注目の投稿

山姥 ―― 蒼き足柄、最初の鉞 ――

(『金太郎 ― 灰燼の足柄、最後の土俵 ―』前日譚)


序章 青い山

導水管が、凍っていた。

直径二メートルの鋼管が、内側から膨らんで歪んでいる。冷え込んだ夜のあいだに水が氷に変わり、鉄を押し広げたのだ。放っておけば、朝の送水で破裂する。

八重は肩から鉞を下ろした。

刃渡り四十センチ。柄は炭素鋼の一体成型。重さ二十二キロ。山母(ヤマハハ、または「サンボ」)の標準装備《山鉞(「マサカリ」、またはサンエツ)》である。凍った配管を割り、崩れた足場を断ち、氷を落とし、時には人を殴るためのものだった。

「離れてなさい」

八重が言うと、後ろにいた若い技師が三歩下がった。

「どのくらい離れれば?」

「もう三歩」

宗方は素直に下がった。まだ二十四歳、去年ここへ配属されたばかりの男だ。彼は八重が振りかぶるところを見て、さらに二歩下がった。

鉞が落ちた。

音は、一度きりだった。

鋼管の腹に一本の線が走り、次の瞬間、割れ目から氷の塊が押し出されてくる。ごろり、ごろり、と白い柱が転がり落ちて、床の格子で砕けた。管そのものには傷ひとつない。氷だけが割れていた。

宗方が息を吐いた。

「……いつ見ても、意味が分からないです」

「何が?」

「鉄を割らずに、中の氷だけ割るところです。ぼくがやったら管ごと真っ二つですよ」

「あなたがやったら鉞のほうが折れるわ」

八重は鉞を肩に戻した。

「力の話じゃないの。当てる角度と、抜くまでの時間。氷は硬いけど脆い。鉄は柔らかいけど粘る。だから硬いほうだけ先に割れる。それだけよ」

「それだけ、で済むのが山母なんですよねえ」

八重は答えなかった。

答える代わりに、彼女は導水路の端まで歩いていって、外壁の開口部から下を見た。

雲が、足元にあった。

標高千二百メートル。足柄山の頂に建つ第七雫門――通称《天ノ雫門》は、白い塔と、円環状の制御門と、山肌に食い込む無数の配管でできている。塔の先端は成層圏の観測機に向かって光を撃ち、その光が三万六千キロ上空の気象制御衛星群《アマツミ》と一日中会話をしていた。

そして塔の下では、雨が作られていた。

雲の粒の大きさを揃え、風の層を撫で、湿った空気を山にぶつけて、どこに、どれだけ降らせるかを決める。世界に十二ある雫門は、そうやって地球の水を配っていた。

八重が生まれた年、この国では六年続きの渇水があった。彼女が七歳のとき、南の島国が三つ、水を買えずに国ごと解散した。十二歳のとき、雫門の一号機が上がった。

いまは、雨が降る。

麓の川には水が流れ、田には稲があり、山は青い。

八重はその青を見下ろしながら、こう思うことがある。

――これは、借りているだけの色だ。

「山母」

宗方が呼んだ。

「所長が、朝礼までに戻れって」

「わかった」

八重は開口部から身を引いた。そのとき、下の斜面で何かが動いた。

人だ。それも小さい。

管理道を外れて、直登の獣道を、両手を使って這うように登ってくる。

八重は目を細めた。

「……またあの子か」


その子は、三十分後に制御棟の裏口に到着した。

九歳。丸い顔。太い首。膝も肘も擦り傷だらけで、綿の入った半纏を着ている。手には風呂敷包み。

「よォ、山母!」

「よォ、じゃない。ここは立入禁止だと何回言えばわかるの?」

「四回目です」

「数えてるところが腹立つわ」

少年は歯を見せて笑った。前歯が一本欠けている。

東郷熊吉。麓の柴原にある相撲小屋の子だ。祖父が元幕下だとかで、集落の子どもを集めて土俵を作り、稽古をつけている。熊吉はその孫で、九歳のくせに中学生を投げ飛ばすという評判だった。

「じいちゃんが、これ持ってけって」

風呂敷を開くと、大きな握り飯が九つ出てきた。

八重は少し黙った。

「……九つ?」

「山母は一日に六人ぶん食うって、じいちゃんが言うから」

「事実だけど、言い方はもう少し何とかならないの?」

八重は握り飯をひとつ取って、二口で食べた。

《根付け》を受けた身体は、燃費が悪い。骨髄と筋膜に住みついた共生体は、酸素の足りない場所でも人を動かし続けてくれるが、そのぶん常人の六倍の飯と、三倍の水を要求する。腹が減っていると、指先から冷たくなる。

八重は二つ目を食べながら聞いた。

「熊吉。あんた、なんで山に登ってくるの?」

「じいちゃんが、山母には礼をしとけって」

「礼?」

「うちの田んぼ、水が来るのは山母のおかげだって」

「私のおかげじゃない。機械のおかげ」

「機械を動かしてるのは山母だろ?」

八重は三つ目を食べる手を止めた。

熊吉は真面目な顔をしていた。九歳の顔で、ずいぶん真面目な顔をしていた。

「なあ、山母」

「なによ」

「相撲、とってくれよ」

「断る」

「なんでだよ?」

「潰れるからよ、あんたが」

「潰れねえよ」

「潰れる」

「潰れねえ!」

熊吉は風呂敷を放り出し、その場で腰を落とした。手をつく。膝が地面すれすれまで沈む。

八重は、その構えを見た。

九歳にしては、重心が低すぎた。爪先ではなく、土踏まずで地面を掴んでいる。祖父に叩き込まれたのだろう。祖父は、この子が何になるか、たぶん分かっていない。

八重は鉞を壁に立てかけ、片手だけを差し出した。

「片手でいい。指一本でも動かせたら、あんたの勝ちにしてあげる」

「なめんな!」

熊吉が突っ込んできた。

その頭が八重の掌に当たった瞬間、彼は止まった。

止まった、というより、山にぶつかったのに近かった。

八重の腕は動かない。肩も動かない。腰も、脚も、地面も、何ひとつ動かない。熊吉は歯を食いしばり、足の指で土を掘り、全体重を前に預けた。掌の位置は一ミリも変わらなかった。

三十秒経って、熊吉は尻もちをついた。

「……つええ」

「言ったでしょう」

「なんでそんなにつええんだよ?」

八重は少し考えた。

九歳に、《根付け》の話をしても仕方がない。地下四千メートルの熱水から採ってきた古細菌の話も、骨の内側で自分の細胞と手を組んでいる何かの話も。

だから彼女はこう言った。

「山を触る仕事だからよ。山は重いから、こっちも重くないと負ける」

「じゃあ、おれも山を触ればつよくなるか?」

「触らなくていい」

八重は熊吉の頭に手を置いた。掌の下で、丸い頭が思ったより熱かった。

「あんたは、麓で強くなりなさい」

そのとき、宗方が裏口から顔を出した。

「山母! すみません、写真いいですか? 記録用の、ええと、年次の……」

「今から撮るの?」

「今しかないんですよ。今日、雲がないので」

八重はため息をついて、熊吉の襟首を掴んで立たせた。

制御棟の南側に出ると、たしかに雲がなかった。

足柄山が、丸ごと見えた。

青い山だった。

樹が生えていて、尾根が波打っていて、中腹には旧いダムの白い堤体がひとつ、朝日を受けて光っている。そのさらに下に、田と、屋根と、川があった。

宗方がカメラを構えた。

「山母、こっち向いてください。あー、少年、君も入っていいよ」

「おれもか?」

「入りなさい」

熊吉が慌てて八重の隣に立った。

シャッターが鳴った。

そのとき撮られた一枚の写真は、二十九年後、錆びた鉄箱の底で、砦の若い男に見せられることになる。

だがこのとき、八重にはそんなことは分からない。

彼女はただ、少し眩しそうに山を見ていた。

「宗方」

「はい」

「この山、あと何年もつと思う?」

宗方はカメラを下ろして、きょとんとした。

「もつ、とは?」

「なんでもない」

八重は鉞を担ぎ直し、塔のほうへ歩き出した。

その三年後、空が割れる。


第一章 空が割れた日

崩壊当日|第七雫門・中央制御室|八重(第七雫門・山母)

異常は、光からきた。

午前十一時四十分、塔の先端が撃っていた通信光が、途切れた。

八重は昇降機の中にいた。天井のランプが赤に変わり、そのまま停止する。非常灯。次いで、床が鳴った。

音ではない。空気が鳴っていた。

八重は昇降機の扉に指をかけ、こじ開けた。

外に出て、走る。制御室までの三百メートルを十七秒で走った。

扉を蹴り開けた先で、六車所長が立っていた。

五十がらみの、小柄で、いつも眠そうな男だ。その男が、いま、眠そうな顔をしていなかった。

「所長」

「見ろ」

六車が壁の一面を指した。

十二の雫門の状態が並んでいる。第一。第二。第三。

赤。赤。赤。

第四から第八まで、まだ黄。第九、赤。第十、消灯。第十一、消灯。第十二――表示そのものが消えていた。

「何が起きてるんです?」

「わからん」

六車は正直に言った。

「三十分前、大陸の第三雫門が定格の四倍で出力を上げた。理由は言ってこない。そのあと第一と第二が追随した。互いに雲を奪い合ってる」

「奪い合う?」

「同じ雲に、同時に、逆の命令を出してるんだ」

八重は壁の表示を見上げた。

雲を作れ、と第一が言う。

雲を散らせ、と第二が言う。

風を寄せろ、と第三が言う。

《アマツミ》は、律儀にそのすべてを実行しようとしていた。三万六千キロの高みで、七百基の反射鏡と散布機が、命令の矛盾を力で解こうとしていた。

そして大気は、力で押されると――

「所長。止めさせてください」

「言ってる」

六車の声が掠れた。

「三十分前から言ってる。誰も止めん。止めたほうが負けだと思ってる」

そのとき、宗方が叫んだ。

「所長! 空を見てください!」

窓の外を、全員が見た。

雲が、線になっていた。

見たことのない形だった。層でも、塊でもない。地平線から天頂まで、一本の白い筋が、まっすぐに通っている。そしてその筋の縁が、ゆっくりと、ほどけていく。

筋の向こうに、色があった。

青ではない。

黒でもない。

八重は、それを見た瞬間に、なぜか胸の奥が冷えた。人間が見るようにできていない色だ、と思った。

「割れた」

六車が言った。

「割れたぞ」

次の瞬間、山が跳ねた。


衝撃波は、上からきた。

制御室の窓が全部いっぺんに内側へ吹き込み、天井の梁が折れ、非常灯が消えた。八重は反射で走り出していた。

宗方が窓際にいた。

八重は彼の襟を掴んで引き倒し、上から覆いかぶさった。

背中に、鉄が降った。

制御室の天井を支えていた梁が、彼女の背に落ちた。三トン近い。八重は片膝を立てたまま、それを背中で受けた。

《根付け》を受けた人間の脊椎は、骨そのものが違う。膠原線維の架橋密度が常人の四倍あり、圧縮に対しては鉄骨に近い挙動をする。それでも、痛みはある。

八重は歯を食いしばり、背中を持ち上げた。

梁が、ずれた。

「宗方! 出ろ!」

「山母、腕が――」

「いいから出ろ!」

宗方が這って出た。八重は梁を横に落とし、立ち上がった。

制御室は、半分潰れていた。

六車は、生きていた。壁際で、机の下に転がりこんでいる。

「所長!」

「炉だ」

六車は起き上がりもせずに、それだけ言った。

「八重。龍脈炉だ」

八重の背筋が冷えた。

天ノ雫門の下、地下八百メートル。

龍脈炉は、地下深部の熱水を汲み上げて塔の電力と冷却を賄う装置だ。地熱と水圧を受け止めて、少しずつ、飼いならして使う。

飼いならしているのは、地上の制御系だった。

その地上の制御系が、いま、天井ごと潰れていた。

「圧が上がる」

六車が言った。

「制御を失った炉は、上に向かって抜ける。山が裂ける。麓は――」

「柴原が」

「ああ」

八重は、鉞を掴んだ。

「所長。手動制御盤の位置は?」

「第三竪坑の底だ」

「行きます」

「八重」

六車が初めて彼女の名を呼んだ。

「あそこは今、たぶん二百度ある」

八重は答えなかった。

答える時間が惜しかった。


竪坑を、彼女は落ちるようにして降りた。

梯子を使わなかった。使うと遅い。壁の突起を蹴りながら、四百メートルを三十秒で降りた。

底に着いたとき、空気が肺を焼いた。

熱い、という言葉では足りない。呼吸をすると、喉の内側が乾いて縮む。目を開けていると角膜が痛む。

八重は、息を止めた。

《根付け》が本当に効くのは、ここからだ。

肺から酸素を取るのをやめる。骨髄の共生体が、備蓄していた分を血に押し出す。筋肉は乳酸を捨てずに、もう一度燃やす。人間の身体が本来なら三十秒で音を上げる状況で、彼女は四分間、全力で動ける。

四分。

八重は蒸気の中を走った。

手動制御盤は、赤く光っていた。

十二本の梃子が並んでいる。これを順に倒して、炉の給水弁を閉め、放圧弁を開き、熱水を横の空洞へ逃がす。ひとりでやる作業ではない。三人でやる作業だ。梃子は一本あたり四百キロの油圧に抗って動かす。

八重は一本目を掴んだ。

倒した。

二本目。倒した。

三本目で、梃子が動かなくなった。配管の歪みで軸が噛んでいる。

八重は鉞を振り上げ、軸受けを叩き割った。

四本目。五本目。

六本目のとき、足元が持ち上がった。

炉が、下から突き上げてきたのだ。八重の身体が浮き、天井の配管に叩きつけられ、落ちた。

肋骨が三本折れた音がした。

彼女は立ち上がった。

七本目。

八本目。

熱水が噴き上がって、右腕を舐めた。皮膚が白くなり、そのあと赤くなった。

九本目。

視界が狭くなってきた。四分が近い。

十本目。

十一本目。

最後の一本に手をかけたとき、八重は、自分の心臓の音を聞いた。

――ここで止まったら、麓が流される。

――柴原が。田が。屋根が。土俵が。

――あの子が。

八重は、両手で梃子を握った。

肩を入れ、腰を落とし、地面を掴む。

その姿勢は、奇妙なことに、相撲に似ていた。

「ぬ――」

背筋が鳴った。

「――おおおおおッ!」

梃子が、根元から曲がりながら、倒れた。

轟音。

炉の圧が、横へ抜けていった。地下の空洞へ、熱水が滝のように落ちていく音が、彼女の足の裏を通り抜けていく。

八重は、その場に膝をついた。

息をした。焼けた空気が入ってきて、咳が出た。血の味がした。

そのまま、竪坑を見上げた。

四百メートル上、丸く切り取られた空の色が――

見たことのない色をしていた。


第二章 山を抑える者

崩壊から七十日|足柄山中腹〜柴原跡|八重(第七雫門・山母)

七十日で、世界の終わり方はだいたい分かった。

まず、雨が降らなくなった。次に、降りすぎた。

《アマツミ》は死んでいなかった。それが最悪だった。七百基のうち二百基ほどが、壊れた命令を抱えたまま、いまも空を撫でている。おかげで気候は、狂ったのではなく、間違ったまま正確に動いていた。北で凍り、南で沸き、中間の帯に何も降らない。

海の色が変わった、という話が、東から流れてきた。

八重は、それを直接確かめには行かなかった。

行けなかった。

山を離れられなかったからだ。

龍脈炉は、あの日から七十日、彼女が押さえていた。

正確には、彼女が三日に一度、竪坑を降りて、梃子を戻し、また倒す。放圧弁は開きっぱなしにはできない。開けたままだと空洞が満ちて、今度はそっちが破れる。だから開けて、閉めて、開けて、閉める。

生き物の心臓を、手で押して動かしているようなものだった。

三日に一度、四分間。

そのたびに、彼女の身体が少しずつ減っていく。


七十日目の朝、六車が死んだ。

制御棟の裏、彼が寝床にしていた資材室で、八重が水を持っていったときにはもう冷たかった。腹に鉄片が刺さったまま、二か月半、誰にも言わずに仕事をしていたのだ。

八重は、しばらくそこに座っていた。

六車の手が、机の上の小箱を掴んでいた。

開けると、拳大の金属板が入っていた。表面に、渦を巻いた紋様が刻んである。第七雫門の認証鍵。天ノ雫門の制御輪を回すのに要る、五つの鍵のうちの元となるものだ。

そばに、一枚の紙が置いてあった。

震える字で、こう書いてあった。

『八重へ。  これは山を開ける鍵だ。開けてはいけない鍵でもある。  炉が落ち着くまで、たぶん三十年かかる。三十年は開けるな。  三十年経ったら、お前より強いやつに渡せ。  私はもう疲れた。すまん。』

八重は紙を二度読んで、鍵と一緒に懐へ入れた。

それから、六車を埋めた。

宗方はその横で泣いていた。彼はあの日、右腕を潰していて、いまも吊っている。

「山母」

「なに?」

「三十年って、ぼくら生きてますかね?」

八重は、少し考えた。

「あなたは生きてるでしょう」

「山母は?」

八重は答えなかった。

《根付け》を受けた者の寿命は短い。細胞は速く回り、速く擦り切れる。八重は三十歳だったが、鏡の中の女はもう三十歳の顔をしていなかった。目尻に線が入り、髪の生え際に白いものが混じっていた。

同期の山母は十一人いた。そのうち何人が生きているのか、彼女は知らない。


その日の午後、八重は麓へ降りた。

柴原は、焼けていた。

崩壊の三日後に、南から降りてきた集団が村を襲ったのだと、生き残りが言った。米と、水と、若い者を持っていったのだと。

土俵は、まだあった。

俵は焼け落ちて、土だけが残っている。丸い、平らな土の輪。その真ん中に、老人がひとり座っていた。

熊吉の祖父だった。

「山母か」

「じいさん」

「熊は、おらん」

老人は、土を撫でながら言った。

「連れていかれた。あの日、わしを庇って、突っ込んでいって、それで」

「どこへ?」

「知らん」

老人は笑おうとして、失敗した。

「東の連中は、子を集めとる。相模のほうに、瓦礫で作った見世物小屋があるそうな。子どもを殴り合わせて、それを大人が見て、賭ける」

八重は、土俵の縁に立った。

「じいさん。私は山を離れられない」

「知っとる」

「三日に一度、山を押さえないと、この谷が流される」

「知っとる」

老人は顔を上げた。目が赤かった。

「だから、頼まん」

八重は、何も言わなかった。

言えることが、ひとつも見つからなかった。


帰り道で、八重は最初の獲物に会った。

沢沿いの道に、六人。改造した軽トラックが二台。荷台に水の缶。缶には、柴原の焼き印が押してあった。

先頭の男が、八重を見て笑った。

「おい女、いい体してんな。荷台に乗れ」

八重は立ち止まった。

「その水、どこで?」

「拾ったんだよ。落ちてたから」

「そう」

八重は肩から鉞を下ろした。

男たちの笑いが、少しだけ止まった。二十二キロの鉞を、片手で肩から下ろす女というのは、荒野でもそう見ない。

「悪いけど」

八重は言った。

「私は今、いい気分じゃないの」

「あぁ?」

先頭の男が鉈を抜いた。

八重は、そのとき、地面を蹴った。

音は、破裂音だった。

《雷母爆歩》。

《根付け》を受けた脚が、地面の反力を一切逃さずに前へ変える。六間の距離が、一歩で消えた。

男は、自分の目の前に女が立っていることを理解する前に、視界を失った。

八重は鉞を使わなかった。

掌の底で顎を打ち上げただけだ。男の身体は二メートル飛んで、トラックの荷台に背中から刺さった。

二人目が散弾銃を上げた。

八重は鉞の腹で銃身を横から叩いた。銃身が九十度曲がり、暴発し、持ち主の腿を撃った。

三人目と四人目が同時に来た。

八重は身体を沈め、鉞を横に薙いだ。

《山母鉞法・氷柱落とし》。

刃ではなく、峰で打つ。氷だけを割って鉄を残す技の、応用だった。骨だけを折って、肉と血管は残す。二人はほとんど同時に崩れ落ち、悲鳴を上げる余裕もなく気を失った。

五人目が逃げた。

六人目は、両手を上げた。

八重はその前に立った。

「水を返しなさい」

「か、返す! 返します!」

「それから、伝えて」

八重は、鉞の柄で自分の肩を叩いた。

「足柄には、山を押さえてる女がいる。水を盗るなら、その女と話をつけてからにしろって」

男は何度も頷いた。

「あ、あんた、名前は!」

八重は少し考えた。

――八重、と言っても意味がない。

――第七雫門所属、山母、と言っても、誰にも通じない世界になった。

だから彼女は、麓の老人が呼んでいた呼び方をそのまま使った。

「山母」

「やま……はは?」

男は、うまく発音できなかった。

「やまんば……?」

八重は、その言い間違いを訂正しなかった。

訂正するのが、面倒だったのだ。

その日から二十九年、彼女はその名前で呼ばれることになる。


第三章 十二の山母

崩壊から二年|東海道跡・鉄の市《継場》|八重(山母)

二年で、荒野には市が立つようになった。

人間というのは、そういう生き物らしい。空が割れても、海が沸いても、二年経てば商売を始める。

東海道の高架が折れて地面に垂れ下がったところに、その市はあった。

《継場》という。

崩れたコンクリートの隙間に天幕を張り、油と、弾丸と、干した魚と、抗生物質と、水を売る。取引の単位は水だ。一リットルを一単位として、すべての値がつく。

八重は、水を二十リットル担いで来ていた。

天ノ雫門の凝縮器から取れる分の、余りである。三日に一度の梃子仕事の合間に、彼女は塔の外壁の結露を集めていた。一日にバケツ一杯。それを溜めて、月に一度、ここへ運ぶ。

売るためではない。

聞くためだ。

「山母を探してる」

八重は、天幕の下で干物を並べている老婆に言った。

「私のことじゃない。ほかの山母よ」

老婆は水の缶を撫でながら、目を細めた。

「西の話かい」

「どこでもいい」

「なら、三つ聞いた」

老婆は指を三本立てた。

「ひとつ。北の山母は、雪に閉じ込められて死んだ。塔ごと氷になったとさ」

「ふたつめは?」

「四国の山母は、島の連中に殺された。水を出さんかったからだと」

八重は黙って続きを待った。

「みっつめ」

老婆は、少し声を落とした。

「東の山母は、生きとる。生きとって、水を売っとる」

「売ってる?」

「一升で、人ひとりだと」

八重の指が止まった。

「人?」

「若いのを連れてくと、水をくれる。そういう商売だ」

老婆は八重の顔を見て、それから干物を一枚、押しやった。

「あんた、行くつもりかね」

「どこにいるの」

「知らんよ。ただ、あそこの連中に聞けば分かる」

老婆が顎で示した先に、六台の装甲車が停まっていた。

車体には、白い塗料で紋章が描かれている。渦を巻いた紋様。八重の懐にある認証鍵と、同じ紋だった。

八重は、その紋を見て、少し笑った。

笑ってから、自分が笑ったことに驚いた。

《天衛》。

《アマツミ》計画の警備部門である。世界中の雫門を守るために作られた組織で、崩壊のあと、守るべきものを失って、そのまま武装集団になった。

つまり、同じ職場の後輩たちだ。


八重が近づいていくと、装甲車の陰から男が出てきた。

背が高い。黒い外套。腰に短機関銃。顔の右半分に、火傷の痕。

「そこまでだ、ばあさん」

八重は足を止めた。

「ばあさん、ね」

「違うのか?」

「三十二よ」

男の眉が動いた。

「……嘘だろう」

「本当」

八重は自分の白い前髪を指で摘まんだ。

「早く走る馬は、早く死ぬの。そういう作りなのよ」

男の目つきが変わった。火傷の痕の下で、瞳がわずかに広がる。

「――山母か」

「第七」

「足柄の」

「あなたは?」

「《天衛》第四中隊、鴉」

鴉と名乗った男は、短機関銃に手をかけなかった。かけないまま、じりと半歩下がった。それが答えだった。彼は八重が何であるかを、正確に知っていた。

「東の山母に会いたい」

八重は言った。

「取り次いで」

「無理だ」

「なぜ?」

「あの人は、もう山母を名乗ってない」

鴉の声が低くなった。

「《九頭》と名乗ってる」

「九頭?」

「第九雫門の九だ。あの人は言った。俺は母などではない、と」

八重は、その名前を舌の上で転がした。

第九雫門。大陸との中間、洋上プラットフォーム型の局。あそこの山母は――記憶を探る。研修で一度だけ会った。無口な男だった。全員の中でいちばん施術ロットが新しく、いちばん数字がよかった。

「彼は、何がしたいの」

「空を、もう一度閉じるとおっしゃっている」

八重の背筋が、冷えた。

「閉じる?」

「生きている雫門の龍脈炉を、直列に繋ぐ。それだけの出力があれば、《アマツミ》の残骸に命令を上書きできる。もう一度、雨を配れるようになる」

「……できるわけがない」

「できるそうだ」

鴉は淡々と続けた。

「そして、そのときは、雨は無料ではない」

八重は、干物を握り潰していた。

「水を売るために、空を直すのね」

「順番が逆だ、と、あの人なら言う」

鴉は初めて、少しだけ視線を落とした。

「無料で配れば、全員が薄まって全員が死ぬ。値をつければ、値を払える者だけが生き残る。生き残った者が次を作る。——それが、あの人の言い分だ」

「あなたは、それを信じてるの?」

鴉は答えなかった。

答えない代わりに、彼は言った。

「山母。忠告する。足柄へ帰れ」

「なぜ?」

「第七雫門は、まだ生きている数少ない炉のひとつだ」

八重は、鉞を担ぎ直した。

「つまり」

「そうだ」

鴉が、ようやく短機関銃に手をかけた。

「あの人は、いずれあんたの山を取りに行く」


そのあとのことは、あまり長くない。

鴉は撃たなかった。

撃ったのは、その後ろにいた八人だった。

八重は跳ばなかった。跳ぶと的になる。彼女は地面に沿って走った。

《雷母爆歩》。

十四メートルを一歩で潰す。

一台目の装甲車の側面に、鉞が入った。

《氷柱落とし》。

装甲板は割れなかった。割ったのは、その内側の懸架だった。硬いほうだけを割る技は、こういうときにも使える。車体が片側に落ち、砲塔が地面を舐め、乗員が転がり出てくる。

二人目の銃口を、八重は掌で塞いだ。

塞いだまま押し込んだ。銃身が男の胸に埋まり、そのまま男ごと後ろの車体に打ち付けた。

三人目が背後から鉈を振った。

八重は振り向かず、肘を後ろへ出した。

肘が男の胸骨を割った。

四人目、五人目。八重は鉞の柄を回して、二人まとめて薙いだ。峰打ちである。ここで殺すと、噂が「山母は皆殺しにする」になる。それは困る。彼女が欲しいのは、「山母には勝てない」という噂のほうだ。

六人目が転がって逃げた。

七人目が手榴弾のピンを抜いた。

八重は跳んで、それを空中で掴み、投げ返した。

爆発は、誰もいない方角で起きた。

八人目は、腰を抜かして座り込んでいた。

残ったのは、鴉だった。

彼は、まだ撃っていなかった。

「……三十秒だ」

鴉が呟いた。

「三十秒で、八人」

「あなたも来る?」

「行かない」

鴉は短機関銃を下ろした。

「勝てない相手に撃つのは、弾の無駄だ」

「賢いのね」

「そう教わった。あの人にな」

鴉は装甲車の残骸を見回して、それから八重に向き直った。

「山母。ひとつ、こちらからも聞かせてくれ」

「なに?」

「あんたは、水を配るのか」

八重は、少しのあいだ答えなかった。

配る。

配れば、薄まる。九頭の言うとおり、たぶん全員が少しずつ足りなくなる。

それでも。

「配るわ」

「なぜだ?」

「配らない山母を、私は一度見たことがあるから」

八重は、鉞を肩に戻した。

「鏡の中でね」


第四章 瓦礫の土俵

崩壊から三年、夏|相模・瓦礫闘技場《骨天》|八重(山母)

《骨天》は、崩れた球場だった。

かつて四万人が野球を見ていた擂鉢の底に、いまは瓦礫を積んだ円が作られている。直径十五メートル。縁は、コンクリート片と鉄筋を積み上げただけの、粗い輪だ。

土俵、と誰かが呼び始めて、そのまま定着したらしい。

八重が入ったとき、擂鉢には千人ほどがいた。

みな痩せていて、みな笑っていた。

輪の中では、少年がふたり殴り合っていた。

十二か、十三か。両方とも痩せている。片方の子はもう立てなくなっていて、それでも立とうとしていた。観客が野次を飛ばし、瓶を投げ、賭け札を振っている。

胴元は、輪の外の櫓にいた。

でっぷりと肥えた男だ。この世界で肥えているというのは、それ自体が権力の証明である。

八重は、階段を降りていった。

途中で、若い男が声をかけてきた。

「賭けるかい、姐さん。次の一番は目玉だよ」

「目玉?」

「うちの《熊》が出る」

八重の足が、止まった。

「熊」

「知らねえのかい。三年で一度も負けてねえ。十四で大人を投げる。あいつが出ると賭けが成立しねえから、ハンデつけて三人相手にやらせるんだ」

「……三人」

「そうそう。今日は四人だったかな」

八重は、階段を降りきった。


出てきた少年を、八重はすぐには熊吉だと分からなかった。

三年前、九歳だった子は、十四になっていた。

背は伸びていない。横に伸びていた。首が太く、肩が張り、腹が板になっている。上半身は裸で、腰に汚れた布を巻いていた。全身に古い痣があった。新しい痣もあった。

顔つきが、変わっていた。

笑っていなかった。

輪の反対側から、四人の男が入ってきた。全員、熊吉より頭ひとつ大きい。

鐘が鳴った。

熊吉は動かなかった。

四人が同時に飛びかかった。

熊吉は、最初の男の胸に頭からぶつかった。

音がした。

男は、輪の外まで飛んだ。

二人目が背中から羽交い締めにする。熊吉は腰を落とし、後ろへ反り、相手を背中越しに落とした。三人目が横から蹴りにきた。熊吉はその脚を掴んで、そのまま四人目に叩きつけた。

八秒だった。

観客が沸いた。

熊吉は、沸いている観客を見ていなかった。

彼は、輪の外の一点を見ていた。

八重はその視線をたどった。

輪の外に、金網で仕切られた区画があった。中に、子どもが十五人ほど詰め込まれている。いちばん小さいのは、二つか三つに見えた。

熊吉が勝つたびに、その区画に水の缶が投げ込まれるのだ。

八重は、櫓の胴元を見上げた。

胴元は、扇子で自分を扇ぎながら、満足そうにしていた。


八重は、輪の縁を跨いだ。

観客がざわめいた。櫓の男たちが立ち上がった。

熊吉が、振り向いた。

そして、動きを止めた。

八重は、輪の中央まで歩いていった。

「熊吉」

少年は、答えなかった。

答えられなかった、のかもしれない。

八重は続けた。

「じいさんは、あの土俵にいたよ。あんたを待ってた」

熊吉の喉が動いた。

「……死んだか」

「去年」

「そうか」

熊吉はそれだけ言って、目を伏せた。

そのとき、櫓から声が飛んだ。

「おい女ァ! 勝手に土俵に上がるなら、あんたも取れよ!」

胴元だ。扇子で八重を指している。

「賭けが立たねえだろうがよォ! ちょうどいい、熊とやれ! 女が熊に勝てるかどうか、こいつは面白い!」

観客が笑った。

八重は、胴元を見上げた。

「賭けをしましょうか」

「あぁ?」

「私が勝ったら、あそこの子どもを全部もらう」

胴元の笑いが止まった。

「……あんた、正気か」

「私が負けたら、私をもらいなさい。山母がひとり手に入る。悪い取引じゃないでしょう」

擂鉢が、静まった。

「山母」という言葉の意味を知っている人間が、この中に何人いたかは分からない。だが、静まったということは、何人かはいたということだ。

胴元は扇子を閉じ、それから、下品に笑った。

「乗った!」


熊吉は、構えなかった。

「山母」

「なに?」

「本気か?」

「本気よ」

「勝てねえよ、あんたには」

「そうね」

「じゃあ、なんで」

八重は、鉞を輪の外へ置いた。

そして、腰を落とした。

熊吉の目が、わずかに見開かれた。

九歳のとき、彼はこの構えを一度だけ見ている。あのとき、掌ひとつだった。

「熊吉。九歳のあんたに、私は指一本動かせなかった」

八重は言った。

「今日は、両手を使いなさい」

熊吉の顎に、力が入った。

「……なめんな」

彼は、腰を落とした。

土踏まずで、瓦礫を掴んだ。

鐘が鳴った。


立ち合いは、熊吉が速かった。

三年前の少年ではない。十四歳の身体は低く、鋭く、重く飛び出した。八重の胸元に頭が入り、両手が脇の下へ滑り込んだ。

差された。

八重の身体が、後ろへ動いた。

観客が叫んだ。

八重の足の裏が瓦礫を削り、輪の縁まで五十センチのところで、止まった。

そこから、動かなくなった。

熊吉が押す。押す。押す。

八重は、動かない。

「くっ――」

熊吉の足が空回りを始めた。

八重は、押されたまま、静かに言った。

「熊吉。あんた、《根付け》を受けたね」

熊吉の動きが、ほんの一瞬、乱れた。

「あの櫓の男は、旧い技術者を飼ってる。子どもに施術をして、闘わせてる。……そうでしょう」

「知らねえ」

「知ってるはずよ。腹が減るでしょう。いくら食っても減るでしょう。傷が速く塞がるでしょう」

熊吉が呻いた。

「関係ねえだろ!」

「関係ある」

八重は、そこで、腰を切った。

熊吉の押しが、横へ流れた。

《山母流・雪解け》。

受けた力を、地面ではなく、円に沿って逃がす。相手の押しを殺さずに、方向だけを変える。氷を割るのではなく、溶かして流す技だった。

熊吉の巨体が泳ぎ、八重の腕の中に入った。

そのまま、八重は彼を抱えた。

投げなかった。

抱えたまま、彼女は言った。

「あんたたちは、あと十五年で終わる身体なのよ」

熊吉が、暴れるのをやめた。

「私は三十三。もう白髪がある。私の同期は、十二人いて、いま生きてるのは三人。三人とも四十まで生きない」

「……」

「速く走る代わりに、早く終わる。そういう作りにされてるの」

八重は、彼を降ろした。

熊吉は、輪の中央に立ったまま、動かなかった。

八重は続けた。

「だから、あんたが十四で三人相手に勝つのは当たり前なの。それは、あんたが強いんじゃない」

彼女は、櫓を見上げた。

「あんたが、使い減らされてるだけよ」

擂鉢は、静まり返っていた。

胴元の顔から、笑いが消えていた。

熊吉が、ゆっくりと膝をついた。

勝負は、ついていた。


八重は輪を出て、金網の区画へ歩いた。

櫓の男たちが銃を上げたが、胴元が手で制した。千人の目の前で、賭けを反故にできる胴元はいない。それが、この世界に残った唯一の法律だった。

金網が開いた。

子どもたちは、出てこなかった。

出てこいと言われた経験が、たぶんなかったのだ。

八重が手を差し出すと、いちばん近くにいた子が、おそるおそる出てきた。次の子が出た。次の子が出た。

子どもたちが、擂鉢の階段を登っていく。

最後にひとり残った。

二つか、三つ。

痩せていて、髪が赤茶けていて、目だけが異様に大きい。八重が手を伸ばすと、その子は伸ばされた手をじっと見て、それから――噛んだ。

八重は、手を引かなかった。

子どもは、しばらく噛んでいた。

やがて、力を抜いた。

八重は、その子を抱き上げた。軽い。羽根のようだった。

「名前は?」

子どもは、答えなかった。

代わりに、身をよじった。

一度ではない。二度、三度、必死によじって、八重の腕から滑り落ち、四つん這いで駆けていった。

行き先は、輪の中だった。

瓦礫の縁を越え、まだそこに立っていた少年の脚にしがみついて、そこで止まった。

熊吉が、その頭に手を置いた。

「そいつは、行かねえよ」

「どうして?」

「おれしか、知らねえからだ」

八重は、輪の外に立ったまま、ふたつの影を見ていた。


去り際、八重は輪の中を振り返った。

熊吉が、まだそこにいた。

「熊吉。行くよ」

「行かねえ」

八重は、足を止めた。

「なんて?」

「おれは、行かねえ」

熊吉は立ち上がり、輪の縁に手をかけた。

「おれが出てったら、次の《熊》が要る。あそこの櫓は、次の子どもを買う。買って、根付けて、殴らせる」

「熊吉」

「おれがいれば、要らねえ」

彼は、八重を見た。

九歳のとき、真面目な顔で「機械を動かしてるのは山母だろ」と言った子の顔だった。

「おれが勝ち続けりゃ、あいつらは新しいのを作らねえ。作る金より、おれに賭けさせたほうが儲かるからな」

八重は、口を開いた。

そして、閉じた。

言うべき言葉は、たぶん十個くらいあった。まだ子どもだとか、そんな責任を負う必要はないとか、一緒に来いとか。

だが、彼女には、それを言う資格がなかった。

彼女もまた、三日に一度、山を押さえるために、麓の誰も助けに行かない女だったからだ。

「……そう」

八重は、置いていた鉞を拾い上げた。

「なら、覚えておきなさい」

「なにを?」

「足柄には、山を押さえてる女がいる。もし、あんたが背負いきれなくなったら――」

八重は言葉を切った。

自分でも、そこから先が分からなかった。

「――そのときは、山を半分持ちなさい」

熊吉は、ぽかんとした顔をした。

それから、笑った。

三年ぶりに、笑った。前歯は、まだ一本欠けていた。

「山を半分って、なんだよ、それ?」

「私も、いま考えた」

「適当だな、山母」

「うるさい」

八重は背を向けて、階段を登った。

背中で、熊吉が叫んだ。

「山母ォ!」

「なに?」

「じいちゃんの土俵、まだあるか!」

八重は、振り向かずに答えた。

「土だけ、あるよ」

「なら、いい!」

そのあと熊吉が何と言ったかは、観客のざわめきに紛れて聞こえなかった。

だがそのとき、彼が輪の中央に立ち、両足で地面を掴み直したことを、八重は背中で分かっていた。


第五章 水を配る者

崩壊から六年、春|足柄山麓・柴原の砦|八重(山母)

六年で、砦ができた。

バスの残骸と、鉄骨と、コンクリート片を繋いだだけの粗末な壁である。それでも壁は壁だった。壁の内側には、井戸がひとつと、畑が三枚と、人が九十四人いた。

八重が集めたわけではない。

集まってしまった、というほうが正しい。

――足柄に行けば、水がある。

――足柄には、盗ると殺される。

その二つの噂が、六年かけて人を運んできた。

八重は、砦の運営には口を出さなかった。

彼女の仕事は三つだけだった。三日に一度、山を押さえる。月に一度、水を配る。そして、盗りに来た者を、追い返す。

それだけで、彼女の一日は終わった。


「山母、飯だ」

宗方が、椀を持ってきた。

片腕は吊ったままだが、彼はいまや砦の帳簿係だった。誰が何日働いて、何リットル受け取るのかを、全部彼が書いている。

八重は椀を受け取り、覗き込んだ。

雑穀の粥。芋。塩。

「……これだけ?」

「これだけです」

「宗方。私は六人分食べるって知ってるでしょう」

「知ってます。だから六人分です」

八重は椀の中を見た。

「六人分にしては、少なくない?」

「今、全員がこの量なんですよ」

宗方は、言いにくそうに言った。

「山母。人が増えました。九十四人です。井戸の水位が、去年より三十センチ下がってます」

八重は、粥を飲んだ。

粥は薄く、塩気だけが濃かった。

「私の分を減らして」

「駄目です」

宗方は珍しく強い声を出した。

「あなたが倒れたら、山が抜けて、九十四人が流されます。あなたはここの誰よりも食べる権利がある。……それは、僕が帳簿に書いた計算の結論です」

八重は、椀を置いた。

「宗方」

「はい」

「私、間違ったかしら」

「何がですか?」

「配ったこと」

宗方は、少し黙った。

「九十四人が生きてます」

「九十四人が、少しずつ足りてない」

「はい」

「あと三年もすれば、百五十人になる。そしたら全員が、もっと足りなくなる」

「はい」

宗方は、帳簿を閉じた。

「でも、山母。足りてない人間は、生きてます」

八重は、彼を見た。

「足りてる人間しか生かさない場所も、僕は見たことがあります」

宗方の目は、静かだった。

「あそこは、誰も生きてませんでした」


その日の夕方、砦の外壁の上で、子どもが騒いだ。

「来たァ! 東の連中だ!」

八重は壁に登った。

砂煙が、三筋。

装甲車が十二台。トラックが六台。バイクが四十。

先頭の車体に、渦を巻いた白い紋章があった。

《天衛》。

八重は、壁の上に立ったまま、鉞を肩から下ろした。

砦の門が閉められ、九十四人が家の中へ入った。宗方が最後に八重を見上げた。

「山母。何人ですか?」

「二百人くらいかしら」

「勝てますか?」

八重は答えなかった。

答えないまま、壁から飛び降りた。


戦闘は、四十分続いた。

八重は門の前から一歩も動かなかった。

動く必要がなかったからだ。

装甲車の砲塔が火を噴くたび、彼女は鉞を立てて、砲弾の腹を斜めに叩いた。当たれば死ぬが、当てなければ死なない。彼女は、当たらない方向へ弾道をずらすことだけをやった。それだけで、砲は無力になった。

バイクの集団が壁沿いに回り込んだ。

八重は地面に鉞を突き立て、柄を軸にして身体ごと回転した。

《山母鉞法・車輪掃き》。

二十二キロの刃が、半径二メートルの円を描く。先頭の五台が輪の中に入り、輪から出てこなかった。

歩兵が四方から来た。

八重は歩いた。走らなかった。走ると疲れる。四十分持たせるには、走ってはいけない。

彼女は歩きながら、正面から来た者を殴り、横から来た者を投げ、後ろから来た者を肘で潰した。

一時間の戦闘で、彼女は四十七人を戦闘不能にし、そのうち殺したのは九人だった。

九人殺した理由は単純で、そいつらが砦の壁に火をつけようとしたからだった。

四十分が過ぎたころ、《天衛》は退いた。

装甲車が下がり、バイクが散り、砂煙が薄くなっていく。

八重は、その場に膝をついた。

そして、咳をした。

掌に、血がついていた。

「……ああ」

彼女は、その血を見た。

《根付け》の代償は、外からは見えない。内臓の代謝が速すぎて、肺の毛細血管から先に壊れていく。同期の一人がそうやって死んだ、と、研修医が言っていたのを思い出した。

そのとき、退いていくはずの車列の中から、一台だけが前へ出た。

装甲車ではない。ただの乗用車だ。

その屋根の上に、男が立っていた。

痩せている。異様に痩せている。骨に皮を張ったような身体に、白い外套を着ていた。

その男が、静かに言った。

声は大きくなかったのに、砦まで届いた。

「第七雫門。八重」

八重は立ち上がった。

「……九頭」

「久しぶりだな」

九頭は、笑わなかった。

「三年前、俺の中隊を八人潰したそうだな」

「殺してないわ」

「知っている。だから来なかった」

九頭は屋根の上から、砦を見下ろした。

九十四人分の煙突が、そこにあった。

「九十四人か」

「数えたの?」

「煙の数だ」

九頭は、少しのあいだ黙った。

「八重。ここには、あと何年ぶんの水がある?」

「……」

「井戸の水位は下がっている。畑は三枚。人は増える。お前は、あと何年、この山を押さえていられる?」

八重は答えなかった。

「俺は、答えを持っている」

九頭は言った。

「生きている龍脈炉は四つ。第三、第五、第七、第九。四つを直列に繋げば、《アマツミ》の残骸に上書きができる。空は閉じる。雨は戻る」

「戻った雨を、あなたは売る」

「売る」

九頭は否定しなかった。

「無料の雨は、六年前に世界を殺した。誰もが降ると信じたから、誰も水を管理しなかった。だから水は権力になり、権力は空を割った」

「あなたの言い分だと、値をつければ人は管理する?」

「する」

「払えない人間は?」

「死ぬ」

九頭は、初めて八重の目を見た。

「八重。俺たちは、山母だ。母は、全員を助けるものではない。母は、次の代を残すものだ」

八重は、鉞を握り直した。

「私は、そう習わなかった」

「同じ教官に習ったはずだが」

「同じ教官の、違う言葉を覚えたのよ」

九頭は、少しだけ首を傾げた。

「では、聞こう」

「なに?」

「お前は、その九十四人を、あと何年生かせる?」

八重は、答えられなかった。

数字では、答えられなかった。

九頭は、それを見た。

「二年後の冬に、行く」

彼は言った。

「そのときまでに、答えを用意しておけ」

車は、そのまま去っていった。

八重は、血のついた掌を握り、砂煙が消えるまでそこに立っていた。


第六章 九頭

崩壊から八年、冬|天ノ雫門・山頂広場|八重(山母)

二年後の冬は、雪が降らなかった。

降るべきものが降らない、というのが、この八年でいちばん人を殺した。

九頭は、約束どおりに来た。

十二月の朝、山頂の広場から下を見ると、管理道の九十九折りを、黒い列が登ってきていた。

装甲車は一台もなかった。

歩兵が四百人。ただそれだけだった。

八重は、それを見て理解した。

――こいつは、私に勝つつもりで来ている。

装甲車は山道では邪魔になる。砲は山母に効かない。だから彼は、砲を捨てて、人だけを連れてきた。四百人は八重を殺すためではなく、八重を疲れさせるために連れてきたのだ。

八重は、鉞を肩に担いだ。

三十八歳だった。

髪は、もう半分が白い。朝、起き上がるのに二十秒かかる。二日に一度、血を吐く。

それでも、山頂に立っている人間は、彼女ひとりだった。


一時間半かかって、四百人が山頂に上がってきた。

そして、その全員が、円環状の制御門の手前で止まった。

列が割れ、九頭が出てきた。

前に会ったときより、さらに痩せていた。だが背筋は、鉄のようにまっすぐだった。白い外套の下に、奇妙な装具を着けている。背中に六つの巻取器。腰の左右に三つずつ、細い鋼索の束。

索道の保守装具だ。雫門の外壁を上下するための、九本のワイヤー。

八重は、それを見て、少しだけ笑った。

「あなた、まだそんなもの使ってるの?」

「使える道具を捨てる理由がない」

九頭は、広場の石畳に踏み出した。

「八重。第三と第五は、もう俺のものだ」

「山母は?」

「第三は死んだ。第五は、俺に加わった」

「そう」

「残るは、ここだけだ」

九頭は、天ノ雫門の白い塔を見上げた。

「鍵を渡せ。炉の直列化には、山母の認証が要る。お前が渡せば、誰も死なない」

「渡したら、麓の九十四人は?」

「百二十七人だ。数え直せ」

九頭は正確だった。

「百二十七人のうち、来年の夏まで生きるのは八十人だ。俺が空を閉じれば、その八十人のうち、水を買える者は生きる。買えない者は死ぬ。――お前が突っぱねれば、百二十七人が全部死ぬ」

八重は、鉞の柄を握り直した。

「九頭」

「なんだ」

「私、あなたの言い分に、二年考えたの」

「結論は?」

「間違ってはいない」

八重は言った。

「たぶん、あなたの計算は正しい。数字の上では、あなたの世界のほうが人が多く残る」

九頭の眉が、わずかに動いた。

「では――」

「でもね」

八重は、鉞を下ろした。

刃の先が、石畳に触れた。

「私の山に、値札をつけさせるわけにはいかないの」

「感情論だな」

「そうよ」

八重は、あっさりと認めた。

「私は理屈で山母になったんじゃない。あの山が青かったのを見たから、山母になったの」

九頭は、しばらく黙っていた。

そして、背中の巻取器が、かちり、と鳴った。

「――残念だ」

九本の鋼索が、同時に走った。


戦闘の最初の四十秒で、八重は左の耳を失った。

鋼索は、直径六ミリの高張力ワイヤーである。人間が振り回して当たるものではない。九頭は振り回していなかった。巻取器の動力で、九本を独立に射出し、独立に巻き取り、独立に方向を変えていた。

一本一本が、意思を持った蛇だった。

《九頭流・八岐掃き》。

二本が足首を狙う。八重は跳ぶ。跳んだところへ三本が来る。鉞で払う。払った刃に絡んで巻き取られる。引かれる。

八重は引かれる方向へ、自分から走った。

《雷母爆歩》。

九頭の懐に飛び込む。

鋼索が、たわんだ。

九頭は、たわんだ索を、そのまま八重の首に巻いた。

《九頭流・首縄》。

八重の首に六ミリのワイヤーが食い込み、巻取器が唸った。

普通の人間なら、ここで首が飛ぶ。

八重の首は、飛ばなかった。

《根付け》を受けた頸部の膠原線維は、鋼索を食い止める程度には硬い。皮膚が裂け、血が噴いたが、頸椎は残った。

八重は、その状態で、鉞を振り上げた。

「――近い!」

《山母鉞法・氷柱落とし》。

刃ではなく、峰。九頭の鎖骨を狙う。

九頭は、避けなかった。

避けずに、自分の身体ごと後方へ射出した。腰の索を近くの支柱に打ち込み、巻き取る。八重の鉞は空を切り、九頭は十メートル向こうの支柱の上に立っていた。

八重は、首のワイヤーを掴んで引きちぎった。

血が、石畳に落ちた。

「よく持ったな」

九頭が言った。

「持たないと思った?」

「思った」

九頭は、支柱の上から広場を見下ろした。

そして、四百人に向かって、手を挙げた。

「囲め」


四百人が、円になった。

彼らは撃たなかった。撃たずに、じりじりと輪を詰めた。

九頭が狙っているのは、時間だった。

《根付け》の全力は、四分しか続かない。四分過ぎれば、共生体の備蓄が切れる。切れたあとは、常人よりわずかに強い程度の、三十八歳の女が残るだけだ。

八重は、それを知っていた。

だから、走らなかった。

彼女は歩いた。

歩きながら、輪の一点を殴った。殴られた男が倒れ、その後ろの男が前に出て、それも倒れた。三人目、四人目。八重は同じ場所を、同じ速度で、正確に削り続けた。

一分。

二分。

輪が、少し薄くなった。

そのとき、山が鳴った。

低い、腹に来る音だった。

八重の顔から、血の気が引いた。

「――炉」

九頭が、支柱の上で言った。

「四十分前に、第三竪坑の梃子を落としてきた」

八重は振り向いた。

「あなた……!」

「言っただろう。俺は、お前に勝つつもりで来た」

九頭の声は、静かだった。

「押さえに行けば、俺が鍵を取る。押さえに行かなければ、山が裂けて麓が消える。――さあ、山母。選べ」

八重は、動けなかった。

竪坑まで、走って三分。梃子を戻すのに、四分。合わせて七分。

四分しか持たない身体では、届かない。

八重は、初めて、負けを理解した。

そのとき。

広場の東側の斜面から、音がした。

土が崩れる音。石が跳ねる音。誰かが、道を使わずに登ってきている音。

四百人が、一斉にそちらを向いた。

斜面の縁から、腕が出た。

太い腕だった。

続いて、肩。首。頭。

上半身裸の、若い男が、広場に転がり上がってきた。

十九歳。

背は高くない。横に、異様に広い。腰に汚れた布を巻き、全身に痣がある。

その男は、地面に手をついたまま、荒い息で言った。

「……山母」

八重の口が、開いた。

「熊吉」

「間に合ったか?」

「なんで、ここに」

「五年前に言われたんだよ」

熊吉は、立ち上がった。

土踏まずで、石畳を掴んだ。

「山を半分持て、って」

八重は、笑った。

血が口から零れたが、笑った。

「あれ、適当に言ったのよ」

「知ってる」

熊吉は、竪坑の入口のほうを見た。

「山母。あっちだろ?」

「熊吉。あそこは二百度あるの」

「じゃあ、涼しいところで戦っててくれ」

熊吉は、走り出した。

九頭が索を放った。

三本が、熊吉の背中に向かった。

八重が、その前に立った。

鉞で二本を叩き落とし、三本目を左腕で受けた。腕の肉が抉れた。

熊吉は、振り返らずに竪坑へ飛び込んだ。

八重は、その背中が消えるのを見届けて、前を向いた。

「九頭」

「弟子か」

「弟子じゃないわ」

八重は、鉞を両手で握った。

「私が、置いてきた子よ」


そこから先の四分間を、その日山頂にいた四百人のうち、生きて帰った者は誰も正確には説明できなかった。

説明できないのは、速すぎたからではない。

遅すぎたからだ。

八重は、走らなかった。

彼女は、輪の中央に立って、鉞を地面に突き立てた。

そして、目を閉じた。

――七つの梃子まで届いた日のことを、彼女は思い出していた。

――四百メートルを三十秒で降りた日のことを。

――氷だけを割って、鉄を残した日のことを。

《根付け》の全力は四分。

だが四分を超えて出力を保つ方法が、ひとつだけある。

備蓄を使い切ったあと、自分の筋そのものを燃やせばいい。共生体は、糖がなくなれば蛋白を食う。食わせれば、身体はもう戻らない。

研修のとき、教官はそれを一度だけ口にして、そのあと二度と言わなかった。

――使うな、と言われた技だった。

八重は、目を開けた。

「悪いけど」

彼女は、鉞を引き抜いた。

「あと一回だけ、山を触らせて」


一歩目で、輪の三分の一が消えた。

《雷母爆歩》――ではない。

踏み込んだ石畳が、彼女の足の形に陥没した。反力が逃げないということは、その分だけ前に出るということだ。八重は、輪に沿って走ったのではなく、輪を貫いた。

九頭の索が九本、同時に来た。

八重は、それを避けなかった。

九本すべてを、身体で受けた。

腕に二本。腿に二本。胴に三本。肩に二本。

そのまま、走った。

《九頭流・大蛇檻》。

九本の索は、獲物を絡め取って動きを止めるための技だ。動きを止められた獲物は、そこから引き裂かれる。

八重は、止まらなかった。

九本の索が、彼女の身体を切りながら、限界まで張った。

九頭の背中の巻取器が、悲鳴を上げた。

「なッ――」

八重が、索を引いていた。

九本のワイヤーで繋がれたまま、彼女は九頭のほうへ、一歩ずつ、歩いていた。

「馬鹿な……! 巻取器の張力は五トンだぞ!」

「知ってる」

八重は、歩いた。

「私、氷は割れるけど、鉄は割らないのよ」

彼女は、鉞を肩の高さに構えた。

「引っぱるのは、得意なの」

十メートル。

八メートル。

五メートル。

三メートル。

九頭が、初めて索を切り離した。

切り離した瞬間、彼は自由になった。

そして、自由になった瞬間、彼の目の前に、鉞があった。

「――《山母終奥義》」

八重は、その一撃を、上から振り下ろさなかった。

下から、掬い上げるように振った。

割れた空を、もう一度閉じるときの手つきで。

「《八重雲返し》」


鉞は、九頭に当たらなかった。

当たったのは、九頭の足元の石畳だった。

広場の石畳が、円形に、めくれた。

八重が振り上げた刃は、地面ごと、九頭を掬い上げていた。三十センチの厚さの石畳が、扇状に持ち上がり、その上に立っていた男を、そのまま空へ放り出した。

九頭の身体が、宙で回転した。

そして、落ちてくるところへ――

八重は、鉞を捨てていた。

両腕を広げ、腰を落とし、地面を掴んで待っていた。

落ちてきた九頭を、彼女は真正面から抱きとめた。

抱きとめて、そのまま締めた。

肋骨が鳴った。

九頭の身体が、彼女の腕の中で、みしり、と縮んだ。

「なぜ……投げない……!」

九頭が、掠れた声で言った。

「投げれば……終わっただろう……!」

八重は、締める力を緩めなかった。

「投げたら、そこの崖から落ちるでしょう」

「……何を」

「あなた、死んだら」

八重の声は、静かだった。

「第五の山母が、あなたの真似をするわ。あなたのほうが正しかったって話にして、もっと下手にやる」

九頭が、息を吸おうとして、吸えなかった。

「だから、生かして連れて帰る」

八重は言った。

「あなたには、私が間違ってなかったのを、最後まで見ててもらう」

そのまま、彼女は締め続けた。

九頭の腕が、下がった。

そして、動かなくなった。

気を失ったのだ。

八重は、彼を石畳に置いた。

四百人が、後ずさっていた。

八重は、その四百人を見回した。

そして、言った。

「帰りなさい」

誰も、動かなかった。

「水は、麓で配ってる。並べば、もらえる。並ばずに取ろうとしたら、私が来る」

八重は、鉞を拾おうとして――

拾えなかった。

指が、動かなかった。

彼女は、それでも立っていた。立っていることだけは、まだできた。

「……帰りなさい」

四百人は、帰った。


山が、鳴りやんだ。

竪坑のほうから、湯気が上がっていた。

しばらくして、熊吉が這い出してきた。

全身が真っ赤に茹だっていた。眉毛がなくなっていた。それでも、彼は生きていた。

「山母」

「……止めた?」

「止めた」

熊吉は、四つん這いのまま笑った。

「梃子、十二本もありやがる。あれ、三人でやる仕事だろ」

「そうよ」

「ひとりでやってたのか、八年も」

「三日に一度だけどね」

熊吉は、笑うのをやめた。

彼は、立ち上がって、八重の前まで歩いてきた。

そして、彼女の右手を見た。

八重の右手は、指が開いたまま、閉じなくなっていた。

「……山母」

「なに?」

「あんた、あと何回できる?」

八重は、答えなかった。

答えの代わりに、彼女は自分の掌を見た。

血管が、黒く浮いていた。筋を燃やした身体は、そうなる。二度と戻らない。

「ゼロよ」

八重は言った。

「もう、山は触れない」

熊吉は、しばらく黙っていた。

それから、彼は山頂の広場を見回し、白い塔を見上げ、湯気の上がる竪坑を見て、最後に八重を見た。

「じゃあ、おれがやる」

「熊吉」

「三日に一度だろ?」

「三十年よ」

「三十年か」

熊吉は、少し考えた。

十九歳が、三十年という数字を、初めて自分の身体の長さで考えた顔だった。

「――足りるかな」

「たぶん、足りない」

「じゃあ」

熊吉は、あっさり言った。

「途中で、誰かに渡す」

八重は、その言葉を聞いて、目を伏せた。

伏せてから、気づいた。

自分が、泣いていることに。


終章 最初の鉞

崩壊から八年、冬の終わり|相模・骨天〜柴原の砦|八重(山姥)

《骨天》は、まだあった。

八重が輪の縁を跨いだとき、擂鉢の千人は、五年前と同じように沸いていた。

胴元は、少し肥えていた。

「……あんた、たしか」

「五年前の女よ」

八重は、輪の中央まで歩いた。

そこに、少年がひとり立っていた。

七つか、八つ。

痩せていて、髪が赤茶けていて、目だけが異様に大きい。

その少年は、自分より頭ひとつ大きい子を、たったいま輪の外へ投げ出したところだった。

肩で息をしている。手の甲が切れている。

そして、笑っていなかった。

八重は、その子の前に立った。

「あんた、名前は?」

少年は、答えなかった。

「まだ、ないのね」

八重は、屈んだ。

膝が痛んだ。

「熊吉に、相撲を教わった?」

少年の目が、初めて動いた。

「……くま」

「そう」

「くまは、山にいった」

「知ってる。私が連れていったの」

少年は、八重の顔を見上げた。

大きな目だった。

「じゃあ、おまえが、やまんばか」

八重は、少しだけ笑った。

「そう呼ばれてる」

「くまが、いってた」

「なんて?」

「やまんばが来たら、いっしょに行けって」

八重は、手を差し出した。

少年は、その手をじっと見た。

五年前と同じ目だった。

だが今度は、噛まなかった。

握った。


胴元が、櫓から立ち上がった。

「おい待て! そいつはうちの――」

八重は、振り向いた。

ただ、振り向いただけだった。

胴元は、口を閉じた。

八重の右手は、もう鉞を握れない。四分どころか、四十秒も動けない。全力を出せば、そのまま死ぬ。

だが、そんなことは、櫓の上の男には分からない。

分かるのは、五年前にここで賭けを立てた女が、いま、同じ場所に立っているということだけだ。

八重は、胴元を見たまま、静かに言った。

「この子は、もらっていく」

「……賭けは」

「しない」

八重は言った。

「今日は、取りに来た」

胴元は、座った。

八重は、少年の手を引いて、擂鉢の階段を登った。


柴原の砦に着いたのは、三日後の朝だった。

八重は、砦の外れにある、丸い土の輪へ少年を連れていった。

俵はない。土だけがある。

八重は、その縁に腰を下ろした。

「ここは、熊吉のじいさんの土俵だったの」

少年は、輪の中に立って、足の裏で土を確かめていた。

「くまが、いってた」

「なんて?」

「土は、掴むもんだって」

「そう」

八重は、背中に担いでいたものを、土の上に置いた。

鉞だった。

刃渡り四十センチ。柄は炭素鋼。重さ二十二キロ。八年と少しのあいだ、山を押さえてきた道具である。

「持ってごらん」

少年は、両手で柄を掴んだ。

引いた。

動かなかった。

もう一度引いた。動かなかった。彼は輪の中で足を踏み替え、腰を落とし、土を掴んで、全身で引いた。

柄が、二センチだけ持ち上がった。

八重は、それを見て、少し笑った。

「十年経ったら、持てるようになる」

「じゅうねん」

「そう。それまでは、私が持ってる」

八重は、鉞を担ぎ直した。

担ぐだけなら、まだできた。

「あんた、名前をつけないとね」

少年は、八重を見上げた。

八重は、山を見た。

足柄山は、黒かった。

雷雲を頂き、残骸を腹に抱え、青かった頃の色をどこにも残していない。あの山の上で、いま十九歳の男が、三日に一度、二百度の穴を降りている。

――金。

――昔、この国では、山から出るものをそう呼んだ。

「金時」

八重は言った。

「坂田金時。それがあんたの名前」

「さかた……きんとき」

「呼びにくかったら、金太郎でいい」

「きんたろう」

少年は、その音を二度繰り返した。

そして、生まれて初めて、笑った。

前歯が、一本欠けていた。


その夜、八重は、砦の隅の小屋で、錆びた鉄箱を開けた。

中には三つのものが入っていた。

第七雫門の認証鍵。

足柄山の地図。

そして、一枚の写真。

青い山が写っている。樹があり、尾根が波打ち、白いダムの堤体が朝日を受けている。

写真の手前には、女がひとり立っていた。

三十歳前の、黒い髪の女だ。

その隣に、九歳の少年が、大真面目な顔で写っている。

八重は、しばらくその写真を見ていた。

それから、鉄箱を閉じ、寝床に入った。

隣で、金時が眠っていた。

小さな身体が、異様に熱かった。

八重は、その熱に手をあてて、思った。

――この子は、三十年後に山を持つ。

――そのとき私は、たぶんいない。

――だから、覚えさせておかなければならない。

――山は、ひとりで持つものではないということを。

――そして、山を持っている男の顔を、まっすぐ見る癖を。

彼女は、目を閉じた。

外では風が壁を叩いていた。井戸は浅く、水は薄く、明日も足りない。

それでも、砦には百二十七人が眠っていた。

九頭の計算では、来年の夏まで生きるのは八十人だという。

――たぶん、そうなる。

八重は思った。

――でも、八十人は生きる。

彼女は、そこで眠った。

夢は、見なかった。

見る必要が、なかったからだ。


二十九年後。

白髪を後ろで束ね、獣皮を羽織った老女が、小屋の中で咳をしていた。

外から、若い男の声がした。

「婆ちゃん、また無理して起きてたのか」

老女は、錆びた鉄箱を引き寄せた。

中には、古い地図と、ひしゃげた金属板と、一枚の写真が入っている。

写真には、まだ世界が壊れる前の、青い山が写っていた。

老女は、指先で山頂を叩いた。

「足柄山だ」

(『金太郎 ― 灰燼の足柄、最後の土俵 ―』へ続く)




設定資料

一.世界史年表

時期 出来事
崩壊の約40年前 六年連続の大渇水。水が国際政治の主題になる
崩壊の約30年前 気象制御衛星群《アマツミ》一号機打ち上げ。以後700基まで拡張
崩壊の約28年前 地上局《雫門》十二基が世界各地に建設。第七雫門=足柄《天ノ雫門》
〜崩壊まで 「雨を配る」体制の完成。同時に「雨を配らない」という制裁手段が生まれ、雫門は事実上の兵器になる
崩壊当日 大陸の第三雫門が定格四倍で出力を上げ、第一・第二が追随。同一の雲に矛盾する命令が同時に下り、《アマツミ》が力ずくで解こうとした結果、大気の大循環が破断=「空が割れた」
崩壊後 衛星の約200基が壊れた命令のまま生き残り、気候は「狂った」のではなく「間違ったまま正確に」動き続ける。北で凍り、南で沸き、中間に何も降らない
崩壊+2年 荒野に市が立つ。取引単位は水1リットル
崩壊+8年 九頭による雫門直列化計画、足柄で頓挫
崩壊+29年 『金太郎 ― 灰燼の足柄、最後の土俵 ―』本編

二.超人能力の機序 ―― 施術《根付け》

背景:雫門の保守要員は、標高千メートル超・高熱・低酸素・高放射線・高圧蒸気という環境で、機械では代替できない即応作業(凍結配管の破砕、手動制御盤の操作、崩落現場からの人力復旧)を行う必要があった。

方法:龍脈炉の掘削(地下4,000m)で採取された深部熱水生態系の古細菌群 ―― 通称《ミナモト》 ―― を、骨髄と筋膜に共生定着させる。

効果

  1. 無酸素出力:肺呼吸を止めても、骨髄側が備蓄酸素を血中に押し出す。全力で約4分間行動できる
  2. 乳酸再燃焼:疲労物質を捨てずに燃料として回す。持久戦で常人と比較にならない
  3. 異常な靭性:膠原線維の架橋密度が常人の約4倍。腱・骨・頸部が自分の筋力で壊れない(=人間離れした出力を出せる本当の理由)
  4. 高速治癒・高代謝熱(世紀末で半裸でも平気な理由)

代償

  1. 燃費:常人の約6倍の食料、3倍の水。水のない世界では致命的
  2. 加速老化:細胞回転が速く、寿命は40年前後。八重が38歳で白髪なのはこれ
  3. 焼き切れ:備蓄を使い切ったあと、共生体は自分の筋蛋白を食い始める。これを使うと出力は延長されるが、身体は二度と戻らない(=八重の《八重雲返し》、=熊吉が最後に「二度と戦えん身体」になった理由)

世代

  • 第一世代=十二人の《山母》。正規の施術。八重、九頭ら
  • 第二世代=崩壊後、旧技術者が闘技場で子どもに施した簡易版。熊吉。強度は同等だが管理が雑で、寿命はさらに短い
  • 第三世代=金時。闘技場の最終ロット。前作で金太郎が四天王を単騎で抜けるのはこの世代だから

三.《山母(ヤマハハ)》という呼称

十二の雫門に一人ずつ置かれた最上位保守要員の役職名。性別を問わない。荒野の民が訛って「やまんば」と呼び、八重が訂正を面倒がったため、それが固有名詞になった。

九頭が「俺は母などではない」と言って役職名を捨て、第九の数字だけを名乗ったのは、この呼称への拒絶である。

四.技名一覧

八重(山母)

  • 《雷母爆歩》…… 反力を一切逃さない踏み込み。金太郎の《雷童爆歩》の原型。幼い金時が真似たものに八重が「童」と名を付けた
  • 《山母鉞法・氷柱落とし》…… 硬いものだけを割り、粘るものを残す打法
  • 《山母鉞法・車輪掃き》…… 鉞を軸に全身を回す掃射
  • 《山母流・雪解け》…… 押しを殺さず円に沿って流す。金太郎の《足柄山返し》の祖型
  • 《山母終奥義・八重雲返し》…… 自らの筋を燃やして放つ最後の一振り。地面ごと相手を掬い上げる

九頭(第九雫門・元山母)

  • 《九頭流・八岐掃き》《九頭流・首縄》《九頭奥義・大蛇檻》…… 索道保守装具の九条鋼索を巻取器で独立操作する

コメント