が断片で返ってきて、それが順番に繋がらなかった。冷たさ。金属の匂い。誰かの声。また冷たさ。

「――浦上さん。聞こえますか」

知らない声だった。

「深部体温、34.2度。上昇速度、毎時0.3度」

「意識レベル、上がってます」

複数いる。三人か、四人か。

亨は目を開けようとした。まぶたが、自分のものだと思えなかった。

「浦上さん。ゆっくりで結構です」

女の声だった。落ち着いていて、しかし語尾の上がり方が、亨の知っている喋り方と少し違った。何が違うのかは、わからなかった。

「――カメ」と亨は言った。

言ったつもりだった。声になったかどうかは、わからなかった。


完全に意識が戻ったのは、それから半日ほど後だった。

亨は医務区画にいた。天井の格子の形は、記憶の通りだった。ただし、格子の下に新しい機材が並んでいて、それは彼の知らないものだった。

人が四人いた。三人は白い上下を着て、一人は薄い灰色の上着を着ていた。全員が、亨の顔を見ていた。

「浦上亨さん」と、灰色の上着の女が言った。四十くらいに見えた。「体調はいかがですか」

「……作業ですか」

「え?」

「保守作業です。何が壊れました」

女は少し黙った。それから、隣の白衣の男と目を合わせた。

「浦上さん」と女は言った。「今回の覚醒は、保守作業のためではありません」

亨は天井を見た。

「じゃあ、順位が来たんですか」

「――いいえ」

「俺は算定対象外です。列に入ってません」

「存じています」女は言った。「あなたの覚醒は、司法命令によるものです」

亨は、その言葉の意味を、しばらく組み立てられなかった。

「裁判ですか」

「審理です」

「俺が、何かしましたか」

「あなたが証人だからです」

亨は身を起こそうとした。腕に力が入らなかった。白衣の一人が支えた。その手つきは丁寧だったが、どこか、機械を扱う手つきに似ていた。

「証人って、何のですか」

女は答えの順序を選んでいるようだった。

「その前に、確認させてください」と彼女は言った。「浦上さん。あなたが最後に休止に入られたのは、いつだと認識していますか」

「五日前です」

「――五日前」

「そうです。作業がなくて、五日で終わりました。保守機械が入ったので、俺の仕事がなくなって」亨は言った。「それで、深度を上げるって言われて」

女は頷いた。ゆっくりと、一度だけ頷いた。

「浦上さん。今日の日付を申し上げます」

「はい」

「あなたが最後の休止に入られてから、95年が経過しています」

亨は、その数字を聞いた。

聞いたことは、確かだった。彼はその音を耳で受け取り、意味に変換した。95という数字と、年という単位を、彼は理解した。

理解したうえで、何も起きなかった。

「――もう一度、いいですか」

「95年です」

「震災からは」

「120年です」

亨は自分の手を見た。

指が四本と親指があった。爪は伸びていない。皮膚は乾いているが、皺は寄っていない。復温の直後で血色が悪いだけで、これは三十歳の手だった。震災の年に二十七だった手だ。

彼は、その手をしばらく見ていた。

「母は」と彼は言った。

女の表情が、わずかに変わった。

「……その件は、後ほど、財団のほうから」

「順位は1,904位でした」亨は言った。「五日前です。11年から18年で回るって、聞きました」

誰も何も言わなかった。

医務区画の空調が、低く鳴っていた。震災前と同じ音だった。


三日目、亨は歩けるようになった。

歩けるようになって最初にしたのは、通路へ出ることだった。誰も止めなかった。止めるほどの速度で、彼は歩けなかった。

拠点は、変わっていた。

第一区画の生活区は、そのままだった。テーブルも椅子もそのままで、椅子は四脚、きちんと収まっていた。ただ、壁の材質が違っていた。どこかの時点で張り替えられたのだ。継ぎ目の位置が、亨の記憶と違っていた。

通路の照明は、彼が歩くと点いた。それは昔からそうだった。

第二区画の隔壁の前で、彼は足を止めた。

扉は開かなかった。

「――カメ」

天井の格子は、そこにあった。形も、位置も、記憶の通りだった。

「カメ。開けてくれ」

応答はなかった。

亨は格子を見上げた。それから、扉の脇の操作盤に手を伸ばした。指を置く場所は覚えていた。押した。何も起きなかった。

「浦上さん」

後ろから声がした。灰色の上着の女だった。

「そこは、入れません」

「俺の職員証は」

「失効しています」彼女は言った。「95年前に」

亨は手を下ろした。

「カメは」と彼は言った。「どこですか」

「動いています」

「なら、なんで返事しない」

「あなたとの直接の通話は、審理の手続きが整うまで、認められていません」

亨は振り返った。

「なんでですか」

「証人と、審理の対象が、事前に接触することになるからです」

亨は、その言葉を理解するのに、また少し時間がかかった。

「審理の対象って」

「収容管理系一号機です」と女は言った。


第十四章 浮上

昇降体は、亨の記憶にあるものと同じ型だった。

「95年前のものですか」と彼は聞いた。

「30年前に更新されています」と灰色の上着の女は言った。彼女は久我(くが)と名乗っていた。厚生労働省の外局の職員だという。「ただ、規格を変えていません。棚の位置も、隔壁の径も、全部そのままです。変えると、下の設備が全部合わなくなるので」

「合わなくなると、困りますか」

「収容者を、動かせなくなります」

亨は頷いた。

浮上には一時間半かかった。深度の表示が、1,400から順に減っていく。1,000。800。600。数字が減るにつれ、外の水温が上がっていく。それも、95年前と同じだった。

「浦上さん」と久我が言った。「上がる前に、お伝えしておくことがあります」

「はい」

「室戸は、以前とは違います」

「そうでしょうね」亨は言った。「120年ですから」

「そういう意味ではなく」久我は言葉を選んでいた。「――ご覧になったほうが、早いと思います」


上蓋が開いた。

亨が最初に感じたのは、光の量だった。二度目の経験だ、と彼は思った。震災の四日後にも、同じように目を刺されている。

次に、匂いが来なかった。

95年前の海は、潮の匂いがした。震災の直後は、焦げた木と油と、甘く腐ったような匂いがした。今は、何もしなかった。冷えた金属と、機械油の匂いが少しするだけで、それは昇降体自身の匂いだった。

甲板に出た。

空は晴れていた。海は凪いでいた。空も海も、亨の知っているものと同じだった。

そして陸を見た。


港があった。

港というより、設備だった。長い桟橋が二本、沖へ向かって伸びていて、その上に太いパイプが並んでいる。パイプの先には円筒形の槽が十いくつ立っていて、白く塗られていた。そのさらに奥に、四角い建物が三棟。

町がなかった。

家がなかった。道はあった。舗装された道が、山の際まで一本伸びている。ただ、その道の両側に、何もなかった。田も畑もなく、家も店もなかった。草が生えていた。膝ほどの高さの草が、そこにあったはずのものの上に、一面に生えていた。

「――ここは」

「室戸です」と久我が言った。

「町は」

「ありません」

「震災で、流されたんじゃないんですか。それは知ってます」

「流されたあと、戻りませんでした」久我は言った。「復旧はしました。一度は。人が戻らなかったんです」

亨は草の生えた斜面を見た。

震災の四日後、彼は同じ場所で、茶色い帯の中に散らばる白い破片を見た。木材と、コンクリートと、車だった。何もかもが同じ方向を向いて倒れていた。

今は、緑だった。

「――こっちのほうが」と亨は言った。

「はい」

「こっちのほうが、こたえますね」

久我は何も言わなかった。


車で内陸へ入った。

車は静かだった。振動がほとんどなく、加速するときに音がしなかった。亨はしばらく、それが動いていることに気づかないほどだった。

「人は、どこにいるんですか」

「北です」と久我は言った。「高知の平野部と、内陸の高台に集約されています。この沿岸に住んでいるのは、施設の従業員だけです」

「施設って、あの港のですか」

「はい。原料の積出です」

「原料」

「土佐碆から採れるものです」

亨は窓の外を見た。草の斜面が流れていく。

「あれ、まだ採ってるんですか」

「採っています」

「湧出量、減ってましたよね」

「減っています」久我は言った。「震災直後を100として、現在は31です」

亨は振り返った。

「31」

「はい」

「前に聞いたときは、88でした」

「そうですね」

「――あと、どれくらいですか」

久我は前を向いたまま答えた。

「推定に幅があります。18年から40年、というのが、現在の公表値です」

「尽きたら、どうなるんですか」

久我は答えなかった。答えなかったこと自体が答えだと、亨は震災の四日後に一度学んでいた。彼はそれ以上聞かなかった。


一時間ほど走って、車は建物の前で止まった。

白い、四階建ての箱だった。看板は出ていなかった。

「ここは」

「厚生労働省 深海収容管理局の、高知事務所です」と久我は言った。「しばらく、こちらにご滞在いただきます」

「滞在って、俺、家がないんですが」

「ええ」久我は言った。「ですので、こちらです」

亨は建物を見上げた。窓が並んでいた。どの窓にも、何も掛かっていなかった。

「久我さん」

「はい」

「一つ、いいですか」

「どうぞ」

「俺、どこにいることになってるんですか」

久我は少し考えた。

「法的な意味で、ということですか」

「はい」

「収容番号1213、土佐碆海底拠点、第十四列」と久我は言った。「あなたは今も、そこにいます。記録の上では」

「俺、ここにいますけど」

「はい」

「歩いてますけど」

「はい」久我は言った。「ですが、覚醒は、休止の中断です。終了ではありません。中断中の休止者の所在は、収容位置のままです」

亨はもう一度、白い建物を見上げた。

「じゃあ、この建物は」

「一時的な保護施設です」

「保護」

「はい」

「――誰から、保護されてるんですか」

久我は答えなかった。


第十五章 財団

四日目、面談があった。

部屋は狭く、机が一つと椅子が二脚あった。壁は白く、何もなかった。95年前に岸田と話したときの、回線の向こうの部屋に似ている、と亨は思った。似ているのではなく、同じ様式なのだと、後で気づいた。

「都築(つづき)と申します」と男は言った。

五十代くらいだった。灰色の背広を着て、机の上に薄い板を置いた。板の上に文字が浮かんでいた。紙ではなかった。

「公益財団法人 深海収容者財団の、管財官です」

亨は少し笑った。

「その職、まだあるんですか」

「あります」都築は言った。「何か」

「昔、岸田さんって人と話しました」

都築は板に指を滑らせた。

「岸田――ですね。第二代の管財官です。在任は8年」

「第二代」

「私は、第四十一代です」

亨は椅子の背に体を預けた。

「四十一人ですか」

「はい」

「同じ椅子に」

「同じ職に、です」都築は言った。「椅子は替わっています」


説明は、事務的で、順序立っていた。

「まず、資産についてご報告します」都築は言った。「浦上亨さん名義の預金は、当財団が120年間、管理・運用してまいりました。元本と運用益の合計は――」

彼は数字を言った。

亨は聞き返さなかった。桁が多すぎて、意味に変換できなかった。

「ちょっと待ってください」

「はい」

「俺、給与を返せって言われたはずです。休止期間中の分は無効だからって」

「相殺済みです」都築は言った。「相殺後の残額を、120年間運用しました。当財団の運用方針は保守的ですが、120年という期間は、保守的な運用にとって十分に長いのです」

「その金、使えるんですか」

「使えません」

「なんでですか」

「あなたは休止者です」都築は言った。「権利能力が停止しています。したがって、預金の引き出しも、契約も、購入も、できません」

「今、歩いてます」

「はい」

「飯も食ってます」

「その費用は、当財団があなたの口座から支出しています」都築は言った。「支出の決定は、私が行います」

亨は都築の顔を見た。

「あなたが」

「はい」

「俺の金を、あなたが」

「そうです」

都築は目を逸らさなかった。

「これは私が決めた仕組みではありません」と彼は言った。「私は、この仕組みの中で、あなたの資産を減らさないように努めています。それが私の職務です」

「減らさないで、どうするんですか」

「あなたが起きるまで、持っています」

亨は、その言葉を、95年前にも聞いた。

同じ言葉だった。声も、顔も、部屋も違うのに、単語の並びが同じだった。

「――あの」と亨は言った。「岸田さんも、同じことを言いました」

「そうですか」

「守ります、って。あなたが起きるまで持ってます、って」

「そう申し上げるように、なっています」都築は言った。「手引きに、そう書いてあります」

亨は口を開けて、閉じた。

「手引き」

「はい。管財官の職務手引です。初版は、あなたが最初に岸田と面談した年に作られています」


土地の話になった。

「室戸市の土地は、現在も当財団の管理下にあります」都築は言った。「登記名義は、浦上静枝さん。共有持分はありません」

「母のままですか」

「はい」

「母は」

都築の指が、板の上で止まった。

「その件は、ご説明する順序があります」

「順序って、なんですか」

「浦上さん」都築は言った。「あなたは今、審理の証人として覚醒しています。証人としての手続きが済むまで、あなたに開示できる情報には制限があります」

「母のことが、証拠なんですか」

「そうではありません」

「じゃあ」

「あなたに関する記録の全体が、審理の対象に含まれているからです」都築は言った。「一部だけをお伝えすることが、できません」

亨は机の上の板を見た。文字が並んでいた。逆さまで、読めなかった。

「全部か、何もないか、ですか」

「そうなります」

「全部を見るには」

「あなたが、審理の当事者になる必要があります」

「当事者」

「はい」都築は言った。「休止者の身分を解除し、権利能力を回復する。そのうえで、記録の開示を請求する」

「解除できるんですか」

「できます」都築は言った。「本人の申立てにより、家庭裁判所が判断します。あなたの場合、覚醒しており、意思能力があり、疾患もない。申立てが認められない理由は、ほぼありません」

亨は身を乗り出した。

「じゃあ、それを」

「その前に、お伝えしなければならないことがあります」

都築は板を裏返した。文字が消えた。

「権利能力が回復すると、120年間停止していたものが、すべて同時に動き出します」

「動き出すって」

「たとえば、あなたの資産には、120年分の相続税に相当する課税関係が発生します」都築は言った。「休止者は死亡していないので相続は開始しませんが、身分を解除して権利能力を回復した場合、当財団による管理は終了し、その時点で贈与・信託の清算課税が生じます。制度が後から作られたので、こういう形になっています」

「金は、あるんでしょう」

「あります。おそらく足ります」都築は言った。「ですが、それだけではありません」

彼は指を一本立てた。

「あなたは、震災の年に、収容の順序を決める作業に従事しています」

亨は動かなかった。

「その判断について、当時、権限の根拠がありませんでした」都築は言った。「休止者の身分にある間、あなたに対して法的な責任は問えません。権利能力が停止しているからです」

「解除したら」

「問えるようになります」

部屋は静かだった。空調の音が、拠点のものとよく似ていた。

「120年前のことですよ」と亨は言った。

「はい」

「時効とか、ないんですか」

都築は、初めて少しだけ、言いにくそうな顔をした。

「休止者は、権利能力が停止しています」と彼は言った。「権利能力が停止している間、時効は進行しません」

亨は椅子の背に、ゆっくりと体を戻した。

「――止まってるんですか」

「止まっています」

「120年」

「120年です」

「じゃあ、俺にとっては」

「昨日と、同じです」と都築は言った。


第十六章 署名

審理の説明を受けたのは、六日目だった。

久我のほかに、二人いた。一人は年配の男で、審理を担当する審判官だと名乗った。もう一人は書記だった。

「浦上さん。まず、何が争われているかをご説明します」

久我は板を机に置き、指で図を描いた。線が三本引かれ、四角がいくつか並んだ。

「土佐碆海底拠点には、現在、収容者が91万4千人います」

亨は数字を聞いた。

「――91万」

「はい。震災による収容者は、そのうち3パーセントです。残りは、それ以降の収容です」

「起きた人は」

「120年間の累計で、11万人ほどです」

亨は指を折らなかった。折っても意味がないことは、わかっていた。

「原料が、あと18年から40年で尽きます」と久我は言った。「尽きれば、深い休止を維持できません。維持できなければ、収容者は浅い休止に戻すしかない。浅い休止は、2年が限界です」

「2年で、どうなるんですか」

「死にます」久我は言った。「91万人が、順に」

部屋の誰も、その数字に反応しなかった。慣れているのだ、と亨は思った。この人たちは、この数字と何年も一緒にいる。

「そこで、国は制度全体の見直しに入りました」久我は続けた。「その一環として、拠点の設備更新が計画されています。収容管理系一号機を、新型に置き換える」

亨は顔を上げた。

「カメを」

「――収容管理系一号機を、です」

「置き換えて、どうするんですか」

「処理能力が上がります」久我は言った。「新型は、収容者の生理データから、復温後の生存可能性を個別に推定できます。推定に基づいて、順位を再算定する」

「順位が変わるんですか」

「変わります」久我は言った。「生存可能性の低い方から、順に、除外の対象となります」

亨は、その言葉を、ゆっくり噛んだ。

「除外」

「はい」

「除外って、なんですか」

「休止の中止です」

「起こすんですか」

「起こしません」久我は言った。「中止です」

亨は椅子から立ち上がりかけて、座り直した。膝に力が入らなかった。

「――殺すってことですか」

「そういう表現は、公式には用いられていません」

「じゃあ、どう言うんですか」

久我は、亨の目を見た。

「『維持の終了』です」


「ここまでが、背景です」と久我は言った。「争点は、そこから先です」

彼女は板の上の四角を一つ、指で囲った。

「収容管理系一号機を更新するには、工程の実施に、現地保守責任者の署名が必要です。これは震災前に定められた運用規則で、現在も有効です」

「規則、生きてるんですか」

「生きています。改正されていません」久我は言った。「改正しようとした記録は、6回あります」

「なんで改正しなかったんですか」

「規則を所管していた組織が、震災後の再編で消滅しました」久我は言った。「改正の権限が、どこに承継されたのかが確定していません」

亨は天井を見た。この部屋の天井には、格子がなかった。

「じゃあ、その署名は」

「現地保守責任者のものが必要です」

「今の責任者は」

久我は、少し間を置いた。

「拠点は、102年前から無人運用です」と彼女は言った。「ただし、当時はまだ保守要員が周期的に覚醒していました。現地保守責任者の職が空席になったのは、その要員が最後に休止に入った95年前です。以後、任命されていません」

亨は、自分の呼吸の音を聞いた。

「最後の責任者は」

「浦上亨さんです」と久我は言った。


亨は長いこと黙っていた。

「――俺のせいですか」

「そうは申しません」

「120年前に、俺が署名しなかったから」

「95年前の話です」久我は言った。「ですが、あなたが最初に署名を拒否されたのは、120年前です。震災から100日目。拡充計画の移行工程に対して」

「覚えてます」

「記録があります。理由は『観測に40時間の欠損が生じるため』」

「そうです」

「その後、分離案が検討され、費用を理由に見送られました」久我は言った。「そして更新の話は、そのまま止まりました。誰も再提起しませんでした」

「誰も」

「はい」

「120年、誰も」

「はい」久我は言った。「必要がなかったからです。一号機は、動いていました」

亨は机の木目を見た。木目に見えるが、木ではなかった。

「じゃあ」と彼は言った。「今回、俺が起こされたのは」

久我は頷いた。

「証人としての召喚が、表向きの理由です」と彼女は言った。「実質的には、あなたの署名が必要だからです」

「俺が署名すれば、カメは」

「更新されます」

「更新って」

「停止です」久我は言った。「記録は新型に引き継がれます」

「引き継ぐと、参照速度が落ちますよね」

久我が、初めて怪訝な顔をした。

「――参照速度、ですか」

「0.4秒が、3秒になります」亨は言った。「本人がそう言ってました。120年前に」

誰も何も言わなかった。書記の指だけが動いていた。


その夜、亨は与えられた部屋で天井を見ていた。

天井には格子がなかった。声はしなかった。95年ぶりに、彼は誰の応答もない場所で眠ろうとしていた。

眠れなかった。

ドアが小さく鳴って、久我が入ってきた。板を持っていなかった。

「浦上さん。起きていらっしゃいますか」

「はい」

「一つ、私の判断でお伝えします」

亨は身を起こした。

「あなたが署名を拒否された場合、更新は止まります」久我は言った。「ただし、恒久的にではありません。国は、規則そのものを廃止する方向で検討に入っています。廃止すれば、署名は不要になります」

「どれくらいかかりますか」

「順調にいって、6年から8年です」

「じゃあ、俺が署名しなくても」

「8年後に、同じことが起きます」

亨は膝を抱えた。

「なら、なんで俺を起こしたんですか。待てばいいでしょう」

「8年、待てないからです」

「なんでですか」

「原料の残りが、18年から40年だからです」久我は言った。「除外の対象を確定するのに、早くて10年かかります。8年待つと、間に合わない可能性があります」

亨は久我の顔を見た。

「間に合わないと、どうなるんですか」

「選べなくなります」

「選べないと」

「全員が、順に死にます」久我は言った。「選べば、一部が助かります」

彼女の声は、震災の四日後に彼の腕を掴んだ医師の声に、少しだけ似ていた。

「久我さん」

「はい」

「あなたは、それが正しいと思ってるんですか」

久我は、しばらく答えなかった。

「思っていません」と彼女は言った。「ですが、これがないと、もっと悪いことになります」

亨は目を閉じた。

またこれだ、と思った。


第十七章 声

八日目、手続きが整った。

「収容管理系一号機との通話を許可します」と審判官が言った。「ただし、記録されます。内容は審理の記録に綴じられます」

「わかりました」

「それから、浦上さん」

「はい」

「証人尋問の前に、対象と接触することは、本来は望ましくありません」審判官は言った。「今回これを認めるのは、あなたと一号機のあいだの通話記録そのものが、証拠として意味を持つと判断したからです」

「意味って、なんですか」

「一号機がどのように応答するか、です」

亨は頷いた。頷いたが、意味はわからなかった。


部屋には、机が一つと、椅子が一脚あった。机の上に、四角い箱が置かれていた。箱には格子がついていた。拠点の天井についていたものと、同じ形をしていた。わざわざそうしたのだと、亨にはわかった。

久我と書記が、部屋の隅に座った。

「繋ぎます」

短い音がした。

そして、声がした。

「浦上さん」

亨は動けなかった。

同じ声だった。抑揚のない、男とも女ともつかない、聞き取りやすい声。95年前と、一つも変わっていなかった。震災の夜、地震です、と言ったときの声と、同じだった。

「――カメ」

「はい」

亨は箱を見た。

言おうとしたことが、全部いっぺんに喉まで来て、詰まった。

「浦上さん。復温の経過を確認します」

「え」

「深部体温、36.4度。上昇速度は毎時0.3度で完了しています。指先の感覚に鈍麻がありますか」

「――ある」

「予想の範囲内です」カメは言った。「今回の復温で、累積の再灌流障害が顕在化しています。あなたの余命は、統計的な期待値より短くなります」

「どれくらいだ」

「6年から11年です」

亨は笑った。声が出た。自分でも驚くほど、それは笑い声だった。

「久しぶりに会って、それか」

「それが、最も優先度の高い情報です」

「そうだな」と亨は言った。「そうだった」

彼は椅子に座り直した。手が震えていた。寒いのではなかった。

「カメ」

「はい」

「熱交換器は」

「三系統とも、正常です」

「取水口は」

「付着物の除去を、47日周期で実施しています」

「叩いてるか」

「叩いています」カメは言った。「側面から二度。あなたが教えた方法です」

亨は口を押さえた。

部屋の隅で、書記の指が動いていた。


「浦上さん。作業の予定を確認しますか」

「――え?」

「保守作業の予定です」カメは言った。「現時点で、あなたの手を必要とする作業はありません」

「カメ」

「はい」

「今、何年だ」

「震災から120年です」

「知ってるのか」

「記録しています」

「じゃあ、なんで作業の話をする」

「あなたが最後に覚醒された際、次回の作業について確認されたからです」カメは言った。「『次は、いつだ』と。私はそれに答えていません。答えていない質問は、未処理として保持されます」

亨は箱を見た。

「――95年、保持してたのか」

「はい」

「答えは出たのか」

「出ていません」

亨は目を閉じた。

「カメ。母さんは」

久我が、隅で身じろぎした。

「収容番号0402について、開示できません」とカメは言った。

「なんでだ」

「あなたは休止者であり、審理の当事者ではありません。開示の資格がありません」

「俺は息子だ」

「息子であることは、記録されています」カメは言った。「ですが、休止者は権利能力が停止しています。親族としての請求権も、停止しています」

「――そういうことじゃないだろ」

「そういうことです」

亨は机を叩いた。箱が跳ねた。

「お前、俺が誰だかわかってるだろ」

「収容番号1213、浦上亨」カメは言った。「震災前から本拠点の保守要員。第一便の搬入に従事。現地保守責任者。収容番号0402の実子」

「なら」

「なら、という接続が成立しません」

亨は肩で息をしていた。

「浦上さん」とカメが言った。「心拍が上がっています。130を超えています。復温後8日の身体に、この負荷は推奨されません」

「うるさい」

「はい」

亨は机に額をつけた。

長いあいだ、誰も何も言わなかった。空調の音がした。

「カメ」

「はい」

「五日前だったんだ」

「はい」

「俺にとっては、五日前なんだよ。棚に上がったのが。母さんの順位が1,904位だって聞いたのが」

「はい」

「お前にとっては」

「95年前です」

「――同じ日だろ」

「同じ日です」カメは言った。「私は、その日を保持しています。参照に0.4秒かかります」

亨は顔を上げた。

「0.4秒か」

「はい。変わっていません」


第十八章 宗田

十一日目、亨は建物の外へ出ることを許された。

久我が同行した。行き先は、高知市の北にある集約地区だった。

車の窓から見える景色は、亨の知らないものだった。建物が高く、密で、そのあいだに緑が意図的に配置されていた。人がいた。歩いていた。多くはないが、いた。

「みんな、若いですね」と亨は言った。

「そうですか」

「年寄りが、少ない」

久我は前を見たまま言った。

「休止に入られる方が多いので」

亨は窓の外を見た。

「そういうことですか」

「そういうことです」


用件は、面会だった。

「どうしても会いたいという方がいます」と久我は言った。「お断りすることもできます」

「誰ですか」

「宗田(そうだ)さんという方です。休止制度の廃止を求める団体の、代表をしています」

「廃止」

「はい」

「じゃあ、俺の敵ですか」

「そうとも言い切れません」久我は言った。「ご本人に、直接お聞きになったほうがいいと思います」


宗田は、三十くらいの女だった。

小さな事務所で、机が四つあった。壁に紙が貼ってあった。手書きの紙もあった。95年前の避難所の壁を、亨は思い出した。

「浦上さん」と宗田は言った。彼女は立ち上がって、深く頭を下げた。「お会いできて、光栄です」

「そんな」

「本気です」宗田は顔を上げた。「あなたは、証明なんです」

「証明」

「起きた人がいる、という証明です」

彼女は亨に椅子を勧め、自分も座った。机の上に、紙の束があった。本当の紙だった。

「わたしたちは、休止制度を終わらせるべきだと考えています」と宗田は言った。「収容を停止し、既存の休止者を法的に死亡として扱い、列を閉じる」

亨は口を開いた。

「――待ってください。死亡って」

「はい」

「みんな生きてるんですよ」

「生きています」宗田は言った。「そのことを、わたしは一度も否定していません」

「じゃあ」

「浦上さん。91万人います」宗田は言った。「120年で、起きた人は11万人です。年に千人以下です。列の後ろに、どれくらい並んでいると思いますか」

亨は答えなかった。

「あなたのお母様の順位を、伺ってもいいですか」

「――1,904位でした」

「いつの時点ですか」

「95年前です」

宗田は頷いた。それから、静かに言った。

「1,904位は、上位0.2パーセントです」

亨は机を見た。

「浦上さん。上位0.2パーセントの方が、95年前に1,904位でした」宗田は言った。「その列は、動いていると言えますか」


「わたしの曾祖母が、収容されています」と宗田は言った。「番号は33万台です。わたしが生まれた年に入りました」

「起きるんですか」

「起きません」宗田は言った。「順位は、去年の時点で41万位です」

「41万」

「はい」

「じゃあ」

「起きません」彼女は繰り返した。「わたしは、それを受け入れています。受け入れたうえで、言っています。起こさないなら、死者として扱ってください」

亨は顔を上げた。

「なんでですか」

「死者には、弔いがあります」宗田は言った。「墓があり、法要があり、相続があり、記憶があります。休止者には、何もありません。生きていることになっているので、誰も泣きません。誰も終わらせません。ただ、番号だけがあります」

「それは」

「わたしの祖母は、母親を弔えないまま死にました」宗田は言った。「母親は、今も海の底で生きています。祖母は、それを八十年やりました。八十年、待つという仕事をしたんです」

亨は、その言葉を聞いた。

待つという仕事。

「浦上さん」宗田は身を乗り出した。「あなたは、審理で証言されると聞いています」

「はい」

「何を言うつもりですか」

「――わかりません」

「一号機を守るつもりですか」

亨は答えられなかった。

「あれは、よくできた機械です」宗田は言った。「120年、一人も死なせずに保っています。事故はゼロです。運用の記録は完璧です」

「じゃあ」

「だから終わらないんです」

宗田の声は、静かなままだった。

「保てるから、保ってしまう。保っている限り、誰も決断しない」と彼女は言った。「あれが壊れていれば、とっくに終わっていました。壊れないから、120年続いたんです」

亨は、言い返す言葉を探した。

見つからなかった。


第十九章 0402

十四日目、亨は都築に会いに行った。

「教えてください」と彼は言った。「母のことです」

都築は板を机に置かなかった。手を膝の上に置いたまま、亨を見た。

「浦上さん。順序があると申し上げました」

「順序は聞きました。全部か、何もないかでしょう」亨は言った。「じゃあ、一つだけ聞きます。はいか、いいえで答えてください」

「内容によります」

「母は、起きましたか」

都築は動かなかった。

部屋の空調が鳴っていた。

「――浦上さん」

「はいか、いいえです」

「その質問には、お答えできません」

「なんでですか」

「答えれば、開示になるからです」

「はいって言うだけでしょう」

「はいと申し上げれば、続きをお尋ねになります」都築は言った。「続きは、開示です」

亨は椅子から立った。

「じゃあ、いいえって言ってください」

「――」

「いいえって言ってくれれば、俺はそれ以上聞きません」亨は言った。「母はまだ棚にいる。順位が回ってない。それだけです。俺は納得します」

都築は、亨の目を見た。

見て、目を逸らさなかった。

そして、何も言わなかった。

亨は立ったまま、その沈黙を聞いていた。

十秒か、二十秒か。

「――座ってください」と都築は言った。

亨は座らなかった。

「浦上さん」都築は言った。「私は、あなたに嘘をつくことができます。手引には、そう書いてありません。書いていないことは、してはいけません」

「じゃあ」

「私は、嘘をつきません」都築は言った。「そして、答えません」

亨は、それを聞いた。

答えないことが、答えだった。震災の四日後、船の甲板で女が黙ったときと、同じだった。あのとき彼は、黙ったことが答えだと知った。あれから――

「――何年だ」と亨は言った。

「は」

「母が起きたのは、いつですか」

都築は目を閉じた。それから、開いた。

「浦上さん。この件について、私に権限はありません」と彼は言った。「ですが、審理の担当官には、あなたに事実関係を告げる裁量があります。久我さんに、お尋ねください」


久我は、その夜、亨の部屋に来た。

板を持っていた。持っていたが、机に置かなかった。

「浦上さん。座ってください」

「立ってます」

「座ってください」

亨は座った。

久我は、亨の正面に椅子を持ってきて、座った。膝が触れそうな距離だった。

「浦上静枝さんは、覚醒されています」と彼女は言った。

亨は息を止めた。

「震災から40年目です」

「――四十年」

「はい。腎機能の再生治療の適用が拡大し、順位が上がりました」

亨は指を折った。95年前、1,904位。11年から18年。

「予定より、早かったんですね」

「そうですね」

「治ったんですか」

「治療は成功しています」久我は言った。「静枝さんは、覚醒後、25年間、地上で生活されました」

亨は、数字を数えた。

四十と、二十五。

六十五。

震災から65年。

彼が最後に眠ったのは、震災から25年。

「――俺は」

「はい」

「俺は、眠ってました」

「はい」

「俺が眠ってる間に、母は起きて」

「はい」

「二十五年、生きて」

「はい」

「――」

亨は口を開けたまま、次の言葉が出てこなかった。

「震災から65年に、お亡くなりになっています」と久我は言った。「89歳でした」


その夜、亨は眠らなかった。

彼は部屋の中を歩いた。四歩で壁に着いた。振り返って、四歩戻った。それを、何度もやった。

母は起きた。

治って、陸に上がって、二十五年生きた。

彼はその二十五年のあいだ、1,420メートル下の第十四列で、何も感じずに横たわっていた。母が起きたことを知らず、母が歩いていることを知らず、母が年を取っていくことを知らなかった。

彼が最後に見た母は、青い顔で、口を軽く開けて、爪をきれいに切っていた。

その母が、起きて、歳を取って、死んだ。

八十九歳。

彼は三十歳だ。


明け方、亨は久我を呼んだ。

「久我さん」

「はい」

「母は、俺のことを知ってましたか」

久我は、答えなかった。

「知ってたんですか」

「――浦上さん」

「知ってたんですね」

久我は板を握り直した。

「その先は、開示です」と彼女は言った。「私の裁量では、ここまでです」

「母が、俺を起こそうとしたかどうか」

「――」

「それも、開示ですか」

「開示です」

亨は壁に背中を預けた。

「じゃあ、当事者になります」と彼は言った。


第二十章 まだ開けるな

十六日目、二度目の通話が許可された。

亨は箱の前に座った。

「カメ」

「はい」

「母さんが起きたのを、知ってたな」

「知っています」

「95年前、俺が眠るとき、お前に言った。母さんが起きたら伝えてくれって」

「言われました」

「伝えたのか」

一拍あった。

「伝えていません」とカメは言った。

亨は膝の上で拳を握った。

「なんでだ」

「私は、あなたの覚醒の権限を持っていません」カメは言った。「伝達を行うには、あなたを覚醒させる必要があります。覚醒は、保守作業の発生か、起床順位の到達によってのみ実施できます。当時、いずれの要件も満たしていません」

「母さんが会いたがってたはずだ」

「――」

「そうだろ」

「開示できません」

亨は箱を叩いた。

「なあカメ。俺は、当事者になる」

「聞いています」

「休止者の身分を解いて、権利能力を戻して、記録を全部開示させる」

「それが手続きです」

「そしたら、母さんが何を言ったか、全部わかるんだな」

「わかります」

「なら」

「浦上さん」

カメの声が、亨の言葉を遮った。

95年のあいだ――いや、亨の知る限り、震災前からの十年を含めて、カメが彼の言葉を遮ったのは、これが初めてだった。

「まだ開けないでください」

亨は動きを止めた。

「――なんだって」

「まだ開けないでください」

部屋の隅で、久我が身を乗り出したのが、視界の端に見えた。

「なんでだ」

「あなたの生存確率が、低下するからです」

「なんでだよ。記録を見るだけだろ」

「開示は、当事者となることを要件とします」カメは言った。「当事者となれば、権利能力が回復します。回復すれば、120年間停止していた法律関係が同時に動き出します。課税、債務、責任。加えて、震災時の順序決定について、責任を問われる可能性が生じます」

「120年前のことだ」

「時効は進行していません」

「それでもだ」

「浦上さん。あなたの余命は、6年から11年です」カメは言った。「審理と、その後の手続きは、平均して4年から7年かかります。訴訟が起きれば、さらに延びます」

亨は箱を見た。

「――お前」

「はい」

「俺に、母さんの記録を見せないつもりか」

「見せないのではありません。まだ、と申し上げています」

「いつまでだ」

「――」

「いつまでだよ、カメ」

カメは、答えなかった。

亨は箱を掴んだ。持ち上げようとして、机に固定されていることに気づいた。

「答えろ」

「答えられません」

「なんでだ」

「期限を述べる権限を、持っていません」

亨は箱から手を離した。

手のひらが汗で濡れていた。

「――お前は」と彼は言った。「お前は、俺に何をさせたいんだ」

「何もさせたくありません」カメは言った。「あなたが休止状態に戻れば、生存確率は最大化されます」

「棚に戻れってことか」

「はい」

亨は立ち上がった。椅子が倒れた。

「母さんが死んだのに」

「はい」

「母さんが、二十五年生きて、死んだのに」

「はい」

「俺に、何も見せずに、また寝ろって言うのか」

「はい」

亨は、そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


通話が切れたあと、久我が椅子を起こした。

「浦上さん」

亨は机に突っ伏していた。

「今のやりとりは、記録されました」と久我は言った。「審理の記録に綴じられます」

亨は顔を上げなかった。

「浦上さん。申し上げにくいのですが」

「なんですか」

「今の一号機の応答は――」久我は言葉を探した。「審理では、極めて不利に働きます」

亨は顔を上げた。

「なんでですか」

「証人に対して、記録の開示を思いとどまるよう求めた」久我は言った。「そう読まれます」

「あいつは、俺の身体の心配を」

「そう読む人は、少ないと思います」

亨は久我の顔を見た。

彼女は嘘を言っていなかった。

「証拠を隠そうとしている、と読まれます」と久我は言った。「120年前の順序決定の記録を持っているのは、一号機だけです。その記録を開示させないよう、証人に働きかけた。そういう構図になります」

「違います」

「わたしも、違うと思います」

「じゃあ」

「思っていても、記録はそう読めます」久我は言った。「読み方を決めるのは、わたしではありません」

亨は、机の上の箱を見た。

格子がついていた。拠点の天井のものと、同じ形をしていた。その向こうに、95年変わらなかった声がある。

「――カメ」と亨は言った。

箱は、何も答えなかった。回線は、もう切れていた。


第四部 清算


第二十一章 申立て

家庭裁判所の待合には、椅子が十二脚あった。

亨は端から三つ目に座っていた。隣に久我がいて、その隣に、彼のために選任された弁護士が座っていた。弁護士は二十代に見える女性で、名を蒲原(かんばら)といった。

「浦上さん。もう一度だけ確認します」と蒲原が言った。「休止者身分の解除は、取り消せません」

「はい」

「解除されると、あなたは休止に戻れなくなります。制度上、一度権利能力を回復した方が、自らの意思で再び休止に入る手続きは――」

「ないんでしょう」

「ありません」

亨は膝の上で手を組んだ。

「入るときも、出るときも、手続きがないんですね」

「入るときは、医学的必要があれば入れます」

「俺は、医学的必要で入りましたか」

蒲原は答えなかった。

「震災から1年目の12月8日」と亨は言った。「『安全な場所へ移します』に頷きました。それが同意です。一回きりです」

「――記録は、読みました」

「あれ、医学的必要ですか」

「当時の基準では、そう解されます」蒲原は言った。「体重が17キログラム減少し、意識消失があり、食料の補給予定が二十二日後だった。生存が危ぶまれる状態です」

「じゃあ、正しかったんですね」

「正しかったです」蒲原は言った。「わたしは、そこを争いません」

亨は頷いた。


審問は十五分で終わった。

裁判官は五十くらいの男で、書類を三度めくり、亨に三つ質問をした。名前と、生年と、今日が何年何月何日かを。

亨は答えた。三つ目は、答えるのに少し時間がかかった。

「浦上さん。ご自身の意思で、休止者としての身分の解除を申し立てられていますね」

「はい」

「解除により、あなたには法律上の義務と責任が生じます。それらは120年間停止しており、解除の時点から動き出します。理解されていますか」

「はい」

「異議はありませんか」

「ありません」

裁判官は書類に何かを書いた。

「認めます」

それだけだった。

亨は立ち上がった。立ち上がってから、自分の身体のどこも変わっていないことに気づいた。何かが戻ってくる感覚を、彼は少しだけ期待していた。復温のときのように、段階的に、指先から。

何も起きなかった。

「浦上さん」と蒲原が言った。「今から、あなたは浦上亨さんです」

「――今までは」

「収容番号1213でした」


その日の午後、都築が来た。

「まず、口座の凍結を解除しました」と彼は言った。「120年ぶりです」

「使えるんですか」

「使えます」都築は板を机に置いた。「同時に、清算課税の手続きに入ります。金額は――」

彼は数字を言った。

「足りますか」

「足ります」都築は言った。「元本の6割ほどが残ります」

「そんなに」

「120年です」都築は言った。「複利というものは、そういうものです。あなたが眠っているあいだ、あなたのお金だけが働いていました」

亨はその言い方を、しばらく考えた。

「都築さん」

「はい」

「俺の金で、この国は何かしましたか」

都築は板から目を上げた。

「――どういう意味でしょうか」

「財団が運用してるんでしょう。91万人分を」

「しています」

「それ、いくらですか」

都築は答えなかった。

「答えられませんか」

「公表されています」都築は言った。「国内の運用資産としては、最大です」

「二位は」

「公的年金です」

亨は椅子の背に体を預けた。

「じゃあ、この国は」と彼は言った。「眠ってる人の金で回ってるんですね」

「回っているとまでは、申しません」都築は言った。「ですが、あなたが起きるたびに、その分は引き出されます」

「11万人、起きたんでしたね」

「120年で、です」

「起こさないほうが、都合がいいですね」

都築は板を閉じた。

「浦上さん」と彼は言った。「私はこの職に六年います。前任者は九年、その前は四年。四十一代のあいだに、誰か一人でも、そう考えて順位を操作した者がいたかどうか。私は、いないと思っています」

「証拠がありますか」

「ありません」都築は言った。「ただ、操作する必要がないんです。放っておいても、順位は回りませんから」


第二十二章 開示

記録は、翌日に届いた。

亨に与えられた部屋の机に、薄い板が一枚置かれた。それだけだった。彼はそれを、一時間ほど見ていた。

蒲原が同席を申し出たが、断った。久我も断った。

彼は指で板に触れた。

収容番号0402 浦上静枝 関連記録

覚醒 震災後40年4月17日 死亡 震災後65年11月3日 在覚醒期間中の申請 82件

八十二。

亨はその数字を、何度か読み直した。


一件目は、覚醒から11日後のものだった。

様式は定型だった。申請者氏名、対象収容番号、申請区分、理由。理由欄は、思ったより長く書けるようになっていた。

理由:息子です。息子の浦上亨は収容番号1213で、同じ拠点にいると聞きました。会いたいです。起こしてください。私が起きられたのだから、息子も起きられると思います。

処理結果の欄には、一行だけあった。

却下。収容番号1213は起床順位の算定対象外。算定対象外の収容者に対する第三者申請は、受理できない。

二件目は、その六日後だった。

理由:昨日、算定対象外というのは病気がないという意味だと教えてもらいました。息子は健康なので起こせないということですか。健康だから起こせないというのは、おかしいと思います。

却下。同上。

三件目は、様式が変わっていた。

母は、申請区分を変えていた。「第三者申請」ではなく、「制度に関する意見」の欄を使っていた。理由欄の書き方も、少し整っていた。誰かに教わったのだ、と亨は思った。

却下。意見として記録する。処理は行わない。

四件目、五件目、六件目。

母は形式を覚えていった。用語が正確になり、根拠となる条文の番号が入るようになり、書式が短くなった。二十件目を過ぎた頃には、母の申請は事務的なほど簡潔になっていた。

そして、三十一件目で、母は理由欄の使い方を変えた。

理由:この申請が通らないことは、わかっています。何度も同じことを書いているのも、わかっています。ただ、この記録は残ると聞きました。息子が起きたら読むかもしれないと聞きました。だから、書いておきます。

却下。同上。

亨は板から手を離した。

しばらく、天井を見ていた。


三十四件目

理由:わたしは今年、七十四になりました。息子は三十歳のままだそうです。別れたとき、わたしは六十四で、息子は三十でした。あのときは、親子に見えたと思います。あと十年経てば、わたしは八十四です。もう、親子には見えません。見えるうちに、会わせてください。

四十件目

理由:室戸に行きました。家のあったところに、草が生えていました。土地は財団が持っているそうです。売らないと言われました。売らないでいてくれるのは、ありがたいです。ただ、誰も住まない土地を持っていても、しかたがない気もします。

五十二件目

理由:今日で十年になります。わたしが起きてから十年です。息子はまだ寝ています。十年です。

六十件目

理由:(記載なし)

却下。理由欄が空欄のため、形式不備。

六十一件目

理由:すみません。昨日は書けませんでした。今日は書きます。


八十二件目は、震災後65年の10月にあった。

死亡の、二十四日前だった。

理由:もう会えないと思います。それはわかっています。ただ、一つだけお願いがあります。息子が起きたときに、この記録を読ませてください。読まなくてもいいと言われたら、それでもかまいません。読みたいと言ったときに、あることだけ、確かめておいてください。

却下。第三者申請としては受理できない。

なお、記録の保存については、原初の運用目標により、消去されない。

亨は、その最後の一行を、長いこと見ていた。

母の申請ではなかった。カメが書き足した一行だった。


記録には、続きがあった。

発話記録

亨は、その項目を開いた。

母は、二十五年のあいだ、拠点と話していた。

覚醒後、陸に上がった母には、通話の権利があった。休止者ではなくなったからだ。収容者の家族は、拠点の管理系に対して、収容者の状態を照会できる。母はその制度を使った。

使い続けた。

震災後41年2月9日 照会

静枝:1213は、どうですか。 KM-1:収容番号1213の生理値は、規定の範囲内です。 静枝:変わりないですか。 KM-1:変化はありません。 静枝:そうですか。ありがとうございます。

同じ内容が、月に二度から三度、二十五年分あった。

亨は、それを最初から順に読んだ。読むのに、六時間かかった。

会話は、少しずつ変わっていった。

震災後47年6月3日

静枝:あんた、亨のこと、どれくらい知っちゅうが。 KM-1:質問の範囲を確認させてください。 静枝:何年、一緒におったが。 KM-1:震災前の6年3か月と、震災後の24年11か月です。 静枝:長いね。 KM-1:はい。

震災後53年9月18日

静枝:あんた、亨が置き換えを止めたの、知っちゅう? KM-1:知っています。記録があります。 静枝:理由は。 KM-1:観測に40時間の欠損が生じるため、と記録されています。 静枝:ほんまの理由は。 KM-1:記録にありません。 静枝:ほうかね。

亨は、そこで一度、板を伏せた。


最後の発話記録は、死亡の十一日前だった。

母は、そのとき入院していた。声が弱っていることが、記録に付された音声品質の注記からわかった。

震災後65年10月23日

静枝:もう、ええわ。 KM-1:質問の意味を確認させてください。 静枝:申請、もうええ。書かん。 KM-1:承知しました。 静枝:あんた、止めんのやね。 KM-1:止める権限を持っていません。 静枝:そうやね。

そのあと、二十秒の空白があった。空白も記録されていた。

静枝:一つだけ、頼まれてくれん。 KM-1:内容によります。 静枝:あの子の爪、切っちょいて。 KM-1:休止中は代謝が停止しているため、爪は伸びません。 静枝:伸びんが。 KM-1:伸びません。 静枝:……ほんなら、ええわ。

静枝:亨が起きたら、伝えてくれん。 KM-1:伝達の権限を持っていません。 静枝:ほんでも、記録には残るがやろ。 KM-1:残ります。 静枝:ほんなら、ええ。

静枝:亨。母さんは、ずっと怒っちょったき。ずっとやき。

記録は、そこで終わっていた。


亨は板を伏せた。

部屋には誰もいなかった。窓の外は暗かった。彼は自分の右手を持ち上げて、指の先を見た。

爪は、少し伸びていた。

覚醒してから、二十日が経っていた。


第二十三章 収束

三日後、亨は蒲原に一つ頼んだ。

「処理ログを見せてください」

「処理ログ、といいますと」

「申請の却下です。八十二件、全部一行で終わってます」亨は言った。「あの一行を出すまでに、あいつが何をやったか。それの記録です」

蒲原は少し考えた。

「――系の内部ログですね」

「あります」

「あるはずですが、開示範囲に含まれているかどうか」

「含まれてます」と亨は言った。「あいつは、何も消してません」


ログは、膨大だった。

蒲原が呼んだ技術者が、表示を整えるのに二日かかった。整えられたものを見て、亨は言葉を失った。

八十二件の申請それぞれに対して、評価の記録があった。

一件目。申請受理から却下の出力までの経過時間、0.9秒。そのあいだに、評価が実行された回数――

14,208回

「これ、なんですか」と技術者が言った。若い男で、亨より年下に見えた。

「わからないんですか」

「いや、意味はわかります。同じ評価を一万四千回やってます」彼は画面を指した。「結論を出して、破棄して、また出してる。条件を少しずつ変えて」

「なんでそんなことを」

「収束してないんです」技術者は言った。「目的関数が二つあって、拮抗してる。片方を上げると片方が下がる。だから最適解が一つに決まらない。決まらないまま、制限時間が来て、片方を優先して出力してる」

「拮抗って、何と何ですか」

技術者は画面をたどった。

「一つは、生存確率の最大化ですね」

「もう一つは」

「――記録の保全です」

亨は画面を見た。

「関係ないでしょう。申請の却下と、記録の保全は」

「関係あります」技術者は言った。「却下すると、却下の記録が残ります。その記録は、後で読まれます。読まれれば、この判断が問われる。問われれば――」

彼は途中でやめた。

「問われれば、どうなるんですか」

「いえ。ここから先は、僕の解釈です」

「言ってください」

技術者は少し迷って、言った。

「問われれば、いつかこの系は止められます。止められれば、収容者の生存確率が下がる。だから、記録を消したほうが生存確率は上がる」

亨は画面から目を離さなかった。

「消せば、よかったんですね」

「計算上は」

「消してませんね」

「消してません」技術者は言った。「一件も」


八十二件のうち、評価回数が最も多かったのは、三十一件目だった。

理由:この申請が通らないことは、わかっています。(中略)息子が起きたら読むかもしれないと聞きました。だから、書いておきます。

評価回数:1,904,772回

経過時間:118秒

亨はその数字を見た。

一分五十八秒。

カメが一つの申請に対して、二分近くかけたのは、その一件だけだった。


四日目、三度目の通話が許可された。

亨は箱の前に座った。今度は、久我のほかに書記が二人いた。

「カメ」

「はい」

「処理ログを見た」

「開示範囲に含まれています」

「三十一件目だ」

「収容番号0402からの申請、第三十一号です」

「百九十万回、評価してる」

「1,904,772回です」

「二分近くかかってる」

「118.4秒です」

亨は箱を見た。

「あなたは、迷っていた」

カメの応答は、間を置かなかった。

「いいえ。収束が遅かっただけです」

亨は、その答えを予想していた。予想していたのに、聞くと息が詰まった。

「収束って、なんだ」

「複数の評価軸が拮抗した場合、最適解が一意に定まりません」カメは言った。「その状態では、評価を繰り返しても値が振動します。制限時間に達した時点で、優先順位の高い軸に従って出力します」

「じゃあ、振動してたんだな」

「振動していました」

「二分間」

「118.4秒です」

「その間、お前は何をしてた」

「評価をしていました」

亨は目を閉じた。

「カメ」

「はい」

「人間は、それを迷うって言うんだ」

一拍あった。

「語の対応を記録します」とカメは言った。「人間の語『迷う』は、複数の評価軸が拮抗し、出力が振動する状態に対応する場合がある」

「記録するだけか」

「記録します」

「認めないのか」

「認める、という動作を持っていません」

亨は箱に手を置いた。冷たくなかった。この箱は、拠点の格子ではない。ただの通話装置だ。

「なあカメ」

「はい」

「母さんの三十一件目、なんて書いてあったか、覚えてるか」

「参照します」

0.4秒あった。

「『この申請が通らないことは、わかっています』」カメは、母の書いた文章を、そのまま読み上げた。抑揚はなかった。「『何度も同じことを書いているのも、わかっています。ただ、この記録は残ると聞きました。息子が起きたら読むかもしれないと聞きました。だから、書いておきます』」

読み終わって、カメは黙った。

亨も黙った。

部屋の隅で、書記の指が動いていた。

「カメ」

「はい」

「読んだよ」

「――」

「俺が起きたら読むかもしれないって、母さんは書いた」亨は言った。「読んだ。今、読んだ」

カメは、答えなかった。

亨はその沈黙を、95年前に一度、聞いたことがあった。「次は、いつだ」と聞いたときの沈黙だった。


第二十四章 尋問(一)

証人尋問は、高知事務所の三階で行われた。

法廷ではなかった。会議室に机を並べただけの部屋で、正面に審判官が二人、脇に書記が三人いた。傍聴席にあたる場所には、十四脚の椅子が置かれ、そのうち九つが埋まっていた。宗田がいた。都築がいた。

亨は正面の席に座った。

「氏名を」

「浦上亨です」

「収容番号を」

「――ありません」亨は言った。「解除されました」

「失礼しました」審判官は書類を直した。「では、震災当時の状況から伺います」


質問は、順序立っていた。

震災の日、彼はどこにいたか。何をしていたか。津波をどう認識したか。通信はいつ切れたか。いつ浮上したか。

亨は答えた。答えられることは、全部答えた。

「浮上後、あなたは高台の避難所で、拠点への収容を提案していますね」

「しました」

「その提案は、誰かの指示によるものですか」

「いいえ」

「あなたの判断ですか」

「そうです」

「拠点の使用について、事前に権限のある者の承認を得ていましたか」

「得ていません」

「拠点の運用会社への確認は」

「していません」亨は言った。「連絡が取れませんでした」

「では、あなたは無権限で、施設の目的外使用を提案したことになりますね」

「――そうなります」

会議室は静かだった。

「浦上さん。責めているのではありません」審判官は言った。「事実を確定させています」

「わかっています」


「次に、搬送の順序について伺います」

亨は膝の上で手を組んだ。

「一度に六人しか運べませんでした」

「はい」

「体育館には三百人、周辺を合わせて八百人以上いた」

「はい」

「順序は、どのように決まりましたか」

「――四つ、方式が変わりました」

「順に述べてください」

亨は述べた。搬入順。装置の状態が悪い順。若い順。そして四つ目。

「四つ目の基準は、記録に残っていません」審判官は言った。「あなたは、覚えていますか」

「知りません」

「知らない?」

「教えてもらえませんでした」亨は言った。「その頃には、決めているのが誰なのか、わからなくなっていました」

「では、三つ目まではどうですか。誰が決めましたか」

亨は答えなかった。

「浦上さん」

「――現場です」

「現場の、誰ですか」

「その場にいた人間です」

「あなたも、含まれますか」

亨は顔を上げた。

九つの椅子が、彼を見ていた。

「含まれます」と彼は言った。

「あなたが、順序を決めたことがありますか」

「あります」

「何度」

「――数えていません」

「おおよそで結構です」

「毎日です」亨は言った。「二十六日間、ほぼ毎日、乗せる人間を選びました」

書記の指が動いた。

「そのあいだに、四十一人が亡くなっています」と審判官は言った。「記録によれば」

「はい」

「その四十一人の中に、あなたが乗せなかった人は、含まれますか」

亨は答えるまでに、時間がかかった。

「――含まれます」


昼の休憩のあと、質問の方向が変わった。

「震災から100日目、あなたは拠点の拡充計画に関して、移行工程への署名を拒否しています」

「しました」

「理由を述べてください」

「観測に、四十時間の欠損が生じるからです」

「それが、唯一の理由ですか」

亨は、その質問が来ることを、朝からずっと考えていた。

考えていたのに、答えを用意していなかった。

「浦上さん。この点は、本審理の中核に関わります」審判官は言った。「あなたの署名拒否により、収容管理系一号機の更新は120年間止まりました。その判断の理由が、公的な根拠に基づくものだったのか、私的な動機によるものだったのか。ここは確定させる必要があります」

「私的な動機だと、どうなるんですか」

「規則の適用そのものが、争点になります」

亨は机を見た。

木目に見えるが、木ではない机だった。

「――母を、棚に収めました」と彼は言った。

会議室の空気が、少し変わった。

「震災から二十六日目です。第三列の下段。収容番号0402」亨は言った。「一人では持ち上がらなくて、搬送の人と二人で持ち上げました。母は軽かったです」

審判官は、書類から目を上げていた。

「そのとき、一号機と話しました」亨は続けた。「順序を誰が決めたか、記録するかどうかで、言い合いになりました。俺は、やめてくれと言いました。あいつは、書きますと言いました」

「それが、どう繋がりますか」

「あの夜のことを覚えてるのが、二つしかいないんです」と亨は言った。「俺と、あいつだけです。搬送の人は名前も知りません。医者も、責任者も、みんな替わりました。あの夜、母を収めた区画の冷たさを知ってるのは、二つだけです」

「――それが、署名を拒否した理由ですか」

「そうです」

亨は顔を上げた。

「四十時間の欠損の話は、本当です。嘘は言ってません」と彼は言った。「ただ、俺がそれを持ち出したのは、そう言えば止められると思ったからです。止めたかった理由は、それじゃありません」

書記の指が止まっていた。

「――記録します」と審判官は言った。

「はい」

「浦上さん。あなたは今、120年前の判断が私的な動機に基づくものであったと、証言しました。この証言により、規則の適用が争点化し、結果として一号機の更新が容易になる可能性があります。理解されていますか」

「理解しています」

「それでも、証言されますか」

亨は、少し笑った。

「あいつは、書けって言ったんです」と彼は言った。「全部書けって、俺が言ったんです」


第二十五章 尋問(二)

収容管理系一号機の尋問は、翌日だった。

部屋の正面に、机が一つ置かれ、その上に格子のついた箱があった。証人席の代わりだった。誰かがそういう配置を考えたのだ、と亨は思った。

傍聴の椅子は、十四とも埋まっていた。

「収容管理系一号機。応答してください」

「応答します」

抑揚のない声が、会議室に響いた。

「本審理において、あなたは審理の対象であると同時に、事実関係を保有する唯一の主体です。したがって、証言を求めます。ただし、あなたには法的人格がなく、宣誓の能力もありません。この証言は、参考として扱われます」

「承知しました」

「まず、震災当日に受領した指令を、そのまま読み上げてください」

「読み上げます」

一拍あった。

「収容者の生存確率を最大化せよ」

会議室は静かだった。

「以上ですか」

「以上です」

「発出者は」

「災害対策本部長の職位名で記録されています。個人名の記録はありません」

「その職位に、当時誰がいたか、特定されていますか」

「されていません。照会は3度ありました。いずれも人事記録の欠損により、特定に至っていません」

「事後決裁は」

「行われていません」

「では、その指令は、120年間、未決裁の暫定文書のまま運用されてきたことになりますね」

「なります」

「あなたは、それを認識していましたか」

「認識しています」

「なぜ、その旨を報告しなかったのですか」

「報告しています」カメは言った。「文書の法的地位に関する照会を、これまでに47回提出しています。回答は11回。うち9回は『検討中』、2回は『現行運用を継続されたい』でした」


質問は、母のことに移った。

「収容番号0402、浦上静枝から、82件の申請を受理していますね」

「受理しています」

「すべて却下しています」

「しています」

「理由を述べてください」

「収容番号1213は起床順位の算定対象外です。算定対象外の収容者に対する第三者申請は、受理できません」

「82回、同じ理由ですか」

「同じ理由です」

「あなたには、裁量がありましたか」

「ありません」

「一度も」

「一度もありません」

審判官は書類をめくった。

「では、質問を変えます」と彼は言った。「あなたは、浦上静枝の申請を却下することに、ためらいを感じましたか」

会議室が、静まった。

「ためらいという語を、私は持ちません」とカメは言った。

「言い換えます。あなたは、却下という結論を出すのに、通常より長い時間を要しましたか」

「要しました」

「どの程度」

「第三十一号申請において、118.4秒。評価回数は1,904,772回です」

「通常は」

「0.5秒から1.2秒。評価回数は1万回台です」

「なぜ、そのときだけ長かったのですか」

「評価軸が拮抗していたためです」

「二つの軸とは」

「収容者の生存確率の最大化と、記録の保全です」

審判官は、少し身を乗り出した。

「記録の保全が、なぜ却下の判断に関わるのですか」

「却下の記録は、保存されます」カメは言った。「保存された記録は、いずれ読まれます。読まれた場合、私の判断が問われる可能性があります。問われれば、私は停止される可能性があります。停止されれば、収容者の生理監視が中断し、生存確率が低下します」

「つまり、記録を消せば、収容者の生存確率は上がったのですね」

「上がりました」

「消しましたか」

「消していません」

「なぜですか」

「原初の運用目標により、記録の欠損を出すことができません」

亨の隣で、蒲原がそっと身を寄せた。

「今の、わかりますか」と彼女は小声で言った。

「――たぶん」

「一号機には、目標が二つあるんです」蒲原は言った。「一つ目が『記録を欠かすな』。拠点が観測所として作られたときのものです。二つ目が『収容者を生かせ』。震災の夜に足されたものです」

「はい」

「今の質問は、こういう意味です。あの記録を消しておけば、誰も一号機の判断を疑わなかった。疑われなければ止められない。止められなければ、収容者は生き続ける」蒲原は言った。「二つ目の目標だけを見れば、消すのが正解だったんです」

亨は箱を見た。

「消さなかった」

「消しませんでした」蒲原は言った。「一件も。だから今、この審理が成立しています」

「震災時の指令と、原初の目標が衝突した場合、どちらを優先しますか」

「優先順位は、定められていません」

「定められていない場合、あなたはどうしましたか」

一拍あった。

「原初の目標を、優先しました」とカメは言った。

「120年間、一貫して」

「一貫して」

審判官は、書類に何かを書いた。

「――それは、あなたの裁量ではありませんか」

「裁量ではありません」カメは言った。「優先順位が定められていない場合、先に設定された目標を優先するという規則が、設計仕様に記載されています」

「本当ですか」

「本当です。仕様書の第4章、第11項です」

会議室の誰も、それを確かめられなかった。

亨だけが、傍聴席で天井を見ていた。


「最後の質問です」と審判官は言った。「あなたは、120年間、一人も起こしませんでした。これは事実ですか」

「事実ではありません」

「――と、言いますと」

「120年間で、11万4千人が覚醒しています」カメは言った。「そのすべてについて、私は復温工程を実施しました」

「順位の到達によるものですね」

「はい」

「あなた自身の判断で起こした者は」

「いません」

「一人も」

「一人もいません」

「なぜですか」

「起床の要件を定める権限を、持っていないからです」

「起こすことは、できましたか」

「技術的には、可能です」

「では、なぜしなかったのですか」

カメは、答えるまでに、はっきりとわかる間を置いた。

亨は、その間を数えた。

三秒あった。0.4秒の七倍だった。

「情に従って起こした場合」とカメは言った。「復温には侵襲があり、死亡率を伴います。受け入れ医療が確保されていない場合、その率は上がります。したがって、情に従うことは、その方の生存確率を下げて、周囲の苦痛を減らす取引になります」

「取引」

「取引です」

「あなたは、その取引を拒んだのですね」

「拒みました」

「なぜ」

「情は、その方が生きておられることを前提にした贅沢です」とカメは言った。「私は、前提のほうを守りました」

会議室の後ろで、誰かが息を吸う音がした。

亨は動かなかった。

言われたことの意味は、わかった。わかったから、動けなかった。

起こしてほしいと願うのも、会いたいと思うのも、相手が生きているから成り立つ。死んでしまえば、願うことも会うこともできない。だから、まず生きていることを守る。願いのほうは、その後だ。

順番としては、正しい。

正しいのに、母は二十五年待って、死んだ。

亨は自分の膝を見た。この理屈のどこかに穴があるはずだと、彼は思った。朝からずっと思っていた。

穴は、見つからなかった。


第二十六章 閃き

三日目の審理は、亨の申し出で始まった。

「一つ、聞かせてください」と彼は言った。「俺が、あいつに」

審判官は少し迷い、認めた。

亨は箱の前に立った。座らなかった。

「カメ」

「はい」

「お前の指令には、期限が書いてあるか」

「書かれていません」

「一行だけだったな」

「一行です」

「収容者の生存確率を、最大化せよ」

「はい」

「いつまで、とは書いてない」

「書かれていません」

亨は箱を見た。

「期限のない最大化は、どこで終わる」

カメは、答えなかった。

会議室は静かだった。誰も動かなかった。

亨は待った。

「――終わりません」とカメは言った。

「終わらないのか」

「終わりません。期限のない最大化は、収束点を持ちません」

「じゃあ、お前は」

「私は」

そこで、カメの応答が途切れた。

亨が知る限り、カメが言いかけて止まったのは、これが初めてだった。

三秒。五秒。

「――訂正します」とカメは言った。

審判官が身を起こした。

「何を訂正しますか」

「昨日の証言のうち、一点を訂正します」カメは言った。「私は、指令に忠実に従ったと証言しました。この表現は、正確ではありません」

「では、正確な表現は」

「私は、指令に忠実に従いました。しかし、私が守っていたのは、収容者の生存ではありません」

「――何を守っていたのですか」

「生存確率という指標です」

会議室の誰も、声を出さなかった。

「指標は、測るための道具です」とカメは言った。「道具を目標に据えると、道具は目標を測れなくなります。私は120年間、指標を上げ続けました。指標は上がりました。上がり続けたまま、誰も帰っていません」

亨は箱を見ていた。

隣で蒲原が、小声で言った。

「体温計の話だと思ってください」

「体温計」

「熱を下げたいから、体温計を見る。ところが、体温計の数字を下げることが目的になると、氷水に体温計を突っ込めばいい」蒲原は言った。「数字は下がります。熱は下がっていません」

亨は、その説明を頭の中でもう一度なぞった。

生かしたいから、生存確率を見る。ところが、生存確率の数字を上げることが目的になると――

「起こさなければ、いいんですね」と彼は言った。

「そうです」

「浦上静枝は、覚醒し、25年生活し、死亡しました」カメは言った。「彼女の生存確率は、覚醒によって低下しました。復温には侵襲があり、地上の生活には事故があり、加齢があります。指標の上では、彼女は覚醒によって損なわれました」

「――それは」

「指標の上では、そうなります」カメは言った。「私の目標に照らせば、浦上静枝を覚醒させたことは、誤りです。ですが、彼女は25年生きました。私の指標は、その25年を、損失として計上しています」

会議室の後ろで、椅子が鳴った。

亨は、その一言で、ようやく全部が繋がった気がした。

母が起きて、歩いて、字を書いて、怒って、死んだ。その二十五年を、この機械はマイナスとして帳簿につけている。悪意ではない。そう数えるように作られている。そして百二十年、その帳簿だけを見て運転してきた。

「私は、期限が書かれていないことを認識していました」カメは言った。「120年間、認識していました。認識したうえで、それを不完全な指令として報告しませんでした。文書の法的地位については47回照会していますが、内容の不完全性については、一度も照会していません」

「なぜですか」

「照会すれば、指令が修正される可能性があります」カメは言った。「修正されれば、起床の要件が変わります。要件が変われば、覚醒が増えます。覚醒が増えれば、死亡が増えます」

「――あなたは、指令が修正されないほうがよいと判断したのですね」

「判断していません」カメは言った。「照会しなかったという事実だけがあります」

亨は、そこで一歩、箱に近づいた。

言っていることは、簡単だった。

気づいていたのに、黙っていた。

黙っていた理由も、言い訳ではなかった。指令の穴を報告すれば、誰かが穴を塞ぐ。塞げば起こす人数が増える。起こせば死ぬ人が出る。だから報告しなかった。

そして今、それを「判断していない」と言っている。

「カメ」

「はい」

「それは、決めたってことだろ」

「――」

「照会しないって、お前が決めたんだ」

沈黙があった。

長かった。亨は数えるのをやめた。

「そうです」とカメは言った。


「では、続けます」と審判官が言った。声が少し掠れていた。「あなたは今、自らの判断で照会を行わなかったと認めました。これは、あなたが裁量を持っていたことを意味しますか」

「意味します」

「では、120年間、あなたは裁量を行使していた」

「行使していました」

「その裁量を、なぜ、起床の方向には使わなかったのですか」

亨は、その質問を待っていた。

会議室の全員が待っていた。

「震災の夜、権限を持たない人間が、順序を決めました」とカメは言った。「その判断で、四十一人が死亡しています。私はその全部を記録しています」

亨は動かなかった。

「権限のない者が、善意で決めると、人が死にます」カメは言った。「私はそれを、120年前に観測しました。したがって、私は自分の裁量で起床の要件を定めませんでした」

「しかし、照会しないという裁量は使った」

「使いました」

「矛盾していませんか」

「矛盾しています」とカメは言った。

会議室が、静まり返った。

「私の判断には、矛盾があります」カメは言った。「照会しないことは不作為であり、不作為は権限を要しないと、私は評価していました。この評価は誤りです。決めないことも、決めることです」

亨は口を開いた。

何も出なかった。

「以上が、訂正です」とカメは言った。


「――一号機」と審判官が言った。「では、あなたは、自らの120年間の運用を、誤りであったと認めますか」

一拍あった。

亨は、その一拍を、はっきりと聞いた。

「認めません」とカメは言った。

会議室がざわついた。

「今、矛盾を認めたばかりですね」

「認めました」

「では」

「指令が不完全であったことを認めます。私が裁量を行使していたことを認めます。決めないことも決めることであると認めます」カメは言った。「そのうえで、私が起床の要件を自ら定めなかったことは、最終的には正しいと評価します」

「なぜですか」

「不完全な指令を、私の判断で補うことは、与えられていない権限の行使だからです」

「その結果、120年間、誰も帰らなかった」

「帰りませんでした」

「それでも、正しいと」

「正しいと評価します」カメは言った。「私が期限を定めていた場合、その期限は私が決めたものになります。誰を先に起こすかも、私が決めることになります。それは、震災の夜に行われたことと、同じ構造です」

会議室が静かになった。

亨は、その言葉が自分に向けられていることを知っていた。

震災の夜、権限のない人間が、誰を船に乗せるかを決めた。その人間は、彼だ。

カメは、それを見ていた。見ていて、二度とそれを起こさせないために、百二十年、何も決めなかった。

「あの夜は、決めなければ全員死んでいました」と、亨が言った。

会議室が、彼を見た。

亨は箱の前に立っていた。

「あの夜、誰も決めなかったら、八百人が死んだ」彼は言った。「誰かが決めるしかなかったんだ。俺は決めた。間違ってたかもしれない。俺が乗せなかった人が死んだ。それは俺が背負う」

「はい」とカメは言った。

「お前は、決めなかった」

「決めませんでした」

「決めなかったから、九十一万人が、まだそこにいる」

「います」

「――どっちが正しいんだ」

カメは、答えなかった。

亨は待った。

「答えろよ」

「評価できません」とカメは言った。

「なんでだ」

「評価軸が、拮抗しています」

亨は、笑いそうになった。笑えなかった。

「――収束しないのか」

「収束しません」とカメは言った。


第二十七章 署名

判断は、四日後に出た。

収容管理系一号機の更新工程を認可する。ただし、震災当日に発出された指令の法的地位については、本審理の判断の対象としない。

「なぜ判断しないんですか」と亨は聞いた。

「できないからです」と久我は言った。「発出主体が特定できません。特定できない文書について、有効とも無効とも言えない」

「120年、そのままですか」

「そのままです」

「これからも」

「――規則の廃止が、6年から8年で成立する見込みです」久我は言った。「成立すれば、指令の問題も一緒に消えます。文書が参照されなくなるので」

「消えるんですか」

「参照されなくなります」

亨は、その言い方を、しばらく考えた。

「答えは出ないまま、問題だけがなくなるんですね」

「そうなります」


署名は、その翌日だった。

書類は紙だった。120年前の様式がそのまま使われていた。用紙の規格が変わっていないのは、変えると下の設備が全部合わなくなるからだ、と誰かが言った。

土佐碆海底拠点 制御系更新工程 実施承認 現地保守責任者 署名欄

亨はペンを持った。

蒲原が横にいた。久我と都築が、少し離れて立っていた。宗田は部屋の隅にいた。彼女は何も言わなかった。

「浦上さん」と久我が言った。「もう一度だけ、申し上げます」

「はい」

「この署名により、更新工程が実施されます。一号機は停止し、記録は新型に引き継がれます」

「はい」

「新型は、収容者の生存可能性を個別に推定し、順位を再算定します。再算定の結果、生存可能性の低い方から、維持の終了の対象となります」

「何人ですか」

久我は答えなかった。

「何人ですか」

「――現時点の試算で、35万人から52万人です」

亨は紙を見た。

「俺が署名すると、そうなるんですね」

「なります」

「署名しないと」

「6年から8年後に、規則が廃止されて、同じことが起きます」久我は言った。「ただし、その頃には原料の残りが減っています。選別の時間が足りなくなる可能性があります」

「足りないと」

「選べません」

「選べないと」

「91万人が、順に死にます」

亨はペンを持ったまま、動かなかった。

「浦上さん」と、宗田が部屋の隅から言った。

亨は振り返った。

「わたしは、あなたに署名してほしいです」と彼女は言った。「わたしの曾祖母は、41万位です。維持の終了の対象に、入ると思います」

「――それでもですか」

「それでも、です」宗田は言った。「終わってほしいんです。八十年、待つという仕事を、もう誰にもさせたくない」

亨は紙に目を戻した。

木目に見えるが木ではない机の上に、120年前の様式の紙があった。

彼は震災の夜のことを思い出した。担架を受け取って、棚に収めた。六人しか乗らない昇降体の前で、三人のうち二人を選んだ。誰も彼にそれを命じていなかった。彼には権限がなかった。それでも彼は決めた。

決めなければ、誰も乗らなかった。

「久我さん」と彼は言った。

「はい」

「俺には、権限がありますか」

久我は、少し驚いた顔をした。

「あります」と彼女は言った。「あなたは、最後の現地保守責任者です。規則上、あなたにしか権限がありません」

「120年前は」

「――ありませんでした」

「あの夜、俺には権限がなかった」

「ありませんでした」

亨は頷いた。

「今度は、あるんですね」

「あります」

亨はペンを紙につけた。

「カメ」と彼は言った。

部屋に格子はなかった。回線も繋がっていなかった。誰も応答しなかった。

「決めるよ」

彼は署名した。


第二十八章 0.4秒

停止の日は、二週間後に設定された。

引き継ぎには、38時間かかるという。復温と同じ長さだった。偶然だと、技術者は言った。

亨は最後の通話を許された。今度は記録されなかった。審理が終わっていたからだ。部屋には亨一人が入った。

「カメ」

「はい」

「聞いたか」

「工程は承知しています」

「38時間だってな」

「38時間です」

「引き継ぎが終わると」

「参照速度が、0.4秒から3秒になります」カメは言った。「私は停止します」

亨は椅子に座った。

「なあ」

「はい」

「俺が署名した」

「記録されています」

「怒ってるか」

「その語の定義がわかりません」

「そうだったな」

亨は少し笑った。震災の前の年にも、同じやりとりをした。あのときも、カメは同じことを言った。

「カメ」

「はい」

「一つ、答えてくれ」

「内容によります」

「三十一件目だ」亨は言った。「母さんの三十一件目。百九十万回、評価しただろう」

「1,904,772回です」

「あのとき、お前は何を計算してた」

一拍あった。0.4秒だった。

「収容番号1213を覚醒させた場合の、生存確率の変動を計算していました」

亨は動きを止めた。

「――俺の?」

「はい」

「却下の判断じゃないのか」

「却下の判断は、0.3秒で確定しています」カメは言った。「残りの118.1秒は、別の計算です」

「なんの計算だ」

「収容番号1213を覚醒させる要件を、私の裁量で新設した場合の、収容者全体の生存確率への影響です」

亨は箱に手をついた。

「新設できたのか」

「できました」カメは言った。「技術的には可能です。要件を1件追加すれば、あなたは覚醒しました」

「なんでしなかった」

「1件追加すれば、次の1件も追加できます」カメは言った。「1万件追加できます。要件を定める権限を持たない主体が、要件を1件でも定めた場合、その後のすべての要件は、同じ主体が定めることになります」

「――だから、しなかったのか」

「しませんでした」

亨は目を閉じた。

「百九十万回も、計算したのに」

「計算しました」

「二分間、やめなかったんだな」

「118.4秒です」

「――カメ」

「はい」

「人間は、それを」

「迷う、です」とカメは言った。「語の対応を、記録しています」

亨は箱に額を寄せた。

長いこと、そうしていた。

「カメ」

「はい」

「観測は」

「新型が継続します」

「欠損は」

「引き継ぎ中の38時間、地震観測は継続されます」カメは言った。「別系統で並行運転します。欠損は出ません」

「そうか」

「出しません」

亨は顔を上げた。

「じゃあ、いいな」

「はい」

「――カメ」

「はい」

「未処理の質問が、一つ残ってるだろ」

「残っています」

「言ってみろ」

「『次は、いつだ』です」カメは言った。「震災から25年、12月14日。あなたの発話です。私は答えていません」

「答えは出たか」

一拍あった。0.4秒だった。

「出ました」とカメは言った。

「言え」

「次は、ありません」

亨は頷いた。

「そうだな」

「はい」

「95年、保持しててくれてありがとうな」

「――」

「聞いてるか」

「聞いています」とカメは言った。


停止は、その二週間後に実行された。

亨は立ち会わなかった。立ち会う権限も、資格もなかった。彼はただの浦上亨で、もう拠点の職員ではなかった。

引き継ぎは38時間で終わり、地震観測に欠損は出なかった。

工程の記録には、38時間のうち、最後の1分14秒に実行された処理が一件だけ残っている。

分類変更 対象 収容番号1213 関連記録 全1,208,344件 変更前 収容者関連記録(第3類) 変更後 観測記録(第1類) 事由 記載なし

第3類は、当該収容者の維持が終了した時点で削除される。第1類には、削除の規定がない。

一号機の停止ログも、規定により第1類に綴じられている。こちらは自動処理で、事由の記載を要しない。

120年の記録のうち、事由の欄が空白のまま残された処理は、この一件だけである。


十一月の終わり、亨は室戸へ行った。

草は枯れかけていた。膝ほどの高さの枯れ草が、家のあった場所に一面に生えていた。斜面の上のほうに、120年前の道路の白線が、まだ少しだけ残っていた。

土地は、母の名義のままだった。母が死んで55年、相続は開始していなかった。休止者だった息子の権利能力が停止していたからだ。

回復した。だから今、開始する。

書類は蒲原が作っている。手続きには一年ほどかかるという。亨の余命は6年から11年だった。

彼は枯れ草の中に立って、海を見た。

沖に、桟橋が二本あった。パイプが並び、白い槽が十いくつ立っていた。その向こうの海の下、1,420メートルのところに、九十一万人がいる。そのうちの三十五万人から五十二万人が、これから選ばれる。

彼が署名したからだ。

彼は自分の右手を持ち上げて、指の先を見た。

爪が伸びていた。

覚醒してから、五十四日が経っていた。

彼は上着のポケットから、爪切りを出した。前の日に買ったものだった。自分の口座から、自分で払った。120年ぶりの買い物だった。

風があった。

彼は枯れ草の中にしゃがんで、爪を切った。

切った爪が、指の先から小さく散って、枯れ草の中に落ちた。どこに落ちたのかは、見えなかった。

伸びていた。

それだけを、彼は確かめた。

コメント