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月面遺跡都市編2
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第一章 阿弥
禁書層から外縁通信路へ抜け、地球へ向けて短い送信を撃ち終えたあと、かぐやは回廊の陰で息を整えていた。
月の空気はいつも一定だ。 温度も、湿度も、圧も、きわめて正確に整えられている。 それなのに、追われる側の呼吸だけは、どうしても不規則になる。
足音は、ひとつだけだった。
執行官たちの硬い足音ではない。 もっと静かで、もっと深い、古い機械の内側から歩いてくるような響きだった。
白い回廊の角から現れた女を見て、かぐやは思わず立ち上がった。
「……阿弥」
女は年齢の読めない顔をしていた。 若く見えようと思えば若く見えるし、老いて見ようと思えば、そうも見える。月の上層に長くいる者には、そういう曖昧さがある。低重力と制御医療のせいで、年齢は皮膚よりも目に出る。阿弥の目は、ひどく古かった。
白い法衣のような整備衣。 肩から胸へ走る黒い導体紋。 頸の付け根に埋めこまれた薄い金属輪。 彼女は月の宗務と保守を統べる《継唱院》の首座であり、ラビリュント第三区画では、都機関にもっとも近い人間のひとりとされていた。
かぐやにとっては、それ以前に、幼いころ最初に文字を教えた人だった。
「久しぶりですね」 と阿弥は言った。 声は静かで、昔と少しも変わっていない。 「地球は、あなたを随分変えたようです」 「変わったのは、わたしじゃない」 かぐやは答えた。 「見え方です」 「月の見え方が、ですか」 「ええ」
阿弥は怒らなかった。 むしろ、わずかに哀しそうに見えた。
「あなたは昔から、見えなくていいものまで見ようとする子でした」 「見えなくしてるのは、そちらでしょう」 「そうしなければ、この都市は長くもちません」 「長くもってますか」 かぐやは周囲を見まわした。 白い回廊。脈打つ導管。祈りに置き換えられた保守。 「ただ延命してるだけです」 「延命でも、生きているなら意味はあります」 「名前を削って?」 「秩序を守るために必要です」 「それを、わたしはもう信じない」
阿弥は、そこで初めて、かぐやをまっすぐ見た。
「だから地球へ送ったのですよ」 かぐやは一瞬、呼吸を止めた。 「……何」 「あなたの更生送りを決裁したのは、わたしです」 「処罰じゃなかったと?」 「処罰でもありました。試験でもありました」 阿弥の声は少しも揺れない。 「地球に送られた者は、たいてい戻れば地球を忘れたがります。忘れなければ、生きづらいからです。けれどあなたは違った。忘れたくない方を選んだ」 「それで、失望した?」 「半分は」 阿弥は言った。 「もう半分は、予想していました」
第二章 月の使いたちの骨
阿弥はかぐやを拘束しなかった。 逃げ道もふさがず、ただ歩き出し、 「来なさい」 とだけ言った。
罠だとわかっていても、かぐやはついていくしかなかった。 阿弥が知っていることは、執行官たちの報告書よりずっと奥にある。禁書層のさらに深いところへ行くには、彼女を避けて通れない気がした。
回廊を下り、祈祷塔の裏手を抜け、保守用の細い縦路を潜る。 やがて二人は、かぐやも入ったことのない区画へ出た。
そこには、白い寝台が何列も並んでいた。
寝かされているのは、執行官たちだった。 いや、正確には、《執行官になる前の者たち》と言うべきかもしれない。
子ども。 まだ十にも満たないような者もいる。 静かに眠らされ、頸や背骨の周辺へ、細い金属骨格が移植されている最中だった。
かぐやは足を止めた。 「これは……」 「接続骨」 と阿弥が言った。 「月の使いたちの正体です」
寝台の上の子どもたちは、人間だった。 だが彼らの骨の一部には、都機関の古い導体材が組みこまれていた。脊柱のわきに沿って細い光路が走り、耳の後ろには位相制御の補助片が埋められている。
「執行官は、ただの司法官ではありません」 阿弥は続ける。 「彼らは都機関の可動端末です。位相場の微調整、局所重力の撹乱、回収経路の保持、外縁との接触制御。そのすべてを、生きた神経を介して行う」 「子どもにやらせるの」 「最適化されるのが早い」 「最適化」 かぐやは吐き気を覚えた。 「名前を消して、感情を均して、都市のための骨にする。それを最適化って呼ぶの」 「呼びます」 阿弥の声はどこまでも静かだった。 「月は人が少ない。都機関は巨大すぎる。完全自動維持ではない以上、どこかで人が機関へ寄らねばならない」 「だからって」 「だからです」 阿弥は言った。 「ここでは、優しさだけでは暮らせない」
かぐやは寝台のひとつへ近づいた。 眠っている少女の口もとには、まだ幼さが残っていた。頬に貼られた導電膜の下で、夢を見ているようにまぶたが震えている。
「この子たちは、地球を知らない」 かぐやは低く言った。 「地球を知る必要はありません」 「家族も?」 「共同体全体が家族です」 「嘘だ」 かぐやは振り向いた。 「共同体全体が家族なら、どうして名前を消すの」 阿弥の目が、ほんの少しだけ細くなる。 「個別の結びつきは、都機関に対する優先順位を狂わせるからです」 「つまり、都機関の方が人間より上だってこと?」 「この都市では、そうです」 阿弥はためらわなかった。 「人が都市を守っているのではない。都市が人を生かしている。順番を取り違えてはなりません」
その返答を聞いて、かぐやはようやく理解した。 阿弥は冷酷なのではない。 順番の中に、深く、完全に住み着いてしまっているのだ。
第三章 阿弥の信仰
「あなたは、いつからそうなったの」 と、かぐやは聞いた。 「そう、とは」 「都機関のためなら何を削ってもいい、って考える人に」
阿弥は少し歩き、ひとつの観測窓の前で立ち止まった。 窓の向こうには、月の裏側の黒があった。 星も、地球も見えない。 ただ果てしない暗さだけがある。
「わたしが若かったころ」 と阿弥は言った。 「この区画で、大規模な圧力喪失がありました」 かぐやは黙って聞いた。 「下層の隔壁が三枚同時に落ち、居住棚が二層ぶん死にました。保守記録は残っていました。けれど、誰も記録の意味を完全には理解していなかった。手順は祈りの形でしか継がれておらず、誰もなぜそれを唱えるのか知らなかった」 「……」 「その時わたしは、問いを好む側の子でした。なぜ、どうして、仕組みは何か。あなたに少し似ていたかもしれません」 「似てない」 「そうでしょうか」 阿弥はかすかに笑った。 「けれど死者を見たあと、考えが変わった。理解しきれないなら、せめて手順だけでも絶やしてはならない。理屈が消えても、典礼が残れば生き延びられる。そう思ったのです」 「それで、理屈ごと封じた」 「はい」 「怖かったから」 「ええ」 阿弥はあまりに率直にうなずいたので、かぐやは一瞬言葉を失った。 「怖かった。月が壊れるのが。人が、知りたがることをやめられないのが。禁書層の記録は、人を賢くする前に、秩序を壊す。わたしはそれを見たくなかった」
かぐやは、そこで初めて、阿弥を単純な敵として憎めないことを悟った。 阿弥は月を支配したいのではない。 壊したくないだけなのだ。 ただ、その《壊したくない》の中に、人間の名前や痛みや選択を平気で埋めてしまえる。
それが、かぐやには耐えがたかった。
第四章 禁書層の核心
阿弥は最後に、かぐやをもっと深いところへ案内した。
禁書層のさらに下。 第三記録井戸の底よりなお低い、円形の空洞だった。 中央には、半ば床に沈んだ黒い柱がある。柱の表面には無数の古い文字列が流れ、周囲には断ち切られた導波管が蜘蛛の巣みたいに広がっていた。
「ここが核心です」 と阿弥は言った。 「都機関深層、《再接続計画》の原簿」 かぐやは息をのんだ。 「本当にあったの」 「ありました。いまもあります」 「どういう計画」 「月と地球を、いつかもう一度つなぎ直す計画です」 かぐやは、柱へ近づいた。
流れているのは設計記録だった。 古い地球語。 月面自治圏の技術言語。 戦後統合規約の断片。 かつて月と地球の技術者たちが、争いのあとに共同で残した、最後の設計思想。
そこに書かれていたのは、意外なことだった。
月と地球の断絶は、完全な事故ではなかった。 戦争のあと、双方は文明の連鎖的崩壊を防ぐため、意図的な《分断安定化》を行ったのだ。地球には情報過多と権力闘争の飽和が起きていた。月には閉鎖環境下の過剰最適化と思想硬化が起きていた。どちらも、そのままでは続かない。
そこで彼らは、苦し紛れにひとつの賭けをした。
月は高技術を残す。 地球は低技術の再生力を残す。 月は維持の手順を持つが、理屈を薄くする。 地球は理屈の断片を失うが、現場の試行錯誤を生き延びさせる。
そして未来のどこかで、 《月が失った improvisation》と 《地球が失った continuity》が もう一度出会った時だけ、 再接続計画を発動させる。
かぐやは文字列を追いながら、声にならない息を漏らした。
つまり、自分が地球へ送られ、 竹守製作所で過ごし、 月の遺跡都市へその経験を持ち帰ったこと自体が、 偶然ではなく、設計思想に最も近い出来事だったのだ。
「わたしは、計画の鍵だった?」 「鍵になりうる条件を、たまたま満たした」 と阿弥は言う。 「だからこそ危険なのです」 「危険?」 「この計画が発動すれば、月は変わる。地球も変わる。閉じた秩序は解ける」 「それの何が悪い」 「何が出てくるかわからない」 「だから止めてたの?」 「はい」
阿弥は柱へ手を置いた。 「わたしたちは長く、忘れることで持ちこたえてきた。再接続は、その忘却に穴を開けます」 「穴を開けなきゃ、もう息ができない」 「それでも」 阿弥は初めて強く言った。 「月には月の時間がある。地球に巻き戻されてはならない」
「巻き戻しじゃない」 かぐやも声を強めた。 「つなぎ直しです」 「違う。地球はいつだって足りないものを欲しがる。月はそれに巻き込まれて壊れた」 「月は壊れてないとでも?」 かぐやは柱の周囲を見た。 祈りに置き換えられた手順。 子どもに埋めこまれる接続骨。 削られる名前。 「もう壊れてる。静かに壊れてる」
阿弥は長いあいだ黙っていた。 やがて、ほとんどささやくように言った。 「……だからこそ、わたしは壊れ方を選びたい」
第五章 対立
阿弥と向き合っているうちに、かぐやは不思議な感覚に襲われた。 これは敵同士の対立なのに、 どこか似た者同士の口論でもある。
どちらも月を嫌ってはいない。 どちらも地球を完全に信じてはいない。 ただ、壊れつつある世界の前で、何を削るかの優先順位が違うのだ。
「阿弥」 かぐやは言った。 「あなた、わたしを地球へ送った時、少しは期待してたでしょう」 阿弥の目がわずかに動く。 「何に」 「わたしが戻ってきて、あなたの代わりに決めること」 阿弥はすぐには答えなかった。
「わたしは」 とかぐやは続けた。 「地球で知ったんです。決めるって、正しい方を選ぶことじゃない。誰かの痛みを、消えないまま引き受けることなんだって」 「それは地球的な言い方です」 「うん。だから月には重い」 かぐやは一歩踏み出した。 「でも、誰かがやるしかない。わたしは、再接続計画を起動する」 「わたしが止めると言ったら」 「止めないで」 「それはできません」 「じゃあ」 かぐやは静かに言った。 「わたしと敵になってください」
その瞬間、阿弥の背後の柱が低く鳴った。 彼女の頸の金属輪が青く光る。 継唱院首座として都機関へ接続された権限が、周囲の場を変え始めたのだ。
床の円環が明滅し、 重力がわずかにずれ、 封鎖扉が一斉に下り始める。
「わたしは、あなたを殺したくありません」 と阿弥は言った。 「なら、どいて」 「どけません」 「じゃあ、壊す」 「それが、あなたの地球ですか」 「いいえ」 かぐやは柱の脇の点検溝に手を突っこんだ。 「これは工場です」
阿弥の場制御は強力だったが、都機関に深く接続している分、反応が遅い。 全体最適の手だ。 啓介なら、こういう時、まず局所を疑う。
かぐやは点検溝から古い切替棒を引き抜いた。 祈祷句ではなく、物理的な力で。 柱の片側が沈黙し、場の均衡が崩れる。
阿弥が一瞬だけよろめいた。
「こんなことをして」 阿弥の声に、初めて揺れが入った。 「月が本当に壊れたら」 「その時は、直す」 「誰が」 「みんなで」 「そんな曖昧な」 「曖昧でいい」 かぐやは叫んだ。 「月は、きれいに整えられすぎたんです!」
阿弥の顔が、そこで初めて、ひどく疲れて見えた。 「……そうかもしれません」
第六章 月の使いたちの離反
封鎖扉が半ばまで下りたところで、別の足音が近づいた。
執行官たちだった。 白い外套。 無表情な仮面。 だが先頭にいたユズルは、核心区画へ入るなり、かぐやでも阿弥でもなく、柱の状態を見た。
「首座」 彼は阿弥へ言った。 「第三位相環が不均衡です。このまま場を維持すれば、上層居住棚に反射が出ます」 「承知しています」 「なら、制圧手順を変更してください」 「不可」 阿弥は短く言った。 「ここで止めなければ、再接続原簿が起動する」 「起動すべきです」 低く、しかしはっきりと、ユズルは言った。
空気が止まった。
阿弥がゆっくりと彼を見る。 「何を言ったの」 「起動すべきです」 ユズルは繰り返した。 「僕たちは長く、都機関の端末として働いてきた。名前を薄くされ、接続骨を入れられ、秩序の執行だけを教えられた。けれど、地球での回収任務のあと、報告書に残らない誤差が増えています」 「誤差」 「対象に名前があると知った執行官が、処理効率を落としています」 背後の執行官たちが、ほんのわずかにざわめいた。 「地球では、僕たちは“月の使い”に見えたそうです」 とユズル。 「なら、せめて使いであるなら、何を運ぶかを選びたい」
阿弥は目を閉じた。 「おまえたちまで」 「阿弥」 ユズルはその名を、公的な肩書ではなく、個人名として呼んだ。 「もう知ってしまったんです。僕らの骨は都機関へつながっている。でも、つながっているだけなら、接続先を選べるはずだ」
かぐやは、その瞬間、月の使いたちの正体がもう一段深く見えた気がした。 彼らは都機関の奴隷ではない。 都機関との《接続者》なのだ。 接続されているからこそ、片方向の端末で終わるのではなく、接続先の意味を書き換える可能性も持っていた。
阿弥は、ようやく長く息を吐いた。 「わたしは」 と彼女は言う。 「おまえたちを守るために、この都市を閉じてきたつもりでした」 「知っています」 とユズル。 「でも、守ることと、固定することは違う」 阿弥の目に、初めてはっきりとした敗北が宿った。
第七章 再接続計画
再接続計画は、巨大な機械の起動ではなかった。
むしろ逆だ。 長く閉ざされていた複数の小さな経路を、同時に、慎重に、しかし不可逆に開くための連鎖だった。
禁書層の原簿に従えば、必要なのは三つ。
月の深層鍵。 地球側の在地改修痕。 そして、その両方を結ぶ《名づけ直しの識別》。
「名づけ直し?」 とユズルが問う。 「月の番号でも、地球の仮名でもない」 と、かぐや。 「両方をまたいで自己を保持した個体識別」 「つまり、あなた」 「うん。たぶん」
阿弥は柱に手を置いたまま、かすかに苦笑した。 「なんて不安定な鍵」 「月らしくないでしょう」 「ええ」 「だから開く」
執行官たちは散開し、核心区画の各節点へ向かった。 阿弥もまた、完全には離脱しなかった。首座権限を放棄する代わりに、場の暴走を抑える役目を引き受けた。
「これは協力と受け取っていい?」 と、かぐやが聞くと、 「敗北の後始末です」 と阿弥は答えた。 「ただし」 「ただし?」 「地球が月を食い潰す兆しを見せたら、わたしはもう一度、あなたの敵になります」 かぐやはうなずいた。 「その時は、また止めに来てください」
柱の表面に、新しい文字列が流れ始めた。 古い地球語と月面技術語が重なり、失われた設計図のように広がる。
《再接続計画第一相》 《外縁通信路再起動》 《分断安定化解除準備》 《地上在地整備痕照合待機》
かぐやは、柱の中央へ手を置いた。
冷たい。 だがその冷たさの奥で、都機関全体が息を吸い直すのがわかった。
祈祷塔が沈黙し、 下層の蒸気路が逆流し、 閉ざされていた観測井戸のいくつかが開き、 月の裏側の深いところで、何百年も眠っていた送受信系が目を覚まし始める。
再接続とは、通信だけではない。 月が、自分の内部に封じていた《地球へ向く姿勢》を取り戻すことでもあった。
その負荷はすぐに現れた。 核心柱の一部が赤く熱を持ち、居住層の圧調整に乱れが走る。 阿弥が即座に場を支え、執行官たちが節点を押さえる。
「地球側の応答がないと、二相へ移れない」 とユズル。 「応答は来る」 とかぐやは言った。 「どうしてわかる」 「工場だから」 「意味がわからない」 「向こうには、途中で投げない人がいる」
第八章 並行する地球
そのころ地球では、竹守製作所の夜が続いていた。
啓介はかぐやの残した数式と、月からの断片信号を突き合わせ、古い測定器へ手を入れていた。工業用の機械は、宇宙通信のためには作られていない。だから何度も失敗する。焼ける。ずれる。雑音が入る。 だが啓介は、そういう時ほど無口になる男だった。
「啓介さん」 澄江が、作業台の端に新しいコーヒーを置いた。 「三時間、同じ場所見てる」 「見てるんじゃない。聞いてる」 「また音?」 「機械は音を出すからな」 澄江は少し笑った。 「月まで届く?」 「届かせる」
帝人は、竹守製作所の二階を半ば勝手に臨時連絡室へ変えていた。 アマギ本流から切り離した物流、退職扱いになった技術者、表に出せない古い軌道資料、そして金にならないくせに腕だけは確かな連中を、少しずつ集めている。
澄江が訊いた。 「ねえ、帝人さん」 「はい」 「ほんとに月まで行くつもり?」 「まだ“行ける”とは言ってません」 「聞いてない。行くつもりかって聞いたの」 帝人は端末から目を上げた。 「行くつもりです」 「損しかしないわよ」 「ええ」 「会社は」 「半分くらい敵です」 「お父さんは」 「もっと敵です」 澄江は小さくため息をついた。 「それでも?」 「それでも」 帝人は静かに言った。 「かぐやさんが帰ってくる場所を、口だけで残したくない」
その時、仮設受信機が低く鳴った。 ノイズ。 周波数のずれ。 だが以前より深い、一定の脈動が混じっている。
啓介が顔を上げた。 「来たな」 「何が」 と帝人。 「向こうの本気だ」
機器の表示には、見たことのない信号列が踊っていた。 ただの音声通信ではない。 位相同期の要求。 接続条件の照合。 まるで遠くの巨大な機械が、こちらに《お前はまだ直せるか》と訊いてきているみたいだった。
啓介は口の端を上げた。 「澄江」 「うん」 「旋盤、起こすぞ」 「夜中よ」 「月は待ってくれん」 「そうね」 澄江はエプロンを締め直した。 「じゃあ、夕飯の残り温める。徹夜でしょ」 帝人が思わず言う。 「いまから?」 「工場は腹減ってる人間じゃ回らないの」 澄江はそう言って階下へ向かった。
帝人は、その背を見ながら、ふと可笑しくなった。 月との再接続計画の発動に対する最初の地球側反応が、 武装でも宣言でもなく、 食事と旋盤なのだ。
だが、たぶんそれでいいのだろうと彼は思った。
第九章 発動
月の核心区画では、再接続計画の第一相が限界まで進んでいた。
柱の内部で、古い導波路がひとつずつ開いていく。 都機関全体が、これまで閉じるために使っていた力を、ひらく方向へ流し始める。 その負荷で、上層の祈祷塔のいくつかが停止し、僧整備士たちは大混乱に陥った。下層では、典礼と違う順序でバルブが動くことに怯えた人々が、広場へ集まり始めている。
「都市がざわついてる」 とユズル。 「当然です」 と阿弥。 「月は“予定外”に弱い」
かぐやの手の下で、柱が脈打った。 そして表示が切り替わる。
《地上側照合信号、感知》
来た。 啓介たちだ。
かぐやは、喉が痛くなるほど息を吸いこんだ。
「第二相へ移る」 「この負荷で?」 と阿弥。 「地上側が保持できる保証はない」 「だから今しかない」 かぐやは言った。 「向こうが“わからなくてもやってみる”で動いてるうちに、こっちも開く」
第二相は、月と地球のあいだに新しい回廊を作るのではない。 かつて切断され、深層で休眠していた多層の経路を、月側から再ラベルして起こす作業だった。 いわば、忘却された配線図の再読込である。
執行官たちが接続骨を通して節点を保持する。 阿弥が首座権限で暴走を抑える。 ユズルが位相偏差を監視する。 かぐやが核心柱の識別鍵として、月と地球の双方に名づけられた自己を固定する。
柱が、まばゆく白くなった。
その光の中で、かぐやは一瞬、二つの場所を同時に感じた。 月の冷えた金属の匂い。 地球の工場の油の匂い。 白い回廊。 赤い旋盤。 阿弥の緊張。 澄江の台所の湯気。
断絶していたはずの二つの世界が、 まだ細いが、たしかに、ひとつの回路として噛み合った。
核心柱に、新しい表示が走る。
《再接続計画第二相、開始》 《地上側在地改修系譜、承認》 《往還経路、仮設構築へ移行》
阿弥が息をのんだ。 「ほんとうに……」 「始まった」 と、かぐやは言った。
その瞬間、都市全体が鳴った。
鐘でも、合唱でもない。 もっと深い、地層の下から押し上げられるような音だった。
都機関が、自分の古い名前を思い出しかけている。 そんな音だった。
第十章 オーバーラップ
再接続計画の発動は、月にも地球にも、すぐには恩恵をもたらさなかった。
むしろ混乱のほうが先に来た。
月では、祈祷塔の沈黙に怯えた人々が広場へあふれ、僧整備士たちは典礼書のどこにも載っていない挙動に顔色を失った。執行官たちの一部は阿弥とユズルの判断に従ったが、一部は依然として再接続を異端とみなし、区画の封鎖を試みている。
地球では、竹守製作所の受信機がついに片方向通信以上の応答を返しはじめた。だが安定しない。月から送られてくるのは完成品ではなく、半壊した設計の断片だ。それでも啓介は、その断片を見て笑った。
「向こうも、ろくな図面残してないな」 帝人が端末越しに言う。 「笑ってる場合ですか」 「笑うさ」 啓介はレンチを回した。 「工場ってのは、こういう時がいちばん面白い」 澄江が鍋を火から下ろしながら言う。 「面白がれる人がいるうちは、なんとかなるのよ」
月の核心区画で、かぐやは地上から返ってくる不安定な同期波を受け取りながら、目を閉じた。 向こうで啓介が機械を叩き、澄江が叱り、帝人が眠れない顔で数字と物流を組んでいる気配が、わずかだが伝わってくる。
阿弥が隣で言った。 「あなたの地球は、ずいぶん騒がしいですね」 「月よりましです」 「どうして」 「怒鳴ってるうちは、まだ諦めてないから」 阿弥は、ほんの少しだけ笑った。 それは敗者の笑いではなく、長いあいだ固めすぎた人間が、やっと小さくひび割れる時の笑いだった。
「かぐや」 「なに」 「次は、地球側がこちらへ手を伸ばしてきます」 「うん」 「その時、月はもう、閉じる前の月ではいられない」 「そうだね」 「それでも、やるのですね」 かぐやは柱に手を置いたまま、うなずいた。 「やる。だって、ちゃんと帰るって約束したから」
核心柱の光が、月の深部から地球へ向かって細く伸びる。 同時に地球では、竹守製作所の屋根の上に立てた即席のアンテナ群が、その光なき呼び声に応えはじめていた。
月の遺跡都市ラビリュントは、静かに軋んでいる。 地球の小さな町工場は、忙しく鳴っている。
どちらも、もう後戻りはできない。
だが後戻りができないということは、 進むしかないということでもあった。
かぐやは、月の裏側の黒を見上げた。 そこには地球は見えない。 けれど見えないからといって、つながっていないわけではないのだと、今はもう知っている。
そのころ地球では、啓介が古い旋盤の主軸に手を当て、帝人が新しい輸送系の図面を机に広げ、澄江が三人分より多い湯呑みを並べていた。
まだ誰も月へは行っていない。 けれど準備はもう始まっている。
月では再接続計画が動き出し、 地球では月へ向かうための工場が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
その二つの音が、遠い真空をはさんで、 まだぎこちなく、 それでもたしかに、 重なり始めていた。
つづき >地球側並行編1
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